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  • 原初からの解放

    今週の担当は兵庫県三田市から送信しています。
    今回はリバーシングという呼吸法にふれてみたい。
    リバーシングとは再誕生。米国の精神科医レオナード・オルによって発見された呼吸法である。あるとき、彼はバスルームでシャワーを浴びているときに、床に落ちていた石鹸に気づかず、その上に足をのせて転んでしまった。あまりの勢いのせいか、手をつく間もなく仰向けに全身を強打してしまった。一瞬にして呼吸は止まり、意識あるものの身動きとれない状態に陥った。息を吸おうとするも吸うことができない。そして全身の緊張が極限にきたとき、本能的な全身の弛緩とともに息を吐いていた。すると、その後に僅かではあるがこれも本能的に息を吸っている。彼はこれに賭けた、ひたすら息を吐くことに意識を集中した。少しずつではあるが息を吸っているのが肉感として感じられる。生への執着も手伝って、ひたすら呼吸することにだけ集中し全身全霊を傾けている。このとき、意識の変化を感じ始めていた。自分の記憶が遡っていくのだ、表層意識にはない1〜2歳の頃の記憶がはっきりと意識上に現れてきた。彼はまるで何かに導かれているかのように深くて速い呼吸をリズミカルに力強く続けていたのである。そしてその時はやってきた、呼吸困難を感じ、呼吸は乱れて激しくなり、ときとして呼吸はまったく止まってしまう。身体は麻痺し、死につつあると感じていた、それはまさに子宮から出てきたときに感じたことであった。彼は恐怖心から通常の呼吸に戻していった。この強烈な体験が彼を呼吸の研究に向かわせたのであった。その後の彼は精神学科の教授でもあったことから自分の学生らに何度も実験を重ね、療法として体系づけられたものが今日のリバーシングという精神療法としての呼吸法を確立したのである。

    そのリバーシングとは自分の誕生を想い出すことができ、再びその誕生を経験させてくれる。バース・トラウマという出産時に受ける肉体的、精神的ショックから解放されることによって、潜在意識の中にある誕生時の原初的な苦痛を快へと変質させられる。バース・トラウマは出産時に関係した産科医や助産師たちが、赤ん坊が何を必要としているかを知らず、逆に必要でないものを与えたことによってできた傷である。
    出産時における強烈なライトは医師には大変便利であっても、赤ん坊のような敏感な眼にはまぶしすぎるし、まわりでたてる大きな音や声は赤ん坊には騒がしすぎる。また目の粗い布や、荒々しい触り方はデリケートな肌には耐えられない。このようなしうちは赤ん坊にとってひどい苦しみである。それでもまだ肉体的な苦痛は精神的な苦痛と比べると問題にならない。
    また、子宮から出たばかりの赤ん坊はヘソの緒をとおして呼吸しているのだが、それをすぐに切り取ってしまう。かわいそうな赤ん坊は窒息して死んでいくようなパニックに陥るのである。そしてはじめて肺に空気が送り込まれるのであるが、それは熱い空気が肺を焼き尽くすような苦痛であると言われている。このような暴力で迎えられるという恐ろしい出生体験のあと、さらにぎゃあぎゃあ泣きわめく見知らぬ連中とともに新生児室に放置され、にせの食物を与えられることになる。
    明日につづく

  • 遺伝子オン

    以下の文章は、「こころと遺伝子」村上和雄実業之日本社からの抜粋です。

    人間のからだを構成している細胞には、外からのシグナルを受けるレセプターと呼ばれるものがあります。このレセプターを活性化することが、遺伝子情報をオンにすることであると、世界的に有名なアメリカの細胞生物学者であるブルースリプトンは言っています。人間には、このレセプターをオンにするものが絶えず必要とされています。レセプターを活性化するものは、化学的薬品や食品だけでなく、思いや愛、音楽、ことばなどといった非物質的なエナジーシグナルがそれ以上におおきな影響を与えていることが分かりました。

    外部からの多くのシグナルや情報を受けとり、それを処理し、総合して細胞内に伝えるという意味で、細胞膜は細胞の脳の機能を持つと考えるにリプトンは到ります。
    一連の実験の歳月を経て、リプトンは人間の遺伝子をコントロールするものとは、からだの外からのエナジーシグナルがその大部分であることに気がつきます。私たちは、大きな意味で地球の生命と共生している生命共同体であります。その生命とつながりをもたらすものは、まさに目に見えない、量子的なものであり、振動やエネルギーなどであります。音や、波動、磁気、雰囲気、景色や風、人の思いやこころなど、それらが人の個々の細胞にシグナルを発信しています。私たちはそのシグナルを受信して、必要な遺伝子のスイッチをオンにします。リプトンによると、人体の中で、目に見えないエナジーシグナルは、食べ物や化学物質などの、目に見える物質的シグナルと比較すると、なんと100万倍のスピードでからだのコンディションに影響を与えるといいます。

    私たちのからだはなんと、一日に約二%の細胞が入れ替わっているといわれます。神経細胞だけはかわらないといわれていますが、一年もすると、私たちのからだはまったく違う細胞からなる別の人のようになります。

    DNAの二重らせん構造こそ、この複製機能をつかさどる構造だったのです。人の生命とは、絶えず自分の細胞を複製されることでいのちをリレーしているのです。
    細胞の核の中にある一つのゲノムの中には、約三十二億個の化学の文字(塩基)が記されています。なんとその情報の量は、百科事典でいえば、三二00冊分にもおよびます。成人のからだには、その膨大な量の情報を持つ細胞が約六0兆個もあり、整然と生き続けています。
    生命が誕生するということは、この文字の書き込みが、すごい勢いで十 ヶ月の間にコピーされて完成するということになります。また細胞が入れ替わるということは、コピー機能によって、新しい細胞に転写され続けているということなのです。したがって、三十八億年の生命の歴史がすべてからだの中にコピーされて(書き込まれて)生まれてくる人間は、とてつもない貴重な生命体なのです。

