からだの邪魔をしない。
一緒に味わう間(ま)に在る。
空間もからだもわたしも重なっている状態で生命現象が起こっている。
それが広がり、伝わる間(ま)が在ると感じられてくる。
息が入ると同時に、快は満ちていると自覚されてくる。
その間(ま)を味わって、意識が更新されていく。
からだの邪魔をしない。
一緒に味わう間(ま)に在る。
空間もからだもわたしも重なっている状態で生命現象が起こっている。
それが広がり、伝わる間(ま)が在ると感じられてくる。
息が入ると同時に、快は満ちていると自覚されてくる。
その間(ま)を味わって、意識が更新されていく。
空間と重なってからだがききわけている。
内部感覚で「快」も「不快」もからだのメッセージとして委ね、味わえる。
からだが主語で営まれる生命現象がある。
他に必要なことはあるのでしょうか。
あるのなら、それもからだが教えてくれる。
からだがつないでくれる間(ま)がある。
岡村さん、その間(ま)は感謝。
今日からからだでつながる瀧澤です。
よろしくお願い致します。
生かす力の環境は届いていますか。
「はい」とからだで感じられるなら、そのままいただく生命現象の間(ま)に在る。
息はからだに入ってきていますか。
「はい」とからだで感じられるなら、そのままいただく生命現象の間(ま)に在る。
からだの要求にかなう息、食、動、想になっていますか。
「はい」とからだで感じられるなら、そのままいただく生命現象の間(ま)に在る。
もし、「いいえ」だったとしても、本来のからだはそのままいただく生命現象でできている。
(続き)
治すことは、「からだ」(生命)の仕事です。
そして、それをどうこうする事はおこがましいと言うようなことを、
手塚治虫氏の漫画、「ブラックジャック」でも語っていましたね。
生命現象、私たちの感じる事は、様々な「もの」「こと」「なり」、
これらが、仮に集まって出来上がったものではないでしょうか。
何かの働きにより状態が変化したり、元の状態に戻ったりすること。
「治癒」は、自分と思っていたものが主体ではなく、すべてのものが
備わっている、「からだ」が主体となってこそ、本質なのでしょう。
「間」に合っていればいいという、ゆとり。
その「間」の豊かさは、空間における心身の調和をもたらしてくれる。
生かされて生きていることも、理解できるようになる。
「からだ」の仕事の美しさに、そのように感じることが多いのです。
快く癒され、治ってしまうには、ワケもあるのです。
そう、間に合うように生きていけるのです。
感謝がわかる、それにもワケがある。
ワケがあってなるようになる。
いいですよね、私たち全員で、それがわかるといいですよね。
では、一週間のお付き合い、有難うございました。
明日からは岩手の久慈から、現代に生きる高村光太郎氏のような、
間を使う達人、瀧澤副実行委員長の登場です。お愉しみに!
(続き)
天然自然の法則性、真理とは何か。
それが、治癒、快癒に関わっている事は確実だと思われます。
例えてみましょう。
雨が降らないで毎日毎日晴れていたほうがいい、と言う方がいました。
しかし、雨は雨で必要なものです。
同じように苦痛の種をまいた人は、自分の手で苦痛の種を摘み取らなけ
ればならないと思うのです。
そんな時は、苦痛に徹するのがよろしいのではないかと思われます。
しかし、苦痛は戦って勝てるものでは無いのです。
打ったからといって、砕けるものでもないのです。
苦痛とは、抱きしめて初めて溶けるものです。
そんなことを「快癒」の成立している過程に、見届けていたいのです。
(続く)
(続き)
「治癒」までの道標。
それはまず、介助と補助になります。
介助とは。
患者はどう進めばいいか知らないのだから、その目的となる動きの方向
を、指示できることです。
「からだ」の動き、その循環を、刺激にならぬよう与え、引き出します。
補助とは。
「からだ」本来の、動きの流れを満たすことになります。
その「からだ」の動きを促すため、その法則性にかなうためには、必要
なことになるのです。
この法則性とは、天然自然の摂理なのです。
そして操体の臨床とは、その応用貢献の賜(たまもの)なのです。
(続く)
(続き)
操体の臨床では、症状や疾患別に、治すことはありません。
つまり、それぞれにそれぞれのやり方がある、訳ではないのです。
そこに至るまでの経過や、そこに至らぬまでの方法を理解してもらい、
至らぬための指導を与えるため、操体の臨床家としての操者となるべく、
師匠を通じて学び続け、実技として介助と補助を習っているのです。
操体における臨床、それは「みちしるべ」。
つまり、道標を示すことではないか、とワタシ自身は考えています。
(続く)
(続き)
ある時、「間=(マ)」は教えてくれました。
「痛み」について考えていた時。
「治すこと」を考えていた時。
「治ること」を考えていた時。
そんな、間を置いていた時。
ふと、橋本敬三師の放言が目に留まりました。
「病気はネェんだ‼って、何べん言って聞かせてもわがんねェ」
(続く)
(続き)
快よく癒されると書いて「快癒」です。
もちろん、どこかに痛みのない幸せを感じる、これは当然ですね。
では単純な話、痛みが無くなれば、それで皆さんは満足なのでしょうか?
いえいえ、それでは痛みが無いだけで、病人は取り残されてしまいます。
病気や怪我を治したい。ただ、その一心で医療に救いを求める。
痛みを止める要求は、当然のこと。
ですが、それとは別に「からだ」を治すための経過はあるのです。
「からだ」が治しているのですから、治癒のプロセスにも理由はあります。
私たちは「からだ」の中の青写真を、どのように捉えているのでしょう?
「からだ」は罰を与えたいわけではないのです。
「治癒」の中にある感覚。
内包された本当の感覚は、生命を統合し、調和と秩序をもたらす意味が在る。
そう捉えてみると、「快癒」の「道すがら」に痛みも大切だと理解できる。
ただただ、邪魔しない。
常に、「治癒」のプロセスを助ける手段の一つでありたいから学ぶのです。
(続く)
石田実行委員、紹介有難うございます。
今日から岡村の担当となります、一週間よろしくお願いいたします。
今回のテーマは「治癒」ですね。
そもそも、私が初めに操体を学ぶきっかけも、「痛い」ことをしない
で治せるんだったら、その方が良いと言う単純な理由でした。
「痛い」ことをしない意味について、本当に「痛い」ことが悪いこと
なのか、と考えるきっかけになったのも「治癒」です。
この「治癒」に、どのぐらいの臨床家がふりまされることでしょう。
ただ、痛みというものは、「からだ」を考えるきっかけになります。
ですから、「治癒」というのは、その完了形ではありません。
再発の可能性がある「治癒」は「略治」と呼びますし、現時点での
「治癒」ならば、「緩解」と呼んで識別しています。
ですから、この世で一番、確かなものであるはずの自分の感じる事実
「痛み」では、「治癒」において、最も頼りないのかもしれません。
そして、病気・怪我がすっかり治る意味の「快癒」もありますから、
改めて「からだ」を主語に変えた場合で、捉え直したいと思います。
(続く)