橋本敬三先生が、ある本でのインタビューで
「先生、治らない人はどういうことなんでしょう?」という質問に
「治る前に死んじゃうんだ」的に答えていました。
「なるほど~!」と思いました。
以下の図の「回復未了あり」というヤツですね。

人間、このサイクルをぐるぐる回っていて、最後の「器質変化停止・回復(最終正常化・回復未了あり)」の「回復未了あり」のところで、生命が終わるんだなと思います。

橋本敬三先生が、ある本でのインタビューで
「先生、治らない人はどういうことなんでしょう?」という質問に
「治る前に死んじゃうんだ」的に答えていました。
「なるほど~!」と思いました。
以下の図の「回復未了あり」というヤツですね。

人間、このサイクルをぐるぐる回っていて、最後の「器質変化停止・回復(最終正常化・回復未了あり)」の「回復未了あり」のところで、生命が終わるんだなと思います。


おはようございます。
今回のブログ担当も、最終日となりました。
今回のテーマは「治癒」ということでした。
治癒と聞いて思い浮かぶのが、自然治癒力という言葉。
至極簡単に言えば、私たちが生まれながらに持っている病気になったりケガをしたりしても、治してしまう能力やメカニズム。
この自然治癒力があるから、病気→治療→治癒も健康→未病→健康も可能と言える。
しかし、この自然治癒力という言葉を使った説明には、何か抵抗を感じる。
それだけ何か、自然治癒力という言葉が、今の時代では軽くなっているようにも感じる。
本来、私達のからだに備わるバランス制御に向く能力というのは凄いものがある。
そして、何より有難く感じられるものである。
それを説明するのに、自然治癒力という言葉を使えば楽なのだ。
しかし、説明を受けた側は、自然治癒力という言葉からどのような連想をするのだろうか、と考えてみると何か内容の質が低下してしまうようにも感じる。
それだけ、この言葉は良くも悪くも、普及しすぎた感がある。
健康に良いとされる食品や物、サービスの記事や宣伝には、この自然治癒力という言葉がよく出てくる。
そのなかには、効果が薄いのを自然治癒力を高める為のものだから、としているようなのもある。
しかし、本来のからだに備わるバランス制御に向く能力と、天地、大自然の「ここに居ていいんだよ」といったような存在肯定意識素のままのエネルギーの調和は、人間の思考意識を遥かに超えた素晴らしいものであり、そして、有ること難しの有難いものと感じるのです。
一週間のお付き合い、ありがとうございました。
来週は畠山裕美先生の担当となります。
どうぞ、おたのしみに。
友松 誠。
おはようございます。
ここ3日間くらい未病医学をからめてブログを書いていますが、未病医学は健康医学があってこそだと思うのです。
では、健康医学の健康とはどういう状態をいうのでしょうか。
これは、単に病気でないとか、弱っていないというだけではないのです。
病気でないという事だけに焦点を当ててしまうと、そうならない為の未病も予防も同じようなもの、と考えられてしまいがちです。
しかし、根本的に違うのです。
予防医学は、例えば今の時期だったら、熱中症にならないように冷房を適切に使い、こまめに水分補給をしましょうといったような、治療医学を基にした症状、疾患に対する予防法の学問であり、健康医学を基にした未病医学とは違うものです。
健康医学を一言で表せば「いかにして健康であるべきかを問う学問」と言い表せると思います。
健康状態の表れは「息」「食」「動」「想」の生命活動の営みと「環境」の場との、生命エネルギーの入出力のバランスの現われでもあります。
だから、生命活動の営みを、いかにしたら、大自然の恩恵を十分に受取りながらバランスをとり、環境に適応出来るかを、からだから感覚をとおして学ぶ学問でもあるのです。
様々な環境のもとに身をおいて、様々なストレッサーの影響を受けようとも、それがストレスにならずに、健康で、十分に満足して生きていける。
結果的に病気とは無縁となり、有難く生かされて生きていける。
それを自らが、からだとともに、創造、具現化していく。
それが健康であり、時間、空間を無視して固定観念的に決めつけられるものではなく、より良く発展、進化していくものだと思うのです。
こうした、いかにして健康であるべきかを実践をとおして問いかけた学問から、いたわりの心でもって、からだのストレスを捉えて診る。
健康医学の学びが実してくれば、からだのストレスにより良く気づけ、的確に対応できるようになる。
これは未病を治す事につうじるし、症状、疾患を抱えてしまった人の回復にも大いに役立つ事でもあります。
おはようございます。
「病気に打ち勝つ」という言葉を時たま聞きます。
この言葉に、今回のテーマである「治癒」を当てはめると、病気に打ち勝つイコール治癒なのかな、とも思ってしまう。
しかし、そう思いながらも何か違和感を感じるのです。
病気を悪者に仕立て、病気と戦い、そして打ち勝つ。
この構図は、なんだかカッコよく、病気になって気持ちがふさぎ込んでいても、勇気と希望が湧いてくるような感じがします。
しかし、その悪者である病気は、ある日突然どこからかやってきたのでしょうか?