    ながながと書き写してしまいました。今年の1月3日に出たばかりの本です。

    感動のあまりこんなに長くなってしまいました。

    子供達にそのうちゆっくり話して聞かせたいと思っています。

    ありがとうございました。

    鵜原増満

  • 再び、間に合う

    [間に合う]という表現はそれだけを取り出すとはっきりしない曖昧な言葉のように聞こえるが、文章の中で前後との関連を考えるととても生きてくる。

    なにが間に合っているのか、間に合っているとはどういう事か、各自がそれぞれ考え感じなければならない。他人にはわからない
    ことだからだ。自分自身の事、自分と人との関係、自分とまわりの環境との関係等々。

    しかも、生命現象だから常に変化している。今間に合っているとはどういう事か、常に考え続けなければならない。

    常に間に合うよう心しずかに生きたいものだ。

    間に合わず、悲鳴をあげて静かに訴えているおばさまの話しを紹介しよう。

    「歳をとるとさびしくなる。優しい一言が何よりの薬なんだよ」

    ありがとうございました。

    鵜原増満

  • バランス、間に合う

    生命現象はバランス現象だ。曲がっている、ねじれているのが悪いのではない。曲がったりネジレたりして、からだはそれなりにバランスをとっているし、又、取ろうとしている。イタむ、つらいは、まに合っていないからだ。形の上から診断しては失敗する。要は動かしてみることだ。

    人間は無限の極楽に生かされている。それでも不満を言い、無限の地獄に住んでいるように、あっちにぶつかり、こっちにぶつかり、。不平、不満を言ってバチが当たっている。生きるに間に合う程度のバランスを取っていれば、体と精神は相関し、又、相補し合っている。

    欲をかくと失敗する。人が迷惑する。
    まにあっていればいいんだ!まにあっていればよい、という心の豊かさが必要だ。それが、人間が生きる、と言うことの品性だ。

    橋本先生のお言葉をひもといてみました。
    とても気になる二つの言葉が飛び込んできました。
    バランスと間に合う、です。
    特に、間に合うとはなんと奥深い、ステキな言葉でしょう!
    じっくり味わいゆっくり考えてみたいと思います。

    今日はこの辺で・・・・

    ありがとうございました。

    鵜原増満

  • インフルエンザ

    岡村さん、ありがとうございました。おかげさまでゆっくり休養をとることが出来ました。

    今日から一週間、東京の鵜原が担当いたします。よろしくお願いします。

    昨年末、3才の男の子から、インフルエンザを有り難くいただきました。

    子供の菌は強いようです。40度近くの熱を2日半も楽しんでしまいました。

    二日間の潜伏期間の後発熱、39,6度でした。近くの開業医へ出かけ調べていただきました。が、菌は出ませんでした。

    はじめて訪ねたお医者様・・・・・まず電話をかけてから来院すること、裏から来るように、検査の間20分位外にでていなさい、温かくしてね、とのありがた〜いお言葉をかけていただきました。
    通常の風邪薬を処方していただきましたが、全然熱が下がりません。

    今度は新宿の大学病院へ出かけました。この時はしっかり菌が見つかり、タミフルを5日分最後まで飲むようにとの指示をいただきました。解熱剤も出ましたが、熱が下がったらもう飲まなくてよろしいとの事でした。

    私の場合、高熱と喉を痛め付けられました。声が全然出せなくなってしまいました。

    からだが弱っている時に[話す]ということが、こんなにも力のいる大変な作業だったのかと痛いほど実感しました。懸命に声を出しているつもりなのですが、声として外に出て来ません。
    人とのコミュニケーションが簡単に出来るということがこんなにもありがたく素晴らしい事だったのだと今更ながら感謝せずにはいられませんでした。

    熱が下がるまで、ひたすら寝ることを楽しんでいました。からだ中だるく何もする気になりません。お正月だというのに食欲は全くありません。

    これはきっと休養しなさいというサインなのでしょう!ありがたく休ませていただくことにしました。

    菌に侵されている間、鼻が全然利かなくなっていることに気が付きました。よい香りも不快な匂いも味わえない、これはかなりつらかったです。
    そして、いつもいつも気になっていた左の肩胛骨に痛みを感じました。

    少しずつ回復し、今はほとんど正常に戻っています。完璧にやられた喉がなかなか治らず苦労していますが・・・・・

    ほとんど治った頃、インフルエンザのプレゼントをしてくれた男の子からラブコールがかかりニヤニヤしている私でした。子供は本当に天使ですね。

    こんな年の始まりでしたが一週間よろしくお付き合いください。

    ありがとうございました。

    鵜原増満

  • 記憶

    操体とは・・・何でも入れることができる器であり、何でも活かせる大きな器である。
    だから、各人の興味あることを入れてみたらウンと面白いのだ。
    但し、ここで注意して欲しいことが一つある。

    操体の器に入れるからこそ活かせるのであって、
    操体を別の器に入れてみようとするのでは、全く結果が異なってしまう。

    今回一週間、お正月を挟んでブログを担当させて頂いたからこそ、
    良い意味で新年早々から目一杯、操体のことを感じさせて頂きました。
    光栄です、ありがとうございます。
    そんなブログの最後に、現代において本当に多くなってきている心の問題を書かせて頂きますネ。

    現代医学の説明では、”鬱病”とは、誰でもかかる可能性がある心の風邪みたいなもので・・・」というのがある。
    鬱だけではないが、心の病とは一体何が根っこなのだろうか?

