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  • ゆっくり、ゆっくり。

    80代の腰椎症(重度の圧迫骨折)のRさんから聞いた話です。

    腰下肢痛は最近はかなり治まっていたのに、昨日から痛みが再発したとのこと。「原因は停電のせいだと思うの」と謎の発言をされたので、どういうことですか?とききますと…。

     デイサービス日、巡回バスに乗ってセンターに着くとビル全体が停電しており、いつ修理が終わるか不明だそうです。そのため、同系列の他のビルで、イベントにだけ使うスペースで半日過ごすことになったということです。

    いつものように、カラオケ、ゲームや体操でからだを動かしたり、趣味の手作業をしたり、と、活動内容はいつもどおりだったのですが、場所が変わって何が起きたのでしょうか。Rさんの分析はこうでした。

     慣れない場所での活動で、微妙に緊張していた。

     床暖房のある部屋でなくなり(防寒の準備が不足していた)、足下が冷えた。

     高齢者の方々用にあつらえた椅子ではなく、事務用のパイプ椅子に長時間座っていた。
     トイレの場所が遠く、かつ廊下に手すりがないので、スタッフさんに手を引いてもらい、自分のペースで歩けなかった。

    そのため、いつもより冷え、疲れた結果、腰痛が悪化したのでないかとの推測でした。

     その中で気になったのは、最後の「自分のペースで歩けなかった」という点でした。普段はレクチャースペースからトイレまでは、廊下に手すりがついており、Rさんは椅子からの立ち上がりと、手すりまでの4、5歩だけ介助してもらっていたのです。この日は70mほどの距離を20代の新人ヘルパーAさんが歩行の介助をしてくれて、ほんのちょっとだけ、Rさんの歩みよりも早く手を引っ張っていたのが気になったそうです。
     もちろん、Aさんは親切な良いスタッフで、やる気のある女性だったので、「もうすこしゆっくりでお願いします」と言いづらかったそうです。彼女のいつもの歩きよりはずっとゆっくりだったし、まさかそれくらいのことで腰痛の再発につながるとも思わなかったから言わなかった、というのもあったでしょう。

    このデイサービスには、自立歩行可能な方から寝たきりに近い方まで通所しています。肉体労働も多い仕事ですが、スタッフの中には60才近いかたもいらっしゃいます。Bさんとしましょう。
    Bさんは、ここで働く前は専業主婦でしたが、家族を2人の介護し看取った経験があり、立ち座り、車椅子から椅子への移動、歩行介助、どんなときも皆が安心できる、と皆が口を揃える大ベテランです。からだを預けるのに、こころから任せられる数少ないスタッフというのはそうおらず(Bさんが飛び抜けて上手、ということかもしれません)、自らも介護経験もあるRさんは「こういう(歩行を任せる)ことばかりは一朝一夕には身につかないのよね。」とおっしゃっておりました。

     ところで、以前、身体技法の介護術のセミナーを3日間受けてきたという知人が「家に帰ったらできなくなった」残念がっていました。それはそのはずです。確かにその時は、先生の指導のもとに、彼女は何かをつかみかけたかもしれません。しかし、それを毎日続けて、異なる条件のからだで試して、どんなからだでもできるようになってこそ本当に身についたということなんだな、ということなのでしょう。

    話を戻しますが、先に話してくださったRさんは、
    「ひとりひとりからだはちがうのよ。それに同じ人でもからだの具合も変化するし、天候によっても違うの」
    「Bさんはひっぱるのではなく歩くのを支えてくれる感じ。スピードがゆっくり。目も前ばかりじゃなくて私の方とかいろいろ見ているけど自然なの。若いスタッフは前ばかり見てるわね」
    「からだが安心して、任せられるってかんじ。」
    という鋭い観察力で話を続けてくださいました。Bさんはからだの動きがすっかり「身について」いて、「自然に」全身が協調して働いているのだと思います。見ず知らずのBさんの介助の様子が目に浮かぶようでした。会ってそのさりげなさを見てみたいという気になります。

    操体臨床の第二分析でも、このゆっくり、相手の動きに少し遅れてついていく(歩行の介助はのう少し違うパターンもあるでしょうが)のは、介助の基礎中の基礎です。そうでないと患者さんは、気持ちのよさで治るために必要な感覚分析ができないからです。

