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  • 卜伝さんから操体を学ぶ その3

    剣をとればメチャクチャに強い卜伝さん。

    流派は新当流と名付け、それは「心を新たにして敵に当たる」という意味からくるそうです。

    むむ、何だかワタシらのやってる仕事ともつながりそうな感じがしますなぁ。

    三浦先生は臨床において「魂胆を持つなヨ」と言われます。

    さらに「情報に惑わされるな!」とも言われます。

    魂胆とは何でしょう?

    つまり実際の施術で「ああしてやろう」「こうしてやろう」という姑息な策は持つなということです。

    最初から策を決めれば(例えば腰痛に効くという技術的なマニュアルとか)、

    例外にあたったときに身動きがとれなくなりますから。

    では情報に惑わされるとは一体どういったこと何でしょう?

    例えば患者さんの言われる「ここが痛い」「ここが悪い」という情報です。

    確かに患者さんの言われることはきちんと聞かなくてはなりません。

    どこに快復のヒントが隠されているかわかりませんからネ。

    でも、情報だけに捉われると今現在の「素の状態」がわからなくなる恐れもあります。

    それはお医者さんがつけた病名もそうかもしれませんし、

    他の治療院で言われたこともそうかもしれません。

    生命は流動すると考えれば、一番知りたいのは「今ここ」の状態です。

    決めつけはしないで、その場その時に応じながら新たな気持ちで

    からだそのものと向かい合うということが大事なのかもしれません。

    つまり「こないだはこうだったから、今回もこうだろう」なんてのはマズイというわけですナ。

    いやいや、こないだどころか一度の施術の中でもからだはどんどん変化するもんです。

    特に操体は感覚の世界ですから、いつでも「心を新たに」していかなくては間に合わなくなっちまいますぜ。

    中谷之美

  • 卜伝さんから操体を学ぶ その2

    あるとき、卜伝さんの高弟が道を歩いていました。

    この高弟は「卜伝さんも秘伝を授けてもいいと思っていた」

    と言われるほどの腕前だったそうです。

    その高弟が道端につないであった馬のそばまで来ると、馬が突然飛び跳ねました。

    が、その瞬間、高弟はヒラリとからだをかわしてニコッとスマイル。

    「さすがは卜伝先生の高弟!」とまわりのヒトは称賛したそうですが、

    卜伝さんだけは「まだまだだな。秘伝を授けるような資格はない」と不機嫌だったそうです。

    そうした考えを理解できなかった連中が

    「ならば卜伝先生ならどうするんだ?」と試してみたくなって、

    これ以上ないという暴れ馬を卜伝さんの通る道につないでおいたそうです。

    いつの時代にもヤジウマさんはいるもんですネ。

    ところが卜伝さんは馬の近くまでくると、静かに迂回して通り抜けてしまいました。

    拍子抜けしたヤジウマさんたちがワケをたずねてみると

    「馬が跳ねたときに飛びのいて避けるのは確かにすんごい技のように見えるかもしれないヨ」

    「でもネ、馬は跳ねるもんなんだ」

    「それを忘れてそのそばを通るのは不覚だとは言えないかい?」。

    うむむ、何だかまた操体っぽいニオイがしてきましたぜ。

    皆さんご存知の通り、操体を体系づけた橋本先生はお医者さんです。

    そして、そのお医者さんが実際の臨床で使っていた操体法はれっきとした「治療」ですし、

    どんな暴れ馬(重症患者)が来ても対応できる技だってあります。

    しかしその一方で、操体では治療医学よりも未病医学という考えを大事にしています。

    だって橋本先生自身が「治療なんて下の下だ」って言われてるんですから。

    卜伝さんが言わんとすることと、そうした操体の理念。

    何となくつながってるような気がしないでもないですよねぇ。

    中谷之美

  • 卜伝さんから操体を学ぶ その1

    今週は操体法東京研究会のヒヨコちゃんこと中谷の担当でございます。

    一週間よろしくお願い致します。