    単に個人の問題で済ませて良いのだろうか。
    ほんとうの理由はなんだろうか?もう少し深く感じていくことを”からだ”は訴えているのではないだろうか。
    僕自身の考えでは、すべての現象には理由があると感じている。
    だからこそ、”からだ”は素直であって、”からだ”そのものに非はなのだから・・・。
    家族で、本人、からだ、地域社会、地球環境、国家間の関係、宇宙の真理・・・自然に適うことは、すべてに活かせること。

    実際操体の臨床では、どんなアプローチをしたらよいのだろうか。
    社会生活において、休むことになっていまう原因
    大切な想念の問題である。心の傷、トラウマ、PSTDという心理的条件反射・・・。
    森田実行委員の話ではないが、心に興味があり、それを生み出す事柄に常に興味がある。
    なので、学ぶ機会があればヤジウマしているのだ。

    そこで、ある講習会での話と、それを活かした操体の臨床をしてみたい。
    ある大震災の時、親が目の前で亡くなってしまうよう等の心理的ショックからPSTDになってしまった子供達がいる。
    それを何とかできないか、なんとかしよう!とプロジェクトがあり、
    神奈川県の心理学の教授、臨床心理士、カウンセラーを派遣していたらしい。
    この話は、その時指名されて派遣された方の講習話である。

    専門家からすれば当たり前だが、カウンセリングの基本は傾聴である。
    簡単に言ってしまえば、聞くのではなく、聴き取る。そして訊く。
    ただ聞けば良いのではなく、常に何を言いたいのか、”本人の言葉”に対して気を配るのだ。
    タイミングよくあいづちを打ちながら、相手に呼吸を合わせていく。
    変化を見て、伝えてくる言葉を少しずつ繰り返し、様子を見る。
    その時は子供相手であり、しかも短期に集中しなくてはならないで、かなりシビアだったらしい。

    そこで、その講師は普通のアプローチをあえて取らなかった。

    「人の話を聞いてあげることは本当に大切なことだ。それを否定するつもりはない」
    「但し、効果があればいいけれど、
     急に変わることは少ない、基本と同じゆっくりと待ち変化を促す、
     相手に同調してあげるアプローチというのが、その場にふさわしいと感じなかった」
    「その光景を思い出すたびに、泣きながら苦しんでいる子供に、
     『そうだね、辛かったよね、わかるよその気持ち、一緒にどうしたら良いのか考えてみよう』と言って、
     その子供はその心の傷から救われるのかと言えば、正直難しいんだ」
    「だからケースバイケースで、こう言う時は・・・」と、教えて頂いたのだ。

    多少僕の主観が入ってしまうけれど、要するにこういうコトだ。
    脳の記憶は海馬で司っている。
    この脳というのは、”からだ”の反応を整理しているに過ぎない。
    (本当は細かく言えば色々書けるのだが、要はそういった説である)

    なので、その子供が苦しがっている時に、『どこにお母ちゃんが苦しんでいる姿が見えるの?』と訊いて、
    ”イメージ”している場所を ”意識”させる。
    すると、ある”からだの部位”に必ず反応があるというのだ。
    そこがポイントなのである。
    そこをどうするのかは、色々な手段や方法があるけれど、
    一番簡単でシンプルなのは、目線を変えるのだと言うことだったのです。
    これは実際に、その講師のカウンセリングを受けた子供達は、
    PSTDを克服した、症状が気にならなくなった、つまり有効だと言うことで証明されたらしい。
    つまり、
    “カラダ” ”無意識” ”目線” ”脳の記憶” ”反応” ”反射” ”意識”。これはつながっているのだ。

    ここで僕の体験した臨床例を挙げてみる。
    心下部の痛み(胃炎・十二指腸潰瘍と診断)が主訴の若い女性患者は、
    数年前にある被害にあってから、良くなったり悪くなったりを繰り返している。
    僕もそれ自体は、問診でも治療後の茶話で話してくれたので知っていたのだ。
    不思議なことは、
    ある部位に渦状波を通し、聞きわけて頂いている時、話した事がビックリだった。
    「実はここ数年、毎日同じ夢を見て、同じ様に汗びっしょりになって夜中に起きるんです」・・と。

    その時、瞬間的に閃いてからだが無意識に反応したのだった。
    「そのまま目線をOOに通してみたらどうですか?」

    後から考えてみると、
    そういえば・・・三浦理事長は・・・、
    皮膚に問いかける操法として、渦状波を僕に説明してくれた時に、
    「一概にイヤな記憶、心の傷と言ってもネ、普段思い出して話をするのと、
     渦状波の最中に思い出すのでは意味が違うからナ」
    「その時に思い出すのなら、どんな”心のキズ”が浮かんできたとしても、大丈夫なんだよ」・・・と。

    その患者も目線の移動後に、
    「アッ怖くないかもしれない!」
    「さっき胸にナイフで刺されるような痛みが薄くなってきた」
    と言うので、
    「それを今なら感じていても良さそうですか?」
    「”からだ”に聞きわけてみて・・・」
    そこで十数分味わって頂いてその日の臨床は終えたのだが、
    そのことに関して臨床後に、あえて一切触れなかった。

    そして次の来院の時だった。
    「あれからも夢を見ることは見るんですけど、ずっと苦しんでいた夢が苦しくなくなってきて、
     すぐに眠れるようになり、見る回数も減ってきたんですよ。ありがとうございます」
    そう言って眩しい笑顔を見せてくれたのです。

    これだから操体の臨床はたまらない!心が感動することで震える。
    受け入れてくださってありがとうございます。

    全てが活かせるとは、自分を活かし、相手を活かす事であり、
    自分自身の努力次第で際限なく可能になるのだから。

    転機は二年前、第三分析という皮膚にアプローチする操体を学ばせて頂くことで、
    かねてから”操体の盲点”であった、”うごきを通せない患者”に対しても、
    感覚を聞きわけて頂くことが出来るようになった。

    思い起こせば二年前、初めてお願いした個人レッスンの時、
    僕は三浦理事長に心から訴えた。
    そこでお聞きした事は忘れない。
    大きく心は動き、少しずつ更新できる愉しみ、大きく味わえる感動を頂くのだった。

    「僕は、橋本敬三先生の説かれている想念に感動し、
     橋本敬三生の哲学思想があるからこそ、
     技術ではない操体を学びたいと思い、学ばせて頂いているのですが・・・」

    「現時点でも、痛みが取れると言うことに関して言うならば、
     かなりのレベルで(他力的方法)患者自身は満足してくれる、
     効果のある結果を出せる自信もあるのですが・・・」

