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  • ヒヨコちゃんのひとりごと その4

    操体法に渦状波という操法があります。

    皮膚からからだの深いところにまでアプローチしていく三浦先生の必殺技?です。

    うけた相手は意識がとんだり、ばたばたぶるぶると無意識の動きがでたり

    いつのまにか宇宙に行っちゃったりする摩訶不思議な操法です。

    ワタシも臨床で使わしていただいてますが、ワタシのようなヒヨコちゃんだと

    相手だけでなく自分の意識がたまにとんじゃってることがあります。

    別に居眠りこいてさぼってるわけじゃないんですが

    とにかくとんじゃうんだから仕方ないんですなぁ(いいわけ?)。

    でもそんなときは、かえって臨床の結果がイイことがあるんです。

    何だかオモロイですよねぇ。

    そんなオモロイことを「なんでだろう?」って考えると

    またまたオモロイことに気づくことがあります。

    そうするとますますオモロイことにつながっちゃうんですから不思議です。

    ところでこの「気づく」ってのはイイモンです。

    教えてもらったのと自分で気づいたってのはちょっと違いますからネ。

    まぁワタシのようなヒヨコちゃんの気づきなんてのはたかが知れてますけど

    橋本先生が言われたように一生楽しみたいもんです。

    中谷之美

  • ヒヨコちゃんのひとりごと その3

    からだのゆがみをなおします。

    この場合の「なおす」ってのは、「直す」なんでしょうか?

    それとも「治す」なんでしょうか?

    まぁどっちでもいいんですが

    「直す」ってのは「もとの良好な状態に戻す」って意味があるそうですから

    どちらかといえば「ゆがみをなおす」のは「直す」のほうが近いのかもしれません。

    だから手技療法家は技術を駆使して「ゆがみを直す」ことはできるというわけですネ。

    しかし、「直す」ことはできても「治す」ことはできないようです。

    う〜む、なんだかややこしいですなぁ。

    日本語ってムズカシイですぜ。

    とりあえずややこしいことは置いといて

    そもそも「ゆがみをなおす」って一体どういうことなんでしょうか?

    それに何を基準にゆがんでるってことになるんでしょうか?

    あらら、ますますややこしくなってきた感じがしますナ。

    こういうややこしいことは実行委員長殿に丸投げするとして

    オツムの弱いワタシはとっとと退散することにしましょう。

    中谷之美

  • ヒヨコちゃんのひとりごと その2

    「気持ちのよさをききわければいいんだ。気持ちのよさで治るんだからな」

    操体では気持ちのよさをききわけ、味わうことで臨床が成り立ちます。

    でも、気持ちのよさをききわけるって一体誰がききわけるんでしょう?

    当たり前かもしれませんが患者さん本人?

    それとも操者?

    意表をついて両方?

    見方をちょっと変えれば、いろんな捉え方ができますナ。

    また、感覚(気持ちのよさ)ってのは

    本人にしかわからないってことだそうですがホントにそうなんでしょうか?

