三週間かその位前から、パネルに黒用紙を貼りつけ。マーカーペンで重要事項を書き込んでいる。A3の用紙に書き込み、カラーコピーに複写して、ファイルに一枚一枚とじている。
一冊のファイルに両面24枚がおさまる。すでに3冊目である。50数枚の数量となった。
なかなかカラフルで、字体も大きく、わかり易い。
これはおおいに役立つぞ。皆んながこれから先の教材にしたらいい。おしんであの世までもって行かないからな・・・。
私にはづるいところがある。弟子が追いつこうとしてもすんなり追いつけぬように、私自身学び続けていることだ。学びの先を行ってるからネ。
そして私には面倒見のいい点もある。
全ての学びを残していること、記録していることだ。一生かかっても愉しめる、操体学びの記録と、極秘のデータを残しつづけていることだ。これは学ぶ者としての責任だからネ。そうしないと、後の人が困るから。
橋本先生から預かっている、君達弟子の一人独りよ、一人独りが一線横並びでイイという訳ではないのだよ。半歩でも一歩でも抜きんでないといけない。一人でも多く抜き出ることだ。抜きでるよう、切磋琢磨せよ。
これは自分自身のためでもある。生涯愉しみつづけていたいのなら、操体から多くのことを学びとることだ。私は修業時代に、橋本先生から「自然法則の応用貢献を誰れが一番なすか。ワシは君達に期待している」と語られたことがある。私はその一人になろう、と思った。そしてつねに半歩抜きんでようとつとめてきた。
それが只今の私である。後につづけ、師(橋本先生)の弟子達よ。一人独りが自分らしく輝けばよい。私はその道を君達に教えているはづである。
ブログ
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五日目 最近のこと
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四日目 身体運動の法則
身体運動の法則への問いかけは、操体法を学ぶ我々にとって、生涯必須のテーマである。
先般、この法則と相関性に一つづつ書き加えたことがある。橋本敬三先生の時代は、三法則一相関性であった。
しかし只今は、六法則四相関性となった。
操体をひもとき、理解を深めていくことにとって、評価されるべきことである。つまり、身体運動の法則は、三法則と一相関性では、納まりのつかぬ時代へと突入している。
つまり、それだけ意味が深いのである。
体系づけられているとはいえ、確立されていない分野なのである。だからこそ、妥協できないのだ。
私は操体の学びの中で、重視していることは、師の意志をいかに継承していくかである。師が成してきたことを、かみくだくだけではなく、成そうとしてきたことに、レールをつけていくことである。形、姿ある道をつけていくこと、それが師の教えを受けた弟子の、最も重要な使命だと思っている。生涯問い続けていくことだろう。 -
三日目 本業
皆んなにとって 本業とは何ですか
人生ですか 仕事ですか
このことに気づきを得る人は
そして若い時から気づいた人は、
人生の至福を手にした、ことになります。一日数十時間患者を診させて頂いていました、という云い方と、自分を診ていました、と云う言い方、どう思う?