    「だけど、それに全くと言って良いほど、僕自身が満足できません」

    「僕が学びたいことは、操体を学んだからこそ受け取れるものであって、
     それが僕にとって、飛び抜けていなければイヤなんです」

    「僕が感じている操体とは、比べられるものではない筈なんです」

    「僕は、そこを遙かに飛び超えたいのです」

    その時の自分には一体、何が足りなかったのだろう?
    何を超えていくのか、何を超えたいのかわからなかったコトがある。

    三浦理事長はその時、「皮膚を学びなさい」と教えて下さいました。

    そして今現在のレッスンでは、「不可視なものを感じなさい」と教えて頂きます。

    時代(次代)の先駆者とは、いつの時代でも困難がある。それは歴史が証明している。
    それを乗り越えてきたすごい先師がいる。
    僕は、
    あの空想好きでボケというあだ名の学童期、
    興味と言えばエロまっしぐらのムッツリというあだ名の思春期、
    夢想して恋にぶつかり、泣き笑いした特攻隊長というあだ名の青年期、
    それは現在も、根っこは全く変わっていないのだ。

    変わっていないと言うことは、変わったことがわかると言うことでもある。
    だから、はっきりと自信を持ってお勧めする。

    『生かされているイノチの営みに、適う生き方を学んでいきましょう』

    その扉はいつでも開いているのだから。

    一週間お付き合い頂きまして本当にありがとうございます。
    まだまだ伝えたいことがありすぎて困ってしまいます(笑)
    そもそも操体の学びでは、欲張りは戒められますので失礼いたします(汗)

    そして炎のバトンは、静かなる愛の伝道に燃える鵜原実行委員にお渡しいたします。
    よろしくお願いいたします。

    岡村郁生

  • 口癖

    (カチャンカチャンとあまり入ってないランドセルの音)
    「おはようございま〜す」
    「おはようございま〜す、いってらっしゃ〜い」 空気が肌に染みる日の朝にこんな挨拶。
    茅ヶ崎の小学校は爽やかに今日から始まります。

    そして、「はやく勉強(復習)なさい」「宿題(課題)終わったの」
    私も親からミミにタコができる位聞かされていた(本当は、言ってくれたのデス)このフレーズ。
    最後には「しっかりできる時にやらなければ、自分が困るんだからね」で締める。
    最近も何故かよく耳にしたのだが、
    あまりにも小さい頃の自分に行動が似ているので、僕は本心で叱ることができない。
    「やりたくなければやらなくて良いけれど、しっかりと自分で、自分のおしりを拭くことはしなさいヨ」
    経験上、そんな言葉を話ししっかり言い聞かせる。
    すると案の定やることはやる?長女が宿題を終えるのには今日になっていた(笑)

    後から後悔することを考えて、後ろ髪を引かれる思いで・・・云々といいますが、
    ある患者さんから、「チャンスは前髪って言うのよ」と教えて頂いた。
    ナルホド、ありがとうございます。確かに伝わる気持ちが良い言葉だなァと感じた。
    できることを準備万端整えておくには、伸びている髪の毛のように、前髪を飛ばせばいいのだ(笑)
    後からではなく、前髪を駆使してでも、可能なチャンスは自分自身が引き寄せるのだと言うことだろう。

    さて、
    心を亡くすと書いて忙しいと書く。

    つい言葉として使ってしまうことも多いのだが、言霊として考えてみると、あまり連発するのもどうかな?
    家族や気の許せる友人と一緒にいる時は、
    気が緩んでしまい、甘えているんだろうと思うが、長女や次女が何か僕に話しかけてくると、
    つい「今パパは仕事をしているでしょ、忙しいんだから後にして!」と使っていた。

    それが、お正月休みの時に長女の心を聴いてしまい、自分で気がついてハッとしてしまったのだ。
    心の声・・・「パパは忙しいから後にしてって言うけど、後で聞いてくれたことなんてそんなにナイじゃん」
    それを直接言わないで、心の声で教えてくれていたことに感謝するのであった。

    ”からだ”と関わっていくことで本人以上の情報が伝わってくるし、教えてもらえるので有り難い。
    その時の状況で考えても仕方なかったのだが、
    僕自身それを口癖のように母親から言われた時期があって、大げさではあるけれど、
    自分という存在そのものを否定されたように感じていたことを思い出せたのだ。
    きっと、”からだ”に口が直接ついていたら・・僕は、叱られっぱなしなんだろうなァ。

    そう言えば、
    テレビの録画でたまっていたあるジブリ映画の中で、主人公の魔法使いがとても忙しそうにしていた。
    日々戦争に参加して、帰ってくるとグッタリして休んでいる。
    そして、大きなショックを受けると肉体そのものが溶け出してしまうのだ。
    普段の本人と全く異なる本人となって肉体を駆使していることが、忙しさの象徴となるのかもしれない。
    それを知ってのことか、最後にその主人公は”亡くしていた心”というものを自分のカラダに取り戻す。
    その後こう言うのだ。
    「ウッこりゃひどい、からだが石みたいだ・・・」 そこでヒロインは言う。
    「そうよ、心って重いものなのよ」・・・と。
    このようなメッセージを監督がのせているからこそ、本人は気がつかずとも”からだ”は感じ取り、
    ジブリは単なるアニメ作品ではなく、大人にこそ響く映画として愛されるのだろう。

    それはともかく、一体何が重いのだろうか・・・・。

    そんなわけでしつこいが、テレビを見ない僕である。
    春日さんのトゥースも知らなかった(汗)だから一気に追いつこうと思い?
    年末年始にお笑い番組を見ていたのだが、そこで感じたことがある。
    以前は気にならなかった事でも、”からだ”が反応を示すがあるのだ。
    (「おい!Oすぞ」「お前Oねや」「Oりたいだけじゃん」とかはね〜イヤだなァ)
    そもそも”皮膚”の感覚があり、”からだ”は瞬間で感じ取ることができる。
    だからこそ人種を問わないし、ただ言葉で伝わる情報より、多くのものを雰囲気で受け取るのだ。
    (昔のドリフコントや、チャップリン無声映画、最近の漫画ならバガボンドなどは良い例だ)
    そもそも食べ物を粗末にしてコントにすると苦情がくるらしいが、言葉ならば食い散らかしても良いのだろうか?
    そんなの関係ナイ?
    誰がどう見ようと、どう思おうと、自分の好き勝手に生きるのが俺の人生ダ〜。
    そんなの見なきゃ良いじゃない、思わなきゃ良いじゃない、人(カラス)の勝手でしょう〜では、通らないことがある。