    そういえばよく「人の痛みのわかる人間になりなさい」なんてことも言いますよネ。

    でも、そんなのなかなかわかるもんじゃありません。

    しかし、「コルシカの兄弟」のようにガッチリわからなくても、何となくわかる・・・。

    その何となくが何となくでなくなってきて

    何となくでもわかるようになってくると(ややこしくて意味わからん)・・・。

    きっとオモロイ世界が待ってるような気がしますぜ(いつもの妄想ですが)。

    中谷之美

  • ヒヨコちゃんのひとりごと その1

    今週は操体法東京研究会のヒヨコちゃんこと中谷の担当でございます。

    今日は2012秋季東京操体フォーラム開催日でした。

    東京操体フォーラム橋本敬三先生の直弟子である三浦寛先生が率いる操体の専門家集団。

    創始者直系の集団ですから、操体を勉強するにはモッテコイのところということですナ。

    手技療法の世界で操体法といえば結構ポピュラーですし、教えてくれる先生も多いんだと思います。

    しかし、基本的なところは同じだとしても

    それぞれ理解度も違えば、捉え方も、伝え方も違ったりするかもしれませんので

    人それぞれの操体法というのがあるのかもしれません。

    それが良いとか悪いということではなくて

    それらを見極めて、どう吸収して、どう消化していくのか?というのが

    勉強していくこちら側の問題になるということなんだと思います。

    どんなことでも全部鵜呑みにしないで

    こちらでよく考えながら(ききわけながら?)学んでいくことも必要なのかもしれません。

    中谷之美

  • 最終日。

    おはようございます。
    今回のブログも今日が最終日となりました。初日が十一月十一日ということだったので、(+)(−)から感じたことから書きはじめ、気がつけば一週間となってしまいました。書いていて思ったのは、ものごとの流れは陰(−)かた陽(+)というふうに、流れていれば上手く行くのではないかという事でした。
     一日が活動の動と寝ている静から成り立っているとすれば、静でからだのバランスが整えられる御陰で、活動の動がある。静から動。これを逆に動から静と考えると、何だか凄く自分勝手なような気がしてくる。活動するだけして後は放っぽってしまうイメージが浮かんでくる。それはおかしいと誰でも思う筈であり、そんなことをしていたら、いつか身を滅ぼすという事も想像できると思う。やはり宇宙現象創生の中心理念、天の御中主(+)(−)のバランスの神様は普遍貫通しており、みんな誰でも神様を尊重し、神様に合わせなければ生きていけないことを知っているのだと思う。動から静ではない。静から動であり、静の時空がある御陰により活動できるのだ。静から動を、陰と陽の性質に照らし合わせれば、陰(−)から陽(+)となる。
     また陰陽は、陰は昇り陽は降るという性質もある。誰でも神様を畏敬し拝む時は天を意識すると思うが、これは想念が天へ向き、昇っているということではないだろうか。そう考えれば陰となる。苦しい時、困った時は天を仰げとよく言われるが、上を見上げれば気持ちも晴れ晴れと明るくなってくると思う。地べたにひれ伏して、より低い位置から拝む人達もいるが、より下から、上へと昇る畏敬の念を強めているのかもしれない。人間は根本的に天に唾を吐くような真似は出来ないようになっており、潜在的に天と調和したいのだと思う。だったらそれを素直に肯定すべきなのではないだろうか。例えば、一日の活動が終わり、寝る時になったら、天につうじている自分のからだに対して、「有り難う御座います」の言葉をかけてみるべきだ。その日一日がどんな一日であったとしても、からだが協力してくれていた事には変わりないのだから。そうすることで、静の時空はより良く調和する時空となると思う。ものごとは陰から始まる。
     人間社会に当てはめても、陰からなのだと思う。若き日の橋本敬三先生は、医師でありながらも、東洋医学や民間療法の素晴らしさに触れ、頭を下げて教えを受けたと聞く。そして療法家の人達も、その態度に感服して、喜んで自分で知りえたものを教えてくれたのだという。威張って、上から目線で教えてくれと言われたって、なかなかそうはいかないと思う。人間社会のものごとも陰から入ったほうが、スムーズだと思う。
    それから、明日の11月18日(日)の秋季東京操体フォーラムのテーマは「自力自動・自力自療」だが、自力自動・自力自療に一番大切なのは、からだにききわけるということだ。これも、自分がからだを見下すような態度では、ききわけるということにはつながらない。からだを尊重する意識で心を統合し、からだからの感覚に意識を向け、ききわけるのだ。そして、ききわけた快適感覚に従う。
    ものごとは陰から陽へと流れる、と心掛けたほうがうまくいく、と思う。
     