患者を診る・・とは、自分との対応でもあります。人との対応も、仕事の対応も、つまりは自分との対応であります。「いやなに自分を診てたんだよ」と平気、マジメに言える自分はとてもカッコイイと思う。 -
二日目 人生の主人公よ
おはようございます。
おォぃ、人生の主人公よ
ちゃんと目覚めているか
まどわされていないかそう自分に毎日言いきかせている禅僧。イイですね。
時は止まらない。今日、昨日のあの時間を返してくれと
さけんでも、かえってくる訳でない。
あともどりできない人生なのだ。
只今の今をあとで後悔するような生き方であってはならない
意識に生き続ける生き方をしろよ
人生は一瞬一瞬の只今なのだ
人生はプラマイゼロの微調整、
イイもワルイもないのだ。そして人生は一休さんです(この意味は一独りがイメージして下さい)
そして人生は自分自身を日々検証することでもあります。 -
一日目 最近の出来事
おはようございます。今日から担当の三浦です。一週間よろしくお付き合いして下さい。
八月は長いながい真夏日が続いた東京ですが、やっと九月に入り早朝はさわやかな秋風に変わり、ホッとした心もちになります。
私は相変わらづ早起きです。目ざましをかけて起きている訳じゃないので、体中目ざましが仕掛人ですから、近頃の変化はからだの方で、用もないのに早起きするなと言ってくれている時と、おまえさん、やることがあるだろう、と三時四時に起こしてくることがあるんです。マァ、いくら用がないといっても、七時八時までは寝かせてくれませんけど。
八月の中旬頃は、さすがに蒸し暑く、寝苦しい夜がつづき、氷を買って来て氷枕でやすんでいました。連夜安眠、熟睡できました。たいへんけっこうな氷まくらですよ。
ところで、何日前の夜になるのかな、銭湯に行こうとマンションの外に出ましたら、子ネコの鳴き声がするんですネ。マンションの中庭にかなり高いコンクリートの塀があって、隣家との仕切りのブロックなのです。その家の住人の許可を得て、ブロック塀をよじのぼり、下におり、懐中電灯で照らして探しましたら、手の平にすっぽりおさまってしまうほどの子ネコでした。どうも親ネコとはぐれてしまったようです。部屋に戻りよくみると、見事なアメショ柄でしたね。こんな小さな小さな子ネコはみたことがない位小さい。はたして育つのか心配、ただ、からだに似合わづ手足がでかい。こりゃ大丈夫だなと思いました。
飼うか飼わぬかは二の次で、面倒みてます。とにかく愛くるしいつぶらな瞳をしているんですよ。たまりません・・・ネ。
まだオスかかメスかわからないのですが、息診でみるとオスのようです。獣医につれていきましたら、まだタマタマがおりてきてませんが、オスでしょうとのこと。来週にも予防接種にきてくださいとのことでした。それにしても小さい子ネコだネ・・と。
毎日ピーピーと鳴いてます。これは子ネコにとって、母親のぬくもりに飢えているんですネ。赤ん坊と一緒です。
一日頻繁にネコ用ミルクを注射器で与えていますが、むしゃぶりつくように飲んでいます。そして、手の平に包んであげて、からだをなでてあげてます。そうしてあげていると鳴き止むのでした。
近頃はネリのマンマにも頭をつっこんで食べてます。ところで、この子ネコの名前を公表しておきます。
『小十郎景綱ジョン・ランボー』君です。たびたびにぎわすことになりそうですが、よろしくです。
それからうちのボス、シモン君とあづかりネコののととこもすこぶる元気。夏バテしないよう、スーパーでカツオとかマグロの赤身を買ってきて食べさせていましたがオババのととこが若返ってしまったのです。抱っこしても軽すぎのととこでしたが、4〜5日前に片手で持ち上げたら、ズシっとしているんですね。黒毛もつやつやしているし、顔つきもすっかり若返って、ますます色気たっぷりの美人づらしているんですよ。バケましたね。ようかいネコです。
小十郎景綱ジョン・ランボー君に対するととこ、シモンの反応はとまどいと敬遠ぎみです。今日はこの辺で。

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最終日に何ですが・・
