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  • 〜何事も理が大事〜

    二ヶ月程前から太極拳を習い始めました。

    以前行われた実行委員勉強会のときに立位で中心軸をつくり、構えをとる作法の練習中に

    畠山先生が「操体をやっている人は、太極拳を学んでみると良い」とおっしゃったことがきっかけでした。

    操体は武術ではありませんが、一つ一つの作法が武術と共通するところもあります。

    もともと武術や格闘技は好きでしたし(武闘派ではありません)、

    良いと言われたことは素直に「そうか」と思える性質なのでさっそく習い始めました。

    太極拳というとお年寄りが公園や体育館でゆっくりと動いているのをイメージされる方が多いと思います。

    あの套路と呼ばれる、ゆったりとした型のような動きは傍から見ると健康体操のようにみえるのですが

    実際は相手を想定した、制圧可能な術としての動きなのです。

    対人練習を行うと術としての凄さを実感することができます。

    そして術として効果を発揮させるためには好き勝手に動くのではなく、理にかなって動くことが重要です。

    操体法では、操者は動診を行う際、介助、補助、言葉の誘導を使い、被検者のからだの動きを導いていきます。

    それらは作法を守って行うことで動きの安定感と充実感、全身形態の連動を引き出すことができます。

    被検者のからだが気持ちよさをききわけられた場合はそのまま操法へと移行しますが、そこまでつなげるためには

    操者の手順一つ一つが理にかなっている必要があるのです。

    どちらも自我をコントロールして、いかに理に従うかが上達する鍵になると思います。

    今回、操体との出会いから、操体を通して日頃学んでいることを書いてみました。今後、さらに操体

    「語れる」よう精進していきます。1週間ありがとうございます。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 〜より高い基準を求めて〜

    臨床業界も昨今はサービスやホスピタリティが重視され、接遇研修をおこなったり自己啓発セミナー

    参加したりと、他との差別化を図ることが課題になっているようです。

    一昔前には治療の腕だけで飯を食べていく職人タイプの臨床家も多くいましたが、いまは様々なスタイルの

    臨床家が存在しています。

    先日、普段はあまりTVを観ない私ですが、何気なくTVをつけたところ「吉田カバン」を取り上げた番組が放送

    されていました。

    吉田カバンといえばメインブランドにPORTERがありますが、昔から私の周りでも使用している友人がいました

    し、今でも街を歩けば手にしている人たちを数多く見かけます。かくある私も学生時代は愛用していました。

    私はその番組で初めて知ったのですが、吉田カバンは海外に工場を持たず、国内のみで生産し、しかも自社工

    場をもっていないとのことでした。

    一つ一つの行程を担当する職人に依頼し、すべて手作業で製作しており、

    いつのまにか「吉田基準」と呼ばれるほどの職人技で他社の製品と一線を画すようになりました。

    番組に出ていた職人の方々は職人として職人の仕事ができることに誇りをもっていました。

    手に職をつけるという点においては我々臨床家も職人としての一面を持っています。

    この番組を観る数日前に三浦先生から職人の世界を引き合いに、プロフェッショナルとして操体を学び、自分の

    ものにしていく覚悟の話しをしていただきました。

    操体を学んでいると、タイミングを計ったように今の自分に必要な情報が入ってきます。

    「三浦基準」と呼ばれるほどに日々研鑽していきたいと思います。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 〜素直にからだにききわける〜

    最近TVでも健康関連の番組が増え、本屋に行けば「〜が体に良い」というような健康本が溢れています。

    この時期ですと「上手な水分補給の仕方」がテーマにあがりやすいでしょうか。

    番組ごと、本ごとにそれぞれの基準があり、共通項もあれば独自のものもあります。

    おおむね、「水分はしっかり摂りましょう」からは外れてはいないのですが。

    私は中学時代、バスケット部で根性、根性と叩き込まれていましたので基本的に練習中の水分補給はなし、

    夏になっても例外はなく、頭から湯気を出しながらサウナのような体育館を監督の声がかかるまで延々と走って

    (走らされて?)いました。
    当時はわりと当たり前の光景だったようです(いまではちょっとした問題になってしまうかも)。

    口はもちろんカラカラになりましたが、まわりを見てもぶっ倒れる人間はいませんでした。

    この経験を踏まえると、必ずしも一般的な基準がすべてのからだに当てはまるというのではないということです。

    からだは個性のかたまりです。ある人には効果的だったやり方も、ある人には効果が出にくかったりする。それは

    当然の結果です。

    では何を基準にすればよいのでしょうか?