    こないだ何気なくTVをつけたら『塚原卜伝』というドラマをやっていました。

    ドラマの内容はちょっとしかみてないのでわからないのですが、

    まぁ卜伝さんといえばワタシでも知ってるような剣の達人。

    きっと痛快なチャンバラ時代劇なんでしょう。

    さて、この卜伝さん。

    歴史上の有名人だけあってウソかホントかいろいろな逸話があるようです。

    ある日、琵琶湖で渡し船に乗っていた卜伝さん。

    一人の侍が大声で威張りながら自慢話をしています。

    言葉態度が横柄なその侍に皆が迷惑しているのをみて卜伝さんが一言申すと、

    侍は怒って「コノヤロー勝負しろ!」。

    「はいはい、ならばあそこの島でやりましょうか」と卜伝さん。

    船が島に着くと侍は勢い込んで飛び移り、刀を抜いて「さぁ、きやがれ!ボコボコにしてやるぜ!」。

    「まぁまぁ、慌てなさんな」と卜伝さん。

    そして、島に飛び移るふりをしながらヒョイと船を湖中に戻してしまいます。

    「あっ!何だオマエ。逃げるとは卑怯だぞ!」とあたふたする侍。

    卜伝さんは悠々と船を沖に戻しつつ

    「バイバ〜イ、悔しかったらここまで泳いでおいでぇ〜」「これが拙者の無手勝流なのさぁ〜」。

    多少のアレンジはお許しいただくとして、なかなか面白いハナシですよねぇ。

    ワタシはこういうスタイル大好きです。

    無手勝流とは卜伝さんが話の流れの中でこの侍に言った言葉なんですが、

    「アンタなんか戦わずして勝っちゃうから」みたいな感じですよネ。

    そして、もし操体流という戦い方があったら、こういうスタイルなのかもしれませんヨ。

    だって操体では症状疾患と戦ったりしませんし、痛みからはス〜イと逃げるんだってスタイルなんですから。

    症状疾患とは戦わずして勝つんです。

    中谷之美

  • 「息」について想うこと ― 具体的には・・・。

    おはようございます。

    昨日は、「息」の自然法則を生かし、健康増進に向けて、具体的にどのような取り組みをしていけばいいのか。で終わりました。今日はその続きです。

    気持ちのよさをききわければ良い。これは大前提だが、ではどうやって気持のよさをききわければ良いのだろうか。「動」であれば、般若身経という、からだの使い方、動かし方が具体的に説かれており、その自然法則に則って、気持ちよさをききわけるという道しるべが示されている。

    しかし、「息」についてはどうなのだろうか。健康増進に向けての、具体的取り組み方、道しるべが示されているのだろうか?

    答えはYes。きちんと示されている。昨年の東京操体フォーラム操体マンダラに参加された方はピンとくるものがあると思います。

    昨年の東京操体フォーラム操体マンダラでは、三浦寛先生より骨盤呼気、背筋吸気という提案がなされた。これは「息」による気持ちよさをききわけ、健康増進への道しるべとなる取り組み方だと感じる。

    これを日々実践して、体感をとおして感じることは、「息」だけでなく、「食」にも「動」にも「想」にもつながり、バランス良く、それぞれも良くなるということだ。それぞれが良くなるから、またそれぞれが良くなる。息の快をききわけることで、息をしていられる有り難さという「想」や、そこからつながる「環」、「動」については手は小指側側、足は親趾側側を利かすという、からだの使い方の意識感覚の向上、「食」については慎み、といった具合で、細かく挙げれば限がないが、バランスが取れた上で更に良くなっていくのを感じる。
     当然からだも変わってくる。具体例としては、姿勢が良くなり疲れづらくなってくる。丹田が練られるということにも、つうじていると感じる。

    創始者、橋本敬三先生は平成5年にお亡くなりになられたが、その成さんとしたことは時代背景が変わっても、きちんと受け継がれている。創始者と一番長く密な時間を過ごし、その時間を今の世に時環として循環させ、深化させて進化したものを提案しているのが三浦寛先生だ。

    橋本敬三先生に会いたいのなら、タイムマシンに乗る必要はない。世の中がどう変わっても、絶対不変の自然法則を応用し、人々に貢献するという橋本敬三先生の意志は、時環の中で生きているのだから。
    まずは、東京操体フォーラムにいらしてみてはいかがでしょうか。

