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  • 小代田の(仮)臨床の巻

    こんばんは!
    今日の静岡は風が冷たい一日でした。皆さんの住んでいる所はいかがでしたか?
    先日富士山に雪が降ったようです。「とっても白くてキレイだった」と皆が口々に言う、
    一番良い富士山を見逃した小代田が今日も静岡からお届けします。

    今日職場の机周りを整理していたら、懐かしいものを見つけました。
    以前作ったお勤め先の広告です。
    広告には往診先や来院してくれている患者さん達の笑顔が水玉で飛んでいます。
    そのなかに懐かしいちびっ子を見つけました。
    とても可愛くてにぎやかで凶暴なその2人組みは兄弟です。
    今は引越してしまいましたが、とても思い出に残る患者さまです。
    そこで今日はわたしのまだまだ数少ない臨床例(?になるか分かりませんが)を書いてみようと思います。

    今日の臨床例の被験者はリッキー、5歳です(当時)。4歳になったばかりの頃に小児鍼希望で来院しました。
    色が黒くて、クリクリ頭のとっても可愛い男の子です。

    リッキーは離乳食を食べ始めた頃からアレルギー性の下痢と喘息が出始めました。
    アレルギーの反応は皮膚にも出ます。
    皮膚は薄いのですが固くなり、背中や腰、お腹の色がとても悪い状態でした。
    首周りの皮膚の緊張も強かったように思います。
    しかしそれ以外、リッキーはいたって元気!
    1回目の治療ですっかり気を良くしたリッキーはその後も定期的に治療に通ってきました。
    その頃はまだ操体を学んでいなかったのですが、橋本先生が書かれていたくすぐり操法を思い出し、
    試してみることにしました。
    治療(小児鍼)の最後にコチョコチョとリッキーを容赦なく毎回くすぐりました。
    なぜかリッキーはとてもそれが気に入り、めでたくわたしは「コチョコチョさん」という呼び名を
    頂きました。
    そんなコチョコチョさんの所に遊びにくるのがとても好きだったリッキーは、おじいちゃんの介護の関係で
    離れて暮らしていたお父さんの所に、お母さんとお兄ちゃんと戻ることになりました。
    肌の調子は良くなり、便の調子も少しづつ落ち着いてきた所でした。

    そして一年後、久しぶりに「コチョコチョさんいますか〜」という元気な声と共に久しぶりに静岡に
    戻ったご家族と一緒に遊びにきてくれました。
    顔色も良く、お腹や背中の緊張も大分軽減され、背もとっても伸びたリッキーでしたが、
    「まだ喘息が・・・先日も苦しそうで」ということでした。
    久しぶりにコチョコチョをするんだ!とはりきったリッキーは予約の日に元気にやってきました。
    久しぶりでテンションも高い高い。
    そんな時アクシデント?が!!
    「小児鍼がない??!」。
    どこにもないのです。
    「う〜ん」。その頃は操体を学びはじめていましたが、「こんなおチビちゃん、やったことないぞ、
    でも鍼もない・・・」と一瞬涙目の私。
    ひょんなことから操体でリッキーと向き合うことになりました。

    腹をくくった私は以前読んだ畠山先生の子供さんとの臨床例を思い出し、足趾の操法を始めました。
    しばらくした後、あれだけうるさかったリッキーが静かになり始めました。
    次に仰臥位のまま本人が「触られて気持ち良い」という所を手の平で触れ、本人が気持ち良いという方向に
    少し皮膚をずらし、しばらく聞き分けてもらいました。
    すると「なんだか気持ち良い」と目を閉じて味わい始めました。呼吸がおだやかになり、
    とてもおだやかな顔になりました。「もう気持ち良くなくなった」というので、次にうつ伏せになってもらい
    背中の「触って欲しい」という場所に同じようにしました。
    しばらくして眠ってしまったように静かなので「寝てしまったのかしら?」と横で観ていたお母さんと
    顔を見合わせ「リッキーもう良いかな?」と声を掛けました。
    すると寝言のようでいて、でもはっきした声で「まだ〜」という返事。お母さんと顔を見合わせてしまいました。
    しばらくするとリッキーは「もういい」と勝手に終了。
    さっきのうっとりした空気はどこに?というほどカラッといつものいたずら顔のリッキーに戻ったのでした。

