ブログ

  • 操体よもやま話 その6

    「普通に歩けるってスバラシイですネ!」

    腰が痛くてヘッピリ腰で来院された患者さんが、

    帰り際に言われた言葉でございます。

    まぁそうですよねぇ。

    普通のありがたみって、悪くなったときにこそ感じられるものかもしれませんから。

    橋本先生は「(からだは)元にもどせばよくなるのだ」と言われておりますが、

    元に戻すってことは、きっと普通の状態に戻すってことだと思います。

    普通の状態ってのは、きっと当たり前の状態ってことですヨ。

    腰でいえば、普通に曲げられる、ねじれる、倒せる。

    痛みが多少残ってたって、動きがよくなってればそれは良い変化。

    当たり前の状態(元の状態)にさえ近づいていけば、後は自然に快復へ向かっていきます。

    だって元々は悪くなかったんですから。

    病状によっては元に戻らない(治らない)ものもあるかもしれません。

    でも、少なくとも運動器系の歪みに関しては元に戻る可能性は十分にあります。

    元に戻るってのは別に全部真っ直ぐになるってわけじゃありませんぜ。

    そのヒトなりの自然なバランスに戻るってことです。

    そして、運動器系の歪みが整復されれば、

    いろいろな不調に効果が期待できる可能性も十分にあります。

    さらに、多少の歪みならば自分で整復できる可能性も十分にあります。

    その方法の一つが操体法です。

    そういえば秋の操体フォーラムでは、

    操体法によるセルフケアのコツを教えてくれるそうです。

    これは見逃せないかもしれませんナ。

    中谷之美

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 操体よもやま話 その5

    橋本先生の著書を読んだりすると、いろいろなことが書かれております。

    操体の原理から、太極、第七の天、救いと報いと、

    オツムの弱いワタシからすればオーバーヒートしそうなものもありますが、

    ワタシが興味を引かれているものの一つに耳掃除のオッサンのハナシがあります。

    「・・・私が初代の函館市学校衛生技師おしておったとき、

    毎日、小学校を訪ねて歩いていた。或る日、某校の衛生室で沢山の子供が集まっており、

    一人の袴をはいたズングリしたオッサンが、何やら子供の耳から、反射鏡も用いずに、

    大豆大・小指頭大のものを次から次に取り出している・・・」

    (『生体の歪みを正す』より)