    一週間お付き合いいただき有り難う御座いました。
    明日の秋季東京操体フォーラムは、実りの秋に相応しいものとなることでしょう。

    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もお付き合いの程、宜しくお願い致します。

    友松 誠。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 自身の為にも挨拶。

    おはようございます。
    だんだんだんだん寒くなってきましたが、一日のはじまりは元気よくいきたいですよね。
    あんまり気負って肩に力が入ってしまうのも良くないですが、せっかく夜寝ている間にバランスの神様がからだを調整してくれ、新たな自分自身として目覚めているのですから、自身の為にも良い姿勢、良い声(波動)をイメージして、調和に向けて元気よく挨拶したいですよね。それが、まわりとの調和につながるのではないでしょうか。まずは自分と自身の調和からですね。
     細胞単位で考えても、一日一日生まれ変わって2,3年後には、からだ全部の細胞は別物となっているとよく聞きます。からだが一日一日生まれ変わっているのに、気持ちが昨日を引きずっていては、今日の自分自身の調和は不十分です。何かが始まるとき、または何かを始めるとき、終えるときには、挨拶・儀礼をキチンと行うのは、まわりとの調和のみならず、自分自身の心とからだの調和の為にも大切なことだと思います。
     橋本敬三先生も著書の中で、練習時に初めと終りに行なう儀礼は体の中心に力点(重心)を集中するのであって、かくしてこそ体の崩れを防ぐことができるのである。と書いています。

     今日は比叡山・千日回峰行を二度万行した酒井雄哉大阿闍梨の語った言葉を紹介します。

    人は毎日、新しい気持ちで出会える。         
                               酒井雄哉

    「一日が一生」という気構えで生きていくと、あんまりつまらないことにこだわらなくなるよ。今日の自分は今日の自分、明日の自分は明日の自分、と考えれば、今日よくないことがあってもひきずらなくてすむ。
     あんなことを言われた、もうあの人と会いたくない・・・、そんなふうにクヨクヨ思っていると、翌日はもっと会いたくなくなる。向こうにも伝わって、互いに溝ができてしまうんだ。今日はちょっとした嫌なことだったかもしれない。それを明日あさって・・・と持ち越すから、心の中でどんどんふくらんで手が付けられなくなってしまう。
     「今日のできごとは今日でおしまい」
    そう思って、明日は新しい感覚で進んでいけばいい。落ち込んだって、なるようにしかならないんだから、気持ちよくしていたほうがいいじゃない。
     けんかした相手や苦手な相手とすれちがう時には、堂々と出て行って「おはよう!」「こんにちは!」って言ってごらん。向こうがどんな顔しようと、向こうの勝手。こっちはニコニコしていればいいよ。
     そういうふうに何回も何回もやってるうちに、あっちもしょうがないから返事するようになっちゃうよ。たとえ昨日、いけすかないなあと思った人とだって、一日一生、と思っていればまた新しい関係が生まれてくるじゃない。
     今日のことは今日でおしまい。しこりを残さない。恨みを明日に引きずらない。それは国家同士であっても同じこと。一日一日、生まれ変わったつもりで、新しい気持ちで出会うことができれば、世界もきっと穏やかになるだろうね。

