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  • 知識と知識・・・2

    おはようございます。
    今日も マイ フェイバリット ケイゾー コード である橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子を記録した、人生読本「人間の設計」の中に収められている最後の方の文章の「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いから考えていきたいと思います。
    フェイバリットといえば、AKB48のヘビーローテーションという歌の中に「いつも聴いてたFavorite Song」という箇所がありますが、私には「いつも聴いてたヘバリこそ」という風に聴こえていました。繰り返し、繰り返し聴いた歌のテープが、ヘバッテいる状態のことを指しているのかと、勝手に思い違いをしていましたが、フェイバリット ソングだったんですね。
    やっぱり、聞く時は我を出さずに素直な気持ちで聞かないといけませんね。からだに感覚をききわけるということに関しては尚更ですよね。

     「原始感覚」= からだにとって「気持がいい」か「悪いか」の識別を感じわける能力。
    これを踏まえての知識とそうでない知識では、身につき方と実につき方に差が出てくるのは当然であり、自分の生き方、ひいては自然環境、社会環境、人為的環境、人類の未来にも影響を及ぼしてくると感じる。
    なぜなら今の繁栄は自然を自分達の欲望に向く様に操作し、どこかに負担を強いての繁栄だからだ。今の繁栄がそのまま続き、拡大すればするほど、自らの首を絞めていくことになる。この3次元の空間には限度があり時間も逆行しないからだ。これは外部の自然環境の問題だけを提起しているのではない。人間という存在は、自分自身も自然を抱えている。そのことを忘れてはならない。なぜなら、からだは人工物ではないからだ。
    本来、自然環境も自分自身のからだも欲望でどうにかなるものではないし、自然あっての人間だし、人間も自然の一部なのだ。それが証拠に自分の生も死も自分の思惑でコントロールできないではないか。自然環境に対しても科学技術で制圧しようとするきらいがあるが、天と地の間でしか生きられないのが人間なのだ。
    どんなに住空間を自分の都合の良いものに変えて拡大しようと、大地には限りがある。食料を確保する為の大地も必要だし、何より空気を生み出す森林も必要だ。天と地の間を満たす空気が空気でないものに変わったら即座に生きてゆけなくなる。木を切り倒すのは、機械を使えば一日でも、それまでに5年、十年、あるいは何千年もかけて生長してきているのだ。元に戻そうとすれば、それだけの時間はどうしても必要となる。その間に・・・。人間は、自然の時間、空間のかかわりからは、どうしても逃れられない。制圧なんて思いあがりも甚だしい。
    みんながわかっている当然の事だけに、それを言ったら「そんな小学生レベルの知識の話をするな」と怒られそうである。大人というのはやっかいな生き物だ。根本的にはわかってはいるが、その根本的なものを隅に追いやり、科学技術で何でも解決できると考えてしまうきらいがある。ひょっとしたら、そういう大人の知識の用い方が、様々な問題の元凶になっているのではないだろうか。真理を立てようにも根本的な土台を心の隅に追いやっていては、立つものも立たなくなってしまう。
    なぜ、知識の用い方を誤るのだろうか。資本主義がこれだけ浸透した為か、消費を拡大させ、お金を絶えず循環させていなければ、経済が成り立たないのが今の世の中である。当然の事はとりあえず置いておいて、常にもっともっとと欲を出さなければ、生きていけないという強迫観念に駆られるのかもしれない。
    しかし「生きる」を前面に押し出す前に「生かされている」という事を忘れてはならない。赤ん坊としてこの世に産まれる前から、生かされているのが人間であり、生かされるべき環境がなければ、どんなに本人が生きようとしても、生きられないのだ。生かされるべき環境には、自然法則が自在してある。自然法則に順応していれば、生かされるべき環境は生きる環境となり、背反するほど生きづらい環境となってくる。これは、今までは個人とそのまわりだけの「報い」の問題だけで済んでいた。しかし、地球がおかしくなれば、全体の問題となってくる。
    幸いにも「原始感覚」は誰にでも備わっている。自分の内にある自然は自然法則に背反すれば、「気持ち悪い」というサインをおくってくれる。「法則違反をすれば気持悪いんだから」とはよく言ったものだと思う。法違反は見つからなければ罰せられないが、法違反は自然によって常に見られている。そしてダイレクトにはね返っている。しかし、内・外の生かされしイノチの営みのバランスと環境の御蔭で、有り難く緩和される。そして「これ以上するなよ」と不快な感覚をサインとして送ってくれ、調和に向くよう諭してくれる。そして調和に向けば、今度は「気持いい」という感覚を送ってくれる。自然は「気持いい」ことをすれば良くなるように、元々は出来ているのだ。こんな有難い事はない。
    この自分の中にある自然にききわけをとおすという意識を土台とする「知識」であれば、外のおおきな自然とも調和していけるのではないだろうか。誰でも出来ることなのだ。しかし、欲望や不公平感などの感情が、この自分の中の自然をオブラートのように包んでしまっていては、わからなくなる。そうならない為にも「原始感覚」は常に磨いておく必要がある。磨く秘訣は、元々は有り難く出来ており、生かされて生きているという事を意識することだと思う。