    それは原始感覚です。

    原始感覚とは「快・不快」をききわける能力。わかりやすくいえば「これをすると気持ち良いなあ」、「あれをしたら

    なんだか調子がいいぞ」、「これは気持ち悪い」、「これはやらないほうがいいぞ」と判断できる能力です。

    もともと私たちのからだには原始感覚が備わっています。しかし、世の中に溢れている基準を「頭」で判断するこ

    とが多くなった結果、原始感覚が鈍くなっています。原始感覚はあくまで「からだ」でききわけます。

    からだで納得できたことは、まさに「腑に落ちた」ことなのです。

    せっかくからだに備わった素晴らしい機能を使わないのはもったいない。

    「頭」よりも「からだ」のほうがなんでも知っているのですから。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 〜「生きる」のではなく「生かされている」〜

    先日、妻の実家がある岩手県久慈市に行ってきました。

    家のすぐそばには三陸海岸が一望できる小高い山があり、そこではカモシカや雉といった野生の

    動物が生息し、その姿をみかけることもあります。

    早朝や夕方に登っては、景色を眺めたり、深呼吸をしたり、からだを動かしたり、と思う存分自然を

    味わってきました。

    自然の中に身をおいていると、自然という大きな存在に「生かされているんだな」という実感が湧いてきます。

    そんなときは、「ありがたい」という言葉が自然と口から出てきます。

    「生かされているんだな」という気づきは感謝することにつながります。

    「ありがたい」という言葉がスッと出るようになる。

    「ありがたい」はいのちに響く波動を持っています。

    言葉は選択しだいで言霊になります。

    大事なことは、言わされるのではなく自らが納得をして言葉を発すること。

    橋本先生は「言葉は運命のハンドル」とおっしゃり、三浦先生は言葉を統制することの重要性を日頃から説か

    れています。

    操体には日々を豊かにするエッセンスが詰まっています。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 〜学び方を学ぶ〜

    操体を学び始めてから一年が経ちました。

    私は三浦先生から個人レッスンというかたちで操体を学んでいますが、最初は操体の歴史や想念の話から

    レッスンはスタートしました。

    操体法」は臨床テクニックのみと思われがちですが、「操体法」はあくまで橋本先生が実際の臨床で行っていた

    ものであり、それを支える橋本先生の哲学(死生観、生命観、救いと報い、自然法則など)を「操体」として

    我々は両者を区別し、学んでいます。

    レッスンはまず、この「操体」を学ぶところからスタートします。

    一回のレッスンはだいたい4時間ぐらいですので、入ってくる情報量はかなりの量です。しかも、聞きなれない言

    葉や今まで意識したことのない話が中心なので、よくよく噛まないと消化不良をおこしてしまいます。

    情報を与えられるだけでは「記憶する」に留まってしまいますが、自分の「身に修める」ということになると

    ドロドロになるまで情報を咀嚼する必要があります。

    この「噛む」という行為は、何かを学ぶうえでとても大事な行為です。

    実際の食事を思い浮かべてみても、よく噛まずに飲み込んでしまえば、食べ物はきちんと分解されず、からだに

    負担をかけるばかりか消化吸収もままならなくなってしまいます。そこには「食べた」という事実しか残りません。

    「学び」においても同じようなことがいえます。

    先生がおっしゃったことを、まずはそのまま受け入れ、自分なりに理解し、実践してみて納得する。

    そこでまたあらたに問いが生まれたら、納得するまで反芻すればいいのです。

    ここまでしっかり咀嚼できて、自分の血肉や骨となり自分自身を形成することができます。

    操体の門をくぐると「学び方」まで学ぶことができます。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 〜操体との出会い その2〜