    数日後「なぜか喘息がピタッと止まってしまって・・・なんでですかね〜?まったく子供は勝手で分かりませんよね〜」
    来院したお母さん。

    このことは私の中で今でも「う〜ん」。でももしかしたら、ひょっとしたら、リッキーの体の役に立てのたかもと思ったりもする。だからまだ(仮)。

    これから臨床を重ねていけば、分かる日がくるのかもしれない。

    ということで今回は少し長くなりましたが、小代田の(仮)臨床例でした。

    明日はお休みですね、皆さん、どうぞ良い一日を!
    今日もありがとうございました。
    ではまた明日☆

    小代田 綾

  • 響く音

    こんばんは、小代田です。今日はどんな一日でしたか?

    今回のフォーラムのテーマは『操体と発声』でした。
    日中移動が多い私は、今日一日車の中で気もーち良く、大きな顔、小さな顔、そして色々な
    声を楽しんでみました。

    さて、話は発声とは少しずれますが、みなさんはどんな音を気持ち良いと感じますか?
    前回も音の話をしたように思いますが、今日は私の好きなもうひとつの音について書こうかなと思います。

    そう、今日の音は言葉の音です。

    たまに本を読んでいると独特の音やリズム、そして波動なのかな、そんなものを持っている言葉や文章に出会います。
    雑誌の一文であったり、小説であったり、エッセイやビジネス本の一節だったり・・・それはふとした所にいつもあったりします。

    またそれとは別に「声に出したくなる」言葉や文章があります。
    これが不思議なんです。
    古典や詩、随筆などわたしには難しくて内容がよく分からないといったものの中にも、言葉の音(響き)がなんともいえず
    きれいで、美しくて、つい声に出して読みたくなってしうものがあります。
    声に出してみると、これがまた何とも心地よく響いて良いのです。
    静かな喜びというか、静かな感動というか・・・。

    すると何となくからだの奥の方からふつふつ静かに何かが湧いてくるような感じがします。
    そして「ゆっくり」と広がっていきます。
    わたしにとって、とても気持ちの良い響きであり快なのです。

    だからでしょうか、わたしが「とても素敵な言葉なの」と読み始めると、今日も横で母はウトウトし始めます。
    あれ?気持ち良いからだよね?おかーさん!

    小代田 綾

  • 春季東京操体フォーラム

    こんばんは、お久しぶりです。
    今週は岡村さんと、とってもハッピーで楽しい実技指導をして下さった
    草階さんからバトンタッチ、ちょっぴり慣れてきた小代田です。
    一週間どうぞよろしくお願いします。

    今日はお天気にも恵まれ、2009年春季東京操体フォーラムが無事終了致しました!
    参加された皆さんは今頃思い思いの時間を過ごしている頃でしょうか。
    とっても充実した素敵なフォーラムでしたね・・・☆
    みなさんとそんな時間をご一緒でき、とても嬉しく思います。

    今回のフォーラムは今にでも流れ出しそうな大きな可能性とエネルギーを感じるものでした。
    それぞれがプロフェッショナルで、充実し、個性に富み、そして操体というものを色々な
    切り口で紐解き、発展させたとても素晴らしいものだったと思います。
    色々皆さんにお伝えしたい!見せてあげたい!聞かせたい!

