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  • 快適感覚(四日目)

    昨日の続き
    今日は 「聞く」 ことについて考えてみたい。
    操体ではよく 「からだの声を聞く」 と言うが、これは広義の意味合いで使っているものだ。正確に言うと、 「見る」 というのは少なくとも眼を開くという動作を伴い、またその対象物に焦点を合わせるために、その関係する筋肉を動かす必要がある。物理的にまた文法的にも動詞として使うことに誤りはない。しかし 「聞く」 ということになると、動作といった物理的変化を伴うものではないのだ。文法的には 「聞く」 という動詞で正しいかも知れないが、正確には何かをするといったからだの行動を伴うわけではないのである。ただ耳を傾けるだけで事足りる。耳を傾けるというのは、することではない。何もしなくていいのである、何故なら耳はいつも開いているからだ。聞くと言うのは 「物理的なもの」 と 「精神的なもの」 とをつなぐ役目をしてくれる神秘的な器官の働きである。それに共感を持って耳を傾けることで意識は 「考える」 ことから 「感じる」 ことに質が変わってくる。
    本当は 「からだの声を聞く」 のではなく、 「からだの声に耳を傾ける」 と言うのが正確な言い方である。このようにからだの声に耳を傾けるのは、意識を自分に向けることであり、そうすることで、からだに気づくようになってくる。別の言い方をすると、分離していた 「心」 と 「からだ」 が統合されるその瞬間が気づきである。
    そもそも 「聞く」 というのは古代より心と密接な関係があったことをうかがい知ることができる。古代の絵文字である 「ヒエログリフ」 は生命を意味する 「♀」 が二つとその横に 「牛の耳の絵文字」 二つを並べて 「生きているものたち」 を表している。古代のエジプト人はこういった絵文字を通して、まさに 「生命は耳から入ってくる」 と言うことを伝えているのである。耳は塞いでも自身の内側から聴こえてくる音がある。それこそが心の叫びであり、自分の声を聞いて欲しいと訴えかけているのだ。その心の声を聞くことが自分に気づくことなのである。人間にとって快適感覚というのは、豊かで心地良い音、味、香り、景色などを五感で感じているときに、からだと心は喜び、生命が躍動するのである。こういった感覚は感覚器官から取り込まれ、脳で処理されて活性化されるのであるが、同時に感覚器官も豊かになってくる。その中でも耳は特に柔軟な器官であり、より鋭敏に耳を澄ますことができるようになる。
    臨床には脈を聴いて健康状態を診察するいわゆる 「脈診」 というものがあり、これは緊張や興奮が脈に表れてそれを感じとる方法である。 「脈診二十年」 といって脈を一人前に聴くにはそれぐらい長年の熟練が必要だということだ。が、聴くことだけで終わってはいけない。その脈を患者自身が気づくように、からだの声をきかせることで、生理状態に変化を起こし、自然のリズムへ戻していくことが可能になる。これには操体の 「渦状波」 が十分にその役割を果たしてくれるだろう。このように脈を通して、心を落ち着かせ、結果的にからだも癒されてくることになる。
    明日に続く

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 快適感覚(三日目)

    昨日の続き
    快適感覚を味わうための第一条件は、からだと心を通じて全面的なくつろぎの態勢がとれているかどうかである。からだのどこかに凝りがあっては快感覚の絶大な恩恵に浴することができない。何回も操体臨床を受けながら、いっこうにさしたる効果もあげ得ないような場合は、くつろぎの態勢を欠いているからである。道元禅師は中国で天竜如浄禅師から 「参禅は身心脱落である」 と教えられて悟りを開いたと言われているが、身心脱落とは、まさに絶対的なくつろぎの境地のことである。
    ところでこのくつろぎであるが、これを得るのは決して容易なことではない。からだと心の両面からの工夫が必要になってくる。だがそれよりも大切なことは、神経の和らぎを得ることである。くつろぎの根本は神経の和らぎにある。この神経の和らぎを手に入れるには、バランスとリズムという生命の二つのしくみを知ることが必要である。
    神経組織、なかんずく身心一体の機構の鍵である自律神経は、互いに働く交換・副交感の二つに分かれていて、この両神経組織が調和して働くときに健康は保証される。さらに左右両半身神経の働きのバランスも健康の維持に重大な関係がある。ところでバランスというのは 「静的」 なものではないが、互いに相反する働きの 「動的」 なつり合いの上に成り立っている。
    生体のもつバランスは生命のリズミカルな動きそのものだといってもよい。生命のなだらかな流れの現れである全身的なくつろぎは、バランスとリズムという二つの条件が充たされないかぎり生まれてこない。しかし、くつろぎ自身もまた一つのリズミカルなバランスの中で緊張と拮抗している。快感覚時におけるくつろぎは、一方では動診からの動きを続ける緊張と対抗すると同時に、他方では自分の中に呼吸や心臓鼓動のリズムにともなう緊張と神経の和らぎという弛緩のバランスを包んでいる。
    快感覚のくつろぎは緊張を背景とし、且つ内に含む総合的な態勢なのである。そして充分なる快を味わうことによって身心脱落という絶対的なくつろぎの境地が訪れることになる。これが操体臨床で言っている脱力後の爽快感だ。この脱力後の爽快感は呼吸においてそれを見てとれる。呼息と吸息とは一つのリズムを構成するが、この二つの息の間に休息の暇を挟むようになってくる。このことは気管の働きを調え、且つ新しい空気と気管内の残気との交替を完全にする。つまり、呼息〜止息〜吸息〜保息の四段の息からなる理想的な呼吸が操法の脱力後に爽快感とともに現れてくるのである。
    明日に続く

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 快適感覚(二日目)