    治療院に入り、三浦先生から「何も聞かないから、終わった感じを聞かせてください」と一言。

    出していただいたお茶をすすりながら目の前の先生を見ていると、すべてを見抜かれているような、そ

    んな気分にさせられました。

    問診されない治療なんて初めてでしたから、この時点でだいぶ操体(三浦先生?)ワールドに引き込ま

    れていたと思います。

    治療中にせきをきったように感情があふれてくる場合があることは知ってはいましたが、まさか自分が

    そういう状態になるとは思いませんでした。

    涙は出るし、笑いも止まりません。おまけにからだは無意識に動くし、それでいてとても心地よい…

    その間、先生がされていたことは軽く皮膚を触れるのみ。

    「先生すごいですね」に対して、「オレがすごいんじゃない、からだがすごいんだ」とおっしゃっていたこと

    が印象に残っています。

    操体の「そ」の字も知らなかった私の操体初体験はまさに衝撃でした。

    それもそのはず、いきなりトップどころの治療を受けてしまったのですから。

    すっかり魅了されてしまい、私も操体を学んでみたいと操体の門を叩くことになりました。

    そのときに先生に「学ぶなら腹を括って楽しくな」とおっしゃっていただいたことは今でも自分の根っこに

    なっています。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 〜操体との出会い その1〜

    今日から1週間担当します瀧澤です。宜しくお願いします。

    今回、初登場になりますので、私と操体(三浦先生)との出会いから書いていこうと思います。

    私がいかにして操体(三浦先生)と巡り会うことができたのか?

    それは昨年の春。

    当時、私は鍼灸マッサージの専門学校を卒業して5年が経ち、どうすれば患者さんの症状を取り除くこ

    とが出来るだろうかと模索していました。それまでにも色々な先生方に治療法を教えていただき、実践

    してきましたが、もっと他にないだろうかと、むくむくと学びたい欲求が膨らんでいたのです。

    後から思えばこれもご縁だったのでしょうが、専門学校の特別授業で操体法を実践している方の講義

    を受ける機会がありました。その方が実技で行っていたのは対になる動きを比較対照して辛いほうか

    ら楽なほうに動かして瞬間急速脱力させ、2〜3回くり返す、という第一分析(第一分析とは三浦先生が

    創案した名称です)でしたが、「操体法」というキーワードはずっと頭の片隅に残っていました。

    それから5年、神保町のたにぐち書店で臨床関連の本を物色しているときに、なぜか魅かれて手に取

    ったのが三浦先生の『快からのメッセージ』でした。「感覚をききわける」、「快に従う」、「からだにききわ

    ける」、今まで耳にしたことのないキーワードに「???」でしたが「専門学校で見た操体法とは違うらし

    い、一度体験してみないことには」と興味津々。

    快からのメッセージ―哲学する操体

    快からのメッセージ―哲学する操体

    かくして三浦先生にからだを診ていただくことになったのです。それはどんな体験だったかというと…

    明日に続きます。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 快適感覚(最終日)