そうではない筈なのです。
自分が自分のからだに対して、ストレッサーを与え続け、それがストレスとなって何らかの警告をからだが発していたという事はなかったのでしょうか。
端的に言えば、自分で病気の芽を招き入れ、病気へと成長させていなかったでしょうか?
そういった観点も必要だと思うのです。
そういった観点なしに、自分の行いは悪くなく、悪いのは病気なのだからやっつけてやれ、というのは何かおかしい気がする。
これで、病気→治療→治癒と順調にいったとしても、同じ事を繰り返す、はたまた次はもっと深刻な状態となってしまうかもしれない。
病気→治療→治癒の構図ばかり教える治療医学だけが、一般に知れ渡っている状況では「病気と戦う」「病気に打ち勝つ」というような考え方になりやすいように思える。
しかし、戦って勝っても、こうした考え方をしている限り、また戦いの機会は訪れる。
その度に医療産業は、薬をはじめとした戦う武器を提供するのだろうが、肝心のからだが疲弊して「もう戦いたくない」となったらどうするのだろうか?
戦わずにすむ考え方や、方法もなければならない。
病気という敵をつくらない。すなわち病気になる前の段階の未病の段階で、速やかに健康に復する事。
こうした未病医学、健康医学も知れ渡る必要があると思うのです。
おはようございます。
現代医学にはウィルヒョウの頃より解剖、病理の組織学から、器官の組織の細胞までの異常を病気としているようなところがある。
これは、病は内の方から生じてくる、つまり内の異常が外に影響しているという考え方。
だから「何か感じがおかしい」と体調不良を訴えた場合、器官の器質異常(病態変化)を念頭に色々と検査する。
それで、器質異常などの具体的な原因が解れば病名がつけられるが、具体的な原因が特定できない場合もある。
いわゆる不定愁訴と呼ばれるもので、その場合いくら本人が不調を訴えても「様子をみましょう」となってしまう。
根拠がないのに治療して「誤診でした」では済まされないのだから、手をこまねいているしかない。
こうした現代医学の考え方に異を唱えたのが、当の医師であった橋本敬三先生でした。
NHKのラジオ放送に出演した時も、現代医学の考え方には誤解があると仰っている。
その最たるものは、病気は細胞から始まる(内部に現れる)とする考え方。
そうではなく、からだの内なる要求が、外(ボディ)に表れる。
その表れは、からだが正しく使われていない証の現われであり、からだが正しく使われていなければ内部の生命エネルギーの流れや循環に大きく影響し、バランスを崩す事となる。
これを放っておけば、やがて内部の組織細胞の病変をみる事となってしまう。
そうならない為にも、からだは感覚をとおして教えてくれる。
不定愁訴も、そのからだの感覚が警告を伴いながら注意を促している状態、と捉える事も出来る。
そこから、からだの要求に適うようにしてあげれば、警報も止み、健康回復へと向かえるのです。
病の原因をミクロの内に見い出そうとするのではなく、マクロ的に外の表れから内の状態を思いやる。
そんな観の転換も必要であり、それが未病医学にもつうじる。
病因を特定できるまで、手をこまねいている必要はないのです。
おはようございます。
治癒の対義語は発病だそうですが、発病があってはじめて治癒の言葉の意味が生じてくる。
発病が無ければ、治癒という言葉も意味を成さなくなる。
「未病」という言葉があります。
これを、未だ病名がついていない状態とするならば、発病前には必ず「何か感じがおかしい」というような未病の状態がある筈です。
この未病の段階で、速やかに健康回復が成されたなら、これに越したことはないでしょう。
健康→未病→健康という図式だけで済むようになれば、病気→治療→治癒という図式は必要なくなります。
操体は、治療としても効果は高いが、それよりも未病医学を良しとしています。
だから、からだの感覚を重要視しているのです。
生命活動のバランスが崩れ、健康状態が間に合わなくなってくれば、何らかの不快感を伴ったからだからのサインがあります。
それを無視すれば、更にバランスの崩れを招き、そのバランスの崩れは発病を伴うようになります。
しかし、からだの感覚に素直であれば、生命活動の間違いにも気づけ、自力で健康回復が可能なのです。
自力での行いが、バランス制御に向くからだの要求に適っていれば、気持ちがいい。
また、その気持ちのよさに大自然から恩恵をしっかりいただいている有難さも感じられれば、更にからだと自分、環境との調和は密になっていく。
ここに目を向ければ、健康の回復だけでなく、維持、そこから更に増進も可能なのです。
おはようございます。
病気やケガがあるから治癒がある。
病気やケガが無ければ治癒もない。
治癒の対義語は発病だそうですが、発病があってはじめて治癒の言葉の意味が生じてくる。
発病が無ければ、治癒という言葉も意味を成さなくなる。
操体の創始者である橋本敬三先生は、医師でありながら、よく「病気なんかねぇ」と仰っていたという。
