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  • 心とからだの研究(最終日)

    昨日の続き
    昨日に引き続いて、操体の動診をもう少し掘り下げてみよう。動診の動きを起こす際にはまずイメージすることから始まると先述したが、これにはからだの機能の一特性を理解する必要がある。この特性というのは、心の外にあるもののことを考えるときには必ず、即座に筋肉がその想念の方向に緊張して振動するという現象が起こるということだ。
    たとえばもし、足関節の背屈という想念が、被験者の思っている方向に向くと、特定の筋肉、いわば繊細な筋肉がそちらの方向に振動する。いわゆるからだの全緊張がその方向を指向するのである。同じように首の背屈を行う場合にも天井を見つめるように想念を上に向けると、特定の筋肉が緊張して上に持ち上がったような形になる。わかりやすく言えば想念がある特定の方向に動くときは、必ずその同じ方向を目指す筋肉の緊張が伴うわけである。
    こういった現象の存在を知っている操体操者は、臨床において被験者に介助を与える前に、その手足に触れたとき、想念の方向に緊張する筋肉の振動を感じとることになる。たとえば左手首の背屈を誘導するに際して操者はまず被験者の手を握る。もちろんその被験者は操者の言葉の誘導によって左手首の背屈の動作のことを考えているわけである。そして手に伝わってくる無意識の徴候や振動を難なく読める熟達した操者には、より動作の誘導がたやすくなってくる。
    操体操者にこんなことがやれるのは、何か特別な知識を備えているからではなく、単にこうした人間の特性の秘密を知っているからにすぎない。この秘密を知っていれば、誰でもちょっとした練習で同じことができるようになる。必要なことは被験者の手に注意を集中して、ほとんど感知できないくらいの僅かな動きを捉える力だけである。基礎を身につけた者であれば、根気よく練習を積むことによって必ず、ベテランの操体操者と同様に、被験者の筋肉の振動を感じとることができるだろう。
    先に示した左手首の背屈に関して、何故このようなことが可能になるのかというと、握った左手の筋肉は、手首の背屈の方向に緊張せざるを得ないからであり、それらの筋肉が意識よりも潜在意識の支配下にあるからである。このように想念やイメージという心の働きがからだの筋肉に及ぼす影響は想像以上である。とはいうものの想念をそんな簡単に使えることができるのか、といった疑問をもたれるかも知れない。しかし、真理はいつもシンプルなものだ。まずはからだの動きをイメージして、感じてみれば、からだが教えてくれるだろう。すべてはからだの声を聴くことから始まるのである。
    こうした操体の知識や療術の基礎を学びたいと思う者は、『操体法東京研究会定例講習』を受講するのがいちばん確実な方法である。講習でしっかりと基礎を身につけることが最も大切なことであり、その上で反復継続の自己努力が求められる。操体臨床は、からだが喜ぶことを喜びとする快なる妙療法なのだ。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 心とからだの研究(六日目)

    昨日の続き
    操体の動診は感覚的、意識的にからだを動かすという独特の動きであり、その後に続く操法によってからだと心が自在に変化しうるもので、まさに妙療法としかいいようがない快へのボディランゲージである。こうした妙療法を通じて、一定の筋肉群が動かされ、活性化させられる。この動診では筋肉を活動状態においたまま快適感覚をききわけて、それに続く操法では最も快適な感覚時点において、一定時間、からだを静止する、いわゆる「たわめのマ」をもたせている。これは筋肉の振動を伴う静的な動作体系ができあがることになる。
    このようなプロセスは、人間本来的な心身統合の姿へと導いていくことができる。動診の運動力学的な秘密を医学的分析によって考えてみると、すべての動診におけるからだの筋肉は、収縮させると同時にそれと拮抗する反対の筋肉を弛緩させる。たとえば動診で手首を屈曲させると、手の屈筋を収縮させて、反対に伸筋を弛緩させたことになる。同じようにすべての動診の動きは、それに関係する筋肉群を収縮させ、その反対の筋肉郡を弛緩させることを意識的に行うものである。
    からだに起こるさまざまな症状・疾患というものは、不自然な緊張を筋肉に与え続けた結果にほかならない。こうした拮抗筋の無駄な緊張や過度の緊張が症状・疾患の原因となっている。先に述べたが、動診および操法にあっては筋肉の基礎張力を低下させることが可能である。特筆すべきは「たわめのマ」において疾患の原因となっている拮抗筋の緊張に限られた筋肉群だけを弛緩させることができるということだ。そして操法のクライマックスにおいて、全身脱力とともに筋肉が完全弛緩してしまうのである。したがって、動診・操法では医薬のなし得ないことでも、自然な方法で達成できるのである。
    このように動診によって誘導された安心で完全な弛緩状態は生体エネルギーの莫大な節約をもたらし、そのエネルギーは治癒力への錬金作用に貢献する。これだけの効果が得られる動診ではあるが、ただ動かせばいいというものではない。からだのある部分を動かす場合、全身すべての筋肉、すべての関節を総動員しなければならない。そうすることで普段あまり使うことのない萎縮ぎみの筋肉にも血液がよく循環するようになり、いきいきと機能が回復してくる。これを「からだ全体で表現する」という言い方をしているのである。そして操法の「たわめのマ」に入ると、からだが静止した状態になり、ひいては神経系の全活動を鎮めるようになる。そうなると、体性神経だけに限らず、内蔵を支配する自律神経系も鎮まってくる。こうしてからだは活性化し、生体電気的なエネルギーで満たされ、情緒は安定し、心にも平安が訪れることになる。
    明日に続く

