ブログ

  • 〜何をおいても作法〜

    昨日、東京操体フォーラムに参加していただいた皆様、
    本当にありがとうございます!
    それぞれのからだを通し、
    操体と感性で向き合える一日だったと思います。
    7月には三浦理事長による操体マンダラ
    そして秋には秋季操体フォーラムと、
    操体ワールドはまだまだ続きます。
    昨日お会いできた導かれし皆様も、まだお会いできぬ導かれし皆様も、
    次回お会いできることを愉しみにしています。

    今回のフォーラムでは
    岡村実行委員長が般若身経と身体運動の法則を説明してくださり、
    畠山常任理事が操体の作法についてスライド画像による説明をしてくださいました。
    (恐縮ながらスライド画像のモデルを務めさせていただきました(汗))

    この作法というものは動診・操法を通すうえで、欠かすことができないものであり、
    これを欠いてしまうと単なるテクニックに陥ってしまうということは、
    三浦理事長の下で操体を学ばれている方々は重々心得ていますが、
    参加された皆様の目にはどう映ったでしょうか。

    私はこの作法に初めて出会ったときにとても感動したんですね。
    もともと何をする上でも基本を大事にするということが信条でしたので、
    私自身が即効的なことを求めていないことと相まって
    操体が一種の芸事のように感じられたのです。

    そして、この作法は修まっていると理に適い、見た目にも美しい。
    機能美と様式美を兼ね備えた優れものなんです。

    明治時代に書かれた新渡戸稲造氏の著書「武士道」にもこんなことが書かれています。
    茶の湯の集まりは茶碗、茶杓、茶巾などを扱う一定の手順を教える。
    それは初心者には退屈にすら思える。だがまもなくその人は、
    定められたとおりの方法が結局は時間と手間を省く最上の方法であることを発見する。」
    また、
    「正しい作法にもとづいた日々の絶えざる鍛錬によって、
    身体のあらゆる部分と機能に申し分のない秩序を授け、
    かつ身体を環境に調和させて精神の統御が体中にいきわたるようにする」

    武士道

    武士道

    先人が築いてきたものを回り道をせずに素直に受け取り、継続する。
    それは三浦理事長の講義で何度も出てきたお言葉「比較しない」、「〜でいい」
    という自己肯定の意識が介在することで可能となります。

    「はい!」という素直な意識で自分自身と向かい合う。
    今回、「操体プラクティショナー」に認定していただき、
    身が引き締まる思いと、感謝の念を抱くとともに、
    一生愉しめる操体に出会えた自分自身を「めんこ」がりたいですね!

    今日はこのへんで。ありがとうございます。

  • 〜操体ワールドへ!〜

    今日から1週間ブログを担当します瀧澤です。よろしくお願いします!

    いよいよ本日は春季東京操体フォーラムです!

    春季は実技メインの内容になっていますが、
    今回は触診やいくつかの下肢の動診など盛りだくさんになっております。
    そして操体の真髄でもある般若身経を通して操体の作法にも触れられる機会があります。
    参加される方々は頭だけではなくてからだを通して、
    是非感性で接してみてはいかがでしょう?

    私自身フォーラムに参加させていただくのは春秋合わせて今回で4回目。
    実行委員としての参加は3回目となります。

    初めて参加させていただいたときは一般参加でしたが、
    その時は2011年秋季操体フォーラムで「笑い」がテーマでした。
    臨床の世界以外の方々と接する機会の少なかった私ですが、
    このフォーラムで川崎先生の講義を聴かせていただき、
    異業種で活躍されている方のすごさ、面白さ、
    またこの「笑い」というテーマに即して操体があれよ、あれよと繋がっていくのを目の当たりにして、
    素敵な時間を皆で共有できたことがとても心地よかったと、私のからだは今でも覚えています。

    異業種といえば、ここ最近フォーラムに参加していただく方々も、
    必ずしも臨床の世界の方とも限らないようです。
    操体を学んでいる方々もそうですが色々なご縁で操体と関わり、
    「なんか面白そうだぞ」といつの間にか操体にのめりこんでいく。
    東京操体フォーラムの名の下に集う人たちは三浦先生いわく「選ばれて来た人たち」なのだそうです。
    あたかも自分の意志で目指しているようで、いつの間にか見えない何かによって引き寄せられている。
    「選ばれてきた人たち」は操体という磁石に反応する砂鉄のように、
    きっと最初から引き合う何かを持っているのでしょう。しかしその何かは人それぞれ。
    導かれし人たちはその何かを確認するために集うのかもしれません。
    今日のフォーラムでも何やら素敵なことが起こりそう。

