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  • 「時節到来」とそのつながりについて(2)

    私は、今こそのんびりとした診療をつづけているが、若いころの私は、臨床の虫であった。臨床が好きで好きでなめまくっていた。師からいただいた、動かして診る、という診断が大好きであった。
    修業時代からゆうに44年間、動診の世界をたのしんでいる。からだの構造(ツクリ)を操ることに関しては、見えない動きまでみえてしまう。からだの動きには、人格がある、んだと公言したのも私自身である。
    しかし、1976年、大きな転機が訪れる。「楽から快にシフトチェンジせよ」という正師のメッセージであった。操体法そのものの、大きな転機であった。
    大改革がなされたのである。楽から快へスイッチを入れかえよ」とのご命令なのだ。
    当時、その正師のメッセージに、数いる多くの誰が反応したかである。
    反応そのものが、また大きな時節到来の運気をつかんだことになる。
    即反応すること、キャッチすること、それが時節到来の運気を運んでくる。私は即反応した。そして5年後、処女作「操体法治療室」に快にといかけた診断と操法の体系化を記した。正師はこれでいいと言われた。しかし、その多くの学び人は反応しなかった・・・・いや、できなかったのであった。その多くの人達が師の話を耳にしていながら、師の話を聞き逃していたのだ。
    師は、その多くの人達に「託した」のである。このメッセージに反応しろと。
    その多くの者が、その言葉にためされたのである。やっているなら、このメッセージに反応しなさい・・・と。ここで反応したものと、反応しなかったものとの、その後の学びに、大きな落差が生じてもそれは「のるかそるか」の選択なのだ。27年の空白、正師もさぞ歯がゆい思いの中で、この事実を黙認したにちがいない。・・・やっとここ数年来、今になってうすうす気づきかけて来て、楽とは言わなくなった。ただ言葉上、「楽」から「快」にスイッチが入っただけで、動診-操法には、生かされている状態ではない。
    人は一度つかんだものは、あの世までもっていく。つかんだら離そうとはしない執着である。同じことを学んでいても、自分が理解できないことには、フタをするのだ。つまり無視してしまうのだ。半歩でも一歩でも踏みだす勇気がないのである。
    師のメッセージを解読するのに5年の歳月を要した。そのメッセージに反応したが、頭の中が真っ白になるほどの衝撃であった。師が言われていることの意味が理解できなかったのだ。「楽と快の認識」が全くなかったのである。それから5年、「楽」から決別し、「快」への新たな決断を成す。この決断と勇気と、その試練をのり越えることも、時節到来の金を運ぶことになる。
    楽への問いかけを一切なくす。それは愛に通じる勇気ある決断である。一年一年集中したすると第1分析(楽)の全貌その流れや水位が読めてきたのである。動診が操法にいたる行程すべてが操者側に管理されていることだった。

  • 「時節到来」とそのつながりについて(1)

    今週は2日間か3日連続で、人生の「時節到来」について話します。時節到来とは、一人一人、自分にかかわる運気や気運のことです。私事ですが、この時節到来がいつ頃あったのか・・・と、たぐってみることにしました。

    ありました。すでに18歳の時にです。18までは右回転の人生でしたが、一気に左回転の人生にギアチェンジしてしまったような、運気に乗っていた、ということです。その運気は、正師、橋本敬三先生との出会いにありました。63年前、この世に、この両親からイノチ(生命)を頂いたのが最初の時節到来、そして18年後、何の面識もなく正師に出会えたことが、第2の誕生ということになります、その第2の誕生を「愛の誕生」と名づける。なぜ愛なのでしょうか。
    なぜ愛なのか、正師との出会いから綿綿と44年間もこのご縁がつながって、私の生きる誠だからです。師の愛の継承そのものが、師が成し、成したる道を歩むことではなかったでしょうか。それは何にもまさる有難き運気でした。このまま生涯、学び続けることは、まちがいのないことなんです。ふと想えば私がこの世に生まれてくる前に、すでに用意されていたように思ってしまうのです。そして、ただ私はそのレールに乗っかっているだけなのかも知れない・・と、思い感じることがたびたびあるのです。なぜなら私自身、この運命に全く迷いがなかったといふことなのです。私として選択するという考えがまるでなかったのです。
    人生とは、自分自身が選択するといふことでもなさそうです。それが、また、時節到来のチャンスをつかむことにつながってくるのではないのでしょうか。その気運をつかんだら、あとは、それに乗っかっていればいいだけのことかも知れません。時節到来は人との出会いが運んでくるんだな・・・ということがわかってくるのです。

    私は正師が言われる注意ごとや、注文に対して、言い訳や反発をしたことがありません。そして、師がこの世を去ったあとも、言い訳していない。正師にはまづ「ハイ」と言える自分がいます。「ハイ」の言葉は前進であり、調和するから正しいのです。言い訳は後退であり、おのれの執着であるから対立する。時節到来の気運は。言葉が運んでくることがわかってきます。
    正師の側にいさせて頂いて、月日が流れる・・・。正師の息のなかで。呼吸のなかで、そして、学ぶという姿勢のその厳しさのなかで、日々過ごせる自分がなんとおだやかなやすらぎを得ているのでしょうか。

    日々、このご縁を切ってはいけない、このご縁とつながっていたい、切ってしまえば、糸がきれた奴凧同然ではないか。とにかくつながっていること、その想いは日々日々強くなってきます。そして5年10年・・・・・44年の歳月が流れ、より一層くさびを打つ、つながりへと展開していく・・のです。

