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  • 呼吸と感覚

     ドラッグから出発したものの、やはり「呼吸」にたどり着いてしまった。

     心はあらゆるものを通して、音声、言葉、意味を通してさえ微妙な食物を摂り入れていることになる。たとえば性欲を感じている時、性的幻想に憑かれている時に意味を持たない音声、たとえば鼻で力強く息を出して「フゥン! 」と発してみる。まもなくSEXを超越したのが感じ取れる。なぜなら発散されたのだ。あるとても微細なものが呼気とともに発散されたのである。
     怒りを感じた時も、この音声「フゥン! 」を活用してみると、まもなく怒りは消え去ってしまう。また、性欲を感じていて、この同じ音声を吸気とともに鼻で「フゥーン! 」と息を吸えば、なおさら性欲を感じることになる。また、怒りを感じている時、この同じ音声「フゥーン! 」を吸気時に発したなら、なおさら怒りでつのってしまう。そうしたとき、ひとつの単純な音声でさえ、いかに自分の心に影響を及ぼすか、また、吸気と呼気とでは、それがいかに異なった効果を心にもたらすかということに気づく。
     美しい愛情深い人、あるいは恋人に会って、相手のからだに触れたいと思ったら、呼気とともに相手のからだに触れてみる。 ― 何も感じない。今度は吸気のときに相手のからだに触れてみる。 ― たちまち魅せられてしまう。吸気のときの接触は一種の食物になるのだが、呼気のときではまったく食物にはならない。
    両手で誰かの手をとり、吸気のときだけその手を感じとってみる。呼気のときはからっぽにすること。そうすれば触れ合いは食物だということがわかる。 
     母子の関係で言うと、母親なしで育てられた子供や、母親がいたとしても触ってもらったり、愛撫してもらったことのない子供には、何か足りないものがある。母親に触られ、愛撫され、抱きしめられたりしたことがない子供は、けっして誰も愛せない。母親の微妙な接触は子供にとってもっとも必要とされる食物である。母親の接触によって子供の中に色々なものが生み出される。母親のように愛情を持って触れてくれる人がいないと、その子供はだれも愛せなくなる。何か肝心なものが欠けているということを知らないで育つことになるからだ。
     そして、呼気の感覚に注意してみる。そうすれば息の秘密、どうしてそれがプラーナ(生命素)と呼ばれてきたのかというその理由に気づく。息は生命にかかわる最も重要なものであるということがわかる。
     呼気に力を入れて食事をすると、その食物がどんなにおいしくても、からだの滋養にはならない。たくさん食べたところで、呼気に力点があったら、まったく栄養にならない。だから吸気のときに食べること。そして呼気のときには特に隙間をおくことである。そうすればほんの少ししか食べなくても心配ない。なぜなら、このように呼気に力点がなく、隙間をおいて吸気とともに食事を摂るなら、錬金作用がはたらくからである。神経質に栄養のバランスなど気にかけなくても済むのだ。栄養不良になりはしないかといった心配は、えせカロリー栄養学思想にたぶらかされた迷信である。
     ヨーガでは、食事直後の胃の内容は食物が半分、水四分の一、すき間四分の一になっているべきだという。腹八分目という名言があるように、飢餓感が止む程度に食事をひかえておくのが理想的であり、満腹感を覚えるのは食べすぎの危険信号と心得るべきである。

  • 眠りと目覚めと呼吸

     ドラッグと瞑想から眠りへ、そして目覚めから呼吸へとつづく。

    眠りと目覚めは、有機生命体の呼吸であり、そして時間も呼吸である。人間と同一の単位で計れるすべての有機体、植物も含め人間と類似した条件下で生きているあらゆる有機体にとっては、一日の時間はすべて二十四時間になる。
     植物は眠っている時には、つまり夜には息を吐き、起きている時、つまり昼間は息を吸うから、人間と同様すべての哺乳動物にとっても夜と昼、つまり眠っている時と起きている時では、酸素と二酸化炭素の吸収には相違がある。したがって眠りと目覚めは確かに呼吸であるということがわかる。人間以外の有機生命体はとりわけ植物については、一回の呼吸に要する時間は二十四時間であると理解できる。
    普通の状態にある人間は平均で一分間に二十回の吸気と呼気という呼吸をしている。だから一回の呼吸は、六十秒を二十回で割ると三秒ということになる。このように推測しながら呼吸の周期と眠りと目覚めの周期を考えてみると、二十四時間を三秒で割ると、一日に二万八千八百回の呼吸をすることになる。
    次に昼と夜で一日、二万八千八百回の呼吸を一年の三百六十五日で割ると、きちんと割り切れないが、だいたい七十九年になる。この七十九年は人間の生命を表しているのだが、これは七十九年の眠りと目覚めを形成している。

    人間の寿命は、健康に一生を過ごしてきてもせいぜい八十年がいいところ。長息は長生きに通ずるというが、呼吸の回数が一般人よりも多いスポーツ実践者が短命なのはこんなところに原因があるのかも知れない。我々がそれぞれもっている時間は呼吸で決まってくるといっても過言ではない。

    人の一生の「眠りと目覚め」について、一休和尚の詩が脳裏をよぎる。
    『人の世は 喰うて 糞して 寝て起きて さて そのあとは 死ぬばかりぞよ』
    今日、一日をこの詩に瞑想してみる。

  • 眠りへの瞑想

     昨日に続いてもうひとつ、瞑想の話題を。

    もう、ずいぶん前になるが、ある瞑想の手ほどきを受けたことがある。それは意識して眠りに入るというものだった。毎日眠ってはいるが、まだ眠りに遭遇したことはない。眠りを見届けたことなど一度もない。眠りが何であり、それがどのようにして訪れ、その中にどのようにして落ちてゆくのか、それについては何も知らないのが我々である。
     毎夜眠りに就くとき、眠りが訪れているということや、それが訪れたときにも、覚めたままでいなければならないということを、絶対に憶えておくという瞑想であった。この練習はとても骨が折れる。眠りが訪れているということ、そして目覚めていることなしには、眠りがやってくるのを許さないということを片時も忘れずに毎日続けていくのだ。眠りがどのようにして支配的になるのか、眠りとは何なのかということを感じ取るようにするのである。
     この瞑想を続けていくと、ある日、眠りが訪れても依然として目覚めているようになるという。そしてこの瞬間こそ自分の無意識に気づく瞬間であり、夢が不可能となる。ひとたび無意識に気づいたら、もう二度と無意識ではいられない。眠りはそこにあるのだが目覚めている。このような無意識との遭遇から異質の現象が起こるのだと教わった。
     こんな瞑想を三カ月も続けただろうか。しかし、眠りが訪れるその瞬間に気づくことはなかった。いつのまにか眠りに入り、夢の中で眠りに遭遇し、その夢から覚めて、ああっ! 夢だったのかと、落胆する私であった。

