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  • 文明の生態史観 その2

    みなさん、おはようございます。今日はブログの5日目。
    だんだん寒くなってきました。もう京都・美山町では雪囲いをしている頃でしょう。
    もうそろそろ「ゆきんこ」が飛び始めているのでは・・・
    などと思いを馳せながら、昨日に続き「文明の生態史観」を、ご紹介したいと思います。

    アフガニスタン・インドの旅行の末、梅棹先生を襲った日本に対するイメージのギャップ。これは、様々なジャンルの専門家と知的な刺激をかわしながら、全く異質の文化をもつ国々を探索したための、必然であり、我々一般人にとってありがたい示唆をいただくまでの胎動期だったのです。

    梅棹先生は、2000年も前の思想や歴史を今も相変わらず学んでいるインドや、一夫多妻制のイスラム教国の生活に触れ、日本の特殊性に気づかれます。
    明治以来の近代化は、日本では「西洋化」などと言われてはいますが、これはなされるべきしてなされたもの。当然のなりゆきとして近代化されたと梅棹先生は思われたのです。
    つまり、インドのような国が近代化に際してのりこえなくてはならない問題は山積み。
    カースト制、人口過剰、貧困・・・日本はこれらの国とは、まったく違うあゆみをしていたのです。

    そこで、この特殊な国・日本をどのような座標軸でみるか?それは、世界をどうみるかと裏腹の関係になります。
    本のなかで、
    「現代の世界という空間のなかで、日本がしめている位置の、正確な座標を決定すること。それが当面の課題である。」
    と述べておられます。

    それでは、どのようにみるか。
    この世界を旧世界と新世界に分ける。
    新世界は、南北アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド南アフリカ
    旧世界とは、アジア、ヨーロッパおよび北アフリカまでふくむ地域。
    ここで爽快なのは、新世界は無視。
    理由は「かんがえがまとまらない」とのことでしたが、歴史的にみれば、表面的に過ぎないと判断されたのでしょう。

    そして座標軸として、「文化の機能論的な見方」としました。
    つまり、文化を歴史的な由来・系譜的にみるのではなく、どのように組み合わさり、どのように働くかという機能に焦点を合わせてみたのです。
    本の中では、
    「共同体のもつ文化を、つみ木にたとえよう。ひとつひとつのつみ木の色は、いろいろあるかもしれない。しかし、個々の木片の色は、つみあげた構築物の形とおおきさには関係はない。」
    素材はなんでもよい、ただそれをどのように構築して、何を作り上げるかが機能である。そして機能をどのように展開していくかが、文化・デザインであると述べておられるのです。

    この座標で、日本をみるとどうなるか・・・高度の近代文明国家。

    「いちいち文明の特徴をあげるまでもないが、たとえば、巨大な工業力である。それから、全国にはりめぐらされた膨大な交通通信網。完備した行政組織、教育制度。教育の普及、豊富な物資、生活水準のたかさ。たかい平均年齢、ひくい死亡率。発達した学問、芸術。」と述べられています。
    たしかに、日本はとんでもない文明を誇っている国。
    この本が出版されたのは、今から40年以上も前のことです。その後現在に至るまで、加速度的にその機能は進化し続けています。
    それでは、この日本と同等の文明を保っている国は・・・旧世界では、ヨーロッパのみです。
    そこで、日本とヨーロッパを第一地域とし、それ以外の旧世界を第二地域とします。
    アメリカ大陸、オーストラリア大陸を除いたユーラシア大陸と一部のアフリカ大陸の地図上では、この第一地域は東の端と西の端に、ぽつんと存在しており、第二地域はユーラシア大陸を斜めに大きく覆っています。