    三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 心とからだの研究(五日目)

    昨日の続き
    からだの筋肉や骨や関節について解剖学的な様子がわかったところで、今度は姿勢について考えてみたい。我々人間にとって姿勢はさまざまな体位をとることができるが、基本的な姿勢は「立位」、「座位」、「仰臥位」である。それらのどの姿勢にとっても脊柱は重要な役割を果たしている。
    物理学によると、物体が倒れることなく均衡を保つための必要条件は、重力の軸がその物体の重心を通過していることである。立位および座位の姿勢では、脊柱がまっすぐに伸びて、からだの重心は腰椎部分にあり、重心の軸はこの重心点を通って、立位の場合であれば、わずかに開いた二本の足によってひとつの三角形を構成している。椅子座位の場合だと、重心を通る軸は股のあたりに移る。このような自然な物理的均衡状態を保つことができる場合には、脊椎における筋肉の緊張は最小ですみ、全体重は脊柱すべての関節に分散してかかり、調和がとれたバランス体といえる。
    ここで立位から前屈しようとする場合を考えてみると、からだの重心は前方へとずれていくが、それによって重力の軸も開いた両足の間や股から、その先の前方を通ることになる。それは結果的にからだの平衡状態が乱れ、アンバランスになるので、修正運動をとらなければならなくなる。こういったバランスの調整は脊椎辺縁筋群があるおかげで、姿勢の均衡や屈曲、背屈、側屈、捻転などの動きが可能となるのである。ところが、この筋肉群の緊張がある時点まで高まると、「背中の痛み」が現れてくることになる。
    これらのことからわかるようにアンバランスの修正運動がなされるには、中心軸である脊椎をまっすぐに伸ばしておかなければならない。操体動診においても、脊椎をまっすぐに伸ばした状態から動きを通さないと、自然な連動に導くことができなくなる。この脊椎をまっすぐに伸ばすことは、脊椎の筋肉をバランスよくするというだけでなく、神経系が調和のとれた働きをする上でも大変重要なことである。また、人間の尊厳を最もよく表現する手段として、脊柱をまっすぐに伸ばした自然な姿勢がいかに大切であるかということは、ギリシャの彫像やヒンズー寺院の神仏像からもみてとれる。
    この神経というのは背骨の中を通る脊髄から椎間孔を通って外に延びており、各神経幹は運動神経、知覚神経、自律神経からなっていて、背骨をまっすぐに伸ばしておくことは、心理面にも重要な効果を及ぼしている。からだの物理的な平衡と心の精神的な平衡は密接な関係にあり、からだのバランスを失うと、心のバランスを保つこともできなくなる。憂鬱な気分にあると、肩を落とし、背をかがめた、いわゆる猫背の姿勢になって脊椎辺縁筋は慢性的に緊張し、背中が痛むようになってくる。この慢性的な背中の痛みはやがて精神的な抑圧状態に陥り、こうした悪循環が続くと「心身症」という病名が与えられることになる。背骨を中心とするからだの姿勢がいかに大切であるかということがよくわかる。からだの重心やその軸の移動について、操体ではからだの使い方・動かし方という「自然の法則」として教えているが、それらはみな脊椎の筋肉に負担をかけることなく、脊柱はもっともバランスよくからだを支え、動作を助けることができる。自然の法則とは、いわば「からだの取扱教本」なるものである。
    明日に続く

    三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 心とからだの研究(四日目)