    三浦先生からは旬な最新の情報も惜しげなく・・・本当にワクワクドキドキの一日でした。

    私のつたない文章力ではとても皆さんに伝え切れません(うぅっ)ので、気が早いのですが次回
    秋のフォーラムには「ぜひ!是非!!」お越しくださいっ。
    秋もとても面白そうなものになる予感が今からひしひしとしています。

    さて、様々に輝くエネルギーたちに触れ、
    私はこれから自分をどう表現していきましょうか・・・。

    では今日ははこれで☆
    今日も一日ありがとうございました。
    おやすみなさい。

    小代田綾

  • 伝える力2



    堺すすむくんストラップです。
    野毛のにぎわい座に行ったときにうっかり購入しました。
    携帯につけても残念ながら誰も気づきません。
    「なんでかフラメンコ」でおなじみの名人です。

    「あんパンと、メロンパンと、食パンが歩いていた。後ろからージャムパンが、『おーい』と声かけた。
    振り返ったのは食パンだけ。なーんでか。なーんでか。」

    「それはね、食パンには耳があるから。」

    文字でみると???ですが、にぎわい座でみると顔全体がニヤけてしまいます。
    また、美空ひばりのモノマネを歌いきった後、すすむちゃんが一言。

    「オレ・・・歌・・・うまいやろ?」

    お客さん大爆笑。もちろん私も大爆笑。

    なんで、ゆっくりとした一言がこんなに面白いんだろう?
    なーんでか?
    なーんでか?
    ステージに登場して、喋りだす前からすでに面白いんです。
    今のお笑いも好きですが、今のお笑いは同じネタばかりしているとすぐに飽きられてしまう傾向があります。
    しかし、すすむちゃんは、何十年と同じネタをしているのになーんでか面白いんです。
    一つのことを磨き続けた結果でしょうか?
    失敗するかも?ウケないかも?緊張しちゃう!とか見ているほうがハラハラする雰囲気が全くナシで、
    どんなお客さんにも全て対応できてしまう強さがあるように感じます。
    一つのコトを自信を持って磨き続ける強さを見習い勉強していきたいです。

    今度に日曜はついに東京操体フォーラムです!
    予報ではお天気はあまりよろしくないようですが、会場内は快晴です。
    では、津田ホールでお会いしましょう!
    次は馴れたかな?小代田さんです。

    草階文恵

  • アラフォーの手習い

    ナニを血迷ったか、四十にしてカポエイラを習いはじめました。
    同年代の友達はせいぜい「骨盤体操」「ストレッチ」の教室に行く程度。
    カポエイラを始めたなんて言うと、珍しい生き物を見るような目で見られてしまいます。
    友達が慢性の腰痛だ、肩こりだ腹の肉が・・・と言っている中、側転やらブリッチやらそれ以上を目指してます。
    もともと空手を習っていたとはいえ、ちょっぴり無謀なのは百も承知です。
    何で今さらはじめたのか?
    楽しそうだから!
    この一言につきます。
    操体のからだの操り方を知っていると、何も知らない状態で始めるよりいろいろ分かって楽しいです。
    カポエイラの時は、操体のからだの操り方は一回クリアにします。
    もちろん、「空手を○○年やっていた」ということもなかったことにしておきます(癖は出てしまいますが)
    ある程度動いて納得してから、
    操体の操り方とカポエイラの動きについて考えていけたらもっと楽しくからだと対話できそうです。
    今から楽しみです。
    空手のからだの操り方を消しているつもりでも、達人の先生にはすべてお見通しのようで
    「蹴るときに、骨盤閉まるでしょ?それは空手の蹴り」
    「つま先の力を抜いて蹴って!」
    ・・・などなど目からウロコのアドバイスをしてくださいます。
    「ああつま先の力を抜くんだ!」「ここの回転を利用するんだ」と、からだが理解できるところがすごいです。
    10代の時にできなかった動きが今できるようになっているので、からだの可能性にびっくりします。
    重心安定の法則で、立位の時に「膝の力をホッと抜く」がありますが、カポエイラの弦楽器を操るとき、
    膝を曲げると弦楽器をうまく持てません。
    この時は、膝を伸ばすことで全体のバランスがとれて楽器を操ることができるのです。
    何で膝を曲げたらうまく操れないのか?はまだわかりません。これからゆっくり理解していきます。
    操体はこうだから!と変に取り込まないで、違いをしっかりと認識しつつ、理解できたら面白いです。