    さてこの二つに分けられた地域の共通点や特徴はいかに・・・これは明日ご紹介いたしましょう。

    では ごきげんよう!ありがとうございました。

    佐伯惟弘

  •  文明の生態史観 その1

    みなさん、おはようございます!
    今日はブログの4日目なかびで、12月最初の日、大安です。
    なんとなく、いい感じ・・・それでは、始めましょう。

    今年の8月、京都・大徳寺東京操体フォーラムin京都が行われました。このご縁を作って下さったのが、京都・美山町在住の梅棹マヤオ・美衣ご夫妻。
    25年ほど前からのお付き合いで、独り者になった私は、大晦日から正月は梅棹家で過ごすのが恒例になっています。
    この梅棹マヤオさんのお父さんが文化人類学者・梅棹忠夫先生。梅棹先生は、京大今西錦司門下で日本における文化人類学のパイオニアです。
    生態学を出発点とし、動物社会学を経て、民族学文化人類学)、比較文明論に研究を展開。
    90才を迎えられた今年の7月にご逝去されました。
    心よりご冥福をお祈りいたします。
    1才過ぎの我が娘が、眼をお悪くされた梅棹先生のお顔を、
    「パンパン、パチパチ」と叩いて何とかコミュニケーションを取ろうとすると、それにニコニコと満面の笑顔でお返しして下さいました。
    茅葺き民家の囲炉裏のある空間。
    娘と先生のたった一度の出会いの場面が今も瞼に焼き付いています。
    この梅棹先生の著明な書に「文明の生態史観」があります。この本を読んだ時の感動・・というか快感・・これはとんでもないものでした。
    生まれて初めて、知的快感を得た書物と言ってよいでしょう。
    そこで、今回は「文明の生態史観」を紹介するという身の程知らずの大胆な挑戦をしてみたいと思います。
    まあ〜いつまでたっても、ノー天気のおバカさん。

    さてこの「文明の生態史観」が生まれてくるきっかけとなったのが、1955年5月から11月までのカラコルム・ヒンズークシ学術探検隊。
    これは、京都大学が組織した植物学、地質学、人類学、考古学、言語学、医学などの専門家がアフガニスタンパキスタン・インドおよびイランの四カ国を戦後はじめて調査したものです。
    自然科学・動物学を専門とされていた梅棹先生がこの半年の体験で比較文明という壮大な分野を創世されるにいたったのは、インドでの体験が大きいようです。
    東洋の国・インドという言葉は、西洋人から見たイメージ。
    実際には、コーカソイド系統のインド人は肌が黒いだけのヨーロッパ人。
    もともと東洋という言葉も、ヨーロッパ以外の東の国という非常にアバウトな表現。
    また、感性豊かな梅棹先生は、アフガニスタンからインドを旅する間に揺れ動く日本へのイメージを次のように述べられています。

    「わたしは、アフガニスタンを旅行しながら、日本の、おそるべき人口密度のことをかんがえた。大阪や東京の街頭風景がおもいだされてくるのである。いつはてるともしれぬひとのながれが、ざわざわ、ざわざわと、わたしの頭のなかを、いったりきたりする。日本はこれから、どうなるのだろうか。日本の人口問題の深刻さをかんがえて、わたしは、くらい気持ちになる。そして、アフガニスタンにおける人口密度の希薄さをうらやましいとおもう。
     ところが、わたしは、アフガニスタンからあと、パキスタン、インドをとおって日本にかえってきた。そして、そのうえで日本をみると、ひどく印象がちがうのである。東京の街頭にたって、あたりをながめまわす。アフガニスタンにいたときに、わたしの頭のなかをいったりきたりした、あのおびただしい群衆のすがたは、どこにもない。現実の東京の街頭には、人かげは、ほんのまばらに、みえるだけなのである。わたしはいつのまにか、日本の群集のイメージを、現実よりもうんとコンパクトなものに、頭のなかでかってにつくりかえていたのであろうか。
     現実の東京が人口希薄にみえる最大の理由は、わたしがインドをとおってかえってきたからにちがいない。インドの街頭風景はみてきたばかりである。そのイメージは、まだ変形をうけていない。わたしは、あのカルカッタの下町にうごめく群集の姿を、一種のものすごさの感じとともにおもいおこす。」

