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  • でんじゃらす・びゅーてぃ〜

    え〜っと、二日目のブログでありますが、今迄の各担当者の方のブログで操体の魅力みたいなものが語り尽くされてきておりますので、私はもっとコアな部分で掘り下げて行こうと思っております。

    前回、私には二人の師匠がいると書いておりましたが、今日はそのお一人、畠山裕美先生との出会いから現在に至るまでについて書いてみたいと思います。私が操体に興味を持ち、本気で操体に取り組んでみようと思ったのと同時に、今の私が有るのは間違いなく、この畠山先生のお陰です。

    元々、島根で整体施術院を開業していた私が、“治す”という行為に限界を感じ、迷っていた時に整体時代の先輩に、「俺は整体をやりながら、こんなのも併せてやっているよ」と教えてくれたのが、別の?操体でした。
    三浦先生の下で学ばれ、開発?されたということで教えてもらったのですが、その当時の私の知識では解らない部分が多く、消化不良になっていました。その時に、悶々としつつ、たまたまWeb上で見たのが「TEI-ZAN」のホームページでした。

    最初の動機としては『同じ操体と名乗っているなら、解りやすそうな方からやった方が良いだろう』などと今考えると失礼千万な動機でした。そして直ぐに電話をすると、素敵な雰囲気のする?女性が出られ、講習の日にちやら何やらを説明されました。まぁ、それが私と畠山先生とのファースト・コンタクトだったのですが・・

    ビックリしたのは講習初日にお邪魔した時にいきなり、臨床を見せてもらった事でした。自分が自分なりにやっていた“操体もどき”とは大きく違いました。“タッチ”や“スピード”、誘導まで全てが大違いで、学ぶという事がどれだけ大事なのかを最初に“どか〜ん”と思い知らされました。
    それから約1年数ヶ月、島根から通いながら、畠山先生の下で学ばせていただき、操体のイロハと操体の魅力を教えてもらいました。

    語ると語り尽くせないほど、色々と1年数ヶ月の間にあったのですが、私は畠山先生の下で学ぶ事が出来て本当に良かったと思いました。

    ここまでだといい話で終わりそうなので、何ですが、ブログ上では畠山先生と書いておりますが、普段は未だに癖が抜けなくてその当時の通り名であった『いんちょ(院長)』と呼ばせていただいておりまして、弟子の私が言うのも何なのですが、女性としてもとっても可愛いく魅力的でキュートな女性です。
    本当に真っ直ぐな女性で、特に操体の事に関しては真っ直ぐ過ぎて人とぶつかって苦労してなどと周りにいる人間の方が冷や冷やする事も多々あります。

    師匠でありながら、年齢的に近い所もあり、色々と相談させていただいたりと多岐にわたりお世話になっており、手相が非常によく似ていたり、歴史マニアだったりと・・共通項も多く、話しがとても合うのですが、真似出来ないマニアはやはり、操体でした・・
    関連書籍は元より、映像やら何やら操体と名のつくものは古今東西ありとあらゆる物を収集していらっしゃるのではないのでしょうか?正に超マニアと言っても過言では無いと思います(絶版になって手に入らない様な物もオークションで落札したりと・・)。

    そんな、いんちょですが豪快?そうに見えてとても繊細な方で、私たち実行委員の事を凄く気にかけてくれていて、ことある毎に電話してもらったり、メンバーの事を心配したり、はたまた檄を飛ばしてもらったりと、そこまで気を遣わないで下さい・・って言いたくなる位、大きな愛を感じます。

    但し・・一点だけ・・酒が入りすぎてしまい、目が据わってしまった時の暴れっぷりは誰にも止められません・・松平健も真っ青の“暴れん坊将軍”多分、三浦先生でも止めるのはムリではと・・
    まさに“でんじゃらす・びゅーてぃー”って言葉がピッタリです。
    今後は天敵 佐伯氏との飲み会でのバトルの行方が楽しみ?です(次回いんちょと会うのが怖い福田でした)・・
    え〜っ、今日書いたブログは30秒後に消滅します・・ By イーサン・ハント(遅いっつうの!)

    福田勇治

  • 2008春季東京操体フォーラム(辻 知喜)

    先週、春季東京操体フォーラムが行われました。

    今回も雨のフォーラムです。
    いつもと違うのは2日間の開催ということ。
    操体の現在・過去・未来』ということで、普段は時間の都合もあってなかなか披露しきれなかった操法の進化の流れを堪能していただけたのではないかと思います。

    一日目が終わって気が付かされたのは、20年以上前の、楽を選択していた頃のものが操体法だと思っている方がまだまだ多いことでした。
    これには、実行委員一同、気が引き締まると共に、今回のフォーラムが意義あるものであったと実感できたのでした。

    そこでまず、一日目の質疑応答から紹介したいと思います。

    ◎瞬間急速脱力について。
    第一分析(楽な方を選択)において、脱力の際、息を吐きながら脱力とあったが、瞬間脱力と違うのか?

    A:同じ。だが、気持ちよさに委ねた操法の場合、瞬間脱力にはなりにくい。

    ◎第一分析において、伏臥位で、可動域が広く、足がお尻につきやすい人の場合は?

    A:自分(自力)でつけてみて、選択させる。

    ◎椅座位において、足は床に着けるのか?

    A:橋本先生は臨床時、ほぼ床に着かない状態でやっていた。(着くのがないというわけではない)

    ◎実行委員の操法は?

    A:第一分析への興味が多いようだが、現在、少なくとも実行委員は第一分析は行っていない。
    からだの要求感覚に委ねるということ。
    患者が好き勝手にやって(頭を使って)こわしている訳だから、(からだの要求に応えてない)からだの要求を満たしてあげることが大事。

    ◎膝の傾倒における介助の際、示指が立って見えたが、武術において、示指は方向性を示すのでは?

    A:示指を立てるというよりは、中指を介して、小指側を使うということ。
    膝裏に指を添える為、示指まで使うと窮屈な動きになる。
    尚、この質問は翌日の平さんの発表と内容が被る為、詳しくはまた明日に、ということになった。
    (これについては、平さんのレポートに任せます。)

    因みに、操法の分析の種類はこちらを参照して下さい。
    『操体法大辞典』

    <第一分析>(運動分析)<第二分析>(動きの感覚分析)<第三分析>(皮膚の感覚分析)

    つづく

    辻知喜

  • 二人の師匠

    はじめまして、今週からブログの担当になりました神の國出雲の住人福田と申します。
    何の因果か、タイトル通り先週、来週とお師匠にブログの順番を挟まれ、やり難いったらありゃしない!などとぼやきながら、1週間お付き合いのほど宜しくお願い致します。

    因みに出雲地方と言えば全国的に縁結びの神様として出雲大社が有名ですが、今年は60年振りの遷宮で国宝の本殿が公開となっております、まぁ見事な物が拝めますので、大黒様のお留守の間にお家拝見と洒落込んでは如何でしょうか?って、私は観光大使ではありませんが・・

    横道に逸れそうなので、本題に入りますが、私には操体における師匠が二人いらっしゃいます。
    一人は私が操体の魅力を感じ、追求してみようと思う切っ掛けを作って下さった畠山裕美先生、もうお一方は言わずと知れた操体界の重鎮三浦寛先生です。何が凄いってこのお二人を師匠と呼べることがありがたいとしみじみ思う今日この頃です。人の一生は“どんな人にどんなタイミングで会ってどう活かす”かで決まると、私は思っていて、昔よく「チャンスの神様は前髪しかない」と言われたことがあり、その心はと問えば、「チャンスだと思った時につかまないと後ろ髪がないから掴めない!」ってそんなオチかよって思ったのですが、今考えれば何気に深い言葉であり、掴んだ自分を褒めてやりたいと、有森裕子ばりに自己満足の私です。

    この二人の最大の魅力は操体に関しての造詣の深さはさることながら、やはり人間性です。
    どんなに素晴らしい理論・技術を持っていたとしても、人間的魅力が欠如した人であれば、理論・技術だけ学べばその人の元を去ると思います。人間とは人と人との間に生きてこそ人間ですので(金八ばりに)最後は学ぶべき人の人生そのものが尊敬出来るかどうかにかかってくると思います。

    特に我々が活きている業界?には魑魅魍魎がはびこっており、何十年も臨床をしていない名人とか、セミナーだけを開いて臨床をせずにベンツに乗っている妖怪とか上げるとキリがないので割愛させていただきますが、そのような妖怪が沢山住む中で二人の師匠は当然のことながら未だに現役バリバリ(表現が古いのはATOKの変換の責ではありません)で臨床を行っていらっしゃる素晴らしさです。
    ですから会う度にバージョンアップされていて、XPを持っていたらVistaかよ!みたいな感じで、数ヶ月ぶりに東京に出た日には置いてきぼりを食っているような気にすらなってしまいます。
    でも、だからこそ“もっと精進しなきゃ!”って思うんですけどね・・

    私的には今のフォーラムメンバーの雰囲気は実行委員の隠れた歴史マニア中谷さんとも話していたのですが、幕末の奇跡と呼ばれる、『松下村塾』のようなイメージがあって好きです。
    吉田松陰的存在の三浦先生を頂点に多種多様なメンバーが集まり操体の旗の下、切磋琢磨する実践主義の塾みたいな、そんな集団が“東京操体フォーラム”の各面々だと思っています。