    もともと、日本人は器用なようで、いろんな文化を取り入れ、ただマネをするだけではなくより良いものに進化させていきます。
    今、この年齢で始めたことにきっと何か意味があると思うので、楽しんでいろいろなことに気づいていきたいと思います。

    草階文恵

  • 伝える力

    東京操体フォーラム、一週間を切りました。
    今回は「発声」というステキなテーマで送ります。
    声は人「情報」「感情」そして「愛」を伝えます。
    いい声、キレイな声だけでは、そんなに感動しませんが、たまにびっくりするくらいガツンと響いてくる人っていますよね?
    最近注目しているのが、「さんまのスーパーからくりテレビ」に出演している下地先生です。

    最初はおもしろいおじさん(おネェさん?)だなぁ・・・としか思ってませんでしたが、何だか引き寄せられるんです。

    おもしろいのはもちろんなんですが、
    声のやさしさ、やわらかさが、からだにするするっと入って、からだが納得するみたいです。
    先生として熱心に指導した結果、強烈に伝える力になったんでしょう。
    下地先生は小細工なしなのかもしれません。
    下地先生をそのままマネする気はまったくありませんが(できませんが)、下地先生をみていると、
    「愛」が画面を通しても伝わってくるんです。
    ステキな先生ですね。
    勉強させていただいて、私も伝える力を育てていきたいと思います。

    草階文恵

  • からだひとつで

    http://d.hatena.ne.jp/tokyo_sotai/20090404

    岡村実行委員長もこのように書いてましたが、症状に対する思い込みにとらわれてしまう方が少なくありません。

    「○○病なんですけど、何をしたらいいでしょう?」

    「肝臓に効く薬は何ですか?」

    よく話を聞くと、○○病は病院に行かずに自分で勝手に名付けたとか
    食生活を正すのはできないから、よく効く薬を教えてほしいとか
    そんな勝手な要望はお話を聞くだけです。
    できるかぎりからだとお話させていただきますが、
    きっと患者さまの求める答えと違うことを言ってしまうのであまりアタマのほうは受け入れてくれません。
    からだのほうはちょっと変化があるのにもったいない!ということが多いんです。

    また、
    「首が痛いんですけど」
    草「本当に首ですか?」
    「はい、首が痛いです」
    草「どうも他に原因があるようにみえます」
    で、施術を進めていくと、やっぱり原因は腰だったり・・・
    「あれ〜?首じゃなかったんだぁ〜でも首も含めて全体的にからだが軽くなりました!」

    そんなことが多いので、
    患者さまのお話は「なんとなく」聞きつつ、患者さまのからだとお話するようにしています。
    からださんは正直にちゃんとお話してくれるのでありがたいです。
    実際には言葉を発しないからだのほうが、会話が進みます。

    そんなわけで、操体法の治療にいらっしゃる方は何も考えずにからだ一つで来ていただけると助かります。
    来週の東京操体フォーラムもからだひとつでお願いします。

    草階文恵

  • ステキな絵

    日下さんからしっかりとバトンを受け取りました。今回も楽しいお話でしたね。
    早速呼吸といろんなこと(←?)を見直します。
    一週間よろしくお願いします、草階(くさかい)です。
    そういえば数年前、イキオイだけでとんでもない発表をしちゃったな・・・と思いだしました。
    冷汗脇汗ダラダラです。
    そんなことを思い出しつつ東京操体フォーラムがあと一週間に迫りました。
    私は岡村実行委員長とのコンビで「みんなで側屈しよう!」を発表します。
    最高の側屈をしよう!ということで、数か月前から緻密な作戦(?)を練っています。
    みなさん、楽しみにしていてくださいね。