     朝日新書刊、一日一生〜 より

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 無意識について・・・2。

    おはようございます。
     朝のお目覚めはいかがでしょうか。寒くなってくると、なかなか布団から出たくなくなってきますが、目覚まし時計が鳴ってから、あと10分あと5分あと1分、ガバッと起きる、大慌てというのは、あまり良くないですよね。車だってオートバイだって、いきなりガバッとアクセル全開にしたら走りません。しかし、人間の場合ある程度、間に合っている健康状態であれば、それができてしまうんですよね。そして、それが当たり前と思えてしまう。けれど、それって当たり前ではないんですね。法則があるんですものね。法則違反をすれば、からだは何らかのサインを出しますが、いつも大慌てで、それを無視していると、そのうち当たり前と思っていたことが、当たり前に出来なくなってきてしまいます。本当は有難い事なんですよね。操体を学んでいると、つくづくそう感じます。夜寝ている間にも、からだの無意識はバランスを整えてくれているんですものね。その働きに報いる為にも、法則に則った、からだの使い方、動かし方を朝起きる時から意識する、ということですよね。法則を意識して動こうとすれば、からだの感覚をききわけながらとなりますから、当然ゆっくりとなります。だから少し早めに目を覚ますこととなります。面倒くさいと思うかもしれませんが大丈夫です。からだの無意識の有難さを想い、何時に起きなきゃとしっかり意識すると、そのうち目覚まし時計の少し前の時間に、パッチリと目が覚めるようになってくると思います。昔から早起きは三文の得と言うではありませんか。その三文は毎日の複利により莫大な利子と元本になるかもしれませんよ。

     前ふりが長くなってしまいましたが、橋本敬三先生が「生体の歪みを正す」の310ページに書いている文章を抜粋します。
    私どもが眠ると、ほとんどすべての人は、さまざまな寝相を示します。それも時々刻々変化します。これは潜在意識が力学的に体の歪みを調整しているのです。ですから、寝相が悪いといって子供の寝相をなおしてやると、せっかくの自らなおそうとしている、それこそ天の御中主(+)(−)のバランスの神様の邪魔をして、疲れがとれないで、翌朝、子供の機嫌が悪いことがあります。大人でも同様であります。

    余程の動きの達人でない限り、活動中に様々な姿勢で動作し、或る一定の組織の疲労や骨格関節をはじめとするからだの歪みを生じさせている。

    * 疲労に関して橋本先生は、疲労というのは或る一定の組織に老廃体液が貯溜  して、異常(+あるいは−)な緊張感覚が起こるものと思う。と「生体の歪みを正す」の106ページに書いている。

     その疲労や骨格関節をはじめとするからだの歪みを、寝ているときに様々な寝相をすることにより、体重力を利用して、骨格関節をはじめとするからだの歪みを調整し、疲労を和らげている。これは、からだの無意識の行なってくれていることであり、無意識以外にこれ程のことは出来ない。
     この310ページの抜粋した文章には、潜在意識とか天の御中主(+)(−)のバランスの神様という言葉が出てくる。このことからも、無意識とは単に意識のない状態のことを指しているのではない。無意識のうちに何が在り何が起こっているか、という事が重要なのだ。
     潜在意識は、心の極く表面に現れている氷山に一角のような表在意識と違い、無数の記憶と経験を包蔵しており、単独自己のみならず全人類をふくむ宇宙意識と根底において連なっているという。正にからだの無意識であると思う。からだの無意識は全人類共通であり、宇宙現象創生の中心理念が普遍貫通したものであると思う。
    天の御中主とは古事記に出てくる神様の名前だが、宇宙現象創世の中心理念を指す。理念をもって(+)(−)が設定され、異質のもつ親和反発性すなわち愛と調和により、万象は具現化されたのであるから、(+)(−)のバランスの神様という表現は、大変に的を得た言葉であると思う。
    無意識というのは、正に人間に与えられた天恵であると感じられる。単独自己のみならず、全人類の味方であると思う。そして、良くなるように良くなるように動かしてくれたり、誰にでも愉しんで生を全う出来るように働きかけている。どう働きかけているかといったら、宇宙現象創生の中心理念を現象の世界の人間にもわかりやすいように、自然法則というかたちで働きかけている。自然法則を尊重した上で、現象の世界を生きようとすれば、現象の世界でも愉快で調和した象を現せる。しかし自然法則を無視して、現象の世界での単独自己の我の欲望ばかりを優先させると、中心理念から離れてしまう。中心理念から離れれば、バランスの崩れになるということだ。バランスの神様は、みんなに普遍して貫通しているのだから。だから、寝ているときをはじめ、無意識のうちにバランスの神様が、からだを調整してくれているとはいえ、それを当たり前とせず、バランスの神様の意志を尊重する事が最も重要なのではないでしょうか。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 無意識について・・・1。