    本日参加していただく皆様、素敵な一日となりますように。

    今日はこのへんで。ありがとうございます。

  • 病気と自己責任(最終日)

    昨日の続き

     我々人間は加熱調理したものを食べているが、健康のためには、食の工夫も必要である。火食すると、食物の持っているビタミン、ミネラル、酵素が死んでしまう。それらが死んで効果がなくなるだけならまだいいが、毒性に変化するものもある。特にほうれん草の場合は、生で食べてこそ、生きた蓚酸が働いて、からだのためになるが、一度煮てしまうと、死んだ蓚酸に変わって、からだにとっては毒になってしまう。神経痛、リウマチ、胆嚢結石、便秘、頭痛など、煮炊きされた蓚酸が原因で起こることがわかっている。

     しかし今さら全部を生で食べるわけにもいかないし、また人間の頭脳がこれほどまでに発達したのも、加熱調理したものを食べたからでもある。そこで加熱調理に関して最も優れている中華式料理法を学ぶべきである。どんな野菜であっても高温の油で炒めてさっとアンをかけ、短時間の加熱で調理することができる実にすばらしい中国の伝統文化である。植物性油で、短時間、そしてアンをかけるという三拍子が揃うと、消化率がうんとアップする。しかもビタミン、ミネラル、酵素が油とアンに包まれて破壊されることなく腸まで届いてくれる。これをするにはやはり中華鍋を使わないといけない。

     また生野菜や果物を食するのに、鳥類や四ツ足動物ならば何の問題もないが、直立二足歩行をする人間ではからだを冷やしてしまうことになる。それは免疫力を下げることにもつながる。そこで生野菜や果物を食べるときは、醤油を少しつけてから食べるようにしたい。生野菜や果物はからだを冷やす害があるので、からだを温める作用のある塩を少しつけることで緩和できるが、それでは血液の塩分濃度が濃くなって血圧の上昇が心配になる。ならば塩分の害を弱めてくれるアミノ酸共存している醤油が最もよいということになる。この醤油というのは日本人が生んだ食の最高傑作だといってもよい。

     ほかに動物性脂肪の料理については、その害を減らすために、植物性の酸である、ゆず、すだち、レモンなどを肉や魚を食べるときは、必ずこれらをかけるとよい。焦げた焼魚の発がん性をおさえる効果もあるそうだ。
    ここで肉食の誤解を説いておきたい。すでに指摘されていることであるが、脳卒中の発症率が高い理由の一つは、動物性食品の摂取が少ないためだと言われている。どういうことかと言うと、動物性蛋白質が不足すると、コレステロールが少なくなり、脳出血や脳深部の細い動脈に起こる脳梗塞を起こしやすくなるということが専門家にはよく知られている。肉に含まれる鉄分やセロトニンは、脳内で重要な働きをしており、肉食は高齢になっても重要な意味を持っている。

     民間素人医学でよく言われるように「肉と砂糖はカラダに悪い」と短絡的に切り捨てるのは、浅はかな考え方である。それよりも肉類の摂りすぎと脂肪分を減らす、いわば低カロリー、高蛋白になるように工夫することで、肉類はまことに良質な蛋白源になるのである。

     また食の健康について耳よりな話としては、野菜の最もよい摂り方であるが、生野菜でも、加熱調理した野菜でもなく、糠の漬け物である。ただし、かぼちゃだけはどういうわけか糠漬けには適さない。糠漬けは発酵食品であり、糠の中で乳酸菌が活動してビタミンCを作りだすので、その糠漬けを食べていると、ことさら添加物入りで割高な乳酸菌飲料を飲む必要はなくなる。

     そしてその食を燃やすために必要な人間の呼吸については、特に注意しなければならないことが多い。呼吸は現代人の文化生活において、ストレスの影響を受けて常にイライラすることばかりである。これは精神不安定な状態にあり、肉体的な病気とは一線を引かなければならない。いわば精神疾患である。そしてその精神疾患は感情に直結しているが、感情は自律神経が支配しており、この自律神経に影響を与え続けているのが呼吸である。だからといって呼吸法なるもののみでストレスが解消されるということはまずない。呼吸は身心の状態に応じて自在な呼吸が自律的になされており、どの呼吸がいちばんよいというものではなくて、時と状況に応じた自然な呼吸ができることこそ理想の呼吸だと言える。