    梅棹先生の頭に去来するイメージのギャップ。
    ものごとを何の偏見もなくみることの難しさ、そして大切さを痛感されたのだと思います。
    (少し余談になりますが、梅棹先生の文章は、本当に読みやすいのです。なぜなら、ひらがなが多いからです。改めて、引用された文章をごらんになるとお分かりだと思います。
    ご自身の資質にたいする誇りと、アカデミズムに対する強い反抗心、そして一般の人々に対する愛情を感じます。)

    さて、この激しいイメージのギャップから、何が生まれてくるのでしょうか?
    明日から、本題の「文明の生態史観」解説に入って行きたいと思います。おつきあいのほど宜しくお願いいたします。
    ありがとうございました!

    佐伯惟弘

  • 英語との出会い その2

    おはようございます、今日はブログの三日目。そして、11月の最終日。
    明日からは、師走を迎えるのですね・・・・時が経つのは、やはり早い。でも、そんなこと気にせず前を向いて、精一杯生きようではありませんか!!
    まあ〜まあ〜生きようなんて、一人よがりな事をいっては、バチがあたります。
    のびのびと生かしていただきましょう!

    それでは、昨日のつづきから。
    アメリカ人留学生の私の彼女は28才。私より4才年上。
    女性で28才は、妊娠適齢期。
    (これを東洋医学的には、天癸=てんきということばで、説明できます。天癸は、人体の生長発育と生殖機能を促進する物質と説明されていますが、女性と男性ではその周期が違います。女性は7の倍数。男性は8の倍数。つまり、女の子は14才から生理がはじまり、男の子は16才でやっと射精が出来、女性は28才、男性は32才がそれぞれの華ということになるのです)

    案の定、28才の彼女は経済力の無い私でもいいから、結婚をしたがったのであります。
    「よし、そこまで思ってもらうのならば、アメリカに行って決着しよう!」とノー天気おバカさんは、思い詰めたのです。
    24才の夏、初めて日本を出てニューヨークへ。

    「ガ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜ン!!!!!!!!」

    それはそれは強烈なカルチャーショック。
    その上、英語がしゃべれると思っていた天狗の鼻は、ペッチャンコ。いや、陥没!!!
    「オレって英語しゃべれへん!!!」
    結果・・・結婚どころではないということになりました。
    まあ、立ち直りの早いノー天気おバカさんですから、このカルチャーショックを糧に“積み木”という芸術活動を見つけ出し、おまけにブルックリンミュージアム・アートスクールという学校の奨学金を受けるようになったのです。

    それで、もう一度アメリカで仕切り直しということになりました。彼女のことは、色々あったのですが、今回は割愛。
    さて、ここで再び英語と格闘することに。
    ワラをもすがる思いで英語をマスターしたいともがきます。

    そんな時は、ペラペラと英語をしゃべっている人の言葉に重みがあるのです。
    幸い、渡米機内の隣席にいたYさんが、「英語を話せるようになるには、第一にアメリカ人ガールフレンドを作ること。第二に英語のシャワーを浴びること。その方法として、毎週水曜日に発売される「ヴィレッジヴォイス」という情報誌を買って辞書無しで読むこと。」
    と教えてくださいました。

    第一のガールフレンドに関しては、まずまず。第二の辞書無しでの英語シャワー。これには結構苦労しました。何を言っているのかさっぱり?ってこともあります。しかし、推測する力を養うには大切なことだと思います。
    一口に英語といっても、ニューヨークの英語はそれぞれのお国なまりが激しく、推測しながらの会話は必須。
    辞書なしの状態は、常に臨場感溢れる状況になっており、英語のカンとセンスを磨くにはよい方法のようです。

    私はYさんの言葉をただひたすら信じ、毎日英文を読む努力だけはしました。
    ところが、全く身につきません。特に電話が恐くて・・・
    電話が鳴るたび、心臓が止まる思い。
    受話器を取っても、何を言っているのか分かりません・・・
    こんな日が1年くらい続きました。
    ところが、2年目に入りしばらくすると、アメリカ人と当たり前に話している自分に気がつくようになります。
    「アレ?しゃべってる」

