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  • 頼もしいご近所さん達

    おはようございます。
    爽やかな朝の京都からお届け致します。

    私が開業している界隈はお年寄りの数が多い地域なのですが、私の年齢に近い若い人達が経営しているお店もまた多く、増えつつあります。

    例えば「あじき路地」という路地では、大正時代に建てられた長屋を住居兼店舗にして、ものづくりを生業としている若者が中心となって活動しています。
    そこにはあかり専門の作家さんのお店があったり、ハンドメイドの革作品のお店があったりと、おもしろいお店が軒を連ねております。
    あじき路地以外では、サクラビスクという人形の作家をしながらレトロな雑貨を売っているお店や、昭和な雰囲気でこだわりの珈琲を出している喫茶店など多種多様です。

    これらのお店は独自性に富んでいて、一つ一つのお店に想いというか、ポリシーを感じます。
    また、共通点としては、自分のやりたいことを素直に表現しているということです。
    それは操体を専門に開業している私にとっても同じ気持ちなので、それらのお店に顔を出してお話等をしていますと、とても頼もしく、勇気づけられることもしばしばあります。
    今の時代に、このような心の通ったご近所さんとの繋がりを持つことができるのは、とてもありがたいことですね。

    操体をとおして、この土地でより一層自分を表現できるよう、これからも耕して参りたいと思っております。

    小松広明

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 

    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。

    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました

  •  人間━この動く建物

    今年の夏は厳しい暑さでしたが、僕の一番好きな季節は夏でして、こう寒くなって参りますと、つい出不精になってしまいそうです。
    そうなってくると気分も澱んできて、こたつむりになってしまうおそれがあります。

    おっといけません。

    以前、ビートたけしさんがインタビューで、
    「余生を楽に暮らすのはバカだと思う。 動かないのは死んでいるのと同じ。
     原子━あらゆるものは波動であるっていうような物理学があって、振動していないものは死んだと同じこと。
     だから爺になっても、 何か世間の役にたつことじゃなくても、世間の害になることでもやっていたい。
     日本一わるい爺でもいいかな」と言っていました。

    また橋本先生は「人間━この動く建物」という言葉を残されております。
    人体というのは、動くことが前提で構造(つく)られているのですね。
    植物を例にとっても、一見止まっている様に見えますが、中も外も静かに動いています。

    三浦先生の新著「皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2」をお読みになった方はお気づきになっていると思いますが、
    操体とて、日進月歩、動き続けております。

    気がつけば、今月開催されるフォーラムの事前申し込みの期限(11月12日)が迫って参りました。
    最前線の操体を味わいにぜひともお越しくださいませ。

    小松広明

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 

    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。

    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • Break on though

    所変われば品変わる。
    今年は発展途上国のネパール、先進国のスペインと対照的な国に行くことができた。

    ネパールでは物質への豊かさを追い求めるエネルギーがすごくあり、「チャンスがあったら成り上がるぞ」くらいの意気込みが全体的に感じられ、日本の生活に慣れている私にとってはたくましくみえた。
    逆にいくら不況だとはいっても、既にある程度物質に満たされている先進国スペインでは、陽気なラテン気質は横に置いといて、本質的な部分で、次は何に向かって生きていけばいいのかが漠然としているように見えた。

    しかしながら、エネルギッシュなネパールのような国が、いずれ物質的な豊かさを手にした時に、行き詰まりが生じることになるだろうとたやすく予想できる。
    それは全ての先進国に共通してある壁である。

    もっとも我が国日本においても、戦後間もない時は平和で物が豊かになれば幸せになれると誰もが信じ、必死になって働いて急速な成長を遂げてきた。
    しかし現状は、周知の通り病める人の多い世の中である。

    それでは先進国の壁をどのようにしたらbreak through(打破)できるのか。
    私はその鍵となるものが、操体にふんだんに詰まっていると思う。
    実際、それを東京操体フォーラムin Madridの時に強く実感した。