    今日は最後に My Favorite な橋本先生の文章をご紹介します。
    「生体の歪みを正す」の本の中の「開闢以来の医学の誤解」と題した文章の中からです。

    今日、全世界マスコミに発表される人類の認識には誤解と欠陥がある。「病気」を治したいと思っている。そして、局所的な改善を高々と誇っている。われわれが病気と称しているのは生命現象のアンバランスの一症候にすぎない。人間の肉体的精神的苦痛を「病」と思い込んでいる。
     生命現象には苦痛はなくともよいように、自然は設計されているのだ。苦痛そのものはサインにすぎない。警戒警報なのである。生命現象の生活の営み方そのものに何らかのアヤマチがあることを知らせているだけのことであり、「病気」は大自然の責任ではなく、人間自身の生活に誤りのあることを教える恩恵的サインなのである。
     動物は各自、苦痛から逃れたい本能をあたえられている。動物―人間は快・不快の原始感覚に素直に順って、快の方向角度に動いて逃げきればよいのである。欲張って急いでは失敗する。ウソかホントか、まず試してみるよう、野次馬根性のない人には、この呈言は馬耳東風にすぎない。やってみてから検討批判を進めていただきたい。医者になった因果で、御同僚にお願い申し上げる次第。
     現代全科学は原始感覚そのものの「不思議」を解明しなければならない責任がある。アカデミーの中から御発言を期待したい。
                (「日本医事新報」第3053号・昭和57年10月30日)

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 知識と知識・・・1

    おはようございます。
    昨日はロンドンオリンピックの閉会式は夜にあるとばかり思っていて、そのようなことを書いてしまいましたが、今朝LIVEでやっていましたね。失礼いたしました。

    今日も蒸し暑いですね。
     こうやってブログの原稿を書いていても、額から汗が滲み出てきます。大したことがないような文章でも、書いている本人は結構必死だったりするのです。知恵熱が出ると言うと言葉の意味が違ってきてしまいますが、脳がエネルギーを消費し放熱も結構なものなのではと感じます。「バカバカしいと思うなよ。やってる本人おお真面目。見ているアナタはドッチラケ」懐かしいフレーズですが、知ってる人は知っている。知らない人は、お近くにいるナイスなミドルエイジの方に訊いてみてください。

     橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子が、人生読本「人間の設計」として「生体の歪みを正す」の本の中に収められています。
     その最後の方の文章に、このようなものがあります。

     だから「道だ道だ」って精神的なことばっかり言ったってね、法則を教えてくれなければ、その道の奥のことできないもんね。
     実践するのは本人がするしかないんだから。それの目印を何にするのかといったらね、気持ちがいいってことに逃げていきなさいっていうんだ。その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達してるから。説明に巧いこと言ってると思うんだな。
     アダムとイブが知恵の木の実を食べて天国から追い出されたでしょう。だから知恵が発達して勘が鈍ってきた。野生の動物には獣医はいない。みんな勘でいってるんですよね。人間だけは知恵があるから、今度は勘を意識しなさいっていうの。獣医は動物園と家畜にだけ必要なんだ。
     だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね。だから基本は気持のいいことをね、勘を鋭くしなくっちゃ。気持がいいってことになれば自然と安心するしね、愉快になるし、結局最後には有難いって思わなきゃ。有難いって思わないことに気がつくと懺悔したくなるんだ。
     