    昨日の続き
    意識動作として随意筋が働く場合、筋肉や神経以外に、骨や関節と密接に連動することになる。一つの動きを起こすには、筋肉と骨と関節が単一の運動装置として働くことになるが、それらは運動装置の中での異なった一部分にしかすぎない。作動原理からみれば、骨をテコに見立てると、そのテコの支点が関節ということになる。そして体性筋肉が腱によって骨と接した部分にテコの力が加わるのである。
    たとえば前腕には橈骨と尺骨というテコになる骨がある。そしてこの前腕を屈曲させようとすると、肘関節がその支点になる。その際、少しの抵抗を手に感じるも、やがて屈筋の筋が付着している橈骨、尺骨に力が加わり、前腕は屈曲動作を果たすことができる。
    骨や関節を機能的観点から見ると、静的にはからだの重量を支え、動的には筋肉活動を最終的な動作として発揮させるという二重の機能を持っている。からだのすべての骨は、関節によって互いに連絡しており、その大部分の関節の働きはボールジョイントと同じ機能がある。このボール部分は丸くて滑らかな表面をもった軟骨でできており、骨の関節部分を被った構造になっている。このように連結した関節部の軟骨の間には関節滑液という潤滑油の役目をする液体で充たされている。
    関節には動作という機械的な働きのほかにからだの重量によって常に圧迫されていることから、土台である足首の関節には特に負担がかかってくる。肥満したからだの足関節が、生涯にわたって重い体重を支えながら動かし続けなければならないという、過酷な労働にさらされた可哀そうな器官であることもわかってくる。その上、自分の注意不足によって不自然な姿勢や運動不足などのアンバランスな生活を続け、不適切な食事内容も重なって足関節を痛めてしまうと、事態はさらに悪化する。こういった からだに対して害になる諸因子が、関節を錆びつかせ、耐用年数を極端に縮めていくのである。
    このような足関節にみる疾患は骨関節炎と呼ばれている。その特徴的所見は関節部の軟骨がだんだんもろくなって徐々に失われていく。すると、関節システムそのものが消失する結果にもなりかねない。足関節だけに限らず、膝や腰においても骨関節炎に見舞われると、いずれ哀れなわが身を車椅子や寝たきりベッドの中に見いだすことになろう。
    これらの症状を訴える肥満したクライエントには、下手な慰めは不要であり、ハウツー的な施術行為を無条件に行うべきではない。それよりも操体教典が示すように「息・食・動・想」の自然法則に基づいた生活習慣を指導することの方が先決であり、それに加えて施術を併用していくことが求められる。肥満は自己責任において招いた結果なのであるから、そのことを反省し、自然法則に適った生活に戻るための、心のあり方への指導がまず必要なのだ。
    明日に続く

    三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 心とからだの研究(三日目)

    昨日の続き
    からだの動きは筋肉活動だといってきたが、平均的な人間にとって、横紋筋のような随意筋や内臓筋の不随意筋もともに完全に休息の状態になることは殆んど起こり得ない。筋肉には、どうしても一定の緊張が残ることになるが、この緊張のことを「基礎張力」と学説は定義している。基礎張力の一部は、筋線維を形作っているミオシン蛋白質自身の構造による弾性的性質に由来するものである。残りの大部分は、神経系器官からの神経インパルスによる筋肉刺激が要因である。
    意識的な筋肉活動である筋収縮と基礎張力には質的な違いはない。この基礎張力というのは無意識に筋収縮が起こっている状態のことであり、不随意筋の内臓筋肉や随意筋の体性筋肉にも基礎張力は分け隔てなく起こる。また基礎張力は筋肉の長さに関係しており、我々の意志とは無関係であって、筋肉自身から発生する刺激によって、それが脊髄に達し、再び筋肉へと生体電気的なインパルスとして戻り、基礎張力を作りだすのである。このような大脳皮質の関与しないスタイルで直接筋肉に戻る反射のことを生理学では「短絡脊髄反射」と呼んでいる。
    こうした筋肉の基礎張力は、静止状態で働いているバランス力という見方ができるが、もしこの静止状態が乱れると痙攣発作が起こり、強い痛覚が感じられる。これが筋肉の疾患といわれるものだ。痙攣を生理学的に言うと、意志によらない筋繊維の異常なひきつけ状態を起こしているのである。これを操体の動診で対応すれば、高レベルの運動エネルギーと低レベルの熱エネルギーに変換して基礎張力の静止状態に戻すことができる。
    筋肉活動は生体電気的なインパルスによって、ある種の化学反応が起こって、筋肉蛋白質に潜在していたエネルギーを放出することにより筋収縮が起こる。これは筋肉内にある糖質が燃焼することにより進行するわけであるが、操体動診における動きの誘導がこれにあたる。もしこのときの収縮が高い運動エネルギーだけで終わってしまったなら、治癒につながってこない。そこで操者の介助抵抗をかけることによって低い熱エネルギーに変換することができる。そして筋肉は基礎張力の静止状態を保つことができるのである。そのためには運動エネルギーと熱エネルギーのバランスが必要であり、操者の介助抵抗に対して更に操者の動誘という誘導操作が求められる。この動誘というのは被験者に与えた目的の動きを軽く誘導することで、主に皮膚に対して働きかけることであるが、同時に操者の想念も必要となる。
    動誘をかける操者の手には心臓の鼓動や血流の拍動や呼吸による拡張収縮、それに脳脊髄液の循環による骨振動などが被験者の皮膚に伝わっていく。操者においてはこれらの動力源を意識による想念波動でもって動きを誘導していく。まさに心とからだの協調性が必須条件となるのである。
    明日に続く