    今月の20.21日には秋季東京操体フォーラム千駄ヶ谷にて開催される。
    Break on through to the other side (By Doors)

    おこしやす。

    小松 広明

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 

    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。

    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • Lunes

    私のライフワークは操体、音楽、英語である。
    英語は3年前からちびちびと勉強していて、お世辞にも上級とは言えないが、日常会話の程度ならこなせるようになってきた。
    しばしば、「英語が話せたらいいなとは思うのだけど、三日坊主でなかなか長続きがしない」と嘆く話を耳にするが、私がなぜ継続して勉強していられるのか自分に問いかけてみたところ、
    思い当たることが二つあった。

    1. 英語を勉強して、自分はいったい何をしたいのか明確な目標があるということ。
    2. 操体で学んだ「バルの戒め」(頑張る、威張る、欲張る、縛るをしない)の実践。

    ただし1と2は両方とも必要で、1だけだと変に肩の力が入りすぎてスタミナ切れに陥るし、2だけだと何処に向かえばいいのか分からなくなってしまい、フェードアウトしてしまう。
    つまりこの二つの要素あっての継続なのだ。
    また、高校時代は学校をサボってぶらぶらしていた私がこんなことを書くのは恐れ多いのだが、英語に限らず学問をするということは明確なビジョンと持久力を要するものなのかなと思っている。

    ところで私はスペインに行くまでの一カ月間、スペイン語を集中して勉強した。
    これは私なりの仕込みで、今までの経験上、これをしておくと現地の人との交流がより愉しくなるのだ。それに加え、常に語学を実践できる環境下にあるため、現地の人と話せば話すほど語学力がアップする。
    さらに、それが帰国してからの語学学習のモチベーションアップに繋がり、とてもいい自分のお土産になる。
    実際、スペインから帰国してから、NHKのラジオとテレビのスペイン語講座で勉強しているのだが、以前とは違い、京都にいながらスペインの乾燥した空気、オリーブ畑などの
    空間がありありとひろがり,放送時間にコクがでてきた。

    ちりも積もれば山となるとはよくいったもので、またスペインに行ける日が来ることを意識して、操体の学び、語学学習をこつこつとしていきたい。
    あっ、お金もこつこつ貯めなくちゃ。
    さらにスペインを満喫できるように。


    (トレド)

    小松 広明

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 

    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。

    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • Domingo

    日下さんよりバトンを受け取った、身も心もすっきり、京都のすっきり小松です〜。

    紅葉はまだ少し先のようですが、京都はすっかり秋の行楽シーズン到来で、日に日に観光客が増えてきている風情。
    今年は松濤院の近くにある高台寺の紅葉を観に行きたいなと思っております。

    それにしても早いもので、スペインから帰国してから一カ月以上が経ちました。
    時差ぼけもすっかりすっきりして、スペインとトルコの日々を反芻して味わっております。
    すると、あちらで覚えた感覚が蘇り、あたかも現地にいる様な時間が訪れます。

    思い起こせば、インドから帰国した3年前、次に海外へ出る時は、操体と英語を勉強し、それを活かして旅を愉しみたいなと思い、こつこつと日々耕して参りました。
    そんな想いが実を結び、念願が叶ったのですからありがたいことです。
    車にぶつかって大怪我をした 日もありましたが、地道にこつこつと学んでいくと、いいことがあるのだなと実感している次第です。

    さて今月の20、21日は千駄ヶ谷の津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    盛りだくさんの内容で、参加者にとって実りある学びの時間になること必至でしょう。
    たくさんのご参加を、心よりお待ちしております。

    それでは今日から一週間宜しくお願い致します。

    小松広明

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 

    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。

    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • からだ(最終日)