    春季東京操体フォーラムは、参加型実技指導をメインとして
    4月28日(日)、東京千駄ヶ谷、津田ホールにて開催されます。
    2013年春季東京操体フォーラム « 東京操体フォーラム

    一週間のお付き合い、どうもありがとうございました。
    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もお付き合い、宜しくお願い致します。

    友松 誠。

  • 「息」について想うこと ― 時代背景より。

    おはようございます。

    生きていくうえでの、自己最小限責任生活必須条件である「息」「食」「動」「想」。これらには、それぞれに自然法則があります。
    私は「食」と「動」は具体的でわかりやすいと感じますが、最初の「息」と最後の「想」は何か抽象的な感じを受けます。なぜそう感じるのか、今回は「想」で考えてみたいと思います。

    「生体の歪を正す―橋本敬三論想集」の、31ページから37ページにかけて、般若身経[健康の自然法則]と題したものが載っている。これは相当前のものと思われる。正確に何年前かは、私にはわからないが、少なくとも「万病を治せる妙療法―操体法」(農文協/1978年刊)以前のものではないかと思う。

     この中には、生き方の自然法則と題して、[1]呼吸 [2]飲食 [3]精神活動 [4]体の動かし方の、各自然法則が説かれている。ここに掲載された文章を読むと、呼吸つまり「息」は腹式呼吸がよいと書いてある。

     しかし、橋本先生は晩年に、「温古堂先生語録」にあるように、呼吸は自然呼吸でいい。呼吸の事に意識がいくと感覚が鈍くなる。感覚のききわけが大切なんだ。と語っていたという。これは臨床についての事を語っているだけではないはずだ。

     このあたりは、時代的背景の影響が強く感じられることでもある。つまり、辛い方から楽な方へと操法をとおす事で間に合っていた時代と、気持ちよさをからだにききわけなければバランス制御につながらなくなってしまった時代の違いということだ。日本ではちょうど社会の高度成長期にあたる。

     この時代以前は、生活に根ざした暮らしがされていたが、人為による急激な社会変化は自然環境をも変え、それまでの人間の生活を変え、思想、生き方さえも大きく変えてしまった。生活(生命活動)と暮らしが切り離され、暮らしぶりばかりに意識が向く時代となってしまったという事だ。

     そうなると、当然、人間の質も変化してくる。健康面では、心とからだの調和が密ではなく、徐々に粗くなり、からだのバランス制御が難しいものとなってしまった。従って臨床の場でも、今まで通用していたことが、通用しなくなってくる。これは操体法だけでなく、他の手技療法にも言える事だと思う。

     以前は、コキンとやったらパッとよくなってしまった。というように、形態の歪みを正すことで、動きも元どおりとなり、自然治癒力が発揮され、心とからだも調和に向かうといったような、やり方で通用した。
     しかし、人間の質の変化に伴い、それでは次第に通用しなくなっていると思われる。形態の歪みだけ正されても、自分の動きで、またすぐに不快な方向に、からだを歪ませてしまうケースが多いということだ。

     操体法創始者、橋本敬三先生は、そのような事態をしっかりと直視し、対応すべく時代性と自然法則の応用とを向き合わせる中で、「これからは感覚なのだ」という気づきを得、
    「きもちのよさをききわければいいんだよ。きもちのよさでなおるのだからな」という言葉を発したのだと思う。

     だから、「息」の自然法則も、何十年も前に人々に貢献しようと公表したものと、今のものでは、応用、貢献の仕方が変わってきている。勿論、深化をとおしての進化だ。

     以前と比べて、暮らしが便利になった分、自らの生活の営みから来る、人間の弱体化、健康傾斜の歪体化は避けられないものとなってしまった。
     心とからだが自然性を基に調和が密となっていた時代では、「息」も何十年も前の「生き方の自然法則」にあるような、腹式深呼吸が良い、夜床に入り眠る前にこのようなやり方を実践しなさい、で間に合っていた。

     しかし、環境に人為的要素が相当に入り込む現代では、人間の招いた不自然の中の自然という事を考慮しなければ対応できない。

     ストレス社会という言葉が使われるようになって久しいが、肉体的にも精神的にも多大なストレスを抱え込んだ状態であれば、からだは呼吸を浅く、短くしてバランスを調整しようとする。
     腹式、胸式と分ければ、胸式の方が心とからだに適していて、気持ちの良い場合もあるのだ。
     そんな時に、思考の決め付けでもって、腹式呼吸を強行すると、かえってバランスを崩してしまう。大切なのは感覚のききわけということだ。