    三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 心とからだの研究(二日目)

    昨日の続き
    操体の動診で行うからだの動きというのは、ある部分の筋肉を収縮させると同時に、その筋肉と反対の拮抗する筋肉を弛緩させることを意識的にもくろむ事である。このとき、部分的な動きに止まらず、全身の動きへと連動させなければならない。すなわちからだ全体で動作を表現することが必要なのである。何故なら感覚は部分的なものではあり得ないからだ。からだの感覚とは全体性、全一性のことを言う。
    この全身への連動に導くのに必要なプロセスが視覚イメージであり、そのイメージするのに必要な時間を伴うことから、ゆっくりと動きを通すことが求められる。何事も素早く行うのは簡単かもしれない。が、それをあえて丁寧にゆっくりと、しかも心乱れることなく意識的に動きを通すには、多少の努力が必要である。上手下手というものではなくて、少しの努力と丁寧に行うことが、乱れる心を落ち着かせ、呼吸を調えて気を鎮めてゆく効果が得られるのである。
    このようにゆっくりしたからだの動きによって収縮している筋肉に神経エネルギーが流れ込んでゆくのが感じられるようになってくる。やがてこのような感じが随意筋から神経的につながりのある不随意筋にまで拡がってゆくようになる。すると、内臓器官までが知覚対象に入ってきて、実際に内臓周辺部分が温かく感じられるようにもなってくる。
    こうしたゆっくりと動きを通すにもプロセスがある。もっともポピュラーなのが動きに際して「目線」をつけるということであるが、何も目線だけに限ったことではない。目線と同じ他の五感を使っても同様の効果は得られる。嗅覚から動きを通してもいいし、聴覚からでもいい。要は感覚器官を使うことでからだの動きを意識的に導くことができる。
    また動き方に関してもプロセスがあり、外面的には末端から動きを通すということになっているが、内面的に見ると、下腹部丹田から動きは始まる。からだを動かすときには、下丹田を中心に動かすことになる。四肢末端の足先、手先からいきなり動き始めると、どうしても局所的な動きで速くなってしまう。局所的な動きは、全身に連動したからだ全体で末端の動きを通すのに比較すると、力んでいる割には力強さがない。からだに動作を起こそうとしたとき、力のない手先、足先から動いても疲れるだけということになる。まず下丹田を動かすことによって末端の動きは自然と遅くなって、底力が入り、これが全身への連動につなげる起爆剤となる。
    丹田から動きを通すというのを具体的に捉えてみると、からだの末端部を動かそうと意志が働いた時点で、からだの中心部である下丹田には微細な動きが起こっている。四肢末端を動かそうと心の中でイメージすることそのものが、ミクロな身体運動なのである。はじめに動作を起こそうという意志が働くと、その目的である完成された動き、例えば「右手関節の背屈」というイメージを思い浮かべることになる。すると下丹田から脊椎に動きが起こり、右肩から微細な波動となって上腕から肘へ、さらに前腕から手関節に伝わり、背屈という動作がスタートする。このようにすべてのからだの動きは中心軸が定まっていなければならない。
    この中心軸というのは、からだの中心である下丹田と神経組織の中心である自律神経のことを指しており、両者が融通自在に交流し合っているところに生命は成り立っている。ということは、心の中心軸が外れると、その結果は必ずからだに現れてくるし、からだの中心軸が外れても、きっと心に影響が及ぶことになる。我々の生命はもとよりあらゆる存在はすべて中心を持ちながら融通無礙な働きをしているのである。それはからだにとって、中心とそれを軸にして働く円のような働きを持っている。そんな生命中枢の狂いは全身に狂いを生じさせ、あらゆる病の根源となる。逆に自然な生命法則に従った動作は全身の細胞が生き生きと蘇り、大宇宙のエネルギーが発現されていくことになる。
    中心軸と円の関係をからだについて考えてみると、「心」と「からだ」、それにそれらをつないでいる「神経」が存在している。「からだ」は背骨という中心軸から骨格という円があり、「心」は魂という中心軸とそこから生まれていく感情や知性などの心の働きという円と、それらをつなぐ「神経」は中枢機能として無意識に生命活動を司る運動神経という円から形づくられている。このように中心軸と円のダイナミズムを見てとることができる。しかしながら中心軸は内なる見えない世界であり、意識が行きにくいことから忘れ去られる傾向が強い。この忘れ去られた中心軸に回帰して意識的に動きと感覚を得ようとするのが操体の動診なのである。
    明日に続く