    昨日の続き
    操体が提唱する快感覚というのは、心身一体という真理を踏まえた療法である。人間はもともと心身一体の存在であって、からだと心の分離は死を意味する。からだだけの人間もいないし、心だけの人間もいない。からだと心が別々にあって、この両者が結びついて人間が出来上がったものでもない。このことを理解していないと、生きている人間というものがわからなくなる。そうはいっても、からだと心は同じものではない、心はからだではないし、からだを呼んで心をというわけにはゆかない。からだと心ははっきりと区別することができるし、また区別しなければならない。しかし、区別できることは分離できることではない。心とからだは区別することはできるが分離することはできない、心とからだは不可分離に結びついているということなのである。
    では心とからだを分離できない関係に結びつけているものは何か? 心とからだを結びつけているものはいろいろあるが、その中で一番大切なものが神経組織である。神経は単なる心でもからだでもなくて、しかも両者の一面を具えている。精神〜神経〜身体という関係で心身一体の人間が出来上がっている。もっとも、この三位一体の関係は、きわめて簡単な略図であって、今日の科学の教えるところはこんな簡明な関係ではない。心にも多くの種類や段階があるし、心と主として筋肉組織としてのからだの中間には電気性のインパルスを含む神経のほかにホルモン、酵素など、さまざまなものがある。それはとにかく、心とからだとはこの中間段階の神経などを通路として複雑微妙に通じ合っている。心の動きは多少とも必ずからだに影響するし、からだの状態の変化はやがて大小ともに心に結果を及ぼさずにはおかない。この心身一体という心理の上に快適感覚は成り立っている。快感覚を味わうということはからだと心を平等に取り扱う仕方で完全な心身一体の状態を実現しようとすることなのである。
    快感覚はからだだけの健康や心だけの安定をねらったりしない。心身一体の完全な健康こそが快感覚の目的なのである。心身一体の理からいって、そうした仕方でなければ、本当は心の安定もからだの健康も得られないのである。快感覚を味わうことがこのようにすばらしい結果を生むのは、ほかでもない、からだや心を調え且つ強める前に、まずその中間にある神経などの要素を調整し強化するからである。この中間要素の調整強化は、全人的な健康を築く上に特に大きな意義を持っている。
    明日に続く

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 快適感覚

    今回は快適感覚をテーマに話を進めていくことにしたい。操体では、この 「快」 を味わうということを強調しているが、これには生体の内部環境の整備に果たす役割は、実に大きいものがあるということだ。この快という気もちよさをききわけることができると多くの病気を改善し、未然に防ぐこともできるばかりでなく、今後の人生を心身ともに大きく展開することができる。快感覚は生体内環境を整備すると同時に心の面に対しても大きな力を持っており、いわば心身両面にわたって偉大な効果を期待することができる。
    快感覚を味わうとは読んで字のごとく快適な感覚を得ることであり、これを外から見れば、いわゆる恍惚感のある静の状態である。ところが快感覚をひとたび内面的に覗いてみると、生体内には驚くべき変化が刻々に起こっている。たとえば快感覚時の呼吸は通常の呼吸と少し違うところがある。快感覚時の洗練された呼吸は肺胞内におけるガス交換を完全にし、そのために血液中の酸素と二酸化炭素との比率を生体にきわめて有利な状態にする。またその洗練された呼吸運動は清浄化された血液をきわめて活発に全身に循流させるのに役立つものである。
    特に快適感覚の状態にあっては、下肢に配分される血液量がきわめて少なくてすみ、その分だけ多く内臓に還流される。そのためにすべての臓器の機能を完全かつ快適に行わせることになる。快感覚時は静なる状態ではあるが生理学的に見れば、このように完全なガス交換と、それによって生ずるところの生体に有効な血液を、きわめて効率よく全臓器に循流させているのである。この場合、脳の循環も旺盛となるので、その面のプラスも軽視できない。
    洗練された呼吸運動の内、呼息は気持ちを落ち着かせ、その上で行われるところの精神活動は、きわめて次元の高い精神活動を可能にする。快感覚がこのように心とからだの両面に与える効果は、予想外なものがあり、快感度の質の如何によっては、驚くほどの効果を現すものである。
    我々の生命というものを考えてみると、生命体にはそれ自体で健康を保ち続けようとする力が備わっているものであるが、このことは人間ばかでなく、すべての生命にもあてはまる。このような健康の特性というものは、何びとにも例外なく与えられたすばらしい潜在力であり、この潜在する力は、時に応じ必要に応じて、はっきり現れてくることになる。この健康を保ち続けようとするプラスの力が何らかの原因で覆い隠され、反対にマイナスの他の力がより強く働くときに病気となって現れるのである。その原因を考えてみると、生体内部環境の撹乱にあると思われるが、そこで快適感覚を味わうことによってその生体の内部環境が強力に整備されることとなり、撹乱は治まるか、または起きないのである。
    明日に続く

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 意志を通すその意識〜想念のアウトプット〜

    『生体の歪みを正す』創元社 (423頁〜)
    橋本敬三先生は、当時の医師会会長であった武見太郎先生に「−報告とお願い−」書簡で届けている。
    この内容は、人間の願いを超えた人間の本質を知る訴えでもあり、敬虔な信仰からの祈りのように感じる。
    ふと、思い出してなんとも似ている・・・そう感覚的に・・・その場にいたのは三浦寛先生だけじゃなかったんだ、と。
    先日の「操体マンダラ」である操体受講生により三浦寛先生に届けられた橋本敬三先生の信仰を感じる手記。
    そして三浦寛先生にどうしても探して欲しいと頼んで、奇跡的に見つかった同人誌に掲載された橋本敬三先生の若い頃の文章の話・・・。
    (本物、本質、本気、本音、根本・・本当に繋がってよかったなぁ・・・「操体マンダラ46周年」来年も開催するそうですヨ)

    さて、それでは今日のお約束行ってみましょう!(続きです)
    様々な欲求を司どり、己を感じ他との境界を生じさせ、様々な感覚を統合しつつ変化させ、最新の研究によれば、本当に自分の決定なのか、自分自身とは何を指すのか?と疑問を投げかけている脳(佐助実行委員のブログ参照)それは、仕組みとしての脳、中枢神経としての上位中枢との関係でもあり、脊髄の上にある脳幹、脳幹の上にある視床、これらの“は虫類脳=感覚脳”の上にある“間脳=感情脳”のさらに上にあるのが、いいことも悪いことも識別していく、大きな意味での欲の中枢、大脳新皮質なのである。

    いわゆる脳発生学的にとらえてみれば、下部脳から徐々に形成されて視床下部メラトニンを分泌するホルモン代謝の中枢)によって、もともと一つであった脳も、まず右大脳半球が形成されてから左大脳半球が形成されていることがわかっている。つまり、肥大化した大脳は人間特有の欲を司る脳(欲脳)とも言えるのである。これによって生じる不自然とは、本来生じている原始感覚そのものを抑制させていることも充分に考えられる。

    例えば、食事で考えてみよう。
    乳児の人間は自然そのもの原始感覚で飢えと渇きを訴え、満たされればそれ以上の栄養摂取を拒むのだが、大人になるにつれて舌の知覚(味覚)を求め、ストレス解消的に刺激的な食生活に偏ってしまいやすいのは「食」である。
    悪い言葉で言えば「食らう」こと。これに慣れると満腹になっても食うことは可能であり、嗜好という記憶で食らうことになる。
    よって、本来ならば反則であり不自然なのだが、それさえ”食の一形態”として受け入れてしまうのであり、これこそ大脳皮質の左脳的欲脳の産み出した刺激、つまり、過食・味覚食は、高脂肪・高血糖維持傾向等の刺激過多を要求し、咀嚼して味わうことさえ必要無い状態、これを可能としてしまうのだろう。