     ここに「息」の自然法則に於ける、こうすれば良い的な理解の仕方では対応できないものがある。
     健康増進を目的として取り組むならば、こうすればこうなる的な、思考の合理性は捨てる必要がある。
     そして、どうしたら本来の心とからだが悦ぶか、どうしたら快によって調和が成され、結果的に良くなっていくかに意識を向けていかなければならない。

     「息」は「息」のみで成り立っているのではない。「環」と「息」「食」「動」「想」は鎖の輪のようにつながっており、そのバランスをとおして成り立っている。
     「息」の真理を立てるには、他の「食」「動」「想」の自然法則も理解し、同時相関相補連動性をふまえた上で、気持ちよさをききわけなければ、真理が真理として立たない。

     では、健康増進に向かって、具体的にどのように取り組めばよいのか。 
     長くなってきたので、ここからは明日とさせていただきます。

  • 「息」について想うこと。

    おはようございます。

    そろそろスギ花粉の飛散が始まってきたようですね。
    私は、それ程重度の症状ではありませんが、この時期になると目が痒くなったり、知らず知らずにうちに鼻水がツ〜と垂れてきたりもします。

    それをあまり気にしすぎると余計に気になってきて、気になると更に鼻がグジュグジュしてきて、ツーンと痛くなってくるような気もします。症状の程度こそありますが、自分で病気をつくってしまってはいけませんよね。

    スギ花粉だけでなく、北西の季節風が強くなるこの時期は、急激に工業化が進んだ隣国からも、厄介なものが空気に混じって、飛散してくるという。

    PM2.5というのだそうだが、スギ花粉の12分の1という非常に小さな微粒子状物質で、主に車の排ガスや工場の煤煙に含まれているという。

    これは大気汚染の原因となっている物質であり、かの国の首都の映像を見ると、空はスモッグに覆われ、ほんの数メートル先もよく見えない状況となっている。様々な健康への影響が懸念される。

    人間にとって、自己最小限の責任生活必須条件である「息」「食」「動」「想」は、なぜ「息」が一番はじめになっているのだろうか。なぜ操体法の創始者、橋本敬三先生は「息」を一番はじめにもってきたのだろうか。

    一つには生命の存亡に直結しているのが「息」だということがあると思う。「息」が出来なくなるイコール存在が亡きものとなるということだ。それほど重要な「息」だが、私たちはその事を意識できているであろうか。

    ほとんどの人は、息をしているのは当然なのだから、そんなことに、いちいちかまってられない、というのが実情だと思う。それが普通なのかもしれない。しかし、その普通という考え方は自然からしてみれば、普通ではない。人間の考え方が間違っているということになる。

    人間(生命)は、環境とのかかわりがあって、はじめてその存在が成り立つ。環境には自然環境、社会的環境、人為的環境とあるが、生命現象を成立させているのは自然環境だ。つまり、自然環境との調和の元に生命として成立し、生かされて生きているのだ。

    そして、生かされて生きていることが元になり、社会的環境や人為的環境とのかかわりを持ち、生活(生命活動)を営んでいる。だから本来、生活とは自然環境とのかかわりを軸にして、社会的環境や人為的環境との折り合いをつけていくものだ。

    こう書いている私も以前はそうであったが、今の世の中に生きる現代人は、生活ではなく、衣食住の暮らしむきの豊かさ、便利さ、豪華さという社会的環境、人為的環境での優越の方に軸足をとられてしまっている。

    だから息をしていられることの有り難さと言われても、ピントこないのかもしれない。

    しかし、かの国の首都の大気汚染の現状を見れば、意識を変えなければならないと思う。この日本国も40〜50年ぐらい前はそういう時期があった。今もその後遺症で苦しんでいる人達がいる。決して他人事ではないのだ。

    公害は営利優先の企業も悪い。それを認可した国や自治体も悪いだろう。かの国では、コストを減らすため有害物質が出るのを解っていながら生産を続け、それを取り締まる側に賄賂を渡しているという話も聞く。