    確かに、人間は自由に生きるコトが出来る。それは確かだ。
    だからこそ、なにをもって自由なのか?を知って欲しい。

    自由と言う言葉の勘違いや、意味の履き違いをしては自己責任が伴う。
    昔から躾という大切な伝統がある日本国に生まれ、自分を律することの意味を知り、それを成す。

    心を亡くしてしまっては、人の姿をしているだけの生き物である。
    自然と調和して、自然の中でつながっているからこそ、人間なのだ。
    ふと、そんなことをいつも考えている。

    日本の国は一時、ゆとり教育というものを勘違いしてしまった。
    本来のゆとりとは、時間の中に存在しているわけではない。
    ゆとりを生み出すもの、それは一体何なのか。
    それは、イノチが見せてくれるものを噛みしめていけばわかる。
    まず、味わうために感じ取ること。それをゆっくり学んでいくこと。

    全てはつながっている。
    そうなのだ。実相から生まれるからこそ、一生をかける価値になるのであろう。

    岡村郁生

  • 自然と人為的干渉バランス

    帰省した私の実家は、静岡県静岡市です。
    昨年、大きな震度七の地震があった為に駿府城のしっかりした石垣が二カ所も崩れていました。
    それを直すのには一億円以上かかるとか・・・いやはや、伝統的な日本技術ってすごいことをしているのですね。
    お墓参りに行き、お墓を見てみたら墓石もズレていました。倒れていななかったのは幸いでした。

    自然とは怖いものです。だからこそ、人は謙虚でいなくてはならないのでしょう。
    謙虚であればこそ、自然の中において生かされているのだと、それを実感できる。

    しずおかにあり、家康公のお墓で有名な久能山東照宮、その麓は石垣イチゴで有名です。
    そのイチゴ農家の方に、勉強になる突っ込んだお話を聞かせて頂きました。
    (奇跡のリンゴ、木村さんの本を読んだことも関係しますが・・・)

    農家の方曰く・・・。美味しいイチゴを作るには、
    養分の成長=茎と葉っぱ、生殖の成長=実と種、このバランスが大切らしい。
    見えている部分は見えていない部分に支えられている。
    葉っぱや苺の実は、マイナス2度まで寒さに耐えられるが、
    根っこのある土の部分はプラス8度以下にしてしまえばダメらしい。
    なので、プランター栽培は難しく生産者には管理できても、
    苺の苗をお客さんに売るとすぐに枯らしてしまうのは、温度管理の原因が多いとのこと。
    (私もこれを知らず、葉っぱを赤茶色にして枯らせてしまった!ゴメンナサイ)

    苺の実は種がある。つまり次世代の為に成長する。
    葉や茎は個体であって、当世代の為に成長する。
    根はこれらを支えてくれる、まさに根本である。

    土で言えば静岡の名産お茶も同様に ”土そのものが味を決める”らしい。
    その中身は ”水はけがよいこと”がポイントで、久能山は砂利が多く水はけがよいらしい。
    しかしそれもバランスの問題なのである。

    その土が良ければ葉っぱも実も成長するが、葉に養分が行き過ぎると、
    実の養分から取ってしまい、本体の成長に傾いてしまう。
    なので、葉っぱに糖度計を入れてマグネシウムで調節する。
    要するに、細かなバランスを感じ取ることが大切なのだ。
    これで全てがうまくいくのかと言えば、そうではない。

    ”実を美しくするには、他の生物の力が必要”であり、
    受粉させる方法を風だけで行えば、苺の実がイビツになっていく。
    その為に必要不可欠なのが、ミツバチなのだそうである。
    ミツバチは、花粉を手足にペタペタと付けて飛び回り、バランス良く受粉してくれるらしく、
    出荷用の苺はやはりミツバチに大活躍してもらう。
    それで全てうまくいくのかと言えば、ミツバチも大打撃を受けることがある。
    それは、ミツバチをエサにするスズメバチの来襲であって、あっという間に全部やられてしまうのだ。
    だから勝手にに都合良くなっているのかといえば、やはり管理して気を付ける様にしなくてはならない。

    僕はこれを聞かせて頂いた時、操体の臨床のように思えた。
    自然の営みとは、なんて巧みなのだろうか・・・。

    橋本敬三師の教えにもあるように、救いと報いの関係を考えてみると分かり易い。
    操体を学ばせて頂き、自然の法則性を踏まえ、僕も考察してみる。
    自然には法則性があり、その法則に従うのも逆らうのも自由。
    おのずと報いという一時的な結果で教えてもらえる。

    従っていればそれでいいのか、ただ盲従していても理解が伴わなければ応用は利かない。
    つまり、自分自身を活かすのも、活かさぬもその法則の中にあり、自在してあるものにどう向かい合うのかだ。
    要は、この世の中に幸も不幸もない。
    あるのは己の考え方、捉え方のみである。
    どう捉えようと自由ではある・・・が、
    それを自然のなかに生かされている、イノチの法則性を学び、
    それを応用させて頂くことで、
    自らを生かし、まわりをも生かしていく。
    そこに、有り難みという存在を知る。

    そして操体でいう快適感覚とは、
    つまり、気持ちの良さは波動で伝わっていくのでしょうか?
    それとも・・・。

    人が歩く速さとは秒速1メートル、
    新幹線は秒速70メートル、
    ジェット旅客機は秒速330メートル、
    宇宙ロケットは秒速20キロメートル、
    光は”真空”ならば秒速30万キロメートル。