    三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 心とからだの研究

    操体の動診では言葉の誘導というのがある。たとえば「感覚をよくききわけて! 」と、クライエントに促すのではあるが、現代人はその感覚をあまり使っていない。この感覚とは「意識」そのものであるが、我々は「無意識」の中で生きている。というのも生命維持の中枢である心臓の心筋は横紋筋ではあるが、不随意筋と呼ばれる無意識の筋肉が司っている。またからだには自分で意識して動かせる随意筋という筋肉もある。そしてからだの動作に関わっている運動に関するほとんどの筋肉がこの随意筋である。ところがこれらの随意筋は生活習慣によって支配されており、現実には無意識化している。それゆえ感覚をききわけろと言われてもピンとこないのである。
    では、動作の主役である「からだ」と「心」の意識はどのようにつながっているのか? それをつなげているのが「神経」と言われるものだ。この神経をコントロールすることができれば、からだの感覚を的確に意識できることになる。そしてその役目を果たすことが可能なのは「呼吸」以外にないのである。こんな重要な働きをすることができる呼吸を司っているのは意識的な随意筋であり、無意識的な不随意筋でもある。心臓は自らの意識で止めることはできないが、意識的に呼吸を止めるのは容易い。しかし、睡眠時には無意識の状態でも呼吸筋は働き、呼吸を続けることができる。
    呼吸筋というのは随意筋でありながら、しかし意識からも自由であるというからだの中で特別な筋肉である。我々は普段、呼吸を生活習慣によって無意識に行っているので、またしてもなかなか意識する機会が得られないのだ。これを意識して気づくという僅かな努力でもって我々の呼吸は格段に変化し、あらゆるからだの感覚が研ぎ澄まされてくる。自分自身の呼吸に耳を傾けることは、からだだけでなく、心も同じように感覚できるようになる。これが「からだの声を聴く」という、禅で教えるアウェアネス、「覚醒」の意味するものだ。ようするに呼吸を意識すれば心身は変化するということになる。また「感覚をつかむ」という言葉があるが、それには呼吸を意識することが必須条件になる。本当のことを言うと、感覚をつかむことなど、できようはずがない、感覚は訪れてくるもので、いわばお客さまである。それを迎え入れることこそが感じるというコミュニオンなのだ。
    ここまでの話は、からだが『静』の状態にある場合に限られる。では『動』の状態においてはどうなのか? すなわち操体の動診のようにからだの動作が伴う、となれば動きの感覚においては呼吸を意識することを必要としない。操体の動診では、意識的に動くプロセスにこそ重要な意味があるからだ。このからだを動かすというのは、筋肉を動かすことで、そのときの知覚プロセスの要素は感覚刺激から知覚神経を経て伝わる電気的なインパルスが脳に届いた結果、それが評価されて動作反応を起こすのである。からだにはこのような複雑な電気的リレーシステムがあり、これが脳の感覚中枢と運動中枢の間を生体電気回路で結んでいる。そして脳での情報処理が済むと、それに応じた筋肉活動が開始されることになる。
    明日に続く

    三浦寛 操体人生46年の集大成 "Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 同士と同志

    その昔、全国大会か何かの席で、見知らぬ人に「操体をやっている同士だからいいじゃないですか」というようなことを言われたことがある。
    何か頼まれたのだろうが、その内容は殆ど覚えておらず、何やら不快感を感じたことのみ覚えている。また、江戸川区で一般向けのセミナーをやった時に参加していたある女性が、張り付いたような笑みを浮かべ「操体って、素晴らしいですね」と私に言った。
    私は少しぞっとした。その女性とはその後買い物中にも会ったのだが、その時も「操体って素晴らしいですね」と言った。
    何故ぞっとしたのかと言うと、何だか偽善くさかったからだと思う。偽善くささを私は敏感にキャッチしたのだろう。

    私がこういうことに敏感なのは、中学高校大学時代と、森茉莉森鴎外の長女・小説家、エッセイスト)の本を愛読していたからかもしれない。
    森茉莉の代表作、泉鏡花賞を取った「甘い蜜の部屋」は、私が年に一度は読み返す名著である。三島由紀夫が「あなたは、どうして男の性がわかるのですか」と言わしめた名作である。サディスティックな(少女をいたぶりたいという密かな願望を持つ)フランス人のピアノ教師や、禁欲を自ら強いている美貌のロシア青年が、モイラの身体の魅力に屈するところや、モイラに密通の相手がいることを知り、自殺する、いささか宗教的な(しかし、ベッドでは執拗)夫など、様々な登場人物が描かれている。
    この中には、美貌の少女、モイラを囲む様々な「偽善っぽい人々」が登場する。それは、尼僧服の下のでっぷりと太った堕落したシスターだったり、女中頭だったりする。
    この「森茉莉的偽善嫌い」という感覚は私を納得させるのである。

    甘い蜜の部屋 (ちくま文庫)

    甘い蜜の部屋 (ちくま文庫)

    私達東京操体フォーラム実行委員は「同志」という言葉を使っている。「こころざしや主義・主張を同じくすること。また、その人」という意味を持つ。互いに三浦寛先生のもとで操体を学び深めるという志を持っている。
    一方「同士」は「友達同士」の如く「なかま。つれ。友人。動作・性質・状態などにおいて互いに共通点をもっている人。同じ立場である者。」を指す。
    この二つは似ているようで実は違う。