    昨日の続き
    七番目のからだはニルヴァーナ体という。ニルヴァーナとはサンスクリット語で「涅槃」という意味であり、真理、絶対なるものは七番目のニルヴァーナ体のなかにある。ニルヴァーナ体は最後のからだであるゆえに、そこにあるのは創造と破壊ですらない。そこにあるのは「存在」と「非在」あるいは「顕在」と「非顕在」と言えるものが二つの息である。そのいずれをも自分と同一視してはいけない。
    ニルヴァーナ体の言語は存在と非在である。非在の言語は出息の言語であり、その非在の言語から語られるのは「実体は空だ」と言う。一方、存在の言語は入息の言語であるがゆえに「創造こそ究極の実体だ」と言う。これが仏陀イエス・キリストの表現の違いだ。入息を選ぶと、肯定的な用語を使い、出息の方を選んだがゆえに否定的な用語を使う。しかし、もうひとつの選択がある。それは「真理」だ。真理は語ることができない。どうしても言葉にするなら「絶対存在」とか「絶対的非在」と言えるが、真理はいかなる宗教にも属していない、何故なら、空想に支配された「神」というのは、ひとつの仮説であり、虚構であるからだ。真理を知るには、空想を完全に避け、現実の実存と実存の接触に生きなければならない。ニルヴァーナ体は、これらをも超えている。なぜなら無身体だからである。
    ニルヴァーナ体は存在か非在か、肯定の言語か否定の言語か、いずれかを選ばなければならない。そこには二つの選択しかない。否定的な選択をすると何ひとつ残らない。今ひとつは肯定的な選択、これはすべてが残る。ニルヴァーナ体では、人間に関する限り、そして世界に関する限り、生命エネルギーは多重次元の領域の中で顕われる。生命があるところ、どこへ行ってもいたるところに、中に入ったり、外に出たりするプロセスがある。生命はこの両極性なくしては存在できない。それだからこそ、プラーナとはエネルギー、宇宙エネルギーと言われているのである。
    我々は、はじめに肉体の中でそのプラーナに親しむ。プラーナはまず肉体の息として顕われる。それから、他の形態をとったからだの息として順々に顕われる。「感化」→「磁性」→「想念」→「生命」→「創造」そして「存在」。我々がそれに目覚めたら、常にそれを超越して真理に達する。その真理に達した瞬間、そのからだを超越して次のからだに入る。肉体からエーテル体へ入り、それから次が続いてゆく。超越しつづけていってニルヴァーナ体まで来ても、そこには、まだ依然として無身体という「からだ」がある。が、ニルヴァーナ体を超えると、そこは「空」である。そのときには純粋になり、我々は分裂していない。そこにはもはや両極性はない。そうなったら「不二」だ。そうなったら「ひとつ」だ。その意味するものは、大宇宙の真理と個人の内奥に存在する真我とは同一であるという根本原理に目覚めることにある。

    操体には「同時相関相補連動性」という理論がある。これは健康の回復や精神の安定といった心身の活性と目覚めに卓越した効果が証明してくれる。そういった効果はどのような原理によって生じ、現れてくるのであろうか。それは大自然の理法に基づき、波動に共鳴、共振すること、すなわち、からだと心が生命の法則と一体となって完全に調和していれば病気になることはないのである。宇宙的な広がりをもつとさえ言われている、からだと心の相関性のからくりが、近い将来において、操体によって明らかにされると、私は信じている。
    一週間にわたって長々と、しつこく、呼吸の出入りと七つのからだ、そして生命エネルギーについて、おつき合いいただいた。明日からは身も心もすっきりした小松さんによろしくお願いしたい。 

    日下和夫

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 
    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • からだ(6日目)