     そんなことがあってから長い年月が流れた先週のことである。午前中に来訪された五十代の患者S氏へ渦状波を試みたところ、イビキ音が聞こえてきたところで、話しかけてみた。「今、眠っているようですね」、「ええ、そうみたいです」、はは〜ん、これが『意識飛びの現象』か?・・・・ひょっとして、と思い、さらに問いかけてみた「眠りに入る時はどんな感じでしたか」、「意識が遠のいて・・・・それを意識している自分がいて・・・・」と、S氏。
    な、なんということだろう。 眠りが訪れている時に意識があるということ、そして眠りに入っているのを自覚している。このビジョンは私が求めていたものにきわめてちかい。これが即、無意識との遭遇とは云えないまでも、少なくともその入口に立っている。そう思ってもかけ離れた考えとは言えないだろう。
    この出来事によって、皮膚への問いかけというものが「眠りへの瞑想」という扉を開けてくれたような気がする。皮膚にはきっとすごい秘密があるに違いない。

  • 理性を超越した瞑想

    昨日に続いて、「瞑想」の話題で。
    グルジェフという名をどこかで聞いたことがあると思う。二十世紀前半に活動していたロシア人神秘思想家のことである。1920年代の彼は、パリ郊外のプリオーレにおいて『人間の調和的発展研究所』なるスクールを主管していた。
    グルジェフはそのスクールにおける修行グループに巧妙かつ非合理的な方法で、求道者にはたらきかけるという実験を試みていた。彼は求道者たちのグループと一緒に、ある特定の非合理的方法を使って修行をしていたのであるが、彼はよくそれを「停止訓練」と呼んでいた。彼は突然、「止まれ! 」と叫ぶ。そうしたら誰もがそのままの状態で止まらなければならない。目があいていたら、あいたまま。口があいていたら、それもあいたまま。何か言おうとしていた矢先だったとしても微動だにしないこと! この瞑想にはテクニックというものがない。ただストップするだけ! このような約束を守ることがこの訓練の参加条件である。
    この方法は体から始まる。体にどんな動きもなければ、心にも動きがなくなる。それらは関連し合っている。何か心の内なる動きがなければ、体を動かすことなどできない。体と心は二つのものではない。それは一つのエネルギーである。そのエネルギーは、心のなかより体のなかでのほうが濃い。その密度や波長は違っているが、同じ波長、同じエネルギーなのである。
    求道者たちは、この停止訓練を一ヶ月間、間断なく練習していた。ある日のこと、グルジェフは自分のテントの中にいた。折しも三人の求道者たちが、その敷地内にあった乾いた運河を通っていた。それは水のない運河。一滴の水もそこを流れてはいなかった。と、突然、テントの中からグルジェフが叫んだ。「止まれ! 」運河の堤の上にいた人たちはみな止まった。運河の中にいたその三人も止まった。しかし、水がなかったから問題はなかった。と、突然、水があふれ出した。誰かが水門を開け、運河に水があふれだしたのだった。グルジェフが誰かに指示して水門を開けさせたのであろう。
    水位が増して、その水が三人の首のところまできたとき、一人が運河から跳び出した。「グルジェフは何が起こっているのか知らないのだ。彼はテントの中にいて、水が運河の中に入ってきたということに気づいていないのだ」こう思いながら運河から跳び出したのである。その男は考えた。「俺は飛びださなければいけない。もうここにいるのは馬鹿げている」そして彼は跳び出したのだった。
    ついに、水は彼らの鼻まで達した。と、二番目の男はこう考えた「これが限界だ! 俺はここに死ぬために来たのではない。永遠の生命を知るために来ている。この生命を失うためなんかじゃない! 」そして、彼は運河を跳び出した。
    三番目の男はとどまった。同じ問題が彼を襲ったが、彼はとどまる決心をした。というのも、グレジェフは「これは非合理的な訓練だ。理性でこれをやろうものなら、ことの全体はぶち壊しだ」と言っていたからだ。彼はこう思った。「オーケー。彼は死を受け入れよう・・・・この訓練だけはやめるわけにはいかない」かくして、彼はそこにとどまった。いまや、水が彼の頭の上を流れていた。と、グルジェフはテントから跳び出して、運河に跳びこんだ。そして彼を救いだした。その男はいましも死の淵にのぞんでいた。しかし、生き返った時、彼は変身していた。彼はもはや、そこに立って訓練していた同じ男ではなかった。彼はすっかり変身していた。彼は何かを知った。彼は跳躍をとげたのである。これが瞑想という行為の何たるかだ。
    もうこれで限界だというものなどどこにもない。理性と道連れのままだったら、我々は見失しなうかもしれない。ときには、自分を彼方へと導いてゆく一歩を突然踏み出さなければならない。その一歩が変身につながるのではないだろうか。これは禅の手法にも似た超越である。まさに無努力の努力というものだ。超越した時には、理性に還るかもしれないが、すでに変身している。もう同じ人間ではない。ものごとを理性的に論じることすらできるであろうが、理性は超えている。
    操体求道者である我々にとっても然るべき時において、この跳躍という理性からのジャンプが同じようにあてはまるのではないだろうか。

  • ドラッグと瞑想

    バトン受け取りました。今週は日下が担当します。
    近頃、世間をお騒がせしている旬な話題『覚せい剤』について、触れてみたい。

    ヨーガはアシッド(LSD)を使っている。タントラも使っている。インドではLSDを瞑想の一助として用いているヨーガやタントラのアシュラム(道場)は確かに存在する。実を言うと、化学薬品を使っても、さとり(覚醒)は可能である。メスカリン、LSD、マリファナ(大麻)を通して可能になる。なぜなら化学変化を通じて、心が一瞥できるほどに拡張するからである。人間の身体は結局のところ化学的に構成されている。身心は化学的な単一体であるからこそ化学作用を通してでも一瞥できるのだ。
    しかし、LSDを使用するには、まず、からだの準備を整えるという、からだの浄化のための長い過程が必要になる。からだが完全に浄化されなければならない。からだが完全に浄化されることによって自分のからだの完全なるマスターとなれる。自分のからだの完全なるマスターとなれば、LSDの化学作用でもからだを支配することはできない。
    ヨーガやタントラはLSDを認めてはいるが、非常に特殊な場合に限られている。この特殊な場合とは科学的にからだが浄化されて、化学質でさえ制御できるようになるということである。こういった行法を納めているヨーギー(行者)は、たとえコブラ(毒蛇)に噛まれても、血液がその毒と混ざらないように調整することができる。その毒は血液とまったく混合せずにからだの中を通過して、尿になって排出される。このようなからだの制御力ができればLSDを使うことが許される。
    からだの化学質を制御できるようになっていないと、実に危険なものになる。タバコやアルコールでさえ放棄するのが難しい。ましてLSDを使うとなると、もっと放棄するのが難しくなるのは当然のこと。
    LSDのトリップに入ると、同時に自制心を失ってしまう。化学物質が制御権をにぎってしまって、自分の居場所がなくなってしまう。もう自分のからだの主人ではなくなるということだ。ひとたび、その座を失うと、ふたたび、その座を得るのは至難の業である。からだはLSDを強く求める。その渇望は何ものにも優先する。その渇望はからだの一部となり、LSDはからだの細胞にまで浸透してゆく。体内の化学構造に変化が生じて全身の細胞がLSDを欲しがるようになってくると、もうそれを落とすのは非常に困難になる。LSDが瞑想に導くために使えるのは、からだにそのための用意ができている場合だけに限られるのである。
    また、左道のタントラでは、アルコールを瞑想の助けとして使う。この修行者は特定量のアルコールを飲んで、油断なく醒めていなければならない。意識は失われてはならない。アルコールの量の増加とともに意識は依然として醒めたままでいなければならないのである。からだの中にアルコールが吸収されても、意識は失われてはいけない。そしてアルコール量はさらに上がってゆく。これを練習してゆくと、どれだけの量のアルコールを与えられても意識は油断なく醒めていられるようになる。その時点にまで達すると、はじめてLSDが助けとなって使えるのだ。
    このようにからだの浄化する訓練もなければ意識を醒めたまま増大させるような訓練もなく、どんな準備もないままLSDを摂るのは自己破壊以外の何ものでもない。そして、瞑想の用意を整えるために、からだを準備するにはあまりにも多くの時間がかかるので延命法を開発しなければならなかった。これがハタ・ヨーガとして誕生し、現在では主に健康目的に利用されている。
    何でも始めることはたやすいが、終わらせることは難しい。その時には自分のからだの主人ではなくなっているということを心得ておかなければならない。決して危ない道には入ってゆかないことである。一歩も踏み込まないのが一番いい。