    このオッサンのハナシは『からだの設計にミスはない』にも登場するのですが、

    耳掃除の羽毛に油薬のようなものをつけて、

    細い耳鉤でポンポンと異物を取り出してしまうそうなのです。

    いやぁすごいですねぇ。こんな技術ほしいです。

    こんな技術があればウチのおぼっちゃまの耳掃除のときに、

    「え〜痛くしないでよ〜」なんて言われなくてすみますし。

    通称亀さん(清水亀芳氏)と呼ばれるその方は、床屋の小僧さん上がりで、

    あるとき上海から来た方の耳掃除を見てから一発発起、

    研究に研究を重ねて耳腔技術なるものを創案し、この道50年なんだそうです。

    そして橋本先生は、その異物摘出技術の秘訣をすっかり教わったと書かれております。

    さすがに橋本先生・・・というわけなのですが、その後に書かれた中に

    「世には、知られざる名もなきお篤志な研究家が沢山あるが、

    なかなか陽の目を見ないで埋もれているものも多くある。

    私が今までに会得した鍼灸術とか骨格矯正術とか、その他の特技も、

    みな彼らから学び、ヒントを与えられ、工夫を加えたものにすぎない」とあります。

    お宝はどこに埋まっているかわかりませんネ。

    そうしたものにピン!と反応できる感覚を養いたいものでございます。

    中谷之美

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 操体よもやま話 その4

    操体法には動診という独自の診断法がある通り、

    運動器系の疾患には特に効果が期待できます。

    動診とは読んで字のごとく、「動かして診る」こと。

    からだは動いてるんだから、動かしてみないとわからんこともあるだろう〜ってことです。

    まぁでも、これはからだに限ったことではなく、

    動くものなら全部に当てはまることかもしれません。

    ワタシが以前に新車で買った、あるメーカーの四駆。

    エンジンかけて動かしてみるとヒュルルル〜ってどこからか凄い音がする。

    ディーラーで点検しても、「ここは平気」「ここは問題ナシ」とよくわからない。

    でも、動かすとヒュルルル〜。

    結局よくわからんので、車はそのまま乗ってしまいましたが、

    からだにも同じようなことがあるかもしれません。

    例えばいろいろと調べてみても、「骨は異常ありません」「数値も異常ありません」。

    でもワタシ痛いの・・・。こうなるとどこが悪いのかよくわかりません。

    そこで橋本先生は言われるんですネ。

    運動系の歪みを診ろ!と。そして、歪みを診るなら動かして診ろ!と。

    「・・・とにかく動きの分析を行い、コースを確認して、それにのせることです。

    元に戻して、ちゃんと元の所へもってくれば、すぐに元のように動くようになる。

    ただそれだけのことです。それだけのことを、私がここでパッパッとやると、

    今まで口もきけないほど苦しかった痛みが、いっぺんでとれる。

    動けなかったものが、すぐその場で動けるようになるものだから、

    患者の方はもうびっくりして、キョトンとしている。

    まるで奇跡のように思えるかもしらんが、わけさえしれば、何もこれはたいしたことじゃない。

    何も大発見というほどのことじゃない。こんなことは学問にもならないんです・・・」

    (『からだの設計にミスはない』より)

    「う〜ん、なるほど。さすが!」って感じなんですが、

    何だか一番重要な部分がサラリと書いてあるような気がしないでもないです。

    それは「わけさえしれば」ってところ。

    その「わけ」が知りたいために・・・

    ワタシなどはいつもオツムからケムリが出っぱなしですぜ。

    中谷之美

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 操体よもやま話 その3

    「何だかこないだから手首の痛みとシビレが・・・」という患者さん。

    いろいろと診るところはあると思いますが、

    肩と肘を軽くほぐしてから、手首を調整したらコキンと音がしておさまりました。

    それからはだいぶ具合がいいようです。

    こういうのって面白いですよネ。

    音がすること自体に意味があるのかどうかはわかりませんが、

    「コキンとしたら軽くなった」ってことは実際にあることです。

    ところで『生体の歪みを正す』の中に「中西の手首」というのが書かれております。

    大学病院の治療をうけてもはかばかしくなかった

    西鉄中西太選手の左手首の故障。

    西鉄ってのは現在の西武ライオンズですヨ)

    それを東京の某接骨医が「ああ、これは脱臼ですな」てなことをいって癒してしまった。

    そのとき、コキンと音がして、それから左手首がだいぶよくなった・・・という話です。

    そのことについて橋本先生は

    「・・・X線写真に異常が確認されなくても、関節運動を分析してみれば、

    必ず或る一定方向角度に運動機能制限と感覚異常(疼痛)があるはずである。

    それの逆モーションが整復コースなのであるから、

    自力でもっていかせようと、他力でもっていってやろうと、どちらでもよいのである。

    接骨医は熟練大家であろうから、そこらのコツがわかっていたので、

    他力逆モーションでポキンと整復してしまったのであろう・・・」と書かれております。

    「気持ちのよさをききわける」という形へ進化(深化)した現在の操体法では

    他力的なことはほとんど行いませんが、運動系のいくつかの力学原則さえわかっていれば、

    やり方はどうであれ整復コースは一定ということなのですネ。

    その原則を学ぶのが操体ですから、治療法に関係なく応用が利くわけです。

    操体は何でも入る器」という言葉の意味は深いですぜ。

    中谷之美

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 操体よもやま話 その2

    足腰の痛みで来院されている患者さん。

    お医者さんにはいろいろと言われたようですが、

    銃剣で鍛えたというからだはまだまだ元気です。

    その患者さんが言いました。

    「私も指圧を習ったことがあるんですよ」

    「え〜そうなんですかぁ」

    「シベリアにいたときに指圧の先生から習ったんです」

    「えぇ?シベリアで?」

    このときワタシのオツムにちょっとピン!とくるものがありましたヨ。

    そうです。皆さんご存知の通り?