    故に、刺激は足ることを知らない。そしてなにも現代に限ったことではない。
    古代ギリシャの医聖ヒポクラテスの時代から既に過食を戒めているのである。
    「一日一食は天人の食事、二食は人間の食事、そして三食は畜生の食事」と言い、また、中国で発生した薬膳の考え方でも食べ過ぎは脾の中毒を起こし、それこそ“食毒”と戒めている。
    ちなみに私自身も「食」の回数を減らして二ヶ月経過している。これをウソかホントか試してみて、変化を感じることは多い。その一つは「有難い、有難い」と、素直に感じるようになってきたこと、これはハッキリした。常に満たされていると、それまでわからなかったコトが識別されてくるのである。もっといえば・・・・ン?オットット、このまま脱線して終わってしまうところだった。
    人間の食事と天人の食事に関しては続ける予定なので、またの機会に書くとしよう。

    話を戻し、千島学説を絡めて最後まで考察してみよう。
    今まで書いた赤血球の産生の仕組みとして、“腸”が大きく関与するとすれば、人間の体内における体温維持は非常に重要性を増してくる。
    約40度とされる腸内において、体温低下により種々の疾病を引き起こす可能性を考えてみたい。
    なぜ40度なのか?それは細胞の働きの低下だけにとどまらない。人間の補酵素であるビタミン群や消化酵素の活性も36〜46度。「からだ」とは、常に先を見ている自律した自然のシステムでもある。具体例を挙げよう。恒常性維持(ホメオスタシス)に重要で慢性的システム不良を防ぐ有効な手段の一つに発熱作用がある。それは同時にほとんどの場合、食欲不振を訴える。要するに解毒作用とは、一つに体温のセットポイントの上昇であり「風邪は体の大掃除」と昔からの”金言”も、ここに理由は成立するのだろう。

    そして言うまでもなく体温維持そのものは、エネルギーの代謝の結果である。
    しかし、クエン酸回路は酸素がなければATPを産生することができない。酸素は肺呼吸によって心臓に運ばれ、体循環を経て細胞代謝に必須であり、血液中の赤血球で運搬しているが、その形状により酸素を中心に運搬する量も変化していく。ちょうど物流で例えて言えば、東京から仙台、東京から島根、東京から鹿児島に荷物を載せてトラックで運ぶにもその積載量が関係するし、道の整備がされていなければ交通量が少なくても流れが滞ってしまう。
    要約すれば生命維持の代謝活動とは生命エネルギーの入力と出力バランスの循環であり、自律可能なのだ。
    腸の働きにより赤血球そのものが産生されるならば、腸の働きそのものは、なぜ自律しているのか、直接的な脳の関与を受けにくいのか、意味もわかる。理由の一つに、肥大化した欲脳による過度の活動制限を受け難くなり、「呼吸」という重要な生命維持に直結しているのだ。

    これが自律可能である限界を、超えてしまった場合はどうなるのであろう。
    まず生命維持に最低限必要な代謝活動のために、酸素を必要としない解糖系をメインとしたエネルギー産生に切り替わるだろう。それは急速な運動時にも見られるように、非常に代謝コストが高上し、エネルギー産生効率が低下することを意味する。
    つまり、人間が脳を肥大化したことによるリスクはここにあるのだ。全血液中の酸素量の20%を必要とする脳生命維持自律システムでは、長期的に解糖系をメインにすれば不利な条件となる。慢性的低酸素状態では、常時高血糖となり、膵臓の外分泌系であるインシュリンに負担がかかり、バランス制御のため頻度にアドレナリンやノルアドレナリンを分泌させ、交感神経を同時に刺激している悪循環をきたす。
    副交感神経は抑制方向に働き、呼吸は浅く回数は増加し、排泄量は減る。自然法則に反して起こっている。

    これが臨床的に何を意味するかと言えば、生命の逆行現象を生じてくる可能性を生じるのではないか。
    例えば、もっとも代謝の盛んである皮膚組織は、“は虫類状”に乾燥し硬化する。循環系では不安定な体温維持により“は虫類的行動”を取らざるを得ない。そして神経系ではミエリン鞘を持たない“c繊維”のような繊細な活動電位が一番ダメージを受けるため振戦や痺れを生じさせ、さらに髄鞘そのものさえダメージをうけることにより随意運動は勿論、不随意運動も活動低下せざるをえない。
    このように、代謝活動の逆行システムが関与してくるのである。
    遺伝子の活動と細胞の働きは常に自律管理されているので、生命維持システムの逆行スイッチにオン、酸素を必要とせず細胞分裂を行う腫瘍細胞が活動を活発化し、細胞の異質化をとどめる免疫系の弱体化・効率の良い生命発達維持システムの逆転現象が進んでいくのである。

    「ケイゾーコード」の一つとして、橋本敬三先生も訳あって千島学説を支持していたと考えられる。
    そして人間の悲願達成として使命があり、生命の維持そのものに必要なフィードバックの考え方も、
    人間として最低限必要な自己責任生活、「息」・「食」・「動」・「想」・「環」を指示されている。
    この人体生理学にとどまることのない具体性を、科学的研究を通して表舞台に求めて欲しい。そのように生前の橋本敬三先生は願っていたのだろうし、様々な病気などは”元々のからだ”にはないのである。不自然な生活において生じる理由さえ、このように「生き方の自然法則」で立証されるのある。

    なお参考として、動物ではなく植物の場合ではどうなのか。植物一般において、人間の赤血球に相応するのが“葉緑素”である。この葉緑素とは色素の差こそあれ、ほぼ赤血球と同じ組成と働きを担っている。いわば、植物における血液と言っても過言ではなく、植物の病気のほとんどが、根から生じていることも大きなヒントになる。病態変化を認めた現時点でも遅くはない。まだ可逆性は残されている。
    理論とか理屈を敢えて審議せずに仮説としたままでも構わない。実際にこの医学界において常識とされることを覆すのは容易ではないからである。