  • 初日。愛と生

    おはようございます。前回、前々回担当の二人のブログはすごい。その情報領には舌をまく。私は皆さんより年の功で、人生経験・その場数で自分を語る以外なさそうだ。詩人ゲーテは「幸福論」のなかで、幸せであることの条件をいくつか取り上げている。どれも、これも、なるほど、そう言ふことなのかと、妙に納得できるものがばかりであった。そのなかに、『朝目覚めた時に、今日もやることがある』ことが、なんてすばらしい人生であろうかと書き残している。
    自分自身のなかで、人とはちがう、ぶっとんでいる自分がいるか。愛と生を語るとき、このゲーテの言葉は我が身にいたくしみ込んでくる。「そんなこと考えてみたことがない」人にとっては、やることがあって当たり前なのだ。人生のおつとめは生涯のことと思ふのだが・・・。「朝目覚めて、今日はなにしようかとボーッとしている内に時間が過ぎ、夕刻になってしまった。今日も何一つやることがなかったな」そんな自分をイメージしてみた時、いったい自分は今までの人生と向かい合ってきた時、何をやってきたのだろう、と思うであろう。何か、むなしい。
    人生その愛と生なることは、加齢と共に実り多きことであったはづ、決して枯れ朽ちて、なにもやることがなくなってしまう生き方ではなかったはづであった。意識の豊かさを一年一年重ね着していく姿に人生と愛と生があると思ふのである。
    社会に貢献し、家族を養い、精一杯生きてきた。それも愛と生の自分の姿である。ふと、私は自分自身にとって、何をやってきた人生なのかの問いかけを残していた。自分にとって自分は自分に何をしてきたのか・・・と。
    それは自分と自分との納得である。Give & Takeではなk、自分自身とのGive & Giveである。それは無条件に受け入れて成す、成していくことである。人生は一度。一度の生涯のなかで、無条件に何を自分自身に問いかけてきたのか、問いかけることがあるのか・・と言ふことである。

    今回のテーマは「愛と性」と言ふことでありますが、ブログに目をとおしている方々、私のテーマは「愛と」になっていることに気づかれているだろうか。セイはセイでカタカナで書けば営むことで一緒。早朝から「愛と性」ではとろんとしてしまう。後半からのブログから「性」にもどしておきます。


  • 曲直瀬道三

    しつこいようですが、先日、春季東京操体フォーラム分科会が終了しました。私たち東京操体フォーラムは年間スケジュールの元に、予定を立てフォーラムを開催しています。
    因みに今年は8月に東京操体フォーラムIn 京都9月は昨年に引き続き、東京操体フォーラムIn Madridそして11月秋季東京操体フォーラムと大きなイベントが控えております。
    そんな中、昨年から初の関西開催ということで、京都でフォーラムが開催されるようになりました、今後は京都に拘らず、北村先生のお膝元でもある奈良とか、素敵な器があれば拘り無く飛んで行きたいと考えています。
    今年、8月に開催予定の京都の大徳寺塔頭 玉林院さんは昨年もお世話になっており、本堂自体が重文襖は狩野探幽狩野派一門による水墨画が描かれています。そんな重要文化財に囲まれた緊張感漂う中でのフォーラム開催となります。
    この玉林院さん、歴史は古く、慶長8年(1603年)に創建され当時は『正琳庵』と名乗っていたようです。その後に『琳(りん)』の字の王と林の部分を分けて、現在の『玉林院』と成ったそうです。
    名前の謂われは御所入りの医師『曲直瀬正琳(まなせしょうりん)』が月岑宗印(げっしん そういん)を開祖として創建し、自身の名前“正琳”をとって名付けたのが謂われだそうです。そして、今回のブログのタイトルになっているのは、「日本医学中興の祖」にして、天下人の主治医として知られる『曲直瀬道三』その人です。
    この“曲直瀬”姓は道三が後陽成天皇から曲直瀬家三代にわたる医学の功を賞して、『今大路(いまおおじ)』の姓をおくられ、道三はそれを切っ掛けに、二番目の孫娘と結婚した門人の正純と、養子玄朔の三女と結婚した門人の正琳とに与えたそうです。
    この『曲直瀬道三』については、書くことが山ほどありそうなので、今日と明日のブログ二日間を使って取り上げたいと思います。
    先ず初日は、余りにも凄すぎる『曲直瀬道三』とはどんな人だったかを、矢数道明(やかずどうめい)氏著の『近世漢方医学史-曲直瀬道三とその学統』(名著出版・1982年)を資料として語ってみたいと思います。
    曲直瀬道三(まなせどうさん)(1507〜1594年)は室町期から安土桃山時代に活躍した医師です。道三が生まれた時代は丁度、応仁の乱から30年後位であり、室町時代、11代将軍、足利義澄(よしずみ)の時代でした。室町後期は既に将軍の賢威も地に落ち、各地の守護たちが大名となり、勢力拡大、各地で群雄割拠の下克上が横行した混乱の時代でもありました。
    そんな時期に道三は永正4年9月18日、京都の下京、柳原で生まれました。道三は後の名で、当時は正盛(まさもり)、又は正慶(まさよし)と名乗りました。道三は生まれた翌日に父親が死去、間もなく母も亡くなったようで、伯母と姉に養育されたようです。
    子供の頃から頭脳明晰、一を聞いて十を知るところがあり、いつも身近に四書(大学・中庸・論語孟子)を置いていたようです。
    そして、道三、八歳の時に江州(現滋賀県)守山の天光寺に入りました。そこで修行を積み1519年8月15日、十三歳の時に京都の相国寺(しょうこくじ)に移りました。
    相国寺京都五山の上位にあり、格式も高く、僧としては出世コースと言えるかもしれません。
    と、ここまで見ると、僧侶になるための修行であり、医学とは無関係のように思われますが、当時、中国から入ってくる最新医学の殆どは、仏教などの経典などと一緒に伝わることが多く、必然的に生と死を扱う僧侶という立場上、『僧医(僧侶で医学の心得のある者)』と言われる立場の人々が医療を施すようになりました。

    しかし、時代は戦国を迎え、戦闘が日常化すると刀による斬傷や槍弓による刺創が激増しました。傷の応急手当や止血の技術も重視され、膏薬の開発も進み、これらに対応した新しいタイプの医者である『金創医(きんそうい)』が外科のはしりとして誕生しました。戦国の救急救命士的役割であり、とかく宗教と繋げる「僧医」と違った、より実践的医学と言えます。
    この『医僧』『金創医』に関しては、私の最近のお気に入り、NHKで絶賛放映中、要潤出演の『タイムスクープハンター』Season1第三話『戦国救急救命士として取り上げられているので、興味がある方はDVDでご覧下さい・・・某国営放送の歴史番組はかくあるべきだと!いう面白い番組ですので、是非、毎週木曜日22:00〜ですのでお勧めです。のだめの脚本家も見て欲しいと(しつこ過ぎますか)・・・

    その中で道三が学び、実践した医学はいわゆる『李朱医学』でした。
    陰陽五行説に裏打ちされた医学で、宇宙は陰と陽の二つの「気」によって成立しているという発想です。李朱医学では人体を小宇宙と考え、陰陽の相互対立が均衡を失うと病気が発生するという理論であり、人体における陰陽の統一や和合をはかるという、現在の漢方医療の基本的考えにもなりました。