私は操体とご縁があってボチボチ10年弱位になりますが、毎年思うのは確実に疾病の本質は、より巧妙に潜在化し、目に見える可視的現象症状と、原因である不可視な現象に対して、我々臨床家が確実にふるいにかけられているなと強く感じます。従来通りの当たり前のみたてでは間に合わない、その様なクライアントが年々増加しているのです。
何処を見ても異常が無い、MRIやCTスキャンなど現代医学の推移を集めた機器で調べても原因が判別出来ない痛みや、症状が横行していています。その一方で現代医学はひたすら、未知なる病の細胞レベルでの原因究明に躍起になり、よりミクロな世界で研究を深めて行こうとしています。その間患者は蚊帳の外でひたすら痛みと孤独に闘う日々が続いていくのです。橋本敬三先生は昭和十二年に支那事変で第一回の召集を受け、「漢方と漢薬」に投稿されて以来、ことある毎に同じ医者としての立場から、医学界の盲点に対しての警鐘を鳴らして来られました。しかし、残念ことに一部の方を除いては、先生の意見など聞く耳を持たず、皮肉なことに医学界に絶望し、断筆宣言した後に、NHKで取り上げられ『操体法』は世に出て行くこととなるのです。
どんなに科学技術が進み、人類が進歩しても、所詮、ヒトはヒト地球上に住む動物の一種に過ぎないのです。エジプト時代を生きていた頃の人々と我々では何が違うのでしょうか?体型的な部分を除けばほぼ変わらないと思われます。当然、健康長寿や豊かさ、心の安寧など、現代人と全く変わらない概念で日々、過ごしていたのではと想像出来ます。
ただ、当時の人達と大きく変わったものは、『感覚』の鈍化だと思われます。人間の根源でもある、五感(触、嗅、聴、視、味)やスピリチュアルな部分も含めた六感などは、明らかに現代人は退化してしまっているのです。これは簡単なことで、動物は感覚で生きていますので、安全や安心を担保されると、余分なモノは一つずつ受容器の中から排除していくのです。セコムに安全を任せたら大丈夫、アルソックなら吉田選手がタックルしてくれるなど、危機管理能力という動物にとって一番大切な感覚を捨ててしまっているのです。
世界一安全な国とは、『世界一感覚の鈍化した人々』の称号であり、素直に喜べることではないのです。
では、無くなってしまった、或いは無くなりつつある感覚は取り戻すことが出来るのでしょうか?答えはYES!当然のことながら、気付き改善していくことで、感覚は呼び覚ますことが可能となってきます。
そのためには大師匠である三浦先生もよく言われるのですが、可視なるモノにだけ目を奪われずに、『不可視』なるものに目を向ける(感覚を傾ける)ことが必須であると思います。不可視なものとはパッと見、目には見えず、波動だったり、皮膚感覚であったりと、あくまでも捉えるヒトの感性に委ねられます。見えないからダメじゃん!では無く、見えなくなっているのだから、感覚を研ぎ澄まし、身体の奥底に眠っている何かを揺り起こしてやるのです、頭で考えてもネットで調べてもダメです。ひたすら自分の内面と向き合うことが大切なのです。三浦先生が「自分時間をもっと作りなさい」「生活時間にだけ目を奪われずに自分時間を作ることだ」と、ことある毎に言われていたのですが、その時は理屈で理解し、中々実行に移すことが出来ずにいました。そんな時に今年、たまたま知人の方からご縁があったのが、『氣学』でした。一般的には『九星氣学』と呼ばれており、生れた年月日の九星と干支、五行を組合わせた日本生まれの占術です。私も最初はど〜せ占いでしょ?って感じで、星座占いの延長みたいな感じで想像していました。ところが、その根底にある哲学が妙に心擽られるものがありました。
それは、私たちはこの大自然の気に触れて生まれ、この世に生をうけ産声を上げ、呼吸をし始めた瞬間から、性格や運命に大きな影響を与えられ、人それぞれの一生を歩むと言われます。気(波動)は誰もが持っているエネルギーであり、心と精神をつなぐ線という考えもあります。気は「大気(エネルギー)」として宇宙に存在し、私たちに命の息吹を与えてくれます。これら気・大気のあり方や方向性を占う運命学が気学という考え方なのです。