     この中で「知識」という言葉が二度出てくる。「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」という部分と、「知恵が発達して勘が鈍ってきた」という話の後に、「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」という部分だ。同じ「知識」という言葉でも、はじめの「知識」と後の「知識」では指しているものが違うように感じる。
     はじめの「知識」と後の「知識」ではどう違うのだろうか。読む人によって、感じ方は違うと言ってしまえばそれまでだが、ここは橋本先生がどのように識別した上で語っていたのか、色々と私なりに考察してみたい。これも「ケイゾー・コード」ですよね。
     キーワードは文中に度々出てくる「勘」「気持がいいってこと」「有難い」それと「法則」。
    「勘」は何を指しているのかといえば、原始感覚だと思う。原始感覚とは、からだにとって「気持がいい」か「悪いか」の識別を感じわける能力のことで、全てのイノチに元々備わっている能力の事。つまり、はじめの「今は勘より知識が発達しているから」の「知識」とは、からだの要求はどうなのか、イノチの宿るからだは、これで「気持がいい」のか「悪いのか」というききわけをすっ飛ばしての「知識」なのだと思う。
    「今は・・・」と限定する言葉を入れているという事は、昔は違っていたのだと感じる。昔の暮らしとか生活というものは、動に直結したものだったのではないかと思われる。生命活動といえば、無視できないのが、自己最小限の責任生活必須条件である「息、食、動、想」だ。昔の人は生きていく上で、上手くこの「息、食、動、想」の「自然法則」を取り入れ、廻りの環境とも調和しながら生活していたのだと思う。取りいれ方は、実践の中でからだにとって「気持がいい」のか「悪いのか」をききわけ、気持のいい方法を取り入れていた。
    例えば、重いものを持ち上げる時や急激な動作の時は息を吸いながら行ってはならないとか。食についても身土不二という言葉は昔からある。想については、日本には昔から八百万の神々の思想と信仰がある。これも、心がからだを支配しているという発想からでは生じない。からだの御蔭で生きていられるという発想から生じたのだと思う。そして、からだが生きていられるということは、様々な環境の御蔭という発想にもつながる。だから木にも岩にも台所にも神を見出せ、自分の使う仕事道具にも神は宿ってくる。根底にあるのは、からだにききわけた「気持がいい」という感覚だ。橋本先生もラジオ放送3日目で「身体のほうが気持よければ、そんなにガメツク人をいじめる気にはならないでしょう」と語っているが、逆を言えばイノチを宿す、からだからの「気持よさ」がききわけられるから、優しくなれるという事だ。からだをとおして、自分の廻りの様々なものの、母心というものが身にしみて解るのかもしれない。悦びあり、感動あり、「お蔭様で」という慎みあり、そして「有難い」という感謝につうじる。ここで誤解してほしくないのは「身体のほうがきもちよければ」とは、からだが良いか悪いかの問題なのではなく、からだにききわけているのか、からだの「気持がいい」という感覚を味わったことがあるかの問題という事だ。
     少々例えが長くなってしまったが、昔の暮らしや生活というのは、イノチの営みでもある「息、食、動、想」の「自然法則」を上手く取り入れたものだったのだと感じる。上手く取り入れるには「勘」を養うという事。「勘」を養うには元々備わる原始感覚を磨くという事。様々な環境の中で、原始感覚を磨いてゆく、または磨かれてゆく過程において、その経験が「知識」となっていったのだと思う。その「知識」が少しずつ時間を経ながら、空間的に拡がり、定着していったのが「生活の知恵」というものだったのではないだろうか。
    いきなり良い知恵は出てこないのだ。段々がある。聖なる知識の後ろ盾がなければ、知恵の木の実は禁断の果実ということであり、それをアダムとイブはいきなり食べたものだから、神様の怒りをかい、天国を追われたのかもしれない。
     はじめの「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と後の「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いを、電気もガスもない昔の生活はこうだったのではという想定をもとに考察してみたが、昔の生活様式が善で今の生活様式が悪としているのではない。どちらも良い面も至らない面もあると思う。しかし、これから先の事を想えば、今の便利さを当たり前と思ってはいけない。今の便利さはどこかに、しわ寄せを強いた便利さだからだ。そのしわ寄せは、どこに出ているかというと、地球環境、他の誰か、他の生きもの、気がつかないだけで自分自身にも出ている。
    スイッチひとつでほとんどの事が可能という時代に誕生し、そこからスタートしていれば解り難いかもしれない。しかしスタート位置を前の段階に置いて意識してみても良いのではないだろうか。温故知新という言葉もあるが、昔に逆行するのではなく、「知識」のスタート位置を意識して変えてみて、改めて認識し直すという事も必要だと思う。そうすれば、もっと今の生き方が充実したものとなるのではないだろうか。「有難い」という気持ちにもつうじてきますよね。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 「体を操る」と「操る体」。