    実は、聞き取りよりしゃべる方が早く出来る様になります。
    その理由は、パターン化した日常会話にあります。
    それを体得し、こまかいミスを気にしない性格ならば、2年もすれば、しゃべる事に関しては、大丈夫でしょう。ヒヤリングの方は、しゃべることが出来るようになると、ある日突然、みんなのしゃべっている内容が分かり始めます。
    そうなると、夢も英語になってきます。一日中英語を喋っている日が続くと。今度は、日本語で考えているのか、英語で考えているのか分からなくなり、頭が作動していない状態を体験します。
    不安な感覚におそわれ、
    「こんな状態で、ずーと、ここにおったら、アホになる!」と元々アホなのに心配してしまうのです・・・ホントにアホです!

    どっちつかずのこの状態を、ずーと耐えておれば、英語での思考回路が構築されていくのでしょうが、私は中途半端な時に、日本へ戻ってきました。

    そして、日本語で考えるといういつも通りの思考回路の生活を取るようになりました。それから、全く英語との出会いは無くなり、アメリカ人の嫁さんと生活する事になっても(やはり、彼女が28才の時に結婚しました)、嫁さんは、日本語ペラペラ。
    英語が日常生活で使われることはありませんでした。そのため、嫁さんは私が英語をしゃべれるという事さえ知らなかったのです。

    初めて、アメリカのご両親にお会いするとき(ここまで、読んで少し変だなあ?と思われる方がいるかも知れません・・・・そうなんです・・我々は結婚してから、アメリカのご両親にお会いしたのです・・・やはり、ものごとは、順序を踏まえなくては、長続きしないようです・・)

    「アレ!!ひろむ・・・あなた、英語できるの?」
    「若いころ出来てた!」
    お父さんがペンシルベニアの空港まで来てくださり、車内で3人・・・・・・

    「アレ?しゃべってる」

    一度からだを通して覚えたものは、ひとたびスイッチが入ると再現できるようなのです。
    めでたし、めでたし。

    とまあ〜、キリがあまりよくないところで、英語との出会い話は、おしまい。
    語学習得のお役にたったでしょうか?
    地道に静かな汗をかくことはもちろん大切ですが、英語を話している未知なる自分をイメージするともっと楽しくなります。
    私の日本語は、伊予弁が基礎にあり、テンポが非常に遅いのですが、英語をしゃべるときは、ニューヨーカーの感じでアップテンポ。
    全く別人になります。
    思わぬ自分を見つけることができ、結構楽しいものです。
    その気になれば、誰だって習得できる語学は、やはりお勧め!

    お付き合い、どうもありがとうございました。
    それでは、また明日、ごきげんよう!

    佐伯惟弘

  • 英語との出会い その1    

    おはようございます、ブログの2日目となりました。今日からの2日間は英語に関するお話にしたいと思います。

    今年は、三浦理事長を隊長として、スペインに8名のメンバーが赴きました。
    しかし、スペイン語圏では、英語はあまり強力なコミュニケーション手段とはなりません。逆に反感をかわれることも事実です。
    とにかく、全世界で一番多く使われている言語は、中国語。その次が、スペイン語ですから、スペイン人が自国の言葉を自負するのはよく分かります。

    しかし、それでも英語をある程度マスターすることは、日本人以外の人とコミュニケーションをする上では非常に便利です。

    私は、アメリカで5年間程生活したため日常会話は、大丈夫です。
    そこで、その習得にいたるまでの経緯をお話してみようと思います。
    今後、英語や他の言語を学びたい方へのアドバイスになるかも・・・・ならないかも・・しれませんが・・う〜ん、全く役に立たないかも・・・

    まず、多くの人は中学校から英語を学びます。私も「トム アンド スージー」が出てくる、クラウンという教科書からスタートしました。ただ、田舎の優等生をしていたそのころのことは何も書くことはありません。
    さて、高校は「坂の上の雲」の舞台となる松山東高等学校(旧制松山中学)。もう〜それは、見事な落ちこぼれとなります。
    一度落ちこぼれ体験をすると、居心地がいいため、すっかり“バカの佐伯”が代名詞となり楽しい、楽しい青春時代を過ごすことになります。