    そこで僕が最近興味を持っているのは物理学なのです。
    実は光は純粋な波ではなく、粒子の性質を持った物質であるとしたのが、ドイツのアインシュタインの光量子学。
    それを発展させたのが真空とは、何もないのではなく、そこにエネルギーがあるんだというデンマークの物理学者ボーアの量子力学
    アインシュタイン相対性理論とボーアの量子力学をもって、
    「宇宙は物質も空間も時間もない、無の状態から生まれた」と言う理論を、ウクライナの物理学者ビレンケンが説けば、
    「無から宇宙が生まれた際、宇宙は虚数の時間を通ってきた」と物理学者ホーキングは説いています。

    宇宙の誕生には、インフレーション理論というものがあります。
    難しいことはともかく、物理学ではっきりと証明されていることとして、
    『真空とは』
    〜何もない状態ではなく、電子と陽電子が合体して打ち消しあっている状態である。
    つまり、無と有の間を揺らいでいるのだ、としています。

    すると、この世の現象とは常に、”無から有を生み出している循環”になります。
    そして、”無”とは、仏教において非常に重要なテーマとして挙げられております。

    陰陽学においても然り、虚と実が合わさって昇っては降り、陰陽未分化における状態を太極を言いますネ。

    見えていることだけで判断しては本質はかえってわからない。
    見えないものを知るとは、それを感じとること。

    目には見えないもの、それを感じ取ることは、自然現象としての自分を振り返ることになる。
    ヒトは小宇宙と言われる所以であり、
    宇宙のことを考えたり、目に見えなくともそれを感じ取ることは、自分自身の問題でもある。

    そんなふうに感じている今日この頃、アラ”フォー”岡村であった。

    岡村郁生

  • 頭で考える快と、からだに備わっている快

    今週から見ていれば、あなたの話は抽象的で空想的なんだよな〜と言わないで、
    現実的な今回帰省したお話、そして臨床の話でも一つ聞いてやってくださいまし。

    寅年の年男で、男女関係なく友人のとても多い、愛煙家で愛酒家の弟と話をしていた時です。
    「兄貴はサァ、新年を迎えての抱負はなんなの?俺の友人にも必ず同じ事を聞くんだけど、
     以外と曖昧な答えだったり、ただの希望だったりして、そんなこと考えてないって言うことも多くてサ」・・という。
    僕はなんと言っても三浦理事長、同志の皆様と切磋琢磨しながら操体を学ばせているのですから、
    そんなことばかり考えているので勿論、答えましたが・・・。
    後で考えてみると、確かに操体を学ばせて頂き、臨床をさせて頂けるということは、本当にアリガタイなあ・・・と。
    そして抱負と言えば、
    ビックリしたことに父親も還暦を過ぎてのチャレンジとして、ヘルパー二級を取るべく若い人に混じって猛勉強していた事です。
    父親が何かを学んでいる、新しき道を考えて時間を大切にしている姿はとても嬉しかったのです。
    (実は私も更新制になったケアマネを今年に一時失効させてしまうのです・・が、
     本来学ぶ資格というものは、それが理にかなっていると思う。必要な時に研修させて頂く更新制というシステムは僕も大歓迎!)

    父親の文字を連ねたその勉強資料の中に、ある一文を見つけた。
    介護の先進国と言われている北欧で生まれた考え方にある、人間らしい暮らしとは一体何なのか。
    本人の生き方そのものの問題を照らし、身体障害者と共に、健常者と同様によりよい生き方を構築していく考えかたとして、
    ノーマライゼーション”という言葉があります。

    確かに現在の日本においても、十数年以上前とは随分と様子が変化しましたよね。
    昔はリハビリ・介護の分野でも、回復させる目的そのものや、一般的な社会の流れにしても、
    ADL(日常生活の動作全体)であったのが、
    QOL(生活の質を向上していく)事へ進化しています。
    バリアフリーデザインから、ユニバーサルデザインに更新されたように、
    リハビリテーションや介護には今や常識となり、生活の”場”においてこれからもより根付いていくのでしょう。

    その中心となる考え方には一人の人間として、家庭的にも、社会的にも 
    ”自分の存在を見つけ出せること”が、何よりも重要になってくるのです。
    教科書的には、
    ・生命の質ー病気や身体の障害がないこと
    ・生活の質ー動作や行動などで自立した生活を送ることが出来る。
    ・人生の質ー社会の一員としての役割をもって生きること。
    ・生きがいー満足感につながってくる。

    つまり、人間らしく生きる権利、そのものの回復が目的になったと言う訳ですネ。

    ならばこれからの時代、是非とも操体を学んで頂きたい!!

    日常の様々なクエスト(課題)をクリア(超える)するには、少しずつ経験を得て、大きな ”質的変化”を起こし、
    日々降りかかる様々な問題さえ、”困難”ではなく”祝福”として受け止めて自身の学習をはかる、
    多面的な方向で運用・応用可能となるスキルを、ヒトとして根本的にレベルアップ!

    私達一人一人経験の積み重ねで分かるものとは、自分自身の積み重ねていた歴史にある。
    何かあっても、ピンチの時こそチャンスと捉えていけば、結果的にゆとりという経験値が生まれる。

    その為にはやはり、自然法則に適うとはなんだろうか・・・となりますね。

    僕自身の幸運は、操体を学んでいる同志、操体を学んでいく事において知り合うことの出来た仲間が出来たことなのです。
    本当に不思議なのは、操体を学ばせて頂き出会った東京操体フォーラムのメンバーは、動物の中で最も好奇心旺盛な人間らしい人達で、
    立ち向かうべき荒波、そそり立つ高い山、有名な困難の代表?虎の穴も龍の穴も、穴というアナが大好きなのです(笑)
    そしてきっと今も、常にこれからも、
    操体操体法の創始者、橋本敬三師のDNAを受け継いだ三浦理事長と共に学ばせて頂く同志一人一人は、
    ”からだの意思に適う生き方” ”イノチに調和した生き方”
    そのものを学び、それに適うように、自分自身でそれぞれに学び続け、一つ一つを可能にしていくことでしょう。

