ブログ

  • 言葉の力

    おはようございます。5月22日午前4:30分
    私のブログも中日5日目、残すところ後3日間となりました。今朝もモスバーガーからの発信です。東京の朝の日に日にあたたかさが増して、半袖姿でも寒さを感じません。私達も日々意識のころもがえができるようつとめていきたいものですね。

    「言葉の力」
    その問いかけには必ず目的がある。先回代田文志著「鍼灸の基礎治療学」を書き写す経緯(いきさつ)を話しましたが、もう少し書きたしてみます。

    先生は満足げに「よくやったな」と言われ「佐助、ごほうびだ!」と代田先生の「鍼灸の基礎治療学」を贈って下さったのでした。「無条件に受け入れそれに答えようとすれば、その報いは喜びとして必ずかえってくるものなのだな」ということを私は学んだのでした。

    コツコツと静かなる汗をかき、つかんでみなければわからないもの・・この手でつかんだ喜びとはそのようなものなのではないだろうか。師の言葉に素直に、すばやく反応する。その最初の直接的な働きかけは「ハイ」という言葉だと思います。まづ、言葉で反応すること。「ハイ」という言葉は、わかりました、そのようにします、そうさせていただきます、という肯定の意志の伝達です。その意志は力です。「ハイ」という言葉には否定がありません。条件つきということでもありません。無条件に受け入れる、ということです。相対的でもなく、絶対的な意志の働きかけです。ですから「ハイ」という言葉には力があるのです。

    「そうさせていたヾきます。そうします」という肯定の言葉だけでは不十分なんです。そのコトバの前にまづ「ハイ」という二語が必要なんです。その言葉をより強力に決定づけるものが、「ハイ」の言葉にひめられた絶大なる力、貫ける意志(思)の力なんです。
    この命と共にある自分に目的を与え、それを成せる言葉が「ハイ」なのです。「ハイ」という言葉には生命力があります。言葉は言霊(コトダマ)ともいいますネ。言葉は力です。コトバにはイノチがあります。イノチがあるから力なんです。その言葉にどれほどの力があるかというと、人生をかえる、運命を変えるほどの力があるのです。

    言葉どおりにその人の人生が展開する。自分の言葉によって自分の人生、運命を決めているのは事実なのです。自分の人生をなげき、その責任を他になすりつける、親のせいだとか人のせいだとか社会のせいだとか、責任逃避してもだめ!
    自分のことばで自分の人生を決めているのだ。それだけ、言葉には力がある。力があるってことは、生き方に責任がある。
    言葉を統制する必要がある。言葉は人生そのもの、その人の生き方を明確に示すものである「人が正しい」とは「言葉が正しい」ということである。統制できるかできないか、人が正しく賢いとは言葉の方向性である。「そうなればいいですね」「そうあってほしいですね」という希望的楽観的言葉を口にする人がいるが、本当にそうなりたい、そうありたいのであれば「そう成る」「そうある」とコトバにすることなのだ。
    100%、そう言葉に言い切ること、言い切ってしまうことがとても大切なんです。このことは忘れてはならない。「ハイ」という言葉は無条件に受け入れます。そうします、そうさせていただきますという意志同意語なのです。
    「ハイ」という言葉が出ず、「でも」「でも」と必ず口にする人がいます。「デモ」は言い訳の言葉であり、そこになにがしかの見返りや条件がつくものです。
    「イヤァー」「アノゥー」「しかし」「ちょっと」そしてそれにつづく否定的な言葉が「でも」です。

    ・「でも」という言葉は否定の言葉です。100%拒むか、50%肯定するか、いづれにしても反、否定です。
    「でも」と言葉にした途端、力は働きません。力が働きませんから、やっていることも途中半端で思うようにことが進みません。得たいものが入らず、手にとどかないのです。カスばかり入ってきます。
    ・「でも」は又自己否定です。自己否定しながら何かを求め何かを得ようとしても、入ってくるもの得たいものはたかが知れています。それは人生への不平不満へとつながり、焼いても煮ても食えない、グチ、ヤキモチ、嫉妬やねたみ、そしてコンプレックスにつながってくるのです。

    「でも」と言いわけする生き方をする人は、自分に言い訳しつづけていることに気づきません。指摘されても、イヤ、あの人にこの社会にむけているんだと、それを認めません。しかし「でも」は自分の言葉なのです。そして自分の人生や生き方の言い訳なのです。自分に言い訳しながら生きているのです。生涯言い訳しつづけます。そんな人生は、本当にしんどいのです。

    自分に言い訳ばかりしているのですから、きもちよくない、楽しくないんです。いくら満たされていても満たされない、有難く生かされていることに感謝できないから、ああなんてすばらしいんでしょといいながら「でも・・」ここがどうのこうの、あそこが気にいらない、とグチを言います。
    ああなんておいしいんでしょうと言いながら「でも」。味つけが云々、肉のやわらかさが云々、野菜の盛りつけがウンヌン。スープの味がウンヌン。熱さ加減、塩加減がウンヌン、とにかく「でも」が口癖のように連発されるのです。ですから必ず「でも、幸せじゃない」「でも、たのしくない」「でも、納得できない」「でも、退屈で仕方がない」と・・・・。ああおいしい、すばらしい、なんて有難い、で言葉を納めてしまうことができないのです。それは満たされることのない不幸な人生です。「ハイ」とすばやく言葉に反応できる生き方って迷いがなくなってくるんですね。それに生き方がとってもらくになってくるのです。らくを感じる前にきもちがいいんです。それが「ハイ」の二文字なのです。

    そして「ハイ」は魂にヒビキを与え、相手の心を動かします。「ハイ」という言葉の力は素直に生きる、生かされる、つまり生き方に迷いがなく、たくらみのない生き方ができる、ということです。

    こちらが「でも」で答える限り、それは条件つきであり、その心には何か見返りを求める欲が働いていますから、相手も条件つきでそれに答えようとしてくるからです。ですから無条件で、できる限りの強力と理解をおしまないような心の働きができないのです。「ハイ」と無条件にうけ入れれヽば相手は心を開き無条件で受け入れあなたに答えようとして働きかけて下さるのです。

    三浦寛

  • 私が東京にでること、その師の心

    おはようございまーす。4日目のブログです。今日も真夜中の午前3時40分、モスバーガーから発信しています。
    4日目ともなると、みんな読み疲れてるんじゃないかな。100年後にふと、思い出して読んでくれてもいいんだよ。
    では、真夜中のヤミに溶け込んでぶっ飛びます。

    「私が東京にでること、その師の心」
    卒業を間近に控えて、何かと気ぜわしい三月を迎えていた。そんな昼下がり、「三浦君、君は東京で開業しなさい」と師の声が飛んできた。今、ブログを書き込みながら、四十数年前の記憶をたどって行くと、その言葉の意味に、どれほどの思いがこめられていたことか、手塩にかけて育ててきた弟子に何かを託そうとしている、師の想いの深さを知ることができる。それは意志の決断である。

    「こんなところにいつまでもいることはない」と、ものの見事に突き放す。師は私に「そうしてほしい」という願いを託したのである。

    私は託されたことに響いて(ヒビいて)いくこと、それが弟子の使命であったように受け止めていたのであろう。

    師は東京という固有名詞を使われている。ということは、どこで開業してもいい、と言っているのではなく、東京だと言っているのだ(なぜ、東京なのかも後にわかった)。大阪でも、福岡でもいいと言っているのではなく、私を東京に送り出したかったのである。
    それは絶対なる師の意志決定だったものと思う。私以外ではだめで、東京以外でも絶対ダメなのである。

    今、こうして書き込みをしながら、今にして全身に鳥肌が立ち、身震いがしてくる。

    私は師の目を直視して生きてこられた。今でも師の目を思い浮かべ直視する。いつも師は笑いかけるやさしい目をしておられる。
    人は自覚し、意識し続けることによって謙虚である。そして、師とのご縁を得て師の側にいさせていたヾける。そのような機会を得ればこそ、のちに縦的な霊性を得ることができる。師との学びの中で、物事(ものごと)の成せる成り立ちの本質を知り、真理を学んでいく、それが神性、霊性を実感していく尊い人生と云えるのだと思う。

    私はお蔭さまで、先生の云われることにすべて「ハイ」と言える青年でした。とても、とても素直に「ハイ」と言えることができたのです。先生のコトバに素直に「ハイ」と反応できる自分が、とても誇らしげで好きでした。

    この『ハイ』という言葉を考えてみると、全く私欲がないことに気づきます。そして、なに一つ疑わずに無条件に無意識に、受け入れていることにも気づきます。ですから、心がはづんでいるんです。ですから、先生の言いつけは素直に「ハイ ハイ」と言葉にでき、ワクワクするのです。

    鍼灸学校に在学中、先生の書斎の本棚から、代田文志著、「鍼灸の基礎治療学」を手にして見ていたところ、「三浦君、興味があるか」と、先生が声をかけて下さり、「ハイ」と答え、私が「この本、コピーしてもいいですか?」とたづねると、「おまえが興味があるっていうのは、そんなに簡単にコピーしてすむことなのか?全部書き取ってしまえ、その位のきもちがないとだめだー!」と一喝されてしまったのである。先生の、その言葉の力に圧倒され「ハイ、わかりました。写します」と言葉にしてしまった。『ハイ、写します』と言っても500ページを越す、ぶ厚い本なのである。
    パラパラとめくってみると、古い漢字が使われていて、初版何月何日発行、と印刷されていた。
    早速原稿用紙を何百枚も買い込んで無心に書き取った。何ヶ月要したであろうか、半年はゆうにかかったであろう。書き上げた原稿を持って(持ってというより肩に担いで、と言ったほうがいい。何せその量たるやかなりの重さにふくれ上がっていたのである)