    その一環として、三浦先生の講習終了者達の更なる研鑽の場として、第五日曜日が有る月の日曜日に各メンバーが集って、『塾・操体』として臨床の場での疑問や、新たなる発見に関しての考察など三浦先生を中心として、学んでいます。

    その時の会場の雰囲気たるや真剣そのもので、一瞬たりとも気を許せないような良い意味での緊迫感が有り、痺れるような心地よさが有ります。まぁ、塾の後の打ち上げと称した飲み会もおもろ〜!なんですけどね。

    私も早く操体高杉晋作の様になりたいものだと、思っております(私生活は十分に可能性有り)。
    個々の師匠の人となりに関しては今週、ブログの担当なのでブログの中で話して行こうと思っております。それでは今週宜しくでございます。

    福田 勇治

  • 2008春季東京操体フォーラム

    こちらは実行委員一同の集合写真です。
    結構大所帯になりました。

  • 仙台道中記

    毎年秋のフォーラムで発行されている小冊子「VisionS」。その2007年版に掲載したものを加筆訂正して掲載します。

    全国操体バランス運動研究会、というものがある。仙台の温古堂主宰で、毎年秋に日本各地で行われている操体の会である。東京操体フォーラムとはまた主旨が違っていて、参加者層も違う。それはさておき、数年前に仙台でバランス運動研究会が開催された時、フォーラム実行委員のうち、何人かで仙台に行った道中記を書いてみようと思う。

    皆仕事が終わってから、夜10時過ぎに三軒茶屋に集合した。
    車を運転しているのは三浦先生、ナビは私、後部座席に秋穂さん、草階さん、森田さんが座る。後ろに座っているのは芸達者ばかりなせいか、出発早々笑い声が聞こえる。
    操体臨床の場ではいつも真剣だが、それ以外ではいかにしてお笑いのツボを捉えようかと虎視眈々としているのが我々フォーラム実行委員の正体なのだ。加えて言うなら、我々は師匠(三浦先生)の突発的ギャグにも冷静に対応できるような技量も必要なのである。

    飯倉で首都高に乗った。私も首都高などあまり詳しくないので、ジャンクションの度に少し緊張する。
    『これは、どっちに曲がるんだ??』
    『先生、右ですっ!!!』
    『もっと早く言えっ!!』
    という感じだ。

    東北道、東関道に向かう湾岸の一本道路にかかると少し安心する。というのは自宅の近くなので、東北道に入る道と、そのまま東関道に行ってしまう道は知っているからだ。葛西インターの手前、中川と荒川の真ん中を通るC2(中央環状線)に乗ればいいのだ。ここも無事左に曲がって、暫く走っていると、小菅ジャンクションだ。これを右に曲がってしまうと常磐道に入ってしまう。
    『今度はどっちだ????』
    『えええっと、こっちです』
    『こっちじゃわからんだろ!!!』
    『えええええっと(汗)まっすぐみちなりですっ』
    『もっと早く言えっ』

    東北道に入れば、あとはまっすぐ走ればいい。三浦先生は愛車を飛ばしてご機嫌だ。私は音のいいカーステレオで好きな洋楽(ロック系)を大音量でかけてもらって気分がいい。後ろの3人は共にお笑いのツボをつつき合い、ボケとツッコミをかけもちしながら笑いが絶えない。
    しばらく走ってパーキングで休憩する。おみやげコーナーを覗いたり、一息ついて蕎麦を食べたりして、三浦先生と秋穂さんが運転を交代する。夜の高速を車はすいすいと走ってゆく。
    秋穂さんと私は前で音楽(洋楽)の話をし、後ろでは三浦先生と女子二人がまたなにやら笑っている。そうしているうちに、飯坂ICに近づいてきた。ここで降りて温泉で休憩予定なのだ。インターを降りる時、三浦先生が後部座席から『(温泉は)どっちにあるのか聞いてみろ』と秋穂さんをつつく。
    降りて右に曲がるということ、どうやらその施設は黄色いらしい。あとはネットで調べた地図が頼りだ。
    県道を10分程走って行くと、黄色い大きな建物が現れた。
    我々が目指す『カッパ王国』である。健康ランド型温泉施設で、ここでひと風呂浴びて仮眠を取って明日の大会参加に臨む予定なのだった。

    まず、風呂に入る前に併設してあるレストランにてビールで乾杯(ビールは女子組のみ)した。『ぷは〜っ』と言ってしまうのはお決まりのご愛敬である。一休みしたらいよいよ温泉。女子3名は賑やかに女湯へ(当たり前だけど)向かう。
    浴場は結構広い。メインの温泉、それを冷やした冷泉。よもぎを蒸しているスチームバス、漢方系のハーブバス、アロマ系ハーブバス、大きな枡のようなヒノキ風呂、小さいながらも露天風呂がある。メインの温泉のところにはシンボルであるカッパ像が立っている。何故か知らないが『おまじない』と言ってカッパ像を撫でる草階嬢であった(なんの御利益があるんだろう・・・)。
    夜中なので、風呂場は殆ど私達3人の貸し切り状態である。やはり大きな風呂というのは気持ちがいいのだ。

    長風呂をしてあがると、男性陣はすでに風呂からあがって、入り口のソファでくつろいでいた。三浦先生はすでにソファで半分寝ている。秋穂さんも相当眠そうだ。
    『先生、寝るなら仮眠コーナーで寝たほうがいいんじゃないですか??』と聞いても
    『ここでいい』
    という眠そうな返事が返ってくる。

    さわらぬ神に祟りなし???

    女子3名は懲りずにもう一本ずつ缶ビールを飲み、その後館内を探索した。仮眠コーナーを覗いてみると、暗くて中はよく見えなかったが、どうやら多くの人がゴロ寝で仮眠をとっているようだ。そして私がちょっとの間草階・森田二人組から離れているうちに、二人の姿が見えなくなった。どうやら一瞬の間に二人に置いて行かれてしまったらしい。
    少し考えたが、暗くてよく見えない仮眠室に行くよりは明るいロビーのソファで寝るほうが良さそうだ。というわけで、三浦先生と秋穂さんが既に爆睡している明るいロビーのソファで、頭からタオルを被って寝た。

    数時間経って目が覚めた。三浦先生と秋穂さんはまだ寝ている。その間に急いで朝風呂につかり、支度をして出てくると、三浦先生と秋穂さんも起きていた。暫くすると草階・森田二人組が起きてきた。何で私を見捨てて仮眠しちゃうわけだ?と聞くとあやまる二人。しかし、仮眠室の中には明らかにノゾキ行為を働いている輩がいたらしい・・・。それを考えたらソファで寝て正解だったかもしれない。

    時間は朝8時。仙台に向けて出発だ。朝の光と、朝のひんやりした空気が気持ちいい。

    再び東北道に乗り、案内に「仙台市」と見えると『お、着いたぞ〜』と声があがる。
    仙台宮城ICを出ると、仙台西道路に入る。これに乗っていくと、仙台に一番近い。しばらく地下を走って外に出ると、そこはもう仙台市街だ。見覚えのある風景が目の前に広がる。
    予定としては、仙台駅で島根から高速バスで来ている福田君と落ち合う予定になっている。仙台の街中を走りながら三浦先生が『あれが温古堂のあるビルだ』と教えてくれる。皆、ペンギンのように一斉にそちらを見る。

    仙台駅前に車を止めて、島根からはるばるバスの旅を経て、先に着いているはずの福田君を捜す。彼と落ち合い、お腹がすいた一行は仙台駅ビルの3階『牛たん通り』へ。洋風モーニングと和風のおかゆつきのモーニングがあり、私は確かお粥を食べたと記憶している。誰だか忘れたが、確か朝から牛たん定食(焼き)を平らげたツワモノがいたっけ。

    腹ごしらえをすませた一行は会場の仙台医師会館に向かうことに。しかし車には全員乗りきれないので車組と地下鉄組に別れた。私は車組だ。実は会場の近くに叔母が住んでいるので道を知っているのだった。地下鉄でも2,3駅なので便利な場所だ。
    会場にはすぐ着いた。なかなか綺麗な建物である。受付を済ませて中に入ると、久しぶりの先輩諸氏の顔を見つけて挨拶を交わしたりする。三浦先生は挨拶で忙しそうな上、そこら中で声をかけられてつかまっている。
    そして、今先生の登場だ。三浦先生と今先生は握手を交わし、私達も再会を喜んだ。

    そして全国大会が始まった。その内容はまたということで。

    途中、喉が渇いたので自販機があるロビーに降りると秋穂さんが一服していた。全国大会の感想など話しながら休憩していると、今先生の姿が見えた。『こっちにおいでよ』と、手招きされて私達が行ってみると、そこに居られたのは、橋本敬三先生のご三男、橋本保雄さんだった。今先生が私達二人を紹介して下さった。
    (保雄氏は残念ながら2006年夏に逝去された)
    橋本敬三先生の本の中で『山の上ホテルに勤めている三男』と書かれているのが保雄氏である。
    何だかパワフルで活力のあるオジサマという感じだった。

    『三浦君のところで勉強しているのか』
    江戸川区か、いいところでやっているね』

    通常、全国大会は初日の夜、懇親会を開く。しかし今回は明日に『橋本先生を偲ぶ会』が開催されるので、初日の今日は午後からはじまり、夕方軽食が出て、ナイトセミナーなるものが開催されるという。三浦先生はナイトセミナーで短い発表を行い、その後のパネルディスカッションに出席の予定だ。