    橋本先生も軍医としてシベリアに抑留されていたことがあったからです。

    そのことは『生体の歪みを正す』の中にも「ロスケ・ヤポンスケ」として語られています。

    (そこでの実際の生活は相当に大変なものだったのでしょうが、

    橋本先生の書かれている内容はとても面白いのです)。

    橋本先生はそこで指圧ではなく鍼などを主に使っていたようですが、

    「シベリアで・・・」なんて聞くと

    「もしかして・・・」なんて、つい思ってしまうわけです。

    「指圧はどんな方に習ったんですか?医療の専門家の方ですか?」

    「専門家かどうかはわからないけど指圧の先生だよ」

    「軍医さんとか・・・」

    「そういうのじゃないね」

    残念ながらその指圧の先生は橋本先生ではなかったようですが、

    「ロスケ・ヤポンスケ」の中に「ヤポンスケ千人の集団の中には、あらゆる職種の人間がいる」

    と書かれている通り、本当にいろんな方々がいらっしゃったようです。

    その患者さんも「いろんなヒトがいたよ」と言われていました。

    戦後67年となり、当時を知る方が少なくなってきてはいますが、

    もしかしたらシベリアで橋本先生と一緒だったという方が

    まだどこかにいらっしゃるかもしれませんネ。

    中谷之美

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 操体よもやま話 その1

    今週は操体法東京研究会のヒヨコちゃんこと中谷の担当でございます。

    一週間よろしくお願い致します。

    今日は地区の防災訓練でした。

    ポンプ車に、はしご車に、市長さんまで登場して、なかなか盛大に行われました。

    ワタシも仕事前に少しだけ参加しましたが、

    消防士さんはやっぱり鍛えてるだけあって身軽なもんです。

    はしごをひょいひょいと登って、ひょいひょいと降りる。カッコイイですなぁ。

    見ていたワタシは何となく橋本先生の著書(生体の歪みを正すなど)に出てくる

    「サーカス坊や」の一文を思い出しましたヨ。

    「・・・鳴海詮氏が、お子さんが生まれて、赤ん坊の時から鍛錬してやろうと思って考えたあげく、

    赤ん坊の運動は泣くことだから、うんと泣かせてやろうというので、お乳を欲しがって泣き出した時、

    絶対に直ぐにはお乳をやらない。そうすると、泣きじゃくりしながら又ウトウトとひと寝入りする。

    そして今度目がさめると火のつくように泣き出す。

    その時お乳をやると咬みつくように武者振りついてグングンのむ。

    生後育つに従って初めに泣く時間が長くなるが、頑張ってやらない。

    ウトウト又ひと寝入りし、今度目がさめるとはげしく泣き出す。そこでやっとお乳をやる。

    これを続けたところ、大変丈夫な赤ちゃんに育った。

    二才になった時には屋根に立てかけた梯子の上まで登る。

    おじい様に叱られるほど振りまわして育てた。

    そしたら、運動能力が非常に発達してサーカス坊やの異名をとるようになった・・・」。

    橋本先生も、「このアイデアと実践力にホトホト敬服した」と書かれておりますが、

    ホントにそうですよネ。可愛い赤ちゃんが泣けば、なかなかここまでやれません。

    この坊やが将来どうなったのかはわかりませんが、

    今日の消防士さんのように優れた運動能力を活かした仕事に就いたのかもしれませんネ。

    ワタシの治療所にも消防士さんや自衛隊の方、ハイパーレスキュー隊の方もみえたりしましたが、

    みなさん世のため、人のため、お国のために頑張ってくれているエライ方々ですぜ。

    いやいや、その他にも大変な職業のヒトはいっぱいいらっしゃいます。

    それに比べるとワタシらの業界はどうなんでしょ?

    何だか甘いところがいっぱいあるような気がしないでもないですなぁ。

    (えっ、オマエが言うなって?こりゃまた失礼いたしました!)。

    中谷之美

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 最終日。

    こんにちは。
    今日は、昨日の夜に雨が降った為か、随分と涼しく感じられます。それでも30℃。昨日の昼間が暑すぎたのでしょうね。涼しく感じられるのはいいですが、雲行きが怪しくなってきたので、今日は早いうちから一雨きそうです。