    少々私は興奮して、やりとげたことに大満足していました(ただし、ただヾ無心に書き取っただけで、内容的には難しくって何一つとして頭に入っていなかったなァ。)

    先生は目の前に分厚く積まれたそれを見て、「よくやったな。おまえが興味あるんなら、その著者がどんな思いで書きつづったのか、その心を知れ。よーくわかったヾろう。著者にこたえる、とはそういうことだ」と、さとされ、私は先生の前で小さくなっていた。でも、先生の目はうれしそうに笑っていた。

    三浦寛

  • 人生の達人に学ぶ

    おッはようございます。

    皆さん、元気ですかン。今週も朝が早いんですよ。朝と言っても、真夜中の午前3:10分ですが、東京は夕方から雨で、この時間もかなり雨足が厳しいです。この雨のなか、BMをブッ飛ばして三茶に戻ってきました。今回もモスバーガーでブログの書き込みにトン走します。

    雨のこの時間帯でも、246号線はひっきりなしの車です。運送の大型トラックが多いですね。夜の暗(ヤミ)にはシーンとした静けさの中に、生命のうたげが静かに舞っている、踊っているようです。

    東京にもヤミがあるスか?
    ヤミの夜空スヨ。この時間には、お星さんもお月さんも輝いてんすから、(今夜は雨でおやすみしてんすけど)

    真夜中から大ブレしてますけど、生命のイブキとはこの真夜中のヤミの静けさにあるスね。夫婦のなすコト、恋人同志のなすコトも、このシーンとした、ヤミの世界が演出するんですね。どうぞ、アツアツ、ラブラブにおたのしみ下さい。

    そこのおとォさん、彼氏さん、性急に自分の欲求を満たしてはいけませんよ。相手の欲求をまづ、十分にとろけるように満たしてあげなさい、されば与えられんです。いいですね。

    ところで、このブログ、1日400件から500件のアクセスがあると聞かされ、ビックリ、そんな多くの人々が読まれているのか?とても興味がありますね。後5日間よろしくお付き合い下さい。

    それでは本番に入ります(本題に入ります)映画の撮影シーンではカット、カットが付きものですが、儀式にはカットは不要。
    愛がある限り永遠に続きます。

    「人生の達人から学ぶ」
    橋本先生の三男、保雄さんにまつわるエピソードはつきることがないのですが、現役バリバリのホテルマン時代は、そのダルマさんのような大きな目は人の心を刺しこむような鋭さがあって、とても近よりがたいヨロイのオーラを全身から放っていたように思います。しかし、それは仕事への厳しい姿勢と、厳粛で研ぎ澄まされた精神性とゆるぎない信念に満ちた眼光であり、その眼光の奥にも人の心を大きく包み込んで癒してくれる、あったかな目をもっている方でした。人が大好きで、好奇心旺盛で遊びの達人でもありました。とにかく人生の描き方、その生かし方のスケールが大きくて、信念のもとに自由人。人を魅了する、生き方でした。そんな保雄さんと公私にわたり、ご縁をいただき、育てていただいたことも、私の人生にとっては大きな財産でした。

    保雄さんが定年退職を迎えられる年のある昼下がり「三浦君、オレの部屋に来い」と呼び出され、副社長室に入る。その姿はゆったりとされ、背広をはづし、ワイシャツ姿でデスクに腰掛けておられた。ぶっとく黒々としたマユゲにめがねがのっかり、ギョロリとした大きな目で私を見上げる。その目は妙にやさしく丸い。
    こんな笑っているおだやかな目をみるのは初めてでした。それもまったく全身から鎧が抜けた姿でした。
    なにか、なんて云ったらいいんでしょうね。年齢をこえ、立場をこえて、フーッと親しみの中に溶けこんでいるような、空気を、私は味わっていたんですネ。保雄さんも信念の人でしたし、私も、信念をつらぬく生き方、姿勢をとおしてきましたから、何かフーッと共感して飽和するような、やわらかな空気があったのでしょうか。「三浦君、一服つけていいよ、コーヒー飲むんだろう、うまいコーヒーがあるんだ、入れてやるから待ってな・・・。君に渡すものがあるんだ。ところで、これ、これ、ちょっと待ってな」といい、2枚の絵をもってきて下さった。

    一枚は、大きな羽をひろげて舞う鳳凰(ほうおう)、もう一枚はふくよかな笑顔をもつ仏画でした。(二枚の写真がそれです)。

    二つとも、診療室に飾ってあります。一枚の鳳凰はベッドの真上の天井に、ちょうど患者さまが、仰臥位に休まれた顔の真正面に見えるように、飾ってあります。(不思議ですね。患者さまの中にも、この絵に気づく方と全く気づかない方がいるんです。何回かの加療をつづけ、良くなってくると、気づくのです。先生、いつからこんな絵が天井に飾ってあったのですか、と・・・・。病んでいる患者さまというのは、心のゆとりも、こころの視野も狭まっているんですネ。目に入ってこないんです。)

    06年の盛夏、あっという間に保雄さんは天国に旅立っていかれたのですが、柩の中の保雄さんは、あまりにも小さくて小さくって、肉体の死とは、ちっちゃくなってしまうことなんですね。

    ふと、思い出しました。仙台から東京に出てきた当時、保雄さんからオークラに顔を出すように云われて初めて伺った時、いきなり門前払いをくらったのです。「おまえさん、そんな格好でくるんじゃネェ」と、ドスの効いた声で怒鳴られた記憶があるんです。そうやって保雄さんから人生のマナーを学んできたように思います。生かされて生きているという生へのマナーです。それが生かされて生きていく、自己責任なのではなかったのかなと思います。

    橋本先生と保雄氏のパワアの違いをふと感じます。先生の生命力は足の根っ子のパワア、保雄さんの生命は腰の根っ子のパワアのように感じます。

    ところで、私の人生に大きな影響を与えて下さったもう一人のご子息は、保雄さんの二つ年上のお姉さんでした。○木え○子奥さまでした。私は○木の奥さまと呼んでいました。

    私は先生の側で修業中、先生の奥さまを「おお奥さま」、ご長男の奥さまを「奥さま」そして先生のご子息の長女の方を「○木の奥さま」、と呼んでいました。

    ○木の奥さまにも、私は頭が下がるほど良く面倒をみていただき、可愛がっていただいたのです。お会いするたびに「三浦さん、しっかりやってる?学ぶということはネ、一気に階段を昇ろうとしてもだめなのよ。一段一段、ゆっくりと踏みしめて昇るんだよ」とさとして下さるのでした。
    この言葉はドッシリと身にしみましたネ。

    そしてもう一つ、心にのこる言葉がありました。保雄さんが副社長時代、東京都の石原知事から、ホテル業界の発展に多大な力となった業績が認められ、その記念のパーティがオークラの平安の間で盛大に行われたのです。
    その記念のパーティに「三浦君、君も顔を出すように招待状を送っておくから」と、保雄さんが声をかけて下さったのです。2000名を超す招待客でごった返すなか、その発起人になったのが、海部俊樹元総理でした。
    その招待客の中に○木奥さまも招かれ、久しぶりにお会いすることができたのです。保雄さんが壇上に立ち、元総理が祝辞を読まれるなか奥さまは感きわまったのでしょうか、弟の保雄さんにむけて「おじいちゃん、ステキ」と発しているのでした。姉の立場であれば「保雄ちゃん、ステキ」と声をかけるところでしょうが、何度も「おじいちゃん、ステキ」と発しているのです。あとで、何故「おじいちゃん」なんだろうと考えてみました。つまり、父親をほめることで保雄さんの労をねぎらって保雄さんを育てた父親が一番ステキだということなのです。本人をほめるより、父親をほめるのが一番のほめ言葉なのですね。自分がほめられるよりも、親をほめることが自分にとっても一番うれしいことなのだな、ということがよくわかったのです。
    オワリ・・・デス。

    三浦 寛

  • 温古堂を追い出される

    おはようございます。同志の皆さん起きてますかー。今、真夜中の午前3時です。(バカ言うんじゃない、静かにしてくれ・・と怒声がとんできそうですね。失礼しました)
    二日目のブログです。

    話しが少し前後してしまいますが、私が橋本敬三先生のところで、デッチ奉公を終え東京で開業したいきさつも、先生の一言で決まってしまったのです。5年あまりの修行時代を過ごしたのでしたが、まだまだ先生の側にいて学んでいたかった、というのが私の本音でした。先生の側にいれれることが最高に幸せだったのです。ところが私の思いは一瞬にあわい期待だけで打ち砕かれてしまったのです。私は鍼灸の学校の卒業を目前にしていました。鍼・灸の国家試験にもなんとか合格させていただき、卒業後の進路もボチボチ考えなければならないという矢先に、温古堂を追い出されてしまったのでした。
    (悪【ワル】をして破門されたという訳ではないので、誤解しないで下さい。私は先生に可愛がられ、愛されていましたから・・・・)