    こんにちは。
    ロンドンオリンピックも今日までですね。
    最終日の競技や閉会式は、家に帰ってからニュースで見ることにしますが、閉会式などは、さぞや派手で豪華な演出がされているのでしょうね。世界中の注目を集め、しかも4年に一度のことですから、盛り上がりますよね。

    盛り上がりながら選手の結果に一喜一憂し、同じ国の人間がメダルを取れば嬉しくなってしまう。特に私みたいにテレビのニュースで見る人間は、ハイライトの良いところばかりを見て、はしゃいでいる。しかし見てないところでも色々なドラマがある。
     ちょうど一週間前の日曜日の夜に、テレビの生中継を2時間ほど見ていたが、体操の女子跳馬で着地に失敗し、膝か脚のどこかを痛めてしまった選手がいた。その選手は果敢にも2回目の演技に入り、力強く助走していったが、踏み切り板手前で止まってしまった。なんとか期待に応えたい気持ちだったと思うが、からだがついていかない感じだった。その後どうなったか気になり、調べてみても、メダルを取った選手を称える記事ばかりで、この選手のことは名前と0点という結果だけが書かれていた。
     この場面のことを思い返すとギクッとする。もちろん怪我をした選手のことも気にかかるが、何か違う意味でもギクッとする。そして、橋本敬三先生の次のような言葉が浮かんでくる。
    今のスポーツっていうのはレコード(記録)をあげるってことでしょう。そっちのほうにいってしまっているから、だから軽業師みたいになっているんです。この間、僕は本を出す人に序文を書いてくれっていわれたから、スポーツをみんなやっているけれども、あれは見世物だっていうの。ところがね、見てるほうってのは残酷ですよ。選手が怪我しようと何しようと、巧いことやれば拍手喝采だけども、選手が怪我したって見てるほうは平気だから。やってるほうは一生懸命にやるんだけども、それは何にも健康には関係ないと思う。
    これは橋本先生が、NHKラジオ第1放送に出演した時に語っていた内容だが、「生体の歪みを正す」の本の中にも収められている。
    特に「やってるほうは一生懸命にやるんだけども、それは何にも健康には関係ないと思う」という言葉は、ある意味ショッキングだと思う。しかし、実際にスポーツを一生懸命やっている人ほど、持病や不快症状に悩まされていることが多い。なぜなのか。先ほどの跳馬の場面のように、常に危険と隣りあわせで怪我もつきもの、ということもあるだろう。しかし、もっと根本的な部分で、健康にはつながらない理由もある。
    体を操ると書いて体操と読む。この場合、主体は自分の気持ちということになる。つまり自分の気持ちで体を操る。スポーツは全般的にこのような考え方だと思われる。だから応援も「頑張れ、頑張れ」と声援を送る。しかし、操られる「からだ」の方はどうなのだろうか。からだの使い方、動かし方を知っている人だったら、そんなに無理は生じないと思うが、それを知らずに、自分の「記録をあげたい」「出来ないことをやってやる」といった気持ちだけで、からだを操っていれば必然的に無理が生じてしまう。無理が生じれば、からだがついていけなくなり、気持ちと対立してしまう。そこから更に無理を重ねれば怪我もしやすくなる。これでは健康につながるはずもない。
    自分の動きとからだの動きは違うということだ。からだは自然法則に則った動きを元としている。何故なら、からだは元々自然だからだ。自分が自然から遠のくほど、からだは歪体化し、動き(連動)にも不自然さが生じてくる。だから、人間社会で生活している以上、100点満点の自然体をキープしている人などいないと思われる。どんな人でも必ず歪みはあるということだが、歪みを補い、間に合った状態にしてくれているのも、からだなのだ。だから、みんな生かされながら生きていられる。こういったところに意識を向ける必要があるのではないだろうか。「やってやる、やってやる」で上手くいっているうちは良いが、それがキープできるとは思えない。その反動もあるだろう。何よりそこで人生が終わる訳でもないのだから。人生はトーナメントではないのだ。生きている限り、からだと上手く付き合っていくべきだと思う。
    操る体と書いて操体と読む。こちらの主体は、あくまで「からだ」だ。からだの要求をききわけながら操るのだ。何をききわけるのか。元々、誰にでも備わっている原始感覚で快、不快をききわける。不快であれば、その動きを中止する事。快であれば、その快適感覚でからだを操るのだ。そうやってバランスをとっていく。しかし、自然から遠のいた自分の動きで、からだにききわけても感覚はわかりづらい。からだは元々自然なのだから、からだの求めている自然法則に則った使い方、動かし方を基準に動かして、感覚をききわけるのだ。それが自分と自身の調和につながり、その経験を元にスポーツに応用していけば良いと思う。つまり、バランス(肉体的な面だけではない)を調整してから鍛錬をするということだ。そうすればスポーツのあり方は、また違ったものとなり、健康と結びつくものとなってくるのではないだろうか。