    多分「講師と生徒」「師匠と弟子」くらい違うのではないだろうか。

    そもそも私は[友達だからいいじゃない」という言葉には昔から疑問を感じていた。というのは、周囲にそういう言い方をする人達がいなかったせいもある。また、何をもって「友達」とするのだろうか。

    これは私も経験したことだが、フォーラム実行委員の間でも「友達同士」の感覚でいるメンバーは「操体を師匠のもとで学ぶ同志」という意志を持って学んでいるメンバーにはついていけなくなる。そして結局は辞めていく。
    中には「破門」を言い渡された者もいるが「友達同士感覚」でいると、師匠に「破門」されるという意味が分かっていないようで「破門」を受けても、師匠と今までと同じような関係を保てると思っているような節がある。弟子であれば、師匠が破門にした者と付き合いを絶つのは当然のことではないかと思う。それがわからないのが「友達同士感覚」でもある。
    今思うと、彼らの口癖は「友達じゃない」なのだ。「操体ってみんなのものでしょ(だから勝手にやっていいんでしょ)」という言葉と、妙に似通った空気を感じる。

    残念なことだが、ある操体の大会では、いつもこのような雰囲気を感じる。
    操体ってみんなのものでしょ(だから好き勝手にやっていいんでしょ)」
    操体やるには資格はいらないんでしょ」(健康体操を教えるのだったら、資格はいらないかもしれないが、患者あるいはクライアントを診るのだったらある程度は必要である。また、運動指導にも資格が必要な時代になってきている)

    • 操体は組織をつくっちゃいけないんでしょ」(橋本先生は、「組織の長にはならないよ」と言われたのだ)
    • 操体はお金もらっちゃいけないんでしょ」(橋本先生は臨床家として、治療費をいただいていた。健康体操を教えるのだったらお金を頂かないかもしれない。しかし保健師にしても地方自治体から給与はもらっているだろう。これは実際三浦先生と私が長野で聞いたある女性の話だ。これがどこから出て来たのかナゾだが、臨床家をバカにしているとしか言いようがない)。

    これも、先に書いた「一般の人にあまねく広める未病医学としての健康体操」として操体を捉えているのか「医師が行っていた臨床」として捉えるのかで全く違ってくることがわかる。

    今回、フォーラム開催にあたって、参加者にアンケートをとった。「医師が創案した治療法であり、自分でできる健康体操」と書いてある方が多かったが、

    医師が創案した治療法≠自分でできる健康体操

    なのである。「医師が創案した、自分でできる健康法」というように捉えられている方がおおいようだが、これは少し早とちりだ。橋本先生は、実際に操体で臨床をされていた。同時に「健康な人が病気にならないための未病医学」としても操体も残した。何度も言うが、「健康な人が病気にならないための未病医学」は顕教的に広まっているもので、「医師が創案した臨床」は、密教的に広まっている。操体を勉強する方は、この二つの区別をつけていただきたい。そうすれば、操体の「二重世界」が分かりやすいかもしれない。

    我が師は言う。「操体はオレにとっての聖職だ。それを穢されるのは我慢ならん」。私も同感である。橋本敬三先生から、在り難くお借りしているのだから。

    ただ、今は業界をじっと見ている。例えば海外にも、たった二週間操体を学んだだけで「自分は操体のヨーロッパで唯一操体を継承したものだ」と言っており、根本良一氏(根本氏は三浦先生の受講生である)が橋本敬三先生の直弟子で、自分は直系の弟子だ、と言っている輩もいる。ヨーロッパでは「操体ってオシッコ飲むヤツですか」と問われたこともある(某K療法の方々が、操体法と併用して温熱療法、飲尿を広めている)。これには驚いた。日本でもそう思っている方がいるという話を聞いたこともある。「飲む飲まないはテメエの勝手(橋本先生風)」なのだが、操体をやっている人間が「みんなそうだ」と思われるのも困りものだ。

    それを「操体はみんなのものだから、色々なことをやる人がいてもいいんじゃないですか」という方々もいるのである。これでは、まともな論議もできないというのが現状だ。

    以前「身体運動の法則」を誤って記載した本があった。それに対しても「いろいろなやり方がありますから、いいんじゃないですか」という意見があった。「橋本先生のおっしゃっている原理原則に反していてもいいのですか」と聞いたら「それはやはり困ります」とのことだった。
    こういう「操体はみんなのものだから(勝手にやっていいんじゃないですか)」ということを、どのように捉えるのか。
    勝手にやっていいのかと捉えるのか、未完成の体系を深化あるいは進化させると捉えるのか。
    操体の未来のためにも、私は後者を選びたい。

    一週間ありがとうございました。

    さて、明日は東京操体フォーラム。楽しみです。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 "操体マンダラ Live ONLY-ONE 46th Anniversary"は2012年7月16日(海の日)に開催致します。