    先日、仕事のキャンセルで時間に余裕ができた時、友人から美術館に行かないか?とお誘いがありました。
    どちらかというと趣味はからだを激しく動かすことなので、美術館は積極的に行くほうではありません。
    知識も義務教育の義務の範囲です。
    ある作品に対して「私でも描ける」と言い放ち友人に小突かれたことがあります。
    しかしものすごく行きたいキブンにかられたのでお誘いに乗り、東京国立近代美術館に行ってきました。
    目的は展示中の『騎龍観音』です。

    画像よりもちろん迫力満点です。
    人が描いた絵なのになんだかパワーというか言葉で言い表せない何かを感じます。
    以前もふらりと入った美術館がちょうど河鍋暁斎展初日でした。
    牛若丸の立ち姿に芯を感じ鳥肌が立ったのを思い出します。
    そんな偶然の出会いに感謝しつつ、絵のもっているパワーを生かし今度の東京操体フォーラムに乗せていきたいと思います。

    草階文恵

  • 続タントラ

     日本においては、仏教の伝来とともに弘法大師空海によって密教が大成された。空海の開いた真言宗の中から、当時、民間信仰として根強い伝統を持っていた性器崇拝の傾向を巧みに捉え、性崇拝の教理を組織的につくりあげた立川流真言なる左道密教が発生したことは見逃せない事実である。すでに陰陽道と融合した真言宗はこれを男女に配合し、真言宗立川流曼荼羅によると、天に陰陽、神にイザナギイザナミ両みことの二神、人間には男女、仏に金(知)・胎(理)の両部が描かれている。真言宗の根本経典である『大日経』には、理知冥合して仏事を成すとあり、男女の交合は、理知の冥合にして、成仏の因をなし、これ当相即道の妙にして、余教を超越する大秘密なりと、唱えた。これはかなりの力をもって、民間に流布していった。立川流真言の「受法用心集」などを見ると、性的というよりは、妖風をおび、ドクロ(髑髏)本尊なるものを箱に納め、それに、男女交会和合の液を塗ること百二十回、毎夜、真夜中に反魂香なるものを焚いて、煙をあてるべし、そうして反魂真言を誦すること千べんに満ち、金銀の箔を捺し、曼荼羅を描き、錦の袋に納め、昼は仏壇に納めてお供物をし、夜は行者のそば近くにおいて、供養し、こうすること八年に達すれば、行者に悉地(真言宗の仏語、成就という意味で秘法を修してして成就すること)なるものを与える。そして上品に成就したる者には、この本尊が、声を出して、三世のことを告げ悟らせ、中品に成就した者は、夢中に一切のことを告げ、下品に成就した者は、夢うつつの内にお告げはないが、一切ののぞみ、心のごとく成就すべし。といったようなことが書かれている。
     即身成仏の秘法とは、つまり、両性交媾の修法と説き、男の僧は尼僧を求めて両者(男女)が密室において、いわゆる霊肉一致の修法を試みる。この修法を具体的に象徴する男女二神の抱擁・交接をいとなめる歓喜天が全国各所の密教寺に奉安されているのである。
     インドにおいては紀元前四世紀ごろに書かれた性典「カーマ・スートラ」なるものが存在する。恋愛結婚を支持し、婚前求愛の必要性を強く叫び、男女の行為こそ人間同士が昇華し合える極限の美しい姿だと断言している。現代の破綻する夫婦の殆どが、肉体的・精神的な不調や性的無知から起因していることを考えると、この「カーマ・スートラ」の持っている内容は恐ろしいほど近代的であるように思える。