    しかし、企業や行政のせいにばかりして、各個人に責任はないとはいえないと思う。特に大人はそうだ。

    行政に参加する権利と義務を有しており、経済発展の恩恵を甘受しているということもある。しかしそれだけではない。各個人の生き方の問題もかかわってくる。

    同じ空気を吸いながらも、体調を崩す人とへいちゃらな人もいるのは事実なのだ。そんなの生まれつきのこともあるのだから、しょうがないだろうという意見も当然あると思う。

    しかし、自分の人生なのだから、しょうがないばかりでは済まされないと思う。それでは、自分といつも共にある、からだにも申し訳ないのではないだろうか。他人事ではなく自分事なのだ。

    自分の健康を増進させ、まわりの環境にもやさしくなることが求められる。

    幸い、さまざまな環境と「息」「食」「動」「想」は、鎖の輪のようにつながっており、同時相関相補連動性であり、あるものが悪くなれば、他のものも悪くなる性質と、あるものが良くなれば他のものも良くなる性質がある。

    息をしていられることに、有り難さを感じる、感謝できる、とは自分自身が良くなり、環境も良くなることの根底にあることだと思う。

    これは、「息」「食」「動」「想」の生き方の自然法を理解する為に、重要なことであり、その理解が深まるに連れて、自分がよりよく生かされて生きる、ということにつながってくると思う。

  • 権力か愛か・・・3−2

    おはようございます。

    昨日は最後に、相手の心とからだに向き合う姿勢と至誠が重要と書かせていただいたが、これは指示(お願い)誘導のみならず、介助補助の上達にも関係すると思う。

    介助補助が上手くなったからといって、天狗になって慢心が至誠を覆い隠し、向き合う姿勢もあやふやとなれば、それ以上の上達どころか、下降するしかなく、相手にも迷惑をかけてしまう。動診に於ける介助補助は治し方の技法とか、テクニックという捉え方ではないのだ。

    それに、治しているのは施術者ではなく、からだなのだ。これは、どのような療法にも当てはまると思う。方法はどうあれ、からだが治す力(自然良能作用)を発揮できなければ、どうにもならない。

    しかし一般的な認識としては、病気は施術者に治してもらうものであり、施術者自身も自分が治してやったという、思い違いをしているケースが多い。うがった見方だが、その方が何かと都合が良いのかもしれない。しかし、操体法はそのあたりの真実をハッキリとさせている。

    創始者、橋本敬三先生は「治すことまで関与するな、治すことはからだに任せておけばよい」「からだのことは、からだが一番よく知っている」「からだのことは、からだにきけ」と明言している。

    真実をハッキリさせた上で、「気持ちよさをききわければいいんだ、気持ちよさで治るんだからな」と快適感覚で生体のバランス制御が可能となり、自然良能作用が高まるという真理を説いている。

    操体法には、人間のつけた症状疾患名に対して、それを治すという発想がない。現代では2万以上の症状疾患名があり、ますますその数を増している。それらはみな、現れた特異的現象を人間が判断し、形式化したものだ。

    そして、その特異的現象に対して、方法はどうあれ人間の判断で治療が成される。しかし、からだからしてみれば、特異的などではなく、当然そうなるべくしてなっていることなのである。からだはそれまでの過程を知っている。そして元の状態への戻り方(治り方)も知っている。

    「からだのことは、からだが一番よく知っている」これは事実であり、真実なのだ。操者は、よくよくこのことを理解していなければならない。そして被験者本人にも、このことを理解していただけるよう努めなければならない。治し方の技法、テクニックで治っているわけではないのだ。

     操者は、からだの要求に応えること、からだが喜ぶことを意識しなくてならない。からだはお金をもらって喜ぶだろうか、あめ玉をもらって喜ぶだろうか。そんなことはない筈だ。からだは自由に開放されたいのだ。その自由は自然法則の内にある。