    人類が生まれほぼ200万年。この長い歴史があり21世紀に遺伝子ゲノム解析が終わったとしても「からだ」は謎に包まれている。死んでいる肉体を解明するのではなく、生きている状態での人体の構造は、未だ全て解明されていることは無い。しかし「イノチ」そのものを生む天然自然の法則は微塵も揺るがず自在している。だからこそ「操体」を学ぶのだ。私たちは自律可能なのだ、と得心しえるように学ぶことだ。
    ”まず自ら無意識に発している、「想(念)」のアウトプットである”言葉”を意識して統制する事。
    自然法則の応用貢献を成し続けること、朽学しないこと、妥協しないこと、ブレない縦軸に間に合うように営むこと。それを証明してくれる「原始感覚」を磨くことなのだ。
    なぜなら全て有り難く「快」につながっているんだから。
    ただ、感恩報謝して懺悔しても、ただただ有難いことを感じること、なんと言っても有り難い。
    それは、「神性相続権」としてワタシ達は成り立っているということ。これは大前提となる理由。

    ・・・ということで、長々と一週間お付き合いありがとうございました。
    それからお知らせもあります。
    今年の秋季東京操体フォーラムは、「自力自動、自力自療」をメインテーマに致します。
    是非、11月18日の予定を今から組んでおいてくださいね〜。一緒に学びましょう!

    この世を歩みつつ立つ鳥が如く濁さずコツコツ歩み続けよう!

  • 生命エネルギーのインプット〜その4〜

    柏樹社主催のシンポジウムの際、竹熊宜孝氏、野口三千三氏、福岡正信氏、和田重正氏、金光寿郎氏と、
    参加者の皆さんの前で橋本敬三先生はこのように語っている。

    地湧きの思想〈1〉未来を啓く人間観 (1980年)

    地湧きの思想〈1〉未来を啓く人間観 (1980年)

    「(204頁より抜粋)それからこんなこと言っていいか悪いか知らんけれども、普通一般の人は裏の裏をあんまり知らないんですよね。裏のことわかんないで表面のこと、(中略)だからそういうことちょっと気がついたら、だまされないようにしてください。だまされてるんだから。だまさなくちゃ金儲かんないからね。本当に吸い取られているから、残念ですよね」と問いかけ、

    からだの設計にミスはない―操体の原理

    からだの設計にミスはない―操体の原理

    『からだの設計にミスはない』259頁にも、81歳で”地政学”を知ったことは、天成の道を歩んできた
    橋本敬三先生にとっても”天啓”だったと紹介しているのである。

    悪の論理―地政学とは何か (角川文庫 白 267-1)

    悪の論理―地政学とは何か (角川文庫 白 267-1)

    『悪の倫理』では、地政学(日本を含む地理環境としての観方捉え方の一つ)と黒幕(世界の情報操作による表面と裏側)について”知る”ことを進言している。
    内容については長くなりそうなので、ここでは私も書籍紹介にとどめておこう。これも、無知は罪であることを知り、さらに原始感覚を磨く一助となるだろう。

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    さて、今日も(続きです)
    『生体の歪みを正す』(5頁13行目)
    「(前略)そもそも大前提として、生命体(身心ともに)の設計は完全に出来上がっているけれども、我々の生命現象において、
     他人に変わってもらえない最少限四つの営みがある。呼吸、飲食、身体運動、精神活動である—–性生活ももちろんあるが、
     四つは常時必須——。これらの営み方には、それぞれに自然法則があり、反則すればアンバランスが起こる
     現時点での健康度は、今までの、これらの営みの集積の結果であり、しかも、これらはお互いに同時相関相補性になっている。
     これらの法則の研究は医学者の責任であり、営みの指導は医師の責任と考える。
     生命エネルギーの収支バランスの可逆性を巧みに応用するには、医師自らこれらに習熟することを要する。プロフェッションの座がそこにある

    橋本先生の直弟子三浦寛先生は、この法則を噛み砕き、飲み込みやすく介助する達人であり、生き方の自然法則を入力・出力で分類した。
    つまり、「息」と「食」は生命エネルギーのインプット、そして生命エネルギーのアウトプットは「動」と「想」となる。
    そして「環境」とは、これらを包み込んで生命エネルギーのバランス現象の流れとなる。そしてこれを操体用語「Zの法則」とした。

    「ケイゾーコード」法則の研究と営みの指導という医師の責任とは、
    橋本敬三先生の著書のオウム返しや、臨床でも橋本敬三先生の行っていたことだけで満足することではない、と私自身思っている。
    学ぶなら、コピー&ドラッグでは勿体ない。方向を変えての考察や自分自身の実践による語りを「操体」の器に入れて味わって欲しい。

    (前回からの続き)
    野口英世氏の言葉に「すべての病気の原因は酸素欠乏症である」とあり、
    高橋迪雄氏の言葉に「現在では食べ物が足らなくて粗末すぎて死ぬ人は殆どなく、多く食べ過ぎて死ぬ人は無数です」とある。
    ノーベル医学賞の細胞生理学者ワールブルグ氏は、悪性腫瘍とは”ほぼ酸素を使わないで生きていける”ことに注目していた。そして、「細胞が必要な時に酸素が供給されない状況が続くと、酸素なしで生きていける細胞(=ガン細胞)に変化する」という説を唱えており、要するに「ガンは細胞の酸素不足が引き金になる」という説は、実際に日本の大学でも検証されている。
    これらの説を引用すれば、からだの各細胞に酸素を運ぶ、血液循環の”慢性的な不良状態”とは、生命エネルギーの停滞でもある。
    ガン細胞の発生原因ということは勿論、全死因の60%以上を占める生活習慣病脳梗塞心筋梗塞悪性腫瘍)にも関わっており、現代医学的に言えば、病とは血液の循環不良から始まるともいえるし、東洋医学でも同様、”気血”の滞り、偏りによって”証”は決まる。つまり、不定愁訴に対する理由さえこのように明確に提示、説明が容易となるのである。

    ここで再度「千島学説」を裏付ける事実として、人体におけるエネルギーの生産システムを考えてみる必要がある。人体は常にATP(アデノシン三リン酸)を必要としており、これにより生命活動を行っている。
    故にATP、つまりエネルギーの継続した欠乏とはエントロピー増大であり、ストレス反応により機能低下をきたし、継続した場合の結果としては気質異常から戻ることなくエントロピー100に至れば、肉体の死を意味する。それは、自発呼吸の停止・心拍動の停止・瞳孔散大を経て、完全な脳機能停止を意味するのであるが、ここで注目しておきたいのが“酸素代謝”であり、動物の証明でもある人体とは、酸素という”一種の毒素”を、エネルギーに化学変化させて無毒化して取り込むために、ミトコンドリアという酸素代謝システムを取り入れているのである。

