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  •  師資相承(ししそうしょう)

    師の教えや技芸を受け継いでいくこと。また、師から弟子へ学問や技芸などを引き継いでいくこと。「師資」は師匠・先生。また、師匠と弟子。「師資しし相承あいうく」と訓読する。

    東京操体法研究会の定例講習は35年目を迎えます。多くの方々が学んでいきました。この講習は、橋本敬三先生が顧問をされていた、由緒ある講習会で、私達フォーラム実行委員は、ここで学び、学び続けているということに誇りを持っています。

    「師匠と弟子」と言うのは簡単ですが、「師匠と弟子」「講師と受講生」とではそのポジションが全く違います。

    先日の「守破離」ではないですが、「こういう試みをしてきてみると、稽古というものが茶事の稽古であれ、能仕舞の稽古であれ、編集稽古であれ、歌のお稽古であれ、必ず師弟相承にもとづいた「すがた」や「かたち」をとるべきものであろうことが、よくわかる」松岡正剛 千夜千冊「守破離の思想」1252夜より

    操体を編集して「分けて」みましょう。

    一つは、一般の方が生活の中に操体を活かすような指導。多くの方が、操体を健康体操として捉えているのはこのカテゴリーです。
    もう一つは、私達のように、専門家として操体の臨床を行い、専門家を育成する指導。操体の専門家は一般の愛好家よりはるかに少ないのが特徴です。

    丁度見つけました。Wikipediaの「密教」のところです。

    一般の大乗仏教顕教)が民衆に向かい広く教義を言葉や文字で説くに対し、密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する点に特徴がある。

    「秘密の教え」という意味の表現が用いられる理由としては、顕教が全ての信者に開かれているのに対して、灌頂の儀式を受けた者以外には示してはならないとされた点で「秘密の教え」だともされる。

    何だか操体にもあてはまるような気がします。
    同じ操体でも、一般の方向けに広く分かりやすくその原理を説く。専門家が師資相承によって(師匠が認めない限り、弟子がいくら相承したと言っても認められません)限られた弟子にその真髄を伝える。

    一般の操体愛好家の皆さんから見たら、私達は「秘密主義者」に見えるのかもしれません(笑)。ちゃんと入門して、勉強して、段階を踏んで認められれば、秘伝を受けられるんですけどね。

    さて、今回東京操体フォーラム研究会では「第一分析」の実技指導を行います。

    橋本敬三先生の時代には、「第一分析、第二分析、第三分析」という言葉はありませんでした。これはフォーラム理事長、三浦寛の命名によります。

    ★「第2分析」を、操体法東京研究会及び、一般社団法人日本操体指導者協会の講習以外で教えていたりしたら、それは「?」です。100%ニセモノです。他では教えていないし、第二分析を単独で教えている弟子はいませんから。

    第1分析というのは「楽か辛いか」を二者択一の運動分析で分析する方法で、橋本敬三先生の時代のやり方です。

    ちなみに、橋本先生の本には「書き下ろし」がありません。連載をまとめたものや、随筆をまとめたものです。「操体法の実際」は、橋本先生の著書ではありません。あくまで監修です。私も経験がありますが、監修、というのは「格上げ」のための名前貸しです。橋本先生は当時80歳を越しておられたので、多分「いいよいいよ」と名前を貸したのではないかというのが私の推理です。

    また「万病を治せる妙療法」は、恐らく一番売れている操体関係の本ですが、橋本先生が「楽(な動き)と快適感覚は違う」と断言される前のものです。「現代農業」という農業専門誌に連載されたものをまとめたものです。橋本先生もこの時はまだ「楽」と「快」の違いが曖昧だったようです。表記にも楽ときもちよさの混同が見られます。先生ご自身も後に「あれは間違っている」とおっしゃっているのです。
    つまり、「楽な動き」から「快適感覚」に変化しているのです。

    というか、口では「きもちよく〜」と言いながら、実は「楽な動き」をとおしていたのではないかと。また、よく読んでみると「きもちよく動けばいい」という表記はありますが、「きもちよさを比較対照せよ」とはどこにも書いていないのです。
    橋本先生の時代にも「きもちよさ」という動診・操法がありました。

    これは、前屈の動診ですが、後屈と比較対照はしていません。たまに「前屈と後屈、やりやすいほうをやる」と言っている場合がありますが、人体の構造上、人間は前屈のほうがやりやすいのは当たり前です。これは解剖学的に考えてもわかるのですが、
    「前屈と後屈を比較する」というナンセンスが、未だ操体の世界ではまかり通っています。
    写真の動診は、被験者が前屈していますが、相当の確率で、きもちよさを味わうことができます。「一つ一つの動きに快適感覚をききわけ、味わう」という、その後の第二分析の源流とも言えるでしょう。

    第一分析が悪いとはいいませんが、第二分析、第三分析の「質の高い次元を越えたきもちよさ」を味わってしまうと、もう戻れません。「知る悲しみ」と、島地勝彦氏も書いておられますが、一度質の高いものに接してしまうと、戻れなくなってしまうのです。

    知る悲しみ やっぱり男は死ぬまでロマンティックな愚か者

    知る悲しみ やっぱり男は死ぬまでロマンティックな愚か者

    しかし、身体運動の法則(からだの使い方、動かし方)に則って行うという、操体の作法の点では基本中の基本です。今回、第一分析の指導をしようと思ったのは、あまりにも操体が野放し状態になっていることに、危機感を感じたせいもあります。

    第1分析でも、進化バージョン(介助法、言葉の誘導を含む)をご紹介する予定です。第一分析、第二分析にかかわらず、共通しているのは「操者のからだの使い方」「適切な介助法」「適切な言葉の誘導」「脱力に導く話法」脱力後の適切な支え、が必要です。実際に被験者を相手にすると分かりますが、被験者は操者の言葉の誘導通りに動くとともに、言葉の誘導を誤るとまったく違った動きをしたりします。つまり、ベストな誘導語があります。

    「脱力してくれない」「動いてくれない」「感覚をききわけてくれない」というのは、殆ど操者の誘導語に問題があります。これらを解決すれば、動診操法をスムースにすすめることができるのです。