     私は呼吸の専門家であるが、あえて呼吸のハウツーについては述べないことにする、ただ言えることは、意識からアプローチすることで呼吸の問題は片付くものと思ってよい。それは想念やイメージといった内在の意識操作から導かれた自然な呼吸において、精神に重要な役割を果たしてくれることになる。

     一週間にわたって、自分のからだについて他人任せにすることができない自己責任というものを考えてきた。病気に直接影響を及ぼす自己責任として従来から言われている「息・食・動・想」と、それに加えて操体スーパー・バイザー三浦寛師の持論発案による「皮膚」への働きかけというものがある。しかし、あまり熱心にそればかりを実践していると行きづまってくることになる。そんなときは原点である日常の起居動作に心をこめて、自然なからだの動きに身を委ね、任せることで、からだの奥にあるイノチの営みを見つめることができるだろう。病気にも健康にもあまり過剰な意識は持たないようにしたいものである。

     明日からは瀧澤実行委員の担当です。

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 病気と自己責任(6)

    昨日の続き

     動物は病気をしないのに、人間ばかりが病気に苦しんでいる。何故、こんなことが起こるのか。熊は爪を得て、キリンも頸を得、鳥は翼を得たように、人間は頭脳を得ることができた。その頭脳こそ我々が言う自称「文化」と称しているものだ。そして我々は立って歩く、衣類を着る、加熱調理したものを食する、まことに文化というものは、動物界から大きく我々を引き離したように見える。

     しかしそのような文化こそは、我々が病気に苦しむ素因であることを、改めて認識する必要がある。立って歩くことによって仙腸関節がずれて腰が歪んでくる。これは歪まざるを得ない運命にある。人類が起立して直立歩行するようになってから、60万年経ったと動物学者は言うが、人類の先祖が、魚であり、トカゲであり、哺乳動物であった期間は、その何千倍にも当たる。人類が起立しだしたのは、最近、ついこの間の事柄といってよい。だから人類のもつ病気の悲劇は、そこに始まったと断言できるのである。

     橋本敬三医師は『からだの設計にミスはない』と言われたが、それは生命を何とか持ちこたえている、いわゆる「間に合っている」という範囲での話であって、本当のことを云うと限定条件付での「からだの設計にミスはない」と云わざるを得ない。何故なら、人類の骨盤と脊柱を見ても、力学的に、直立歩行するようには作られていない。未だ人間も馬や牛と同じように、四足で歩いていたときに、最も安定できる脊柱であり、骨盤なのである。これは動物力学を専門とする学者の間では常識的な見解である。

     一軒の家にしても建築工学からみれば、そのまま横倒しにしたのでは、崩れてしまうことは明らかなことだ。設計上、梁が横に延び、柱が縦に支えられているので、家が安定するのであるが、これを仮に横倒しにしたのでは、梁が柱の形になり、支えようがなくなってしまう。人類の骨盤も、もとの梁の役目として設計されている。それゆえ、それが柱になったのでは、梁であった柱は、まことに困ってしまうのである。
     また背後から見て、人間の背骨は、利き手が関係しているため、たいていS字に曲っている。その85%は、骨盤の左が上がり、右が下がっている。このような歪みは、動物ではまず見かけることはない。魚の骨を見ても一目瞭然! 未だかって背骨の曲っている魚を見ることはない。脊柱が曲ると、脊髄神経が圧迫されてその活動が鈍る。それがたちまち、血液循環を阻害する。病気の一つの原因はこれである。

     我々が人間である以上、脊柱の矯正に努めない限り、遅かれ早かれ必ず病気を作るものと考えざるを得ない。もしも、それが面倒だというのなら、動物のように四つん這いになって歩くことである。我々は衣類を着る、これも実に気の毒な生活様式である。動物たちが作った辞典に、「人間とは、身体を変なもので隠している妙な動物である」と書いてあるそうだ。
     衣類を着ることで、それだけ、皮膚が弱くなってしまう。皮膚が弱くなるということは、それだけ皮膚呼吸が悪くなることだ。皮膚には筋骨の保護や体温の調節のほかに、腎臓と似たような、大切な役目があり、それは体内の毒を排泄する働きがある。この機能が落ちると、血液が濁りだしてくる。すると、腎臓が弱くなって、風邪を引きやすくなったりする。ひと夏、海で遊んで皮膚を鍛えた子供は風邪を引かないといわれるのはこれである。