    一週間どうぞ宜しくお願い致します。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 先日、マウスの皮膚を温めると紫外線によるシワが防げることを発見とのニュースがありました。
    シワの最大の原因は紫外線で、コラーゲンの質を劣化させたり、コラーゲンの生産を減らしたり、コラーゲンを分解する酵素を増やしたりすることでシワを起こします。
    熱ショックタンパクのHPS70がコラーゲンを分解する酵素の働きを抑えるとのこと。
    37℃のお湯と42℃のお湯につけた皮膚に紫外線を当て続けた結果、42℃の方はシワができにくいことがわかったそうです。
    まだマウスでの実験段階なので、人の皮膚だとどうなのかはわかりませんが、お風呂に入るくらいの温度ですよね。
    皮膚の研究は比較的新しい分野なので、続報が楽しみですね。

  • 今日8月10日は大久保利通の誕生した日です。
    幕末から明治初期にかけて活躍した鹿児島の偉人ですが、地元での人気はいまいちなのか、鹿児島市内にある銅像も心なしかあまり目立たない場所に建てられています。
    結果的に西南戦争で西郷と対立し、西郷を死に追いやることになったのが原因だと言われています。
    大久保は西郷の生家の近い加治屋町で生まれ、西郷とは兄弟のように育ちました。
    島津久光の時代に頭角を表し、倒幕へ進むことになります。
    このあたりは散々ドラマなどでも取り上げられているので有名ですが、個人的には大河ドラマの「翔ぶがごとく」などおすすめです。DVDで久々にみると熱かったです。
    政治家としては冷徹と言われるほどでしたが、版籍奉還・廃藩置県・東京遷都、新政府への反抗勢力の一掃などを強い意志で推し進め、日本の近代化の礎を築きました。
    岩倉使節団として直接欧米に赴き、日本との差を見て来た大久保にとって、征韓論を唱える西郷と相容れなくなるのは自然な流れであったのでしょう。
    西南戦争後の明治11年、「国家の財産を私物化した奸賊であるために成敗した」として、不満士族に暗殺されます。
    死後の財産整理でわかったのは、私物化どころか、予算のつかなかった公共事業に私財を投じ多額の借金しかなかったとのこと。
    襲撃された時、生前の西郷から送られた手紙を持っていたとの証言には切なくなりますね。

    大久保の銅像は鹿児島中央駅から天文館へ向かう甲突川沿いにあります。

  • この業界に入ってから、人間観察が日課になっています。
    あまりジロジロと見るわけにはいきませんが、前を歩いている人だとか、電車の中の人だとか、カフェの窓際でなんとなく眺めてたりしています。
    人様のからだをみさせていただく仕事柄なので、目を養うためというよりは、気になるので目がいってしまうといったところではありますが。
    操体でも触診や動診と同時に視診も重要で、そこから操法を組み立てたりするので、観察力は必要になってきます。