    おはようございます。
    昨日は、一日一日生まれ変わりながら、生きていかなければならない、と書きましたが、特別病気していないかぎり、誰でも活動の動と寝ている静があり、一日となっていると思います。
    動の世界は意識を中心とする世界であり、静の世界は無意識の世界だと感じます。動の世界は意識を中心としていても、無意識に支えられている。無意識は動の世界でも静の世界でも、休みなく働いている。有難いことだと思います。無意識に支えられて一日を生き、無意識によって一日一日生まれ変わることが出来ているのだと感じます。
     この有難い無意識ということについて、橋本敬三先生も「寝相」「癖(くせ)」と題して執筆されたり、その他の執筆でも折に触れて無意識の天恵について書いている。
    「生体の歪みを正す」本のの349ページには、
    無意識の反応はバランス存続的に作動する。あらゆる動植物は皆そうしている。動物では自律神経がそれに関与する。けれども、人間の生命現象のなかで、呼吸、飲食、身体運動、精神活動の四つには意識関与が可能であり、天然法則性の識別、把握を可能にしている。無意識にも、或る程度、時間・空間的に生存は許されるが、突発事故対応性は保証されていない。
    と書いている。
     これは活動の動の世界の時のことを表していると思う。覚醒時の行動は意識が関与するが、意識よりも表面的な心(自我)を関与させて、バランスを崩している人が多いと感じる。これは、からだのことをかえりみず、社会的あるいは人為的な対処ばかりに、心が働くからだと思う。
    からだには自然法則が貫通しているが、無意識はそれを認知した上でからだの調和、心とからだの調和の為に働いている。しかし、心が社会的・人為的な対処ばかりに捉われてばかりだと、自然法則に背反する行いにもつうじてくる。自分自身が生活の中で最低限責任をもって営まなければならない「息」「食」「動」「想」を蔑ろにしてしまうということだ。ここに、からだにとってのストレスから病気への、健康傾斜の歪体化が進む要因がある。無意識はいつも調和に向けて働いているが、自分の心の持ち方で無意識の有難い働きを反故にしてしまっているということなのだ。他の動植物に見習うべき点は大いにあると思う。
    しかし、生活の中の行動全部を無意識に委ねてしまえば良いというものではない。物質的にこれだけ豊かになった現代では、人間同士の取り決めにも対応しなければ、突発的事故対応性は保証されない。交通ルールを守らなければ、重大な事故を引き起こすというのはその典型だし、その他にも個人のおかれた環境により色々あると思う。ではどうしたら良いか。「息」「食」「動」「想」それぞれの自然法則を知り、より複雑化していく現代社会の中でも、それをしっかり意識して、応用して対応していくという事であり、人間同士の横のつながりを尊重しつつ、自然法則という縦軸をしっかり意識する、もしくは縦軸をしっかり意識してから、横のつながりに対応するということだ。
    有難い事に、しっかり調和できれば「気持ちがいい」という感覚で、からだは応えてくれるように出来ている。

    *   
    どんどん複雑化し便利にはなったが、その分ストレスを抱え込まざるをえない現代社会に於いて、どうしたら現代社会と自分自身が調和できるか。それを「息」「食」「動」「想」の自然法則から、刻々と変化していく現代社会に対応できるものへと応用し、人為的面でも社会的にも貢献しているのが東京操体フォーラムです。そしてそれを公開する場が、来る平成24年11月18日に開催される秋季東京操体フォーラムであり、今回のテーマは「自力自動・自力自療」です。
      秋季プログラム 