    今回のブログも今日で最終日です。
    2日目以降は、橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子を記録した、人生読本「人間の設計」の中に収められている最後の方の文章の「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いについて、自分なりに考察してみました。
     はじめは一日分だけのつもりが、色々なつながりが出来、ひろがっていった。色々と考察する中で、様々な文献にも目をとおしたが、橋本先生の言葉というのは、その場限りの言葉ではなく、どの分野でも、いつの時代でも通用するものなのだという事が改めて感じられた。言葉が生き、つながりをもつのだ。なぜそうなるのか。それは物事を根底から理解されていたからなのだと思う。橋本先生は医師であったが、局所的改善ばかりに拘り、全体の事やその後の事など、どうでも良いという態度であったなら、そうはならなかったと思う。また操体も生まれなかったであろう。しかし、橋本先生はみんなが、健康で快適に毎日を過ごせるようにと願い、生命体の成立の根本から医学を見直していくようになったのだと思う。これは次の「現代農業」に寄稿した文章の一部からも窺い知ることができる。
    「私も医者になりかけの若いときは、病気をなんとか治したいの一心だったが、だんだんそんなことは下の下だと思うようになった。医者が治してやるということではなく、生命体の成立の哲学に触れ、大自然を畏敬し、恭順すべきことが、はっきりした」
    生命体の成立の哲学とは宇宙現象創生の中心理念のことで、宇宙現象創生の中心理念である太極が陰(−)、陽(+)を設定し、愛と調和によって万物を具現化したことを指している。太極は万物発祥の源であり、無極無限である。この無限界のうちに陰、陽の現象が展開するのであって、現象のうちには無限が貫通普遍していることになる。元始は太極の意志が陰と陽の異質な二質を表して、そこに運動が起こり、物象が形成される時には、愛と調和によってムスビつくことから始まる。これは絶対なのだ。一つの物象となったものにも太極の意志により、陰・陽の性質が決定される。ここからは物的相対の世界で、素粒子、無機原子、有機、生物と次第に複雑な高次元の集合となり、各世界を形成していく。だから絶対純粋なる陰または陽は存在せず、総じて相対性となる。また陰と陽の性質上、同性は反発する。そして異性間は親和といえども、その差が大なれば激しく親和して火花も飛ぶ。しかし、物象を現わしている以上、その存在には太極の意志が普遍貫通しているのだ。だから、より複雑化した相対性の世界でも太極の意志が貫かれ、秩序が構成されてくる。その秩序の構成要因は自然の法則なのだ。だから自然法則は自在してあるというのだ。
    先月行われた「操体曼荼羅」で三浦寛先生は「太極は自在であり、混沌(カオス)である。この存在の世界は陰陽分極の相対的基準の世界であり、秩序のある世界(コスモス)である。」と仰っていたが、存在がある限り、無極無限の太極は自在しているのだ。生命現象も自在が貫かれた存在だ。存在の世界は複雑で時には反発も起きる報いの世界でもある。しかし複雑さに自分自身を失ってはいけない。どんなに複雑に高度化しようと存在である限り、太極は自在し、自然法則もそこに自在するのだ。そして調和に向かっている。調和するための羅針盤は原始感覚であり、調和に向かう原動力は快だ。だから、存在の世界の一現象である症状、疾患だけなんとかしようとしても、生命現象としては根本的には良くならない。生命現象として根本的に良くするには、生命の起源である太極に学び、自在する自然法則に従順になる以外にないのだ。 
     橋本先生も、先程の「現代農業」に寄稿した文章の一部でもわかるように、医者になりかけの若いときこそ、病気を治したい一心だったが、生命の本源に触れることで、その後は一貫して太極に学び、自然法則の応用貢献に励むということを重ねられ、生命体である人間を、根本からより良く健康に導くようにしていったのだと思う。
     そんな橋本先生であるから、言葉も絶対的見地から発したり、用いたりしているのだと思う。だから私のようなものでも学べば学ぶほど、その言葉に有り難味を覚える。そして、違う分野の人でも、一流とか達人とか呼ばれる人ほど根底でつながり、言葉の意味が理解できるのだと思う。

    一週間どうもありがとうございました。
    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もお付き合いの程、どうぞ宜しくお願いいたします。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 知識と知識・・・「理屈をこねる」より

    おはようございます。
    今日も朝から蒸し暑いですね。湿気がまとわりつくようです。日中は気温も上がり、過酷な環境となりそうです。自分が過酷と思える環境の時ほど、立場の弱い人のことを考えなくてはなりませんよね。駐車場に停めた車の中、アスファルトの照り返すベビーカーの中、想像以上に過酷な筈です。