    午後の部が終わり、軽食をつまんでいよいよ夜の部開始である。
    三浦先生の発表は、余りにも時間が短すぎた。通常講習で4時間から5時間の講義をみっちり聴いている我々にとっては余りにも短かすぎた。プログラムの進行上これは仕方のないことなのだろうが、勿体ないと思った。

    操体法治療室』の今先生のパートにたまたま登場する『平さん』(当フォーラム相談役の平直行さんではない。加藤平八郎さんである)の発表もあった。私達は席に座って『ナマ平(へい)さんだ・・・』とか無責任な事をいいながらも熱心に平さんの話を聞いていた。いつか東京操体フォーラムで、思い出話とか話していただけないもんだろうか・・・と少しヨコシマなことを考えながら。

    パネルディスカッションが終わり、この日のプログラムは終了した。夕方に軽食を摂ったといっても食欲旺盛な私達一行の胃袋が足りるわけがない。これからいよいよ本日の宿泊場所に移動して夕食だ。
    今先生の車に分乗して出発。今日泊まるのは、ネット経由で予約した『合宿・研修などに向いた』ホテル。ベッドルーム2つ、和室1つ、居間、風呂トイレ付きである。少し道に迷ったりしたがやっと宿に到着した。チェックインして中に入る。何だか普通の家のようだ。まず、荷物を下ろし皆でほっと一息つく。

    一行は買い出しと食事がとれる店を求めて街に繰り出した。しかし、土曜のいい時間、なかなか席が空いている店がない。大分歩いてやっと居酒屋(養老の滝)にたどりついた。『仙台まで来て養老の滝というのもねぇ』といいながらもお腹を空かせノドが乾いた私達はおおいに飲み食いし、今日の全国大会の内容についてもおおいに語り盛り上がった。東京操体フォーラムの運営について、参考になるところが多かったからだ。

    お腹が落ち着いた一行はコンビニで色々買い込んで、宿に帰った。
    その後は一人づつ順番にお風呂に入った。女子組がまず最初に入った。私は寝ぼけていたのか酔っぱらっていたのか(多分両方)脱衣所に派手なぱんつを置きっぱなしにして、後でお風呂に入った三浦先生に『なんかあるけど誰のだ』と言われ、結構ハズカシイ思いをした。秋穂さんも福田君も「ある」のは分かっていただろうが、見て見ぬふり(?)をしてくれていたに違いない・・(遠い目)。が、はき忘れていたわけではない。念のため。

    さて、ベッドルームは二つ、大きな和室は一つ。どのような部屋割りをするかまだ決めていなかった。まあ、三浦先生がベッドルームを一つ使って、男子二人がもう一つのベッドルーム、女子3名は和室で、というあたりが妥当ではないか、と考えていた。ヒエラルキー(?)で言えば、最初に三浦先生、次に私(のはず?)である。少なくとも草階、森田、福田三名は私の受講生でもある(一応師匠)。今回の道中もホテルを手配したのも私だ。部屋割りの采配をふるっても良かろうよ。

    しかし、三浦先生と秋穂さんと福田君と私が居間で話し込んでいるうちに、草階&森田は二人でベッドルームに荷物を運んで寝る支度をしているではないか。昨日もカッパ王国で私を置き去りにして仮眠室に二人で行った上、今日もだよ(心の声)。『すいませ〜ん』と声では言っているものの二人は着替えてベッドに潜っている。
    と、その隙に(?)三浦先生は別のベッドルームに足を踏み入れながら
    『オレ、こっちで寝る』
    『福田、こっちこい』
    呼ばれた福田君は何故か恐縮しながら後に続く。
    ということは、秋穂さんと私は和室で布団寝るということだ。とりあえず(ベッドに入るより多少手間がかかる)布団を敷く私であった。秋穂さんは疲れたのか、布団に倒れ込むようにして爆睡した。時間にして3分位のことだったろうか。
    私は『ぐざがいともりだめ〜』と、心の中で呟きながら居間のソファにへなへなと座って、残っているスルメなどをかじっていたのだった・・・。

    そうしているうちに、福田君が
    『ちょっと、いいですか?』とごそごそベッドから起きてきた。
    『般若身経なんですけど、ちょっと確認したいところがあるんですが・・・・・。捻転の時の重心移動は・・・・』
    私が答えようと、また立って重心移動の様子を体現しようとしたその瞬間、
    『それはだな』
    とベッドルームの奥から低い三浦先生の声がした。
    一瞬凍る私と福田君。(操体の話は・・寝てても聞こえるんだ・・・・)
    ・・いえ、操体の話となるとゆっくり寝ていられないのだ。それだけ操体には真剣なのだ。
    結局三浦先生は起きてきて、小一時間ほど三人で『般若身経』の話で盛り上がったのだった。

    朝の目覚めは割といいほうだ。おまけに外が明るいので目が結構早く覚めた。一番早起きなのは三浦先生で、既に『朝飯食いにいくぞ』と待っている。急いで朝食を終えると今先生が車でやってきた。チェックアウトして2台の車に分乗する。

    これから、葛岡霊園へ向かう。橋本先生のお墓参りだ。

    途中、コンビニでお線香を買ったり、カメラを買ったりして一行は車2台で広大な葛岡霊園の入り口に着いた。
    急な坂を車であがり、やがて止まったところは静謐で明るい空気の公園のような墓地だ。山の上にあり、何よりも眺めがいい。橋本敬三先生もこの場所が気に入って、ここにお墓を建てたのだと聞いている。
    昨日からの全国大会続きのイベントで、今日の午後から『橋本先生を偲ぶ会』というのが開催される。会の後、参加者はチャーターバスでここまで来て、お墓参りをするのだと聞いた。私達はその前に一足早くお参りというわけだ。

    『ああ、あそこ』と、今先生が示し、三浦先生はすたすたとお墓の近くに歩み寄る。
    座って深々と頭を下げ、長いこと合掌している先生の姿に、私は何だかじーんとした。今、この場所に仲間達と一緒にいるということは、なんて素晴らしいことなのだろう。橋本先生がいて、三浦先生がいて、今先生がいて、私達がいる。一系の操体家系図ではないか(この辺りはかなり感動的)。何だかとてつもない偶然が重なって、この瞬間があるに違いない。

    一人一人お線香をあげ、合掌する。初めて来たメンバーは感激もひとしおのようだ。何せここはフォーラム実行委員をはじめ操体を学ぶものにとっては聖地のようなものだろうし、一度は墓参したいと思うに違いないからだ。
    このお墓はここ一箇所(橋本家だけ)高くなっていて、丸い、亀の甲羅のような墓石が置いてある。その墓石の裏にカタカムナの文字に似ている文様が書かれている。これがまた不思議な形なのだ。ウワサには(?)聞いている例の文様の実物を初めて見た私以外(秋穂、福田、草階、森田)は『へえー』とか、『改めて不思議な形ですねぇ』と感心したり写真を撮ったり、石を撫でたり(?)している。十分その場の空気を味わって、皆で記念撮影を済ませてから、一路市内旧温古堂跡へ向かう。今残っているのは今先生の時代の温古堂跡だ(三浦先生の時代の建物はNHKから出ているDVDで見ることができる)。新しい温古堂はほんの隣の新しいビルに入っている。温古堂跡(?)には、かつてそこに表札がかかっていたのだということを偲ばせるように、表札の形が白く残っていた。
    ここが『操体法治療室』の今先生のパートに出てくる舞台になったところだ。写真や映像では見たことがあるものの『ああ、ここでヒバチと鉄瓶で・・・』と、皆思いをはせるのであった。

    仙台には滅多に来られないというメンバーもおり、また『偲ぶ会』にはそれこそ、古くからのお付き合いがある方が参加されるだろうということも考えて、若輩の私達は遠慮して午後は仙台観光をすることにした。今先生も午後講習があるため『偲ぶ会』には参加せずとのこと。三浦先生は出席することになっている。
    しかし、『偲ぶ会』に出なくてもこうやって三浦先生と今先生と私達(橋本先生にお会いしたことのない世代)が一緒に仙台で所縁(ゆかり)の土地を巡るのも『偲ぶ会』ではなかろうかとも思う。

    ここで三浦先生は(冗談かもしれないが)『いいな、お前達、観光か』と言い残し、今先生の車で『偲ぶ会』会場に向かっていった。私達は観光が終わってから、三浦先生は『偲ぶ会』が終わってから、それぞれ今先生の治療室で合流することになっている。今先生の受講生と合同で宴会の予定だ。

    仙台観光組は私、秋穂さん、福田君、草階・森田組(この2名は二晩も私をおいてけぼりにしたのでこう呼ぶ)の5人である。最初の目的地は、これで日本三景制覇だという福田君のリクエストで、松島へ。カーナビをセットして出発した。しかし、カーナビをセットしたにも関わらず、なかなか松島に着かない。
    『三浦先生が想念で邪魔をしているんじゃ・・・』とかそういう冗談が始まる。とにかくこの面子であるから、お笑いネタ満載である。書ききれない程ネタがあったので割愛するが

    ・・検閲で伏せ字とかピー音が入ると困る???
    一番受けて、車の中で全員笑ったのが

    『もし、カーナビの声が三浦先生だったら・・・』

    というものだった(師匠、ネタにしてごめんなさい)。
    オチ?交差点に近づくと、カーナビが『右でも左でも、からだにききわけて』と三浦先生の声が出るカーナビです。