    人間も他の動植物と同じように無意識を基盤としている。しかし、人間だけは道具を使うことから始まり、文明を繁栄させる能力を与えられている。私達も先人から培われた繁栄にあずかっているわけだが、その中で健康とともに、それに見合った心を育めているのだろうか。人間社会の横のつながりばかりに心が捉われ、絶対的なものとのつながりを無視して、常に不安にかられていないだろうか。意識を向けるとよく言われるが、意識を向ける時には意識で心を統合しなければ、意識を向けるとか、意識するという事にはならないと思う。その意識は無意識とつうじた意識という事であり、その時の自我を中心とする心の状態からの意識は、意識と呼んではいても別物であり、その場合は心が向くということだと思う。
    人間以外の動植物にも心はあると思うが、その心は無意識からつながる意識により統御されているのではないだろうか。人間も横ばかり知ろうとしていないで、自然法則を知り、縦につながる無意識と上手く付き合っていく必要がある。その上で横に意識を向けてみると、横のつながりはもっと、良いものへとなっていくと思う。文化、文明の新しい創造をしてきた人達というのは、そういう人達だと感じる。
    寝ている時の、静の世界での無意識に関しては、明日とさせていただきます。 

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 大罪。

    おはようございます。

    昨日は最後に、「救い」→「報い」→「救い」という図を書かせていただきました。
    これは、私達が絶対的な救いから生じ、相対的な報いの世界を生き、絶対的な救いに帰っていくことを簡単に表したのですが、思い違いをしてほしくないことがあります。それは、報いの世界で生きるのが辛いから、自ら命を絶って絶対的な救いに行こうなどとは、絶対に思わないでいただきたいのです。
    そんな考えを持ってしまっては、せっかく絶対的救いからイノチをいただいている意味がない。
    それに、今こうして、生きて、呼吸しているのも、それぞれのすべてのイノチに絶対的な救いが普遍貫通しているから、生かされて、呼吸していられるからなのだ。
    800年前の禅僧、道元は「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にあり」と言った。
    人間は空気がなければ、すぐに生きていられなくなる。空気があるから呼吸ができて、生きていられる。
    空気は人間がつくったものではない。絶対的救いによって生じたすべてのイノチがつくったものであり、絶対的救いが普遍貫通しているすべてのイノチがつくっていくものだと思う。人間もその中のイノチであり、イノチの循環の一員なのだ。
    自分の思惑で息を止めて死のうとしても、先に酸素不足で意識が遠のいてしまい、その間に不随意的にからだが呼吸する為、死ぬことはできないと聞いたことがある。
    自分の思惑とは別のところで、からだや自身のイノチ、それと相関相補しているすべてのイノチが、絶対的救いの元に、死なせないのだと思う。
    すべてのイノチが、ここにいていいんだよ、と言っているのだ。
    だから、自分がどんなに辛く感じていようとも、イノチを想い、自然に息を引き取るその日まで、一日一日生まれ変わりながら、生きていかなければならない。
    どの教えにもあるように、自殺は大罪なのだと思う。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催。