    ■仏法に於ては正法が混乱をしないやうに相承の道を立て明らかにされてあるのであります。それで此の相承とは相ひ承けるといふことで師の道をその通り承け継ぐことであります。それで此れを師資相承と申します。既に師の道を承け継ぐのでありますから必らず師の証明がなければなりません。弟子が勝手に承継したといってもそれは相承ではないのであります。
    また世間では仏書を読んで悟ったといって師弟といふことを考へない人がありますが、それは仏法の正しい道ではないのであります。昔経巻相承といふことをいって法華経を読んで仏法を相承したと主張した顕本法華宗の祖である日什といふ人がありますが、此れは自分勝手にいふことで法華経の中には日什といふ人に相承したといふ証明はないのであります。仏法に於ては師資相承がなければいけないのであります。また信心相承などといって信心を以て相承したなどといふ人がありますが、信心は仏法の基盤でありますが、相承はその上に於ける仏法の承継の問題であります。
    (第65世『日淳上人全集』1442)より
    仏教の「師資相承」を説明したもの。

    いつの世も、勝手に継承したという弟子や、本を読めば師匠はいらないとか、信心を以て受け継いだ(操体だったら、操体が好きだから受け継いだ、みたいな)という人がいたようです。

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 [http://www.sotai-miura.com/?p=484:title=操体マンダラ 三浦寛 Live
    ONLY-ONE 46th Anniversary”]は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 編集と操体

    熱海の夜、松岡正剛さんや、他の参加者の方々に「操体とはなんぞや」ということを説明する機会に恵まれました。松岡さんに「『操体』を説明するのは『編集』を説明するくらいやっかいです」と伝えたところ「なるほど」とおっしゃっていました。
    私が「ISIS編集学校」に入った時、人に説明するのにとても手間がかかりました。コピーライターの学校に行っているのかとか、赤鉛筆をもって校正をしているのかとか、シナリオの勉強でもしているのかとか。

    操体」を説明するのも手間がかかります。編集稽古同様実際に受けてみれば何だか「体感」できるのですが。親指を2本出して(浪越徳治郎先生のポーズ)「マッサージですか?」(いやそれは指圧のポーズじゃ)とか「整体ですか」と、私達東京操体フォーラム実行委員はうんざりするほど聞かれているはずなのです。

    この日も「操体と整体はどう違うんですか」と何人かの方に聞かれました。編集稽古に正解がないように、操体にも正解はありません。ないというか、相手によって説明を変えていくのです。

    • 仙台の橋本敬三という医師が創案し、臨床で用いていたもの
    • その中の一部が「健康体操」として広がっていること
    • 愛好家(アマチュア)が多く、臨床(治療)ができるプロは少ないこと

    というバックグラウンドから話すこともあります。

    皆さん、からだが歪むのは良くないことだというのはご存じですよね。良くないことは知っているのに、何故歪むのか、ということを皆さん説明できないんですが、操体は「ボディの歪み」に注目します。人間には「呼吸、食事、身体活動、精神活動」という、他人には代わってもらえない営みがあります。これを「息食動想」と呼んでいます。この営みのバランスがとれていれば、健康な生活が送れます。この営みは独立したものではなく、お互いに補い合って連動しています。
    「同時相関相補連動性」といいます。
    呼吸の専門家がおり、食養の専門家がおり、身体運動の専門家がおり、心の専門家がいますが、操体はこの4つをまとめて面倒をみるというわけです。
    この4つの営みには、それぞれ法則(ルール)があります。そのルールを守らないと、ボディに歪みが生じます。
    西洋医学は胃にピロリ菌がいるから胃が悪くなる、と言いますが、操体は全く逆の順番で病気を捉えています。
    自分で責任を取る(自己責任)の4つの営みのバランスが崩れると、歪みが生じ、それが段階を踏んで「何となく変だ」という不定愁訴の状態から、段階を踏んで「胃が痛い」「調べたら胃潰瘍だった」というように、機能破壊、器質破壊と進んでいきます。

    操体では、ボディの歪みを正すことによって、二次的に症状疾患を改善させます。
    なので、操体には「○○に効く操法」などのような考え方がないのです。

    ボディの歪みを正すには?
    そのために私達は「動かして診る」という、操体独特の診断分析法を用います。動かした時の感覚、例えば「楽でなんともない」「こちらは辛いけど、こちらは楽です」「この動きはきもちいいです」など、感覚に対する感受性は様々ですが「感覚は本人にしかわからない」のです。そして、操体は「きもちよさを味わうと、ボディの歪みが正される」という特徴があります。

    しかし、現在多くの人達が「原始感覚」(快か不快かききわける能力)が鈍っています。からだは本来きもちよく治りたいのですが、考えすぎて(アタマを使いすぎて)原始感覚が鈍っているため「快適感覚」をききわける力が弱っているのです。その、鈍っている「原始感覚」を呼び覚ますお手伝いをしているのが、私達操体指導者なのです。
    これは、操体では「病気になる順番と治る順番」という視点から説明したものです。
    操体は様々な角度から物事を語れます。これも「編集」。

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 "操体マンダラ Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 編集

    松岡正剛氏は、先々週秋穂さんが書いていた「編集学校」の校長でもあります。秋穂さんが参加したワークショップは「九州参座」と言って「ISIS編集学校」の体験講座のようなもの。
    12年前、私はこの「ISIS編集学校」の第2期に参加しました。入ったといっても、通学制の学校ではなく、ネットを用いた発展途中の新しい試みで、生徒も師範代も手探りの状態でした。ルールやシステムを作りながら、現在の形になっているようです。
    なお、先生を師範代と呼びます。当時は師範代をまとめるのが師範、さらにその上が大師範、教頭先生がいて、校長が松岡さんでした。私の頃は「生徒」だった記憶があるのですが、今は「学衆」と呼んでいるようです。