    動診においては、一番くつろげる体勢から、自然法則に則ったからだの使い方、動かし方から、からだの隅々まで連動させ、自由を表現したいのだ。

    それが適えば、からだは快適感覚で応えてくれる。被験者はそれをききわけ、からだの要求を満たしていると感じれば十分に味わう。

    操者は被験者がより質の高い快適感覚をききわけ、味わえるよう介助、補助する。

    この時空は、被験者のからだ、心、操者が一体となり快に調和していく時空だ。「至誠、天に通ず」の間でもある。

    動診に於ける介助補助は治し方の技法とか、テクニックではない。被験者のからだの要求に応えられるよう、まごころを込めて接するものだ。

    まごころの根底にあるのは無償の愛であり、治してやったという見返りを求めない愛だ。その愛はイノチを創造した天にもつうじる。

    しかし、その気持ちだけではどうにもならない。まごころも曇ってしまう。まごころを元に、からだの使い方、動かし方の自然法則に基づいた作法を高めるよう日々精進し、その中で感覚の勉強をしていなければならない。操者は常に、向き合う姿勢と至誠を問われている。

  • 権力か愛か。・・・3― 1

    おはようございます。

    操体の臨床には、他の治療法にはない独特の診断法がある。それは動診であり、動かして診るということだ。動かして診るといっても、施術者が一方的に局所関節を動かして、可動域その他をチェックしようというのではない。相手(被験者)に動いていただき、その感覚をききわけていただくというものだ。

    ききわけた感覚が不快であれば、基本的にはすぐに中止する。ききわけた感覚が快であり、その快適感覚が味わってみたいという、からだの要求感覚を満たしていれば、操法としてとおす。

    感覚をききわける(診断する)のも被験者本人であり、ききわけた快適感覚を十分に味わうことでバランス制御をはかり、自然良能作用高めていく(治療)のも被験者本人であり、被験者本人のからだである。

    従って操体臨床の場では、診断するのも治療するのも被験者本人ということになってくる。だから一人で自力自動によって行う場合でも、操者の診たてにより、言葉による指示(お願い)誘導と介助補助を受けながら行う場合でも、自力自療となる。

    つまり、操体法では自力自療が大前提としてあり、それに導くのが操体臨床家であり、操者だ。操者の診たてや介助補助も重要だが、言葉による指示(お願い)誘導も大変重要となってくる。

    操者は診たてに基づき、最快適運動コースにのせ、最高の気持ちよさを味わえるよう、指示(お願い)誘導と介助補助を行うが、(お願い)といちいち書いているのには、それなりの意味がある。指示と命令を混同されては困るからなのだ。

    指示というのは指し示すことだ。被験者本人に自分の動きで勝手に動かれても、からだは反応せず、感覚のききわけは困難なのだ。だから操者は、自然法則に則りからだを使い、そして動かした場合、全身形態はどの様に連動するかということを把握した上で、要所要所で、全身がスムーズに連動するよう指示(お願い)する。そして被験者本人が、からだの感覚を素直にききわけられるように配慮しながら誘導している。

    指示の意味を辞書で調べると、指図(さしず)することという記載もあるが、指図といった意味合いで捉えてもらっては困る。指図というと命令のようなイメージとなってしまう。指示(お願い)としているのは、命令形として受けとめてほしくないという願いもあるのだ。

    なぜ、命令形だといけないのか。それは命令形には、強制や服従という権力的なものや「縛り」といったものがつきまとうからだ。

    例えば、リラックスするように頑張れと命令されても、リラックス出来るだろうか?出来ないと思う。命令には強制の他に縛るという性質がある。

    この場合、「リラックスするように頑張れ」と言われた側は、表面的には従うことはできても、そこから先はどうにもならない。心とからだを縛ってしまうからだ。心とからだが窮屈な状態ではリラックスできないのだ。からだの感覚をききわけるという行為、意識関与にも当てはまることなのだ。

    事を合理的に進めるのならば、命令形はスムーズだろう。しかし、本来の心と、からだは、人間の合理的考え方に向いているのではなく、自然の摂理に向いているのだ。

    本来の心(天に通じる意識)は誰でももっている。だから、先程の例のような場合、人間は命令ではなく、本来の心、まごころというべきもので相手に接しようとするのではないだろうか。

    命令形は捨て、まごころから自然に湧いてくる打算のない労わりの言葉をかけ、そっと肌にふれ、緊張をほぐしてやろうとするのではないだろうか。
    社会的、人為的環境に適応しようとする表面の心の底には、自然環境に適応し、その大自然を愛と調和によって創造した天に向くまごころが、しっかりとあるのだと思う。

     「至誠、天に通ず」という言葉がある。これは、まごころは神をも動かし、良い結果に至るという意味だが、操体臨床の場にそっくり当てはまると思う。
     
     そういう姿勢で相手の心とからだに向き合い、そういう至誠で指示(お願い)誘導の言葉を発する。至誠の誠は言が成ると書く。

  • 権力か愛か・・・2.