また、本のタイトルにもあるように「からだの設計にミスはない」とも仰っていたという。
しかし、現実問題として、いつの時代も病に苦しむ人は大勢いる。
そこで創始者は、からだの設計にミスはなく、本来は病気などしないように出来てはいるが、人間の生き方、考え方に間違いがあるのではないかと考えるようになった。
この天地、大自然に生まれてきたという事は、それだけで有難く尊いものである。
天地、大自然は認めてくれている。
これは、大自然の一員として、自然への適応性を与えられて生まれてきたという事でもある。
生まれてきた私達は、みんな一様ではなく個性を持っている。
その個性は、時として世間の標準思考や規範による建前から、先天性の○○病とされる事もある。
しかし、そうした人間社会の思惑とは関係なく、無意識にも呼吸が出来ている。
呼吸が出来ているという事は、すでに大自然から恩恵を与えられているという事であり、人間社会がどう思っていようと、大自然は「この世界に居て良いのだよ」と認めてくれている事でもある。
人間社会の枠組みの中だけで考えれば病気とされる事も、大自然からの観点ではどうなのだろうか、という考え方も必要だと思う。
大自然が与えてくれているものをしっかり受取り、生命エネルギーの入出力のバランスが間に合っているならば、不快症状は生じずに快適に生きていける筈なのだ。
本人にその自覚はなくとも、からだはそのような働きをしている。
また、生命体としての本音は、それを望んでいる。
しかし、人間には本音より建前を重んじるところがある。
それによって、大自然からの恩恵を受取れなくして、バランスを崩し不快症状を生じさせてしまっている。
そこに気づき、みんなが皆、大自然からの恩恵を十分に受取れるような生命活動、考え方に少しづつでもシフト出来たなら「病気なんかねぇ」という言葉も現実味を帯びてくると思うのです。
おはようございます。
実行委員リレーブログ、今週は友松の担当となります。どうぞ、宜しくお願い致します。
今回のテーマは「治癒」ということでリレーしております。
治癒とは、病気やケガが治ることを指すようです。
逆に言えば、病気やケガがあるから治癒がある。
病気やケガをすれば、なるべく早くその痛みやつらさから抜け出したい。
誰もが、そう思うはずです。
その思惑が、病気やケガ→治癒という単線的な思考を生じさせる。
そして、その為のハウツー的な方法を模索することになる。
しかし、病気やケガもバランス現象の現われであり、治癒もバランス現象の現われという捉え方も必要。
病気やケガ→治癒の特定期間、特定部分の状態変化の問題ではない。
この状態変化だけに囚われてしまうと、その時は良いと思えても、その後に不安を残すような問題解決に至っていないケースが目立つ。
病気やケガのバランス現象の前にも後にもバランス現象は存在するのだから。
生きている限りバランス現象からは逃れられないのであり、バランス現象をより良く展開していこうとするのが、人間の元来の性なのではないだろうか。
本人にその自覚がなくとも本人のからだはそのような活動をしている。
本人とそのからだが営む生命活動と環境のバランスが向上していく。そうした循環のなかでからだのバランス制御の能力が発揮され、病や傷は癒され、それまで以上のバランスに復していく。
そのバランスは、経験値を生かしながら病気になりにくいバランス状態、突発的な事故に巻き込まれてもケガをしにくいバランス状態へ変わっていくという事。
治癒とは、時間や空間の関わりを止めた考え方から、病気やケガが治る事をいうのではなく、実際には時間、空間の関わりのなかで生きているのだから、バランスという事も考慮し、そのバランスが健康回復→維持→増進につながるものでなければならないと思うのです。
生命現象は宇宙空間の事象として貫通している。
人間が「治癒」と呼んでいるからだがみせてくれる現象も、味付けの無い、そのままの生命現象として捉えなおしてみたい。
風が吹いてくるように。
呼吸がからだに入ってくるように。
からだが主語になり、人間の視点は、からだの支点となる。
そんな学びの流れも操体という学問からみせていただいている。
自然と人間の循環のひとつのカタチ。
手を止め、歩みを止め、宇宙に立つ。
常にいただいている何かを感じている。
植物をみていると、そのような生命のスガタが重なってくる。
一日という管理された時間感覚の中で、人間が宇宙に立つ生命であることを思い出す「間」がわずかでもあるといい。
その間のなかで、人間の視点とは別の情報、例えば生命由来の情報が去来していることに気が付くかもしれない。
包まれていること、接していること。
気が付いただけでも変化は起こっている。
それだけ豊かな生命由来の情報に支えられて生きていることに意識が動いたのだから。
一週間のお付き合いありがとうございました。
テーマ「治癒」は友松さんにバトンを渡して続きます。
どうぞおたのしみに。