     我々は文明を得た動物として、衣類を着るのは仕方ないとしても、血液循環のことを考えれば、衣類の着方にもひと工夫が必要である。健康の絶対的必須条件である頭寒足熱になるよう下半身は温かく、上半身は涼しくなるように、意識的な配慮が求められる。これは基礎物理学で言う熱の移動原理である。からだの中の血液循環というのは物理学でいう対流であり、いわば血液が移動することである。そのためには足方から温めることで、温められた血液が移動することになって、その温熱を伝える現象を対流と言う。足方部の血液が温められると膨張し、密度が小さくなるため軽くなって上昇することになる。そこへ頭部の冷たい血液が流れ込んで対流が起こる。火事場付近に風が起こるのは、空気の対流のためであるが、これと同じことがからだの血液の流れにも起こっているのである。

     明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 病気と自己責任(5)

    昨日の続き

     病気は血液循環をよくすれば治る、と昨日も述べた。そしてそれには筋骨と皮膚に働きかけるとも言った。まず筋骨格系については、これを力説しないものはない。歩け歩け運動から始まり、ジョギング、エアロビクス、ストレッチ、そして筋トレに至るまで、みな血液の循環を目的とするものである。科学文明の発達とともに、ますます運動の大切なことがわかってきたのは必然的なことだ。
     運動筋肉の血液循環がよくなることで、その血液循環の勢いが、内臓筋肉にも及んで、内蔵の血液循環もよくなってくる。すると、腐った細胞も運び出されることとなり、新しい栄養も配られるので、病患部は元の健康に戻るという論理である。運動を抜きにして健康は論じられないことは、もはや常識である。

     しかし骨格の重要さについて気づいている人は少ないようだ。私の施術院にやってくるクライエントには腎臓を悪くしていると、訴える人がいるが、「あなたはゴルフをやっていないか」と私は尋ねることが多い。なぜならゴルフを熱心に練習すると、どうしても胸椎10番に無理がかかって、そこが歪んでくる。胸椎10番が歪むと、必ず腎臓が悪くなるからである。ゴルフは運動としては結構なことであるが、そのゴルフによって、骨格が歪むことに気を使っている人はあまりいない。
     骨の歪みが原因で重患になるケースとしては、ムチウチ症が多いが、追突されて10年、病院に通いつめてもなかなか治るものではない。骨格の歪みの恐ろしさは、これでよくわかるはずである。それを矯正する方法としてオステオパシーカイロプラクティック、それに東洋の鍼とかがあるが、どれも思うほどではないのが現実だ。これについても操体法は、実にすばらしい効果を出すことが期待できる。骨格の異常をピタリと整復する実力を持っているからである。

     次に皮膚については、外部から容易に触れることができるので、その刺激が内部に伝達されて血液循環をよくすることは、誰でも知っている。日光浴、風浴、水浴、摩擦、湿布、膏薬、果ては吸玉、鍼、灸、電気なども皮膚による血液循環法である。ひと風呂浴びると、さっぱりするのも、皮膚の刺激が、内部の血液循環をよくしたことで清涼感を覚えるからだ。
     それほどに皮膚というのは、血液の循環をよくする方法なのであるが、事実は、あまり注目されてはいない。筋肉の運動は、血液循環のために大切だということは誰でも知っているようであるが、皮膚の刺激が血液循環のためにどんなに大事なことか、知っている人は少ない。その証拠に、健康法と称する本が無数に出版されているが、運動の大事なことに言及していても、皮膚の大切なことには触れていない、説いていない本が多い。

     血液循環のことをいうならば、皮膚への働きがけと、筋骨の運動とは、まったく対等の価値をもっている。ゆえに一方を言うならば、必ず他の一方を言わなければ、健康道としての作法に、大いに欠けるところがあるのだ。この一辺倒の傾向は、血液の質について、呼吸を疎かにし、食の栄養一辺倒に流れやすいのと、不思議なほどに似通っている。健康を学問とする専門家たちが、大いに筆をふるっていながら、血液の質において呼吸を忘れ、血液の流れにおいて皮膚を見落としているのは、一体どうしたことであろうか。操体法ではこの皮膚に働きかけることで生体の歪みを正すことに開眼したのである。ただ操体法においては、皮膚への刺激ではなく、軽い接触をもって対応しているのが何よりの違いである。

     明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 病気と自己責任(4)