    ですから是非、今年も操体の門を叩き、開いて体験し、共に学んで頂きたいのです。

    さて・・・相当長くなってしまいましたが、臨床の記録から一つ紹介させてください。 
    昨年末、母親と中学二年生の元気がよい女の子です。

    二週間前にテニスのレッスンをしていて、転倒。
    整形外科で前距腓靱帯断裂と診断、レントゲン写真では異状が写っておらず、杖とサポーターと消炎鎮痛剤を処方、
    杖を突いて初日から三日間はしっかりと指示通り ”RICE”をしていたのだが、
    二週間ァ経過したが、いまだに内出血少し残っていて腫れも少し残っているという。(確認はしましたが確かに腫れていた)
    少しずつ運動を再開しても構わないでしょう、と担当医に言われたのでテニスを再開するもやはり痛みがあるという。

    そこで担当医に相談すると、
    特に経過に問題はない。あまり痛いのであればテニスはしないで安静にしていた方が良いんじゃないかな、とのことであった。
    本人は学校の陸上の授業も、テニスのレッスンも大好きで楽しくて仕方ないらしく、心配なければ休みたくないらしい。

    ちなみにこの時もそうだったが、
    母親がペラペラといくらしゃべっても僕のポリシーとして、その症状を訴える本人である子供と話をする。
    子供は親と来院した時に親が説明してくれると思っているから、そこでまず親を離してしまうのだ。
    すると、どんなに親が心配していたとしても、
    結局これは自分自身の問題なんだな、と自覚するし、僕はそれをして欲しいのだ。

    まずそこで行ったことは、足踏み、屈伸、歩いてもらうこと。これでは痛みが生じない。
    次に、その場でつま先立ちをしてもらったりジャンプは出来るか聞いてみた。
    つま先立ちは少し痛みがあり、ジャンプは怖くて出来ない。
    杖を突いていたせいだろうか、頭とからだも斜めに傾いて見える(稚拙な描写ですね・・笑)

    ナルホドと、仰向けになって手をついてもらい、身体を半分起こした状態になって足関節の内反を行うと痛む。
    そこでチョトだけ遊ばせて頂いて、上下交差している手関節の皮膚を擦診してみる。
    すると、本当に痛い!すごく痛いと言ってビックリしている。
    そこから五分くらい手首に皮膚の操法をおこなって、もう一度確認してもらったが、今度は仰向けでひねっても痛みがない。
    なので一度立ち上がってもらうとジャンプも出来るというが、まだ痛みが不安とのこと。
    次に、第二分析で母趾球の踏み込みをしてもらうと、『ウワ〜気持ちが良い〜』と気持ちの良さを聞きわけて味わっている。

    僕の経験からすれば一般的に、大人に気持ちが良いですか?と聞いても、
    「ウワ〜気持ちいい〜」と言ってくれる方ばかりではない。(”からだ”は別にして)
    多いのが、「そうですねェ楽ですね」等と言われることが多い。
    だから、「楽の中に気持ちの良さがありますか?」と聞くことで「そうですね、あります」という。
    しかし、子供は比較的すぐに気持ちの良さを感じてもらえるのである。
    だから、何が起こったのかという説明を、常に求める小難しいことの好きそうな大人に、
    「ハハァ、御主が頭の切れることは重々承知した、されば一時、童(わらべ)に戻ってくださいませんかな」とでも言ってみたいナ。
    それはともかく、
    この女の子の”からだ”は、同じ拇趾球の踏み込みで上肢の捻り具合、骨盤の捻り具合を変えて三回ほど味わってくれた。
    見えない何かに背中を押された気分になった僕は、腫れが引いているのを確認。
    「ウン、無理しなくて良いけれど、出来ると思うから・・・」
    「じゃ〜張り切ってスキップして、反復横跳びして、連続ジャンプもしてみてね」
    と言うと、張り切ってステップを見せてくれたのでした。

    最新の脳科学および臨床研究で、”痛みそのもの”を脳がつくり、それを維持させているという現象がある。
    つまり、不安が痛みを生み出し、無いものをあると認識しているのだから、痛みを受容していく過程そのものに意味がある。
    それを、患者のみならず治療者までもが、”痛みそのもの”に囚われていてはそこに救いがないので、救われないだけなのだ。

    橋本敬三師がご健在当時、温古堂で患者さんにお話してあげたように、もともと、”救いがなるイノチ”なのだから。
    本人の痛み、報いともいえる根っこを共感してあげること、そのうえで本人の対処法を指導してあげられたら良いんじゃないか?
    臨床と一体何か?
    一つにそんな試みを、連ねて耕してはいるのである。(具体的には、般若身経をはじめとする操体の同時相関相補性等)

    つまり、不安のもとであるストレスの原因を知ることも、本人にとっての救いなのである。
    ただし、”からだ”自身にそのような認識はない。(ここがわからないからコンガラガッチャウ〜のだ)

    要するに、その心配とは何を元にして心配しているのか、自分自身でも知ることだ。
    あらゆる治療者は、何を根拠にして相手に伝えているのかを知ることだ。
    親が色々心配することは、必ずしも良い結果を生むとは限らないことを僕は知っている。
    親は親でも、イノチそのものをを生み出している親神様に、全てお任せしておけばいいのだ。

    それは、脈々と二〇万年もかけて受け継がれてきた、一代も途切れていない人間そのものの自然、つまりイノチにある。
    それをさも自分一代で作り上げたと言うテクニックの方が上だとか、機械の検査所見で全てまかなえる、なんて考える方がどうかと思う。

    シェイクスピアも、ハムレットに言わせている。
    「仕草に台詞を、台詞に仕草をあわせてくれ。 ただくれぐれも自然のほどあいを超さないことだ」
    「何事も度が過ぎれば芝居の目的に外れるからな、芝居というのはもともと昔も今も変わらず、
     言わば自然に向かって鏡を掲げ、善は善なりに、悪は悪なりにその姿を写して時代の様相をそのまま見せるもの。
     ・・・さ、そこで度が過ぎると、また力の足りぬ場合でも、見知らぬ客は喜ぼうが、この道の通はうんざりする・・・・」
     (シェイクスピア名言集、鈴木幸夫訳、平凡社より)
    私もうんざりしたくないし、自然の程合い、自然法則の応用をさせて頂くことを外れたくない。