    昨日の続き
    六番目のからだはコスモス(宇宙)体である。ここまでくると、もはや生命でさえない。五番目のスピリチュアル体を過ぎると、「我」が落ちる、そのときにはどんな自我もない。我々は全体とひとつになる。そうなってくると今度は、出たり入ったりするのは我々の何かではない。なぜなら、自我はないからである。そして、一切が宇宙的になる。宇宙的になるがゆえに、その両極性は「創造」と「破壊」というかたちをとる。その大気圏は創造力と破壊力だ。
    コスモス体は創造性と破壊性、創造力と破壊力というこの広大な大気圏の中にある。瞬間ごとに、創造が起こり、瞬間ごとにあらゆるものが崩壊してゆく。この宇宙にひとつの星が生まれつつある、それは我々の誕生なのだ。今度はその星が消滅してゆく、それは我々の消滅だ。天地創造はひとつの星が誕生すること、その星は混沌から生じる、それはあらゆるものが存在の中へ入ってくる。そして、あらゆるものが消え去る、あらゆるものが死滅する。星が死に、存在が非存在の中へ移ってゆく。コスモス体は、自我中心的ではない、宇宙的になってくる。コスモス体においては、創造に関するすべてが、天地創造のすべてがわかるようになる。
    天地創造」というのはコスモス体に関することを言っている。コスモス体のなかにある人、コスモス体にまで達した人は、死んでゆくあらゆるものを自分自身の死として見る。ジャイナ教の開祖、マハーヴィーラのような人は蟻一匹殺すことができない。非暴力という戒律があるからではなく、マハーヴィーラ自身の死と受け止めているからだ。死ぬものすべてが彼の死なのである。我々が創造と破壊、たえず生じるものと、たえず滅びるものを自覚するとき、その自覚はコスモス体のものである。
    ひとつのものが滅びるときはいつでも、ほかのものが生じている。太陽が死滅すると、もう一つの太陽がほかのどこかで誕生しつつある。この地球が死滅すると、もうひとつの地球が生じるであろう。しかし、我々はコスモス体においてさえ執着するようになる「人類は死滅してはならない!」と。が、生まれたものは、すべて死ななければならない、人類も死ななければならない。核兵器は人類を滅ぼすためにつくられた。我々が核兵器をつくるが早いか、ただちに別の惑星へ行くという憧れをつくりだす。核兵器がつくられたということは、地球が間もなく死滅するということにつながる。この地球が死滅する前に、生命はどこかほかのところで進化しはじめることだろう。
    コスモス体は宇宙的な創造と破壊の感覚である。創造と破壊は入息と出息。コスモス体に達すると、我々はその両極性に目覚める。創造と破壊に目覚めたら、この二つの位相を自覚したら、その両極性を超えた第三の位格である「保持」というものを知るに至る。これこそが我々の実体なのである。
    ユダヤの旧約的キリスト教バビロニア神話、シリア神話の大洪水、あるいは世界終局を語るヒンドゥー神話のプレラーヤなどは宇宙的なひと出息、呼吸する宇宙の力だ。森羅万象が存在のなかに入り、また非在のなかへと還ってゆくのである。こういった大洪水やノストラダムスの予言にあるような世の終末について話すとき、それらはみなコスモス体について語っている。このように神話や昔話などの比喩がコスモス体の言語であり、本質なのである。
    臨床心理学には「現象学」と「実存主義」をとり入れたゲシュタルト療法なるものが存在する。ゲシュタルト心理学は、ジャン・ポール・サルトル実存主義を根本に据えており、「我ゆえに我あり」とは、このサルトルの主張であるが、これは、「実存」が「本質」に優先するというものである。しかし、臨床においては本質が実存に優先していないと治療は成立しない。なぜなら本質的に病人というものは存在せず、ただ、病気という現象が実存しうるだけだ。本質的に健康があるからこそ、病気から戻ることができるのである。

    操体の臨床には「言葉による誘導」というのがある。はじめて操体の臨床に接した方は、この言葉の誘導に悩まされる。「からだの中心を使って表現して」、「全身で表現して」、「首で表現して」、はては「へそで表現して」と、次々に言葉がやってくる。さあ、どうしたらいい? いったい何をしろと言っているのか? さらには「からだにききわけて」と、くる。からだにどうやってききわけろといっているのか? 「頭」で考えるとますますわからなくなってくる。しかし、からだはちゃんとわかっているのだ。感覚というのはこの「頭」からさえ降りてしまえば、あとはからだがうまくやってくれる。言葉の誘導はからだに対して「操体言語」を用いて話しかけているのである。「頭」と話しているのではない。操体の言語で話しかけ、そしてききわけさせている。操体での言葉の誘導はコスモス体というからだの本質にききわけさせているということだ。
    明日につづく