    昨日の続き

     血液は酸素と栄養とを、およそ60兆を数える人間の細胞に配る働きを日夜休むことなくこなしており、その血液が滞れば、細胞はたちまちにして窒息し、餓死してしまう。そして累々と重なった死んだ細胞を運び出すこともできなくなってしまうが、それが病気というものである。
    動物でも植物でも、生きているうちは腐らないが、死んだとたんに腐りはじめる。うじ虫にしても、生きている猫にはつかないが、轢死でもしたとたんに、湧きだしてくる。病気はバイ菌が原因だ! というのは、そこのところを見たものであるが、生きている猫には決して、うじ虫はつかないように、生きている細胞には、決してバイ菌はつき得ないものである。ということは、病気の原因はバイ菌ではなく、死んだ細胞であるということを知らなければならない。どんなに、うじ虫をつくるハエが集まっていようとも、猫が元気で生きていれば、決して、猫のカラダにうじ虫は湧かないものである。バイ菌がどんなに入ってこようとも、死骸になった細胞さえなければ、バイ菌は殖えることはできないものだ。

     いちばん恐ろしいのは、バイ菌ではなくて、我々自身のからだの中の「死んだ細胞」なのである。コレラ菌やチブス菌や赤痢菌などから発症するいかなる伝染病にしても同じである。腹に内出血のない健康なからだであるならば、どんなにバイ菌を飲んでも、からだの中を素通りするだけで、いかなる病気も起こることがない。結核菌はいたるところに飛んでいる、と医学は言っている。もし肺結核が、結核菌のためだというのなら、すべての人が例外なく、肺病になっているはずである。ところが、事実は極めてわずかの人が感染するにとどまっているということは、やはり結核菌が原因ではないということだ。

     このことからもわかるように伝染病は、菌によって起こるものではない。我々の腹の内出血の有無によって決まってくるのである。この分別は、未だに、一般にはよくわかってないらしく、自分のからだの弱さが原因であるのに、病気といっては、すぐにバイ菌を殺すことを考えるのである。バイ菌も我々と同じ生き物であるから、殺されるのは嫌であり、当然に抵抗する。そのうちに抵抗が上手になって、普通の薬では効かなくなる。すると人間は効き目がなくなったから、もっと強い薬を作ることに精を出す。そして、やれやれやっとバイ菌を殺し終えたと思ったら、我々人間の方も死んでいた、ということになりかねない。

     バイ菌にも人間や他の生き物たちと同じように生きる権利はあり、無益な殺生はしないほうがよい。それよりも、バイ菌と共生する道を考えるべきである。お互いが敵同士のように見えた間柄が、共生してみると、案外味方どうしであることに気づくかもしれない。我々人間にとってバイ菌は有害だという、しかしバイ菌にとっても、薬という兵器を使う人間は有害なのである。それで当然にして人間の方に生きる優先権があると言うであろうが、そう云う人間とは、いったい何様のつもりなのか。宇宙はすべての生物に甲乙つけることなく、平等に生きる権利を与えているが、これは大宇宙の法則である。こういった大事な認識が乏しいかぎり、戦争という人間同士の殺し合いも、いつ果てることもなく続くであろう。

     このように病気というのは、闘ってやっつけるものではなく、血液の流れさえつければ簡単に治るものである。そのためには、からだのいちばん外側の表面にある皮膚と内側の筋骨とを揃えていかなければならないが、こういったからだの外と内を同時に働きかけることができる、そんな妙法があるのをご存知だろうか。操体法には皮膚に軽く接触することで筋骨格系を同時に調える秘訣がある。興味のある方は是非、操体法東京研究会を訪ねてみられたい。

    明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 病気と自己責任(3)

    昨日の続き

     どんな病気にしても、その原因を追求していくと、必ず「血液の濁り」の一点にたどり着くのは確実なことである。ゆえに病気を治したいと思うなら、まず、血液を浄化することから始めなければならない。血液を清めたのにもかかわらず、治らなかった病気というのは未だかって聞いたことがない。血液が汚れる、濁る、とは一体何を意味するのだろうか。一つは血液の質が下がることと、もう一つは血液の循環が悪くなる、すなわち血のめぐりが落ちることである。

     血液の質の要因としては、「呼吸」と「食事」が関係している。呼吸が浅くなれば、血液中の酸素が少なくなって、せっかく口から取り入れた栄養が不完全燃焼となり、燃えきれずに残ってしまう。これは酸素不足の状態で火を焚くのと同じことで、可燃物は火になって燃えずに、煙になるばかりで燻ぶってしまうことになる。口から栄養を取ることにより、カロリーが出る、と思っている人が多いようであるが、食物が栄養になるためには、まず十分な酸素が必要なのである。ということは、呼吸の浅い人が栄養を摂れば摂るほど、ますます栄養不燃焼を起こして、血液が燻製になって濁ってしまうことになる。これは自動車のエンジンやボイラーなどの内燃機関における不完全燃焼と何ら変わることがないのである。