    おはようございます。
    今日も昨日と同じ、権力化か、愛かといったテーマで考えていきたいと思います。

    操体及び操体法と権力とは相いれないものだと感じる。特に操体法に関しては、からだにききわけるという事が重要な為、当然、権力にはつながってこない。

    からだを服従させる、からだに強制をする、といった事とは対極にあるのが操体法だ。自力自動で自力自療に導くようからだを動かす場合でも、臨床の場で相手に操体法を受けていただく場合でも、服従とか強制といったものがあってはならない。

    からだの不調を訴える人というのは、それまでからだに対して服従を強要し、無理を強制してきた経緯が必ずあると思われる。権力は長くは続かない。その対象となるからだが、いうことをきかない状態になってくれば、権力うんぬんの問題ではなくなってくる。

    否が応でも、からだに合わせなくてはならなくなってくる。それならば、身心の不調和に陥る前に、自分の考え方や生き方を変えて、健康を増進させ、どの分野であれ自分を高めていくほうが良いのではないだろうか。

    自分ひとりで生きているわけではないのだ。自分を生かしてくれているイノチがあり、生かされて生きているのだ。道元禅師の教えには「鳥の命は鳥にあらづ空にあり、魚の命は魚にあらづ水にある」とある。

    生命現象はバランス現象であり、生かしてくれているものの存在がなければ、その存在はない。からだもその中の一つであり、からだが生かしてくれている多くの存在とバランスをとって、調和へと向いているから自分が存在していると言えるのではないかと思う。

    からだとそれを生かしめる多くの存在には、無条件の愛と自然法則が自在する。無条件の愛と自然法則がムスビとして自在するからこそ、からだを含めた多くの存在は調和の元に成立しているのだと思う。

    だから、自力自動で自力自療に導くよう、からだを動かすにしても、今明らかになっている自然法則を意識して、からだを使い、動かし、からだにその感覚をききわけるようにしなければ意味がないのだ。

    からだは快、不快を元にした感覚で応えてくれる。快であれば、そのまま十分に味わい、不快であれば中止する事。実践して悪くなる危険はないし、やってみて快を味わう程、日々やり続け快の質が高まる程、良くなるのが操体法であり、そこに健康増進の秘訣がある。非常にシンプルだ。しかしシンプルゆえに奥は深い。

    介助者なしで行う場合は、自然法則の理解とそれなりの精神性も求められると思う。自然法則の理解なしに、自分の勝手都合な動きをからだにとおしても、感覚のききわけは困難だと思う。

    いつもの自分の勝手、自分の都合の動きというのは、からだがそれなりに折り合いをつけてくれており、それで気持いいかと問われても、からだからしてみればナンセンスだろう。

    自分にとっての楽な動きというのは、権力的なものが見え隠れする。愛でもって自分に対応してくれているからだと向き合うには、自然法則を意識し、それに基づいた動きをとおしてあげる必要がある。

    自然法則は愛と愛をむすぶ架け橋であり、実を結んだ証が快適感覚なのではないだろうか。そうやって調和は密になっていく。そして日々繰り返すことで、未病を実すことにつながっていくのだと思う。

    また、権力的な強制や服従といったものが、からだに対してあれば、動きも早くなってしまい、感覚のききわけも困難なものとなってしまう。早く良くなりたいという気持ちは解るが、その気持ちが我となり、その欲望を満たそうとすると、どうしても動きが早くなってしまう。 そんなつもりはないと思っていても強制してしまっているのだ。

    感覚のききわけを目的とせず、見よう見まねで早く動いているだけでは、単なる体操だ。快適感覚こそが、最小エネルギーで最大の効果をもたらすよう働きかけてくれるものであり、その質をききわけ、より質の高い快適感覚を味わうという目的意識がなければ本末転倒であり、操体法ではないのだ。