    日下和夫

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 
    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • からだ(5日目)

    昨日の続き
    五番目のからだ、スピリチュアル体は霊体とも云うが、ちょうど低次元のからだの住む大気圏が想念や息や磁力や愛憎であったりしたと同じように、スピリチュアル体の住む大気圏は「生命」である。スピリチュアル体にとっては、生命、それ自体が大気圏だ。だから入ってくるときが生の瞬間、出てゆくときが死の瞬間になる。スピリチュアル体にまでくると、生命が自分のなかにあるものではないということに気づく。からだの中に入ってきて、そしてからだから外へ出てゆく。生命それ自体はからだの中にはない。それはちょうど息のように単に中に入ってきては外に出てゆくものだ。だからこそ、このスピリチュアル体のゆえに「息」と「プラーナ」が同義語になったのである。
    スピリチュアル体ではプラーナという言葉は重要になる。それは中に入ってくる生命と外へ出てゆく生命のことであり、死の恐怖が絶えず我々につきまとっているのはそのためだ。我々は、いつも死がすぐそばにいて、角で待ち受けているということに気づいている。それはいつもそこにいて待っている。死がいつも我々を待ち受けているというこの感覚、不安、死、暗黒のこの感覚はスピリチュアル体にかかわっている。それは非常に暗い感覚、非常に茫然としている。というのも、我々はその感覚に完全に無自覚であるからだ。スピリチュアル体に達して、そのからだを自覚する。と、我々は生と死は両方ともスピリチュアル体にとって、入っては出てゆく息にすぎないということを知るようになる。それに気づくとき、我々は死ぬことはできないということも知る。死は先天的な現象でなく、生もまたそうである。
    ジグムント・フロイトはどこかで、それをどのようにかはわからないが、垣間見たにちがいない。フロイトはヨーガの達人ではなかった。もし、彼がヨーガの達人だったとしたら、それを理解するところまでいっただろう。フロイトはそれを「死の意志」と呼んだ。そして誰もが生に憧れ、ときには死に憧れる、と言っていた。人間には相反する二つの意志がある、生への意志と死への意志だ。それは西洋人の心にとってはまったく馬鹿げたことだった。この矛盾する二つの意志がどうやって、ひとりの人間の中に共存できるだろう? が、フロイトはこう言う。「自殺があるのだから、死への意志もあるに違いない」
    人間以外のどんな動物も自殺することができない。動物はスピリチュアル体を自覚することができないばかりか、生きていることも自覚できないし、知りえないから、自殺することは不可能なのである。自殺するには必要な条件がある、生きているということの自覚が必要になる。だが、動物たちは生を自覚していない。もうひとつ必要なことがある、自殺するには、死に対して無自覚でもなければならない。動物たちは生を自覚していないがゆえに自殺できない。が、我々人間は、生は自覚していても死を自覚していないがゆえに自殺が可能なのである。もし、人間が死に対して自覚するようになったら、自殺などできるものではない。
    死は五番目のからだの相、スピリチュアル体のものである。それは特定のエネルギーの流出と流入だ。世の中には、ときに自殺を考えたことのない人間はただのひとりもいない。なぜなら、死は生のもう一つの側面だからだ。この側面が自殺か殺人か、いずれかにつながりうる。そのいずれかになりうるのである。
    もし、生にとり憑かれたら、もし、生を完全に否定したいほど生に執着したら、我々は他人を殺すかも知れない。他人を殺すことによって、自分の死の願望を、死への意志を満足させることになる。そういうトリックを使って死への意志を満たすのである。そして他の人が死んだからもう自分は死ぬ必要はないと考える。
    ヒトラームッソリーニなど大虐殺を犯した人たちは、みなそれにもかかわらず非常に死を恐れていた。彼らはいつも死に対して非常におびえている。だから、その死を他人に投影する。他の誰かを殺せる人は、自分が死よりも力強いと感じる。自分は他人どもを殺すことができる、「手品まがいのやり方」、「魔法の公式」を使って彼はこう考える。自分は他人を殺せるから死を超えている、自分が人に対して為すことは、自分の身には為され得ないと。これは死の投影である。だがしかし、それは自分に戻ってくる。我々が多くの人を殺し、しまいには自殺するとしたら、それは我々に戻ってくる投影なのだ。ヒトラーの一生はまさにこれだった。
    スピリチュアル体においては、生と死が自分にやってきたり、行ってしまったりすることに、人はそのどちらにも執着できない。もし、執着しているとしたら、我々は生と死の両極性をその全体において受け入れていないということになる。そして我々は病気になるだろう。死を生の別の面と見なして受け入れることは最も難しい。生と死を相似・同一現象、ただ同じもの、ひとつのものの二つの側面として見なすのは、最も難しいが、スピリチュアル体ではそれが両極性なのである。それがスピリチュアル体におけるプラーナ的存在なのだ。