    私も毎回できているのか、身についているのか、常に気をつけていないといけな、と反省したばかりだったので、Rさんの話は心に響きました。

    ゆっくり、ゆっくり。
    あいてのあゆみ(動き)に沿って、自分はついていくように。

    まだまだ修業は続きますなあ…。

    森田珠水

    2011年東京操体フォーラム分科会は4月29日に千駄ヶ谷津田ホールにて行います。http://www.tokyo-sotai.com/

    2011年2月から足趾の操法集中講座を開始します。

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  • 臨床体験実習 その2

     学生さんとお話をしていると、自分が学生だった頃を思い出します。

     私はテストで赤点とるなど低空飛行ながらもなんとか免許を取りました。授業のカリキュラムも厳しかったので、挫折してやめる人もいましたが、仲間で助け合い、みんなで「国試合格しよう!」と励まし合ったものでした。卒業してしまうとなかなか会わなくなりますが、みんな元気でいるでしょうか。

    さて、ストレスを抱えやすい人が、忙しさやトラブルに出合うと、
    「この道を選んでよかったのかな」「ここにいるのがつらい…」と、壊れかけてしまうことがあります。学校だったらテスト、会社だったらノルマが厳しくなるなど、それに加えて人間関係が、借金が…と、本当にしんどい時があります。

     当時のクラスメイトで、倒れるまで頑張る完璧主義の女子がいました。やればできるからといって、テスト勉強をやりすぎて本当に倒れてました。徹夜連続は当然で、「60点とればいいのだから、もうからだを壊すからお願いだから勉強やめて!」と先生にとめられるほどでした。

     卒業しても相変わらず頑張りすぎ、仕事が続かず大変そうでした。私も橋本先生の「バルの戒め」話をしたのですが、当人に気づく「時」が来ていなかったらしく、歯がゆい想いをしたことがあります。ちなみに今は彼女らしくいられる居場所を見つけ、のびのびやっているようです。

    頑張りすぎる人は、親の影響で、脳に「頑張らなければならない」とインプットされることが多いかもしれません。無意識を書き換える作業は、幼少時代の自分から見つめなおさないといけない、けっこう大変な(時には辛い)作業が必要になることもあります。

    自分のやりたいことがハッキリしていてマイペースに進められる人はいいのですが、自分の外に価値観をおいていると、価値観を与えた人がどんなに賢く良い人であっても、自分の足で歩いたことになりません。

    どんなに迷って失敗しても、自分の足で歩く方がゆくゆく強く生きていけます。なにやら自分に戒めているようですが(笑)。

     今回の臨床体験実習でも、その友人に似たタイプの方がおりました。からだはバリバリで、冷えも強く、方や足首の痛み等、症状は数え上げたらきりがないほど。
    しかし、今回の臨床体験実習で操体を実際に受け、気持ちのよさで症状疾患が1つずつ剥がれていく状態に感動してからというもの、自宅でも毎日自力自動で操体を味わっているのだそうです。会う度ごとの変化にこちらが驚かされます。

    また、からだの変化と並行して、精神状態が落ち着き、そのため「表情が変わった」と友人に言われるそうです。操体を共有することで、今後どう彼女が変化するのか、2人で楽しみにしています。

     橋本先生は「バルの戒め」は「頑張る、威張る、欲張る、縛る、バルという言葉にロクな言葉はない」とお話しされていたそうです。

    しかしなぜだか人間はそれをやってしまう。
    がんばりが抜けない人は、すでに、どこまでが必要でどこまでが頑張り過ぎなのか、よくわからないのです。必要なところに集中できず、無駄なところに頑張っているときがある…。私も経験があるのでわかりましす。