    まあ〜そんなこんながあって、2浪することになるのですが、2浪目になって俄然やる気になってきたのです。
    というのも、最初に受けた英語のテストが100点満点で、14点ぐらいだったと思います。ちょっとやる気になってきたわけです・・・というか、努力のしがいがある・・・奇跡を起こす可能性が充分ある・・という全く根拠のない自信がメラメラと湧いてきたのです。
    こういう自信は、成績がこれ以下になることは無いという開き直りからくるものだと思います。
    まあ〜そんな訳で、過去の生活を反省し、英語だけでなく全ての教科をまんべんなく勉強するための日課を30〜60分おきに作り、その通りに過ごすことを自らに課したのです。
    誰とも会話することなく、たった一人でどこまでやれるかの挑戦。
    すると、成績が目に見えてよくなっていきました。
    特に、英語の延びしろは大変なもので、ついには、何百人といる早稲田ゼミナールの成績発表で、5番になりました。その成績をみて“やっぱり”と思ったのは努力に対しての自信からだったようです。

    具体的な英語の勉強方法は、当時受験生の間で流行っていたラジオ講座の予習・復習をしっかり行い、あとは予備校の名物講師・志賀先生の東北弁なまりの英語解釈を繰り返し身につけること。それから、連想法式単語記憶術という本で、単語を覚えていきました。
    志賀先生は、アメリカ人でも読まないような難解な英文を、主語、述語、目的語を明確にしていく単純な構文づくりの方法を徹底的に教えて下さいました。
    そのため、当時はものごとを単純化して整理する能力がついていました。ずいぶん左脳の運動性言語野・感覚性言語野が鍛えられたことでしょう。

    お陰様で、大学に入ることができたのですが・・・この鍛えたはずの左脳を使うということは、次第に減っていき、彫刻を専攻し、硬式野球部で汗を流す4年間は右脳生活。元の木阿弥になってしまいました。

    ところが、ここで思わぬことが起こります。
    私にガールフレンドが出来てしまいます。しかも、金髪でグリーンの目をしたアメリカからの留学生。
    そんなことで、再び英語に親しむ生活が始まります。

    私よりも4才年上の彼女は、状況に応じて簡単な英語を私に話してくれます。
    私といえば、その状況に合わせて単語を喋るだけ。それだけで会話は成立していました。
    交際相手が外国人となると、週末は毎回のようにパーテイー。
    そこでは、日本人が半数。あとは、アフガニスタン・オーストラリア・ニュージーランド・イギリス・アメリカ・トルコ・中国(当時は、非常に珍しかった)・・・もう様々な人々が集まってきました。
    そこでの言語手段はやはり、英語。私以外の日本人は英語を専攻にしているような人が多いのですが、「お〜いお〜い、この人、一体何考えてるの?」と思ってしまう人もいるのです。
    言葉そのものに拘りすぎて、会話が成立しないのです。
    「アメリカ人の喋っている言葉をよ〜く聞いてみたら?何も難しい単語なんか使ってないでしょ?・・・・・・もっと分かりやすい単語を並べてみたら?」
    と口には出しませんが、釈然としない気持ちになってしまいます。

    私は、昨日のブログにも書きましたが、ばあさんのオーバーアクションが身に付いてしまった日本人ですから、外国人には親近感をあたえるようです。また、分からない単語は、身振り手振りで伝えることができます。それがかえって、親しみを生むことも事実です。

    そして、父親からは、「人と話をする時は、その人の目を見て話しなさい」と徹底的に教えられたので、その習慣のある外国人とは、日本人以上に話しやすいのです。

    また、4年間培ってきた右脳思考がここでやっと役立つようになります。
    つまり、英語圏の人との会話では、言語はもちろん、言語以外のことばからの流れを察知し、それに見合った単語を出していけば相手が理解してくれる。
    こんな方法論を見いだしたのです。
    さて、これからの展開は明日のブログにいたしましょう。
    お付き合い、どうもありがとうございます。

