カテゴリー: 三浦 寛(みうら ひろし)

  • 眠りの火種 残り火

    うたた寝、安眠、熟睡、そして根睡(こんすい)眠り。バロメータ

     

    早朝、喫茶店で2、3時間集中しているとツーつと

    意識が消えていくように10分か15分ほどうたた寝してしまう。

    脳の眠りではなく、からだが要求してくる眠りのようだ。

    その眠りを「眠りの残り火・火種」と名付けて、たのしんでいる。

    この残り火はどうも意識では止めようがないとわかっているから、ゆだねてしまう。

    なんとも言えず、居心地が良いものである。

     

    就眠、爆睡もするが、爆睡から目醒めると、

    からだはスッキリするのだが、脳コリというのか、頭がスッキリとはしない。

    まだボーとしている、少々ふらつきながら起き、いつもの椅子に腰掛け、コーヒーを入れて一服となる。

    根睡とは、いつの間にか眠りに入って、心もからだも脳ミソもスッキリとして目醒める状態でしょうかネ。それにしても根睡の秘訣は11日十分に生きることしかない気がする。

     

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    マヨール広場の夜

     

  • 主人のいる空間

    島地先生が緊急入院され、サロンにはまだ出勤されていない。

    順調に回復されているようだが、入院中である。

     

    主人がいない空間がどんなものなのかは、

    私自身、師を亡くして、その空間がよくわかる。

     

    まるで火が消え、

    温もりのない更地の様な空間だ。

    呼吸の波動も温もりもない。

     

    サロンには先生が恩師と仰ぐ3人の先生方の自画像が飾られ、主人の姿を待ちかねている。そして特製のモルトもラベルは切られていない。ホテルの様な個室が与えられていても病室は病室である。健康が回復してくれば、厄介な居場所である。先生の執筆意欲は病室だろうが、自室であろうが相変わらず旺盛のようだ。回復してくるといつまでもいたい場所ではない。私も経験している。生活リズムも生活意欲も湧いてくる。

     

    今回は突発的な事態だったようだが、下手をすれば命取りになっていたかもしれず

    なんとも好運、豪運な先生だ。

    神さまが乗り移っているらしい。

    まだ十分に生きていていいんだと保証されているようなできごとでした。

     

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    マドリッドにて

     

  • 写真にうつるもの

    スペイン在住の小野田氏から

    マドリードでのセミナーの写真が送られてくる。

    その中の1枚に数十年前に撮られたと思われる白黒の写真も含まれていた。

    私が好きな撮られ方である。

    海外でセミナーをすると、様々な撮られ方をされてしまうから、注意が必要になる。

    なぜなら、撮られる角度によってあまり好かない自分の人相がバッチリ撮られるからだ。

     

    松岡先生と

    佐藤優先生と

    島地勝彦先生と

    本條流家元の本條先生と

     

    ミュージシャンの佐藤正治氏と

    ミュージシャンの巻上公一氏と

    角川出版の角川会長と

    レコード制作会社の新田和長氏と

     

    スペインセミナーで制作された相棒と

    会津茶屋のおばあさんとの愛くるしい姿と

    中学時代から我が子のように育ててくださった藤陽子おばさんと

    アメリカ在住のグレゴリーとのふんどし姿と

     

     

    貴重である。

    思いと思い出の残る写真。

     

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  • 而身

    而身(じしん)

    先日のブログで少し記載した言葉。

    この言葉は仙台で開催された「ある集まり」に出席し、亭主の松岡正剛先生につけていただいた私の俳号である。

     

    而身(じしんー自身)

     

    この人生69年間、自身で通してきた私にとっては70歳を迎え、

    自身を而身として表現するのは、心がしまる思いがする。

    そろそろ古着を脱ぎ捨てて、新たな着物に変えてもいいのではないかと。

    新たな気持ちで人生に望む、一つの区切りにしたいと思う。

    色々な職種の一流人と面をとおし、

    会話の中に入っていくことも人生の良き肥やしとなる。

    こうした時間は人からかりても、使うことだ。

     

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    松島弯

     

     

  • けじめ

     このブログに目を通している誰とは問わず、

    自分而身(じぶんじしん)に正直に向かい合って、書き添えてみたい。

     

    今から50年前の成人式は、橋本先生と奥さまに成人を祝っていただいた。

    そして、今年、70歳を迎え、多くの皆さんに祝っていただく。

    そうした中、10月に入って、スペイン、マドリードでの4日間、30時間のセミナーを終えて、帰国した。帰国した翌朝、某倶楽部の集まりで、松岡正剛先生と佐藤優さんにお会いするため、仙台に足を向けた。

    そして、1123日、秋季東京操体フォーラムを迎えた。

     

    この間、私は様々な気づきを与えてもらい、学んだ。

    私の日誌帳は、みるみる三冊目を超えてしまった。

    記録しておかねば、私の記憶から消えていく。

    消えていけば、思い出すことができない。

    それは実にもったいない損失である。

    その気づきが今、また新たな展開を見せてくれている。

    学んでいることに、自分而身(じぶんじしん)が問いかけて続けていることなのだから、それは而身(じしん)へのけじめだと思う。

    自分自身であり続けていく一つのけじめに、

    松岡先生からいただいた言葉のメッセージがあった。

    「而身」である。

    これで「じしん」と読むのだ。

    しっかりと身につくような而身になりたいと思う。

     