    そうしているうちにやっと松島に着き、『これで日本三景制覇じゃ』と、喜びにむせぶ福田君と、松島の通りに漂う焼きイカの香りに誘われる女子部。都合がいいのかどうかわからないが、運転できる二人は下戸なのだった。それに対して女子組はいける口ばかり。松島の通りに漂う、かぐわしい焼きイカや焼きホタテを冷たいビールで、と目論む女子組は勇んで数軒の食堂を探し、ここぞと思われる座敷付きの食堂に上がった。
    福田君と秋穂さんはソフトドリンクだが、女子部は生ビールである。
    一休みして、松島の景色も少し楽しんで、地ビールをお土産に買って仙台市内に戻ることにした。

    次の目的地は、瑞鳳殿伊達政宗公の墓所)だ。歴史マニアの福田君のリクエストでもある。ここは私にもゆかりが深いところだ。うちのTEI-ZANという屋号は、開業した当時は『貞山療術院』という名前だった。貞山(ていざん)、というのは伊達政宗公の諡号(おくりな、いわゆる戒名)であり、没後は「貞山公」と言われた。そこから拝借したのである。開業する際は、ちゃんとここまで報告とお願いに来たものだ。ここも数知れず来たことがある(叔母がやはりこの近所に住んでいた)。この辺りは「霊屋(おたまや)』といい、仙台の中でも高級住宅街なのだそうだ。

    車を駐車場にいれて、山道の石段を登る。ここは空気がとても澄んでいて、来る度にパワーを頂けるような気がする。山道の石階段を上りきって瑞鳳殿の前に行く。草階森田組は瑞鳳殿上にもある他の墓所見学に行ったようだが、私と秋穂さん、福田君は瑞鳳殿の前で、暫く鮮やかな建物をじっくり鑑賞してから、横にある資料館へ入る。現在ある建物は戦争で焼けたままになっていたものを、発掘して鉄筋で再現したものなのだそうだ(丁度、再現した頃、NHK大河ドラマで『伊達政宗』が放映された)。その発掘の様子を納めたビデオや、埋葬品などが展示されている。小さな資料館だがなかなか見応えがある。ここでも歴史マニアの福田君と私は熱心に資料見物をするのだった。

    と、携帯が鳴る。三浦先生からだ。『何してるんだ。早くこっちにこい』一行は大あわてで車に乗り込み、今先生の治療室へ向かった。

    今先生の治療所に着くと、中では宴会が半分始まっていた。三浦先生に話を聞くと、『偲ぶ会』が終わってからすぐに今先生の講習に合流し、少し講義と話をということだった。

    今先生の講習には、以前私の講習に参加していた実行委員の中廣さんが参加している。ここ(仙台)で会うのも何だか不思議だ。東京で会う感じとは全然違う(生き生きしている??)。何故だろう。その他にも何人かの顔見知りや、講義をしたことがある顔が並んでおり、宴会の支度をしながら、私達を歓迎してくれた。今先生チームは料理上手が多いそうで、普段見たことも、食べたこともない厚切りの牛たんとか、地元の料理や地酒など色々ご馳走になり、楽しい交流の時間を過ごしたが、楽しい時間はすぐ過ぎるもの。福田君はバスの時間が近づいてきたので名残惜しくもおいとますることになった。
    仙台駅まで福田君を秋穂さんが車で送って行った。

    私達はもう一息ついてから車で帰ることになっていたが、草階&森田組は帰りの予定を変更して、二人で新幹線で帰ると言い出した。また(笑)二人で行動か(三度目だ)。

    それから、三浦先生、秋穂さん、私の3人は余裕で東京への帰路についたのだった。

    本当に楽しい時間だった。
    同じ時間を共有し、橋本家の墓所にお参りし、朝から晩まで操体の話をした。
    本当に操体ずくめの二日間だった。
    VisionSに書き残しておきたいのは、東京操体フォーラムのメンバーは、操体を単なるテクニックや技術として捉えているのではなく、広大な操体のバックグラウンドをも通して操体に近づきたいと願い、学び、そして操体で遊び、楽しんでいるということを伝えていきたいからなのだ。

    畠山裕美

  • 操体と操体法の違い

    数ある治療法、手技療法の中でも、操体法は特殊なポジションにある。人間の考えが変わろうが、この社会が変わろうが、絶対不変の自然法則というものが存在し、人はその法則に生かされている。その人は、その法則に生かされている。そして、我々の生命現象は、快に従うものである。生命現象は快に向かう、それが、イノチの正しい方向性である、という事実の元に成り立っているということだ。橋本敬三医師の生き方、哲学までを含めたものを操体、と呼び、その中で臨床の部分を操体法、と呼んで区別している。橋本先生ご自身も、明確に区別されていたという。
    「私は、操体法をやっています」という場合と、「私は、操体を学んでいます」という場合は、明らかにその意味が違うことを覚えておいてほしい。

    ★他の手技療法との違い・自力自療
    操体が他の手技療法と違うところといえば、『自力自療』を明確に打ち出しているところである。他力療法でも名人達人はこれに気がついているのだろうが、多くはそうではないだろう。

    一般に他力療法と呼ばれるものは、まず治療者と患者(施す側と受ける側)が存在する。双方とも最終的には、本人の自己治癒力を高めるものであるが、
    他力療法には、
    ・治療者が、診断しなければならない
    ・治療者が、治療法、やり方の選択をしなければならない
    ・治療者が、治療行為、施術行為を行わなければならない
    という義務がある。つまり、治療者の手腕にかかってくるのである。
    名人、達人たる所以である。操体法においては、
    ・本人が診断する(感覚は本人にしかわからない。その感覚をききわける)
    ・本人が治療者である(ききわけた、気持ちよさを味わう、という自己責任分担を果す)
    というプロセスをとる。
    つまり、「先生がやってくれる、治してくれる」という治療行為の場で成り立っているのではない。
    操体法は、感覚をききわけ、味わうという自己責任分担を患者(受け手)に課している。
    治りたい、良くなりたいという、自己の欲求(要求)があるのであれば、最小限の自己責任分担は果たすことである。何故なら、己の生き方の中で病を造り出しているからなのである、自己の責任生活、そのものが健康のバロメーターなのだ。悪くしたのは自分自身にあるのですから、というスタンスをとる。また、健康傾斜の度合も個人差がある。
    間に合っている人は自分で日々のケアを行えばいい。しかし、間に合っていない人には、プロの手助けが必要である。

    ★いよいよ明日明後日で私の担当も終わりになるが、明日は昨年秋のフォーラムで配布した、「VisionS」から、『仙台道中記』を転載したいと思う。
    ★「VisionS」というのは「Vision of SOTAI」と「Vision」の複数形をあらわしている。ちなみに「ヴィジョン・エス」と読む。
    何故かというと、今読み返しても結構可笑しいから。
    フォーラムに参加した方は、登場人物の顔を思い浮かべながら読んでいただきたい(笑)

    畠山裕美

  • 操体の成り立ち(2)

    橋本先生は、昭和12年に日中戦争に応召、15年帰還、19年に再応召で北朝鮮へ、という多忙な時代を過ごされるが、その中で、昭和初期から19年の間に、鍼灸治療についての研究論文を『漢方と漢薬』誌に投稿されている。平成11年(1999年1月)の、「橋本先生を偲ぶ会」で配布された年表を見ると、昭和19年に「般若身経」を発表したという記載があるが、昭和32年『日本医事新報』745、746号に掲載された記事には、般若身軽の原型だと思われる『平均集約運動法』が掲載されている(『誰にもわかる操体法の医学』農文協)。

    いずれにせよ、般若身経の原型が、昭和19年には存在していたということで、出自は何処なのか、興味深いところである。おそらく正体術ではなかろうかと思うのだが、どなたかご存じの方はいらっしゃらないだろうか。

    戦争が終わって3年後の昭和23年、橋本先生がシベリアから帰国した年に三浦寛先生が生まれる。橋本先生は暫く日本の医学界を眺めておられたが、やがて医学専門誌に投稿を開始する。この時代の論文は『論想集 生体の歪みを正す』(創元社)に詳しい。

    昭和40年代に入り、仙台の赤門(赤門学志院、現:赤門鍼灸柔整専門学校)柔整科に入学した18歳の三浦先生は、ベレー帽を被り、背筋を伸ばして自転車に来って学校にやってくる初老の紳士の姿を見た。その紳士に惹かれ、受付の女性に聞いてみると、その紳士は温古堂診療室というクリニックのドクターで、鍼灸科でクラスを持っているのだという。三浦先生によると、そのドクターが何をやっている人なのか(というか、その前に操体、という名称は存在しなかったのだが)は全く知らず、ダンディな紳士に、言うなれば一目惚れしてしまったらしい。当時橋本先生は柔整科では授業を持っていらっしゃらなかったのだが、三浦先生は「自分は鍼灸科の生徒ではないが、先生の授業を受けたいから、受けでもいいですか」と、とお願いしたところ、快諾してくださったそうで、これが長く続く師弟の縁の始まりとなる。橋本先生が受け持っていたのは、治療一般だったが、内容的には操体のことを話されていたという。ある時、三浦先生が「先生がやっているのは、一体何というのですか」と、問うと、「名前などどうでもいい。真理が大切なんだ」という言葉が返ってくるのであった。