    佐伯惟弘

  • ばあちゃん

    今先生、お疲れ様です。一週間どうもありがとうございました。
    今先生からのバトンタッチを受け、一週間担当する佐伯惟弘です。宜しくお願いいたします。

    先週、紅白歌合戦の出場者が決定しましたが、初出場の植村花菜トイレの神様」に話題集中。
    おばあちゃんの無条件の愛を切々と歌った大阪弁の弾き語りが、胸にしみます。
    その歌を聴きながら、私にも語らなければならない祖母さんがいることを感じました。

    今回は、祖母さんをご紹介することから始めようと思います。
    それでは、スタート。

    その前に、私の母(っと・・・のっけから失礼)。
    母は、五人姉妹の長女。しかも家が神社ということもあり、父を養子にする形で結婚しました。
    そのため母は、実母である祖母さんと今まで通りの生活を続けることが出来ました。
    世にある嫁姑の確執など全く無縁で、私が生まれたとき、祖母さんは44才。

    今ならば、マル高出産で、私が子供でも決して不思議ではありません。事実、私の幼い頃の記憶は祖母さんとの生活が大部分を占めています。両親が共働き(学校の教員)をしていたため、私が学校から帰ると「おかえり!」と言ってくれるのは、祖母さん。
    私は「祖母さん子」だったのです。

    祖母さんは、古物商の五人兄姉・末っ子として生まれ、松山城の麓にある青雲神社という薪能で有名なところが遊び場だったようです。
    「ばあちゃんは、なあ〜。お能が好きで、あんな舞がしたいとばっかり、思うとったんよ。」
    口癖のように話していました。
    NHKで能の中継放送がある日曜日の午後は、祖母さんのゴールデンタイム。
    食い入るように見ていたのを思い出します。
    祖母さんは、女学校を出て、小学校の教員になり北宇和郡の小学校が最初の仕事場。北宇和郡といえば当時鉄道も通っておらず、愛媛(四国の北西)の最南端、高知に近い「地の果て」と呼ばれたところ。

    「ばあちゃんの喋る言葉が、変に聞こえたんじゃろなあ〜。
    何喋っても、おもしろがらんのよ。それでな、<なあ〜し>いうようになったら、子供らが笑てくれたわい。」
    松山界隈では、語尾に<なもし>をつけ軟らかい丁寧な意を表現します。
    夏目漱石の小説「坊っちゃん」で、宿舎の寝床にバッタをいれられた「坊っちゃん」先生が激怒し、誰がバッタを入れたのか追求する場面があります。
    その時、「バッタじゃないぞな、いなごぞなもし。」
    とまあ〜丁寧な言葉で、「坊っちゃん」をからかうときの、<なもし>。
    もう、現在の松山界隈では使われていません。
    ただ、物心ついた私の耳には、ばあさんが近所の人と挨拶していた、
    「きょうは、ええ天気じゃなもし。」
    「そうじゃなもし。」
    という会話がここちよく染みついています。
    この<なもし>が北宇和郡では<なあし>となります。
    また、北宇和郡は、宇和島藩つまり伊達藩なのであります。
    そのため、松山と全くアクセントが違います。まあ、かまぼことじゃこ天くらい違います(何となく分かってください・・・・)
    そんな祖母さんが、私の学んだ東谷小学校に赴任。同じ小学校の教員であった祖父さんと結婚することになります。
    そのため、教員生活は5年間。
    その後は、5人の娘を抱えて太平洋戦争に突入。終戦後、9年程立ち、私が生まれたことになります。