    頑張る、は「頑(かたくな)」が突っ張っている状態。
    言葉をみただけで、首の後ろがぎゅーっと硬くなってくる気がします。

    時には、頑張らなきゃいけないときもあります。例えば介護の現場など、他に手伝い人がいない状態の人を前にして、簡単に「頑張らないで!」と言えないときもあります。

     瞬間的に、その場その場で頑張ること。時には仕方ないかもしれません。
    それでも、「今だけ頑張ったら、ちゃんと自分のための休みを取ろう」としてほしい。

    実力の間に合っている範囲内を見極め、バランスをとれるようになりたいものです。頑張りは、自分の中で制御して使うもの。コントロールされてはいけません。

    もし頑張っていることに気づかないで、「張り」続けているなら、まずは脳の動きの「クセ」に気づくことからスタートしてほしいです。何に焦って頑張っているのか、誰のためにやっているのか、等等。
    頭ではなくて、肚に落ちる気づきがあったときが臨界点です。無意識の書き換えが起これば、治りたいと思う心が道を作りはじめるはず。

    頭が正常に働かないときは、からだ(イノチ)に聞いて、委ねたらいいでしょう。呼吸法が心身の健康に役立つのもそういう面があるからだと思います。
    その点、操体は、皮膚、呼吸、目線、意識を通して無意識と会話をする、いいきっかけになるのです。

    他の実行委員からもよく聞く話なのですが、臨床後に、静かに涙を流し、変化したこころを味わっておられる患者さんは少なくないそうです。

    私も、うまくからだとこころ、そしてイノチにつながって生きたいです。

    森田珠水

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  • 臨床体験実習 その1

    早いもので今日で1月も終わりです。
    その31日間にも色々ありまして、気ぜわしい日々でした。

     この時期は昨年6月から始まった東京衛生専門学校の臨床体験実習が〆切間近のため、学生さんが何人も操体を受けにいらっしゃいます。
    今年は去年より5人増えての昼夜クラス合計15人でした。

    彼らの話からその年その年の教室の中の空気が伝わってきて、学生時代の頃を思い出し、懐かしい気持ちになりました。

    今年の1年生1部(昼)クラスは、30名ちょっとのうち半分以上が高校卒業したての現在19才です。60代の方はなく、40、50代も少数派。若い雰囲気のクラスのようです。

    高校卒業すぐに鍼灸指圧あマ指の専門学校を選ぶ場合、スポーツトレーナー希望の方も多いのですが、
    ひとりひとり具体的に鍼灸の道を選んだ理由を聞かせてもらうと、紆余曲折があって今があるなど、この道を選ぶ人生の「想い」を知ることになります。
    私よりよっぽど苦労して、思いやり深い方もいらして、こちらが勉強になることばかりです。

    当たり前のことなのですが、なにかをやろうと人を動かすものはやはり「想い」なんですよね。人を病気にするのも「想い」ですけどね。

    息食動想のなかでも、想によって毎瞬の選択を為しているのですから、全てをまとめるのが「想」は大事です。

    さて、学生さんたち。
    操体は初めて、という方ばかりでしたが、
    むしろ先入観がない利点を生かして?感覚をききわけていただきました。

    とある男子は、最初のうち「ぼく、感覚が鈍いんですよね」と自信なさげでしたが、頭の思い込みとからだは別物。渦状波を始めたところ、徐々にホワッとした表情で味わっていらっしゃったりして。
    結局全ての方がなにがしかの感覚を感じて、それによってからだが変化するのだということを体感して下さったようです。

    全身で気持ち良さげにしていらっしゃる女子には、
    「たいへん気持ちの良さそうに見えるんですけど、どこがどんなふうにいいのか教えてもらえる?」ときくと、

    「いや〜楽です〜」との答え。

    (おお、「楽」ときたか!)

    「では楽の中に気持ちのよさはありますか?」

    「苦しかったところがほどけていくのを感じます。そのだんだん楽になっていくかんじが気持ちいいです」
    という感想でした。

    私は「楽」とは何も感じない状態なのだから、感覚を表現する言葉ではないという認識をしていました。しかし、どうも自然にその言葉を口にする時には、なにかからだが「うれしい」と感じる喜びもあるようなのです。それが言葉では「楽」としか表現できない。でもそういう方は1人や2人ではないのです。これはなにかがあるのにちがいない。

    私が考えたのは、苦しい、制限されて窮屈な状態から解放されたからではないかと。その状態とは、心身の不必要な力が抜けて、なんともいえない安堵感とある種の快適感覚が感じられるのでしょう。