    自分自身が感覚するから世界がある。自分自身が感覚しなければ世界はない。自然が流動的であり、自分自身が感覚し、動く(広義な意味で)から時がある。と思う。
    自然を自分が止めることは出来ない。自然の流動性に合わせるしかない。しかし、脳に入ってくる情報は脳で止められるのだ。この情報には、原始感覚で快、不快を判断して、その感じ方も含めてインプットされて、記憶としてとどまり、行動の指標になっているものもある。逆に原始感覚の快、不快を感覚しないまま、詰め込み教育みたいなかたちでインプットされ、記憶にとどまっているものもある(今の人間はこちらの方が圧倒的に多い)。前者は原始感覚で快、不快を感覚した「知識」である為、自分の心が快の方向性をもっていれば、感恩報謝の行動、言動に結びつき、「理屈をこねる」にはつながらないと思う。片や、後者は原始感覚での快、不快の感覚をすっ飛ばしての「知識」である為、自分のエゴと結びつきやすい。それをエゴに合わせて、都合よく引っ張り出して論理立てするから「理屈をこねる」となってしまうのではないだろうか。
    ここで問題なのが、前者は自分の心が快の方向性をもっていれば、という限定がかかることだ。原始感覚で快と判断し感覚した「知識」も、「今ここ」の時空での心が不快の方向性にあれば、快の「知識」も隅に追いやられ、快の方向性の行動には結びつかないと思う。心の持ち方によって意志がおれてしまえば、その時の自然の流動性に合わせた原始感覚も衰退するしかない。次第に原始感覚で快と判断し感覚した「知識」も、エゴに結びつきやすくなってくると思える。逆に原始感覚で「不快」と判断した「知識」も、「今ここ」の時空での心が快の方向性にあれば、行動に結びつき、その時の原始感覚で「快」と判断し感覚すれば、以前は「不快」としてインプットしていた「知識」も「快」として更新されているはずだ。心の持ち方は本当に重要だと思う。「この現象の世界は、心のもち方一つで万象が発展変化する世界である」とは、決して誇張した言い方ではないと感じる。
    人間にとって、心の持ち方は重要だが、他の動物はどうなのだろうか。動物にも心はあると思うが「動物は学問しない」。学問による「知識」の詰め込み教育もない。だから理屈をこねる土台もない。野生動物は自然の流動性に合わせ、その都度その都度、原始感覚の快、不快の感覚情報に従っていると思われる。また、そうでなければ他の動物に食べられてしまう。理屈をこねている暇などない。無意識的にもそのようにしており、それが動物的「勘」となっているのではないだろうか。動物に比べて人間は甘えているのかもしれない。しかし、今さら野生動物と同じようにしろと言われたって出来るわけがない。他の動物にはない長所を伸ばして心の統制をはかっていくしかない。
    人間が他の動物とは違う最大の特徴は言葉であると思う。言葉というのも情報と同じ様に脳で止まる。そして心にも刻まれる。だから今こうして、19年も前にお亡くなりになった橋本先生の言葉から、ケイゾー・コードとして、その真意と成さんとしてきた事を、探求しながら学ぶことも出来る。そして、その言葉によって励まされたり、生きる勇気をいただいたりしている。この夏の暑さは何か考察する場面に於いては過酷であり、不快でもあるが、私の心は快の方向性を持てており、愉楽しんで取り組めている。原始感覚も暑さに負けて寝転んでいるよりも、取り組むことを快と選択してくれている。勿論、この暑さの中、根を詰めていけば「そろそろ休憩して水分補給してくれ」とか「涼しい処でからだを動かして、呼吸の流れも良くしてくれ・・勿論、般若身経でね」とか、からだはサインを送ってくると思うので、それには従うつもりだ。急がず、からだの要求に耳を傾けながら、取り組むのも心の平穏(快の方向性)につうじ、新たな気づきも得やすいと感じる。心の営み(想)は「環境」と「息」「食」「動」との調和のうえに成り立っている訳なのだから。
    心の平穏は、「理屈をこねる」という精神状態では得られないと思う。何故なら不安感や不公平感があるから理屈をこねるのだ。理屈をこねる精神状態を打破するのは、心を快の方向性へ導く「言葉」だと思う。そして、そういう言葉を沢山持てれば幸せだと思う。自然の流動性の中で生かされて生きている訳だから、その場面、場面にあった快の方向性に導く言葉を持っていれば、心が消沈することもなくなってくると思う。
    言葉は快、不快の波動を伴っている。言葉を聞いた時、すでに快、不快の判断を原始感覚が下しているのだ。それを感じられているか、いないかは個人差があると思うが、快の波動を伴った言葉であれば、からだ全体に響かせて増幅させ、そのからだの体感と共に「知識」として記憶にとどめておき、すぐ引きさせるようにしておいた方が良い。逆に不快に感じた言葉は大きくさせず、他の事柄とつながらないようにした方が良い。何故なら言葉を喋る時というのは、無意識から発動している為、意識せずにポロッと出てしまう時があるからだ。いくら自分の心が快の方向性を向いて、他人にも不快を与えるつもりがなくとも、何かの拍子で何かのつながりができて、ポロッと出てしまうことがあるのだ。だから、なるべく不快な言葉は小さくさせて、ネットワークしないようにしておいた方が良い。快の波動を伴う言葉が無意識に口から出、そこから快の方向性へスピンして、そのスピンが「息、食、動、想」の循環と、それにつながる「環境」の輪をどんどん快の方向へ導いていく。そんな風になればいいですよね。
    自分の中にある「知識」を「理屈をこねる」為に使うのではなく、「有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」とするには、心を快の方向性へ導き、元々ある原始感覚を積極的に磨いて、ききわけられた快をスピンさせて膨らませるような、そんな珠玉の「言葉」を持つことなのではないかと思います。そうすれば、その場面、その場面の快の真っ只中で自然と「有り難う御座います」という言葉が口をついて出てくるのではないでしょうか。そして、そこからまた天に向かって快が縦にスピンしていく。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 「知識」と「知識」・・・「理屈」より