  • メッセージを受け取るのは・・・

    湘南に朝がやっってまいりました!皆様おはようございます。
    気持ちが良い朝です、日々心して使わせて頂いた一週間の朝でした。

    皆様の朝も、日々気持ちが良い目覚めでありますように!!

    〜今週の夢日記より〜

    『・・・ある星があった。
     かすかな光しか持たないために、誰にも知られず、孤独なのであるが、
     太陽の光を借りて、成長は続いており、
     少しずつ脱皮しながら、変化していた。
     その変化は理由があった。
     それは、何かしら役に立ちたい、という願望のなせる力であり、
     そのためには、タフであり続けることが、できたのである。

     その星の名は、
     今では立派な名前が出来て、多くの生物に愛されている。
     ・・・”地球”というのだ・・・』

    いわゆるまどろみの中、夢精に近い状態での頭が書き留めた僕の妄想です(笑)
    点と線そして面へ、立体へと繋がっていけば・・・更なる展開(四次元?)が待っているのでしょうか?
    降りてきて羽はなくなったけれど、いずれ天空と星空の守り人になってみたいものです。

    ”クーソー(空想)はアタマのコヤシです”

    意識して磨き上げれば、”紙一重まで”バランス現象はあると思いますし、
    それさえ意識できれば、捨ててしまうのも拾うのも許されているのは“ヒト”でもあります。

    アインシュタインも、
    「科学者の栄光は自分の立てた仮説が、後からやってくる、
     より包括的な理論の中の一部分に妥当する理説として生き残ることだ」・・・といっております。

    仮説を立てて、まず検証してみる。
    例えば、
    よく聞くのが、「何となくOO」とか、「生理的にOO」という言葉。
    一体どうしてそんなことがわかるのだろう、一体どこで感じているのだろう?

    何気なくそんなことを女性スタッフに聞いてみると、
    ”即答”で、「やっぱり皮膚じゃないですか?」と、教えてくれた。

    “勘”、“思いつき”、“インスピレーション”、
    “何となく”、“虫のしらせ”、“胸騒ぎ”
    “偶然”、“夢”、“天の声”、・・・・。

    何となく気になってしまうことや、心に引っかかること。
    単純に予感なんだけど確信に近い感じ・・・。
    そんなことって、無駄なことではない筈なのです。
    やはり、”からだ”が教えてくれる大事なメッセージでしょうネ。

    ある日の三軒茶屋レッスンの帰り道でも、
    「ハッと何か閃くことがあるだろう?」
    「そんなときは“立ち止まって”メモを取り出すんだよ」
    「そのまま後で思い出したら書けばいいや・・・なんて思っていると忘れちゃうんだよ」
    と、教えてくれました。

    先日の経験ですが、
    自転車で江ノ島まで走りながら、自分の発表テーマについて考えていまして、
    しかも、言葉に出して話していたら、(要するに独り言です)
    自分でも惚れちゃうくらいに素敵なメッセージをしゃべっていたんですよ!
    それで、
    帰ってから書きとめよう!ムフフ〜な〜んて思っていたら・・・ほとんど綺麗さっぱり!
    忘却の彼方へと旅立ってしまったのでした(涙)
    そういえば、
    DNAの発見も夢に現れた螺旋図が、元になったらしいですからね(へェ〜へェ〜)

    大いなる夢を抱く。抱いた夢を夢で終わらせない。
    そのためにも妥協してはいけないことがある。

    有り難いことに”師”は、
    先人として常に前を見つめ、ひたむきに歩み続けてヒントをくれる。
    そして操体を通じ、輝かしい希望を抱かせてくれるのです。

    僕たちも、この「Message from “KAI”」に適うように、
    それぞれに真摯に受け止めようではありませんか。
    そしてそれは、
    ”自分自身のため”でありながら、”自分自身を超えていく”ことでしょう・・・。

    三浦寛著 たにぐち書店刊 「快からのメッセージ」247〜248Pより抜粋>

    「〜前略〜 
     私は十数年前に『魚の命は水にある』という名訓を知りました。
     自分の ”イノチというもの”は、
     このイノチを ”生かしてくれているそのものの存在”にあるのだと言う意味です。
     
     このイノチを生かしてくれるという大存在とは、この ”宇宙という生命”であり、
     イノチそのものが ”私のイノチを生かしてくれているそのものの存在”であるという認識に立つこと、
     そして、『報いの生命観』から『救いの生命観』に目覚めることが必要になってくるのです。
      
     最後に、操体のいきつくところは ”心の調和、心の制御のあり方”だと思います。

     それは医学の進むべき道とも言えるでしょうが、
     今の治療医学では現実の問題として対処しきれない数々の問題をかかえこんでいます。
     
     たとえば延命治療としての医学は限界があります。
     死にゆく人に対しての心の医学、甘く眠る、 ”ねむるがごとき死を迎えられる”ような甘瞑の医学、
     ”人の生死観をとおした人間学”が問われる時代に入っているのです。

     ヒトは死のキャリアをもって生まれてきます。
     医学も、医者も、この死という発症(キャリア)を止めることは出来ないのですから。
     
     しかし、操体では ”肉体の死を死としてとらえていない”のです。
     帰一の法則としてとらえているのです。

     帰一とは、命あるものは ”無条件の愛”から生まれ、そして、その神性に帰って行くことなのです。
     ヒトは ”一番気持ちがいいところ”から生まれ、
     そして、”一番気持ちがいいところ”に帰っていくのです。
     
     これが ”帰一の法則”です」・・・と教えてくれました。

     (注:失礼ながら文章に、岡村が ””を入れさせて頂きました。以下の文章も同様です)

     そしてあの、宮沢賢治氏も、

    「世界が ”ぜんたい幸福”にならないうちは、個人の幸福はありえない。

     自我の意識は、”個人”から”集団社会”、”宇宙”と次第に進化する。

     この方法は、古い聖者の踏み、教えた道ではないか」・・・と書かれています。

    ”自然法則”を説いて下さっている先輩方の、含蓄ある経験に基づく言葉にゾクゾクしませんか?