    まさに、人間とは植物の核とも言えるミトコンドリアを取り込んでいる生かされし存在なのだ。
    その証明となる一つ、有酸素系のエネルギー産生システム“クエン酸回路”(TCAサイクル代謝)は機能しており、この仕組みによって、酸素を利用して効率よくエネルギーであるATPを造り出すことができるのだ。
    (説明しちゃうわよ〜ウフフ)
    例を出して説明しましょう。グルコース1分子が完全に代謝されてH2OとCO2になると、合計して38分子ものATPが生産されます。これに対して、無酸素系のエネルギー産生システムには“解糖系”はありますが、この解糖系(エムデン−マイヤーホフ経路)による、グルコース1分子の代謝では、わずか2ATP分子しか産生されないのです。ここで改めて人間の営みを考えてみましょう。生命維持に必要な熱産生において、”赤血球”による細胞内呼吸、酸素運搬システム、およびクエン酸回路(TCAサイクル代謝)とは、
    大きく生命エネルギーの方向性に密接に関わっていることになるのですネ(説明終わり〜)

    あともう少しだけ・・・語らせて欲しい。
    このシステムとは、地球発生以来より存在する、原始細胞に近い代謝システムなのだと思われる。
    なお余談にもなるが、ここに大切なヒントにとして提示しておきたいのが、ヒトがヒトである所以である。
    変温性の動物である魚類・両生類・は虫類は無酸素系・解糖系がメインの代謝システムなのに対し、
    恒温性動物である鳥類・ほ乳類(ヒト)は有酸素系・クエン酸回路による代謝システムがメインとなるのも納得できないだろうか。ここにこそ、変温動物と恒温動物の生態が成立するのだ。
    故に、慢性的な酸素不足は低体温を生じさせ、生命エネルギーの収支バランス効率を著しく下げてしまい、血液中の高血糖状態をきたす。

    「ケイゾーコード」を紐解く(チャンスは時節到来!)
    高等ほ乳類動物であるヒトが必ずしも自然と共存しているとは、言えない場合がある。
    それは、人間の設計にミスは無し!つまりヒトとしての自己責任分担、反則すればアンバランスが起こる。
    集積された結果、それは人間の欲望によって重なっていく累積反則点数でもあり、それぞれの健康度を示すのだ。ただし、患者は自然法則に疎く、殆ど無知なのだから、無知は罪とはいえ・・・操体指導者(医師)は責任もある。
    三浦寛先生は、東京操体フォーラム実行委員の勉強会で常に学びの重要性と再現の豊かさを求め、
    操体実践の”場”において「操体を学んでいても、朽学しちゃ駄目」と日々学び、日々臨床し、日々語っている。
    そして私たち弟子にできること。一つの具現化として畠山常任理事を中心にその意志を引き継ぐ法人「(社)日本操体指導者協会を立ち上げたのである。http://www.sotai.jp/
    ・・・ということで続きは明日(ってまだ続くのかい!)それでは皆様、今日もありがとうございます。

    陰陽極まるところこそホント!見極めるなら逃げない、そして失敗は成功の母ってネ

  • 生命エネルギーのインプット〜その3〜

    目覚める喜び
    昨日のワタシ(80兆の細胞)はアポトーシスを迎えて、再び自己再生した生まれ変わった朝は始まります。
    新生したワタシ自身がまず起きて顔を洗う前、トイレに行く前に行うのは、ほぼ習慣となった日記です。

    自由訳 般若心経 (朝日文庫)

    自由訳 般若心経 (朝日文庫)

    この瞬間はまさに「オオッ生まれ変わった!バンザイ!バンザイ!バンザイ!」という表現がピッタリ。
    有り難きご縁のもと、操体の師匠と出会い、自然法則を生かし、自分自身を生かす法則を学ぶ。
    日記から始まる自由訳で操体を語る自分自身はいいものです。自分自身に向き合って始まるなんて、ホントに有り難いですからネ。
    「有り難いだって?そうは思えないなァ」ですって・・・う〜ん、では「想」に通じているのでもう少し例を挙げてみましょう。
    あなたも私も三次元の世界に存在しています。なので、理解できないこと、目に見えないこと以外、つまり四次元以上のことの多くはグレーゾーンになっています。
    そして現象としては認められても再現性の低いもの、環境によって変化が著しいもので検査確定できないもの、いわゆる混沌としたもの、科学的でないものはオカルトに分類されています。
    東洋医学における経絡現象、経穴もその一つでしょう。しかし、WHOでもその存在は認めており、実際には効果的であり再現性の高いものは、量子力学的から考察すると全く矛盾しません。
    テーマの発端「ケイゾーコード」の「太極」や、人間とは「第七の天」からみれば「第七の星」に相当するという哲学思想も四次元以上の展開なのですから、
    ヒッグス粒子」の発見、量子力学相対性理論等を統合する重力場を含む四つの力の統合理論に向けて、人類の精神性向上、つまり精神生命活動の場は一歩前進するでしょうネ。

    (前回の続き)
    生命活動を紐解く鍵があるのだとすれば、「イノチ」の循環、その自然な成り立ちを学ぶことだろう。
    操体」では「般若身経」(=操体用語)であり、「身体運動の法則」と「生き方の自然法則」のことだ。
    「息」、「食」、「動」、「想」、には相関性と相補性の自然の法則が同時に貫通しており、「環境」によって培われている。
    三浦寛先生曰く、第一の生命とは「息」にあり、そもそも生命活動の基本とは呼吸である。
    そして人間の場合、呼吸とは必要不可欠であり五分と止めていられない。
    鼻腔から気管、気管支から肺、肺胞と毛細血管を通じてガス(主として二酸化炭素)交換を行っており、
    血液によって生命素である酸素は毛細血管より細胞への循環を経て、肺に戻ってくる循環となる。
    ここに、体内での細胞呼吸と体表における皮膚呼吸がある。
    動物によっては数%の皮膚呼吸でガス交換を直接行っているが、今の一般医学教科書においては人間の皮膚呼吸は認められていない。

    これら循環は、ホメオスタシスにより自律調整されており、環境(内的・外的)によって、常に調整される。
    その大きな働きの一つとして”赤血球”による運搬は主に挙げられる。
    赤血球は、分化の過程で”核のなくなる細胞”であり、80兆以上(医学教科書では60兆)と言われる人間の細胞、
    その体重の約9%を占めている血液中に最も多く存在する。これは脱核しているのでタンパク合成できても核分裂はできない。
    まるで子の宇宙空間・・・私たちのすむ地球環境、地域における人間の活動、一人一人のようにも感じるものだ。