    さて、私が「ISIS編集学校」に入ったのは、別に「編集」を勉強したいとか、エディターになりたいとかそんなことは全くなく、使っていたインターネットのプロバイダのイベントで「編集工学研究所を見学する」という
    イベントに参加したのがきっかけです。何せ「松岡正剛」という名前も知らなかったわけですから(笑)。

    編集工学研究所は、赤坂の坂の上にあります。赤坂の紀尾井坂の上の会社に勤めた経験があり、父が赤坂のTBS(旧社屋時代。父は新社屋を見ることなく祖神の里へ帰りました)に勤めていたこともあり、馴染み深い街だったのですが、編集工学研究所があるのは、今まで行ったことがない赤坂でした。
    日本で最初にマンションを建てたのは力道山だそうですが、その「リキマンション」の向かいです。

    私達見学者一行は、確かポストイットに「朝起きてから今までにやったこと」を書いたような気がします。それから、そのポストイットを並べ替えて行きます。例えば「朝食」と「昼食」は同じ組に入れ、「本を読む」「新聞を読む」は同じ組に入れて行きます。何をしているのかと言うと、情報を集めて、グループ分けする、並べ替えているのです。情報は単に集めるだけではないのです。確か「情報って、集めるだけじゃないんだなぁ」と、興味を抱いたのです。

    もう一つ興味を引いたのは「守」「破」という日本独自の学びのプロセスが使われていたことです。
    守破離の思想

    守破離とは、物事を習得する上での段階を表しています。
     
    能の世阿弥が「花伝書」で伝えていると思っていましたが、実は「花伝書」には「守破離」という言葉は記載されておらず「序破急」が説かれています。これは「守破離」の考え方の原型だそうです。「守破離」という言葉は、不白流茶道開祖の川上不白(江戸時代中期・後期の茶匠)が記した『不白筆記』(一七九四年)に見られ、茶道の修行段階を教えたものであったのが、転じて日本の諸武芸に於いても修行の段階を説明する言葉として使われたとのこと。

    『不白筆記』にはこのように書かれています。
    「弟子ニ教ルハ守、弟子ハ守ヲ習尽シ能成候ヘバ、オノズト自身ヨリ破ル。離ハこの二つヲ合して離れて、しかも二つを守ルコトナリ」
    師が守を教え、弟子がこれを破り、両者がこれを離れてあらたに合わせあう。離というのは、弟子が自分勝手にするのではなく、守と破を含みつつ守りつつ、離れるということなのです。そして第一段階の「守」の学びをいかに修めるかが重要で、初学時に良き師匠に出会うことも大切なポイントです。
    当時、私はすでに操体の講習(プロ向け)をやっていましたが、基本をやりたがらず、早く操法だけを覚えたいという受講生も多かったので「守破離」という言葉が気になっていたのです。

    操体の講習にも「守破離」は必要だと思っていました。こうして、私は「ISIS編集学校」の「守」を学び始めたのでした。

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 [http://www.sotai-miura.com/?p=484:title=操体マンダラ Live
    ONLY-ONE 46th Anniversary”]は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 春爛漫

    春爛漫。今週一週間は畠山が担当致します。どうぞ宜しくお願い致します。

    今年の3月中旬熱海某所で開催された「未詳倶楽部」という集まりに参加してきました。
    これは松岡正剛氏が亭主役の「和」のテイストたっぷりの粋な大人の遊びの会です。私は10年前に入会していたのですが、土日に休みがとれず、今回なんと10年ぶりに参加することができました。
    参加している方々は、和の文化レベルの高い方ばかりです。華道、茶道、能、日本の芸能などにも造詣が深いのです。私も歴史や武術系は結構詳しいのですが(本当は武士もお茶、お華、能はたしなむんですけど)、自分が如何に普段「体育会系」的に暮らしているか驚くばかりです。

    多分、参加されている女性の95%は着付けができる方々です。全然自慢になりませんが、私は着付けができません(汗)。また、着付けをお願いしても、バスタオルをぐるぐる巻かれるとか、腹布団を入れるとか、それだけでげっそりしてしまうのです(パーティとかでよくチャイナドレスを着るのはこのためです)。かといって、そのような方々との接触を避けていると、山猿になってしまいます(笑)。

    この集まりは、いつも素晴らしいゲストを迎えます。そして、そのゲストが誰だか当日まで分からないのです。
    今回のゲストは、三味線演奏家で作曲家、本條流家元の本條秀太郎師匠でした。余程の邦楽ファンでなければ「その人誰よ」と思われるでしょうが

    監修、民謡指導、三味線指導など
    春日局(1984年、NHK大河ドラマ
    花へんろ(1985年NHKドラマ人間模様)
    翔ぶが如く(1990年、NHK大河ドラマ
    八代将軍吉宗(1995年、NHK大河ドラマ
    毛利元就(1997年、NHK大河ドラマ
    元禄繚乱(1999年、NHK大河ドラマ
    新選組!(2004年、NHK大河ドラマ
    風林火山(2007年、NHK大河ドラマ
    篤姫(2008年、NHK大河ドラマ
    天地人(2009年、NHK大河ドラマ
    坂の上の雲(2009年、NHKスペシャルドラマ)
    龍馬伝(2010年、NHK大河ドラマ

    というように、大河ドラマでの三味線指導には欠かせない方なのです。「龍馬伝」で、福山雅治に三味線の稽古をつけたのも本條師匠なのです。

    長くなりましたが、その後本條」師匠の三味線で生の「端唄」を体験しました。邦楽には余り詳しくないのですが、「長唄」に対するのが「端唄」なのだそうです。

    「小唄は爪弾きであるのに対して端唄は撥を使う。また、節回しも若干の相違があり、うた沢に比べてサラリとうたうのを特徴とする。 鼓や笛といった鳴り物付きで唄われることが多い。」
    江戸吉原の粋を歌った端唄を沢山聞かせていただきましたが、演奏の合間に本條師匠が「江戸豆知識」のようなお話をしてくださいます。
    吉原には船で行く人も多かったそうです。また、普通は船頭さんが一人なのですが、早く吉原に行きたい人(笑)のために、船頭さんが二人や三人で早漕ぎした船があったとか、格子を覗くだけで冷やかす客の話とか、吉原には元々女芸者がおり、彼女達は身売りをするのではなく芸を売っていて、それが後に幇間(太鼓持ち)になったとか。吉原モノの映画やドラマで布団部屋が出て来ますが、江戸時代には「布団」というのはあくまで「敷き布団」であり、掛け布団ではなく、かい巻きを着て寝ていたとか。これは吉原ではないですが、深川芸者は男物の羽織を着て、一年中足袋を履かず、男言葉を使っていたとか、江戸っ子は濁った言葉を使わなかったとか、今では東京でも「七味唐辛子」と言いますが、「七味唐辛子」というのは上方の呼び方で、江戸では「七色(なないろ)唐辛子」と呼んでいたとか、江戸マニアにとっては目が輝くようなお話でした。