     

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    塩釜港から松島へ向かう船の中から

  • スマホデビュー

    今日から三浦が担当します。

    毎回のテーマは、私自身が思いつくままに決めているのだが

    今回はそのテーマに該当する内容がすぐには浮かんでこない。

    今日、ブログの原稿を渡す予定になっている。

    当日になっても、そのテーマらしい原稿をシクシクと書いている。

    渡すまで6時間あるようだ。

    なんとかいけるかな。と思うがね。

    私はパソコンに向かって打つことはしないから、手書きである。

    原稿用紙が必要だし、万年筆に、インクも必要だ。

    万年筆の書き味も左右する。意外と手書きは繊細なのだ。

     

     

    ところで、私もスマホデビューである(iPhone

    ここひと月、携帯電話を持たず快適に過ごしていたが

    いつまでもという訳にはいかなくなった。

    弟子たちがいろいろ機能するように工夫を凝らせてくれた。

    私は今、少しずつではあるが、早くスマホになれるように努めている。

     

    橋本先生の時代に携帯電話とかスマホが登場していたら

    先生の玩具になっていただろうね。

     

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    マドリッド、小野田茂先生の「日西指圧学院」の前で。

    先生はオモチャがわりにされていただろう。

     

     

  • 操体の未来2

    今までのこだわりを捨てて、

    このクエスチョンの中身をあからさまにしていくことである。

     

    「三浦は一人、何をつぶやいているのだ」と

    他人事として受け止めて欲しくはないのである。

     

    私も皆さんと同じ操体という器を学んでいるのだから、

    三浦一人のたわごととして無視しては欲しくはないと思うし、

    このクエスチョンにあるものは操体を学ぶ一人一人、全員のテーマであり、

    これからの課題である。

     

    自然法則の応用貢献をなそうとしてきた偉大な真理の指導者、橋本敬三先生。

     

    私達はそのなしてきたことのその先にあるものを学んでいくことだ。

     

    加藤平八郎君は橋本先生から直接学んだ数少ない一人である。

    その彼が操体の今の現状をつぶさにみていて、危機感をつのらせているのである。

    その彼の声にも素直に耳を傾ける必要がある。

    それは至極真っ当で当然の成り行きだと思うからである。

    加藤平八郎君は直接操体法に関わってきてはいないので、

    その危機感の本質にあるものが何なのかについては、理解できていないこともあるはずである。

    しかし彼が聞き分けている嗅覚は狂いがないものである。

    私自身、組織活動のごく一部を毎年みているが、平八郎君の訴えがよくわかる。

     

    橋本敬三先生は「ワシは操体法の良き理解者であり最高のよき理解者である」と。

     

    そのことは真理が真理の力で立てること。

    その真理は自然法則の応用貢献にあるのだと。

     

    その言葉に耳を傾け学んでいないのが今の現状を全て写し出しているのではないだろうか。

     

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  • 操体の未来

    この世界は七十数年前に

    陽の時代から陰の時代に時が変わったと言われる。

     

    確かに全てのことが今のままでは間に合わない、

    対応しきれない状態に追い込まれている。

     

    操体法も流れが大きく変化した。

     

    「楽から快への転換」である。

     

    今、「快」への問いかけが問われる時代に入り、

    さらに「快」を超えた問いかけに入っている。

    しかしこうした変化にどう対応していうのか。

    それは、必然性の中で生まれていることなのであるが、

    なぜなのか?ということは従来の対応では間に合わなくなってきているのである。

     

    操体法もこれからも存続していくのか。消えてしまうのかの「危機」に直面している。今のままでは、消えて無くなっていうのであろう。

    今までの常識にある通念を疑ってかかる必要がある。

    疑ってみることによって、何かがおかしいことに気づくことになるだろう。

    この疑問、つまりクエスチョンの中に危機を乗り切るヒントが埋もれている。

    その一つでもチョイスさえできれば、甦ることも可能である。

    そのクエスチョンを問いただしてみぬ限り、

    いくら体制を強化し制限しようとしても本体そのものの中身が不明瞭である限り、

    手当の施しようがないのである。現状維持すら崩壊するであろう。

     

    この疑問に気づかないということは今まで学んできた意味がないともいえる。

    そのまま、あの世に引きずっていっても仕方がないことなのだ。

     

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  • 変化し続ける

    操体法の創成期の時代は

    主に体幹の動きをからだの正中に集約し、

    生体のバランス制御を測る目的がなされていた。

     

    「正中集約運動」である。

     

    しかしながらそれでは制御がきかなくなった。

     

    それが「快」への転換である。

     

    しかしその制御が未体系のままである。

    数年が経過しているのにかかわらず、

    一般的に体系化され公表されていないのが現状である。

     

    どう模索していいのかわからないのである。それは過去の考えにとらわれ、執着している自分が存在しているからである。以前の学びから今も全く意識が変わっていない。

    変わりようがないから進化しないのである。

     

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  • 構造運動力学

    今まで捉えてきている「構造運動力学」にしても、

    それは構造からみた運動の範囲内のことである。

     

    つまり体幹構造から捉えた運動のことである。

     

    それは四肢末端から捉えた四肢末端と体幹とをつなぐからだの動きとは別である。

     

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