    卒業を目の前にした三月のある日、大きな火バチを囲んで、先生と私はおいしいお茶を飲みながら、向かいあっていました。突然、先生は「こんなところにいつまでも、いる必要はない!佐助、おまえは東京で開業しなさい」と切り出されてしまったのです。一瞬絶句です・・。
    佐助とは、先生が私につけて下さったあだ名です。どうして佐助かと言いますと、「おまえはいつもワシの話を最後まで聞かずに飛びだしてしまう、まったくおっちょこちょいですばしっこいヤツだ!」ということで、佐助というあだ名がついてしまったのでした。

    定禅寺通り 旧温古堂医院(昭和20年〜25年頃)

    じつは、話が前後しますが、私が弟子入りする時、先生は神戸にいる私の父を仙台に呼んで、「当分の間、息子をあずかるが、それでいいか」と、承諾させたというのです。そこまで配慮して下さった先生に、心から感謝です。
    このことは開業してから父に聞かされてはじめて知ったことでした。そうして5年間の修業がスタートしたのでした。スタートするに当り、先生は私に「ワシのことに気をつかうことはないからな。どうか家族の者に嫌われないように心してくれ」と言われたのでした。その先生の励みの言葉を胸にして、私は修業の毎日に入ったのでした。幸いにも先生の奥さまに私は気に入られ、順風に着々と志をまっとうしていくことができたのです。奥さまの心づかいは、とってもあったかなもので、身に入るものでした。食事にも気を配っていただいて、なによりもありがたく感謝したのは、ご家族の方々と同じ食事を一緒にとらせていただいたことです。それも腹一杯にお腹を満たすことができたことでした。
    そして、奥さまは私の耳元で「三浦さん、何一つ心配しないでいいのよ。オジイチャンが目をかけ、弟子にとったのだから、安心して、思う存分学びなさい」と言って下さったことです。これは奥さまが先生にむけた、信頼のきずなでもあったのです。
    奥さまは照れやの方でしたが、こよなく先生を信頼され、愛されていたのでした。
    それが、私に対して「何一つ心配はないから、思うぞん分、おじいちゃんの側で学びなさい」という言葉にあらわれているのではないでしょうか。

    ★晩年の奥さま。中庭にて(撮影:三浦)

    先生と奥さまの日常を5年余り、肌で感じ見させていただき、先生と奥さまのエピソードが私の脳裡にたくさん、つまっています。それはまたの機会にお話できるでしょう。

    橋本敬三先生に耳を診てもらっている奥さま(昭和50年)

    先生と奥さまの間には6人のご子息がおられますが、この奥さまの力は絶大で、どのご子息も「肝っ玉母さん」と尊敬し、親しみ、家族愛に満ちたものでした。

    その中で、年に何度か三男のホテルオークラ勤務の保雄さんが、東京から帰省され(のちにホテルオークラの副社長を勤める)、私をつかまえ「三浦君、オレが一番おそれるバアサンにすごく可愛がられているようだな。バアサンのどこをくすぐったらああなるんだよ。オレにも教えろ!!おまえ、とにかくバアサンの目にかなってよかったなァー、バハハハ・・・」と、豪快に笑い飛ばしたあの笑顔が今も忘れられない。その保雄さんも06年の夏に他界されてしまった。私が開業するにあたって、淡島の治療室を紹介してくださったのも保雄さんであり、人体構造運動力学研究所の看板(木製)をプレゼントして下さったのも、保雄さんであり、開業して7年後、ホテルオークラのヘルスクラブの顧問に迎えて下さったのも、保雄さんであった。
    それも、これも先生が「弟子の三浦の面倒を見てやってくれ」とのご配慮があっのであろうと感謝せづにはおれないのである。人のご縁はとくに大切にしなければならない。切るのは簡単である。このご縁を大切にしたければ、「こたえていく」以外にないのである。ご恩を忘れず、こたえていくこと、それが一番の誠意であろうか、それが自分がみがかれることであり、自分が自分として立っていけることなのだろうと思う。
    保雄氏は先生のよき理解者となり、NHKのドキュメンタリー、NHKの「人生読本」への働きかけを実現され、又、先生の意志をくまれ、ホテルを利用する大切なお客様の健康をねがい、日本で最初のヘルスクラブをホテルオークラにオープンさせたのである。保雄さんが定年退職を迎えられた年に、副社長室によばれ「三浦君、オレは退社するがおまえはどうする。しばらくいてくれないか、おまえのためにもいいはずだ」と言って下さった。私はオークラの顧問を保雄さんから託され、30年になる。
    当初は橋本先生への恩返しのきもちで、保雄さんが他界された後は保雄さんへの恩返しのきもちで、ご奉仕させてもらっている。生前、保雄さんが、三浦君、もっとオークラを利用しなさい、とハッパをかけられたこともあるが、たとえ、世界のオークラであっても、自分のために利用するきもちにはなれなかったのである。
    ひたすら、師のご恩に報いることだけを考えていたからこそ、奉仕に励んでこれたのです。
    もう、お前さんには用はないよ、と言われれば、だまってオークラを去るだけのことで、何も最初から私には失うものはなかったのですから、十分に満たされてオークラを去ることができるのである。

    三浦寛

  • いろ〜いろ気づくままにムニャムニャに・・

    5月18日(日曜日)午前3時20分
    日曜日に入り、3時間20分が経過しました。島根の福田さんの後は、三軒茶屋の仙人こと、三浦がブログを担当します。一週間どうぞよろしく。

    今、三茶のモスバーガーでブログ用の書き込みをおこなっています。頭はスッキリしてるんですけど、おめめが眠っていて、パッチリしないんですよ。コーヒーを飲みながら一服して暗やみの空をポーッとながめています。5月も、中旬。寒さもやわらぎ、朝の外気もからだにやさしいですネ。
    うんじゃあ、ブログ、書きはじめます。

    「いろ〜いろ気づくままに、ムニャムニャに・・・・」

    私は23歳の時に、5年間の修行をおえて大東京にでてきました。そて居場所を世田谷に定め、現在三軒茶屋に拠点をすえ、腰に深く深く根っ子をはやし、そして張りついて、日々操体に想いを寄せ、その渦の中心にいて、発信しつづけてきました。

    私の治療室は、三軒茶屋の三叉路を150mほど玉川通り(246号線)に入り、一つ目の信号を左側に入ります。入るとすぐそこが栄通り商店街。商店街に入って二つ目の路地を右側に入った2つ目の建物の、一階の一番奥の部屋にあります。

    看板はかかっていません。ただ名刺が一枚かろうじて玄関の戸の中央に貼られ、治療室の存在を示しているだけです。

    三軒茶屋の地下鉄の駅、南口から徒歩3分ほどでしょうか。駅から近くてとても静かなんですよ。驚くほど静かな空間を保っている、私、お気に入りの治療室です。

    さて、三軒茶屋の街をすこし紹介しましょうか。

    三軒茶屋には大きな三叉路が走っています。その一つは若者が住んでみたい街ベスト1、下北沢に抜ける茶沢通りと、環状7号線から狛江に抜ける世田谷通り、東名インター(東京インター)に入り厚木に抜ける玉川通り(246号線)です。玉川通りにそってその上を首都高速が走り、その交通量たるやハンパじゃないし・・この三叉路の騒音のひどさは日本一なんですよ。島根の福田さんこと、坂本龍馬が住む島根の環境とくらべたら、想像を絶するような不健康きわまりない都心空間のなかで、排気ガスをたっぷり吸い込みながら、しぶとく生きつづけているんです。この、マァこんな三軒茶屋もなかなか愛着がある街なんです。気さくな街、気取りがなくて肩が張らない、イイ街なんです。このこよなく愛する私の街、三軒茶屋の由来を少しお話しておきましょう。

    今も、玉川通りと世田谷通りの交差点の三角地に道標が立てられています。その道標を改めて、先程見てきました。

    『大山道 寛延2年(1749年)文化9年(1812年)再建される。大山道は矢倉沢往還の俗称である。この道標(大山道)は、旧大山道(代官屋敷前経由)と、文化・文政期頃に開通したといわれる、新大山道との分かれ道にあった石橋楼(三軒茶屋地名のおこりの茶屋の一つ)の角に建てられた。大山は古い民俗信仰である石尊信仰と、山岳仏教の信仰とが結合し、相模の修験道場として、重きをなし、将軍をはじめ多くの人々に尊崇された。とくに文化文政期以降は、江戸町人の大山詣りが盛んとなり、その案内のため大山道沿道に多くの道標が建てられた。』

    当時の三軒茶屋は中馬(ナカウマ)引沢村、太子堂村、上馬(カミウマ)引沢村と、野沢(ノザワ)村の四集落からなり、これが現在の下馬、上馬、三軒茶屋太子堂、野沢の町名なのです。