    端唄の中で「客が遊女に振られ、明け方まで布団の中で寝たふりをしており、やっと来たと思ったら、行灯に油を入れに来た廓の男衆だった」というのがありました。私は丁度数日前に「廓源氏(3)」を読んだばかりだったので、客を取るのを拒否して折檻されるお女郎さんとか、見せしめにされる花魁とか「どろどろ系」の吉原モノを読んでいたので「遊女が客を振ってもだいじょぶなのか?」と思いました。

    廓源氏 (3) (まんがグリム童話)

    廓源氏 (3) (まんがグリム童話)

    夕食の席は大広間で、くじ引きで席を決めるのですが、私は大当たりで松岡さんの隣(笑)。「遊女がお客を振ってもいいんですか?」という質問をしてみました。松岡さんは「それはね、粋に振ればいいんだよ。そうすれば客は文句を言えないんだよ」と、答えて下さいました。
    なるほどねぇ。

    未詳倶楽部に入ると、俳号を頂けるのですが、私は10年前に頂き損ねていたので、今回頂けることになりました。私はペンネームというか、雅号をもっているので、その話をしたり、好きなコトとか色々話をしているうちに、私はAppleが大好きで、スティーブ・ジョブズが来日した時、基調講演を聴きにいった位マニアだという話をしたら
    「そうだ、ジョブズの子供にしよう」と、さらさらと筆で「序萃」(じょすい)と書いて下さいました。俳句も詠まないのに俳号をいただいていいのだろうか、いや、これから詠もう。

    橋本敬三先生はある日、若き日の三浦先生に「治療所にばかりこもっていると脳みそがくさるぞ」とおっしゃったそうです。
    私達はともすれば、狭い世界に籠もりがちです。そういう時は、全くジャンルの違う人達、それも自分よりもレベルの高い方達と遊ぶと世界が広がるのです。

    あと「1万時間の法則」というのがあり、何かに1万時間以上費やしている方々は、ジャンルは違っても共通の「何か」を共有できます。例えば、華道の先生や、武術の先生、アーティストの方々と話をしてもある「何か」を共有することができるのです。

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 [http://www.sotai-miura.com/?p=484:title=“Live
    ONLY-ONE 46th Anniversary”]は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 操体は無知(無明)を救う

    仮に『からだ』は困っているから、間に合っていないから痛みを生じて訴えている。

    と、考えてみては如何だろう。

    (〜『からだ』の本音〜)

    『からだ』は困っていればこそ、本人に気付いて何とかして欲しいのだろう。

    しかし、本人は知らぬ存ぜぬで『からだの要求』を「無視」している。

    仕方ない、とにかく反応しよう!と思ったのか『からだ』は「刺激」でも反応することにした。

    『からだ』からすれば、「無視」されるのは「刺激」より残酷なのだから。

    そのうち本人は、「刺激」を本人の『からだ』に与えていれば良いんだと決めつける。

    疲れてきた本人の『からだ』は、「刺激」に反応するのを少しづつ止めてみた。

    きっと本人もいつの日か気付いてくれるはず、と。

    そのうち「刺激」にはあまり反応しなくなり、本人の要求は通せなくなり、『からだの無意識』は訴えを大きくなる。

    途方に暮れる本人(の欲)と・・・『からだの無意識』。

    そこに『からだの無意識』へ救世主現れる! それは『からだ』の要求である『イノチ』へ問いかけた『快』。

    『イノチ』は刺激にとりあえず反応しても、本人(の欲)を意識的に変化させる『からだの無意識』までは関与しなかったのだ。

    そう・・いままでも、ここでも必要なのは、『抵抗』ではなく『介助』であり、『刺激』ではなく『接触』だったのである。

    (次回に続く・・・?)

    私も以前はD1専門でありD2を知らなかった。

    鍼灸接骨院で開業以来、一年間は第一分析しか知らなかった。

    二年目に初めて操体法治療室を読んで興味を持ち、操体療法東京研究会に参加して学び、第2分析を知った。

    受け手の『からだ』に感覚をききわけること、操者に一任された操法を行って違和感を生じているのは、

    『からだ』だったのであり『快』の意味を感じた。

    結局『楽』を通すのは、『からだ』にとっては、本当に『楽』にならない。

    『快』を通してこそ『からだ』には、『楽』というバランスもとれてくる。

    操体法』を治療法として見ているだけでは『操体』はわからない。

    今から『操体法』と『操体』(橋本敬三生の哲学思想・生命観・死生観を含む)を学ぶのであれば、

    操体』の応用範囲たるやとてつもなく、だからこそ、本気で、本腰入れて、本音で学んで欲しい。

    操体法』には歴史があり、それによってよりシンプルに洗練されている。

    まず、橋本敬三先生が体系化されて、同世代の先生が指導される『楽』を通していく『第一分析=D1』

    橋本敬三先生の直弟子三浦寛理事長が『操体』を継承し、『快』の具現化して体系化してきた『第二分析=D2』

    八方塞がりで全く動けない。こんな場合にはどうするのか?、『操体法』の盲点に気がついた三浦理事長が、

    横紋筋系骨格系にアプローチできない感覚を主として、皮膚を含む体壁系に『快』を具現化された『第3分析=D3』

    そこに至るには、どういう人間が携わって来たとか、どういう役者達が関与したのだろうか。

    ある以上『操体』の文化としての一部であり、実技としての関わりにも納得できる理由を感じる。

    少しづつ段階を経て学んでいく。歴史を外すと勿体ないだけでなく、歴史を踏み外すと恐ろしい。

    大切なことは、D1D2を飛び越えて『D3=第三分析』から教えて欲しい、などと欲張らないことでもある。

    焦らずコツコツと、間をはかることで充分間に合っていればいい。

    (つづき)