     酸素をとり入れる呼吸の座は、鼻であり、栄養をとり入れる食物の座は、口であるが、この二つは顔の中央正面に、同等の資格をもって縦に並んでいる。いずれがより大切ということはなく、二者協力によってのみ、良質の血液をつくることができる。にもかかわらず、TVのCMに見るような栄養摂取のみを説いて、それで良質の血液がつくられると思い込ませるのは、いったいどうしたことであろうか。呼吸の大事なことをあまりにも認識していないように思える。人間は自然に呼吸しているから、あえて説く必要はないと考える人もいるが、それならば、人間は自然に食べているから、栄養など説く必要はなくなるのである。人間は人間だから、やはり「栄養学」が必要であるというなら、それとまったく同じように、人間は必ず「呼吸学」を必要とするのである。

     人間の腹部には、肉食中心の西洋人などで全長4〜7m、穀物や野菜中心の我々日本人は9〜11mという身長の何倍もの長さの腸管が詰まっており、この腸の周囲を多くの血管がとりまいている。したがって腸には大量の血液が集まっているが、構造的に血液循環が悪く鬱血状態になりやすい。血液の循環が悪くなれば、血液中の酸素や栄養も全身に運ばれなくなってしまう。
     そこで呼吸によって肺底まで空気が満たされることで、肺は大きく膨らみ、ポンプの圧力のように自然に、無理なく横隔膜を下げることができる。すると腹圧が高まって、滞っていた血液が勢いよく押し出されることになる。このように血液の流れがよくなれば、酸素をはじめ、腸から吸収された蛋白質、炭水化物、ビタミンといった多くの栄養素の運搬もよくなって、全身の細胞に新鮮な酸素と栄養が行き渡るようになり、体細胞を活性化させる。また血液が体内から回収してきた二酸化炭素も十分に放出することができるのである。

     良質の血液のためには、呼吸とともに栄養の大事なことは言うまでもない。澱粉質、蛋白質、脂肪質の三大栄養素をはじめとして、ビタミン、ミネラル、酵素などの栄養学の発達は実にすばらしいと思う。しかし栄養学がすでに完成しているわけではない。厳密な意味では、永遠の未完成であり、無限の追究を要する課題である。

     動物はまったく栄養学をもっていないが、立派に栄養を摂り、人間以上に、健康と天寿を楽しんでいる。その「栄養摂取本能」は、人間にも与えられているはずである。この本能を動物のように発現させることができれば、どれほど健康に役立つことだろうか。だからといって、今さら動物と同じような自然の食事法をするわけにもいかない。そこで人類の先人たちが「腹八分目」と教えるように、少食にして、菜食中心の食生活を心がけることにより、本来の自然な食事法に近づけることができるのである。

     このように呼吸と栄養とは、血液の質に関する大切な要素であるが、この血液の質に対照して、血液の循環が問題である。良質の血液であっても、その血液の流れが停滞すれば、不良血質に変わり、そのまま放置しておくと、生命維持の根源である正常な体細胞分裂ができなくなってしまう。その結果、がん細胞のように細胞分裂が不規則になった無秩序な細胞は、正常細胞より活発に分裂し、周囲の組織をおかすだけでなく、血管やリンパ管などに入って転移するようになるのである。いずれの病気にしても、このように血液の流れが淀んでいるという現象が起こっているのは確かなことだ。

    明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 病気と自己責任(2)

    昨日の続き

     本当に病気というのはありがたいとしか、他に言いようがない。病気になったことで我々は死なずにすむからである。もし、病気が起きなかったら、たちまちにして回復し得ない重症に陥ってしまうだろう。病気というものは、からだの危険性をいちはやく知らせてくれる警報器でもある。いと精巧な警報器がついているからこそ、「病気」になれるのであり、痛いとか、痒いとかも言えるのである。
     そこを間違えて、病気を悪者扱いにし、闘病モードに入って病気と闘うというようなことは、決して考えてはならないことだ。病気になるのには必ず原因がある。しかるにその原因を取り除けば、病気は必ず消えてしまうが、これはきわめて簡単な論理であるのに、ほとんどの人が理解していない。病気は決して嫌ってはならないものであり、その原因を見つけ出して取り除くべきことなのである。

     病気になって痛みがあると、それはありがたい警報であり、また同時に原因を取り除こうと血液を呼び集めている尊い働きである。その痛みは、病気そのものではないのに、痛み止めの薬を飲んで痛みが止まると、治ったと思い込んでしまうのだ。これは治ったのではない、痛いと感じる神経が殺されたのである。未だかって死んだ人が痛いと言ったことがないのと同じで、鎮痛剤を使えば、痛みがなくなるのは当たり前のことだ。
     