    橋本敬三師は「生かされている」という生命観について触れられているが、これはまさにスピリチュアル体のことだ。師は、「心身は、大自然が生んだ機動機関であり、生命エネルギーの入力出力を繰り返す」また「生命エネルギーの入力出力のバランスは原始感覚の安定感、満足感である」と言っておられる。これら操体哲学の中枢は生命の根幹に土台を据えているということだ。
    明日につづく

    日下和夫

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  • からだ(4日目)

    昨日の続き
    四番目のからだは精神体、メンタル体のことである。メンタル体では想念が入ってきて、想念が出てゆく。この現象も肉体における入息・出息と同じ種類の現象だ。心の内に想念がやってきては出てゆく。想念はそれ自体がエネルギーである。メンタル体ではエネルギーが想念の往来として顕われ、肉体では呼吸として顕われる。だからこそ呼吸に応じて想念を変えることができるのだ。
    このメンタル体をうまく利用しているのが俳優だ。俳優は呼吸を使って想念を意のまま操ることができ、その場にあった役柄をうまく演じることができるのである。そこには相互の関係がある。息を吸うのを止めたら、想念がやってくるのも止む。呼吸を止めることによってメンタル体での想念も止むことになる。そして肉体が不安定になるにつれて、メンタル体も不安定になる。肉体は息を吸いたがるし、メンタル体は想念を入れたがる。空気が肉体の外側に存在するように、想念もメンタル体の外に広がってくる。
    想念は入ってきて出てゆく。自分の息が、いつか他人の息となりうるように、自分の想念もまた他人の想念になりうる。毎回、息を吐いているのと同じように、自分の想念を投げ捨てている。ちょうど空気が存在するように想念もそのように存在する。空気が汚されるように、想念も汚される。空気が不純になるように、想念もまた不純になる。想念を取り入れ、想念を投げ出すエネルギー、そのエネルギーも同じプラーナ、生命エネルギーである。
    この「入ってくる想念」と「出てゆく想念」にも相似・対応するものがある。息を吸っている間に想念が浮かんだら、そのときはじめて独創的な考えが生じる。息を吐くときは無力な瞬間だ。その瞬間にはどんな独創的な想念も生まれない。ある独創的な想念が生まれる瞬間には、呼吸さえ止む。独創的な想念が生じるとき、息は止まる。対応する現象はそれだけだ。想念が出てゆく際には何ものも生じない。それはただ死んでいる。だが、入ってくる想念と出てゆく想念に気づいたら、そのときには次の五番目のからだを知ることができる。四番目のメンタル体のところまでは、理解するのは困難ではない。というのも我々にはそれらを理解する拠り所となりうる何らかの体験があるはずである。