    『イノチ』を通した生命観は、『操体』を学ぶなかで決して外すことのできない『原始感覚』に繋がっている。

    『原始感覚』とは『救い』と『報い』に関わり、『操体』ひいては『操体法』を学ぶ上で欠かせない操体用語ともいえるだろう。

     (※紹介:これは”根っこ”であり面白い!橋本敬三先生も顧問だった三浦理事長主催の操体法東京研究会で学ぶのをオススメする)

    ワタシ自身の言葉も入れての説明をするなら、『イノチ』は勿論『からだ』の元になっており、(漢方医学的解釈で『元気』に相当)

    『からだ』は『からだの無意識』を通して、『本人の意識』と『接触』しているが、本人の欲を含め『心』を入れた『五感』では、

    偽りの満足つまり、『刺激』の『快』に妄想を含んでしまうこともあり、

    『原始感覚』と繋がっていながらも『五感』は鈍り、曇ってくる。

    それは、自在しているのにわからない。太陽が雲に隠れているのと似ている。

    その曇ってしまいがちな本人の意識を、

    『からだ』の要求に適う『操体法』の『接触』や『操体法』の『介助』によって識別された『快』は、

    『原始感覚』を磨き上げ、かつ『からだの要求』を満たすことで本人の要求を満足させてくれるのだ。

    よって、今回しつこく書いてきた『からだ』の
    要求とは、『操体』を学び『操体法』をとおすこと『快』の学びとなる。

    操体における己を育てる四訓)

    一、『楽』をしっかり学び 『楽』の運動分析の意味を放すな

    一、『楽』な運動分析を一旦放せ 感覚分析である『快』は放すな

    一、『快』を識別して妄想は放せ 『からだ』の要求する『快』は放すな

    一、『意識』を通して『楽』を放せ 意識を通して『快』を放すな

    するとどうだろう?自分の歴史を認めている、今の自分自身に出会えるのだ。

    突き詰めていくのが哲学、それなら『操体』は自分自身哲学そのもの。

    私自身の生命観、死生観を言えば(死ねた瞬間に回想できると仮定)

    言い訳もなく、反省を生かし、間にあったのかな〜と微笑みながら、

    からだに残った息をあつめきって「ホッ」と一息、最期に『快』を味わいたい・・・そんなことを考えている。

    自分で書くのも何ですが・・正直読みにくい(笑)ワタシのブログにお付き合い頂きありがとうございます。

    明日からは、『操体』の『操体法』の”編集”実践者、畠山常任理事の登場です。お愉しみに!

    それでは皆様、春季東京操体フォーラムでお会いしましょう!
                                          岡村郁生

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

  • イノチに言い訳しない

    操体を学んでいると、色々な気付きを頂く。

    人間は約60兆という細胞で維持できている。

    一日に入れ替わる体細胞数は、なんと3000億個にもなるらしい。

    自分を映しているように見えている鏡は、他者を映しだしている鏡でもあった。

    この世に生まれ落ち、この世を去るまで他者との関わりによって生かされている。

    もっと身近な例を挙げてみよう。

    植物で言えば水分を吸い上げている根っこに相当する、人間の小腸や大腸に棲む腸内細菌は、

    100種類以上100兆個と言われ、成人では1kgを超えている。

    さらに表面の皮膚には、湿度によって異なる微生物が共生しており、

    乾燥していれば1平方㎝あたり1000個以上、湿潤した部位ではなんと100万個を超えている。

    他の部位を含めた場合には、自分の細胞数60兆のその百倍になってしまうのである。

    操体』との関連で言えば、要するに生き方の自然法則であり、環境のことに繋がる。

    つまり細胞レベルでミクロの視点であれば、自己と他者の境界とは、限りなく曖昧になってしまう。

    これは、成せる者が成すように、真理を分け合ってできているのであり、

    与えられたモノゴトを、噛み砕こうとする努力を忘れなければ、

    見えなくてで説明できないことも、説明できるようになり、

    みる人しかみえないことを、こちらでも”観える”ようになっていく。

    操体法創始者橋本敬三先生は、さまざまな機会において、

    「気持ちがいいか悪いかってのは、患者本人に訊いてみなきゃわからない」と語る。

    つまり、患者の動きひとつにもオクタント(極限安定律)で分類すれば八方向に動かせる。

    その『楽』な動きを分析して(=運動分析)一番『楽』な方向へ動かして、

    一番感じの良いところで『撓め』をつくったのち、瞬間的にかつ急速的に力を抜かせる。

    これが初めに動きありきの『D1=第一分析』の動診と操法

    その一番感じの良いところとは、簡単に言えば、生命にとって最も負荷のかかった部位でもあり、

    それを作ったのは、誰でもない本人であり、ルールの積み重ねであり、その通信簿の指導記録となる。

    ではなぜ、負荷はかかったのだろうか。

    それは、本人の行う最小限・最低限の責任生活必須条件を満たしていないから。

    『息』『食』『動』『想』+『環境』にある法則性、これだけは知っておいたほうがいいルール。

    これを患者本人に伝えていく理由もここに生じてくる。

    だから橋本敬三先生は面白いことを放言する。

    時に内弟子にはこんなことも・・・。

    「相手の気持ちがいいってところがわかる、これがプロ(フェッショナル)だ」

    つまり、感覚を磨きなさい、経験を積む中でしかつかめない感覚なんだから、というのである。

    そして三浦理事長は『操体』および『操体法』を継承していくなか、

    真理から成り立つ法則を、操体法として具現化して指導している(詳しくは操体法東京研究会で検索)