    この三軒茶屋、今は地下鉄の開通によって渋谷まで5分、急行で3分、なんてったって交通の便はバツグンで、どこにでも抜けられるのです。東京駅に出るにも成田に出るにもとても便利です。この地下鉄が開通する十数年前は、陸の孤島といわれ、交通網はバスの路線だけでした。
    私が最初世田谷で開業したのは、今の三軒茶屋から下北沢に抜ける茶沢通りを走り、その中間地点にある淡島(三茶から徒歩15分)でした。そこで開業したのです。
    文化・文政の時代で言えば、太子堂村淡島と呼ばれていたのでしょうか。その治療所は太子堂中学のスグ裏手にあり、近所には聖徳太子をまつる神社があります。
    太子堂とは、聖徳太子の太子をとったものと思われます。太子堂中学も、かなり昔からあったのでしょうね。この中学校で思い出しましたが、歌手のEPOさんをご存じでしょうか。
    EPOさんは私の顧客でした。頻繁に通院していただいて、とても心のかよいあえる方でした。EPOさんの澄みわたる、きれいな歌声がとても印象的です。

    ところで、私が淡島で治療所を構えたお屋敷は『窓際のトットちゃん』で有名な黒柳徹子さんが、あの当時住んでいたお屋敷だったのです。

    この近所ではかなり目を引く屋敷で、ゆったりとした敷地の中に立てられた日本風家屋で、中庭は日本庭園風で、徹子さんのご両親が丹精をこめて育てた四季折々の草、木、花が植えられて、とてもきもちのいい空間でした。私はよくこの中庭で昼寝をしていました。

    私に治療室として与えていただいた空間は、16畳ほどの洋間でした。その洋間の中央に大理石で造られた暖炉が埋めこまれ、天井はさくらの木をふんだんに使った二段づくりの天井、そして床はやはりさくらの木にモザイク模様が一面に埋め込まれた、すばらしい一室だったのです。私はこの太子堂村淡島で15年間患者さまを診させていただくことになったのです。

    ところで、私自身とても居心地のよい環境だったのですが、患者さまがこの陸の孤島まで足を運んで下さるのか少し心配でした。それに『人体構造運動力学研究所』とうい看板でした。この看板をみて、いったいここは何をなさるところやら、まったく不親切・・。開業した立地条件といい、この看板といい、今にしてみると、「おまえさんは何も考えていなかった・・」ということになってしまうのですが、それは若さゆえのこわいもの知らずがなせること、何にもなくて、何も失うものがないところからのスタートだったのでした。

    今日はこれでおしまいです。明日は
    「温古堂を追い出される」
    の巻です。

    追伸 皆さん、私がブログをひとつ打てないことは了解ずみと理解していますが、この一週間書き込みを行ったものは、まづ、畠山さんに送られ、彼女が私の代わりにブログの打ち込みを手助けしてくれています。畠山さんからは、いくら長い文章になっても気にしないで発信して下さいとの励ましをいただき、気兼ねなく書かせてもらっています。本当にその心づかいに感謝し、三浦センセイはこの一週間トン走いたします。

    三浦寛

  • 進化と退化

    いやぁ・・一週間長かった様な短かった様な、微妙な感じはありますが、今回の順番は本日が最後となります、最後まで暖かく見守って下さい。

    変わる、変化するというのはとんでもない痛みを伴います。サナギから成虫である蝶に変わる際の苦痛たるや、人間では想像できないくらい、時にはその痛みに耐えられなくて死んでしまうサナギもいる位だそうです。これは人間も同じで、人間が自分自身を変えようとする時には大きな痛みと苦しみを伴います。もっと明るい性格になりたい!とか禁煙するぞ!とか何でもそうなのですが、変化とは今まであったモノを変えていく訳ですから、痛みを伴うのは当然といえば当然です。

    この変化とよく似ているのが『進化』ですが、人間が人間たる理由はこの“進化”に有ると思います。空が飛べたらいいのに・・・と思うからこそ飛行機ができ、月には本当にウサギが居るのだろうか?と思ったから
    こそ月へ人間が行く事が出来たのだと思います。今のままで良い、それ以上求めない、これほど簡単な事はありません。又、そう考えた時点で人としての成長や人類の進化は止まり、退化へと向かっていくのだと思います。

    私は現在、操体をプロとして、臨床家として追求しています。
    そう、自身の生活を懸け、人生を懸け日々過ごしています。ですから、毎日が真剣勝負であり、甘えや妥協の許されぬシビアな世界に身を置いて操体が完全な人生のパーツの一部となっています。

    私は最初、この操体を捉えた時は失礼な話しですが、初日にも書いたように、それまでやっていた整体とミックスして美味しいとこ取りをしようと思っていました。整体で補えない所を操体で補おう、単に操体操体法の部分にのみ魅力を感じ、こんな時にはこの操法、こんな場合はこの操法などと、今考えると“症状疾患別”に診ないのが操体の特長だ!などと言いながらも、自身はシッカリと症状疾患別にクライアントを診ていました。

    当初はいわゆる痛い方から痛くない方へ、苦から楽へ二者択一で、脱力もたわめてスパッと力を抜く瞬間脱力を行う、従来の“第一分析”のみの操法を行い、殆ど問題もなくそれなりに結果も出ていました。
    「楽勝じゃん!」正直言って、今迄整体で苦労していた各症状が短期間で解消出来るので、臨床結果としての効果の高さから、操体に引き込まれて行きました。
    と同時に臨床家として慢心と言いましょうか、俺ってやるじゃん!みたいな、完全な驕り高ぶった臨床家に成っていました。

    しかし、やはり世の中には神様が居るものです。この頃ほぼ同時期に2つの自分にとって衝撃的な事件が起き、自身の臨床家としての立ち位置を根本的に見直す事件が有りました。

    その一つが二日連続で“急性腰痛”いわゆる“ギックリ腰”のクライアントを診ることと成った時でした。
    手も足も出ないとはこの事でした。先ず、仰臥位になれない、伏臥位にもなれない、ただ目の前で苦痛に顔を歪め「いたぁい・・痛いぃ」と唸るだけのクライアントを前に、何の確信も無くオロオロとし、殆ど何もすることも出来ずに、「氷で冷やしといて下さい・・・」と言って、余りの惨めさに代金ももらわずに帰りました。そんな状態で次の日も同じような急性腰痛のクライアントを診ることとなり、悪いことに、昨日よりも更に状態の悪い方で、当然の事ながら前日にKOされボロボロの私にどうすることも出来ずに、アホみたいに「氷で冷やしといて下さい・・・」と「最悪やぁ・・」流石に超ポジティヴ1200 %の私でも落ち込みました・・・
    しかも最悪なことに操体でも駄目なことがあるんだぁ」などと操体の所為(せい)にして自分に矢を向けることはありませんでした。

    そして、もう一つの事件は紹介者の方からの一言でした。
    私の施術院は紹介100 %の施術院です、タウンページや宣伝も行っていませんので、飛び込みで来るクライアントはほぼ0%であり、人から人への口づてが“生命線”であり、逆に言いますと紹介が無ければ成立しない仕事でもあります。そんな中で、ある日、何度か慢性腰痛の症状で来ていただいていた女性の紹介者の方から電話があり、言いにくそうに話しを始められました。
    「福田くん、言いにくいんだけど、○○ちゃん取りあえず、もう来られないって言ってるから、ゴメンけど予約はキャンセルして」正直、何で?だろうって感じでした。思い当たる節もなく、良くなっている筈なのにどうして?って言うのが本音で、思わず紹介者の彼女に「どうして?かなぁ、何か聞いてる?」って聞き返すと、「う〜ん・・怒らない?」って言われるので「怒らないから、言ってよ」って言うと、彼女も覚悟を決めた様で。「あのね、彼女が言っていたのは、操体はその日は良いけど後ですぐ元に戻るって・・」そしてトドメの一言、「○○ちゃん結局、福田くんの所に行く前から行っていた整体院に又、行ってるんだって・・・」兎に角ショック_^2で立ち直れるのだろうか・・・と思える位に凹みました。

    その様な悶々とした気分で操体を臨床で行う難しさを感じている時に、大きな気付きに成ったのが、『第二分析』と現在の私の臨床においても中心となっている、『第三分析』でした。
    臨床家である以上は結果を出さなければなりません。私は最初にも書いた様に趣味健康体操操体を追求している訳ではありませんので、クライアントは待ったなし!
    結果を求めて来られる訳ですから、それに対してハッキリとした答えを出さなければ、廃業の道が待っています。

    『福田よぉ、気持ち良さで治るんだよ』『カラダにききわけろぉ、頭で考えるなぁ!』『一つ一つの動きをよぉく カラダにききわけろぉ 無駄にすんなぁ』三浦先生畠山先生から色んな言葉をもらいました。

    そうなんです、臨床家が待った無し、多種多様な症状を抱えて駆け込んでくる、クライアントを相手に現場で操体を行う際に必要なのは固定的縛りの多い、“二者択一”『第一分析』では無く、どの様な状態でも対応可能な『第二分析』や更に臨床効果の高い『第三分析』でないと間に合わないのです。

    我々にとって神様の様な存在で、どんな諸症状でも一発で治していたというイメージのある橋本先生でさえ、実際の臨床現場では頭を抱え、試行錯誤の中に模索をされていたそうです。
    “快適感覚”のききわけこそが臨床の真髄であり、『気持ち良さで治るんだよ』と言う橋本敬三先生の言葉を借りれば、快適感覚をカラダの芯からとろける程に味わうことが出来れば自ずと結果は後から付いてくる。そんな確信へと変わっていきました。