    そんな修行を積んだ道三が京都に戻ってきたのは、1545年道三39歳の時でした。当時の京都は安易な医術が横行していました。病人の症状を診て「和剤局方」と機械的に照らし合わせ、合致した部分で薬を処方するといった安易な医療で、道三が行っていた、病気を詳しく明確に診断し、証を正しく弁別して行う『察証弁治』とは、ほど遠かったようです。この辺りは現代医療と似ている部分もあるかもしれません・・・
    その様な環境の中でも、着実に実績を積んできた道三の評判は、たちまち京都中に広がり、1546年には僧侶を辞めて還俗し、医業を専門としました。

    この後からの道三の人生は、まさにサクセス・ストーリーであり、当時の13代将軍、足利義輝を皮切りに、将軍の補佐役・管領職の細川晴元三好長慶、希代の梟雄・松永久秀、この松永弾正との絡みは明日のブログで。
    その後、遂にその名声が天皇にまで届き、道三68歳の時に正親町天皇の脈をとって診察をしました。そして、信長・秀吉・家康と天下人の健康管理までを道三は行うようになりました。

    この道三という人の素晴らしいところは、名誉や金銭ずくで診察をしなかったというところでしょうか。将軍を診る時も一般庶民を診る時も一切、態度を変えなかったそうです。長い日本の歴史の中で、将軍を診ながら、変わらず一般庶民も診続けたのは道三だけだったとも言われています。普通の医者ならば、日本の医者の最高位についたなら、先ず一般庶民は診ないと思います。
    その、一人の権力者だけに与(くみ)すること無い姿勢に『国手(こくしゅ)』(国家の病気まで治す)と称され、自身の健康法により、88歳と長命を得て亡くなりました。

    曲直瀬道三の興した医学は『後世方派(ごせいほうは)』として、江戸時代を通じて漢方医療の一大流派を作り、今日の漢方医学に受け継がれています。

    内容的にかなり端折っていますが、僧籍にあったこともあり、人間的魅力に溢れた医師であり、日常的に命のやり取りをして、高ストレス状態にあった戦国武将達に、今で言う心療内科的役割も果たしていたと思われます。
    実践的で、診立てを重視する姿勢は何だか操体に近い感覚もあり、妙に親近感を覚えます。
    そんな道三の思いを受け継いだ正琳の築いた『玉林院』でのフォーラムは又、感慨深く夏がとても楽しみです、ベープは必需品ですが・・・

    近世漢方医学史―曲直瀬道三とその学統 (1982年)

    近世漢方医学史―曲直瀬道三とその学統 (1982年)

  • 男色(なんしょく)という文化

    『ドドスコスコスコ』って最初は面白かったのですが、最近では少し食傷気味の楽しんご氏ですが、栄枯盛衰、移り変わりの激しい芸能界において、手を替え品を替え様々なキャラが誕生しています。
    そんな中で、時代が変わっても生き続けている?のがオネエ系キャラと言われる人々でしょうか。
    自称ゲイというのを売り物にして、もはやジャンルとしてしっかりと確立された感もあります。何故、このジャンルが存在するのか?と冷静に考えてみると、現代日本においては奇異な存在であり、非日常の中の怖いもの見たさ、等々、色々な理由が挙げられると思います。
    ただ、不思議とゲイの方々は堂々?とテレビに出ていらっしゃるのですが、レズ系の方が余り好まれないのは、生々しすぎて笑えないからでしょうか・・・
    ゲイと言いますか、いわゆる日本における『男色(なんしょく)』の歴史は意外と古く、神代の頃からその記述は見られますし、平安期の女人を遠ざけていた、僧侶、貴族の間で行われ、特に盛んになったのは中世、戦国期に入ってからでしょうか。戦が日常的になり、いつ何時、命を落とすかもしれない精神状態の中で、武将達は『験(げん)』の悪いことを行うのを極端に嫌いました。
    特に当時の武将達は血を嫌い、月のものがある女性を禁忌の対象ともしていました。
    しかし、その一方で極度の緊張状態から来るストレスで、性的興奮は日常的にも極限に達していたとも考えられます。
    これは現代にも生きている話で、特に格闘技の世界では試合前の数週間、或いは数ヶ月前から禁欲生活に入ると言います。『食欲・性欲』を極限まで抑えることで、動物としての本能が活性し、アドレナリン出まくり状態で試合に臨むわけです。ただ、戦国期は毎日が試合のようなものですから、抑え込むばかりでは精神に異常を来してしまいますので、験もよく、共に戦場にある男衆を側においたのは必然だとも言えるかもしれません。

    ですから、今のように『男色』は特殊なジャンルでは無く、ごくごく当たり前に日常の中にあり、作法、或いは嗜みといった感覚だったとも思われます。
    それが証拠に江戸期に入ると、武家だけで無く、一般の町人にも男色が拡がり『陰間茶屋』なる男娼専門の茶屋まで存在した位です。
    話を元に戻しますが、この『男色』の関係性は戦国期に関しては、大将と部下的な図式が一般的であり、いわゆる大将が『タチ』部下が『ネコ』という図式が一般的だったと思われます。逆に言いますと、一番の出世エリートコースが『ネコ』になることであり、職名では『小姓(こしょう)』と呼ばれ、主君の傍にあり、主君の“秘書”的役割を果たしていました。
    ですから、様々な『知識・作法・武芸全般』に至るまで、一流を求められ、単純に見目麗しいから、などと言った軟弱な理由では無く、真のエリートが小姓に選出されたのです。
    有名なところでは織田信長前田利家森成利(蘭(乱)丸)」伊達政宗「只野作十郎勝吉」上杉謙信上杉景虎北条氏秀)」武田信玄「香坂昌忠」などなど、文献に真偽と共に資料として残っているだけでもかなりのものがあります。
    伊達政宗操体ではお馴染みの武将であり、戦国後期を代表する武将でもあるのですが、先に挙げた「只野作十郎勝吉」と正宗公のやり取りは伊達政宗文書2865号として現存しており、詳細を知りたい方は佐藤憲一氏著伊達政宗の手紙」(新潮選書)でもお読み下さい。
    長文な上、トリミングが難しい文章なので敢えて載せませんが、後悔の念と、懺悔の気持ちに身悶えしている正宗の様子とか、自傷行為に及ぶ作十郎を愛おしく思う正宗の心の有り様など、読んでるこっちが小っ恥ずかしくなるほどのパッションを感じますので、マニアの方はどうぞ・・・