  • 「救い」はもともと。

    おはようございます。
    昨日のブログの中で、神とか陰陽未分の一(太極)の意志という、人智を超えたものが自在することを認識しなければ、宇宙の根源である太極の説明は不十分なものとなってしまうと書かせていただきました。
     神と書いているが、私は神という表現をすると読んだ人が、どういう感じ方をするか不安になる時があります。勿論、絶対的自在、絶対的救いを表現する際、こう表現するしかないと思う。しかし、今の世の中では相対的な基準での神への信仰が一般的となっていると感じるからなのです。
     キリスト教なども一般には、本来の教えよりも、解釈する人間の心理(理想が高いゆえに過剰に罪悪感を持っている)や時の権力との兼ね合いもあり、次第に相対的基準をもとに、「報い」の面ばかりを強調したものとなって、今の世に伝わっている感もある。
     これは、若き日の橋本敬三先生の時代でも、一般的にはそうだったようで、「生体の歪みを正す」の375ページには、このようなことが書かれている。
     自分の見たところでは、一般キリスト教会において説かれていることは、人類は神の前に罪悪を犯しているものであるから、聖なる神は、いかに愛であっても、そのまま人類を赦して、これと交際したり、永遠の生命を与えてやることはできない、仕方がないから罪のない自分のひとり息子なるキリストを人間の形にして、この世に生まれさせ、これを十字架にかけて人類の身代わりとして罰を加え、罪の処分をした。この身代わりになったイエス・キリストを自分の救主と信じて、神の前に立つならば、神はキリストの犠牲に免じて、信じたものだけを神の子として受け入れてくれるのだ。信じないものは天国入りは許されない、気の毒ながら地獄行きにする。人類のうち純粋の神の子は唯一人イエス・キリストだけで、これを信じたものが準神の子として天国入りのパスポートを与えられる、というのであるらしい。 
    このあたりを読むと、一般的には随分と前から「報い」の強調された教えとなっていたと感じる。
    別に一般的にひろまっているキリスト教を悪く言うつもりは更々ないし、この個人の利益(欲)ばかりを優先させる現代社会にあっては、現世での周囲に対する感恩報謝の行動、道徳という面に於いて素晴らしいものがあると思う。
    しかし、このような「信じたものは救われる」という言葉に代表される相対的な価値観だけでは、確固とした自分自身のイノチというものには結びついてこないと感じる。常に罪を犯す不安からは逃れられないだろうし、自分は死んだ後、現世での報いをどう受けるのだろうかという不安からも逃れられなくなると思う。
     橋本先生も青年時代、5年間も悩みに悩んだという。そして23歳のある日に、大きな皮表紙の聖書を二冊もボロボロになるまで読みつぶしたという無名の牧師・平野栄太郎先生から、エペソ書にある「世の創の前より我らをキリストのうちに選び・・・愛をもて己が子となさん事を定め給えり・・・」という聖句を教えられて、豁然として目が覚めたという。そして、平野先生から「救い」と「報い」の区別を、はっきり教えられたという。
    本来はキリスト教も、人間あるいはすべてのイノチは、生まれぬ先から、聖別され祝福された神と同格の永遠の生命そのものである、という「救い」の教えが元になっているのだと思う。
    「救い」と「報い」。橋本先生は、「救い」は絶対、「報い」は相対だ、ということである。「救い」とは絶対の無罪宣言であり、神性相続権であり、何ものも覆すことができない久遠の事実である。
    と著書の中で書いている。
    このことからも、太極を神に例える場合、絶対的な救いの神なのだ。信じたものは救うというような条件付の神ではないのだ。条件付の神とは人間がつくってしまった偶像なのではないだろうか。
    人間のつくった条件付の神では、先程書いたように罪を犯す不安からは逃れられなくなるだろうし、自分は死んだ後、現世での報いをどう受けるのだろうかという不安からも逃れられなくなると思う。条件付の神のもとでは、安心は得られないのではないだろうか。何よりも、神の前で罪を犯しているという前提のもとでは、自分自身のイノチというものの尊厳にはつながってこない。それではイノチというものを軽んじてしまうのではないだろうか。生きる自信にもつながらないと思う。
    罪を認識し、自分以外のイノチを尊重することは大切なことだ。そして感恩報謝の行動も道徳を守るという事も、人間として生きる上で重要ことだ。しかし、その前にこの世に存在している自分が、どのようなものであるかを知ることは、もっと重要なことなのだ。自分自身の確固とした存在の根拠をもつというのは大変重要な事だ。自分自身のイノチは、絶対的な救いである太極から生じ、陰陽分極の相対的な現世を生き、そして絶対的救いの太極に帰っていくのだと思う。
    「救い」→「報い」→「救い」であり、いきなり「報い」から「死んだらどうなるのだろう?」ではないのだ。

    2012年秋季東京操体フォーラムは11月18日(日)津田ホールにて開催.