    どんな祖母さんだったかというと。
    小柄で上品、田舎では珍しい都会的センスのある人でした。
    しゃべり方が、おっとりとした伊予弁にもかかわらず、オーバーアクション。まるで手話で会話をしているように、表情筋を最大限に使い、身振りも派手。
    もともと踊り好きだった上に、北宇和郡の小学校で慣れない方言と格闘した結果が、あのオーバーアクションになったのでしょう。
    そんな祖母さんと、毎日過ごしている私。
    知らず知らずの間に、オーバーアクションとなっていくのは、自然の流れだったようです。
    本を読むのが好きでなかった私は、言葉足らず。
    その変わり、表情筋と、全身を使って目一杯の表現をする日々を送っていったのです。

    祖母さんが私に常々言っていた言葉があります。
    「神様が見とるけん、悪いことはせられんよ。」
    「人の悪口を言うたら、いけんぞな。その言葉は、かならず自分に返ってくるけん。」
    毎日、毎日この言葉を浴びるほど聞いていた私は、時々、悪いことをしますが、人の悪口をいうことは、めったにありません。
    この二つの言葉が、からだに少しずつ染みこんでいます。どうやら、私の言動から考え方まで、大枠は祖母さんによって作られていたようです。
    そんな祖母さんに贈ることば。

    ばあちゃんの肌はスベスベしてて、きれいじゃった。
    お風呂は、いつもばあちゃんと一緒。
    参観日に和服で来てくれるばあちゃんは、ボクの自慢。
    後ろを向いては、手を振ってた。

    「ひろむさん、おいで、この算数を解いてから、遊びにお行き。」
    頭の中が、遊びでいっぱいのボクの手綱をひいていたのは、いつもばあちゃん。
    遊びたい一心に、早くなる足し算、引き算。
    ばあちゃん、本当にありがとう。

    ばあちゃんの胸騒ぎで、弟のあっちゃんが助かった。
    練炭コタツでかくれんぼ。
    寝込んでしまったあっちゃんを、買い物途中で感じたばあちゃん。
    「あつしは、どこぞな!」
    「こたつで、寝とるよ」
    こたつを投げ飛ばし、真っ赤な顔のあつしを抱え出すばちゃん。
    冷たく薄めた梅酒を飲まし、
    「ザワザワザワザワと胸騒ぎがしたんよ!」
    意識がもどってきたあっちゃんを頬ずりしながら涙ぐむばあちゃん。
    ばあちゃん、本当にありがとう。
    「ひろむは、カンがええけん。お利口さんじゃけん。」
    そんな言葉がけで、その気になったボク。
    本当はそんなにお利口さんじゃないのに、のびのびと今まで生きてこれたのは、ばあちゃんのおかげ。

    ばあちゃん、本当にありがとう。

    ボクが、ばあちゃんのところに行ったら、ひ孫の話をしてあげるけん。楽しみにしといてな。
    それまで、ばあちゃんに言われたように人の悪口言わんように生きるけん。

    ばあちゃん、本当にありがとう。

    お付き合い、どうもありがとうございました。

    佐伯惟弘

  • ドクダミ茶

    今朝も炭をおこしました。
    やわらかな炭火の温かさは何ともいえず心地がいいです。
    今日は火鉢の土瓶の中にはドクダミの葉っぱが仕込まれています。
    私は時々ドクダミを煎じて飲んでいます。
    ドクダミは、水から徐々に煎じるといいのだそうです。
    そのほうが全成分がバランスよく出るのでいいんだとか。
    温度によって葉っぱから出る成分が違うらしいのです。
    受講生の漢方の山ちゃん先生が教えてくれました。
    いろいろとためして作って飲んでみると、なんとなくそのほうが
    まろやかで美味い感じがします。
    沸騰したら弱火でコトコト30分位煎じたころ合いの味が私は大好きです。
    興味のある人は「ドクダミ茶」ためしてみてください。
    一週間思いついたことを書かせて頂きました。
    読んでいただき、ありがとうございました。
    明日からはみなさんお待ちかねの佐伯さんです。
    お楽しみに。