    昨日の続き
    意識的静止状態での自力快適感覚を得るには日本式座位がそれを充足させてくれることになると、昨日も述べた。日本式座位では座位が高く、かつ脚を下に折り重ねるために下腹の前方が空いているから、腰をぐっと前に押し出すのに便りがよいものだ。日本式座位の組み方であるが、慣れないうちは、まず正座になり、そこから両手で両踵を左右から圧するようにして、踵を寄せて閉じ、その踵の上に臀部をのせる。そして腰を引きつけ背骨を立て、顎を引き寄せ、直立のイメージをもって座る、いわば踵を合わせた正座である。
    一般的な正座は、踵を開いたままその間に臀部を乗せるので、足裏部に臀部が落ちてしまい、上体が揺れやすく、膝が開いて背中が丸くなりがちになり、不安定な座りとなる。このような一般的な正座を正と信じてきた者は、認識を改めなければならない。それに比べて日本式座位であれば、踵を閉じることによって踵で臀部を押し上げる形になり、座高が高くなって腰が入りやすく、背筋が伸びやすく、より安定する。ただし、腰砕けの座り方では膝先が浮くので日本式座位といえども、やはり脚を胴身から遊離させて、脚の存在を偶然化することが必要である。腰砕けの座り方では、全身の重心が踵の上に落ちて、体躯の重力が狭い踵部分のみに掛かってしまうから、脚の血行は阻害されて、足がしびれるのである。
    日本式座位は、臀部から膝先までの面積において床に接するのは、上半身を担う場所を広くとってきわめて安定させる構えであり、その場所の中央に重心が落ちるように腰を前にぐっと押し出して座らなければならない。すなわち、座の姿勢の基部であるところの両膝と臀部との三点をつなぐ三角形の中心に垂直線が落ちるように座り、膝頭と臀部とを底辺とし、頭を頂点とする二等辺三角形を作って、からだの重心を座面の中央に至らしめるのである。このように腰を前方に押し出す毅然たる座り方においては、上半身の重みは脚全体に加えられ、かつ、それがために脚部の動脈が圧迫されることもなく、足がしびれることもないのである。
    注意すべき点は、上半身を前に傾けるのではないということだ。上半身は垂直に立ったまま、腰のみをぐっと前方に押し出し、臀部を後方に突き出すようにする。このように座れば、脚は全的に重用されるから、自らを空しくして体重の重さを担うので、それ自身は軽々となっている。脚を折り重ねると言うのは、身体をよく安定させて担うために活用するのであって、日本式座位においては、脚が必然的な役目を持っているのである。
    この日本式座位の成立は、古くはハタ・ヨーガの座法であるヴァジュラ・アーサナ(金剛座)の中にその起源を見いだすことができるが、我が国においては武士道の発達と密接な関係があり、剣豪 宮本武蔵もこの座法を心得ていたという。折り目正しき脚の重ね方、即座にいかなる動にも転じる隙のない構え、これはどうしても武士の座法としか思えない。
    また静と美の茶道や華道でもこの日本式座位を作法としているのは、姿勢がよく、特にこの姿勢で着物を着た女性は物静かで美しく魅力的であるからだ。御見合いの場合など着物を着た時は、意識してこの姿勢をとっていただきたい、50%は美アップすることを請け負う。これに比較すれば、座禅の結跏趺坐や半跏趺坐は 「動」 と 「反動」 との解消に境地は得ているが、常に新たなる動を生む構えをもっていない。結跏趺坐や半跏趺坐の姿勢は往相の一面に偏して、物体としての体躯を常にいま動に転じようとする還相においても欠けるところがある。
    日本式座位は筋肉の働きの上から見ても、人間の姿勢の基本形と看做されるべきである。本来、筋肉の働きというのは、ただ縮むだけの能力に止まっており、一つの関節について二つの筋肉が互いに反対の位置を占め、交互に縮むために、関節の屈伸が行われる。そして下肢については、関節を伸ばす方の筋肉は、関節を屈する方の筋肉よりも常に強い。座るときは、その強い方の筋肉は縮むことなく、むしろ強く引き伸ばされている。だから直立の姿勢においては、下肢を伸ばしたままに持ちこたえているのであるから、ほとんどすべての筋肉が縮みきりになっている。ゆえに直立の姿勢は疲労を感ずることが甚だしいのである。
    それに反して、座るときには、伸筋の適当な弛み加減で関節が自ずと屈曲するのであるから、別に屈筋の収縮を要しない上に、座っている間たえず上体の体重が脚部にかかっているので、漬物の重石が利くように、鬱血を起こさないのである。欧米式生活習慣を取り入れた人たちは、座ることが血行を阻害すると言っているが、それは認識の錯誤であって、正しい座位はかえって血行を促すものである。日本式座位の効果としては、足首、膝関節、足の甲、脚の筋肉を柔軟にし、下肢の静脈瘤と脚の疲労に効き、また精神的には気もちを落ち着かせる効能があり、これが快感覚につながっていくことになる。
    日本式座位は論理的に見て、人間の姿勢の完成である。人間の本然の相がまさしく日本人の座相に示されているのである。論理的に真なるものは必ず 「美」 であり、 「健」 であり、 「快」 であり、人間の原本的体験である。このように正しく身を持つことのみによって正しく呼吸することができるようになり、これは契機たる物体、すなわち肉体を直接に生かすことになる。ひいては快適な感覚として具現することが可能となるのである。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 快適感覚(六日目)