以前、三浦先生は呼吸は宇宙と繋がる様に通すことが重要だと仰ったことがありました。
完璧な人間なんて世の中には存在せず、地球上に生まれ落ちた時に与えられる最初の宇宙のエネルギーは、その時の「年、月」のタイミングで決まってしまうのです。
不可視なものを感じるとはまさに宇宙と繋がり、空間を感じることが重要であり、まさに氣学の根底定理にこれらの思想が存在するのです。そして、氣学の中には『吉方取り』といった自分自身に必要なエネルギーを得るために、日々行うこともあります。この時間が今の私にとっては“自分時間”にシッカリとなっているのです。朝の仕事前時間を使って自分と向き合う、そして待ちでは無く積極的に自分に必要なものを自分の足で出向いて取りに行く。習慣が変われば人生が変わるという言葉もありますが、まさに私自身日々の学びの中から、10年間操体を学んできたことを再度、検証し、学び直しているところと言えます。
今回、大師匠である三浦寛先生より、『師範代』という称号を戴きました。称号授与の際に三浦先生が「今回、認定書では無く、称号であることをもう一度、考えて欲しい」と仰いました。非常に重い言葉でもあり、寧ろ称号を戴いてからの方が、ここからが本当の意味での自分自身の操体スタートなのだという、改めて生まれ変わった気持ちになれました。
人に物事を伝えていくということは、生半可な思いで伝えてはいけない、橋本敬三師がどんな苦難に遭っても育み、三浦先生が紡いできた操体の思いのバトンを託されたことを、誇りに思い、これからも静かな汗をかきなさい。という意味だと、戴いた『敬勇』の称号に責任を感じました。これからも宜しくお願い致します、一週間ありがとうございました。
明日からは大師匠三浦先生の順番です、お楽しみに。

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橋本敬三〜臨床医編〜
橋本師は家庭の事情で新潟医専の学生時代に若くして結婚、卒業後、兵役に服している頃にご長男が誕生されたようです。前回も書いた様に医専卒業後も直ぐに臨床医になること無く、研究に没頭します。当然のことながら収入は少なく、新築しがけの家に住み、他の人から見れば金持ちの息子だと思われていたことかと、ボヤいていらっしゃいます。
風呂桶はあっても燃料代がかかるからと奥様は実家に赤ん坊を連れて、もらい湯に通う日々だったそうです。
切り詰めて暮らしても75円の月給で20円の家賃だったそうで、昭和初期の貨幣価値で換算すると、5円が約10,000円位ですので、150,000円だった計算になります。150,00円の給料で家賃が40,000円だと、やはりキツイですね・・・
学生時代に買い入れた本を抱えて古本屋に行ったりされた様で、後に橋本師の後を追いかけ外科医になられた長男の信先生にも三十銭のセルロイドの金魚玩具を一匹買ってあげたきり、奥様の作られた弁当を持って研究所に通い、好物のソバ屋も素通りだったそうです。

そんな生活をおくられていた橋本師に転機が訪れたのは、同級生の親友が数人函館へ行って、函館市内の私立病院勤務で結構な生活をしているという。「橋本、お前も来いよ!」としきりに言われ、しかも函館市内では結構流行っている病院で設備もかなり揃っており、給料は何と250円(現在の500,000円)、しかもボーナスは二ヶ月分と、今のギリギリな生活から比べたら、とんでもなく良い条件、大正末期の話しです。
今迄、臨床経験の無い20代後半の青年医師、橋本師が期待と不安に胸を膨らませて函館生活をおくっている奮闘ぶりが何だか想像出来て、ワクワクします。
ですが、さすが波瀾万丈運を持っている橋本師、勤めていた病院の院長が勤務開始から三ヶ月目に二号さんを連れて、樺太(今のサハリン)へ駆け落ちしてしまったそうです。
最初は知らずに勤めていたそうですが、世間の噂も立って臨床未経験の若造医者でもあり、親族会議の結果病院は閉鎖となったそうです。就職僅か四ヶ月で閉院失業という絵に描いた様な結果となってしまいました。年末だったそうで、ボーナスは一ヶ月分が手に入ったのと、行路病院の嘱託もされていたので、そちらからも150円入るとのこと。当分は困ることもないと、そちらに毎日通っていたそうです。何だか大変な状況にもかかわらず、楽しんでいる姿が想像出来るのも、橋本師ならではと妙に感動してしまいます。