    勿論、簡単ではない・・・がかといって、

    ・自分にはできるはずがない。「言い訳しているけど、何が問題なの?」

    ・できる人は特別なんだから。「言い訳はいいから、何が問題なの?」

    三浦理事長の『操体』には”迷い”がない。ここを理解していく過程こそ学びとなる。

    操体』は次世代に入ってしまったのである。そんな言い訳を吹き飛ばしてしまうのだ。

    積み重ねて突き詰めていく価値はある。このように橋本敬三先生も書いている。

    「私くらいの経験があれば患者に聞かなくても、 気持のよいところも緊張がとれているかどうかも、

     指の感覚でわかります。これは経験を積むなかでしかつかめない感覚です」

    とあり、ワタシの言葉で言うなら・・・、

    知っていればなおさら、知らない人はそれなりに『第一分析=D1』で『操体法』を通せる。

    知れば知るほど、唸るほどの納得を繰り返し通してみて『楽』と『快』の違いを理解し『第二分析=D2』を通せる。

    玉手箱かびっくり箱か。ワタシも開けておいてよかった、ウソか本当か試してみて救われた『第三分析=D3』

    学んでいれば、飽きることなんてありえない(これ本当)

    例えるなら、入り口もはじめはパンダに似て友好的なので、誰でも「ニーハオ!」というイメージ。

    しかし、パンダの行動は今もってなお不可解なことが多い、例えば一緒に寝泊まりまで出来ない(理解できていないから)

    ともあれ・・・今月22日、千駄ヶ谷駅すぐ目の前、朝九時に開く津田ホールにて・・・皆様をお待ちしております。

    今日もあなたに学ぶ。『からだ』にありがとうございます。

                                             岡村郁生

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

  • 記憶と味覚と嗅覚と・・・

    操体』は『天然自然の法則』として成り、『操体法』は応用貢献を成す・・・。

    橋本敬三生の哲学に触れるコトは、生命の波動感覚に触れていることでもある。

    青春とは肉体の”成長”における一時期ではなく、

    自己探求があればこそ味わえる生涯の糧であって”生長”なのだろう。

    学んだことはその瞬間から生かす工夫をする。自然法則に適うように今の『環境』に向かい合う。

    (『食』の同時相関相補性)

    食べ物の好き嫌いはあるかどうか聞いてみて・・・納得すること。

    記憶されたトラウマにより、今でも「鶏」は食べないと、数人から聞いたことがある。

    共通しているのは、卵を産まなくなってきた雌鶏を食肉化する最中の、首を落とした時に、

    首の無い状態で走り回ったらしいのだが、その体験をして二度と食べないらしい。

    これは一例だが、確かに『からだ』を通していても『食』に『想念』は関係している。

    以前三浦理事長との個人レッスンでも同じようなことを聞いた。

    人は肉食をするよ。それはいいんだけれども、肉食をしている限り、

    この世から○○は、無くならないんじゃないか、という話だった。(あなたなら、何を当てるのだろう)

    『食』は、『息』『動』と『想』の二番目に並んでいる。

    『息』と『食』は生命エネルギーの入力、『動』と『想』は出力であり、生命エネルギーの循環。

    それは私達という存在、つまり個体を維持するうえで欠かせない。

    欠かせないから『操体』では、最小限度の責任生活において、必要不可欠な条件としている。

    例えば肉を食べるとき、歯の位置関係からいえば、門歯8本・犬歯4本・臼歯16本のバランスを知る。

    つまり人間の場合、肉類1に対して野菜類は2、穀物類は4のバランスで調和する。

    以前のフォーラムで発表した時に、年齢に応じてのバランスを考えて欲しいと提案した。

    つまり、母乳の終わる時期、乳歯の生えるのは門歯である(野菜類)

    幼児〜小児期は乳歯のバランスが、犬歯4:門歯8:臼歯12であり、肉類1:野菜類2:穀物3である。

    そして、壮年期以降は人それぞれで面白い。

    乳児期の親との関わり遺伝関係とも関わってくる要因『環境』だが、早々に入れ歯を必要とする人も”いれば”、

    全く虫歯のない自前で過ごせる人もいて、親知らずに至っては早々に萌出する人も、亡くなるまで萌出しない人もいる。

    鏡があれば自分の歯を診て欲しい。自分の歯茎を愛おしく思えるのか観て欲しい。

    ここにも自然法則は『からだ』を通して因果応報(=『報い』)を現象として表していないだろうか?

    方向を変えよう。ある登山家の話だが、出来るかぎり手持ちの食料を持たず、サバイバルで登山をするようになり、

    始めは手に入れやすい川魚を釣って食べていても、そのうち獣を狩る(野生の鹿やウサギ)ようになり、

    今までは平気で口にしていた肉に感じる意識と、想いの意識がガラッと変わってしまったというのだ。

    それは、殺生を人に押しつけていたのでは、一生わからない感覚を『からだ』を通して感じたのだろう。

    『食』は人間の根っこに通じている・・・『食』は深い。

    その方向性は、自然法則のなか、生かされている『イノチ』に辿りつく。

    ここに至ってなお、『食』の問いかけはスタート地点に過ぎないのだろう。

    三浦理事長曰く「美食三昧とは、舌に極楽、腹地獄」

    これでは本人の欲まみれであり、『原始感覚』はますます薄れていくのだろう。

    ポイントは、ちょっと今の『食』では恐いなって感じてしまう、自分自身を観ること。

    「いただきます」という意味は”食べ物に感謝すること”はたしてそれで終わりだろうか。

    これは『からだ』にとって自然なのか問いかけてみる。

    自然法則に適い、常に実践しがたいのも『食』なのであり、それだけ自我の欲求を通してしまう。

    私自身は「ありがとうございます」の意識に、「いただきます」を『息』で通して、『食』を通していた。

    これで十分だと思っていたのだが・・・最近ほぼ同時期に、三人の尊敬している方達から同じことを聞いた。

    「一日一食で十分」・・・と。

    調べてみると理解できると思うが、確かに狩猟をしていた頃の日本人は一日一食であり、

    日本人も農耕を始めて一日二食となり、貧困層との量の違いはあっても富裕層も同じ二食だった。

    そこに道元禅師が中国から三食を取り入れ、江戸時代中期〜明治時代にかけて三食にかわった。
     
    要するに、三食キッチリ食べるようになったのは、ここ百年そこそこなのだ。

    十年前に五日ほど断食を経験し(風呂場で意識を失って終了した)