    楽とは「巫女が鈴を持って舞う姿を象形したもの」と、畠山先生から教えていただいておりました。巫女が舞う目的が人を楽しませるものだったり、人を病から解放させるものだったりしたはずです。
    苦しさから解放されること、生き生きと自分らしくのびのびといられること。
    からだにとっても要求が満たされて喜びをあじわっていることでしょう。

    渦状波をとおして皮膚という無意識に問いかけた時に、からだは不可視な感覚を私たちに感覚させて気持ちのよさに委ね、不思議な感覚に時には楽しませてくれたりして、からだは治しをつけてきてくれます。
    なんとありがたいことだ、と思いませんか。

    楽と言う言葉は、操体を学ぶ上で重要なキーワードではありますが、目の前で快適感覚を味わっていらっしゃるひとには、今はこだわりにとらわれているときではないようです。

    その学生さんに「最後に質問はありますか?」と聞くと、「どうして操体を選んだんですか?」「どうやって操体にであったのですか」という質問が多かったです。
    「その話すると、今日は帰れなくなるけどいい?」
    と脅して(笑)、5分くらいでさわりを説明します。あとは東京操体フォーラムのサイトとブログを紹介して終了。
    もちろんフォーラムのお誘いをすることも忘れません。営業活動もしてます(笑)。

    で、なぜ操体を選ぶのか。

    ひとつは、操体をとおして、からだは目に見える制限、見えない縛りから私たちを解放してくれるからです。ただ痛みを取って「ハイ終わり〜」だけじゃないのです。

    三浦先生も、「人は自由になるために生まれてきたんだ」とおっしゃいます。何も縛られるために生きているわけじゃありませんよね。

    私は自由への可能性を拡げてゆく喜びがあるので、操体を選び続けているのです。

    ね!

    って、だれに言ってるのかわからん。

    と、ひとりツッコミしたところで。
    今日のところはこの辺で。

    森田珠水

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  • 塾操体と新年会

    こんばんは森田です。
    昨日までの三浦先生のブログ、かみしめていきたいと思います。

    …とはいえ、三浦先生のブログを読み返してみても、
    先生の進化の度合いは濃厚にて深遠。

    私がその場で100%理解できるようなものではありませんが、
    わからないなりにひっかかるところをなんとか足がかりにしようかと、
    気になったノヴァーリスの詩をプリントして仕事場の壁に貼り、
    思い出してはしみじみ味わう日常を過ごしてみたりしています。

    なんとか学びを続けて、
    時節到来に乗っかれるような人になりたいなあと思う次第。

    ところで今日は、2011年初めての塾操体と、
    三軒茶屋のあるカフェ、「ウズマキ」にて新年会がありました
    (料理の美味しい雰囲気のいいお店です)。

    http://www.cazeuzumaki.com/

    実行委員と以前フォーラムに来ていただいた
    ご縁のあるゲストの方々とのひとときを
    充分に味あわせていただきました。

    なにせ毎瞬毎瞬の進化が進む東京操体フォーラムですので、
    今年なりの新展開があるんじゃないかというムードを先取りしていました。

    目に見えない三浦先生の想いが、それぞれの実行委員の行動に伝わり、
    まずは春の分科会に表現されることと思います。

    せわしない世間の波にのまれないように、
    マイペースを保ちながら、
    自分自身のやりたいことを確実に実現していく。

    4月29日の分科会では、人生をいかにデザインしてゆくか、
    グランドデザインという言葉を
    読み解いてくださるゲストをお呼びしております。

    実行委員でいながら、
    学ぶものとしても楽しみにしている春の分科会です。

    皆様の参加をお待ちしております。

    森田珠水

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  • 1週間のつぶやき

    ・学びのこころえ
    一歩先に出てしまうこと。徹頭徹尾 一歩先へ先へと考えて何ごとにもぶつかって、一歩先にでてしまうこと。大胆、勇敢、猛烈、捨て身になって飛びかかっていくことです。

    ・人は「暇になったら・・・」と誰れもが考える。しかし暇になって成就したというためしはないのだよ
    「動中の工夫、静中に優ること百千万倍」との喩えあり。
    終日黙々と正念(しょうねん)相続して活動、努力体験を得る。そこから思わず浮かんだ妙案こそが生きてくる。間断なく流れる谷川の水は常に清らかである。間断なく努めのなかに真実、まことの実が育つ。学びの尊さは、日々にあり、まとめて一石二鳥とはいかぬもの。絶対の境地に我が身をおとしむ、はからい。でありし・・・・。こと