  • 美学。

    先日の「東京操体フォーラム実行委員勉強会」で「自分の美学とは」という話になった。「美学」というのは本来「美の本質」を探求する学問だが、なかなか捉えがたいものである。
    美学というのは、はたからみて「粋だな」というものではないかと思う。人に迷惑をかける類のものはどうなのだろう(一流のヒトは迷惑でさえ美学になるのかもしれない)。

    「欲張り」と「探求」は違う。欲張りは他者からみてみっともない。探求はそうではない。その見極めも美学ではないかと思う。
    欲張りと同義ではないが「ケチ」というのも美しくない(かといって浪費が美学とは言わない)。身なりに気を遣わないのも美しくない。
    こうやって考えると私の美学は「粋」であり、「お江戸」なのだろうかと思う。

    橋本敬三先生の考え「ボディの歪みと健康」が認められるには時間がかかった。
    シベリア抑留から帰還後、医学誌に寄稿を続けたが、全く反応がなく、昭和49年(1974年)にはあきらめて書くのをやめられた。丁度入れ違いに、現代農業から「素人向けに書け」と依頼を受け、連載したものがまとめられ、「万病を治せる妙療法」が
    出版された。その後はNHKから取材を受け、テレビでドキュメンタリーが放送され、操体は日本中に広まったのである。
    それが79歳から80歳にかけてのことだ。

  • 顕教と密教

    昨日も書いたように、操体には「顕教」のように「一般の人が生活に活かせるような広くあまねく健康に活きるための基礎」であるもの(愛好者、操体Lover向け)と、私達が三軒茶屋ターミナルビルで日曜朝早くから限られた弟子達で、三浦寛師匠の「超最先端」の操体を学んでいるのは「密教」的である。

    一般の大乗仏教顕教)が民衆に向かい広く教義を言葉や文字で説くに対し密教は極めて神秘主義的・象徴主義的な教義を教団内部の師資相承によって伝持する点に特徴がある。

    「秘密の教え」という意味の表現が用いられる理由としては、顕教が全ての信者に開かれているのに対して、灌頂の儀式を受けた者以外には示してはならないとされた点で「秘密の教え」だともされる。

    世の中の操体実践者の9割は前者であることは否めないし、それはそれでありがたいことだと思っている。健康な人が病気にならないための『未病医学』としての操体はまさにそこにある。

    しかし、いつも思うのは「愛好家」は「責任」がない。橋本先生の本を読み私淑しているにすぎないし、殆どは師資相承ではない。教室の先生と生徒という感じである。
    また、未病医学として広めるというエリアを守っていればいいのだが、操体臨床家の領域を荒らすことがある。無責任者に臨床エリアを荒らされ(操体は効かないとかよくわからないとか)てはたまったものではない。

    橋本先生は「自分は組織の長にならないよ」と言ったことが、いつの間にか「組織を作っちゃいかん」と言う話になっているし(小さい組織はゴマンとある)、「操体には資格は必要ない」という人もいるが、橋本先生は、小崎順子先生に「操体の治療をするんだったら、柔道整復師の免許を取るといい」と言われたそうだし「保健師さんに操体をひろめてもらいなさい」と、おっしゃっている。
    勿論、資格は必要ないのだが、無資格では「健康体操」や「操体法教室」での指導は可能であっても、少なからず、人様のからだを診せていただく臨床家ならば、医療系の資格や、運動指導系の資格、対人保険に加入するなど、ある程度の責任は必要なのだ。

    愛好家の方に共通しているのは「操体ってみんなのものでしょう(だから勝手にやってもかまわない)」という言葉である。これは間違いない。責任がないから、勝手に好き放題やっているのだ。責任がないから、操体を食い散らかし、飽きたらポイする。

    先日、関西のある方が「第一分析、第二分析、皮膚の操体など」を「本を読んでもわからない極意を伝えます」というキャッチコピーで、操体の講習をやっておられることを知った。コピーだけを見ると、どうみても三浦先生の弟子か受講生のようにみえる。しかし、今現在弟子の中で単独で第二分析第三分析(皮膚へのアプローチ)の講習をやっている者はいないし、三浦先生も知らないという。
    セミナー会社を通じてやっているようなので、早速セミナー会社に問い合わせ、この先生が一体誰に操体を習ったのか教えて下さい、と頼んだところ、ご本人からメールがあった。