    シビれませんか!?思わずイッチャイそうです!(何が?ってアレです)
    江ノ島近辺でクラゲに刺されたことよりも(笑)、ず〜っと疼きますし痺れますネ!!

    それでは今日はこのあたりで後始末(何の?)をしたいと思います。
    皆様のこれからの人生も、なにかに痺れていますように!!

    この一週間、ある意味勧誘よりしつこい(笑)しかも長い文章ばっかりの(爆)
    ”マジックリン”岡村にお付き合い頂きまして、
    本当〜にありがとうございました!

    そしてバトンは、誰が呼んだかフォーラムの ”静かなる熱き漢”こと、
    次週から登場の甲斐田実行委員デス!!
    皆様が楽しみにしている続き・・・も、どうか宜しくお願いいたしますゥ!

  • いつまでも尊厳ある人生へ

    皆様おはようございます。今日も天気の良い湘南から6日目をお送りいたします。

    昨日私がお休みでしたので、夏休み最後に家族全員で海遊びに行って来ました。
    そよぐ潮風にあたりながら行う、”般若身経”は何とも言えず気分が良いですネ。

    9歳と7歳になる娘達は、
    巻き貝(タニシみたいな)・蟹(沢ガニみたいな)・小魚(シラスみたいな)ものから、
    クラゲまで捕ってきてバケツ一杯になるまで誇らしげに見せてくれるのですが、
    2歳の息子はそれらの生き物を棒でつつき回しています。
    なんだか縄文時代のDNAなのかもしれないナ・・・と潜在的逞しさを感じさせてくれました。

    自然に親しむのはやはり良いですね。
    カラダになにかの、スイッチが入るのを感じます。
    勿論、”仙人”ともなればどこにいても同じなのかもしれません・・・(三軒茶屋に行くとそう思います)

    と言うのも、”不自然な自分”に何となく憤りを感じながら、
    僕自身、ここしばらくの間、何かが気持ちが悪い状態に陥っておりました。
    それが先週、
    急激に何か”スコン”と落ちたように、ストレスとスランプが音を立てて同時に頭の中が抜けおちたのです!

    種を明かせば、
    ”あるコメント”を三浦寛理事長から頂いて抜けられたのですが、
    それを解消する過程においてのヒントにしているのが、今週のブログ内容なんです。

    僕のスランプは、目の前で起こっている現実を素直に受け入れることが出来ず、
    ある部分(自分にとって都合がよい)は受け入れていながら、ある部分(都合が悪いこと)は拒絶していたんですから。

    要するにアレは良いけれどこれは・・なんて考えないで、
    「やりたいことを見つけるのに、一番良い方法は、やりたくないことを考えていくこと」でもあるんですね・・・。

    このような環境を生み出してくださっている”神チャマ”に感謝します。

    真剣に問いかけ続ける良き師匠に恵まれて、
    素晴らしい学び仲間と共に頭をぶつけて励まし合う事が出来る。
    一人で考えていたら十年先・・・イヤ、二十年先になっても気がつかないような、そんな自然法則に出会うチャンスを頂いている。
    ご先祖様のお導きもあるでしょうし、遺伝子の働きによって行われていることなのかもしれませんが、いずれにしても有り難いことです。

    そして、
    出会いのチャンスと言えば、(女性との出会いに夢中になったりはしませんヨ)
    中谷実行委員に紹介して頂いて、ある研究会に参加させて頂くようになりました。
    このチャンスよって、操体の”動”の基本である”身体運動の法則”をより実践しながら体感し、
    裏と表の立場から、かえって結びつきを理解できてくるのではないかと”ヤジウマ”させて頂いています。

    「アンテナが敏感で良いですね〜」と話をしていたら、
    「フフフ、昔は三拍子そろってましたから・・・」と、謎の微笑みを浮かべる、
    陰のオフィサーこと中谷実行委員。

    秋のフォーラムでは、トンチとパンチの効いた?発表内容で私たちをノックアウト!してくれるに違いありません!?
    嗚呼!本当に11月が待ち遠しくなってきましたね〜。
    (詳しくはこのホームページ上にて今すぐチェック!!)

    さてここからは(長くてすみません)、本日のメニューにお付き合いください。

    今の時代、自宅で亡くなるというのは難しい。
    ほとんどの場合、病院で死を迎えることになるんですが、本当は自分が住み慣れた家で最後を迎えたい筈です。
    そう思っても現実的には、死の瞬間を選ぶことはできないのでしょうか?

    僕の祖父は亡くなる最後まで「郁生〜爺さんはね、家に帰りたいんだよゥ」と話していました。
    そして実際に家に帰っては(二人暮らし)、また入院を繰り返しておりました。
    その理由は、祖父の場合にはモルヒネの誤・乱用でした。
    末期ガンの痛みを取るのに処方箋以上の分量を用いたらしく、いわゆる幻覚症状や、
    興奮作用によって危ないヒトになってしまうのです。
    「もっとくれ!まだ痛いんだからもっとくれたらもっと楽になるだろう!もっとくれ!〜」と、
    家人が止めるのも聞かずになのです。

    ”痛み”というのは、
    かなり医療の分野においても研究が進んできております。(需要が高いからでしょう)
    そして、解明されつつある部分の中で、
    かなりの部分が”本人の情動”にも関与しているとわかってきました。

    つまり、
    自らが作り出している”現象”としての”痛み”の側面が解明されてきたというわけですね。
    しかしながら、
    痛みの緩和に対して、今でこそ”情動面のアプローチ”が有効であり、かつ重要とわかったとしても、
    では実際にどうアプローチするのが良いのか?
    ここまで細分化されてきた医療システム全体として、現時点では未だホスピスや、医療の現場において”十分な対応”が出来ているのでしょうか?
    (勿論、それを可能としている先進的取り組みもあると思いますが、十分とは言えないでしょう)

    その為にも、
    医療という枠組みを超えていく大きなチャンスが、すぐそこに待ち構えている筈です。
    そして、
    これからの医療を見つめるのに”皮膚”は非常に重要なキーワードになってくるのではないでしょうか?
    だからこそ私達も、希望をもって学び続けていきたいですね。

    わかっている時点でお話しさせて頂ければ、要するにこういう事もあるのです!