そんなブラブラしている頃に、函館病院長の爾見(しかみ)博士から声がかかり、函館市の学校衛生技師の欠員があるから助役に会ってみろと言われ、行ってみると二年前から専任技師二人分の予算が取ってあるが、なり手が無いとのこと。年俸二千円でどうか?と声がかかるが、以前よりも少ないのなら、嫌なこったと言ったら千円UPの三千円で来てくれと言われ、行くことにしたそうです(笑)。
函館には当時、小学校が二十数校あり、三分の一は三階建ての鉄筋コンクリートだったそうです。教育課に配属になった橋本師は毎日、各校を順に廻り、衛生講話や観察指導を行ったそうです。この間に橋本師が行ったのは「学校防塵」でした。ウマが合った校長先生と共に半年位色々試し、床油を薄く、濡れ手拭いを堅く絞って拭いた程度に塗布することによって、掃けば埃はコロコロと固まり、飛ばず、床も衣服も汚さずに出来ることを確認し、解決したそうです。この時期、橋本師は全市児童の虫歯調査統計を取ったり、成績不良児の身体検査など色々な統計や調査を行っていたようです。
そんな時期が暫く続いた頃、慈恵院という社団法人が実費診療を開始するということで、東京から啄木ゆかりのクリスチャンの友人が呼ばれて来たそうです。例の行路病院も接収して病院をやるというのですが、四方八方手を尽くしても誰も来ない状況に見かねて、橋本師が手助けをすることとなったようです。
まぁ、普通なら安定収入にあぐらをかいて、友人の苦労は見て見ぬふりなのでしょうが、キリスト教という同じ思想を持つ友人の苦労は見過ごせず、この慈恵院で外科部門を五年間受け持つこととなるのです。
ここまでが『民間療法』に傾倒していく前の橋本師の姿であり、何とも人間臭く、多分に情緒的、直情的雰囲気を漂わせており、臨床医として研究者として苦悩しながらも、どことなく飄々とし、とかくお堅いアカデミーの中でフラフラと漂っている感じが、何だか虎視眈々と次の順番を待っているいたずらっ子の様な雰囲気もあり、やはり普通のお医者様に比べると異質な感じがします。でも、一つだけハッキリ言えるのが、橋本師が医学界の賢威やプライドにしがみつかず、あくまでも『患者』の方にシッカリと目を向けていたからこそ、この後、『民間療法』の素晴らしさに気付き、それを貪欲に吸収し、『操体法』を考案するに至ったのだと言えます。
平野氏の教えにより『救いと報い』を知ることで呑気者になったと自身でも言われていた橋本師だったから、何にでも興味を持ち身体を診ることをし、レーベンス・テーマとして捉えていたからこそ、今の我々があるのだと、またまた改めて感じることが出来ました。 -
橋本敬三〜少年期〜青年期〜
少年期から青年期への橋本師を語る上において、もう一つのキーワードとなるのが、『苦悩』です。その一端が垣間見えるのが、旧制中学四年時に「餓え渇く」の演題で弁論大会において一等をとられていることです。
旧制中学四年と言えば、今だと高一位でしょうか。このタイトルから読み取れるのは自分の内にある制御出来ない怪物にもがき苦しむ思春期の姿でしょうか。これは橋本師の言葉を借りれば“自己嫌悪の劣等感”に苛まれていた時期だったようです。
そんな橋本師の苦悩の根源にあるのは、キリスト教の教えでした。師にとって教えの影響は絶大であり、現実と教えの中で夜も眠れず身をよじっている姿が想像出来、その苦悩の深さが感じられます。
本の中でも、飯も喉につかえて通らぬ日が度々であったと。自己批判や及落の不安や恋愛のことなど二重三重に苦しみを味わい、その余りの苦悩に宗教などと無関係に平気でやりたいことをやっている人々がうらやましかったと言っています。現在の平成時代の高校生達がこの様な話を聞けば、理解に苦しむだろうと思います。草食系などと言われる若者達が増えている昨今、当時の橋本師からすれば、その方が理解に苦しむかもしれません。この様な苦悩の日々から橋本師が解放されたのは、医学生時代の後半に達した二十三歳の或る日だったとあります。その無間地獄の様な苦しみから解放してくれたのは、全く無名の牧師であった『平野栄太郎氏』からエペソ書の一説「世の創(はじめ)の前より我らをキリストのうちに選び・・・愛をもて己が子となさん事を定め給えり・・・」この言葉で目が醒めたと言います。