    おはようございます。
    今日は暑くなりそうですね。所どころで体温よりも気温が高くなるようですが、バランスを崩さぬよう、どうぞ御自愛願います。
     

    しつこいですが、今日も橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子を記録した、人生読本「人間の設計」の中に収められている最後の方の文章の「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いについて考察した事柄からです。

    橋本先生は「人間は理屈ばかりこねる。それじゃ駄目だ。知識で判断するから間違うんだ。ちなみに、動物は学問しない」という言葉も残しておられる。
    これは「操体法〜生かされし救いの生命観」の中に出てくるが、ここでの「知識」は「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」を指すのではなく、「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」と同義の「知識」と思われる。しかし、言い方を少し変えて「人間は理屈ばかりこねる」と前置きしている。
    ここで、「理屈」ということについて考えてみたいが、辞書を引いてみると2通りある。
      1、物事の筋道。道理。「―に合わない」「―どおりに物事が運ぶ」
      2、無理につじつまを合わせた論理。こじつけの理論。へりくつ。「―をこねる」
    「人間は理屈ばかりこねる」の「理屈」は2の方であるのは言うまでもないが、1も2も人間を中心とした観点から捉えたものだと感じる。1の方も2と比べれば、聞こえは良いが、あくまで人間中心に合理的に物事を遂行するための理由付けのような感じを受ける。
    こちらもエゴが見え隠れする。考えてみれば「理屈」という言葉と「筋道」や「道理」という言葉を使う場面とでは明らかに違う。「理屈」は「理」が屈すると書く。「理」が屈してしまう。「理」が立たない。次に私が何を書くか、もう御見通しですね。つまり「理屈」では「真理が立たない」ということなのだ。
     人間のエゴに向いた合理的考え方にもとづく、物事の進め方というのは、必ずどこかで屈折してしまう運命にあるのではないだろうか。人間は天と地とのあいだに挟まり、自然の中でしか生きていけないのだ。人間の理屈に自然の摂理を合わせるという、人間から見た合理的なやり方はいつか破滅する。現に所どころでその予兆は警告として表れてきている。これからは、自然の摂理という理に、人間の理を合わせていく考え方が必要なのではないかと思う。
     これは自分の外の大自然にだけでなく、自分の中の自然にも言えることだと思う。自然法則がちゃんと自在してあるのだから。しかし、この自然法則もアタマで理解しようとすると理屈の論理になってしまい、不自然さが生じてきてしまう。なぜなら、アタマに入ってきた情報というのは止まっているが、自然界の一部である「からだ」は、恒常性はあるものの常に流動的であり、外の環境とのかかわり方も、常に一定とは限らず流動的であるからだ。
    自己最小限必須責任生活である「息」「食」「動」「想」についても、それぞれ自然法則が自在するが、からだの状態によっては、そのとおりに出来ないこともある。程度にもよるが、どこかに怪我をしている時、「動」の法則どおりに、からだを使い、動かしているつもりでも痛みが出ることがある。この場合は痛みという原始感覚のサインに従った方が良い。それ以上やってほしくないということなのだから。それをアタマで「こうしなければいけないんだ」「こうすれば良くなるんだ」と、からだに無理を押し付けるようなことをすると、かえって良くない。からだという自然に「こうすればこうなる」というアタマでの理屈は当てはめられないのだ。当たり前と言えば当たり前だと思う。しかし、実際に大きな痛みを感じないと、それがわかりづらくなっているのが人間であり、人間のエゴなのだ。