    ”外からの刺激”では限界を生じてしまう。
    だからこそ、”刺激にならない”ことを、大事にしていく。

    ”刺激”では、ヒトを・・・イノチそのものを、本当に納得させることは困難です。

    この問いかけに、
    個人的にも、祖父が身をもって体験してくれたことにも、絶対に答えを出していけるように!!
    学びの機会を頂いているんだから!せっかく頂いたことに責任を持ちたい。
    (僕は決してあきらめないからね。決して!妥協しないからね、ありがとう!)
    学んでさえいれば、何一つ無駄なものはない。
    経験させてもらえること、その意味を学びのプロセスのなか、考えていくこと。

    また、ある患者さんから聞いている話のなかで、
    医師から五回も「危篤です」と言われて、脳死と言われて「ご臨終です」といわれたのに、
    また復活?された方のお話をつい最近、お聞きしたのです。

    それが本当に不思議なんですが、
    ”十年間寝たきり”で四肢麻痺、胃瘻で人工呼吸器を通しているような状態だったらしいのですが、
    頭、つまり意識だけははっきりしており、亡くなられるまでお話も全く普通に出来たらしいのです。

    危篤から戻るたびにその方は、
    「弟が(先に亡くなっている)忙しいから兄貴も手伝いに来てくれよって言うんだ」
    「飼い犬も俺の近くまで来てくれて、花が咲いて本当にキレイなところに居たんだ」
    「でも、こっちでオンオン泣く声が聞こえていて孫のことも気になるからまだ行かない
     そう弟に言ってやると、気がついたら戻っているんだよ」
      ・・・なんてことを”淡々”と(さも当然のように)話すのだそうです。

    脳死と診断され息を吹き返した時は、
    完全に脳波や自発呼吸、瞳孔反射も消失していながら、霊安室に運ばれていく途中で、
    そのお話をしてくれた方が(義理の姉にあたる)
    「OOさんもいい人生だったよね〜みんな子供はしっかり家庭を持っているし、
     本当に”孫も可愛い”よね〜いい人生だったよね〜」と、話しかけていたところ、
    急に目玉がキョロキョロと閉眼したまま動きだし、
    本人も奥さんもビックリして担当医に伝えたところ、「そんなバカな・・・」と、
    脳波と脈波をチェックしたら、またもや波形が戻ってきて、生き返った?そうです。
    そして本人曰く、
    「いや〜弟がまた来ていたんだけど、急にどこかから孫のことが頭に入ってきてねェ、
     こりゃまだ行かん!と弟に言ってきたのさ」と、話していたのだそうです。

    ウ〜ン・・・脳死に関する法案が国会を通り、臓器移植がこれから始まる世の中になっているわけですが、
    こんなことを聞いてしまうと、考えてしましまいます・・・・ね。
    その方曰く、「ヒトは結局”自分の意志”でどうにでもなる部分が大きいのよね」とのことでした。

    であるならば・・・やはり(チョット強引な結びつけ?)、

    自分の”からだ”とは、最高によく出来ている”良いからだ”を頂いたのだ!と、
    常に、自分自身が本気で信じていたほうが勿論、ハッピーですね。

    生まれた後の”後付け”の病名や、一時の経過にすぎない疾患に固執したり、
    自らの心まで囚われたりしない。
    人に言われたガッカリすることよりも、まず自分自身が”からだ”を信じていける幸せ。
    これを本気で、”サラッと”当たり前に伝えられる、
    実際に具現化出来る・・・ような臨床家であり続けたいものです。

    それから、私のアンテナに引っかかった本ですが、奄美大島のルポを朝日新聞の記者が書いています。

    「揺れる奄美、その光と影」 〜稲野慎著〜南方新社

    ヒトが生きているとはどういうことなのか?をダイレクトに問う内容でした。
    そして、
    書き手の体験した言葉から、浮き出るような感覚としての波動となって僕の”ジェミニィ”に訴えてくる。

    ***『人とのつながりをイメージすることは、人々の心を安定させ、
           同時に自らの存在に感謝するという仕掛けになっている』***

    奄美大島では現在も、自宅で死を迎えるのだそうです。
    この島民には当然であって、入院している患者は、死期が近づくことを自分で悟るそうです。

    「アンマ(=お母さん)ありがとう」と、認知症の方であっても、そう言って亡くなる人が多く、
    ほとんどは穏やかに、病院から自宅に帰って、普段の生活に馴染むまでの間を家族とともに慈しむようです。

    それは“がん”患者も同様で、
    自分で死の時期を悟ることで退院して、自宅でほぼ二週間で亡くなる。
    だから、病院にあって当たり前である霊安室はないらしい。

    そしてとにかく最期には、「ありがとう」という美しい言霊を放って旅立っていく。

    そのような環境にあっては、若く元気な方でも死を恐れてはおらず、“死とは永遠の里帰り”と考えているという。

    そう言えば、
    橋本敬三師も、亡くなる前に「祖先の里へ帰ります」とお話していたといいます。

    以前フォーラムの次の日に開催された三軒茶屋ライブにて、今顧問からお聞きした話では確かこんな感じ・・・でした。

    今センセ「センセーあの世ってどんなところなんでしょうね〜」

    翁先生「それは、気持ちがいいところだぞ〜」

    今センセ「どうしてなんですか〜?」

    翁先生「だってそれはみんなが行くところなんだから、気持ちがいいところに決まってるさ〜」

    それを聞いた今先生は、はっきりと言ってくれた翁先生の言葉にありがたくなってきて、とってもいい気分になったんですよ〜。
    ・・・という内容であったと記憶しております。

    ちょっと話題の方向転換させて頂いて振り返り、自分自身に更に問う。

    どうして自分のコトもわからないのに、相手のコトを知ったりわかったり出来るのか?

    肌を通じて、同じ空気を吸って、同じ食物を摂っているはずのイノチ、
    本当は常にそばにいて、気持ちも体温も通っている環境にいるイノチ同士なのに、
    何故、それほどまでに距離を隔ててしまうのだろうか・・・。

    例えば、
    ヒトを人種や性別、様々なことで区別することはためらっているのに、
    何故、病気は病名はヒトを区別するためにあるのでしょうか。

    それほどまでに区別して、一体最期には・・・何が待っているのでしょう。

    人を想う心の現れが、自分と他者を繋いでいく絆となるように、
    自分自身が生まれてくることの出来たこの環境で、“想い”を具現化していく。

    このニッポンという東の果て、社会の礎に結びついているのを大事にしたい。
    そんな想いに、生かされてみたいのでした。

    この世界の創造したという、“神ちゃま”にお願いしたいこと。

    「お願い致します、まだまだ勉強させて下さい!」

    だって、一生楽しめるんだからな〜・・・、ですよね!橋本敬三先生。

    それでは今日も長々とお付き合い頂きまして、ありがとうございました。
    今日も一日、お元気でッ!いってらっしゃい!!