    実際1976年7月17日(昭和51年)放送のNHKの番組(『操体法 橋本敬三の世界・温古堂診療所から』農文協にて、ビデオ、DVD化)では、操体法という名称は出てこない。ナレーションでは「橋本さんの治療法」と言っているし、仙台市内で開かれた勉強会の張り紙は「東洋医学」と書いてある。名称がつけられたのは、その直後だろうと思われる。

    橋本先生の映像はいくつか残っているが、公になっているのは、80歳近くなってからのものが多い。『操体法治療室』の前半(たにぐち書店、三浦寛と共著)で、今昭宏先生が描写している先生は、優しい好々爺のようなイメージがある。79歳の時に、NHKに出演した際の映像でも同様である。しかし、橋本先生に出会った当時、三浦先生は「何て孤独な目をした人なのだろう」と思ったと聞く。

    シベリアから帰国し、昭和20年代後半に入ってから医学誌に寄稿を続けては無視されつづけ、自分の診療室では注射も打たず、薬も出さずということで、医師であるご子息、奥様にも理解されていなかったのだという。上記『橋本敬三の世界』では、インタビュアーが、ご長男であり、外科医である橋本信先生にインタビューを試みているが、その中で信氏は、「私は外科専門の、普通の西洋医学やってる医者ですから・・。親父の治療についてはあんまり関心がないものだから・・(しばしの沈黙)。親父は親父、私は私の道を行くということですね」と、語っている。親父のやっていることは関係ない、という言葉が印象的だ。

    一番身近な人が理解してくれないということがどれ程のものなのだろうか。

    話は戻るが、三浦先生が仙台の温古堂診療室で見たのは、紛れもなく正体術そのものだったという。左右比較対照の動診、痛い方から痛くない方に動かして、呼気と共に瞬間急速脱力させる。たわめの間も回数も、操者が指示する。これが現在も裾野に広がり続けている操体法の源泉である。

    三浦先生は5年間仙台で過ごし、柔道整復師鍼灸師の免許を取得した。もう少し橋本先生の傍にいたいと思っていたのだが、三浦先生は「東京に行け」と言う橋本先生の指示に従って、23歳で東京にて開業に至る。その後、東京操体療法研究会(現操体法東京研究会)を主宰し、その操体法講習会からは、今昭宏先生(操体医学研究所・今
    治療室)、石井康智先生(早稲田操体法研究会)、根本良一先生(癒動研究所)、田村茂兵衛先生(『操体法の医学と食養』)、渡辺栄三先生などの先生方を輩出している。

    現在、東京操体フォーラムの実行委員は、殆どが操体法東京研究会の出身者であり、私もこの講習で学んだ一人である。この研究会は、いわゆる操体の登竜門と言っても過言ではなかろう。
    三浦先生が上京してから数年後の1975年、橋本先生は、農山漁村文化協会の月刊誌『現代農業』に一般向け連載を始めることになった。
    当時78歳。この連載に関する橋本先生の思いが1978年(昭和53年)開催の『地湧の思想大会(『地湧きの思想1 柏樹社)に少し記戟されている。今まで医師や専門家に対して、警鐘を鳴らしてきたところ、今度は突然、農業高校を卒業したばかりの人達にでもわかるように、というオファーで、連載を始めたのだという。
    多分、今までの医学誌向けとは大いに勝手が違ったと思われる。
    橋本先生は「動いてもらうのは本人。治すのも本人。アシスタントとか、コンサルタントとかそういう立場にあるのが医者だと思う。それには自分が熟達しなければ、プロフェッションとしての値打ちがないと思う」と述べている。
    難しい事柄を専門家向けに説くよりも、知らない人に簡単にかみ砕いて説明するほうが大変なのは周知の事実であるが、同誌への連載はのちに『万病を治せる妙療法』
    としてベストセラーとなる。

    この本の主題は、主に操体的な考え方の紹介である。口絵のページにいくつか実際の技法が書かれているが、操者のポジション、抵抗の具合などについては全く触れられていない。本来熟達したプロフェッショナルがやるべきものであるから、実際どのようにやるのか、というところまでは詳細に触れていない。

    この本は、第一章の「病気はなぜ治らないのか」以降がメインなのであり、自然法則のルールに従ってどのように暮らせばよいかという指針を記したものである。 身体運動の法則においては重心安定の法則(からだの使い方)、重心移動(からだの動かし方)、手は小指、足は拇趾(おやゆび)等が分かりやすく説明されている。しかし、人間は現金なものだから、生活を正そうとする前に、手っ取り早く痛みがとれるものに飛びつく傾向がある。人々は結局、この本の口絵の写真、イラストに興味を示したのである。
    これが非常に曖昧模糊としたもので、介助の仕方、操者のポジションなど詳細は書かれていない。しかし読者は見様見真似、あるいは自分の思いこみで操体法を捉えることになった。
    面白いのは、一般の方向けの本としながらも、寝違えの場合、「素人はあまりやらないほうがいい」「専門家のカイロプラクチックをやる人、整復術をやる人々にはハツキリ申しておきます。運動分析の原理を理解せずに個人のコツにとどまり、しかも自己のクセで左右いつも同じ手順でやるような無法者であってはならない」「いやしくも施術者は運動生理を体得してもらわなければ困る」 (同173P)と、クギをさしている。
    これはどう見ても一般人向けのメッセージではなく、プロへのメッセージであろう。
    間に合っている(自力自動でできるものと、生活中での操体の応用、息食動想)場合と、間に合っていない場合は、臨床家の出番が必要であることを述べており、また臨床家へも一言述べているのである。

    橋本先生はその後NHKのドキュメンタリーに出演しているが、この時、操体法という名称はまだない。それから数年後にラジオに出演しているが、この時は操体法、と紹介されている。
    このテレビ出演を契機に、温古堂先生の名は日本中に知れ渡るのである。
    先生はNHKに出演する前に「山寺の晩鐘」という随筆を書き、医学誌に寄稿している。自分が長年提唱し続けてきたことは、医学界からは理解されなかった。「お手々つないでみな帰ろ」「幸いな吾が家に、母なる自然法則の懐に」と、ついに断筆を決めたのだった(1974年。77歳)。
    しかし、断筆の後にテレビに出演し、日本国内から、様々な症状疾患に悩む患者が集まるようになった(1976年79歳)。
    当時の番組のビデオを見ると「現在温古堂診療所では、新規の患者さんは受け付けておりません」というキャプションが最後に入っている。
    おそらく再放送を録画したものだと思うが、大勢の人が温古堂につめかけた痕跡が見られるのであった。周囲の理解を得られなかった60代後半から、信じてやってきた医術が認められてきた70代後半にかけて、操体も少しずつ変化してきた。楽な動きの可動極限でたわめの間を作り、呼気とともに瞬間急速脱力するという、正体術そのものから「快適感党の最高で、たわめの間をつくり、脱力する」
    というように、シフトしてきたのである。

    もっとも、実際の臨床においては、楽ときもちよさはまだ混同されていて、現在のように楽な動き(運動感覚差)と、きもちのよさ(生命感覚)は明確にはされていなかったようである。
    当時は、楽な動きは、きもちがいいもの、イコール気持ちよさ、という認識があったのである(現在でも明確にしていないケースも多い)。つまり、楽な動きは、きもちがいいはず、という操者の思いこみや決めつけが存在していたのである。そして1982年、敬三先生は85歳となり、現役から退く。「誰か操体ができる代診の先生はいないか」という依頼を受けた三浦先生は、今昭宏先生を紹介する。

    今先生は、仙台赤門鍼灸柔整学校の鍼灸科在籍中、操体法研究会に入って学んでいた。その時、東京で開業している同校の先輩が操体の講義に来ることになった。その先輩というのが三浦先生だったのである。

    今先生の温古堂での勤務が決まった。今先生の代診初日には、三浦先生も東京から仙台に顔を出していた。
    温古堂での代診初日、この時の様子は両先生から詳細をうかがうことができた。

    以下、今先生の原稿を掲載する。

    1983年5月11日の仙台の温古堂診療室の朝、私が温古堂勤務初日の出来事でした。橋本敬三(翁)先生86歳と私26歳と三浦先生34歳、他に受付のみよちゃん、事務参与、そして今は亡き佐藤武先生がそこにおりました。最初の患者さん(おばあちゃん)がベッドに寝ました。
    私は足のゆらし操法(足指もみ)からスタートしました。すると突然、
    「他力は使うなー!今君は原始感覚を指導しろおー !」と翁先生に怒鳴られました。
    ものすごくびっくりしました。
    「気持ちのよさで治るんだから、そのことを患者さんに教えろ」。以下同)ということでした。(※傍点、下線畠山による。以下同様)
    翁先生がやれということですから、絶対服従です。いつも火鉢の所に座って私のやっている操法を監視しているのですから逆らうわけには行きません。
    私はそんな翁先生の視線を感じつつ操法のときに患者さんに動きの感覚をたずねながら、とにかく気持ちのいい動きとたわめと脱力を心がけました。
    するとどうしても操体の本に出ている方法と違う方法をやらなければならなくなって、
    少し困りました。
    動く方向も回数もたわめる時間も脱力の仕方も全部を気持ちのよさに合わせてやる方法が続きます。
    翁先生もおもしろそうにそんなやりとりを見ていました。
    しばらくためして私はそのことを翁先生にたずねてみました。
    質問の答えは大体わかっていました。
    でもあえて私は質問をしてみました。
    「先生、本には楽な方にとか3−4回とか息を吐きながらとかと書いてありますけど、これは全部を気持ちよさに合わせてやっていいのですよね?」
    「それでいいんだ。気持ちのよさを味わうのが大事なんだ」
    翁先生は力強く答えました。
    そんなカミナリ事件をきっかけに、操体の本家である温古堂での技法が目安としての方法を指導する技法から、一歩進んで原始感覚主体の操法へと進化したのでし
    た。(「VisionS」 2005年秋号掲載)