    操体はみんなのものではないですか?教えるのに許可がいるのですか」というような事が書いてあった。
    教えちゃいかんとは言わないが「第一分析、第二分析」という言い方は、三浦先生が創案した名称で、第二分析、第三分析(皮膚へのアプローチ、渦状波)は先生が体系化したものである。操体は勿論開かれているが、第一分析、第二分析という言い方、第二分析を「一極微」(いちごくみ)と称するのは私達一門のみである。自分の講習に使うのだったら、一言著者に断るのが礼儀であろう。
    さらに彼女は、操体を正式に習ったことがなく、操体法教室で操体を教えており、本を読んで勉強したというのである。
    彼女は第二分析を教えていると書いてあったが、第二分析は本を読んだだけでは修得できない。それは指導している私達がよくわかるし、人様に指導できるようになるには、師匠について相当の期間修行しなければならない。どんなことを教えているのか、受講料を払って参加したいくらいでもあった。
    現に操体法東京研究会の指導者養成コースは、15ヶ月間だが、二回も三回も参加する方がいるくらいなのである。更に、彼女は第一分析、第二分析、という言い方の創案者と、第二、第三分析を体系づけたのは三浦先生だということを知らなかったのである。また、三浦先生の本をちゃんと読んでいれば「第一分析、第二分析、第三分析」という呼称は先生の命名ということも知っているはずであるのだが、知らなかったとういうのはお粗末としか言いようがない。

    操体法 生かされし救いの生命観

    操体法 生かされし救いの生命観

    わかったのは、彼女には他意や悪気はないこと、愛好家の視点から「操体はみんなのものだから、第一分析とか第二分析とか本を読んだから教えていいんだ」と思ったのである。プロだったら訴えられる可能性があることを知っているので、他人が使っている用語を丸ごと使ったりしない。

    私は早速返事を書いたところ、無知を詫びますというメールが返ってきた。
    「世のため人のため」「操体を伝えたいんです」と、愛好家の方々からよく聞く言葉が並んでいた。誰も伝えるなとかやるなとは言っていないのだが、やはり「第一分析、第二分析」という言葉を無断で使用するのは良くない。勉強もロクにしていないのに人様に教えるのは非常識であるし、何よりも三浦先生の弟子と勘違いされる。
    彼女が三浦先生のされていることと全く違ったことを指導していたら、それこそ大問題だ。
    本人に悪気がない分タチが悪いのである。というか、このような例は彼女だけではない。「操体法をやっている」という方々が、どこまで橋本哲学を理解しているのだろう。彼女の更なる学び(操体の哲学を含めて)を願ってやまない。

    橋本先生は著書の中でこのように書いておられる。

    無知ほと恐ろしい罪はないとお釈迦様はおっしゃったそうだが、寒かろうとて座布団くらいの厚さにオシメの外に綿を巻い
    てやって、背柱に折目をこしらえて赤ん坊を殺してしまった母親を見たことがある(「からだの設計にミスはない」136ページ)

    からだの設計にミスはない―操体の原理

    からだの設計にミスはない―操体の原理

    師資相承で操体を学んでいる方は、たとえ臨床をしていてもいなくても「橋本先生から操体をお借りしている」と、認識している。なので勝手に好き放題にはしない。
    お借りしているのだが「体系化されたものではないから、後進に任せる」という橋本先生の意志を継ぎ、師匠の型を学び(守って型につき)、自分の個性を磨きながら型を洗練させ(破って型へ出て)、守と破を包括し、守りながらも発展させ、師を越える(離れて型を産む)。という、守破離を踏襲しているのである。

    「本家ほどチャレンジする」という。例えば、和菓子の老舗や芸事の家元。彼らは先達のやってきたことを、愚直に守っているのではない。老舗であればあるほど、時代背景に沿って、クラシックでありながらも斬新な手法を取り入れている。だから、何代も続くのだ。ロングセラー商品にしても、マイナーチェンジをくり返している。製造法が変わらないものもあるが、それは「匠の腕」に支えられている。

    なお「愛好家」の方々はあまりフォーラムにいらっしゃらない。
    気持ちはわからないではないが「今までやってきたことが如何に的外れか知るのが怖い」のだと思う。わからないではない。自分がやってきたことが根本から揺らぐのだから。

    三浦先生は橋本先生の「きもちよさでよくなる」という呟きによって、それまでやっていた「楽な動きか辛い動きか」といういわゆる第一分析(当時はまだこの名称はない)を手放した。
    手放す事、壊すことは怖ろしいかもしれない。しかし、一度壊したものが全く役に立たないのではない。次のステップに進んだ時、別の形で戻ってくるのである。
    私自身も三浦先生に師事する際、それまでやっていた事を手放した。手放してみると、第二分析、第三分析を学ぶ過程で手放し、壊したものが丁度いい形で甦ってきたのである。
    フォーラムにお運び下さる方々にとっては、未知の楽しみが待っているはずだ。

    私達は、真剣に操体に取り組んで下さる方は、例え臨床家でなくてもWelcomeいたします。

    2012年春季東京操体フォーラム研究会は4月22日(日)東京千駄ヶ谷津田ホールで開催致します。

    三浦寛 操体人生46年の集大成 [http://www.sotai-miura.com/?p=484:title=操体マンダラ Live
    ONLY-ONE 46th Anniversary”]は2012年7月16日(海の日)に開催致します。