  • ききわけられること、救われていること

    皆様おはようございます。

    岡村がお送りするブログもお陰様で五日目を折り返しました。
    もう少しお付き合い下さいますようお願い致します。
    こうして”書く事”で、普段から自分が何を考えているのか・・・を、
    客観的かつ、冷静に見つめたりしますから有り難く思います。
    まさに、
    橋本敬三師、そして三浦理事長が先人として、私たちに向けて伝えているメッセージにはウソが無いのですね。
    (ウソか本当か、とにかく試してから、物事を確認するにはそれが一番納得できると言うことです)

    さて、
    昨日のブログで、三木成夫氏の「遠の記憶」を取り上げましたので、
    その一部から抜粋して補足致します。

    「体細胞が(植物)が、地球からいわば一個の衛星として分かれた遠い過去の物語を、
     そのDNA載らせん現象がひとつの『生命記憶』としてこれを受け継いでいることを
     意味するものであろう」

    「(動物も)同じ生体の細胞である以上、そこには上述の植物に見られるような
     『遠』の”記憶”がなければならない」
                                 〜三木成夫

    ここで三木氏が言っている、『遠の記憶』に”快の情報回路スイッチ”と”不快の情報回路スイッチ”も勿論、含まれているだろう。

    だからこそ、バランス現象とはボディの歪みとバランス制御装置の関連として、
    大脳辺縁系と大脳新皮質、神経と血管、感覚感受性と皮膚のつながりにおける可能性、
    そして原始感覚の関連性は注目しておきたいですね。
     
    それから、
    操体は、何でも入れられる器」〜山野実行委員曰く〜であります。
    ですから、基本的には”排他的”であったりしないんですね。

    ”受け入れ”て”生かすこと”・・・が出来ないようであれば、
    どこかで振り返って自分自身の捉え方、を試しに見つめ直してもいいのかもしれません。

    操体は、何でも”生かすことが出来る器”のようなものだ」〜三浦寛理事長語録より〜

    その通りなんですよね!操体とは、
    ラジオ体操を今週の始めに取り上げましたように、入れたら生かすことが出来るのです!!

    もう一つの例に、”ストレッチ” がありますけれど、この方法と操体は相容れないと思いますか?

    答えだけは言ってしまいます。
    「入れられない、生かせない、そんなことあるわけがないですよ〜!」

    説明のようなお楽しみは、後々まで取っておくモノです。
    そして、満を持して?
    11月に開催される、秋の東京操体フォーラムに参加頂ければ全てが解決すること請け合いです!!
    内容および詳細は、このホームページ上で今すぐチェック!!(アッ、ブログ読んでからにして〜笑)
    皆様のご参加を、実行委員一同、心よりお待ちいたしております

    論より証拠、百聞は一見にしかず!!です。

    えっ待ちきれないですって!?
    そうだ!!そんなあなたにも朗報があります!!

    9月23日に千葉県の行徳にて、平相談役が活躍されているゴールドジムをお借りいたしまして、
    臨床家による操体セミナーがあります。そこでヒントにがあるでしょう!じらされるのが苦手な、あ・な・た・も是非どうぞ!!
    とにかく是非!参加して下さいませ〜。
    (テーマは、〜セルフメンテナンス体験と施術の実際〜詳しくはこのホームページ上にてチェック!)

    では本日のお題です。

    『気持ちの良さを聞きわける』こと。
    『もともと救われているイノチ』について考えてみます。

    そのヒントを多く教えてくださっている橋本敬三師は、

    著書の中で(正体の歪みを正す331ページより抜粋)

    〜絶対完全健康正体は 理想像であって、法則随順の程度に従って、
     より正体に、より健康に、すなわち、より幸福に近づきうる。
     
     しかし人間は”自然法則”に背反する自由も与えられているのであるが、
     背反すれば歪体化する。

     これは現象界における因果応報の自然法則である。
     自然法則ほど恐るべきものはない。

     各人の健康度は、営みの成績表であるから、
     落第もあれば及第もあり、成績優秀者もある。
     
     健康は自らの責任において克ちとるべきものである。
     これが医の道の哲理、論理、倫理、である。

     筆者は身体運動を専攻して、この結論に達した。・・・と、書かれています。

    そして私が“今、ココ”で考えてみたいこと。

    それでは一体、“自然法則”とはどのようなものなのでしょうか?

    最近そんなことを感じたのが、今顧問の風鈴随想(医道の日本8月号に掲載)です。
    (流石の楽しいアレンジで、「カレーライスとカミちゃん」が秀逸でしたネ)

    私も何となく、お母さんのような“神チャマ”という親しみが湧くイメージもあります。
    しかしある一面ではとっても恐い、お父さんのような存在であるような気もします。

    ほんの少し真面目に考えてみれば、
    全世界とか宇宙をも創造された存在が、そう簡単に目に見えるはずがありません。
    自然法則そのものが、常に目に見える形をとる、とは・・・限りませんからね。

    何かの力が働いているとしか思えない=サムシンググレートでもいいですし、
    言葉では“神”、納得できなければ“お天道様”、“八百万の神”、でも構わないのです。
    自然法則とはきっと、“永遠”にして“不変”であって、“絶対的”なものでしょう。

    う〜ん・・私達“ヒト”においては、どのようなことになるのでしょうネ。

    “成すべきこと”と“成すべきことでないこと”を知るというとらえかたはどうでしょうか?

    例えばある一面においては、
    “科学”の世界では自然界の“理”の法則を研究していくことであって、物理学・化学等かもしれませんし、

    また、善いコトと悪しきコトを学んでいく過程においては、
    “善”性の探求そのものは、“霊性”(心の支えとか、心の根っこ)の中にそれを求めて実践するのかもしれません。

    橋本敬三師は、著書『からだの設計にミスはない』の中で(178p〜)、

    「肉体を自我だと思い、現象を実在だと思えば、たえず自己防衛の恐怖心から離れることは難しい
     〜中略〜
     釈迦もキリストも、この世(現象界)において互換にうつる肉体人間を生命と思いこみ、
     自分を生命源なる神仏から隔絶して考えているうちは放蕩息子のようなもので、
     無限の富の後継者であることを悟らないから、その恩恵に浴し得ないでいるのだ、
     という例え話を二人とも説かれている・・〜以下省略〜・・・」

    と、教えて下さっています。

    更に、その章にある一節にはこうあります。

    「現象以前の理念の人間は大生命そのもの、という縦の真理と、
     現象界は唯心の所現という横の真理とがある由である」

    ここに、”救い”と”報い”のことを理解するヒントがあるように思いませんか。

    私はこの章を、この言葉を味わいながら、じっくりと有り難く頂いております。

    また、「“総括”地上生命体の設計にミスがなし。これを“救い”という。宗教哲学の終点」・・・と、橋本敬三師は書かれています。

    私もいつか、このような境地にいたる事が出来るのだろうナ〜、と呑気に考えていたのですが、

    三浦寛理事長のもとで学ばせて頂く機会を得て、実行委員の皆様とフォーラムを通じて、勉強会を通じて学びあえる有り難き環境の中、

    生活の中、臨床の中で、フッと気がつかせてもらえるんです・・・・。

    ”明らかに自分を超えている自分の存在”に感じていたりするのです。

    つまり、自分でも”よくわからない”臨床がある!ということです。

    もう少し俗っぽく言えば、僕の予想を超えている患者さんの喜びの声、そのものの”質”が明らかに上がっているのです。

    患者さんの治り方そのものが、僕の出来るであろう臨床の限界を超えている(ことがある)ということです。

    ここのところは理解が追いついておらず、現時点においては上手に説明できません!何とも、”歯がゆい”もので・・・・、

    私がこのように尋ねると、三浦寛理事長曰く、

    「(岡村でも)誰でも、わかるようになる、だから妥協するな」・・・なのです。

    フォーラムに参加された方はご存じかと思いますが、東京操体フォーラムの実行委員は本当に”熱い”集団なんですよね〜。

    実際、こんなに勉強嫌い、努力嫌いであった私でも、(ヒイヒイいいながら?)