    同じその日の午後、三浦先生は橋本先生とお茶を飲んでいたという。
    その時「気もちのよさをききわければいいんだよ。気もちのよさで治るんだからな」と、橋本先生が誰に言うでもなく放った言葉は、天から落ちる落雷ではなく、雷が地面から発している位ショッキングなものだったそうである。
    その言葉は、それまでの14年間の三浦先生の操体臨床に対する考えや姿勢、立ち向かいを全く変えてしまう出来事となった。しかし、ここで、楽もキモチヨサも同じじゃないか、と三浦先生が素通りしていたら、現在の快適感覚をより重視する操体は存在しなかったのである(これには本当に感謝している)。

    これが、操体が「楽な動きのききわけ」から「きもちよさのききわけ」に変化した瞬間である。私が三浦先生から聞いたかぎりでは、橋本先生もそれまでは「きもちいいこと
    すれば良くなるんだ」と言いながらも、楽な方、辛くない方へ動かし瞬間的に脱力させるという操法を行っていたという。これは、橋本先生の考えの中で「楽ときもちよさは違う」ということが確固たるものとなってきたのだが、実際の臨床でそれをどのように通すのか、というところまでは、実践されていなかったのであろう。
    橋本先生は85歳から90歳の間、近しい弟子達に、
    ・呼吸は自然呼吸でよい(呼吸に集中すると、感覚のききわけが鈍くなる)
    ・楽ときもちよさは違う
    ・動きより、感覚の勉強をしなさい
    とおっしゃっていたそうだ。
    また、今先生が橋本先生に「『万病』に書いてあることは、間違っていませんか」と尋ねたところ「間違っている」という答えが返ってきたという。どこが間違っているのかは、よく考察すれば判るはずである。
    この書籍が今現在でも売れ続けているため、新たに操体に触れる方も、操体とは、動きを比較対照して、楽な方に動かして瞬間脱力、という旧来スタイルの操体法を覚えてしまうことになる。更に残念なのは、手技療法家がこのような一般向けの書籍を読んで、深く理解、思考することなく鵜呑みにして、そのまま試しているケースが多いということだ。
    そのよう場合、冒頭のように「操体は効果がない」という話も、耳に入ってくることがある。また、操体は簡単である、という風説もあるようで、何が根拠になっているのかと言うと、お年を召してからの橋本先生の操法である。現役時代は身体を駆使してアクロバティックな事をされていたという。操体法が注目を浴びたのは先生が80歳をすぎてからだが、当然、若い頃より、試される動診の数が非常に極端に限られてきたのである。
    よく知られているのが
    ・膝二分の一屈曲位にて、足関節を背屈
    ・膝二分の一屈曲位にて、膝を左右に傾倒
    ・伏臥位にて、膝関節の腋窩挙上
    の3つだろうか。
    また、名人は難しいことをいとも簡単にやってみせるものだが、
    まさにその通りで、見る人にとってはいかにも簡単に出来そうに見えたらしい。
    中には、橋本先生の治療を見て、
    「あんな簡単だったらすぐ出来る」
    と、即開業し、半年足らずで廃業するというケースもあったときく。三浦先生によると、橋本先生は、患者には「簡単だ」と言い、弟子には「とんでもないものに足をつっこんでしまったなあ」とその奥義の探さを話されていたそうである。
    現在の操体は、「きもちのよさをききわけ、味わう」という橋本先生の晩年に辿りついた数えに従って、進化している。
    例えば、1985年〜1986年当時「楽ときもちよさは違う」と、公言した三浦先生は、周囲から反発を買い、孤立してしまったという。しかし、当時「楽と気持ちよさは同じではないか」と言った操体の識者も、近年では『気持ちよさ』という言葉を認めている。操体の識者からして、やっと最近こうなってきたのだから、操体に深く関わっていない臨床家や、一般の方にはまだまだ浸透していないのが実情だ。(補足:現在では『きもちよさ』というキーワードが操体の世界にも浸透しつつあるが、『楽』と『きもちよさ』の区別が明確になっていない)
    40年前、「自分のやっていることは60年先を行っているから、今理解されなくても仕方ない」と、橋本敬三先生は三浦先生に語っている。橋本先生亡き後、何故きもちのよさで治るのか、命あるものは何故快に従うのか、遺伝子の研究なども少しづつ解明されてきた。
    いのちあるものは、快に従う。それが正しい方向性なのである。

    畠山裕美

  • 操体の成り立ち(1)

    ある人にとって、操体は自力自療(自動)の健康法であり、ある人にとっては、フィットネスクラブや、カルチャーセンターで、インストラクターの指導によって行うものであり、ある人にとっては治療として臨床家が行うものである。また、操体の「生命は快に従う」というセオリーに惹かれ日々の生活の中に生かしている人の哲学でもある。
    これはどれも操体の一面を表しているのだが、その一角しか見ていないと、非常に狭い視点(範囲)でしか操体を理解することができないのである。

    操体はきちんと体系づけられてはいるのだが、そのシンプルさゆえに様々なところに入り込み、その本質を掴みきれないことが多々あるように見える。例えば操体は手技療法の一環として捉えられることが多い。
    実際、多くの臨床家は操体について、誤った認識を持っている場合が多いのではないかと思う。誤ったというと語弊があるかもしれない。正確に言えば、操体の中のきわめて古い時代の認織しか持っていない場合が多いということだ。そのいい例が「操体って、楽な方に動かして瞬間的に抵抗をかけて力を抜かせればいいのでしょう」というものである。そこで私は彼らに尋ねてみる。
    「果たしてそれで臨床が成り立つと思いますか? 効果があると思いますか?」
    殆どの方は「いや、そうは思いません。だから、操体だけでは足りないので他の治療法と組み合わせるのです」と答える。

    何故そのようなことが起こっているのだろうか。また、身体に関わる世界の中で、操体がどのようなポジションにあり、どのような特性を持っているのか、順を迫って説明して行こう。

    まず、最初に留意していただきたいことがある。今から40年前と現代の人間の生活環境とその健康度合いの違いである。現代の人間の病(やまい)は、複雑化しており、かつ治りにくくなっている。
    おそらく、橋本敬三先生が現役の時代は、楽なほうに動かして、瞬間急速脱力、という、正体術に近い逆モーション運動で間に合っていたのではないか。操体は、『動かして壊したのだから、動かしてみて治す』という考えがあった。操体の特徴である『動診』である。しかし最近は『動かして壊したのではない』、すなわち、動かなさすぎて壊す、環境によって壊す、心の問題から体を壊すという傾向が圧倒的に多い。動かしただけでは解決できないケースも増えてきたのである。
    ★二者択一の瞬間急速脱力が悪いと言っているわけではない。が、実際経験として、『楽なほうに動かして瞬間急速脱力』よりも『快適感覚をききわけ、味わう』という流れのほうが、『持続する』のは事実である。

    操体の歴史をひもとくと、昭和3年頃橋本敬三医師(当時31歳)が函館で、高橋迪雄氏の正体術に出会うところからはじまる。函館中央病院慈恵院で外科医となった頃である。知り合いの父上が正体術矯正法によって、健康を取り戻したのがきっかけで興味を持たれたのだという。高橋迪雄氏の高弟に教わったと聞く。
    当時は「整形外科的疾患はまるでお手上げ」で、様々な民間療法を試していたとその著書にある。橋本先生は、後に三浦寛先生に、「楽なほうに動かして治るんならばそれにこしたことはない」、「(正体術には)いたく興味を引かれた」と、
    おっしゃっていたという。
    民間療法の治療家達は、治すことはできるが、何故症状疾患が治るのかは解らず、その原理を説明できなかったという。橋本先生はここで気づかれた。何故、それらの療法で疾患が治るのだろうか。彼らは、からだの外郭をなす、運動系の歪みに着目していなかったのだ。鍼や按摩、整骨など、やり方は多数あり、どれも骨格の歪みを正している。そして、その二次的作用で、症状疾患が改善されるのである。
    正体術の特徴は、「痛くない方、楽な方の最大可動極限まで動かして、呼気とともに瞬間急速脱力する」というものだ。現在入手できる正体術の本を見ると、客観的な形態観察を入念に行っている様子が書かれている。施術者(治療者)が、患者のボディーの形態観察を行い、長年の経験と勘に基づいてボディーを動かし、楽な方、痛くない方、あるいは可動域のある方向を選択し、可動域の極限で息を止めさせ、身体をつっぱらせるようにさせ、ドスンと全身の力を抜かせるものであった。正体術の基本を読んでみると、面白い事に気が付く。
    「そこでまず正しく仰向けに寝たら、今度は頸と坐骨すなわち腰のところで身体を支えて、背中をぐっとそらし、やや上半身を反り橋のような形にして、背中を畳や蒲団などから離してしまうのです。こうすれば勢い胸が張ってきますから、肋骨矯正の準備に、ここで貝殻骨(肩甲骨)を背中のまん中で左右くっついてしまうようにするのです。そして手はまっすぐ両側につけて伸ばし、手のひらが上に向くようにします。同時に足もまっすぐに伸ばしますと、腿の下も膝の下もぴったり下について膝が反るために、自然にかかとのところが畳から少し持ち上がるようになります。こうして5,6秒程兎の毛ほども動かさずにじっとしていると、元よりなんの苦痛もありませんが、そのうちにだんだん全身に力が満ちみちて来て、ほとんど強直状態に入った形になります。やがて疲れを覚えたら、今度は急に全身の力を抜いて、一時にからだ中グニャグニャにし、自然の重みでドサリと落とすのです。誰しも思わずこのとき、深呼吸をせずにはおられませんが、その深呼吸が普通の呼吸になるまでじっとしています」(『正体術健康法』たにぐち書店)