いわゆる橋本哲学を語る上において絶対に外せない、『救いと報い』です。
この『救いと報い』の区別とは「救い」は絶対であり、「報い」は相対であるということ。橋本師は「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことが出来ない久遠の事実であると言われています。
我々は生まれながらにして既に救われており、それは絶対である、その一方で自らの行いに対してはその結果に対しての相対的評価があり、善を行えば善の、悪意を持って行えばそれに対しての「報い」が生じると。
全ては自己責任であり、それに対しての相対評価が「報い」であると説いています。ふと、この青年期の橋本師を苦悩から救った無名の牧師、「平野栄太郎氏」とはどの様な方だったのだろうかと調べてみると、平野栄太郎牧師は、現在は合併して青森市になってしまいましたが、旧浪岡村、茶屋町にある旧家の出身で、
無名どころか、浪岡村の“平野家”は「弘前藩庁日記」にも登場する位の名家で、歴代当主の中で、浪岡村の庄屋や、浪岡組の手代となって藩行政に協力したり、幕府の巡見使が浪岡の田地・年貢の調査に来た際に宿泊の便を図ったようです。文久元年(1861)9月25日の「弘前藩庁日記」によると、浪岡村の油屋平野屋清助が菜種油の買い入れをするとの商活動が記されています。総本家平喜(屋号:ヒラキ)では、代々農商を営んで繁栄したとの記録もある
そんな平野一族の中で、栄太郎氏は明治3年4月28日生まれ、旅館業を営んで屋号は「ヒラハン」と呼ばれ、極めて恵まれた家庭で育った様です。プリマス・ブレスレン派に所属した独創的信仰と反骨精神旺盛な人物だった様で、その後、藤崎教会から千葉県にあるキリスト教会に移り、更に岩手県盛岡市内の教会に移って活動して昭和21年(1946年)6月1日、盛岡教会の自宅にて亡くなられています。
平野氏の活動としてハッキリと記録が残っているのは、浪岡におけるキリスト教伝道の最初の人物としてです。明治22年(1889年)1月の中旬であることが当時の新聞記事に残っています。1月18日付の『東奥日報』によると、基督教(キリスト教)演説会が浪岡村で開催され演者として平野栄太郎氏が「日本の振はざる所以」について語ったとあります。ですが、聴衆はあまり感動しなかったと記事は伝えています。橋本師が平野氏の説教を聞いたのは、年代的に見ても平野氏50代前半、牧師として充実していた時期の出会いだったと思われます。
兎にも角にも平野氏との出会いによって、橋本師の人生観は180°変わったわけです。それまで神経質で潔癖だったのが、非常に呑気ルーズになり、性格は一変、お気楽者、それ以後は取り越し苦労などで悩んだことは無いと言われています。ひょっとして平野氏との出会いが無ければ、苦悩から神に仕える立場に成っていたかもしれず、人の人生は分からないと改めて思います。
この平野氏との出会いから大きく橋本師の生き方、考え方、人生は変わって行くのです。 -
橋本敬三〜少年期〜
少年期に於いて男の子が最も影響を受けるのは誰だろうか?直接的には身近な「父親」であろうか。父親が消防士で、或いは警察官だったからという理由で、自分もその道へと進んでいく子も非常に多い。これには逆も有り、父親が教師だったから自分は絶対に教師にだけはならない!と言う子も居る。寝食を共にするのは良悪共に目にするが故にバランスが非常に難しく、憧れの対象でも有り、反面教師にもなる微妙な関係が思春期の親子関係には存在する。
一方で、血縁関係にありながら、憧れや目標になり、影響力がとても大きい存在として挙げられるのが、『従兄弟(いとこ)』である。血が繋がりながらも日常的には一緒に行動することもなく、盆や正月に会うと妙に大人びて見えて、何となく憧れてしまう。その頃で言えば会いに行けるアイドル的存在かもしれない。