     若い頃、あるタントラグループに参加した時の苦い体験のなかで教示を受けたことをもとに話を進めたい。どこかで見たことがあるかも知れないが、古い時代の錬金術の絵で、男と女が裸で三つの型の内側に立っているのがある。第一の型は四角、第二の型は正三角形で、第三の型は円である。これは、性行為のタントラ的分析であり、三つの可能性があるということだ。
    普通の状態では、性行為をしている時、そこには四人がいる。二人ではない。そしてこれが第一の四角なのである。四つの角がそこにある。なぜなら自分自身が二つに分けられている。思考している部分と感じている部分とに。相手もまた、二つに分けられている。だから四人いることになる。二人の人間がそこで出会っていない。四人の人間が出会っている。そこでは深い本当の出会いは在り得ない。そこには四つの角があり、出会いは、ただの偽りの行為である。出会っているかのように見えるが、そうではない。そこには共有がない。自身のより深い部分が隠されている。同じように相手のより深い部分もまた隠されているのだから。そして、ただ、二つの頭だけが出会っている。ただ二つの思考のプロセスが出会っている。それは二つの感覚のプロセスではない。それは隠されている。
     次に第二の型の出会いは、三角形に似る可能性がある。自身と相手は二個である。三角形の土台の二つの角である。突然の瞬間に二人はひとつになる。ちょうど三角の第三の角のようになる。これは四角の出会いより良い。なぜなら、少なくともほんの一瞬間でもそこに一体性がある。この一体性が健康と活力を与えてくれる。生き生きと感じ、再び新鮮になる。しかし、第三の型こそ最良のもの、この第三の型がタントリックな出会いである。二人は円になる。そこには角がない。そして出会いは一瞬のことではない。その出会いは実につかの間の出会いではない。そこには時間がない。そしてこのことは、男性が射精を求めれば、その時、それは三角の出会いになる。なぜなら射精がそこにある瞬間、接触点が失われるからである。最初の状態を保たなければならない。最後へと移動しないことである。どのようにして最初にとどまるのか。
     「性交の始まる時、最初の火に注意を深く保ち、そしてそれを続けて、最後の残り火は避けよ」とタントラは云っている。最初の行為を終わらせることを急がなければ、行為は次第にセクシャルでなくなり、さらにスピリチュアルになってゆく。これこそひとつの歓喜、宇宙意識である。そして、もし、これを知り得ることができれば、これを感じ、実感し得るなら、性意識は非性的になる。と、教えを受けたのであるが・・・・・・。
     そういえば数年前のフォーラムの発表で、草階女史が「操体とSEXの気持ちよさの類似」について論じておられたのを思い出すが、気持ちよさ、心地よさ、歓喜、昇天、オーガズム等は、みな二面性を持っているのではないだろうか。肉体原理としての気持ちよさがあり、精神原理としての気持ちよさがある。そしてそれらをつないでいる呼吸こそが鍵を握っているのではあるまいか。
     一週間にわたってお送りしました呼吸シリーズはこれで終了です。
     明日からは草階女史の登場です。よろしくおねがいします。