    ・「観想をなす時」という言葉が目に入る。いったいなんだと思いしや「内観の法」のことらしい。その観想をなす時「心に思うことが現実となり・・・鼻はたちまち世にもまれな香気をかぐ。からだはにわかに柔らかい感触をうける・・・」この文中の「世にもまれなる香気」とある。
    私も世にもまれなる香気をかいだ。イスタンブール滞在一日目の朝であった。モスクから流れるコーランの聖歌を耳にする。その瞬間、この世にもまれなる香気をかいで目が覚めたのである。不思議な情景であったが、なんとも至福であった。
    私は臨床中でも、かぐわしい香りをかぐことが多い。患者、患者によってその香りが変化する。私はお香を焚くが、私が使用しているお香とはまるで違ふ香りである。この世にもまれなる香気は、心に思うところが現実になり・・・とある。私は内観のなんたるかは詳しく知らぬが、無意識に少しは、その妙を現実の中で味わえているようだ。

    ・好色
    精虫といふ時を越え、自分をとらえてみる。一億数千匹の精虫、その一番元気がいい一匹の精虫が私である。たいした元気だ。
    一番生命力があって、快を知る精虫。この世に存在する私とは快が好きで好きでたまらない、スケベ坊の存在だ。
    上品、中品、下品の問題じゃない。
    無条件に無類なき生命力なのだ。
    好きだってことは、自分が好きで人間が好きなのだ。
    それだけ色気、好奇心があるってことだ。
    そのスケベーな生きものをどうコントロールし調和するかだ。この世と、目に見えないあの世と、どうよりあいをつけていくかである。
    このスケベーな生きものにもルールがある。
    不可視な世界とつながって調和すること。それが個々の魅力、人間としてのつながりである。
    このスケベさがないと、心身一つに納まりきれない。
    このスケベさは、品性、その人らしさなのだ。
    わきまえのあるスケベ心である。かっこいいのもこのスケベさである。品性のスケベさも創造力である。
    食欲もこのスケベ心がないと、元気食とはならない。

    ・昨日、九州のポン友から連絡あり。よォー。
    東京に出てきているんだろう、仕事も済ませて身軽いんだろうが、俺は手が抜けない。電話だけですまないな、と声をかける。
    ポン友「明朝、かみさんを羽田に迎えて秋田の温泉に向かうんだ」
    ほーぉ。いいことだ。たまには奥さんとしっとり仲良く濡れてこいよ。
    ポン友「しっとりと肌をあわせてかみさんを歓ばせてあげたいけどネ、もうあそこが機能せんのよ」
    なに、おまえさん、もうその年で立たぬのか。なんという生き方しとるのよ
    ポン友「あやしい薬使っても機能せんのよ」
    と云う。そういう寛はどうなのよ
    用事がある時はちゃんと返事してくれているよ。
    ポン友「ヘェ、まだ現役なのか、おまえ、恐れ入るよ。こっちの仲間のほとんどが、もうコールせんのよ。おまえのほうが異常だな」
    マァ、立てるか立てないか立たぬかは、どうでもよいが、生活に疲れるような人生の使い方はするもんじゃないな・・。おつかれさまです。
    疲れるような元気をつかうべからずです。

    操体法のベーシック講習を受けている六十何歳かの男性。快を味わえるも、わからねェ、わからねェと口走る。この男性は死の瞬間までも自己否定し続けていくらしい。人生の苦美(にがみよさ)、その苦楽を知りつつも、きもちよさがわからないと、嘘ぶく。
    無知は分離。自画なる心も矛盾、迷いを生ずる、である。わからねェ、知らねェは自己に対するいいわけである。いっそのことわからねェでいいヨ。
    しかし快は、おまえさんのためだけにある訳じゃない。
    いのちにあるのだ。おまえさんごときがしらを切っても痛くもかゆくもない。死には痛みがあるだろう、というその苦から自我をほどき、ありがとうございますと声にして、生にして味わえぬエクスタシーを得て昇天すればよし、絶対なることを受け入れなければさらなる自我は苦しい。
    しかしジタバタしてもがいても、来るものは来るのだよ。いさぎよく自我を静めよ。