    うまい具合にからだと向き合うのは、時間的にも精神的にも難しいかもしれない。しかし、生かされて生きているという事は紛れもない事実であり、素直にそこに気持ちを落ち着かせ、無条件の愛に想いを馳せながら、からだと向き合ってみるのも、良いと思う。
    きっと何かが変わる筈だ。

    臨床に於いて、相手に操体法を受けていただく場合についても、書こうと思っていましたが、長くなってきたので明日とさせていただきます。

  • 権力か愛か。・・・1

    こんばんは。
    今週は友松が担当させていただきます。
    よろしくお願いします。
    今年最初のブログとなりますが、今年は何かいつもとは違う感じがします。
    世界が変わってきているのか。自分が変わってきているから、感じる世界が変わってきているのか。
    どちらも当てはまるのではないかと思います。

    先日、テレビを見ていて、トヨタ自動車の新型クラウンのコマーシャルが、何か気にかかりました。気にかかるといっても、別にイチャモンつけようというのではないですが、何か、時代の移り変わりみたいなものを感じました。

    確か、30年ぐらい前のコマーシャルは「いつかはクラウン」というキャッチフレーズだったと思います。当時、クラウンに乗る人というのは、ある程度大人で社会的地位もそれなりにある人というイメージがあり、ある種のステータスでした。いつかは、この最上級の車に乗りましょう。そんなメッセージが込められていたように思いました。

    あれから30年の月日が経ち、先日見たコマーシャルは「いつかはクラウン」というようなステータス性よりも、もっと大切なものに気づいた、という内容に感じられました。

    このコマーシャルは、北野武氏とジャンレノ氏が共演しているが、以下のような会話をしている。

    北野・・・「愛は勝つって歌あったじゃん」
    レノ・・・「あった」
    北野・・・「あれ歌う奴、馬鹿にしてたんだけどさ」
    レノ・・・「してた」
    北野・・・「愛は勝つよな・・・って最近」
    レノ・・・「前は権力大好きオジサンだったくせに」
    北野・・・ニヤッと笑みを浮かべる。

     権力とは他人を自分の意志に服従させる強制力を意味するが、その背景にはそれを裏付けるものが必要となってくる。政治権力でいえば、警察や軍隊の物理的強制力が背景にあるという具合だが、一般的には金銭的なものとか、肩書きとか、あってはならないことだが暴力による恐怖といったものが、権力を裏付けるものとなっている。

     だから、権力はそれを裏付けするものがなくなれば、衰退し、消滅する以外にないのではないだろうか。また、権力には服従の対象になる存在が必要となるが、それが無いなら権力も無きものと同じだ。権力は条件付のものであり、永遠にはつづくものではない。それは歴史が証明している事でもある。

     一方、愛はどうだろうか。愛は裏付けを必要とするのだろうか。愛の表現としては、裏付けがあったほうが解りやすいかも知れない。しかし、そこに意識が向きすぎると、打算や見返りといったものにもつうじてきてしまう。本質的な愛は裏付けを必要とはしていない。なぜなら、この生命をはじめ、この世のあらゆるものは無条件の愛から生じているからだ。

     この世のあらゆるものは、愛と調和によって生じ、愛と調和によって成り立っている。この世のあらゆるものの根源を辿っていけば、太極の意志や陰・陽といったものにつながってくるが、陰・陽があるということはその性質上、親和だけではなく、互いに反発し合う部分も当然生じてくる。
     この世に存在する為には、それらが調和しなければならないが、反発し合うエネルギーにも方向・角度を与え、調和和親に向かわせているのが、愛の力なのではないだろうか。愛はこの世が存在する限り、永遠と言えるのだと思う。

    権力か愛、どちらが勝るのか。

    愛は勝つよな」というセリフはもっともだと思う。しかし、それよりも、愛は勝ち負けという相対的な事柄を、超越しているのだと思う。愛がなければ、この世が存在しなくなるのだから。この世という相対的世界にも、それを超越した絶対的な自在があるという事なのだ、と感じる。
     
    操体」の学びをつうじて、このような考えとなりましたが、明日は同じ事柄でも「操体法」の学びをつうじての考えを書かせていただきたいと思います。