    酒は甘口もありますが、たまには辛口も舐めたくなりますな・・・。
    と言うわけで、今も、今年も、操体を学び、私は私の信じた道を行くのみ。
    自然を活かす親神様、ありがとうございます。

    *注:親神様と言う言葉は、橋本敬三師の書き残された一文を、三浦理事長に頂いて十年ほど前に初めて知りました。

    岡村郁生

  • 『楽』と『快』の違いを紐解く、その一

    昨年の秋に開催したフォーラム、その時僕が発表させて頂いたテーマ。

    この発表時には、
    「気持ちよさとはこうだ、そのようにお伝えできればいいのですが、それほど簡単なものではないようです」
    「何故ならば、学んでいくほどに気持ちよさという概念が壊されていく、そして再構築されていくからです」
    「そして楽というものは、それに対してあるというよりも、何かと比較する事ではじめてわかるもののようです」

    こんな内容のことをお話しさせて頂いたのですが、
    全く持って歯がゆい!という方もいらっしゃったでしょうな・・・それは感じました(笑)

    確かに、
    これはこうでこれはこうなっている、「だからこれでいいのだ!」とバカボンのパパのように言ってみたい。

    しかしながら自称アストラには、少し緩い遊びの部分が欲しいのであります。

    なお、資料としてはかなり集めていた自信はあるし、今まではそれを読んでいたのですが・・・、
    「イヤそれは駄目だ!」
    オカムラは昨日のお前とまったく同じなのか?」
    「日々更新しているお前の”からだ”から伝わってくる声を聞かせてやれば、それで良いんだ」
    ・・・と、三浦寛理事長がお話ししてくれたのです。
    そして、
    「書いてあるものは後でいくらでも読んでもらえばいいからな」

    う〜ん、確かにその通りですね。

    と言うわけで、ちょっとだけ披露いたします。

    (原稿)                           
    橋本敬三師は85才を過ぎてから、
    「楽と快は違う」、「感覚の勉強をしろ」とコメントしていた。今回、このことに関して考察してみたいと思う。

    (分析方法からみた場合)
    『楽』
    本人の動きに対して、どちらの方が動かしたときにつらいか、楽か。
    運動感覚を比較対称することで判断したうえ、操法を選択する。
    『快』
    本人の動きよりも感覚を優先し、不快ならば無理させないで即止める。
    気持ちのよさを聞きわけられたならば、操法として選択できる。
    その動きに伴う感覚が楽ならば、本来は操法を行う理由がない。
    (以下省略)

    これは初心者には解説が必要かもしれないですね。
    要するに、
    操体法の創始者である橋本敬三師の行っていた”操体法”とは、

    これは僕の個人的意見ではあります故に、恐れを知らず言ってしまいますが、
    ”初心者へ伝えていく方法としては未完成”であったと言うことです。

    なぜならば、第一分析と呼んでいるこの初期の操体法方法は、
    いくら正体術の流れをくんでいるとはいえ、はあまりにも似通っているのです。

    他力の動きや、テクニックとしてその方法を学んでしまえば、
    後から訂正するのが非常に難しくなってしまうこともあります。

    ですから、学びはじめの頃には頭を使わないで、感覚を育てていってください。

    だからこそ 『快適感覚を聞きわけて味わう』というキーワードを当てはめることが自然なのであります。

    理にかなっていない理由とは、橋本敬三師の説く哲学思想そのものが、
    ”からだ”に感じ取れるように活かされているのか、と言えば活かされてはいないのです。

    三浦寛理事長は、
    「臨床家の要求に適うとは、からだの要求に適うということである。
     すなわち、からだの要求に適うということが臨床家の要求に適うということである」
    ・・・と教えてくれました。

    つまり ”からだ”は元々備わって生まれてきていることで、
    本来であれば、全てまかなえると言うことなのです。

    この条件を満たしているからこそ、”救いがなるイノチ”なんですよね。

    それでは、このイノチの源流を遡り、初詣、お墓参りに言ってまいります。
    ありがとうございました。

    **以下省略の後、つまり発表前に作成した一部の資料です(参考程度に・・・)**

    (要求感覚から考えてみた場合)
    『楽』
    “からだの意志”の要求とは別に“本人の意志”で要求される場合がある。
    それほど要求はないけれども、操者の要求に対して表現してくれる事もある。
    『快』
    “本人の意志”を関与させないで、“からだの意志”を最優先することができる。
    感覚を聞き分ける過程で、気持ちの良さをききわけ、充分に満足したい場合は、
    快適感覚委ねて、味わいながら“からだ”の要求を満たしていく事になる。                         

    (バランス感覚との関連性)
    『楽』
    どうしても相手の意識、操者の意識が関与してしまうので、
    “からだの求めるバランス”的には、やり過ぎたり、満足出来ないこともある。
    『快』
    “からだ”は、快的感覚を味わうことにより、本人の無意識に対して働きかけ、
    無理がなく、様々な流れをも調整するバランス制御装置が働く。

    (快適感覚との関連性)
    『楽』
    本来、この状態そのものが、“ニュートラル”状態である。
    『快』
    イノチの方向性とは、常に不快を認識した時点で変化を要求する。
    その要求こそ快適感覚であり、快に従うことで満足した状態を得られる。

    (臨床を行う上での関連性)
    『楽』
    楽を追求していけば、パターン処理に答えていく臨床に傾倒しやすい。
    また、患者が楽を快だと勘違いして学習してしまえば、
    “からだの要求”とは異なってくる可能性が大いにある。
    『快』
    快はパターンを嫌う。それは無意識が関与している為に、意識では得られない。
    それは、本質的なイノチそのものとの一期一会の世界観である。
    操者と患者共に、快による共感的創造の営みに、喜びに通じてくるものである。

    (からだとの関連性)
    『楽』
    楽な動きにからだは反応しない。
    反応したとしても本来の満足感は得られない。
    『快』
    何らかの歪みがあるときには、
    “快”そのものが“からだ”の動きと一致してくる。
    それを理解し、イノチの意志を充分に生かしきれる操者が、
    “からだ”の要求を受け取っていくことができるのである。

    岡村郁生