    今昭宏

  • カタカムナ5

    操体法操法では「気持ちよく力を抜く」ことを大切にしています。
    カタカムナから見ると、「この気持ちよく力が抜けた」ときが、
    「アマウツシ」になっているのだそうです。(宇野多美恵さん談)
    「アマウツシ」
    日本人ならこの音(オン)を聴いただけでもなんとなく心に
    ヒビクものがあるかも知れません。
    からだの力が抜けているとき、ジュワジュワーッとからだに
    何かが入ってきて充電でもされるかような心地のいい感覚って
    体験したことありませんか?。
    私はそんな感覚が「アマウツシ」の感覚なのではないかと勝手に
    思っています。
    カタカムナの中にはからだの調整のスべ(方法)などもいろいろと
    あるそうです。
    宇野多美恵さんは「感受性の鍛錬」ということを、
    橋本敬三先生は「原始感覚を磨く」ことを諭してくれています。
    興味のある方はためしてみてください。

    今昭宏

  • カタカムナ4

    ただ火鉢は気をつけないといけないことがあります。
    それは一酸化炭素中毒です。
    バーベキュー用などとして売っている安価な炭は要注意です。
    私は何度か軽い一酸化炭素中毒になりました。
    頭痛で参りました。
    それからの私は「七ヶ宿の白炭」という炭を使っています。
    この炭は、ほとんど一酸化炭素がでませんし火持ちがいいです。
    炭は半分以上赤くなるまでガスコンロで着火してから火鉢に入れます。
    炭を火鉢に入れるとき、それなりの置き方をしないと火が消えてしまいます。
    これはいろいろとやってみて覚えればいいと思います。
    相当ヘタに置かなければ消えませんから大丈夫です。
    それから「夏下冬上」(かかとうじょう)という炭火のおこし方の口伝があり、
    火種を夏は炭の下に、冬は炭の上に置くと火のつきがいいらしいです。
    なんか火鉢の話ばかりになってしまいました。
    それではろそろ操体法カタカムナから探ってみることにしましょう。
    つづく

    今昭宏

  • カタカムナ3

    そんなこともあり私が1987年に開業したときに治療室に最初に買って
    置いたのが火鉢でした。
    火鉢は温古堂で毎日味わっていたので、火鉢がないと落ち着かないというか、
    さみしい感じがして、なんとなくそうしたのでした。
    火鉢に炭を入れるのが朝最初の仕事です。
    ヒフミヨイ、、、の順ですから、
    火(ヒ)火が最初。
    風(フ)火はフで燃えます。
    水(ミ)水が湯になります。
    土(ヨ)湯気で土が湿ります。
    植物(イ)が生まれます。
    虫(ム)たちも、
    魚(ナ)たちも、
    鳥(ヤ)たちも、
    獣(コ)たちも、
    人(ト)も生まれました。
    ちょっとこじつけみたいですが、、、。
    つづく

    今昭宏

  • カタカムナ2

    橋本先生は、この楢崎さんのお弟子さんの宇野多美恵さんという方を訪ねて
    カタカムナを教わっていたようです。
    温古堂の入っていたビルを建てるときにも先生は宇野さんに相談されてその土地の
    電位を上げる方法を詳しく教わって実践しています。
    土地をイヤシロチにするための炭の埋めかたを教わっていたんですね。
    どこにどんな炭をどの位の量をどのようにして埋めたらいいのか、、、、。
    先生は当時宇野さんがお住まいだった東京の神泉の自宅に三回行かれたとのことでした。

    そんなご縁で私も以前三浦先生と一緒に宇野さん宅にお邪魔したことがありました。
    宇野さんの美しい立ち居振る舞いは今でもはっきりと覚えています。

    宇野さんの家にお邪魔して印象に残っているのはリビングの床の真ん中に50センチ
    四方位の穴が開いていたことです。
    なんだこれは?、と思いました。
    それはちっちゃい囲炉裏というか火鉢になっているのでした。
    中には炭火が入っていました。
    そして、囲炉裏には鉄の格子状のフタがあって、その上を歩いても落ちないように
    なっていて、うまいこと出来ているなーと感心したものです。

    つづく

    今昭宏