    操体では「自分でなければやれぬことは、息と食と動と想の四つがあり、他人に代わってもらえない」という教訓がある。この内、「想」はメンタル体の「想念」のことを言っている。病にかかった想念はすべて少なからず、神経症を伴っており、この神経症をいかに溶解するかということである。操体の動診という技法は、肉体から出発するのであるが、その神経症は肉体組織にまで及んでいて、抑圧をつづけている。この「想念」の抑圧を解放するのに動きから導かれる「表現」がとても効果的だ。動診での「表現」における意識からメンタル体の「想念」に気づかされるのである。メンタルチックに言えば、「動診」というより、むしろ「表現診」といったほうがふさわしい。
    明日につづく

    日下和夫

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    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。

  • からだ(3日目)

    昨日の続き
     エーテル体での好きと嫌いという両極性に気づくようになり、観照者でいることができるようになったとき、三番目のからだである「アストラル体」を知るようになる。アストラル体は星気体とも言うが、媒体は「磁力」であり、アストラル体の「息」だ。
    武道を志している者なら、すでに気づいていると思うが、柔道では相手が無力になるときを見てとる技法がある。その時が攻撃の瞬間だ! 相手が力に満ちているときは、負けるに決まっている。相手の磁力が出てゆく瞬間を見てとり、そのときに攻撃しなければならない。そして自分の磁力が入っているときに、相手に攻めるようそそのかすのである。
    この磁力の往来は呼吸と一致し、対応している。何か困難なことをしなければならない時、息を内側に保たなければならない。たとえば重いものを運ぼうと思っても、息が出てゆくときには持ち上げることなど到底できっこない。だが、息を吸い込んでその息をこらえているときにはそれができる。息はアストラル体のからだに起こっていることに対応している。だから柔道では息が出てゆくとき、相手の磁力が出ていっている瞬間である。そのときこそ攻撃の機会だ! これこそが柔道の秘訣である。相手がおびえて無力になるときの秘密を知っていたら、自分より強い人でさえ打ち負かすことができるのだ。磁力が出ているとき、無力になるのは当然のことである。だから、アドルフ・ヒトラーのような男でさえ無力なときがあり、死を非常に恐れていたという。逆にどうしようもない臆病者でさえ勇敢なときがある。
    この磁力、磁性というのは、ある瞬間には力強いが、次の瞬間には無力になっている。ある瞬間は希望に満ちているが、次の瞬間には失望している。そして、ある瞬間は自身に満ちているが、次の瞬間には自信を一切失う。それは磁性が入ってくるのと、外へ出てゆくことなのである。磁力が入ってきているときは卓越している。逆に磁力が出ていってしまった時、取るに足らぬ人になっている。神をも、ものともしない瞬間があると思えば、影にさえおびえる瞬間もある。アストラル体というのは、ちょうど空気のような「磁力圏」に生きている。まわり中にある磁力を吸い入れ、吐き出している。この磁力に気づいた時、その両方を超越することができる。
    また、この磁力は肉体の良能作用に密接な関係がある。遠隔治療といわれるものもアストラル体のこの磁力に関与している。呼吸に意識をつけて直接、磁力に働きかけて「強力」と「無力」のバランスを図り、自然治癒能力を正常に戻すことを目的としている。

    操体には渦状波というのがある。渦状波は肉体的には皮膚への接触によってからだの自覚できない無意識に問いかけていくのであるが、この自覚できない無意識の緊張の解放は、からだの細胞が柔軟に本来の力が発揮できる状態を促すことにある。これはアストラル体の磁力に直接、働きかけているものだ。渦状波による操法では生命力の「強力」と「無力」のバランス受けて、自然良能作用が著しく向上するのを体感していただけるものと思う。
    明日につづく

    日下和夫

    新刊情報:皮膚からのメッセージ 操体臨床の要妙Part 2(三浦寛著)、たにぐち書店より発売。 
    11月20、21日千駄ヶ谷津田ホールにて2010年秋季東京操体フォーラムが開催されます。
    2010年8月、社団法人日本操体指導者協会を設立しました。