    それからはどうすればクライアントが快のききわけが出来るのかを真剣に考える様になりました。見方が変わることで接し方も変わり、少しずつ結果が出てくる様になりました。
    “二者択一”の操法では間に合わなかった臨床が“快適感覚”のききわけをする様になってから、明らかに臨床に変化が出て来ました。
    “二者択一”操法では無かった『快適感覚を味わう』クライアントが増えてきました。

    物事に“静”“動”が存在するのであれば、正に第二分析は“動”の操体の魅力であり、快適感覚をききわけカラダの中心を操り、末端から末端への動きがつけてくるその気持ち良さにカラダを委ね味わう、人間の意識下においての最高の快適感覚の味わいと言えると思います。

    そして、究極の快とでも言うべき“静”操体である『第三分析』は臨床家にとっては欠かすことの出来ない最高の武器と成り得るのです。
    私が操体臨床での最初の壁であった急性腰痛などの“一次分析”が不可能な状態、その上“二次分析”すらままならない疾病を抱えたクライアントに対してのアプローチとして、その解決方法はこの『第三分析』にありました。

    橋本敬三先生もその著作の中で、運動系の定義を述べておられ、その一説に『骨格を基礎として、骨を被う骨膜、骨膜に付着する腱、筋肉、筋膜、関節内容及びそれを被包し固める嚢、靱帯と、これらの運動に伴って動く軟部組織の一切であって、その機能は運動作用、支持作用、保護作用を営むもの』と定義づけられています。
    人間が心身共に弱り、意識感覚での動きをカラダ自身が拒もうとしている時に、“一次分析”或いは“二次分析”で問いかけても、正常なききわけが難しいことがあるのです。
    正確には動きの中で、感覚をききわける作業すら苦痛とカラダが感じ、感覚をシャット・ダウンしてしまう事があり、こうなるともはや、“無意識”に問いかける、人間の本質部分に問いかけるより方法がないのです。

    この人間の無意識部分に問いかけ、ききわけてもらうのが『第三分析』であり、私が打ちのめされた“急性腰痛”などの通常の姿勢がとることすら出来ない人へのアプローチが可能となるのです。
    先程の橋本先生がおっしゃっている運動系の定義の中でもあった様に、骨膜や筋膜もさることながら、『軟部組織』も含めた一切が運動系である事からも、『皮膚』に問いかける、『第三分析』が臨床家にとっては大きな宝と成ってきます。

    『第三分析』に関しては“第一分析”のような姿勢の縛りもなく、クライアントが一番安楽に思う姿勢でのアプローチが可能となることから、“急性腰痛”などで側臥位の様な形で寝ている状態でのアプローチも何ら問題がなく、クライアントの姿勢における苦痛も最小限に抑えることが出来、皮膚の走向を確認しつつ、後はカラダがつけてくる感覚をききわけるだけです。

    目を閉じて感覚をききわけていると、青・赤・オレンジ・紫などなどの多種多様な色が見られたり、光が見えて来たり、無意識にカラダが動きをつけてきて、痛みがあって動くこともままならない人が、動き出したりと、カラダが治しをつけてくる時の奇跡的瞬間を『第三分析』では目の当たりにすることが出来ます。

    なんと人間のカラダとは精密且つ緻密に出来ているのかと驚かされることばかりです。
    この『第三分析』の様に真に快適感覚を味わうと、そこには“時間軸”を超えた時空が存在し、時としてクライアントは自分が寝ている場所や、何をしていたのかすら忘れてしまうこともあるのです。
    先程まで仕事の愚痴をブツブツと言っていた方が、急にイビキをかいて寝始め15分位経った時に何事もなかったかの様に寝始める時に話していた会話の続きから普通に喋り始め、本人は『いやぁ・・・気持ち良くて寝そうですねぇ・・・』などと先程まで寝ていた事など全然解らない風で見ている方としては複雑な感じで楽しいです。

    しかも、この『第三分析』の大きな特長としては“即効性”もさることながら、“遅効性”とでも言うべき面白い効果も同時にあります。
    施術当日はそれほどまでにビックリするほどの効果は感じられないと言って帰られた方が2〜3日後にビックリして電話してこられ、『手が挙がる様になったよぉ!』とか『痺れが無くなった!』など、施術後にジワジワと効果が現れてきて、他の方に「あら、痛いって言わないねぇ」などと言われて「そう言えば痛くないや・・」などと人に言われて気付くなど、以前言われた、その時は良いけど後から悪くなると言われた部分が、『第三分析』においては解消出来、カラダは人間の都合でカラダを治したり悪くしたりしないんだなぁというのを改めて知ることが出来ました。

    “早く痛みをとって欲しい!”と思っているのはカラダの要求ではなく、クライアント本人の考えであることの方が圧倒的に多いので、最近ではあえてクライアントの話は聞いて聞かない様にし、カラダそのものと向き合うことに心がけています。以前の私であれば、施術後に『未だ背中が痛いんですが・・・』とか『腰が重い様な気が・・』などと言われると、慌てて『じゃぁ、もう一回仰向けで寝ましょうか・・』などと言って、クライアントのリクエストに応えていたのですが、『第三分析』の“遅効性”が今では解りますので、自信を持って『大丈夫!今そうでも必ず2〜3日で楽に成りますから、心配しないで』『気持ちは解りますが、治すのは私じゃなくカラダ様ですからね』って笑顔で言える様になりました。

    それからというものは臨床にもゆとりがもてる様になり、どの様な疾患を抱えた方が来られても気分的には楽に成りました。

    橋本敬三先生は草葉の陰で我々『臨床家』をどの様な思いで見ているのか、たまに考える事があります。
    “進化”とは今あるものをより良く変えていく事に繋がり、“退化”とは今あるものにひたすらしがみつき変化を恐れる心である様な気がします。

    操体にも進化していかなければ成らないものと、誰がなんと言おうとも守り継承していくべきものがあります。例えば、守り継承していくべきものとしては『息食動想』のような基本的理念やベースになる考え方、『般若身経』にみられる重心安定の法則重心移動の法則などカラダの使い方における基本的部分などです。ですから、「いやぁ。。。僕はこの方がやりやすいので側屈は重心の位置は変えよう」とか「この方が捻転しやすいので、変えて良いですよぉ」など勝手に自分の体型だとか変な理屈で変更してはならないものです。だって『般若身経』ですよ!わざわざ橋本先生が般若身経などともじって命名された意味を考えれば、どんなに大事なものかは明確だと思います。これを理屈の通らない自己都合で変えるなどお経の改ざんに他なりませんので、大変な冒涜となります。

    一方で“進化”していかないと、いけない部分も有ります。
    それが橋本先生が必死な思いで発展させてこられた、『操体臨床』だと思います。
    橋本先生が色々なご苦労の中から人体の妙といいますか、治っていくプロセスを体型づけていかれた“操体法”は橋本先生がご高齢になられ自らのカラダの自由が効かなくなるまで追求し続けられたのが臨床の現場でした。
    我々、橋本先生からバトンを託されたものとしては橋本先生が作り上げようとしていた臨床における操体を“退化”させないという事は大きなテーマとなります。
    操体を退化させてしまい、昔から有る健康法です、などと括られる事は臨床家としての魂が許しません!

    今後、より広い目で見た操体が廃れることなく、昔から有る“健康法”という枠ではなく、最新の臨床法であり、これからの手技療法のスタンダードに成っていける様な“進化”を遂げていかなければ成らないと思っています。
    そのためにも今あるものに満足せず、『快適感覚』への更なる探求と、精進を行っていきたいと強く思っています。

    東京操体フォーラムはある意味、とっても先進的、挑戦的な集団でもあり、現状に満足せず、より良い臨床を求め、橋本敬三の意志を胸に、お互いが切磋琢磨をしています。
    この今は小さな流れが、少しずつ下流に流れていく頃には、必ず大きなムーブメントと成って一石を投じられる存在に成っていけると確信しています。
    今後もその一石と成っていける様に私も日々、楽しみ精進していきたいと思います。

    今週、一週間お付き合いいただきありがとうございました。
    来週からはお待ちかね、我らが三浦寛先生の順番です、どの様な話しがあるのか今から楽しみです。宜しくお願い致します。

    一臨床家 福田勇治

  • そうたい?そうたい!たいそう?