     たとえば盲腸炎というのは、破裂していない限り、簡単に治るものである。それを切り取ってもらい、これで盲腸炎が治ったと言って喜ぶ人が多いが、とんでもないことである。盲腸というのは、腸機能の警報器だ、この警報器がなくなると、腹に故障が起きても感じることができないようになる。盲腸が存在していることが原因で、盲腸炎になったのなら、当然、その原因たる盲腸は、切り取るべきものである。しかし、健常者が、盲腸はいぜん生まれたままについていても、盲腸炎で困ることはないのであるから、盲腸炎とは、盲腸があるからではないというのは明瞭な事実である。
     盲腸炎の本当の原因は、肉類や砂糖の過剰摂取や腰椎二番の副脱臼、それに左膝の故障、あるいは心の不平などであるから、それらを治せば、姿がなくなれば影も消えるように、盲腸炎は消えてしまうものである。およそいかなる手術にしても、切り取ったところは、神経も同時に切られているから、警報線を外されたようなものだ。するとそれだけ、からだが無防備になり、それだけ寿命を縮めることにもなる。

     これは薬剤についても、ほとんど同じようなことが言える。一般薬品というものは、肉体にとっては、必ず異物であって、健康体の人に与えて実験したら、その害毒作用はすぐに分かる。健康体に害を及ぼすぐらいであるから、病弱体には、もっと強く害を及ぼすことになるのは、論理的に言っても間違いない。
     神経痛を患った人が長いこと、副腎皮質ホルモンを射っていて、あるとき床に尻餅をついて、立てなくなりレントゲン写真で見ると、骨盤が三つに割れていたそうだ。またコーチゾン薬と病気の板ばさみにあって苦しんでいる人も意外に多い。それは一種アレルギー中毒にも似た症状である。他にもストマイ注射のために耳が遠くなったという、西洋医学ではストマイ難聴は治らないものと言われている。このように薬を服用するのは、それなりの覚悟が必要だ。いくら医者が薬を処方しても服用するのは、あくまでも自己責任なのである。

    明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • 病気と自己責任

    今週は日下が担当です。 テーマは操体療術家らしく「病気と自己責任」ということで。
     今回は病気というものの真の姿と、その病気になるための素因である息食動想と、それに皮膚を加えた自己責任との関係性について考えてみたい。 まず、病気で苦しんでいる人は、病気とは何であるのか、ということを理解しなければならない。病気というものは、からだが持っている本能の働きであり、健康を回復しようとする尊い努力の賜物であるということを。
     たとえば病気になって熱が出るのは、高熱によって害菌を掃滅している姿であり、その発汗によって菌毒を排泄する働きをしている。また痛みが出るのも、その痛みによって血液を患部に寄せ集めて、病根を清掃している尊い相であり、嘔吐をするのも、下痢をするのも、すべて毒物を一時も早く排出しようとするありがたいからだの活動である。したがって感謝こそすれ、闘病などと称して病気と闘うなんてことを言い出すのはとんでもない話であり、からだに対して恩知らず、恥知らずであると言うしかない。

     およそどんな病気にしても、正常な健康を、一刻も早く回復しようとする働きがないものはない。そんな自然の条理が手に取るようにわかってくれば、人はまず、病気そのものに感謝せざるを得ない。感謝というのはこのようなことを言う。「病気になってありがとう」そのように心で合掌できるようになったとき、病気の半分は、そのとき、もうすでに治っていると思ってよいのである。
     なぜなら、感謝することで明るい心になれることと、からだが教えてくれる治療の方法を過らなく、受け取ることができるからである。反対に病気を悪いもの、と思い込むと、何よりもまず、たちまち自律神経が弱ってしまい、血管と内臓の働きが落ちてしまう。たとえば心配すると胃の活動が落ちるという体験でもわかることだ。

     最近流行の「癌」! これもありがたいと思うしかない。本当に癌というものは、ありがたいものなのである。もし癌ができていなかったら、もうすでに死んでいたかも知れない。からだの本能が、一生懸命に癌をつくってくれて、他へその毒が散らないように、その部分だけに押さえ込んでいてくれている。
     洪水のとき、堤防の土手に砂袋を重ねて水を防いでくれている自衛隊の方々を、我々はきっとありがたいと感謝するにちがいない。癌の症状は、その土手に詰まれた砂袋であり、まず心から感謝しなければならない。それから癌を起こさないような、正しい生活を実践することで、血液を清めることができる。血液が本当にきれいになれば、どんな癌でも、洗い流されて消えてしまうしかないのである。事実、いかなる種類の癌であっても、手術や薬剤によらずに治る、いや治るのが当たり前である。

