陰と陽とは、重力と重心のバランスである。
陰と陽とは、歪みと不正の相対である。
陰と陽とは、潜象の診立てと現象の診立てである。
陰と陽とは中重の対称ではなく、左重の非対称である。
陰と陽とは、波動の量と質の回転である。

陰と陽とは、重力と重心のバランスである。
陰と陽とは、歪みと不正の相対である。
陰と陽とは、潜象の診立てと現象の診立てである。
陰と陽とは中重の対称ではなく、左重の非対称である。
陰と陽とは、波動の量と質の回転である。

陰と陽とは、性エネルギーと生エネルギーの対象である。
陰と陽とは、(-)(+)未分の一なる対極の意思であり、愛と調和の発動である。
陰と陽とは、陰 極まれば 陽、陽 極まれば 陰、 見えざるものの如きである。

「愛」とは「調和」であり、調和の「総体」(そうたい)は
「快」である。
快は拡張のリズムであり、不快は収縮のリズムであり、
生命の恒常性のバランスである。
生命の力、とはこの波動である、
この波動は、マイナスのエントロピーである。
消耗ではなく、活性活力である。
消費しても消耗しないエネルギーである。
愛とはそういう姿である。
枯れ朽ちるものではない
生命力だからです。
溺愛、愛欲と言われる愛は、
他の生き物にはみられづ、
人間のみの意識行動欲のようである。
ただ、人類愛とか人間愛をとなえるのなら
それはエゴの愛、個人欲である。
つまり人間のことしか考えていないからです。
ですから、自分のまわりに他者をつくり
敵対者を生みだしてしまうのです。
楽は患者とのキャッチングボールであり
快はからだとのキャッチングボールである。
一週間ありがとうございました。
明日からは三浦寛幸の担当です。
「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
4月29日(祝)に開催いたします。
『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980
弁証法は、陰陽の起源について
矛盾であるという。
矛盾とは、つまり「わからない」ということである。
陰陽未分の一なる存在は、わからないと・・・・。
弁証法とは、唯物論のことである。
弁証法では愛は語れないってことなのか、
愛は矛盾に満ちていて、わからない。
いのちとは、生命の総和力である。
つまり、愛と調和の変化であり、安定である。
変化と安定は、動的である。
唯心論者と唯物論者の大きな違いはなんだろうか。
唯心論の基本原則は、自分のまわりに他者をつくらない、
ということではないのかな。
唯物論者は、愛については、無関心をよそおって
意味がないように、ふるまっている、
愛のセンスがない存在者なのかもしれない。
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4月29日(祝)に開催いたします。
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私の治療室には、いくつかの万華鏡がある。
この万華鏡をみていると、人体(生体)の構造も、
その運動も光のリズムに感じる。
リズムは変化であり、バランスである。
バランスとは動きである。
それは、愛ならんとする調和である。
からだには、カガミがある。
ヒカガミは私達がよく耳にするカガミ。
僕はまだ、鏡があるように思う。
たとえば、ヒジカガミ(肘窩)、
ワキカガミ(腋窩)です。
この三つは、からだを照らす万華鏡だと思っています。
このカガミは光の交合性によって変化する。
変化に対応して安定するものだと見ています。
変化は愛です。
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火と水は分離を示すものではなく、融合である。
一にして二、二にして一の、総合的親和である。
上古代文明人は、この火と水をカミにたとえた。
神である。
もの、こと、なりの潜象(物理)を照らしている存在である。
水も火も、固体ー液体ー気体の三還元である。
それは神の創造性、つまり、全智、全能ー全愛の全てである。
それは愛と調和が貫通しているものの、
生命のことなりの、バランスである。
バランス現象とバランス感覚の総合総和、
その一なるものの変化が、愛と調和である。
鏡の「か」も神を示す。
照らし写しだすものに
火と水を最良の対象となしている。
それが生み出す力、
愛である。
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今回は愛がテーマのようですが、
愛という言葉を使わずに、
それを表現することの大切さがあります。
私はみんなが知っているように、
日誌をつけています。
ノート一冊分は一ヶ月ももちません。
日々、毎日あきもせづ、
自分と向かい合い、自身を書き続けている。
自分にあって、忘れることもなく実行していることが
愛じゃないかと思っています。
とばりがおり、
眠り、そして朝を迎えて、起きる。
それも愛の日課です。
それが自他共の愛です。
快・不快なる生命(いのち)の感覚も、愛です。
生きている、ということは、生かしてくれている
ものに触れているという、
慈悲の生命相関の連続性です。
それが愛といえます。
愛とは照らし写すもの・・。
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愛は言葉より重い。
口で言うほど、うすっぺらいものではない。
愛をアイという一言で表現できるだろうか。
ゲーテにしても、アインシュタインにしても、
愛とは永遠の呪文だったのかもしれない。
愛とは干渉すればするほど、醒める。
神は愛である、と言う。
しかし、その神は決して干渉はしない。
干渉してくるような、うるさい存在ではない。
シンは良心に働きかけ、
光をはなつ。
愛とは、その良心に放たれ動く光かもしれない。
干渉しない、いのちの尊さ、
いつくしみが愛なのか。
ヒトは、いい加減を口実にして
いかに己れを正当化し、ごまかしてきたのか。
そのたびに、自分に謝罪してきたのであろうか。
それでも、許されている。
許しは愛である。
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