    操体って言葉を我々は日常のように日々口にしております。多分、口にしない日は1年間の中で無いと思われます。

    ですが、私が開業をしているここ、島根県においては操体?そうたい?体操?などなど、操体に関しては正に空白地帯・・私も開業して5年が来ますが、操体と解っていて来院された方は僅か2名だけです・・・
    ですが、その内のお一方は子供の頃に仙台に住んでいて、操体を体験した事があるという話しで
    した。

    恐る恐る誰に操体をうけたのかを聞いてみると、な・・何と創始者 橋本敬三その人だったのです。年齢的にもまさかとは思ったのですが、その方が子供の頃に体調を崩し、どこか病院で診てもらわなきゃって時におばあちゃんにあたる方に、「翁(おんころ)先生に診てもらうと良い」と言われ、品のあるお爺ちゃんにカラダを診てもらったのだそうです。

    何をやられたのかまでは覚えていないそうですが、たった一つ覚えているのが、やはり手なんだそうです。フワッと包まれる様なあったかくて柔らかくて、何とも言えず心地良いのだそうです。これって今回の春期東京操体フォーラム今美代子さんも同じ事を話しておられましたね・・
    その感触はそれから数十年経った今でもハッキリと覚えていると、熱く語って帰られました。

    まぁ、そんな操体空白地帯の島根ではありますが、唯一私が住む宍道町(シジミで有名です)では60歳以上の、特にご婦人方には耳馴染みであり、私は“体操のお兄さん”ならぬ操体のお兄さん”なのです。

    と言いますのも宍道町では60歳以上の介護認定を受けていない方々を対象に「転倒予防教室」と題して、幾らかの年会費を払えば“ソフト・エアロ”、“3B体操”、そして操体法の全て、若しくはチョイスして受講が出来るというシステムになっており、私がその中の操体法の担当となっているのです。

    “88健康館(はちはちけんこうかん)”と言う名称がついているホールで教室を行っているのですが、最初は60歳以上という事で、大丈夫かなぁなどと一抹の不安を覚えつつも、成るようにしか成らないという私の生き方なので、特に深くも考えずスタートしました。

    何だかんだで、今年で3年目になるのですが、最初に先ずビックリしたのは戦中・戦前生まれの方達のポテンシャルの高さでした。大丈夫かなぁなんて失礼な話しで、元気も元気、重心安定の法則や重心移動の法則も今では様になってきて、「せんせ、そーで ねじーやつは足のどこにどげすーだったかいねぇ?(先生、それで捻転は足のどこにどうするんでしたっけ?)」などと島根県以外の人が聞くとカタカナで書いてあると外国語の様な感じに見えるかも知れませんが、普通な会話です・・・
    今ではお姉様方も般若身経の動きも様になってくるようになりました。

    今、参加していただいているお姉様達はとても調子が良い様で、元気に畑に出たり、グランドゴルフやゲートボールで各地を転戦しているとのことで、「せんせのお陰ですよぉ」などと言われると、お世辞だと解っていても嬉しくなるものです。

    今の日本が長寿国だと言われているのはこの戦中・戦前生まれの方までで、戦後世代は間違いなく短命になると言われているのが、よく解ります。「戦時中は何でも食べたよぉ、食べるものが本当に無くて、松の皮を剥いで食べた事もあったよ」などと、今なら考えられないような話しもしてもらえます。食べられない、飢餓という経験をした人間の強さをこの年代の方達からは感じます。

    以前フォーラムでも話しましたが、短命化の大きな原因は『食生活』にあると思います。戦前までは栄養を“営養”という表記をしていたと、命は食は営むモノであり、決して栄えるものでは無いと思います。

    昔から一汁一菜が一番の健康の秘訣と言われますが、これも全て身土不二の考え方に基づき、自身が歩いていける距離で採れたモノを旬のタイミングで食べるという、一昔前では当たり前だったことが、逆に現在では難しくなっている。

    外国からホームステイで日本に来た外国の方から、日本はとっても可笑しい國だと、ホストの家庭の方に言われたそうです。
    その理由は何で毎食、多国籍料理の様な食事になるのか不思議だという問いだったそうです。朝食を見ると、パンと味噌汁と中華風の料理みたいな、あまりにも統一性のない食事にビックリしたそうです。
    その様な食べ合わせをしていれば具合が悪くなるのはごく自然の事だと思います。

    話しがドンドン脇に逸れるので元に戻しますが、教室に来るお姉様方は話しを聞いてみると、やはり昔ながらの日本の食卓といった食事をなさっていました。一つの素材で沢山の料理を作るのが腕だ!とお姉様方は胸を張っておっしゃいます。茄子が沢山出来れば、煮染め・焼く・浅漬け・味噌で和えるなどなど、一つの素材で多種多様な料理が作れると、「今の若いもんわぁ(今の若い人は)」と豪快に笑う姿がナイスです。話しが止まらないお姉様方なので、以上で切りますが・・・
    その様なお姉様方に囲まれ操体教室は今日も進んでいきます。

    PS 今月から松江市のこじゃれたスポットで一般の方達向けの操体教室』が始まります。今迄の60歳以上限定の呪縛から、若い方達も対象となって来ましたので、これまたギャップを楽しみたいと思います。

    操体のお兄さん 福田勇治

  • 日本全国ルーツの旅?

    ルーツと聞いて皆さんは何を連想するだろうか、缶コーヒーを連想する人や、マニアな人は昔あったアメリカのTVドラマを思い出す人もいるのではと思います。
     

    私が言うルーツとは“自分捜し”と言いましょうか、要はご先祖様ってどんな方であろうと空想したり、自身のDNAがどのような人達の構成要素から出来上がっているか?などというそんなルーツのことであります。私のルーツは何処にあり、どんな人達だったろうとふと思い、毎度の事ながら、先月ちょいと旅に出ました。

    基本的にルーツを捜す手がかりになるのはやはり、姓名ですが、福田は実は私の元々の姓名ではなく、旧姓は杉谷(すぎたに)と言います。
    この杉谷という姓名の全国分布を見ますと、関西・中部圏に多いというのが解り、更に調べを進めて行きますと、どうやら杉谷姓は滋賀県が発祥ではないかとの事、しかもどうやら現在の甲賀市(こうかし)になるようです。

    そう・・何を隠そう甲賀と言えば忍者発祥の地であり、伊賀と並び称される忍者の里であります(私も勘違いしていたのですが、甲賀の読みははこうがでは無く、正しくはこうかだそうです)。
    道理で私が未だ高校生の頃、尊敬して止まぬ千葉真一大先生のTVシリーズ影の軍団を見ながらフツフツと腹の底から絵も知れぬ感覚が込み上げて来るものがあり、ワクワクしながらTVにかじり付いていたのを思い出しました。
    その思いが強くなりJAC(ジャパン・アクション・クラブ)の養成所入団試験を受験しようと履歴書を送り、一次試験を通過した過去を思い出したりしました・・・

     

    その甲賀(こうか)の歴史を軽く紹介致しますと、元々室町時代の後期位に近江の国を治めていた近江 佐々木 六角氏と言う一族があり、幕府を軽視した所から当時の幕府の怒りをかい、諸大名動員の下に居城である観音寺城を攻められたそうです。
    そんな圧倒的な戦力に攻められる中で、六角親子は配下であった甲賀武士団”に命じて地の利を活かし、様々なゲリラ戦を展開したそうです。
    夜陰に乗じて本陣を攻めたり様々な手段を持って大軍を足止めし、3年近く抵抗を続けて、甲賀武士団はその武名を全国に轟かせたのだそうです。
    その結果、佐々木 六角氏は生き延びる事が出来たのです。

    それで、その時に参戦してくれた五十三家の地侍甲賀五十三家』と称して六角氏は厚遇しました。
    そして甲賀の里が織田信長に攻められ、追われる間、六角氏に仕えたようです。

    その“五十三家”の中の一つに「杉谷家」があったようです。この杉谷は現在も地名として残っており(甲賀市甲南町杉谷)、杉谷城跡やら杉谷砦も今は苔むした感じでひっそりと残っております。

    流石にこのあたりを車で走ると何やら懐かしいやら何やら、よく解らない感情が込み上げて来て複雑な感じでした。そこに根っこが有るというか、心の奥底に押し込めてあるものが燻っているような不思議な感覚でした。

    因みに大河マニアと言う実行委員の辻さんや、同じく実行委員でピンポイント歴史マニアの中谷さん、あ!それともう一人更なる歴史マニアである畠山先生には解ると思うのですが、昭和53年のNHK大河ドラマだった黄金の日日という大河ドラマ(現9代目 松本幸四郎 主演)の中で、織田信長が史実でも有名な浅井長政の裏切りに合い、這々の体で、京都から岐阜へ帰る途中に馬上で狙撃されるという事件が起きました。

    その信長を狙撃したのが甲賀一の鉄砲名手と言われた杉谷善住坊(すぎたにぜんじゅぼう)』と言う人物、大河では今は亡き川谷拓三さんが演じ、川谷さんの当たり役となりました。
    この善住坊が杉谷一族の一番の有名人だそうです(かなり微妙ですが)・・・
    但し、最後は信長の逆鱗に触れ“鋸(のこぎり)引きの刑”(しかも木製の鋸によってジワジワと首を切られるという処刑の仕方で)によって殺されるという壮絶な生き様でしたが・・

    忍者も元を辿れば、山伏など修験者が心身共に鍛錬をする事で常人離れした能力を身につけ、時代の流れと共に野に下りて忍者という職業集団を形成したのではと思われます。
    ですから忍者は誰に飼われる事もなく、独立した組織であり、金で自らの技術を売るという、自分を高く買ってくれるなら、今日の友は明日の敵みたいな事をやっていた訳です。

     
    今回の春期フォーラム平相談役が武士や武術家が当時は医者の代わりもやっていたという事を発表されていたのですが、私も全く同感です。
    その中でもこの忍者に関しても武士や武術家同様の修行や鍛錬を行っていました。

    残っている文献などを見ると非常に面白い記述も沢山あり、諸説もありますが忍者には一人前になる際にこれだけは覚えとけみたいなものがあり、それが俗に言われる『忍者八門』と言う忍者になるための必須科目8種類の事です。