     病気になったら、からだの本能への感謝と、正しい生活の実践を実行することで、血液は浄化され、病気は洗い流されてしまうものだ。病気の症状というものは、からだの本能からのメールであり、病気になったその時、「症状」というメールを開けて、よく読み通したらよい。何をしなければならないのか、ということを症状自身がよく教えてくれる。
     たとえば熱が出たら、脚湯、半身浴などを行うことによって意識的に頭寒足熱状態をつくり、もっと汗が出るようにすればよいし、吐き気がしたら、指でも突っ込んで、もっと吐くようにし、食欲がなくなったら、水分だけは補給して、絶食すればいい。また痛むところがあれば、からし湿布などしてその部分に血液をたくさん集める算段をすればいいのである。しかしこのような処置はあくまでも応急的な処置であり、病気をつくった本当の原因は、必ず別にあるのだから、その原因を追求して取り去らなければならない。それが「症状というメールをよく読む」ということである。

    明日に続く

    2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。

  • p1*[岡村 郁生(おかむら いくお)『イロ色あるから人生じゃないか』

    「万能」はあるのでしょうか。それを求めているのは欲なのでしょうか。
    そんなの当たり前といえる「理」もあるのでしょうか。
    仮の姿である花びらも現実、真の姿は土の中に広がるのでしょうか。

    〜なんとなくしっくりこない〜

    「イイじゃない似合ってるよ」
    「ウン、ピッタリだよ」
    人にはほめられてはいるものの、なんだか、しっくりこない。

    ピッタリだなと感じられるものとは何なのか?
    小さい頃からそれを知りたかった。実感を伴いたかった。

    自分の感じている、この感覚を共に分かちあうこと、
    それは大人になるにつれ、巡り会えるならいいなァ・・・、と。

    アノネ・・・いいんだ。我慢はしても無理はしなくていい。
    無理に目の前にある状況に合わせなくても、
    無理して合わせるその前に、その違和感を大切にしておいて欲しい。

    妥協するのは、計算なのかもしれない。
    どこから違和感を感じているのか。
    どこから引っかかってしまったのか。
    分かれ路では、小さな相違を大きくするきっかけを感じなかったかい。

    それでもいいんだから・・ネ。
    いいかい、焦って急いだら、きけないよ。
    それは理に適っていないからわからないんだ。

    そう・・・ユックリ・・・で構わない、元に戻ればいいだけなんだから。
    しっくりこなかったのは、
    「からだにききわけて」みなかっただけじゃない。

    「楽」を求めて、「からだの要求」ではない”何か”を求めすぎたのかもしれないよ。

    そう。「快適感覚」は、からだ本来の要求している感覚。
    「からだにききわけて」しっくりしないときには、しっくりくる理由もあるんだから。

    〜生まれてきてヨカッタ〜

    性の探求において我が性に命をかける。これなら命を惜しむことはないのです。
    私自身という救いを感じ、死生観において気づきを与えられることもあります。
    静的良心に通じ、性的両神にも教えて頂きながら、反省する日々もあります。
    いわば、食は命なら、色も迷ならぬ”命”にかなっているのです。

    大人になる社会のなか、身につけてしまった固定観念や価値観に縛られ、
    知られたら格好悪いとか、こんなこと恥ずかしいとか、
    傍目に変人と思われるとか、原始的でみっともない・・云々。

    いいかい、それは要らないんだ。
    そんなモノ身につけていなくてもいい、そんな ”間” は合っていいんだ。
    起こっていることに条件を求めず、肯定して受け入れてもいい ”間” は合っていいんだ。

    合一には、時間が要らない。そこに満ちているのは愛、
    絶対的な信頼感と、絶対的な安心感による唯一無二による不文。

    あたしゃ・・生まれてきた自由さえ否定している人生なんて、まっぴらゴメンだね。

    ね、大自然のオッカサンに感謝できるんだ。それでイイじゃない。

    ・・・では、このあたりで・・・今週のブログ担当は岡村郁生。
       一週間のお付き合い、本当にありがとうございました。
       皆様〜春季フォーラムでお会いしましょう!!

    そしてお待たせしました!いよいよ明日からは、知る人ぞ知る伝承者、日下実行委員の登場です。。ご期待下さい!!

    B2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。