    日下和夫

  • タントラ

     タントラの話がでたところで、タントラ密教は私の生涯の研究でもあるので、タントラについてもう少し深く話してみたい。
     人間がまだ、未開人といわれ、野蛮な原始生活を送っていた時代には、男と女の関係は、お互いに本能的な性欲のおもむくままに自由に交わることができたと想像できる。その結果、生まれたる子供たちと、親たちの関係は、父と子の関係よりも、母と子の関係の方がはっきりしていたので、一人の母から生まれた子供たちはそれぞれ違った父を持つ兄弟姉妹の父が誰であるかわからなくとも、少なくとも母親は、その子供たちを自分の子と認めることはできたはずである。
     したがって子供たちは、確かな血のつながりの認められる母に属し、母を中心とした生活が営まれた。いわば一妻多夫の制度ともいうべきもので、そこに母系を中心とする家族社会が形作られたのも当然のことであった。
     未開時代の社会にあっては、なんといっても子供を持つ喜びは、その部落はもちろん、その種族にとっても、直接的な繁栄を意味していたから、出産は大いに喜ばれ祝福された。こういった意味からも母系中心の社会と、いわゆる「母権」との間には、思想的にも密接な関係が認められるばかりでなく、そこに母性を神と崇める「母神崇拝」の思想が生まれたのも当然のことである。
    そしてこの母神崇拝は、妊娠の原因が男女の交接作用からきていることをはっきりと知られるまでは、圧倒的な勢力を持っていた。特に、女性の生殖器そのものに人々は神秘的な神性を認めるようになり、そこからさらに、女陰を崇拝する思想が生まれてきた。しかし、人間は長い世代にわたって生活経験を積み、知恵が進むにつれて、ついに女性が妊娠するためには男性の生殖器もまた、なくてはならないものと悟ったのである。この新しい発見によって、それまでにひじょうな勢力を持っていた母神崇拝や女陰崇拝は、反動的に男根崇拝にその王座を奪われるようになった。
    ところがこの男根崇拝は長くは続かなかった。というのも、人はエネルギーを保存し、満ち足りた状態を感じ、充実感を覚え、そして肉感性の奔流が起こり、エネルギーはやがて一つの円にならなければならない。ところが男根は多量のエネルギーを漏出しなくてはならない。エネルギーが流れ出るには何か尖ったものが必要である。それゆえ男性性器は尖ったものなのである。ほとんどひとつのはけ口である。
    エネルギーが男性の内部に過剰になってどうすることもできなくなると、それを性的に放出する。性行為の中では、女性は決してどんなエネルギーも放出しない。だから女性は一夜のうちに多くの人々と愛を交わせる。が、男性には無理である。女性はもし、やり方さえ知っていればエネルギーを保存することさえできる。エネルギーを得ることさえできる。ゆえに女性性器は丸い形で表象されるのだ。
     そしてエネルギーというのは、頭から外へと放出されることはない。頭は生来丸い形に創られている。だから頭脳はどんなエネルギーも決して失わない。それはエネルギーを保存する。というのも、それは最も重要なからだの中枢機能だからである。それは保護されなくてはならない。だから丸い頭蓋によって保護されている。
     エネルギーは丸いものから漏出することはありえない。だからこそあらゆる惑星、太陽、月、星は、すべて丸い形をしているのである。そうでないとしたら、エネルギーを漏出し、消滅してしまう。
     やがて、女陰崇拝と男根崇拝は、このエネルギーの流れと保存という一体性のもとに性神的な性格にまで昇化され、タントラ密教の秘儀が出来上がっていったのである。
     日本では、俗に「歓喜天」または、「聖天様」と呼ばれている「大聖歓喜自在天」が平成の今日までなお、相当の民間信仰を得ているが、この天部(神格をもったもの)と呼ばれている神の経歴や素性といったものを説明してみたいと思う。
    この歓喜天というものの源流は、インドのバラモン教のなかの一神格であった「ガネーシャ神」にその端を発している。バラモン教や後のヒンズー教の三大神といわれるのはブラフマン神、シヴァ神、ビシュヌ神だが、このうち、ブラフマンは万物を支配し、創造する威力をもち、シヴァは破壊力、ビシュヌは物を維持する。この三大神のなかのシヴァ神とその妻のパールバーティー女神とのあいだに生れたのが、ガネーシャとスカンダーの二神であった。そして、シヴァ神の信仰は、インドで一番古い聖典といわれているリグヴェーダー以前に、菩提樹の崇拝や生殖器の崇拝とともに存在していた。シヴァ神は、破壊の神だが、インドの数論哲学においては、物の絶対的消滅という思想は存在しないという考えから、破壊というのは、つまり建設を意味していることになり、したがってシヴァ神は、再生力を持っている神として、リンガ(男根)をもって、その表象とされることになった。
     そしてさらに、リンガにヨーニ(女陰)を添えて祀ることも行われるようになった。現在、インドでは毎年十月末、若しくは十一月初めの新月の夜には、カーリー祭りというものが盛大に行われている。このカーリー祭では、シヴァ神の妻であるパールバーティーの化身である黒色の女神カーリーを祀り、たくさんの山羊がお供物として犠牲になる。そして、この夜はいろいろな性的な行為が繰り広げられるのである。
     これに類したお祭りは、あえてインドばかりとは限らない。日本の各地でも散見される習俗だったのである。
    明日につづく