私自身も考えてみると、興味も無かったギターを始めたり、それまで聞いたことがなかった様なミュージシャンの歌をカセットに入れたりと、考えてみれば今現在、私が趣味としてやっていることの大半は従兄弟の影響かもしれない。そう思うと、思春期における従兄弟は人生におけるキーマンになり得る存在なのかもしれない。橋本師もどうやら、その思春期の洗礼を受けた一人の様で、従兄弟の影響を多大に受け、従兄弟が居なければひょっとしたら、『操体法』は誕生していなかったかもしれない。
それを窺える一節が本の中にもある。ご存じの通り、橋本師は“医師”という職業を選択した訳ですが、当初は医師ではなく、『造船家』になるのが夢だったようです。
その動機は至ってシンプルで当時、目白で開業医をしていた従兄弟が橋本少年に向かって「オレは実は造船家になりたかったのだ。造船は面白いぞ、世界の海を人や物資をのせて走る船、それを造る技術は最高だ。昔は帆前船、今は蒸気船だ。最高の学問を応用してつくる船、でもオレは諦めて医者になってしまった」と目を輝かせて語る従兄弟。
少年橋本師がこの話を聞きながら、心は大海原へと走り出していたのは容易に想像出来ます。
この従兄弟の言葉が橋本少年の心に一筋の光明を照らし出しました。その後、中学入試の面接の際、将来何になりたいかを問われた時に、迷わず「造船家になります!」と言い切ったそうです。その位の強い思いで目標を定めた橋本師に再度転機が訪れるのは、中学三年生位の時でした。それは学年が進むにつれて、数学がカラキシ駄目なことに気付いたそうです。造船は専門数学が必要となる職業ジャンルなのですが、それが苦手だというのは致命的でした。
そんな、半ば路頭に迷いそうな橋本師に手を差し伸べたのはまたしても、従兄弟でした。何だか将来の道に迷っている橋本少年を見て一言、「医者はまぁ、飯の食いっぱぐれはない、人からも尊敬され、悩める病人からは頼りにされて、お役にも立てるぞ」やっぱり従兄弟の影響力は大だ、橋本少年はあっさりと前言撤回、「そうか!そんならオレも医者にでもなるか」と決心したそうです。従兄弟に感謝です。そこで橋本少年は学校の選択として、医専では無く帝国医科大学を目指すべく、高等学校の三部(医学予科)を受験しました。
ここでも大きな障害となったのが“数学”でした。厳しい競争の中、どうやら数学で点数を取れないとどうにもならないことが分かりました。そして気が付けば二浪していたのです。
当時、三部三年という言葉があって、三浪してでも入れれば良い方だという意味だということ。さすがに橋本少年、一念発起して数学を克服するべく、朝から晩までワラ半紙を半切りしたものに教科書を一頁から全部やり直したそうです。
やり出すとあんなに難しいと思っていた数学にも一定の型があり、それが分かれば大丈夫だということを悟った。さすが、後年、様々な手技療法をみていくうちに、その中に一定の法則があることを見い出し、『操体法』を体系付けた片鱗がこの頃から見え隠れしている。当時の高校受験期は七月であり、医専は三月。従兄弟の家に泊まって小説なんぞを読みながら、慶応の第一回募集と、東京でも受験可能だった新潟医専を受験しました。
結果は両方共に二十番近くで合格しました。で、三部を受けるのも今更馬鹿らしい、予科が二年ある慶応より四年で切り上げの効く新潟を選択したのです。
と言っても、結局は医者になるのが早いと思って選択した割には、卒業後も研究生活が楽しそうだからと、生理学教室に飛び込んでしまい、四年も無駄?にしてしまったことを考えると、意外に行き当たりばったり、楽しそうなもの、人から誘われるものにフラフラとついて行ってしまう少年から青年期の橋本師の姿が見て取れます。
でも、何だか文章だけを読んでいると、厳しい時代と生活の中でも、未だ見ぬ何かに心躍らせ、光明を見いだそうとする青春時代がある様な気がします。
この後、臨床医になってからの激動期を考えると、チョット箸休めの青春時代ってところでしょうか。

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橋本敬三〜誕生〜