    伊達政宗の手紙 (洋泉社MC新書)

    伊達政宗の手紙 (洋泉社MC新書)

    この『男色』一方では衆道(しゅどう)』と言う、単に肉体的な関係のみならず、精神的に強い繋がりを持つものへと発展もして行きました。この”しゅどう”には「主童」「殊道」「主道」の文字を当てる時もあり、『男色実語教』によれば、「主童」12〜14歳の3年間で、男色の若衆を花に例えると蕾の時代
    「殊道」15〜18歳の3年間で、花に例えると盛りの時代「主道」18〜20歳の3年間で、花に例えると散る花の時代にあたると言うそうです。
    諸説あるそうですが、16歳が若衆の春で25歳に達すると陰間としての命は終わりとなるわけです。

    この精神的に強い繋がりを持つというのが、衆道の根源にはあり、“ネコ”の立場である男性は“タチ”の男性がスムーズに事が行われる様に、『張形(はりがた)』等を使い、肛門を拡張したりと、苦痛を耐え忍んで相手に快楽を提供する立場にあり、一方で“タチ”の男性は快楽を感受して“タチ”の苦痛を察し取り、その責任感を強く持つことで、二人の関係は強く結びつき昇華されるといった、遊びのレベルを逸脱した、『念契』と言った契り契約をも結んだ関係にまで成っていったようです。
    昨日のブログでも書きましたように、浮世絵にも男色専門物もたくさんあり、それ以外のジャンルの有名どころでは、武家社会の衆道咄、歌舞伎若衆達の内情を暴露した井原西鶴の『男色大鑑』や、十返舎一九東海道中膝栗毛も喜多さんは元々弥次さん馴染みの陰間だったりと、江戸文化と男色は様々に絡み合っていたのです。

    まぁ、色々と『男色』について語ってみたのですが、今巷に溢れている”Boys Love”的温いものでは無く、文武両道の逞しき若者を傍において、帝王学を伝授しながら、明日をも知れぬ命を互いに愛情と共に育んだのだと思います。
    ですから、今の「ドドスコ」を信長や政宗が見れば、「何だ!この軟弱者!」と言われ、ソッコーその場で手打ちになると思います・・・くわばらくわばら

    東海道中膝栗毛 (21世紀版・少年少女古典文学館)

    東海道中膝栗毛 (21世紀版・少年少女古典文学館)

    男色大鑑 (決定版 対訳西鶴全集)

    男色大鑑 (決定版 対訳西鶴全集)

  • 世界に誇る日本の浮世絵

    江戸時代の日本は鎖国をしていた関係上、一部の国を除いては国同士の交流が殆ど無く、日本独自の様々な文化を昇華させて来ました。
    特に芸術面で目覚ましいモノがあり、その中でも私が個人的に好きなのが『浮世絵』です。
    基本、版画は大量生産なので、今で言うと東スポ的ポジションだったり、“るるぶ”だったりと、非常に多岐、多種にわたり版元により創られていました。
    今回はその浮世絵の側面でもある春画について語ってみたいと思います。春画に関しては以前のブログでも話したことがあるのですが、元々は中国に起源があるようで、漢の時代とも殷の時代とも言われているようで、日本には平安時代の頃に中国から渡来してきたようです。
    当時は偃息図(おそくず)と言って、医術のための説明図だったようです。それが日本でアレンジされて戦国時代には何故か、魔除けとしても使われたようです。
    本格的に春画が広まっていったのはやはり、江戸期に入ってからのようです。代表的作者としては浮世絵の始祖としても知られている、菱川師宣(ひしかわものろぶ)であり、その他にも喜多川歌麿、歌川豊国、葛飾北斎などなど、メジャー処の絵師達の殆どが春画を手掛けているのです。
     では春画の使い道なのですが、色々とありますが、主には・・・

    1. 夫婦、恋人間でより高い性の快を追求したり、未体験の体位に挑戦するテキストとして用いた
    2. 性教育や自慰行為の補助
    3. 大名・旗本の息女達の嫁入り前の性教育教科書、嫁入り道具

    などなどと利用法は色々あったようです。現代で言われる、ややアブノーマルチックなプレイの絵も、しっかりとあって、『男一人の女性二人の3P』や逆の『男性二人の女性一人』パターンとか、肛交プレイや獣姦・屍姦などなど、おおよそブログでは言えない物も含め、多種な春画が存在し、江戸の人々は『快』に対して非常に大らかに楽しんでいたのが絵からは伝わってきます。

    特にの役割は大きく、前回のブログにも書いたのですが、戦国期の大名家の婦女子は、某国営放送(しつこいっすか?)で、のだめが演じてるような温い婦女子など存在していないのです!
    しっかりと自分のお家の立場や、自分の立場も踏まえた上で、嫁ぎ先の旦那様を自家に有利なようにコントロール出来るよう、鍛えた極上テクニックでメロメロにしたとも言われています。とかく今のテレビの脚本と言えば、女性は政争の具にされて悲劇的だった、みたいな描き方しかされませんが、当時の女性はそんなヤワな存在では無く、しっかりとした野望と目的を持った『超ポジティヴ・シンキング』肉食系女子だったように思います。
    現代の感覚で時代を語るな!の法則はここでも生きているのですねぇ・・・
    春画って何?って方は是非、一度ご覧頂けたらと思います。Webでググっても発見出来ますし、本も多数、発売されていますので捜して見るのも面白いと思います。その時代一流の絵師達が描いているだけあって、洒落っ気があって、エロティックでクスッと笑えること請け合いです。浮世絵だけあって、畠山先生も書かれていましたが、パーツがかなり誇張して書いてありますが、妙にリアルで毛の一本一本まで、版画でこんなに詳細に表現出来るんだと、絵師と彫り師の技術に改めて驚嘆します。
    但し、残念なことは日本国内における春画の評価が非常に低いことです。逆にあれだけキリスト教による性に対しての抑圧のある海外においては非常に春画に対しての評価が高いのです。
    ヨーロッパでは1990年頃から春画の展示会が開催されていたのですが、スポットを浴びる切っ掛けとなったのが、浮世絵研究家の白倉敬彦氏曰く、1995年に大英博物館で開催された『喜多川歌麿展』だったとのことです。
    この展示会において、通常の浮世絵と一緒に、歌麿春画の一部が展示されました。由緒ある博物館で春画が取り上げられたことで話題を呼び、カタログがあっという間に完売し、増刷を行ったようです。
    その後も2002年にフィンランドヘルシンキで大々的に春画展が開催、遂に2008年にはニューヨークで開催され、ヨーロッパ以外でも春画の芸術性が認められることとなりました。