    最近のお気に入りです。
    商業デザインの仕事をしている作者の猫たちの観察日記です。

    そういえばうちのマンションも引っ越した当時はペット共住型マンションとして売り出していたので、住人が散歩にいく姿を見かけます。
    ペット可の所が少なく、何件も不動産屋を回って決めたのを思い出しました。
    あれから数年、今のところ予定はないですが、こういう生活もいいですね。

  • 好きな言葉の一つに、初心忘るべからずがあります。
    これはよく、初志貫徹と混同されて使われたりしていますが、もともとは世阿弥風姿花伝に出てくる言葉です。

    初心忘るべからず。時々の初心忘るべからず。老後の初心忘るべからず

    風姿花伝では年代事に学びの段階が示されていますが、初心という言葉が出てくるのは確か20代前半頃。
    未熟ではあるが、ある程度形になってくる頃。
    そして、初心はこの後も出てきます。
    その時々の初心を忘れなければ、現在の自分の立ち位置がわかります。
    前に進むために、初心を忘れない事。
    歳とともに、その時々に積み重ねていくものが時々の初心。
    「初心に戻って」とか、「初心に返って」とかではなく、むしろ初心に戻らないために忘れないようにということだと思います。

  • 正坐のメリットとして、以下のようなことがあるようです。

    1.集中力が高まり、精神が充実する。

    2.眠気が覚め、認知症を防ぐ。

    3.心臓、肺、横隔膜など内臓の負担が軽くなる。

    4.消化力が高まる。

    5.肥満やメタボリック症候群を防ぐ

    6.膝の周辺の靭帯や筋肉が強く、かつ柔らかくなる。

    7.股関節、膝関節、足関節の3つの関節の可動域が広がる。

    8.肛門括約筋をはじめ、骨盤と内臓を支える筋肉が鍛えられる。

    9.側副血行が盛んになって、下肢の冷えが少なくなる。

    10.姿勢が美しくなり、発声にもよい。
    (日本正座協会)

    あとは、自身の歪みが自覚しやすい点が大きいかなと思います。
    正坐がきつい場合、からだに歪みがあることが多いです。
    たいていは足を重ねて坐っているのを見かけます。
    これはこれでバランスを取っているのですね。
    操体での正坐は「両足底の間にお尻がすっぽり入るように」、足を重ねず坐ります。
    続けていると、外見上は変化がなくても、自分自身の日々の感覚の変化を感じることができるようになります。
    今日はちょっとくずれてきてるなという日があったり、逆にすっきりしている日があったり、毎日微妙に違います。
    そのへんも気をつけてみるとなかなか楽しいです。

  • 先日、みた小学生の男の子。
    サッカーをやっていて、しばらく前に転んで膝をうったとのこと。
    特に痛みを訴えてはいなかったが、あるとき正坐ができなくなっていることに親御さんが気付き、依頼がきた。
    しばらく気付かなかったということは日常生活には支障がない程度ではあるとは思うが。
    操法をいくつかやった後、膝は曲がるようになり、その日は終えた。
    気になったのは足首のかたさ。
    これだけ足首に柔軟性がないとからだを痛めやすいのも当然である。

    最近は正坐をする機会も減ってきているし、苦手な人も多いようである。
    日本正座協会なるものをみつけた。

    http://www.seizajsa.com/

    操体では、操者にとっては基本姿勢である。
    ひかがみの触診は正坐位で行うし、正坐で行う操法も多い。
    なにげなく坐っているように見えても、なかなか奥が深いのである。

  • こんばんは。今週担当の辻です。よろしくお願いします。
    今年も暑い日が続いていますね。
    連日クーラー無しでは寝られないようになり、夏を実感しています。
    南国育ちとは言え、東京のこの暑さはなかなか大変で、周りの人達の反応を見る限り、でも暑さには強い方なのかもと思いつつ過ごしています。

    夏にやってみたい事として、うちでは浴衣を着たいという願望があるのですが、今のところは実現に至らずです。
    その代わり、普段履きを下駄にしてみました。
    毎年この時期は草履タイプ?のサンダルですが、店先で下駄を見つけ、衝動買いです。
    履いてみると、下駄自体の重さもあって、母趾球をより生かした歩き方ができるように感じます。
    なにより、安定感が違う。
    手は小指、足は親趾ということが自然に実感できますね。
    仕事先でも好評なのでしばらく続けてみようと思っています。
    おすすめです。