    また、「息、食、動、想」はバランス現象だが、「想」の法則の中には「頑張るな」「欲張るな」「威張るな」「縛るな」というバルの戒めも含まれている。だから、実際に「動」で痛みはなくとも、そういうアタマの理屈を押し付けること自体「想」の部分で法則違反をすることとなり、バランスを崩すことにもなる。ここでは「動」の部分で自分のエゴが満足しても、からだの満足ではない為、からだは良くなってはくれない。私はこのことを経験上、嫌というほど味わっている。できればその当時に戻り、やり直したいとも思うが、それもエゴであり、慎んで受け入れるしかない。
    反省して、「原始感覚」を頼りに、またすぐに再出発だ。こうしている間にも、自然と自分自身により、時間は流れ、「息」「食」「動」「想」というイノチの営みの要求も、環境も変化しているのだから。悔いることばかりに時間を費やしていては、また「想」からバランスを崩してしまう。後悔ばかりしていて、「原始感覚」を頼りにした行動に移れないと理屈っぽくなって、「知識」を頼りに言い訳ばかりしてしまうのかもしれない。反省したら、それはひとつの経験からの「知識」として、また原始感覚を頼りに快の方向への行動に移る。そして、より良い状態に自分が更新された時、その時の経験からの「知識」が、今の自分に、「懺悔」と同時に多大な「有難い」をプレゼントしてくれると思う。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催

  • 知識と知識・・・3

    おはようございます。
    今日は終戦記念日ですね。
    今年はオリンピックイヤーで、意識がそちらばかりに向きがちでしたが、悲惨な出来事を繰り返さない為の「知識」として、語り継がれる「記憶」として、意識を向け、心に刻んでおかなければならない事実もありますよね。 
     つい先日の新聞で知ったのですが、昭和18年、ソロモン諸島で散華した山本五十六は、一貫して米英との開戦に反対し、日独伊三国同盟にも異を唱えた人物であったそうです。戦争回避を模索し続けた山本五十六が、真珠湾攻撃の立役者として歴史に名を刻むことになったのは皮肉な結果です。その真珠湾攻撃も本人の意に反し、日本大使館の怠慢から米国への最後通牒が遅れた為、騙まし討ちという受け止められ方ともなってしまいました。
    その為か、表立った顕彰は長く控えられてきたようです。しかし、最近は軍人としてよりも、旧長岡藩士の家に生まれ「米百俵」の逸話で知られる旧長岡中学で学ぶ、という環境から培われた人物像とその言葉が、教育や自己啓発の分野で脚光を浴びているようです。
     ちなみに「米百俵」の逸話について簡単にまとめると、北越戦争と呼ばれる戊辰戦争の一つで敗れた長岡藩は財政が窮乏し、藩士達はその日の食にも苦慮する状態だった。このため窮乏を見かねた支藩の三根山藩から百俵の米が贈られる事となった。長岡藩士達は、これで少しは生活が楽になると喜んだが、藩の大参事・小林虎三郎は、贈られた米を藩士に分け与えず学校設立の資金にすると決めてしまう。藩士達はこの決定に驚き、反発して虎三郎のもとへ押しかけ、抗議するが、虎三郎は「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵になる」と諭し、藩士たちも納得し、旧長岡中学などの前身となる「国漢学校」を設立し、地域ぐるみで教育に力を入れていったのだという。
     