    一年間ほど玄米菜食主義を実践し(『想念』とのバランスに疑問を感じて終了)

    面白い!この問いかけは変化して、脳にフィードバックする感覚意識もハッキリとある。

    久しぶりに『からだ』と自分自身のききわけを『食』に相関しながら”遊んで”愉しめる。

    実感して味わって感謝する。たったこんなことで『からだ』への感謝祭となる。

    橋本敬三先生も「自分から有り難いナ〜って思わなければダメだ」と話されている。

    そんなことに”今”も気付かせてくれる『からだ』。ありがとうございます。

                                            岡村郁生

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。
    見えないけれど観ていれば根に魅入ってしまうのかな

  • スタイルを繋ぐ

    操体』を、そして『操体法』を学んでみようとするなら、ポイントはいくつかある。

    そもそも、本来競争して一番を決めるようなものじゃないってこと。

    操体』は「何でも受け入れることのできる、大きな器である」と知り、

    三浦理事長はそれを捉えて、

    操体』は「なんでも入れて、生かすことのできる大きな器である」という。

    ワタシの目的もここに繋がっていることを追究している。

    人間以外の生き物は、遊ぶこともほとんどない。

    遊んでいるように思えても、それは生き抜くための手段の一部で純粋に遊んでいるわけじゃない。

    ただ、カラスは特殊で遊びの意味を知っている希有な動物という説もある。

    そう考えてみれば、『烏合の衆』という意味は不自然で、カラスのように規律も規制もなく、

    ただ、集まっているだけのうるさい様子を表現している比喩は不自然であろう。

    この比喩自体も、カラスの研究によると不自然であると証明された。

    実は烏(カラス)とは、仲間の声と姿を判別して学習し、同じ仲間でこそ呼応する。

    その実験では普段から一緒にいるカラスを捕まえてきて籠に入れ、網越しに対面させた後カーテンで仕切り、

    そのうちの一羽を取り去った後、録音してあった数種類のカラスの鳴き声を聞かせると・・・、

    全く反応しない鳴声と、カーテン越しに何とか姿を見届けようととする鳴声があり、後者は勿論仲間のカラスなのだ。

    橋本敬三先生は生前、”ずるいカラスの野次馬になれ”と言っていた。

    ずるいカラスの野次馬。その意識とは別の意味となり、自分自身を捉えなおすことに繋がってくるだろう。

    間にあっていればいい。その意味も絡め、改めて深い意味を感じて欲しい。

    なぜなら、怪訝さを感じ取る原始感覚とは自分の内にあるのだから・・・。

    花は、なぜ美しいのか? それは、やっぱり理屈じゃない。

    美しいと感じる何かであって、花にも個性はあり、咲いて花にも理由はある。

    今は『操体法』の代名詞となった、「快をとおす」「気持ちのよさがあればいい」

    『快』にも理由はあって、それこそ”何でも乗せる”ってわけじゃない。

    『快』にもちゃんとルールはあって、「きもちがいい」ってことをわかるようになってる。

    かといって、決して窮屈じゃない、そこまで知ること。

    感じ取りながらバランス取っていけるように、ホントに上手にできているってこと。

    学び続けるコツの一つ、”遊び”と言う意識のエネルギー。

    遊びの意識、このエネルギーこそ、橋本敬三先生の話していた”カラスの野次馬”だろう。

    「続けていく」だけでなく、操体をワタシの命に繋げてくれる。

    命につながるってコトは、それだけで絶対的安心感となる。

    これを感じて更に愉快になってくると、自分の本質につながって『操体』はより自分自身に繋がってくる。

    だ・か・ら、有り難いんだナ〜と、実感するのだ。

    しかも先には先があり、極まらない・・・やっぱり、ワケがあるんだナ操体には。

                                   岡村郁生

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

    根っこをみれば繋がってくるよ、と植物は教えてくれる。

  • 「スタイルは青春」

    山本五十六氏の言葉。

    「やる気を起こさせ やってみせ

     やらせてみせて 合点させ

     はだかにならねば 人は動かじ」

    ある意味その通りである。

    他者にいくら素晴らしいものだからやりなさい、と言っても、

    まず、やる気がなければやらない。

    動いてやってみせなければ見えない。

    それを観る段階になったなら

    体験させてみて それを言葉で納得させ

    自らと他者は無くなり そのまま感じたままに

    ああそうかという前に 動いていくのだろう。

    自然法則を観ること、その言葉を受け入れること

    臨床に生かすこと

    操体』を学んでいれば『報い=因果応報』も少しづつわかってくる。

    しかし、その醍醐味は『救い』と『報い』のことを学ぶことにある。

    ワタシも『救い』は全くといって良いほど知らなかった。

    なので、初めて東京操体法研究会(当時操体療法研究会)で学んだ時、

    橋本敬三生の哲学思想『操体』の教えている『救い』の内容は凄いことだな・・と、

    感じて鳥肌が立ったのを十数年経過した今もハッキリ覚えている。

    『報い』を知っても『救い』を知らなかったらワタシはそれで満足しただろうか?

    『生き方の自然法則』このことを知らずに『操体』を語るのはワタシは悲しく感じ、

    操体法』を治療法だと思っていること、コレも同じように悲しく感じる。

    例えば、「力強く運動のように行う操体法」「スッパリ区分けできる簡単な操体法

    そんな考えでは『操体法』の指導者であっても、『からだ』の要求は掴めないだろう。

    ワタシもそうだが『想念』に惹かれて『操体』を学び始め、ゆえに学びを『操体法』に繋げて思考する。

    そもそも『生き方の自然法則』こそ、操体創始者橋本敬三先生、直弟子三浦寛理事長の真骨頂とも思える。

    では、いったいあなたの『想念』は、いま、何に向き合っているのだろう?