    その赤血球数は男性で、約500万個/ミリリットル、女性450万/ミリリットルとなり、
    人間が循環・蓄積させている血液量は、60キロの男性の場合約5.4リットルにも及び、一日の破壊再生の数は2000億といわれている。
    ちなみにワタシは献血が趣味の一つであり、400ml献血なら既に60回以上となった。献血は「お注射ですよ〜」とは言わないが、
    女性看護師に”ブチュッ”されるのは快感で、いつの間にかコツコツ通ってしまう(笑)ただのマゾかもしれないだって?失敬な!そういうことは失笑してスルーして欲しい。
    ・・・おやおや、また脱線してしまった。

    さて、血液中における赤血球は、計算上一秒間に200万個も破壊されており、同時にリサイクル再生もなされる。
    破壊された一部は、肝臓を経てビリルビン代謝を受けて体外へ尿として一部排泄される。
    この血液を造り出す部位の一般医学的認識は、骨髄とされており、これは生理学においても常識とされている。

    では、どうして橋本敬三先生は三浦寛先生に「千島学説」を情報として伝えたのだろう?まさに「ケイゾーコード」である。

    確かに、年少期には長管骨をはじめ、全身の短骨・扁平骨の部位(赤色骨髄)により産生されるのだが、
    成人期においては短骨・扁平骨を中心にわずかに赤色骨髄が体幹で残るのみであり、
    ほとんどの骨髄は成人においては、赤色骨髄から黄色骨髄に変化しているのである。

    もう少しだけ、現代の医学教育書から無視され続ける仮説、“千島学説”を紐解いてみよう。
    この学説の要点を、ワタシ風に非常に簡単に説明するならば、
    人体の血液中の成分生産拠点、それは、“腸”であり、特に小腸がその大きな役割を持つ、という学説である。

    (参考になるかしら?説明しちゃうわ〜)
    千島学説とは、千島喜久男博士が提唱した学説です。
    たとえば、一般的にはヒトの血液に含まれる細胞成分(血球)は骨髄で細胞分裂によってできると考えますが、
    千島学説では細胞分裂によらず腸で食べ物から作られると考えます。
    また、ウイルスや細菌による伝染病は人や動物などから感染すると考えますが、
    千島学説では「細菌・ウイルスは一定条件下で自然発生する」と考えています。(これで説明終わりま〜す)

    この千島学説を採用するのであれば、私はこう思っているので聞いて欲しい(いや、見て欲しいので読んで下さい)
    例えばこう考えてみよう。この学説は”経絡”と同じで”不可視”システムの説明ではないのだろうか。
    なので、一つの自然な循環としてイメージして欲しい。そうでなければ、そんな事実は認められていない、で終わってしまうから。

    まず、瞬時に200万個/ミリリットル以上も破壊・再生産される成人の赤血球生産にも容易に納得できないだろうか。
    そして安定形態、形状の不安定な赤血球の栄養素による自然な形態を、ヘモグロビンの形状変化に当てはめることも容易となる。
    そして、胸式呼吸<腹式呼吸<骨盤(丹田)呼吸という図式における、「操体」の「息」呼吸の方法変化は、
    生理的優位(副交感神経作用)の自然法則の応用貢献であり、「からだ」の自律していくシステム変化とも考えられるのだ。
    これはまさに不可視なシステムの機能であり、、現代に増え続けている原因不明の症候群・疾患群の作用機序も推測できる。

    ・・・ってあらら長くなってしまいましたネ。
    ここからもう一段階踏み込んでみたいので、この続きは明日!
    それでは皆様、お暑いなかお付き合い頂きまして、まことにありがとうございます。

    [
    どのような波もただ一つのみ。良いも悪いもなく一生を全うしてるんだ

  • 生命エネルギーのインプット〜その二〜

    「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえてすずしかりけり」(道元禅師)
    夏になれば私のまわりにも、ホトトギスは飛んできて鳴いてくれます。
    もちろん、夏にも花は咲きますし、夏にも月はありますよね。
    さすがに雪はありませんが、現代の冷蔵庫のなかにはいつでも氷があります。
    そんなとき、私はこのうたを想いながら諳んじているのです。
    こだわることなく、おびえることもなく、とらわれることもなく、わざわざすることもなく、
    生かされていることで、ただただ味わっていられること、その一つ一つに価値を求める意味は何なのだろう・・・と。

    さてさて、(語調チェ〜ンジ)脱線しないうちに元に戻しておこう。今日は橋本敬三先生の聖書の一文に関して考察してみたい。(先日の続きです)
    「主なる神は、土(アダム)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とある。
    ・・・いうことは、人も天然、自然の働きから生じている。
    橋本敬三先生も哲学思想で語っているように、”人間は人間が創ったわけではない”。
    要するに、物質的に”土の塵”のように出来ていて、肉体としての物質は「土」に返る。ここに人としての例外はない。
    ワタシ達は物質的な存在でもあり、またそれだけで出来ているのでなく、
    まさに「イノチ」そのものでありながら「からだ」を存在させている生き物なのだ。
    つまり、「息」を吹き込まれることによって、初めて生かされている「人間」になれるのだろう。
    多くの科学者によれば、細胞となるの原材料を全てそろえておいて、そこから「イノチ」を吹き込もうと人間がどんなに努力しても生命は生まれない。
    今、自在しているからこそ、存在しているのであって、その「イノチ」は循環を伴い活動している。
    つまり、「イノチ」以外のものからは、「息」が通らないということになる。
    だから最先端の研究でも、皮膚や胎盤から、生体間での移植からの研究が続いているのである。(フランケンシュタインは未だ存在しない)

    もう少し続けてみよう。
    ここでまた問題になるのは与えられた”青草”の意味である。
    ワタシ達の本質とは、現象としての物質的な存在であると同時に、それだけではない。
    WHOの憲章でも、健康の定義に関して「人間」というものは「霊性」に関わっている存在との提言もある。
    青草の後、人間が肉食を許され、現象化した肉体を持つ意味は、ミクロであってマクロの相似象。
    この生命エネルギーのインプットには分類がある。

    操体」では「息」と「食」は生命エネルギーのインプットとなっているのだから、青草というのは単純に植物とイコールではないのだろう。
    肉体の充実は確かに肉食で養われていく、確かにその通り、間違いのないことでもある。この事を橋本敬三先生は「体力をつける」という。
    しかし、橋本敬三先生の述べたこと(肉食過多注意)とは人間的欲求の裏付けとになり、「体力をつける」ことと、「健康を維持」することの識別を説いているのだ。
    ここに「食」統制の必要性とバランス。人間として存在するうえでの肉体維持、つまり、「食」のインプットをバランスよく制御する必要性も生じる。
    なぜなら、その「食」の前に「息」という”第一エネルギーのインプット”は自在しているのだ。