    1.骨法術(当身技を中心とした武術)
    2.気合術(催眠術や念力等も含めた気を練った技)
    3.剣術(日本刀、忍者刀などを使った武術)
    4.槍術(槍を用いた武術)
    5.手裏剣術(手裏剣を使った武術)
    6.火術(火薬や火を使った様々な術)
    7.遊芸(芸事のこと)
    8.教門(知識・教養など。さらに古来の軍学・兵学である兵法)

    最低でもこれらのものを身に付けて一人前の忍者として現場?に出たのだそうです。近年の研究では、オリンピック選手並みの身体能力を持ち、厳しい規律に律された諜報集団という面の他に、優れた動植物の知識や化学や医学の知識を持つ技術者集団としての一面があったということも解っています。

    梅肉を加工した加工食品を食べる事でノドの渇きを押さえ潜入した際に水を飲まなくてもよかったり、普段は腰紐として使用していたものを携行食として用いたり、猫の目を見て時間を計ったり、雲の流れや星の位置で正確な自らの位置をはかったりと、料理研究家や天文学者真っ青の知識を兼ね備えていたそうです。

    特に私が興味をひかれたのは医学というより密教からくる様々な治療法です。
    現在でも忍者八門の中の一番目にもありますが、骨法では治療も行われており、整骨・整体の源流となっているのもこれら骨法の中より派生したものも少なくないです。

    当然のことながら、人体の急所を熟知しており、三年殺し七年殺しトイレット博士を知る人には懐かしい・・)と言った三年後や七年後に人を死に至らしめる(一説には内臓が溶け出すとか・・・)と言われるような技活殺自在の技を身に付けていたようです。
    それだけ人体の急所を知り尽くしているのですから、治すといった作業も同時に可能だったようで、戦場での止血術や骨折、靱帯の切断への修復など、ほぼ数週間といった期間で完治させていたようです。
    現在、私が聞いている限りでもアキレス腱の断裂を数週間でほぼ繋げてしまう柔術家の先生もいますし、現在でも脈々とその流れは受け継がれています。

    話しは少し変わるのですが、私が住む出雲地方はいわゆる青森の恐山などに多く見られる“イタコ”さんの様な職業を生業としている方が数多く存在し、まぁ本物な方もいらっしゃいますし、眉に唾を付けたくなるような方も多々いらっしゃいますが・・・

    その中で先程も書きました密教神道の流れを組む拝師(おがみやさんなどと呼んでおりますが)、後、昨年漫画の原作を映画化したこと(オダギリジョー 主演)で話題となった、蟲師(むしし)なる職業の方もいらっしゃいます。

    これは実際に今の福田家の父が幼少の頃、経験しているようで“疳の虫(かんのむし)”で困っている時に親戚に蟲師の方がいて治療をしてもらったそうです。
    そのやり方とは掌(てのひら)に墨など何もつけていない筆で呪文を唱えつつ、何か文字を書いて暫くおいておくと、掌から白い糸の様なものが“す〜っ”と天井に向けて上がって行ったのだそうです。
    父曰く、それで疳の虫は治まったそうで、今でもその光景はしっかりと覚えているそうです。

    残念なのはその様な蟲師の方がやはり、後継者不足で現在は殆ど途絶えていることです。
    福田方の親戚の今年84歳になるおばちゃん(私のクライアントですが)が、かすかに密教真言を記憶していて、色々教えてはくれるのですが、残念ながら記憶が忘却の彼方へと向かっている様で、僅かながら覚えているのが裁縫などをしていて針を無くしてしまった時に唱える真言ですが音羽ヶ滝の失せたる針のあびらおんけんそわか あびらおんけんそわか』と唱えると針が見つけられるのだそうです。

    後は山などに入る時にマムシなど蛇に会わない様に『われ行く先に、にしきまだらの虫おれば 玉の御殿を回るごとくらん、あびらおんけんそわか あびらおんけんそわか』と唱えると蛇避けになるそうです。

    因みにこの“あびらおんけんそわか”とは『阿毘羅吽欠蘇婆訶』と書く大日如来(だいにちにょらい)に祈る時の呪文で梵字の音読みで阿毘羅吽欠(あびらうんけん)地水火風空を表し地上にあるもの全てという意味か?
    蘇婆訶(そわか)成就の意味があるそうです。

    この様に昔から語り継がれ今だに脈々と受け継がれているものと、もはや化石の様になり、殆ど無くなる様になってしまうものがあるのが悲しく、特に疳の虫を含めた幼児の治療に関しては蟲師の様な人達が居ればいいなぁ・・・などと
    現代医療だけに頼り、やれ環境によってストレスが溜まっているからどうとか、トラウマになるからどうとか、こうとかなど、まるで腫れ物にでも触るが如くの対応の仕方に、私が聞くと思わず?と思う様な幼児に対しての現代医療が展開されています。
    これは鬱などの心的疾患にも同じ事が言える様な気がします。

    病名を付けることが手柄ではなく、ありのままの状態を診て、更にその人そのものを診て判断する必要性が有る様な気がします。

    時代は変わっても人間そのものは昔に比べ手足が一本増えたとかは無く、変わらない訳ですし、これからは何かもっと操体で言う所の『ききわける』と言う作業がとっても大事な気がします。

    ゲノムの解析やミクロのカラダへの分析も良いのですが、もっとマクロに人間を診る事こそ、現代医療に必要とされているのではと思います。
    パソコンの中に有るデータの一部として、顔色も見ない、カラダも診ずに薬を出す様な医療では無く、もっと基本的な対人間としての医療が求められていると強く思います。

    最初と話しが随分逸れてしまい、忍者から最後は現代医療の話しまでになってしまいましたが、橋本先生“日本は宝の山だ”と著作の中で冒頭に書かれていますが、私もその通りだと思います。
    昔から語り継がれて来ているもの、昔から食べているものに間違いは無いと思います。

    とかく海外から入ってきたもの、西欧諸国から入ってくる科学的に分析されたものの方が良く見えて、昔から言い伝えて来られたものを“迷信”とか古臭いなどと呼んで煙たがるのもおかしな話しで、日本民族には日本民族に合ったモノがあり、ご先祖様達がカラダを張って築きあげてきた文化や伝統をどう育み発展させて行くかが、我々残された者の宿題だと思っております。

    そう考えると、正に操体東洋医学では無く『日本医学』であり、日本の様々な手技・武道などのエッセンスにより醸成された芳醇なワインの様なもので、それをどうお客様に味わってもらうかは私たちソムリエの如き臨床家の手にかかっています。

    最高の年代物のワインを出すのも、全然熟成されていない青いワインを出すのも臨床家のさじ加減一つで、出来得れば最高に熟成されたスペシャル・ワインで快の波に酔ってもらいたいモノです。

    甲賀者 福田 勇治

  • ギャップ大好き

    先週は春期東京操体フォーラムが東京であり、久々にネクタイなんぞ締めてスーツで街を闊歩しておりましたが・・
    今日の私はとっても素敵なスタイルです。

    頭にはパチもんのニューヨークヤンキースの帽子をかぶり、もう普段は着なくなった時代遅れのシャツと首にはタオルを巻きつつ、手には滑り止めの付いた軍手、紫色のズボンに足は膝まであるゴム長靴を履き・・・

    そう、昨日、今日、そして明日の3日間は毎年恒例の農事作業です。
    まあ、早い話が田んぼの手伝いという事です。私の家は現在、約8反ほどの田んぼを作っております。因みに1反が約300坪になりますので、約2,400坪程度の田んぼを作っている事になります。

    作っていると言っても実質上は両親が作っているわけで、私が1年間を通して参加?出来るのは主に5月のお米の苗を作る段階の種蒔きと今回行っております代(しろ)かきと言われる作業、後は秋になり稲刈りをするのですが、稲刈りをした後に稲を乾燥さすための干し場を竹で作るのですがその組み立ての補助、そして刈った稲をそこにかける作業。
    後はその乾燥させた稲を脱穀し、袋詰め、それをもみすり。
    大まかに私が携わるのは5月と秋の収穫期のみといった感じです。

    因みに今頃の農業は殆どの所で機械化が進んでおり、田んぼの水の状況を見たり、農薬を蒔いたり、草刈り等の細かいアナログな作業を除けば、ほぼ座った状態で米が作れるほどに進んでいます。
    ですが、大規模農家であればそれでも良いのですが、私の所のような毎年お米を作っても15万円位の赤字が出るような小規模農家では如何に金をかけずに最小限の人力で最大限の効果をあげるかが、大きなテーマとなって来るのです。

    よって、私の家ではほぼ昭和40年代後半の農業風景が未だに見られます。
    今週私が行っております“代(しろ)かき”なる作業も田植えをする際に水を張って田んぼの表面を平にして行く作業なのですが、私の家では以前は牛がやっていた作業を私がやっております(牛の代用品という訳で・・・)。

    作業はハシゴに紐をつけて、それを自分の腰に巻きます。そして田んぼの中をそのハシゴを引っ張って歩くのです。これが中々どうして結構にキツイ作業で、雨が降った日には足はとられるわ、泥の荷物は付いてくるわで、しっかりと腰を落とさないとひっくり返りそうになります。この様な時は色々なことを考え、妄想しながら作業をしていくと結構楽しめます。重心を何処において歩くと最も疲労が少ないか!とか、“むむ!”拇指球側に意識をおくとどうだろう・・などと様々な事を考えながら歩いているうちに大体終了してしまい、カラダの楽な使い方を覚えた頃には全ての作業が終了し、来年へと先送りになってしまいます。