    更に2009年、スペインのピカソ美術館では「Secret Images」と題された企画展で、ピカソが個人的に所蔵していた春画と、これらの春画に影響を受けて制作されたとみられるピカソの作品が同時に展示されました。
    この企画展は世界中で大反響となり、その年のヨーロッパで開催された最も優れた企画展として賞を得たそうです。
    これだけ海外で評価の高い、春画が何故!日本国内では下品だとか、教育上良くないなどの評価を受けているのかが、本当に不思議でしょーがないです!!一枚一枚の絵から浮かび上がるのは、『生』に対しての本当に生き生きとした素晴らしい表情です。
    ただ単純に絵柄を見て醜美を語るようなPTAのおばちゃん連中の浅い見識では無く、その絵から発せられる、自由闊達なパワーを目で見て、皮膚で感じてもらえれば、当時の人達の息づかいと、作品から放たれるエネルギーは、時代が過ぎても衰えること無く、見るものの、心と本能を擽る素晴らしいものです。
    あ、最後に立命館大学アート・リサーチセンターの創立10周年記念の企画として、第1回春画プロジェクトとしてネット上で『春画』が見られるようになっていますので、興味がある方はそちらもご覧下さい、URL:http://www.dh-jac.net/db12/shunga/index.html当時の人達の『生と性』を感じてみて下さい。

    春画 江戸の絵師四十八人 (別冊太陽)

    春画 江戸の絵師四十八人 (別冊太陽)

  • ルイス・フロイスの見た日本

    福田と言えば歴史ということで、懲りもせず、今回も『性』の歴史を色々な解釈で最終日まで紐解いてみたいと思います。
    タイトルにもなっておりますが、皆さんはルイス・フロイスなる人物をご存じでしょうか?ちょっと歴史に詳しく、尚且つ信長好きな方にはお馴染みの人物です。簡単にプロフィールを紹介しますと、ルイス・フロイス(1532〜1597年)ポルトガル出身のカトリック司祭、イエズス会所属の宣教師です。

    当時、堕落した仏教界への不満と外国の技術力に興味を持っていた信長が、キリスト教の布教に苦心していたフロイスとの利害関係が一致したことで、信長・秀吉といった両天下人の元で過ごすことが出来ました。

    戦国期当時、日本各地での見聞を示した資料として10年以上に渉って書き上げられたのが『日本史』です。
    この『日本史』は戦国期の資料として、とても貴重であり、信長の生涯を右筆の太田牛一が描いた信長公記にも見られない記述があるなど、身内では無い客観的外部の見方として一級資料と言っても過言ではありません。
    信長の声が甲高いとか、身体的特徴も含めた信長像は、この“日本史”に書かれている内容から考えられている部分も多く、そういう意味では我々の描く信長像はフロイスによって創られたと言っても間違いではないでしょう。

    話を元に戻しますと、この日本史の面白いところは、只単に権力者だけを書いたのではなく、一般庶民の生活にまでスポットを当てているところです。
    このフロイスの『日本史』から、当時の世相、風俗を読み解いてみたいと思います。
    『日本史』の記述の中で一番ビックリしたのは、当時の日本女性に対しての記述でした。
    戦国時代の女性と言えば、只今絶賛放送中、某国営放送のだめカンタービレでGO!』ですが、余りにも酷すぎて本当のタイトルを忘れてしまったのですが、現代人の感覚で脚本を書いてしまうと、こうなってしまうのかという典型的なドラマだと思いました。もはや私は見ていないので、今後どうなるのかは分かりませんが、もはや『ファンタジー大河コメディ・トレンディドラマ』と命名したいです。

    話し戻しますが、戦国当時の女性達はどうやら現代の私たちが描いている戦国女性の感じとは大きく違っていたようです。以下、フロイス『日本史』の記述から幾らか抜粋しております。
    書き方としてはヨーロッパの女性と比較しつつ書かれています。

    (貞操感)
    『ヨーロッパでは未婚の女性の栄誉と貴さは、貞操であり、又、その純潔が犯されない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても、名誉も失わなければ、結婚も出来る。』

    この“貞操観念”って概念が殊更に言われるようになったのは日本では明治に入ってからですし、恐らくは鎖国が解けて、先に言ったヨーロッパのキリスト教からの、貞操観念が大きく影響していると思われます。
    今ではほぼ死語になりつつある、『処女性』に関しても、江戸時代などに残る記述にも、現代のギャル(死語か?)も真っ青の記述が見られます。未通女(処女)(ていらず)の味は良くない、逆に迷惑である、とかなどなど・・・
    女性側にしても、性行為に不慣れな男性による初体験は快感どころか破瓜(はか/処女喪失)による痛み、出血、痙攣などの可能性もあるということで、初夜には経験豊富な男性(その多くは仲人)と性行為をしてしまって、破瓜を済ませてから、旦那様になる男性といたす、という習慣も実際に存在していました。いわゆる初夜権のことですねぇ。日本では初夜権などといった言い方はしていないと思いますが、女性も暗黙の内に了承し行っていたようです。

    これはヨーロッパにもあって、西欧では初夜権は領主や司祭にあって、この辺の話は映画などでも多く取り上げられており、割愛しますが、日欧共通なのは、代理でいたすベテランさん達の『中出し厳禁』ってルールでしょうか。
    あくまでも目的は破瓜による痛みを無くすことなので、ベテランのおじ様に開通して戴いて、尚且つ“接して漏らさず”といった、私には不可能な任務な訳です。
    現代人の感覚で聞くと結構目が点ですが、当時は当たり前だったということです。だから最近の時代劇で言っているような、操を守ってなどということは作り事に近いと言えるかもしれません。

    フロイスの記述を後、幾つか挙げます。
    (外出時)
    『ヨーロッパでは夫が前、妻が後ろになって歩く。日本では夫が後ろ、妻が前を歩く。』旦那の後ろを静々と歩くのでは無いようです・・・
    (財産)
    『ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。』何だか身に詰まされます・・・
    (離婚について)
    『ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、又結婚もできる。』
    (離婚について2)
    『ヨーロッパでは夫が妻を離別するのが普通である。日本ではしばしば妻が夫を離別する。』