    今日も、橋本敬三先生がNHKラジオ第1放送に出演した時の様子を記録した、人生読本「人間の設計」の中に収められている最後の方の文章の「その勘が鈍るとね、今は勘よりも知識が発達しているから」の「知識」と「だから有難いってことをわかるのに知識が必要なんだよね」の「知識」との違いから考えていきたいと思います。
     一昨日も昨日も書きましたが、どうも今の世の中を生きる私達の知識というのは、大部分が途中からというか、根の生えた知識ではないような気がします。それが情報として、あちこちに浮遊している、そんな感じがします。目まぐるしく変わるマスメディアの健康情報などは、その典型ですね。
    今も昔も赤ん坊が大人になっていく。これだけはどんなに世の中が変わろうと変わらない。大人になるには、社会の一員としてある程度の常識と知識を持ってもらわなければならない。だから、詰め込み教育もある程度必要だと思う。しかし、単に詰め込むだけで良いのだろうか。社会の一員となる前に、人間は自然界の一員として生を受けているのだ。そして自然界の一員としての原始感覚も必然的に備えている。学習の分野でも、この原始感覚を大いに活用すべきではないかと思う。活用していけば原始感覚もおのずと磨かれていくと思う。
    人間とコンピューターとは違う。コンピューターは情報を入力すれば、それをそのまま記憶してくれ、操作一つで情報をそのまま引き出してくれる。検索機能も使えて大変便利だが、情報の引き出し方が下手だと意図しない情報が引き出されてしまう。正確なのだが、その場その時の状況での、阿吽の呼吸のようなものとはならない。情報は流通しているようでも止まっている。情報は情報だけでは活きないのだ。情報を活かすのは流動性を持つ自然と人間だ。人間はコンピューターのような正確さは持ち合わせていない。しかし、その場その時の状況で、正確なもの以上に、情報をより良いものとして活かしていく能力がある。その能力を能力たらしめているのは感覚だ。その感覚は、からだにとって「気持がいい」か「悪いか」の識別を感じわける能力である原始感覚を元としている。
    教育の場でも、これからは感覚をとおした学習法というのが、もっと見直されるべきであると思う。こう書くと、どんなことなのだろうと思うかもしれないが、みんな誰でもやっていることなのだ。要はその比重が多いか少ないかということ。からだに、どうヒビイテいるのか、ききわけながら学習するということが、どれだけ出来ているかということだ。
    出来る人は知らず知らずに出来ている。出来ない人は、それを味わおうとせず、先へ先へと急いでしまうのではないだろうか。解った→ハイここまで→次、というかたちで、浅いところを次々と突っついては、情報処理をしているだけなのではないだろうか。これでは自分の我の範囲を超えたものは入ってこないし、個別対応は出来ても、知識が全体的なつながりを持たなくなってしまう。しかし、ものごとというのは根底ではつながっている。どんなものでも自然界に自在するものを元として存在を示している訳なのだから。
    自然界の一部である、からだからの感覚をとおして何か感じられれば、学んでいることが、より面白く深くなっていく。そして、表面的に難しく感じていた他の学びも、根底の方からみる事で面白くなっていく。そのような、つながりをもった知識が出来上がってくる。この原動力は何からくるのだろうか。それは原始感覚で、ききわけた快が原動力となっている。このあたりも有り難く出来ているのだ。
     自力で快による原動力が発揮できれば一番良いが、他の人の助けでも、快の原動力を発揮する為の方向性に誘導してあげることが出来る。それは「褒める」ことだ。橋本先生は子供が来ると、「めんこい、めんこい」と褒めてばかりいたと聞く。そして「子供は、ほめてやるのが一番だな〜。すなおな子供に育ってほしいと思うんなら、ほめてやればいい。ほめてやれば子供も気持ちがいいんだ。気持ちよければ、ヘソ曲げたり、いじけたりするもんか」と話されていたという。大人でもそうだと思うし、陰湿なイジメをする人間には育たないと思う。

    最後に山本五十六が、よく口にしていた言葉を紹介します。

    やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。
    話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。
    やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

    「未病を実す」を根底とする操体の臨床、健康指導の場にも当てはまる言葉だと思います。
     

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催