    昨日の続き
    快適な感覚は意識的な身体環境内においてのみ感じるものであるから、当然にして睡眠中のような無意識的なレベレでは起こりえないのがふつうである。それでは意識の中にあって静止した状態で 「自力で快適感覚」 を得ることは果たして可能なのであろうか? それを確かめるのに、人間の 「姿勢」 と 「感覚」 の関係について考察を加えるものである。
    操体の動診において四肢末端の動きが全身に連動することで快適感覚を味わうことができるとするならば、身体をもつ者は自己の全身を必然的存在として、渾然たる一体者でなくてはならない。このようにからだというのは全一的な存在であることから、身体をもつ者は自己の体躯の姿勢においても、自己内完結の相を示さなくてはいけない。つまり、からだを持っている我々は自分の外の他者に依存することがないだけでなく、自分の内に他者を抱くことのないような姿勢をとるべきである。
    他者は自分にとって偶然的存在であり、椅子座位のように自己の存在が椅子という物体的他者を媒介としなければならないから、自身は個別的存在の相を脱することができない。現在における我が国の生活様式が欧米化したものの、椅子座位に何となく落ち着かなさを感じ、依然として畳の上に座る生活様式を捨てきれないのは、分一的、個別的存在に堕することを望まない日本人の風格の、自然の発露であろう。椅子座位や胡座位にあっては、脚が胴身から遊離して、その存在が偶然的となり全身が一体とはならない。臥位は眠るための姿勢であるから、自主的な身体姿勢を保ち、おのずから帰入する往相であり、本質は 「静」 である。また立位は独立の箇として立つ環相であって、重心の座をいちじるしく高く保ち、 「動」 への構えをもっている。 「不動」 の姿勢といえども動の起点または途中の意味なしに、立位は考えられない、まさに立位の本質は 「動」 である。
    これに反して、日本式の座位は 「静」 であるとともに常に 「動」 の起点であり往相と環相とを併せたものを含んでいる。日本式の座位はまさしく人間の姿勢の基本形として見られるべきである。日本式の座位は 「人間」 の本質を発揮し、人間の品格を具現する最も論理的な座位である。最も論理的な座位であるからこそ、論理の低次の顕現である生理の上からも、人間の姿勢の基準となすべき最も合理的な姿勢であると言えよう。これこそが静止状態での 「自力快適感覚」 の根本要素といえるのではないだろうか。
    日本式座位とはどのようなものなのか、垂直に立つ姿勢から、その構えを崩さずにピタリと着座すれば、そのまま正しい日本式座位となる。日本式座位の詳細は明日、最終日に譲ることとする。
    明日に続く

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定

  • 快適感覚(五日目)

    昨日の続き
    操体の気もちよさというその感覚でいろいろな疾患は大いに改善されるものである。ところが我々大人にとってその感覚を味わうのは実のところ、そんなに簡単なことではない。子ども達のようにあるがままでいたら、意識はあらゆる感覚に対して開いている。子ども達の意識の中には一切の感覚が含まれており、たえず多くのものが入ってくる。だから子ども達はあれほどまでに揺れ動いて不安定になっている。子どもの心はいまだ何の条件付けもされていないひとつの流体、感覚の流れだ。子ども達は何にも焦点を合わせようとしない、子ども達の意識はまわり中に開いている。あらゆるものが入ってきて、どんなものも除外されない、子ども達はとても感覚的に生きている。
    しかし、このような心を持ち続けては生き延びられない。子ども達はやがて心の焦点を定めることによって狭め、集中することを習い覚えて、大人に成長してゆくのである。何故なら何事にも集中しなければ人生にうまく対処してゆけないからであり、生はそれを要求してくる。大人になるというのは心が集中できるようになることだ。心の集中というのは生きるために、生きのび存在していくために必須のものである。
    ところが心が集中できるようになると、感じるということが少なくなってくる。感覚は心の焦点を合わせないで、起こっていることすべてを感じていることだ。人間社会で生きていくうえには心を狭め、ある特別なひとつのものだけに焦点を合わせ、集中することによって、より専門家に、より熟練者に、よりジェネラリストにならなければならない。
    だがしかし、ことの成りゆきは、知識ばかりが増えて、その対象はますます限定されてゆくことになる。それでも心を狭めることは生存するのに必要なことだ、実利的な生活は必要に違いない。が、決してそれがすべてではない、心を狭めることは生きながらえるための手段ではあるが、生のための手段ではない。
    このような狭められた心は、からだにも影響を及ぼさずにはおかない。狭められた心はやがてからだの生体系に緊張が生まれ、それが種々疾患を発症させるのである。そして治療家たちは 「緊張をほぐしなさい」 、 「くつろぎなさい」 と言い、また療術家たちもその緊張を無理やりほぐそうとする。だがそんなことでくつろぎを得るのは不可能だ! 操体では、逆にまず患者の全身を緊張させる、そして動診において極限まで緊張が及ぶ。そうすれば突然、からだはくつろぎはじめるのを感じる。今度は生命エネルギーが逆のものを生み出し、おのずとくつろいでくる。両手両足、からだのあらゆる筋肉、からだのあらゆる神経が、ただ素直にくつろいでゆく。からだ自身がくつろいでゆくのである。からだ中のさまざまな個所がくつろいでゆくのを感じはじめる。それは全身がくつろいでいる部分の集合になってゆく、そう快感覚とともに。
    明日に続く

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催決定