    三浦寛

  • 心にのこる先人のことば(2)

    維摩経(ゆいまきょう)のなかに「ただ、諸々の存在があって、それらが結びついてこの身を成している、生まれてくると言ったって、此の私が生まれるんじゃない。唯結びついて、そこに意志(イノチ)ある存在が生まれるだけのことだ。此の私という、とらわれの心で自分をみなくていい。ただ諸々の存在でいいのではないか。死する時も、ただ存在が滅するだけのことだ。つまり此の私が生まれるとも死ぬともいわない。存在が生まれて存在が死ぬ、というだけのことだ。『但(ただ)衆法を以て此の身を合成す 起こる時は唯(ただ)法の起こるなり、滅する時は唯法の滅するなり、此の法の起こる時我が起こるをは言わず、此の法滅する時我滅するとは言わず』

    ・浄土宗 弁栄聖者の訓言
    「宇宙の中心に一大心霊あり」自己を客観視し世界となし、それを自ら長め自らたのしむ。一大心霊とは天地をつらぬく永遠の理を意味し、それは陰陽未分の一なる太極、その意志の絶対(真理)が永遠の理である。永遠の理(一大心霊)に従えば、透明清澄なる精気があふれ、謙虚、謙遜、清廉なるおだやかな生き方がかなう。

    「かなしみはいつも」
    かなしみは みんな書いてはならない
    かなしみは みんな話してはならない
    かなしみは わたしたちを強くする根
    かなしみは わたしたちを支えている幹
    かなしみは わたしたちをうつくしくする花
    かなしみは いつも枯らせてはならない
    かなしみは いつもたたえていなくてはならない
    かなしみは いつも噛みしめていなくてはならない
    「六漁庵哀歌」 真民さん

    宮沢賢治「心象スケッチ」の序文
    私という現象(可視)は、仮定された有機交流電灯のひとつの青い照明です(それは、あらゆる透明な幽霊の複合体)風景やみんなと一緒にせわしくせわしく明滅しながらいかにも、たしかに、ともりつづける。この生命は、このイノチは因果交流電灯のひとつの照明です。

    この「有機交流電灯」とは、生命をもっていて、その生命が交流電灯のように、50分の一秒、60分の一秒という速さで点滅をくりかえす。実際には滅の状態にあっても、余りに早く点滅をくりかえすために、ずっとともりつづけているかのように思われている生命体ということになる。仏法では「刹那(セツナ)生滅(ショウメツ)」といい、私という現象は「一刹那、一刹那生滅をくりかえしている生命体」と、考える。その一刹那は75分の一秒の速さで生滅(イノチ)をくり返している生命体が、この人間というものなのである。そしてこの「生」は、どこからやってくるのか、といえば「光」と呼ばれる永遠の生命(太極)そのものからやってくる。やって来てはまた帰り、やってきては帰ることによって人は生かされている。帰ってきて再び来ないと「死」ということになる・・・。


    三浦寛

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  • 心にのこる先人のことば(1)

    ノヴァーリス(200年前のドイツの詩人)の言葉に
    『すべてのみえるものは、みえないものにさわっている、すべてのきこえるものは、きこえないものにさわっている。すべての感じられるものは、感じられられないものにさわっている。おそらく、考えられるものは考えられないものにさわっているだろう』
    この言葉を臨床のあるべき姿に置きかえてみるなら、
    本来あるべき臨床には、全てのみえないもにふれているだろう。すべての感じられないものにふれているだろう。おそらく、すべての考えられないものにふれているだろう。本当のものはみえるものの奥にあって、物や形にとどめておくことのできない領域のものである。ですから、みえるものはみえないものにきこえるものは、きこえないものに、感じられるものは感じられないものに、おそらく考えられるものは考えられないものさわっているのである。

    ・すべての見えるものは見えないものに附随している 自分の見えている臨床の後ろには、恐ろしいほどの深く広い臨床がかくれている。そこから自分の生も生じ、やがて、その中にとけていく。そういう思いに至らなくてはいけない。
    快をききわける、とは、その頭の欲の脳の意識でききわけよ、とは一言も言っていないのだ。自分の自我なる心の識別で判断するものじゃないのだ。ただただ、からだにききわければいいことなんだ。快とはからだの無意識の意志がききわけてくる生命感覚なのだ。狂った、暴走し続ける欲脳(自我)で考えるものじゃない。