    ワタシも橋本敬三先生の愛用されていた、(砕いたガラス様繊維の入らない)熊笹から抽出した葉緑素の一つを愛用している。
    それはともかく、体表における皮膚組織、そして消化器系や呼吸器系の粘膜上に存在しているような組織、
    つまり、”空気と直接接触している”組織は、もともと”刺激”に対しては反応するしくみを持っているのである。
    気道に異物が入れば吐き出そうとするし、基本的に腐っているものに対しては目を閉じて口に入れても吐き出す。
    特に小さな子供の”原始感覚”は素晴らしい。思考による観念は薄いので「からだ」の要求感覚に適う。

    ここで取り上げた”皮膚”と”小腸の粘膜”、鼻腔からの外呼吸と、体表と体内の皮膚の呼吸を”内呼吸”とすれば、
    ここに循環するものは、”自然”であるからこそ、自然な循環も成り立っている
    つながりは「人間」にとっての青汁。この要素は「食」だけでなく「息」として捉えて欲しい。
    なぜか?それは橋本敬三先生も興味を示されてた「千島学説」にも関係していると私自身は考察する。
    特に植物と動物のつながりを考えても、細胞内ミトコンドリアの取り込まれた意味とクエン酸回路。
    この回路における酸素のエネルギー循環と、無酸素で行われる解糖系エネルギー循環の意味を「息」として相関性を考えてみるといい。

    さらに小腸粘膜における腸壁の状態は、個人の内部「環境」と言えるだろう。
    例えるなら、消化器系の口腔内〜歯〜から始まり、食道から胃、十二指腸から小腸の絨毛から吸収される”栄養素”の「食」に相関している。
    つまり自己責任における内部環境は、内部においても自律可能というわけであり、ここから吸収された赤血球成分の形状まで学んでみると面白い。

    自己責任生活において関連している「環境」、この同時相関相補性として「息」と「食」のエネルギーインプット、
    この現象変化としてみる赤血球、飲食、葉緑素、呼吸と環境の関係には注目に値すると思う。

    さて本日の「ケイゾーコード」もお時間となりました。続きは千夜一夜かな・・・明日にお会い致しましょう。ありがとうございました。


    海岸清掃時に集めた綺麗なガラス。地元の有志の店ではお金としても取り扱います。素敵ですネ!

  • 生命エネルギーのインプット

    国民の祝日である海の日を含んだ三連休、如何お過ごしでしたか?

    ワタシですか?ハイその通りです。濃密な時空を超えたタイムトラベラーとして
    操体マンダラ 三浦寛 Live ONLY-ONE 46th Anniversary』に参加しましたヨ。

    呼応して朝早くから準備し、千駄ヶ谷でお会いした皆様、ありがとうございます。
    まさに、操体歴46年に至る、三浦寛先生の悠久の歴史を肌で感じることになりましたネ。
    このオンリーワンライブにおいての「想」、三浦先生は「操体」を、そして橋本敬三先生についてわかりやすく語ってくれたのです。

    開催にあたり、生身の橋本敬三先生を知らない私たちに「操体」を伝えていく為には、
    どうしたら自分自身、愉しんで「操体」語ることができるか、考えて準備を重ねたそうです。
    「60年先のことをやっているんだから、今理解されなくても仕方ない」と言われた先生の後ろ姿を感じました。
    残念ながら参加できずにいた皆様に朗報です。第二回「操体マンダラ」は来年も千駄ヶ谷での開催ですヨ。
    (その前に「秋季東京操体フォーラム」まで、またお会いしましょうネ)

    さて、本日もブログテーマに流れ、重なっていくように繋げてみます(語調をチェ〜ンジ)

    『生体の歪みを正す』の25頁には、「地域、季節の弁証法的考察(身土不二)を忘れてはならない」とある。
    確かに今の世の中、戦前戦中とは異なり物質的に豊かとなったので、季節を問わず野菜の種類も、一年中さほど変わらない。
    むしろ、いつでも何でもスーパーに行けば売っているので、子供に教えるには困ることも多い。
    一例を挙げれば、いわゆる”旬”がわかりにくい。
    今も旬でないと美味しくないのは、”果物”くらい。
    品種改良も進んで以前とは食感も味わいも変化していて、いわゆる昔の野菜を懐かしむ人生の先輩達も多い。
    特に果物に関しては需要の変化だろうか。時代の要求と嗜好の変化により、酸味が敬遠されるため、甘さの追求された果物が並ぶ。

    そう言えば雁屋哲氏の『美味しんぼ』では、昔食べて忘れられない”アップルパイ”の味わいを記憶を探し求める御仁がいた。
    リンゴの品種改良により、甘いだけで酸味のなくなっているリンゴでは、熱々のサックサクしたアップルパイの本来の味わい、
    甘さの中に効いたの鼻に抜ける酸味、”紅玉”という昔からあるリンゴでなければ表現しにくいという作品である。

    ワタシ出身地静岡市にある「久能山の石垣イチゴ」も、小さい頃なら”女峰”だったが、いまや酸っぱさを消し甘みを追究した”章姫””紅ほっぺ”となった。
    しかし「からだの要求」は覚えているのだ。酸味のうまみもあるんだヨと、それを「原始感覚」は忘れられないのだ。
    味覚も感覚であり、これを喩えるなら比較対称して「楽」を通しているのと似ているような気がする・・・。
    味わいたいという要求感覚、それはどうしても!という感覚に近いのならば、やはり”一極微”(いちごくみ)に行きつく。(イチゴだけに)
    ※”一極微”とは、からだの動きを八つに分類して、比較対称せず、一つ一つのうごきに快感覚をききわける「第二分析」での操体用語の一つ(元々は道元禅師の言葉)

    さて、もう一つ。ワタシがこの”地域の弁証的考察”で思いだしたのは、”瓜”である。
    勿論、”瓜”云々なんて橋本敬三先生は書いていないけれど、祖母から戦後の供給で多かったのは”南瓜”だったとも聞いた。
    この瓜、面白いことに西の瓜と書いてスイカ。南の瓜と書いてカボチャ。東の瓜と書いてトウガン(=冬瓜)らしい。
    調べてみたら実は、スイカとカボチャは西洋由来の野菜らしく、安土桃山時代から江戸時代にかけて広まったのである。
    そういえば私の祖母は瓜の煮物をつくるのが本当に上手だった。鍋に入れる出汁の風味を生かし、それを柔らかく包み込んで丸くする味わいだった。
    まるで飾りっ気もないけれど、シンプルで瓜の滋味を覚えている。そう!ワタシの目指している操体の臨床のように。