    (娘の外出)
    『ヨーロッパでは娘や処女を閉じこめておく事は極めて大事なことで厳格に行われる。日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも数日でも、一人で好きなところへ出かける。』
    (妻の外出)
    『ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては、家から外へでない。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。』
    (女性の飲酒)
    『ヨーロッパでは女性が葡萄酒を飲む事は礼を失するものと考えられている。日本ではそれはごく普通の事で祭りの時にはしばしば酔っ払うまで飲む。』
     
    まぁ、多少、誇張したり、キリスト教の素晴らしさを誇示するのと、日本という東洋のチッポケなモラルの低い島国で布教をしているというのを、本部にアピールしたかったという、部分もあったかもしれませんので、全てを鵜呑みには出来ませんが、日本でも同様の記述が見られるので、ほぼ内容的に間違い無いのではと思われます。

    このフロイス『日本史』を見ると、後生の作家が日本の女性は命を絶っても操を守り通す!などと書いたのは、非常にヨーロッパ的表現であり、実はもっと男性と同じような感覚で、矢弾尽き、うてる手はこれ以上無いと、旦那と共に最後まで戦い、これ以上生き延びてもと、自らの命を絶っていたのかもしれません。
    カンタービレ、のだめの様に春画を見て失神するようなヤワな戦国女など当時は存在せず、もっとしたたかに、そして『自分の意思を持って』戦国の世を超ポジティヴに生きていたと思われます。

  • KISS

    私たちは昨年、東京操体フォーラムIn Madridで初の海外セミナーを行いました。個人的に海外は何度か経験していましたので特に文化の違いなどでビックリするようなことは無かったのですが、その中で唯一、サプライズ的にビックリしたのが、全てのプログラムを終了し、受講証の授与を行っていた時でした。参加者の女性の方が、握手の代わりに顔をスッと目の前に出して来たのです。
    これは頬と頬を合わす挨拶のようですが、中には分からず唇を出したのも居ました・・
    どうやらラテン系スペイン・イタリア・ブラジル圏では相手の左頬に行って次に右頬と左右に行くようですし、アメリカなどは左頬だけの様です。
    私なんぞは慣れていないので、相手も女性ですしソフトに行くと、結構『ガチン!』と音がする位の勢いで来られるので、艶っぽい状況も無く、拳と拳を合わす位の挨拶に感じました。
    挨拶だけでも国が違うとまぁ、色々あるもんだと感心したのを思い出しました。
     歴史的にも日本人は挨拶として『キス』をする習慣は無かったようですが、昨今は電車の中や公衆の面前でも平気でキスをする輩が増えて、私のようなオッサン連中は『家でやれ!』とか思いつつ、苦々しくその様子を見たりしています。この公衆の面前でディープなキスだけは何度見ても羨ましいとは絶対に思いませんねぇ・・・
    古来から日本では『接吻、口吸い、口舐(ねぶ)り』など言葉が示すように唇のみへのキスが行われていたようです。
    そもそも『キス』の語源はゴート語の『キュストゥス』(味わうの意)から来ているようです。フランス語の『ベーゼ』ラテン語「バシオ」(口を開くの意)から、日本語は「合吻」「口吻」「吸唇」などを経て尾崎紅葉森鴎外二葉亭四迷など明治の文豪らが「接吻」を使い始め、一般的に「接吻」が定着したのではというのが有力な説だそうです。
    更に遡り、西沢爽『雑学艶学』によると、日本の文書にキスの記事が初めて登場したのは紀貫之土佐日記だったようです。
    それには『押鮎の頭をしゃぶっていると、男と女が口を吸う様子に似てる。押鮎に心があれば、私は吸われていると思うに違いない。それにしても、早く都に帰って京女たちの口を吸いたいものだ』という意味のことが書かれているようです。紀貫之の『ボーッと』している姿を想像すると何だか滑稽ですが、土佐日記は成立が935年(承平5年)と言いますので、千年以上前から愛の行為として日本でもキスが行われていたと言えるようです。
     『最近いつキスしましたか?』と問われて、即答出来る方と、思わず眼球が上方を向く方といると思いますが、どうでしょうか?
    残念ながら私は後者の方に成りつつあります・・・
    「The Science of Kissing(邦題:キスの科学)」の著者であるシェリル・カシンバーム氏は著書の中で、ラトガーズ大学人類学者ヘレン・フィッシャー博士の研究内容を紹介し、「キスは人間にとって重要な三つのニーズを満たすために行われる行為」と説明しています。
    一つ目は性衝動、二つ目はロマンス、最後が愛情だそうです。この三つが満たされることにより、人はパートナーと寄り添い愛し合うことができるとのことです。キスは、ふたりの関係を育むのにとても重要な役割を果たすと、カシンバーム氏は説明しています。
     しかし、その一方で、オールバニー大学心理学者ゴードン・ギャラップ博士の研究によると、59%の男性と66%の女性が、キスに関しての不具合によって恋愛関係を築けなかったと証言しているそうです。
    私たちはキスによって、相手のDNAや生殖状態を探り、自分に合うパートナーを選別しているようです。キスでうまくいかなかったということは、すなわち生物学的に相性が合わなかったということなのです。
     私自身、この内容には非常に頷ける部分があり、未だ若かりし頃、とある女性と事に及ぼうとした時、キスをした瞬間に失礼な話なのですが、もどしそうになったことがありました。お酒を飲んでリバースした経験が無い私にとっては衝撃的な経験で、「君とのことはもっと大切にしたいから(汗)」などと誤魔化した記憶があります・・・当然、その後別れました。。。
     男性と女性ではKissの意味合いが多少違うようで、女性は自分と異なる遺伝暗号免疫系を持つ男性の『匂い』に強く引き寄せられるのだそうです。異なる遺伝子の結合は非常に生命力が強いそうで、本能的に女性はキスの最中に鼻を効かせオスの遺伝子情報をスキャニングしているのです。
    一方、男性はどちらかと言えば、性的手段を得るためにキスをするようです。男性の唾液中には、テストステロンというホルモンが少量含まれており、これが女性の口に入ると、テストステロン濃度が上昇。女性の感受性や性欲が高まるのです。ですから男性にとってキスをすることが、性的関係を持つことに結び付きやすくなるのです。
    ですから、アホな男性はキスしたから最後までOK!などと単純に考え、ほくそ笑んだりしていても、実はそれよりも早いスピードで女性に識別され、善し悪しを判断されてしまっているのです。
    キスまで行ったのにそれ以上進もうとしたら拒まれたという経験を持つ男性諸氏は一次審査で落選したと考えなければならないのです。たかがキスされどキス・・・今日は飲みたい気分です・・・