    ・植物には全ての周期があって、その機を逸すれば色は出てもその色は命のさかりの色とはいえない。人間にもすべての周期がある。その機を逸すれば命のさかりの色を出すことはできない。命のさかり色とは精気である。その精気は周期の機である。人は人それぞれに1年の中で1日か2日、人によっては3日か4日、これはと思うようなすごい日がやってくる。それは私の運命がハレー彗星の如く接近してくる日だと言う。人は
    1.それに気づく人間
    2.気づかないが、ちゃんとそれに乗っかってしまう人間
    3.まるで気づかず、通り過ぎてしまう人間とがいる。
    大方の人間は三番目。そんな、すごい日があるんだよ。教えてあげても「へェー」てなもので、他人事で縁なき衆生なのである。この運命の日の到来を「時節到来」という。
    時節到来しなくては、人の運命(私の運命)はひらけない。この時節到来にジャストフィットした人間、ピタリと照準した自分のみ。驚くべき運命の展開が始まる。ただジタバタするだけでは決して運命はひらけないのです。

    ・人間とはただただまさに空間の集合にすぎない。おいでになるのは仏さま神さま・・・(空即是色)仏さま、神さまのイノチのなかに生かされているそれが人生の泣き笑い・・(空即是色)

    私ごときの臨床など、大したことではない。たいしたことと思うから苦しむ。我執を働かさず大いなるもののこころ(ふところ)の中に身をおいて(とびこんで)任運自在にたのしむことである(任運自在 傍点)。この人生も大したことではない。我に執着するから苦しさを写し出す。この世界を動かしているサンカーラ、おおいなるもののこころの中に身をおけばよい。人生も任運自在にたのしむことである。

    ・こころはうつろいやすいもの 見落とすことなく、その中に居よ。大いなるもののこころの中に身をおきなさい。臨床も心(我執)でみるな。意識で診ることだ。心でみるなとはこころを使うな、意識を仕え、ということだ。その意識とは不可視なる生命そのものである。

    ・常懐(じょうえ)悲感(ひかん)、心遂(しんず)醒悟(しょうご)
    どんな悲感があろうとも、それを外にこぼすな、流すな、胸の奥深くに抱いていよ、そうすれば、その非感がやがて、おまえの心を醒ましてくれる、そして悟りに至らしめる。そうした意味で、自分の人生に自分を支える言葉(言霊:イノチのコトハ)をいくつもっているか。悲しみに耐える力をどれだけもっているかも大切な支えである。そうした意味で、どのような非感も外にこぼさず流さずとは、この私のイノチの内に、神性を相続している真我神人合一なる心、愛があるからです。

    三浦寛


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  • 個我(こが)その2

    生命とは唯一ただひとつあるのみである。それは不可視なる非人格的意志の本質である(大調和)、其の本質なる意志が一人一人のうちなる意識(イノチ)である。人が成就(じょうじゅ)する、とは、霊、心、物質(霊、魂、体)を育てる非人格的意識の至高である。この至高のたかみは、この世で成していくこと。今努めることが大切だ、と言うのだ。自我なる心を静めること、自我は愛の減少感を誘い出す。自我は真理を隠す存在である。
    この非人格的意識(非なる意識)は、時間なきものの中にある。心の非なる意識は心を超越する。
    全てが心、全体が心ではない。全てがこの意識、意識なるものである。意識そのものが生命、心は時間にあり、この意識は時間を越えた非なる存在にある(生命そのもの、不可視にあるもの)
    この非人格的意識にある時を無時間といふのだ。そうだ、無時間という生命現象なのに、個々のイノチがある。生命現象という営みのなかに、私のイノチが自在する。この自在して見えざるものをとおして自己をみる、自己と対話することが大切だ。
    実相を写し出すものには影が存在する。実相とは非なるもの、非人格的な存在である(肉体を有するもの)この影を有する被造物の世界に時間がある。それゆえ多くの大多数の人々は時間の中で人生を送っているのだ。時という刻みのなかに人生がある。非人格的意識の中で生けることのできぬことが人間としての最大の盲点なのだ。
    そうした観点から、。見えるものを通すのではなく、見えざるものをとおしていくのが臨床なのだと思う。