    操体では形態観察の前に正仰臥位をとらせることがある。視診(形態観察)を行う時、仰臥位の場合、まず「肘を支えにして、お尻を軽く天井に持ち上げて下さい。ゆっくり下ろしていただけますか」というように、からだをまっすぐにするための補正動作をとらせるのである。この動作は正体術に似ているではないか。
    おそらく正仰臥位をとらせるというのは、間違いなく正体術に派生しているに違いない。また、その後を読むと「どんな境遇でも実行し得るだけの方法で、壮者なお少年のごとく、老齢なお青春のごとしという驚くべき効果があるのですから、実験なさらない方にはまるで奇跡のようにしか思われないくらいです」と、正体術の効能が説かれている。
    「もっとも、最初にこの方法を始めるためには、まず矯正法で全身の骨組をなおしてからでないと、曲がったなりに固まって何の効果もありませんし、ことに銘々の体質や年齢、気候等によってもそれぞれ加減を要しますから、一応専門家の指導を得てからでないと、たとえこれを読んだだけで実行してみても、たいした危険はないまでも、思いのほか効果の上がらない場合がありましょう。各種の姿勢をやってみて、どれも苦痛なく容易に真似しうる方々だけは幸いにして正体なのですから、その人々だけは上記の正体術を実行してその効果を実験下さい」
    専門家の全身の矯正後に行わないと、思いのほか効果が上がらないとある。これは
    操体においても同様で、著しい歪み(健康の傾斜の度合いが大きい場合)がある場合、見よう見まねで自分で試してみても、危険はないものの、思いの他効果があがらない場合が殆どなのではないか。やはり最初は専門家の指導を受けたほうが良いのである。
    瞬間脱力の意味も記されている。「つまり動かしてみて、出ていた骨が入るなり、入りすぎていた骨が出るような姿勢をすれば、そのときだけは、そこの骨組の不正はたしかに治っているのです。しかし、普通にもとの姿勢に戻すと、せっかく引っこんでいた骨は、肉を押し分けてまた出てきます。もとよりひとのからだの中で骨の動く模様は、空っぽの紙ぶくろの中でステッキを動かすようなものではありません。いわば、お米の入った米袋の中を、すりこ木でかきまわすようなもので、骨が沈んでゆくと、あとのすき間に筋肉がふくれ出して、うずめてしまうわけです」
    これは急速瞬間脱力で、床にからだが落ちるような刺激でないと、骨格の歪みは矯正されないということを述べている。現在では固有受容器の働きなどが解明され、可動が悪い方に痛みをこらえて無理に動かすのではなく、可動域が大きいほうを他力的に、可動域極限まで動かし、しばらく保持するようなPNF的療法に繋がってくるのだ。これらの類似によって、操体法をPNFと同じものだと理解している手技療法家、スポーツトレーナーが多いように思えるが、実際は正体術に類似しているのである。
    ★快適感覚・からだの要求感覚に委ねた脱力(必ずしも瞬間急速脱力ではない)であっても、骨格の歪みは解消できることが最近は分かってきている。

    畠山裕美

  • 言葉を統制する(自分を大切にする)

    操体のどこが面白いのかと言えば、息・食・動・想+環境を全部考えているところかもしれない。調息法や呼吸法の専門家がいる。食の専門家がいる。また、身体表現や身体の使い方の専門家がいる。心の問題を解決するプロがいる。それぞれのプロの深め方は素晴らしいと思うが、よく考えてみるとこの4つは密接に関連しているのである。それが面白いと言えば面白い。

    呼吸をすれば胸郭が動くし、胸郭が動けば脊柱が動き、立位であれば呼気で体重がつま先側に移動し、吸気で踵に移動する。食が偏れば体調を崩すし、不快な気分で食事をとっても身にならない。息食動想それぞれの達人は、この4つの営みのバランスに気づいているのだと思うが、普通の人は結構別々に考えているのではないかと思う。例えば今年から40歳以上にはメタボ健診が義務づけられた。私の経験から言うと、確かに体重が適正になる。食事制限なしで半年間に10キロ体重が落ちたという方が周囲に8名ほどいる。これは皆男性であるが、やせようと思っていたわけではなく、単に操体がきもちいいので習慣にした、あるいは講習に参加して定期的に、積極的にきもちのよさを味わったという結果にすぎない。詳しく言うならば、「からだにききわけて」」きもちよさを味わって、からだに十分とおし、「息食動想」のバランスが整ったためである。

    しかし、多くの方は「何回、どれくらいやれば効果があるのか」というところに目が行くようだ。つまり「動いてカロリーをいくら消費するか」しかし、感覚の分析を伴わないものは「操体」とは言い難いし、単に動いてカロリーを消費するのとは全く違うのである。なお、最近の研究によると、日本人の30代から40代の男性に肥満が増えているという。メタボリック、あるいはメタボリック症候群予備軍だ。何故増えているのかというと、労働時間が長くなっていることに一因があるらしい。長時間労働で疲れたビジネスパーソンは手軽な高カロリー商品をとることが多くなっているからだそうだ。これはストレスの解消をしているのではないかと思われる。

    ここで、「言葉の統制」ということを考えてみたい。言葉の統制とは何か。これは「息食動想」の「想」(精神活動)と深く関わっている。よく思うのだが、操体実践者で「息食動想+環境」のバランスをうたっていて「想」を「明るく大らかに」と言っている人ほど実際はあまり大らかではないような気がする(笑)。私の思い違いかもしれないが、「明るく大らかに」皆なりたいのだが、それが出来ないから皆悩むのである。
    それだったら、自らの口からでる言葉を統制しなさい、言葉を統制すれば、「想」もコントロールできるということなのだ。

    言葉の統制と適正体重、何の関係があるのかと言うと、密接な関係がある。よく「水を飲んでも太る」という話を聞くことがあるが、そういう場合「私、水を飲んでも太るの」と、口癖にしている場合が多いのだ。言葉で自分に暗示をかけているのである。

    ちなみに「お金がない」と言っていると、本当にご縁がなくなるらしい(笑)

    もっと言えば、脳のシステムは言葉に対して「誰が主語か」は認識しないで処理するらしい。例えば他人に対して否定的な言葉(けなす言葉とか)をかけた場合、脳は主語抜きで理解し、その結果、自分に返ってくるというサイクルになるのだという。逆に相手をほめるということは自分に対していい言葉をかけているのと同じなのだそうだ。もっとすごいのは、自分が発した言葉は、一番自分に返ってくるという。まさに言葉を統制することは、自律可能、自己責任なのだ。
    本当に言葉は運命のハンドルなのである。

    畠山裕美

  • 東京操体フォーラム二日目・『想』の時代へ

    こんにちは。畠山裕美です。5月4日から一週間、宜しくお願いいたします。

    昨日から2008年春季東京操体フォーラムが開催されています。今日は二日目。温古堂にて受付嬢兼橋本敬三医師のお世話をされていた今美代子さんをゲストに迎え、三浦理事長と「人間・橋本敬三」に迫る対談を行いました。

    また、今回は32年前の橋本敬三医師のデモンストレーション講義の映像が発見され、それを上映しました。
    ★これは、貴重な映像です。

    操体に出会ったのは高校生の時です。操体を学び始めて15年、操体専門で開業してから13年になります。

    操体法』の名前は知っていたのですが、『操体法治療室』(特に後半)を読んだ時『これを学ぼう』と決心しました。著者の1人、三浦先生のところに入門するまで少し寄り道をしましたが(価値ある寄り道で、今では『操体武者修行』だと思っています)

    操体法治療室―からだの感覚にゆだねる

    他の手技療法も勉強しましたが、最初から一番気になっていたのが操体で、やはりその通りになりました。

    1999年に最初に書いた本がこれです。
    名前が「青木裕美」になってますが、この時ヨメに行っておりましたのでこのようになってます。
    今は本来の名字である「畠山(はたけやま)」に戻って、シングルライフと操体をエンジョイ中です。

    そして
    一昨年、三浦寛先生、今昭宏先生と共著という形で『操体法 生かされし救いの生命観』を出しました。(たにぐち書店刊)

    操体法治療室』を読んで操体を志した私が、この本の両著者の先生方と共著を書かせていただけるとは、全く以て幸せ者だと思っております。

    操体』って、時には人生変わっちゃうこともあるんです。

    おそらくこのブログを読んで下さっている方々は、操体に少なからず興味をお持ちだと思うのですが、こんなに奥が深くて面白いものはありません。
    フォーラムの実行委員の面々も、最初はおそらく、ご自身の臨床で悩み、どうにかして技術なりテクニックを会得したい、と操体の門を叩いた方が多数のはずです。
    しかし、「症状疾患にとらわれない」「○○に効く操体」というものはない」「治療まで関与するな」などの、一般的な常識からみたら、頭を捻るような新しい世界でとまどうのです。