    耕してゆく喜びを味わっていけるのですから素敵なんですよ。

    どちらにしても、自然法則の理解に必要なのはきっと、

    『何が自然で、何が不自然なのか、“感じられる”』のか、ということ・・・ではないでしょうか。

    私達ヒトが、
    この地球上に誕生してから亡くなるまでの間、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚という感覚に、
    かえって囚われてしまっているような、その不自由さに気づいていくこと。

    自然法則の応用貢献そのものを耕して行く、成していく過程において、
    自分自身の霊性に刻まれている、“本来の良心”を思い出して欲しいのではないでしょうか。

    あのピノキオは、
    人間の子供に戻る前に、様々な体験をとおして学んでいくのです。
    心弱きヒトのもつ、欲望の醜さをも味わっています。
    そして、コオロギのジェミニィ(良心)に助けられながらも、
    なんとかゼペットさんの元へ帰ることが出来、ヒトの子供になるのですが・・・、
    きっと本当の物語は、ここから創られていくのでしょうね。

    自然法則に適うルートを教えてくれる、このジェミニィ(良心)こそ、
    “気持ちがいい”ってコトを、からだに聞き分けて、
    自分自身どれだけ味わうことが可能なのか。
    そして裏をとれば、
    “気持ちが悪い”ってコトを、快く(はやく)感じ取ることができるかどうか。
    ではないでしょうか。

    あの宮本武蔵に関係した“沢庵禅師”の言葉に、「石火の機」と云う言葉があります。
    “機”というのはつまり、
    感じた瞬間に変化が始まっているということですから、
    火打ち石を打った瞬間に火が出ますが、その瞬間には全くスキマがないのです。

    ですから、
    気持ちが悪いってコトを“感じ取った瞬間”に、“からだ”は変化している筈なのです。
    このような感覚は元来ヒトの持っている感覚であり、
    どこかから仕入れてくるようなテクニックではないはずなのです。
    だから、(ウロチョロと)探しても・・・、(パタパタ)くっつけてもらっても・・・、
    勿体ない回り道をしている可能性ってありませんか?
    <注:()内は何となく私がイメージで何となく、あてがってみただけです>

    操体の重要ポイントとして、橋本敬三師の言葉、

    「原始感覚、気持ちが良いか悪いかが わかるから有り難い」とありますように、

    自然法則は“操体そのものの器”ともいえるのです。

    それに、橋本敬三師がテレビやラジオ出演の際、自身の行なっていることを紹介する手前もあり便宜上、
    操体法と“名称”を付けたと聞いております。

    フォーラムでは三浦寛理事長、畠山常任理事も、”親心から発している言霊”として、口を酸っぱくして言って下さいますよね。

    キーワードはやっぱり、「気持ちの良さを聞き分ける」っていうことなんです。

    では今日はこのあたりで!!ありがとうございました。

  • 表裏があるから・・・

    朝から涼しい雨が降っています湘南ですが、貴方に今日も情熱をお送りいたします(笑)。

    なんだかすっかり涼しい日が多くなってまいりましたネ。

    この時期”限定”で営業している海の家は、毎日の天候は暑いピーカン晴れを望んでいるそうです。

    しかし近所の農家の方に言わせれば、日差しは必要だけれど、雨が降ってくれないと色々大変なようです。

    農業と言えば、秋に行われる東京操体フォーラムで発表予定の横森実行委員。
    (曰く”長野の宮沢賢治操体は勿論”農”でも熱い!)

    秋の発表も見逃せません。なんと!操体臨床での第一分析〜第三分析を、
    子供にもわかるように噛み砕いて解剖・生理学的に説明してくれる予定です、こうご期待!!

    これは、どんな業界においても一緒だと思いますが、

    いろんな事に精通する為に、一つのことから一方向の視点では”気づき”を得にくいものです。

    真実をみる為に必要な”動機付け”を心がけていれば、アッそうだったのか〜!が多くなってくるのですね。

    イヤだな〜と思ったらチャンス!!

    更に、不快だな〜と感じたらビックチャンス!!!

    この世の中は”裏と表”がありますから、その本質を見極める為にも、

    良い”気づき”を得て、コツコツ地道に学んでいきましょう。

    自分から限界を決めてしまい、「井の中の蛙 大海を知らず」では勿体ないですからネ。

    (空即是色、色即是空)

    ないものをあると思い、あるものをないと思いこんでいるのが“妄想”であり、
    あるように見える現象は実はないのだ。

    よって、「一切の業障海は みな妄想より生ず」というこの文章には、見覚えがある方も多いと思います。

    そこで昨日の続きなのですが、

    (半側無視とは)

    物体の約半分の情報が、意識にのぼらないという奇妙な状態を“半側無視”といいます。

    多くのヒトは大脳の言語野が、左脳にあるんですね。
    同様に、左の頭頂葉は自分の位置情報を知り、
    右の頭頂葉では、自分の周りの空間とそこに存在するモノの位置や形を認識します。

    ですから右頭頂葉に損傷が起きてしまうと、視界の左半分ではなくて、
    左の視野に入ってくる情報を、“存在しないモノ”として見てしまうのです。

    ですから半側無視の患者さんに、丸い時計の模写をしてもらうと右半分しか書きません。

    はたして、このような患者さんは本当に左半分が見えていないのか?

    確かに見えていないし、存在すら認めようとしないのです。(リハビリすれば別です)

    けれど見えていない左半分に、何となく嫌悪感を抱く左側が火事の絵をみせると・・・、
    「なぜだかこの家は嫌だ!」なんて言うらしいのです。

    どうして見えない物を認識しているのでしょうか?

    (盲視)

    実に不思議なことに“見えていないのに認識している現象”を“盲視”といいます。

    これは、網膜や視神経に異常がない場合でも大脳の視覚野を損傷してしまい、
    視力を失ってしまうことを指します。

    このような本人が、「何も見えない」という患者さんに、上下左右に動く光を見せた場合、
    わからないと言いつつも、方向を全部言い当てるらしいのです。

    他にも、色々な位置に差出し口のあるポストを用意して、色々なところから入れてくださいと言えば、

    「見えないから出来ない」と言いつつも、はがきを縦横斜めの差出し口から投函できるそうです。

    いったいどうしてこのようなことが出来るのかと言えば・・・、

    本来ヒトは視覚の情報を、網膜〜視床〜第一次視覚野〜頭頂葉〜側頭連合野、

    と統合する経路を通って認識しますが、この経路を通らずとも認識できるのです。

    その経路は”いにしえの経路=古く、原始的な経路”と言われています。

    網膜〜中脳上丘〜頭頂葉とつなぎ、
    飛んでくる物体を認識したり、咄嗟にモノを避けたりする時に働いているのです。

    大脳が急激に発達してしまうと、一番新しいモノしかヒトは意識では認識できないらしいんですネ。

    ですから、本来持っている力・能力には意識が向かず、本人はよくわからないのですが、

    ”無意識”で新しい経路と統合して理解しているんです。

    ”爬虫類の脳”とも言われる原始的感覚を司る脳の分野と大脳新皮質が紡ぐ関係には、

    まだまだ科学で解明されていないところが多く残っているようですし、

    爬虫類の脳、それは”フェアリーブレイン=妖精脳”とも言われ、無意識を司る感覚とも言われています。

    これは、三木成夫氏の『遠の記憶』につながってくる感じがします。
    (”鰓弓”という実におもしろい視点も、ヒトの進化にヒントをくれました!
     是非、秋のフォーラムのナイトセミナーで、山野実行委員に問いかけてください、熱いですよ!)