    三浦寛



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  • 個我(こが)その1

    心がより個我に支配されると、その自我なる心が自分だと思い込み、実在なき自我との対立を生み出す。葛藤する心だ。
    それは、健康という観念を持ちながら、実は不健康と戦い、生命という観念をもちながらも実は死の恐怖と戦い、善という観念をもちながら悪と戦っている。
    何が、そのように戦うのか。それは自我なる心と自分が戦う姿を写し出しているのだ。それは自我なる心と戦う。戦う虜にさせるのが自我で、戦う存在を知っているのも自我だけなのだ。その自我は、目にみえる可視(現実に存在して微笑んでいる)、その自我は心が支配しているのではなく、自我そのものが私(心)を支配し、包み込んでしまっている。ゆえに私自身に葛藤し、私自身に迷い、否定理念を植え続けていく。そして人間の最大苦、妄想なる苦しみを産みだしていく。妄想の妄想なる自我によって道(タオ)を見失い、心身は健全を失い、精気は枯れ朽ちていく。自我なるニセ物によって、枯れ朽ちるのである。自我なるニセ物は神性なる相続(真理)を奪いとる(神人同一なる心)。唯一不二なる生命、創造性を奪う。
    友よ、同志よ、この世の生活感覚(自我なる心で生活を満たすな。より多くの注意をはらいすぎるな。すぎると、精気いふ活力が消えてしまうぞ。生活そのものに疲れてしまうぞ。その生活そのものが、霊、魂、体の3つの生命観に釣り合わぬ生き方だからである。
    自我なる心が、呼吸(イキ)するのである。
    神人合一とは、非なる存在存在であり、実在である。ゆえに人もまた非人格的な意識なり(意識は生命である)。

    三浦寛




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  • 古着

    私は以前から古着を収集することがたのしみの一つになっている。そして加齢とともに何故か古着がよく似合う自分だなと思うようになった。プロのバイヤーが、現地に行って(ヨーロッパ、アメリカ)買いつけてくるかなり年代ものの古着が揃っている。1920年代!から40年代のものもかなり手元にある。古くてもかなり保管状態もよく、上質で肌ざわり、着心地がよく、自分のからだになじんでくれる(違和感がまったくない)。年代物の本当の良さとはこういったところにあるのだなと思う。
    私が出入りする店は、BANKという店。診療所から栄通りにでて、二軒先にある。余りに近すぎる。オープンするのは午後四時、私は銭湯の帰りに、つい、ふらりと立ち寄ってしまう。
    店内をひと通り見てまわる。店長が、三浦さんと声をかけてくれる。三浦さんの好みのもの数点用意しています、といって店内の奥からもってきてくれる。気にいれば取り置きもしてくれる(財布をもたぬままでよく行くから)。そんな時、店員に2,3日置いておいて・・・・と言って帰ってくる。
    古着といえど決して安くはないのです。ここの店はバーゲンもやらない、値引きもしない。とてもプライドが高い。だから一点一点大切に扱っているし、まちがいない商品なのだと思う。
    古着というのはボロ着ではないし、使い捨ての消耗品でもないのです。そんなイメージを当初は持ってましたけど。私は改めましたね。確かに古着なんですけど。確かに誰かが羽織っていたものなんですけど、いいものを大切に着ていたんだな・・・と思うものが多いんです。ですからセンスがいい。数多くの古着の中には、その人がオーダー(特注)した衣類だな、と一見してわかるものがある。特注したものの、何らかの事情で一度も袖をとおしていないものもある。だから、これはいい、という掘り出しものが多いのだ。時代を問わず、気さくに身につけられるものも古着の良さだ。店内には靴も、バッグも、マフラー、そしてベルト類も置いてある。私は海外でもアンティークの店をよく巡ってくるが、衣類に関しては日本で求めるのが一番だと思う。
    そんな風で、私の気分転換の一つ、古着にアイロンをかけることもその一つ。ほんの30分40分の時間ですけど、気分を変えるには最適ですね。

    三浦寛

















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