    しかし、橋本敬三先生が『操体は面白いぞ。一生楽しめるからな』と、言われた、その意味が分かった時が、本当の操体の勉強のはじまりなのです。

    21世紀を迎えてから早くも8年が経った。本当に時の経つのは早いものだと思う。
    1990年頃から2005年位のこの時代は、おそらく人類が今までにない環境変化に対面した時代であることは間違いない。
    パソコンは一人一台が普通になり、家庭にも普及した。インターネットは当たり前の時代であり、仕事でも必須ツールとなり、携帯電話を持っていない人は珍しくなった。
    私が会社勤めをしていた頃は(北欧系の船会社に勤めていた)、テレックスという機械を使って船や海外と通信していた。丁度テレックスからインターネットに移行する前段階の時代である。パソコンはあったものの、画面は黒い。MS-DOSでコマンドを打ち込む時代だった。
    朝会社に出社すると、夜の間に時差のある海外からテレックスが入っていた。テレックスというのは四枚組の巻紙になっている。白、ピンク、ブルー、イエローの紙が滝のように床に流れていた。テレックスというのは文字数分課金されるので、短くするために英語の略語が発達した。例えばTELAXはTLX、Vessel(船)はVS、これは慣用句にもなっているが、ASAP(可能な限りすぐ)はAs soon as possibleの略だ。
    また、船会社だったので、チャータリング(用船: 船主が船舶利用者のために、船舶の全部又は一部を提供して、その利用にまかせることをいい、一般にチャーターと呼ばれる。)マネージャの北欧出身の同僚がいた。常に船のスペースの空きなどの情報が入ってくるため、彼はいつも電話ばかりしていた。ある時、自宅のパーティに招かれ、駒沢大学駅から少し奥まったところにある、在日外国人向けにしつらえた豪華な一軒家にお邪魔したことがあるが、パーティの最中でも彼は仕事の電話に出ていた(笑)。彼の奥方は『これが仕事なんだから、仕方ないわ』と笑っていた。今は携帯電話とインターネットのお陰で彼の仕事も便利になった事だろうと思う。
    こんなのは懐かしい話だが、現在ではバーチャルチャータリングのシステムもあるし、船舶では衛星(インマルサット)を経由したインターネット導入が進んでいる。
    FAX、e-mail等のデジタル通信網に価格とスピードで差をつけられ、テレックス(国際網)は、2005年3月31日にサービスを終了した。インターネットが主流となり、世界が一気に狭くなったのである。
    というわけで、この同年代に生きている我々はおそらく何世紀か後の歴史の教科書において、『産業革命』のように『デジタル革命時代』に生きていたということになるのだろう。

    世界が狭くなり、目まぐるしい変化の連続の日々が続いている。
    変化は通信手段のみならず、環境身近なところでは、春先から初夏にかけて、花粉症という新手の病が猛威をふるい始めた。神経内科に通う人は珍しくなくなった。日本は探刻な少子高齢化時代を迎え、憂えるような出来事が山積みになっている。息・食・動・想+環境、のバランスが、地球規模であきらかに変わってきている。
    操体の創始者、橋本敬三医師は、世の中の動向を、著書の中で「どうすりゃいいの?」と書かれているが、本当に「どうすりゃいいの?」という時代になってしまったのだろうか。

    社会進捗曲線というものがある。1971年1月号のプレジデント誌に掲載された記事で、当時の立石電機(現オムロン)の研究所が発表したものであり、橋本敬三先生の『からだの設計にミスはない』(たにぐち審店)、『生体の歪みを正す』(創元社)に引用されている。これによると、1945年から1974年まで自動化社会であり、1974年から2004年までは情報化社会とある。確かにこの時代は情報化社会の始まりだった。
    2005年から2025年までは、自律、つまり制御可能(コントロール可能)な時代になると記されている。また2005年は「生体制御技術」の始まりの年でもあり、そこから20年間は、サイコ、つまり心の時代でもあるという。生体制御技術とは、今で言う先端医療のことだろうか。遺伝子を用いた医療、再生医療などの発達と共に、人類が一層「こころ」の問題に目を向ける時代が来るのだろうか。
    図を見ると、2005年を境にものの考え方が西欧的な物質社会から、東洋的な心の世界にシフトしている。そして2025年、社会進捗曲線は「精神生存技術」の時代を迎えることになっている。精神生存とは一体どういう意味なのだろう。
    この図をみると、人類は同じ事をくり返しているように思える。古代の人間は心の世界に生きていたが、文明の発達と共に物質の時代を迎え、2005年を境に、再び心の時代に戻っていくというのだ。『歴史は繰り返す』ということか。

    近年、心を病むケースが増えている。うつ予備軍といわれる中学生、うつ病の発症最低年齢が小学一年生であるなど、想像以上に体のみならず心の問題を抱える人口は、確実に増えているようだ。かといって不思議なのは、きわめて自然に近い暮らしをしている人々に、心の病が多いということだ。これはまたシャーマニズムやメディシン・ドクターとも関係がありそうで興味深いのだが、余りにも自然に近いとそれはそれでストレスになるのだろうか。また、今より生活のサイクルがのんびりしていたような日本の過去の時代を見ても、心の病というのは昔からあったようである。古典研究家、大塚ひかり氏が書いていたが、『源氏物語』に出て来る女性は殆ど心身症の傾向が見られるという。昔から心と体を病む、ということは比較的多かったのではなかろうか。

    更に心の病というのは都市部で多発しそうであるが、実際には地方のほうが、人間関係やしきたりなどで心を病む人の潜在的な数は多いとも聞いている。他者との体裁もあり、「病院に行くのは恥ずかしい」、あるいは「見て見ぬふり」などで適切なケアを受けていない、あるいは受けられないというケースも多いと聞く。
    私は東京の品川生まれである。3歳から大学を出るまで千葉市に住んでいた。幕張メッセの近くで、総武線各駅(JRの黄色い車体だ)沿線だ。父親は都心で働いており、電車の本数も多く、学生時代は表参道や原宿、新宿でよく遊んでいた。今も東京都に住んでいるし、生まれてからこの方、東京近郊を離れたことがない。なので『都会は疲れる』とか『東京砂漠』(ちょっと古いですか)とか『都会は不毛である』というのはなかなかわかりにくい感覚でもある。住み慣れているので、人が多いのも電車が混むのも『こんなものだ』という感じである。

    メディシン・ドクターと言えば、現代の日本でも「拝み屋」は存在する。以前読んだ本によると、昔はどこの町にも大抵一人は「拝み屋」がおり、人々の悩みや相談事をひっそりと解決してきた。
    それが「生活改善」という名前の元に『そんな前時代的な事は止めましょう』ということで減っていったらしい。拝み屋ではないが、青森県の恐山のイタコの話は聞いたことがあると思う。イタコというのは盲目の女性が代々役目を担っている。いわゆる死者の霊を呼び出し、イタコ自身の口を借り、残された者達にメッセージを告げるのである。イタコというと、恐山にいるのだと思うかも知れないが、集うのは恐山大祭の時だけで、普段は東北地方の自分のエリアでお勤めをしているのである。
    父方の祖父が亡くなった時、イタコを呼んで口寄せをした。私の両親は共に宮城県気仙沼の生まれである。気仙沼市岩手県陸前高田市に隣接している。私は当時高校生だったのだが、若い女子や子供は口寄せの席には同席しないというしきたりがあった(非常に興味はあったのだが)。後で親に聞いてみると、イタコに祖父が口を借りて『兄弟仲良くやれ』とか、『道でお地蔵さんを見たらオレだと思え』とか、余り当たり障りのなさそうな事を言うらしい。しかし、口寄せの最中に泣き出す親戚もいたりして、それはそれで祖父の供養になったのではないかとのことだった。
    こういう『拝み屋さん』は一種のメディシン・ドクターのような存在であり、地域の人々の悩みを聞き、癒していたのかもしれない。

    最近では、不安障害(パニック障害適応障害など)のメカニズムが解明された。脳内で分泌されるタンパク質の一種が影響するのだという。
    操体的に「病気になる順序となおる順序」を考えてみると、その不安障害を引き起こすタンパク質は何故分泌されるのだろう。やはり、息・食・動・想のアンバランスではないだろうか。生命が向かう方向性、「快適感覚」をききわけ、味わうという生命にとっては最高の「ごほうび」を与えることによって、そのタンパク質の分泌が抑制されるのではないだろうか。
    しかし、「病気はサインだ」という橋本敬三医師の言葉を考えると、心がカラダの声に耳を傾けず、カラダを乱暴に乗りこなした結果ではないのか?など考えてみる。
    橋本敬三医師の時代、まだ脳内の詳細な生理学は解明されていなかった。
    今では脳内ホルモンが様々な働きをすることが分かっている。「なぜ、きもちよさで良くなる」のか、科学的に解明出来る時代になって来たのだ。
    その詳細があきらかになる前に「きもちのよさでよくなる」と言われた橋本先生は一体どのようにしてその真実に気がつかれたのだろうとふと考えたりする。

    社会進捗曲線 『プレジデント』1971年1月号より

    (畠山裕美)

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