    ・・・さて、話がそれほど脱線しないうちに戻しておこう。
    さらに『生体の歪みを正す』の237頁9行目に「食物とその摂り方」とある。

    「(〜前略〜)聖書には神様は人間も動物と同様、初めは青草を食料として与えたと記してある。
    ノアの洪水の後になってからは、動物を 捕って食うことも許さざるを得なかったようである。
    仏教では殺生を禁じている。逃げるものを捕らえて食うということは、考えてみて気持ちのいいものではない、と人類は思う域にまで進化してきているものと思う。
    バイブルの青草というのは植物食の葉緑素のことだと思う。(〜後略〜)」

    青草、これは植物の葉緑素のこと。この働きは無縁ではいられないのである。
    それは、○○につながってくるから。この事に関しては明日のブログにて考察してみたい。

    それでは皆様、ごきげんよう!ありがとうございます。
    [}
    怖じずに生ける証を!間にあうから、自然は受け入れてくれる

  • (二日目)その根っこは上からは丸見えになっていても、地面からは見えないのさ

    「ギブ&テイク」ではなく「ギブ&ギブ」になっている。
    それが操体の学びなんだよ、と操体の師匠三浦寛先生に教えて頂く。

    ワタシ自身思うに、成せる者が成すように真理を分け合ってできているのであり、
    与えられたモノゴトを、噛み砕こうとする努力を忘れなければ、
    説明できないことも、いつの間にか説明できるようになり、
    観る人しか観えないことを、こちらでも”観得る”ようになっている。
    面白いことに「操体」を学んでいると、それを感じ識別するようになる。

    操体法の創始者橋本敬三先生は、
    「気持ちがいいか悪いかってのは、患者本人に訊いてみなきゃわからない」と語っている。
    師の意志を受け継いだ三浦寛先生は、「(橋本先生はそう言っていたけれど)患者本人に聞かなくてもわかる」と語る。

    橋本敬三先生は、患者の動きひとつにも分類すれば八方向に動かせるのだと気づいてから、
    その八つのうち二つの『楽』な動きを、比較対称で分類して分析(=運動分析)一番『楽』な方向へ動かして、
    一番感じの良いところで『撓め』をつくったのち、瞬間的にかつ急速的に力を抜かせる(『第一分析』の動診と操法)を、
    医師の臨床としていた。
    橋本敬三先生の著書にある「快適感覚」とは「楽」という感覚、比較対称ではないと気づいた三浦寛先生は、
    師の意志を受け継いだ臨床を目指した。そこでは「からだの要求」として具現化できなかった「快適感覚」に辿り着き、
    一つ一つの動きに「快適感覚」の有無をききわけ、ききわけた「快適感覚」も「からだの要求」の有無をききわけて、
    味わってみたい要求をもって操法とする「第2分析」を確立した。

    そもそも、一番感じの良いところとは何だろうか?
    簡単に言ってしまえば、生命にとって、最も負荷のかかった点でもあり、
    それを作ったのは患者本人の欲とも考えられる。ただ、「からだ」は欲で間違えることはない。
    つまり人間だから。行ってもいい自由のなか、元に帰ることを赦されている。
    それを感覚してみるといいのだ。

    なぜ負荷となってしまうのだろうか?
    それこそ「健康生活における四つの場」に関する学びを知る、その上で実際に体験してみることだ。
    それは(操体で)自己責任において、最小限度、最低限度これだけは知っておいたほうがいいルール、
    それを知らないから”歪み”となって、”からだ”はまさに、身をもって教えてくれる。
    「知らぬが仏」と知らんぷりを決め込む、これも患者本人。
    ルールとは自然法則であり、無知な人間(=患者)本人に伝えていく指導も臨床の場となる。

    操体法」は特に、簡単のようでも、しっかり学んだうえで、実践する科学体系でもある。
    だからこそ、橋本敬三先生は面白いことを放言する。
    時に内弟子にはこんなことも・・・。
    「相手の気持ちがいいってところがわかる、これがプロ(フェッショナル)だ」
    つまり、感覚を磨きなさい、経験を積む中でしかつかめない感覚なんだから、というのである。

    真理から成り立つ法則を、操体法として具現化できるかどうか。まさに立派な実践を伴った学問だ。
    自分にはできるはずがない。できる人は特別なんだから。「(よく聞いてから)・・・で、何が問題なの?」
    三浦寛先生は、本人の否定的な言葉、その所在を問い、その発現する意図を問う。
    それは「想念」であり、本人の言葉で舵を切って進むからである。

    操体臨床とは禅問答のようだが、本人とは関係せず、本人自身を診ている。そのような臨床を成り立たせる体系を持つ。
    それは、人間の構造を通して人間の動きを診断し、生き方の方向性を自然法則のふるいにかけているのだ。
    しかも最新の操体は・・・「からだの無意識」に問いかけて、「快」をききわけている診断体系である。
    つまり、温故知新、知新を具現化していく『操体』により「操体法」もである。そんな言い訳を吹き飛ばしてしまうのだ。

    「私くらいの経験があれば患者に聞かなくても、 気持のよいところも緊張がとれているかどうかも、
     指の感覚でわかります。これは経験を積むなかでしかつかめない感覚です」
    「いや〜操体は飽きることなんてないよ、一生かけて学べるんだ」と橋本敬三先生も語った。

    そこで妥協しない、さらに突き詰めていく価値はここに在る。
    ワタシの自身言葉なら・・・、
    知っていればなおさら、知らない人はそれなりに『第一分析』で『操体法』を通せる。
    知れば知るほど、唸るほどの納得を繰り返し通してみて『楽』と『快』の違いを理解し『第二分析』を通せる。
    玉手箱か、パンドラの箱か、開けておいてよかった、ウソか本当か試してみて救われた『第三分析』を通せるのだから。

    (どこかから聞こえてきた声)・・・ネェ、ちょっとあなた。
    この二日目のブログだけど、「ケイゾーコード」を読み解くことになっているのかしら?
    (ワタシ)エッ駄目出しですか?わかりました。それでは次回にご期待ください!
    ・・・あなたの書く文章ってOンOリ化してない?それが気になるのよ〜。
    ご指摘、承りました。感謝、ありがとうございますゥ(泣)

    ということで、明日こそ「ケイゾーコード」か?危うしタツノオトシゴマン!(明日もみてね)有難うございました。

    初めの一歩を踏み出せるかどうか、それはあなた次第さ!