    臨床としての『操体法』を改めて考えると、橋本敬三先生の臨床と生命時間の関係は興味深い。

    温古堂にて、三浦寛理事長が学んでいた時でさえ七十歳なのである。

    これはうっかりすると、見逃してしまいがちな驚異的な臨床だと思っている。

    日本の社会、一般的社会人であれば、ほとんど60歳を過ぎて定年を迎えて経過をつなぎ、

    七十歳ともなれば、ほとんどの人は家にいる時間が多くなるのが普通だろう。

    七十歳の橋本敬三先生を弟子時代、まさに目の当たりにしている三浦寛理事長はこう言っている。

    「あの頃の橋本敬三先生は現役バリバリで、オレなんか全く手伝うことは無かったからネ」

    「八十五歳頃の橋本敬三とは違って、患者全てを橋本先生が診られていた」

    「だからとにかく、毎日毎日観ているしかなかった」

    「今考えると、よくあの年齢であれだけの臨床をされていたと思うヨ」

    (※聞いた話では、ある動診の際勘違いしている患者の足で肋骨の不全骨折をしたこともあったらしい)

    失礼を承知の上で書いてみよう。

    ワタシはこの話を聞いてから、高齢になる意味、その生き方の方向性にはとても興味を持っている。

    確かに年齢は関係していない・・・いくつであろうと何かしら青春を感じる方もいて面白い。

    その方達は子供と同じである。無我夢中になる意味、なにかやり続けることの面白さを知っている。

    遊びが始めにあって、後から色々なモノゴトも、自然につながってくる面白さを知っている。

    憧れを諦めない、大き過ぎずチョッピリの夢を紡ぐ面白さは、生き方の法則上とても大事なコト。

    三浦理事長は言う、「夢中になれることには、若い頃から巡り会ったほうがいいヨ」と。

    巡り会ったことに意識を向けていた橋本先生然り、三浦理事長然り、

    若い頃からその分の葛藤もあり(快のことで総スカン等)、何度も考え直し、何回も立ち上がって、

    それでも結論を出さず、充分に”間にあっている”のだから。

    先人からの智慧に感じる面白さを味わい、

    『イノチ』を通して純粋な”意識”にヒントをいただきながら『操体』を学んでいく。

    一生を通じて感動できるなんて、ありがとうございます!という意識しか、感じなくなってしまうまで・・・。

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

    花の名前なんてどうだっていいんだ!大切なのは真理だ。

  • 「スタイルを掴む」

    昨日は三軒茶屋に朝八時集合、そして月に一度の実行委員勉強会。

    三浦理事長と実行委員、学ぶ空気、気付きの確認、緊張ある学びはいつでも有り難いものです。

    感謝できる意識は気付くこと。真理を知ることでもあります。

    学び取ろうとする意識、それは何かを感じ取るためにあり、その結果として感覚器官はあります。

    では、「見る」と「観る」の違いは何でしょうか。

    人間の目というのは外界を見るとき便利のために外に向かい(=見る)、

    目が内側に向いている(観る)人は、あまりいないものです。

    大概において、外ばかり見てしまうものなのでしょうね。

    確かに集中しているようでそうでもないとき、周りのことが気になって仕方ないときには、

    視線が定まらずキョロキョロするか、一箇所を食い入るように見つめてしまうものです。

    視覚を用いて目的と成す言葉には色々あっても、そう一般的でないのが『目線』です。

    『目線』という言葉は『操体用語』です。

    操体用語』とは『操体』および『操体法』を理解し、学ぶうえで欠かすことのできない言葉なのです。

    『目線との相関性』とは、『般若身経』に欠かせない相関性の一つとしてあります。

    操体』の『般若身経』には、『目線との相関性』があります。

    (あとの二つは『呼吸との相関性』、『意識との相関性』)

    それは視線と異なります。視線では認識目標となる対象は点であり、

    目線のとは、流れを識別することを目的にしているからです。

    こんな感じでフォーラムに初めて参加する皆さんは驚くことも多いでしょうね。

    そのまんまで、『操体』そして『操体法』を、直に感じてもらいます。

    特に今回は参加型ですから、実行委員の『操体法』をを見てから観る、受けて体感してみる、

    今まで十年以上行わなかった参加者体験、いや〜本で読んだだけの『操体法』の実際に遭遇できるのでお得です(笑)

    さて、「『第一分析』を習う前のポイントをおしえてヨ〜」と、天の声も聞こえてきました(笑)

    それでは操体法『第一分析』を行う上で忘れてはいけないこと。

    まず操者(操法を行う者)となる場合に大切なのは、

    動診や操法の介助に必要な程度の『重心安定の法則』に、適っていること。

    重心の安定があってこそ『第一分析』の比較対称の動診「楽」の問いかけも可能となります。

    そして、実際に「楽」を問いかけて操法を通す場合において、

    操者側の責任として、操法中の動きに適う程度の『重心移動の法則』は必要ですね。

    その上で『連動の法則』も学んでおいたほうが自然法則に適うのです。

    要するにポイントは、『からだ』の使い方・動かし方の自然法則を実感して学び通すコト、ここがスタート地点です。

    今回の春季フォーラムでは、華麗なる第一分析?を行う実行委員の手ほどきを、

    なんと言っても、直接指導してもらえるチャンスなんですから。

    (いや、正直(ここだけの話)実技指導もレベル高いッ!なんと言っても実行委員ですからね)

    そうそう、臨床上では書籍『万病を治す妙療法』(橋本敬三農文協)に記載してある、

    「動かすコツ、動くコツ」ってのも理解できたら理想ですね〜。

    エッそれはなにかと訊いているんだって?

    だ・か・ら、それは『般若身経』なんですよ。

    お金を払ってタダ来るのでは勿体ナイ・・少し予習して、準備する意識も大切に。

    そうか!と気付いて、今日も『からだ』に、あなたに、ありがとうございます。

                                    岡村郁生

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。
    []上もいいけれど下も観てね〜。