    ただ不思議なことに年々歳は重ね、足腰も弱くなっているはずなのですが、不思議と作業自体は楽に成っている気がします。重心が安定してきて余り酷く足を取られなくなったのです。田んぼの中で足を抜く際もコツがあり、足を真上にズボッと抜いてしまうと足を取られるのですが、骨盤を意識し骨盤の前面を押し出す様にし、滑らす様に歩くと楽に歩行が可能になります。そしてやはり目線は真っ直ぐ正面を見て、下を向かないこと。こうすることで更に腰が坐り動きが安定してきます。

    ですが、それ以上に自分自身が田んぼに出ることで癒されていることにフト気付きました。このハシゴを引くという単純な作業の最中にも、自然が息づいているのを懐かしい様な思いで感じ、ノスタルジックな甘酸っぱい気分になるのです。

    足元を見るとアメンボウが水面を走り、カエルの卵がプカプカと気持ち良さそうに漂い、ヒルは足下をウロウロと独特の泳ぎでくねっています。
    ふと目線を田んぼの脇に外すと、蛇が慌てて逃げ出しています。

    そう言えばガキの頃は蛇を首に巻き付けて遊んでいたなぁとか・・カエルを餌にしてザリガニを釣ったり。
    自然の中で遊ぶことや旬も含め今の時期にどんな昆虫がいて、どんな動植物があるかも殆ど把握していたなぁ・・・など、思わず気分は昭和40年代にタイム・スリップしていました。

    私の家は現在、ありがたい事にお米、旬の野菜、家で飲むお茶(全部では有りませんが)など、食卓に並ぶ殆どの物が自給自足でまかなえています。但し、あくまでもこれは両親のお陰であって、私たち夫婦に至っては農業は殆どレクリエーション・レベルにしか有りません・・・

    今、両親がやっている作業を全てやりなさいと言われた日には、気を失うか、3でアホになるしかないのです。
    それ位、根気とプラス食べる人が喜ぶ姿が想像出来なければ出来ない事だと思います。
    ですから、両親には本当に感謝しています。少しでもカラダに良い物をという両親の気持ちや本当に土が好きで、農業が生き甲斐と語る二人を見ていると格好いい!って思います。
    私も出来る限りなら今後も両親に協力しつつ、日本の食糧自給率を上げるため、毒入り餃子を食べなくても良い様に最大限の努力を惜しまぬ様に地道にやっていきたいと、小さく心に誓います。小さくですよ・・・
    PS 今日も両親はお茶摘みに出かけております・・・・

    福田 勇治

  • オーラの泉谷しげる?

    3日目です、いよいよ三浦先生の事を書こうかなどと思っているのですが、三浦先生の事は当たり前に書いてもみんなが書いているので面白くないので、ちょっと変わった視点から私なりの三浦先生を書いてみようと思っております。

    私が三浦先生とご縁をいただいたのは何を隠そう前日に登場いただいた、私のお師匠 畠山先生からのご紹介でした。
    当時の私にとって三浦先生は本の中の人、雲の上の様な存在の方で、会うなんてとんでもなく、ましてや話しするなんて、想像すらしませんでした。
    ですがその時は、何の前触れも無く、突然やって来ました・・・

    畠山先生の講習が終わり帰ろうかなどと思っている時に、いきなり『福田くん、今日もう帰るだけでしょ?』って言われ、帰り時間までかなりあったので、元気よく『はい!』って答えましたら、何故か畠山先生の顔がニヤリと笑っていました・・(¬―¬) フフフ
    大体に畠山先生がこのいたずらっ子のような”にやり”の笑みを浮かべる時は何らかのサプライズがある時なのです。

    そして連れてこられたのがホテルオークラの喫茶店でした。しかも、こんな格好で入って良いのでしょうか?と問いたくなるような出で立ちで、緊張しながら先生の前に座ったのを覚えています。
    そして開口一番、低く鋭い声で『ん!橋本先生の本は何を読んだぁ』と挨拶もそこに聞かれ、余りの緊張と馬鹿っぷりにたまげたのですが、思わず操体法治療室ですぅ』って答え、間髪入れずに『馬鹿モン!それは俺の本だろおおおぉ』って突っ込み返しをされてしまいました・・
    『ひぇええ、おっかない先生だぁ』って思いながらも、目が優しく笑っていらっしゃったのが印象的でした。

    その時にもう一つ印象に残っていたのが、先生の放つオーラの強さでした。何故か私は人に触れるという仕事を始めるようになってから、人のオーラを見たり色々と不思議体験をするようになりました。

    その不思議ちゃん体験、第一発目が三浦先生の強烈な燃え立つ炎のオーラだったのです。TVなどであなたのオーラは何色で云々と語っている人がいますが、オーラって人によって見え方もまちまちで色としてハッキリ認識出来る人もいれば、イメージとして頭の中に浮かんでくる人もいますし、様々です。

    初対面の人に会って圧倒されることや何となく近づきたくない人っていますよね、あれも人が動物として危険や何かを感じているということで、立派にオーラを感じているという事です。

    そんな中でも、オーラは日々、年々、変わっていきます。
    何故か私は強烈に三浦先生のオーラだけは感じてしまいます。
    初対面で三浦先生にお会いした時には正に炎と言った表現、しかもポカポカなどと言う柔らかいものでは無く、紅蓮の炎と言う表現がピッタリというような感じでした。

    側にいるのが苦しくなる位な程、人を近づけるのを拒む位のキツイ、情熱的で熱いオレンジの濃い色だったのを覚えています。先生と別れた時に掌にベッタリと汗をかいた位凄い熱さでした。
    まぁ世の中にはすんごい人がいるモンだ、などと感動したのを覚えています。

    その三浦先生のオーラに変化を感じたのは先生が手術をされてから後に初めての塾操体の時だったと思います。
    講習の時は解らなかったのですが、解らない理由は夜に理解出来ました。
    私はその夜、先生の講習所に泊めていただいたのですが、夜寝ていると背中に人の気配を感じました。

    今迄感じた事のない恐怖や恐れとは違う存在感が背中にあったので、何が出たかなぁと、そ〜っと覗いて見てビックリしました。三浦先生の姿がそこにあったのです、但しフレームだけです。暗闇の中に人影があり、人影の周囲だけが黄金色に輝き正座しているのです。
    ありゃりゃぁ・・先生又、変わられたぁ』って思わず呟いていました。
    人間の意識や感覚が変化していくとオーラも変わっていきます。特に生き死にや強烈な体験をするとそれを切っ掛けに大きく変わっていく事があります。
    特に黄金色のオーラって徳の高い方に多く、この時の先生はフンワリと包むような感じだったのを覚えています。この時に先生のオーラが昼に解らなかったのは周囲が昼で明るかったから、黄金色が解らないだけだったのです。

    そして、3回目に先生のオーラの変化に気付いたのは、今年の3月の塾操体の翌日、私と理事の佐伯さんと三浦先生と3人でデニーズで早朝、コーヒーを飲んでいる時でした。

    ニッコリと微笑む先生を見ながら、ん?と今迄とは違う感覚を感じ、す〜っと息を吸いながらよ〜く先生を見てみると又してもオーラの変化がありました。
    ありゃ、今度はブルーだ・・それもとっても深いブルー』ちょっと白味がかった様な凄みのあるブルーでした。
    マニアックな感じで言いますと、出会った頃の三浦先生を刀で言うと、同田貫子連れ狼の拝一刀で有名な?)の様な豪快な切れ味の刀であり、何でもぶった切りまっせ!的な力強さを感じ、今の三浦先生はどっちかと言うと妖刀と言われた村正の様な川の真ん中に刀を刺して置くと大木やら木の葉やら何でも、物の方から吸い込まれるように流れてきて流れるものを全て音も無く“ス〜ッ”と切っていく、そんなイメージに変わられたのを感じました。

    洗練された凄みと言いましょうか、余分なものが削ぎ落ちて、必要なものが必要なだけ存在する感じといいますか・・
    でも冷たい感じではなく、優しい深みと言いますか、深海の色、ディープ・ブルーですかねぇ。

    何だか心地よいのです、ただただ“じ〜っと”側に居たい感じで、側に居るだけで癒されるといいますか、兎に角心地よいのです。
    最初に先生とオークラで会った時とは正反対の全てのものを引き込むといいますか、心地よい懐に抱かれているのを強く感じるのです。先生って会う度に変化して行かれるので、こんなに変わる方も珍しいと言いますか、余り出会った事がありません・・・

    これも現在進行形なので、これからも変わっていくと思いますし、こういう類の話を信じない方にとっては白い目で見られるので、公にはしませんが私の中の一人の楽しみとして、これからも密かに驚き過ごして行きたいと思っております。

    因みに今回のフォーラムの時に感じた三浦先生は又、変化していました・・・

    PS.今後、私のオーラはぁ何色ですかぁ・・などと私に聞かないようにして下さい・・そっとしてやって下さい。。。

    福田 勇治