  • 性の目覚めと俺の空

    今週一週間、ブログ担当の出雲之国住人、福田です。今回も宜しくお願い致します。
    今クールは人にとって大切な『性』について考えよう!というのが大きなテーマになっています。生きる上の根源的テーマであり、奥の深い部分ですので、実行委員の皆さんが、数多い?経験の中から色々と語っていらっしゃるので、これ以上何を書けば良いのか?と戸惑いながらも一週間、別の切り口からもアプローチしていきたいと思います。

     私は元々、男二人兄弟だったこともあり、実家の母曰く、保育園とか通っている頃には、女の子が外でオシッコとかしていると(昭和40年代では珍しく無かった)前に回って見ていたと、笑いながら話していました。
    まぁ、ガキの頃から自分の持っていないモノに興味津々だったのだと思います。
     思春期、青春・・自分の『性春』の目覚めって何歳位だったろうと、もはや三十数年前なので、改めて考えてみると、中1か中2の頃でなかったかと記憶しています。丁度その年代の男子と言えば“妄想で暴走”時期であり、色んな意味で悶々としていたのではと思います。 
    そんな私を性への入り口へと誘ってくれたのが、冒頭のタイトルにもなっている、本宮ひろ志先生の俺の空でした。今ではパチンコ台にもなっている『俺の空』ですが、当然のことながらその頃は漫画であり、友達同士で回し読みしていて、一時期話題(私の中学校で)になった作品でした。
    まぁ、本宮先生と言えば男一匹ガキ大将とか“硬派銀治郎”など男臭い男ばかりを描いた作品が多く、異色な作品だけにワクワクしながら読んだと記憶しています。
    私と同年代の男性諸氏は読んだ人も多いと思うので、詳細は避けますが、日本でも有数の大財閥、安田財閥の御曹司『安田一平』『日本中を放浪しながら、一年以内に安田グループ全体が認める生涯の伴侶を捜し出す』という安田財閥、一族の掟を果たすため様々な女性と出会い、人間として男として成長していく過程を描いた、男の夢や妄想を全て網羅したような豪快な作品でした。
    腹が立つ位に全てを持っている主人公、安田一平の設定など、こち亀の中川を彷彿とさせる、現実離れをした話ではありましたが、本宮作品らしい清々しさや、実社会の不条理など、性旬のバイブル的素晴らしい作品だったと思います。

    色々と魅力のある女性が登場し、その都度、一平と事に及ぶわけですが、特に印象的だった場面が、一平が安田家を出て、最初に向かった担任の女性先生のアパートでの場面でした。
    一平は一年生の頃から生徒会長で、二年間で三年分の単位をとり、剣道部を全国大会制覇に導くなど、どこから見ても完璧な生徒で、アパートに来たのをビックリしたのは先生本人だったという下りです。そんな真面目を絵に描いたような一平の口から出たのが『女の体を教えてもらいたいんです!』の一言でした。まぁ、その後は読んで下さいって感じなのですが、初体験の相手が学校の美人先生という男の妄想を最大限に掻き立てるような設定に色々な意味で盛り上がった様な気がします。
    残念ながら私の学生生活の中で若い美人教師という出会いも無く、学生生活を終えてしまったので実現は出来なかったのですが、『年上の女性』に対しての憧れは潜在的に植え付けられたのかもしれません。
    その年の私のクラスでの流行語大賞『ぬ・・濡れている』でした・・・ 
    因みに男性の初体験年齢15歳〜26歳だそうで、特に18歳〜23歳が圧倒的に多いようです。しかも、その時の相手女性の年齢は約50%が年上だそうです。性的欲求や衝動を抑えきれなくさせる存在は、今も昔も「年上の女性」であり、これはサルの世界でも見られる現象だとのことです。

    むむむ・・・ご多分に漏れず私もその統計に見事に当てはまっているので、反論は出来ませんが、稚拙な男の本能をスッポリと包んでくれる年上の女性は、やはり男にとっては偉大な存在なのかもしれません。
    それが証拠に今や40代の女性に旦那が20代っていう夫婦も増えているそうです。女性の晩婚化に伴い、経済力の弱い若い旦那を経済的にも精神的にもフォローする年上の女性。この縮図は草食系と言われている昨今の男性状況とリンクしており、専業主夫も増加している状況は男としては微妙かもしれません・・・

    俺の空―本宮ひろ志傑作選 (1) (集英社文庫―コミック版)

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  • 女性にモテるには。

    最終日となりました。

    異性にモテなくてもいい、というのは人生投げたようなもの。橋本敬三先生は85歳過ぎてもなお、色気と茶目っ気をお持ちだったそうで。自然農法で有名ある方は、数年前に亡くなられましたが、80代半ばでも「オトコとオンナの関係」にある彼女がいたそうです。

    話は変わって

    ある女性がある男性のところに相談に行った。私は立ち会いとして2人の話を聞きながら、途中でアドバイスをはさんだりした。女性が納得して帰った後、男性は私に「彼女は一体何が言いたかったんだ?」と聞いた。

    「話をきいてもらったから、それでいいんです。女の相談に対して『だから、オマエは何を言いたいんだ』と言うのは、典型的な男性の思考で、女が何か話をしたら、取り敢えずわからなくても同意するのがモテる男だ、『何を言いたいんだ』と聞いてはいけません」と指導しておいた(笑)

    これは事実である。

    別の話。
    私がある人に「○○さんって、私にこんなひどいコト言うんですよ〜」と訴えたところ、「いや、ちがいますよ。そんなつもりで言ったわけじゃないと思いますよ。悪い人じゃないですよ」と言われた。
    こういう話をオンナからふられた場合、最初に「そんなことないですよ」と否定してはいけない。こういう場合は「え?そうなんですか。ひどいな〜。でも多分そんなつもりじゃないと思いますよ」と、まず最初に同意するのが最善策である。何か相談したら、最初に「違いますよ」と否定するようなオトコには二度と相談なんかするかよ、と思うのが女子である。女性にモテたかったら「何が言いたいんだ」とか、女性が言ったことを最初に否定してはいけない。まずは黙って聞くか、最初に同意すればいいのだ。これは紛れもない事実である。これで損をしている男性がどれ程いることだろう。
    モテたいのだったら、上記2項は重要ポイントである。