橋本敬三師は言わずと知れた『操体法』の創始者であり、来年でお亡くなりになって20年が来ます。よく考えれば、私が始めて仙台の橋本先生の墓参に行ったのが先生13回忌時なので、そうだよなぁなどと感慨にふけっておりました。
最近、先生の書籍を改めて読むと、先生の名前で出版されている書籍は幾つもありますが、多分、我々臨床家が一番目にしているのが『生体の歪みを正す』だと思います。三浦先生の持っていらっしゃる“生体の歪みを正す”に至ってはホントにボロボロで、読み込んでいらっしゃるのがパッと見ても分かる状態で、作者冥利に尽きるのではと思えます。
この『生体の歪みを正す』を改めて見ていて私が今回またまた興味を引かれたのが、橋本師の波瀾万丈の人生です。“生体の歪みを正す”の第四部が自伝・随想・雑感となっており、読んでいて気付くのは時代や書いてあることがあちこちへと結構飛んでいたり、纏まりにくいところもあったので、再度、自分の中で検証し、見えにくい部分は想像も動員しつつ辿ってみたいと思います。橋本敬三先生は明治30年(1897年)に福島市で誕生されました。
明治30年と言えばどんな時代だったかと言えば、時の総理大臣は松方正義という薩長閥(薩摩出身)に属し、勤王志士活動が無く元老・公爵にまでなった珍しい経歴の方です。政権も短命で閣内分裂が原因での党壊であり、財政以外は余り得意ではなかった方のようです。国もこの時期、より教育に力を入れ出し京都帝国大学、岩倉鉄道学校、海軍軍医学校など、学校の設置や開校が多く見受けられます。国会図書館、帝国図書館、京都帝国博物館開館など、文化面でも徐々に充実して来だした感じがあります。
橋本師が生まれた福島市では福島町立福島高等女学校(現在の福島県立橘高等学校)、福島町立福島商業補習学校(現在の福島県立福島商業高等学校)などが創立されたようです。
明治30年生まれの他の有名人と言えば、作家先生が多く、波瀾万丈という言葉がピッタリな人生を歩まれた、代表作品「おはん」などで有名な「宇野千代」先生。宇野先生に関して言えば、橋本師も96歳と長命でしたが、宇野先生は更に長命で満98歳までご存命でした。男性では「鞍馬天狗」や「天皇の世紀」で有名な大佛次郎(おさらぎじろう)先生もこの年に誕生されています。明治30年の日本の時代背景はと考えると、二年前に日清戦争を終結させ、当時の日本が国のスローガンとしていた『脱亜入欧(だつあにゅうおう)』の第一歩を踏み出した時期であり、小さな島国が世界の仲間入りをしようと精一杯、国全体が背伸びをして国際社会の仲間入りに躍起になっていた時期と言えます。
しかも、日清戦争に勝ったお陰?で南下を目指していたロシアとの緊張も益々高まり、東洋の小さな島国が来たるべき大ロシアとの戦いに向け着々と準備を行い、国として高揚感と妙な自信を持ち始めて来た微妙な頃ですね。人間の一生って、生きて来た時代によって大きく変わるものです。私の敬愛する高杉晋作先生が幕末のあの時代の長州藩じゃなかったら、身体の弱いワガママな奴で終わっていたでしょうし、義経がひょっとして戦国時代にいたらとか、全ては生まれ落ちた時代と天恵によって、後世に名を残すかどうかが決まってしまいます。
そ〜考えると、橋本敬三先生は日本が近代国家に生まれ変わろうと必死でもがいている時代に生まれ落ちたことがどうだったか?を考えると、やはり良かった様に感じます。その一つの理由としては、多分現在では中々お目にかかれないであろうと思われる、市井の名人達が多数存在していたことです。
橋本先生が本格的に民間療法を研究し始めた昭和初期と言えば、操体法の源流とも言われている“正體術”の高橋氏や“野口整体”の野口氏など、民間療法伝説の名人達もリアルタイムで存在していた時代です。戦国期の古(いにしえ)の武道医術が源流であるとも言われる民間療法はこの時期、未だ使える方も多数存在し、西洋医学以上に町人の生活に当たり前の様に溶け込んでいたのです。そして、その様な時代に生きていらっしゃった橋本師のやじ馬心が、後の橋本理論の土台となっていくわけです。