    「皮膚に、無意識に、感じ取ること」

    ウ〜ン!!なんとも魅惑的なキーワードが並んでいませんか?

    操体における、第三分析につながってくるような・・・・。

    生活一般に生きてくるような・・・。

    趣味にも、武道にもかなり通じてているんだろうな・・・・。

    妄想が広がってきました!

    そんなあなたに朗報です!秋のフォーラムは絶対に損しませんよ!!

    待ち遠しい思いを胸に、ウズウズしてきたら、詳しくはここのホームページで今すぐ確認を!!

    それでは今日はこんなところで失礼いたします。ハブァナイスデ〜!!今日もありがとうございました。

  • 何に見つめられているのか

    ハ〜イ皆様!おはようございます〜!!
    湘南といえども、山間部に住んでいる(笑)岡村郁生の3日目ブログにようこそ!!
    今日もハリハリ漬けを食べながら?張り切ってレッツゴー!!
    岡村3日目宜しくどうぞ。

    いきなりですが、“波”について学ぶコトが多いこの一年です。
    波と言っても、サーフィンで楽しむ波だけではありませんよ!
    波長とか、“波動”とか、周波数とか、そんなイメージなのです。

    今まであまり詳しく調べることも、昔は勉強したのかもしれませんが、
    興味が湧いてくるきっかけもなく、スルーしてきたことでしたが面白いですね〜。

    音と光が同じ舞台に立っていたり、電波や熱までも同じ舞台に立っている。
    しかももっとスゴイものまで?が網羅されております。

    このきっかけとは、私の人生において、今後も大きく舵を取っていくことになりそうですね
    (臨床では、オ〜ゥ!ファンタスティック!と言う感じです)

    例えば太陽光の中には、
    目に見える光(可視光線380nm~780nm)の他に、
    見えない紫外線(380nm以下)や赤外線(780nm以上も含まれています。
    つまり、波長によって色が変化して見えているというわけです。
    (色の波長をスペクトルというのですけれど、そういえばスペクトルマンって知っていますか)

    ちょっと雑学的(トリビア的?)ですが、
    太陽光や白熱電球に、赤いガラスを当ててみれば赤い光となり、青いガラスを当ててみれば青い光になりますが、
    これは全色併せて白い光になっている波長から、その色だけを選択して取り出しているわけです。(サングラスがよい例ですね)

    しかし、
    LEDの場合には単色ですからその波長のみであって、赤色光ならば660nm,青色光ならば450nmというわけです。
    これに関しても面白いのは、人の眼には青色LEDの光が約十倍も明るくみえるらしく、
    暗いところで見ると、人によって目障りだ!という場合もあるようです(へェ〜へェ〜へェ〜))
    (ちなみに最近では紫色のLEDも開発されたらしいですね)

    更に不思議なのは、
    その色・光の特徴を“皮膚”そのものは認識しているらしいのです。

    例えば、皮膚の修復に対して赤い光が回復を早めて、青い光が遅くする等・・・。
    (傳田光弘著 賢い皮膚より)

    このような光を照射する機械(カーボンが高いんですよね〜)は昔からありますが、
    民間療法だけでなく、これを光線療法として活用していることで、
    皮膚科疾患に対しては勿論、様々な臨床成績を上げている医師も増えているらしいです。
    (そういえば、私の学生時代の恩師である鹿島田先生も使用されていました)

    ちなみに、
    赤い色というのは暗い世界に住んでいる生き物に見えない色なのだそうです。
    ですから、動物園の夜行性動物の展示や、水族館の深海魚の展示には、
    赤い光を照射しているという訳なんですよね〜。(ヘエ〜へェ〜)

    それに対して、
    青い光というのは水に吸収されやすいのです。
    ほとんどの光の色は水面で反射してしまうのですが、
    水の特性として青色だけは水の中で吸収されていきますからね。
    まさに水色たるゆえんでしょう。(江ノ島水族館にて勉強済み)

    少し話題の方向を変えますね。
    色気・色男・色を好むという言葉があるように、
    ヒトにとっては、愛情や情動、そして欲情さえ関与していると思われます。

    実際にヒトは、そのような色があることで生きる意欲を生みだすことが多いですよね。
    患者さんや、私の周りの方を見ていてもエネルギッシュかつ、印象が若い方が多いですし。
    (かといって、単純に何かが良い悪いの問題ではないのですけれど)

    色の三原色、それを感じ取る視覚として認識できるのは、そう多くの色ではありません。
    それは、赤・青・緑の三原色であって、それを濃淡組み合わせて様々な色調を“見て”いるのです。
    つまりヒトの場合、多くの動物よりは多くの”色”を認識出来るのは、
    目の網膜にある、三種類の錘状体細胞が認識しているらしいのです。(干状体細胞は明暗を認識しています)

    この事と操体の関連については、
    フォーラムにて近いうちに?佐伯理事よりアクションがあると思います!こうご期待!!

    しかし、私は思うのです。
    この三原色から様々な色を生み出している現象と、
    ヒトが他の動物よりも、ずっと多くの色彩豊かな世界を認識している現実はそう簡単なモノではなく、
    “現象として”、じつに深い意味が隠されているのではないか・・・と。

    単なる“光”の波長として現れてくる“色”そのものの他に、ですよ。

    実は“心の問題=想念”として現れている色もあり、それはそのヒトの生き方そのものに生じてくるのかもしれない。
    もしかしたら勝手にヒトが作り出している、外向きになっている見せかけの色ってあるんじゃないかな・・・?

    例えるとしたらデジタルカメラが普及して、急激に色調の補正が簡単にできるようになった。
    その代わりに失われてしまったモノもある・・・な〜んて考えてみたりします。

    いや実際、アバタもエクボ?とか、どう見ても緑信号を青信号とか言いますし、
    虹の色も、時代やその地域によって4色から7色の認識がありますし、色のとらえ方は様々らしいのです。
    要は、脳がかなりの部分を補正しているらしいんですけどね。
    (参考図書 池谷裕二著 脳は何かと言い訳する)

    それに対して捉え方がシンプルなだけ、皮膚はウソをつかないんじゃないかな〜なんて思うのです。

    その参考になるのが盲視と言う現象です。

    ちょっと長くなってきましたので、続きはまた今度にいたしとうござる。

    それがし、こんなところで失礼つかまつる。(なんで急にサムライ?)

    ありがとうございました!