    なお、最近の「草食系男子」の出現を嘆いている男性諸氏もいるが、世の中の平和が続くと、男性が小綺麗になるのは世の道理である。
    江戸時代(笑)の初期は、それまで戦国時代だったこともあり、「ワイルド系」の男性が主流だったそうである。ヒゲにもみあげという感じ。しかし江戸時代に入って元禄時代にはいると、男性の草食化ならぬ装飾化に移っていった。とにかくむさ苦しいのは「ダサい」とされ、何とヒゲは剃らずに抜いていたらしい。また、着物の裾をからげたり、ふんどし一丁姿を見せる姿でアンダーヘアが出ていたらそれこそ「ダサくて野暮」と言われる。なので、銭湯の男湯にはヘアを切るための「毛切り石」があったのだ。それくらいすっきりと垢抜けた感を出すために、江戸のふつ〜のオトコは身だしなみに気をつかっていたのだ。

    江戸の女と恋愛観 (双葉文庫)

    江戸の女と恋愛観 (双葉文庫)

    もうひとつ。手元の参考資料によると、「額は広め、鬢(びん)はちょうどよい厚みに素直に仕上げるのがよい。ただしおくれ毛は一本もあってはダメ。ふだんから鬢つけ油は必要で、1日に三度は鬢をとかせ。眉は尻上がりに形づくる。ヒゲは徹底的に抜き、歯は白く、爪はまっすぐに切れ」。これは何かというと、当時のオトコが遊郭に登楼する際の身だしなみ指南である(色道大鏡より)。江戸のオトコは小綺麗にしていたのだ。遊女にせよ、小綺麗で垢抜けたオトコのほうがいいに決まっている。

    第1分析時代は、からだの中心腰から動くのがメインだった。第2分析が生まれ、連動の秘密が解き明かされると共に、からだの動きは末端から表現するようになった。勿論末端からの表現で、快適感覚がききわけられない場合は「逆連動」として、からだの中心腰から動きをとらせる場合もある。

    女性が男性を襲う(爆)場合は、からだの中心(笑)からアプローチしてもいい。何故なら男性の感覚帯はその辺りに集中しているからである。しかし、男性は自分がそうだからといって、いきなり女性のからだの中心にアプローチすべきではない(大抵は痛みを与えたりして、嫌われる)。女性を扱う場合は、末端からアプローチするのが得策である。
    痛いとところに直接手をかける、つまり腰が痛いと腰を揉むとか、骨盤をいきなり調整するのではなく、操体的に遠方から、末端からのアプローチが有効ではないかと思う。

    そういえば、ネットで悩み相談などを見ていると「彼に不感症と言われました」というのが結構あり、「へえ」と思って読んでみると、まだ経験が浅いということがある。たかが2,3回で「感じる」ことができるほうが珍しいに決まっているのだ。この「彼」の問題点は「男女の感覚の差」「男女のからだの違い」を知らないことと、恐らく手抜きをしているのである。

    また、操体でも「感覚の勉強をしなさい」と言うが、秘め事においても「感覚の勉強」は必要なのである。操体を学び、きもちよさをききわける学習を続けて行くと、極端な話、指一本曲げるだけで全身形態を操ることができ、極上のきもちよさを味わうことができる。女性のからだも同じなのだ。いや男性もそうかも。
    女子が最初からきもちよさを味わえる場合もあるかもしれないが、レアなケースだと思う。というか、よく青年誌のコミックなどで「処女で巨乳でエッチで大胆で初体験で感じまくり」という女の子が出てくるが、あれは全くもって男性の幻想だ。もしくはAVの見過ぎである(笑)。

    オトコの脳、オンナの脳の違いを勉強するのも修業?のうち。違うからこそ、面白いのだから。

    セックスしたがる男、愛を求める女

    セックスしたがる男、愛を求める女

    二人で育てるスローセックスイッたフリはもう、しない。

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    恋愛脳―男心と女心は、なぜこうもすれ違うのか (新潮文庫)

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    ことばに感じる女たち (ワニ文庫)

    ことばに感じる女たち (ワニ文庫)

    また、女性にしても「お勉強」は必要だと思う。「自分の要求ばかり通すが自分は殆どマグロ女」だったりというのはよろしくない。これについてはまた。

    一週間色々好きに書かせて頂いたが、最後に映画を一つ紹介しよう。
    私はこの映画を映画館で5回観た。オリジナルはブロードウェイのミュージカルで「ヘドウィグ&ザ・アングリー・インチ」だ。ヘドウィグはアメリカ中をツアーして回っているロックバンドのヴォーカリストだ。今は「女」だが、元はオトコだった。

    ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ [DVD]

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    ヘドウィグは旧東ドイツの生まれだ。とても可愛い男の子に育ったが、父親がベッドの中で、ヘドウィグに「悪いいたずら」をしているのを見て、母親はヘドウィグを連れて離婚する。その後10代半ばを過ぎ、ますます美しい男の子に育ったヘドウィグは、アメリカ軍の軍人(勿論オトコ)に見そめられる。
    その後、東ドイツを脱出するためには結婚が必要ということで、母親はヘドウィグに性転換を勧める。ヘドウィグは手術を受けるのだが、東ドイツの医者は性転換手術になれていなくて、1インチ(3センチ)ほど「残って」しまう。だから「アングリー・インチ」なのだ。
    アメリカに移住すると、軍人の夫は新しい恋人(勿論オトコ)と去って行ってしまう。その後、ヘドウィグが「ロック」を教えた男の子が大スターになり、ヘドウィグは彼のツアーの後を追って、自分のバンドのツアーをするのである。ツアーメンバーの中にヘドウィグの「夫」がいるのだが、最後のシーンで「夫」は「女」だったということが明かされる。性別の違いとは何か、そんなことを考えさせられる。
    勿論暗い映画ではなく、楽しい映画なのだが、何だか心に響くのである。

    男女は本来一つだったのだが、神様が何らかの理由で二つに分けてしまった。なので、お互いに片割れを見つけるために生きている、そんな言葉が非常に印象的である。

    最後のシーンで、ヘドウィグがカツラ(金髪のトレードマーク)を外し、服を全部脱いで去って行くシーンは非常に迫力がある。お尻があまりに美しいので(ホントです。本当に美しいお尻なのだ)それにも度肝を抜かれるのだが「いや〜、オトコもオンナも本来は一つだったんだよね」としみじみ思うのである。

    一週間ありがとうございました。

    明日からは島根の福田画伯です。