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  • 今月からバッグを変えてみることにしました。
    普段使っているものが傷んできたというのもあるのですが、極力身軽にしようかと思い立ちました。

    以前はA4サイズの書類や本が入ることを基準に選んできました。
    性分で本も常に何冊か持ち歩かないと落ち着かなかったので、やたらかさってしまっていたものです。
    たまに、それって重くないのと聞かれたりしましたが、実際重いです。
    それでも腰痛や肩こりなどに悩まされたこともないのは操体をやっているおかげだと思います。
    一日の仕事が終わった後に一人で横になってからだと対話する時間をとることが日課でした。

    とはいえ、普段の歩き方にも影響がでてくる点が気になります。
    近頃では、情報のクラウド化もあり、荷物も減らすにはいい機会なのでもう少し歩くということを味わってみようと思います。

  • 先日、「脳波停止の後に残る意識」という気になる記事を見つけた。
    蘇生医療の専門家サム・パーニア氏の話である。

    現在、心肺停止または脳死の状態が死の定義とされているが、この時点では意識は無くなってはいないとのことだった。

    「現在はっきりとしているのは、人間の意識が消滅するわけではないということだ」
    「意識は”死”のあとも、数時間は存続する。外側からは見ることができない冬眠的状態であるとしても」

    心臓が鼓動を止め、脳が機能を停止している状態から蘇生した人達の話を聞くと何かを見たという報告をするという。
    そしてその人達は死の宣告をされた後の周囲の物事を正確に記憶している。

    「少なくとも、そうした話は人間が死を通過するときに出会う、独特の体験が存在することを物語っています。それは普遍的な現象で、3歳の幼い子どもでさえそうした体験を話します。そしてこの体験が教えるのは、われわれは死を恐れるべきではないということです。」

    橋本先生は、「みんなが行くところだから、いいところに決まっている」とおっしゃっていたそうだ。
    その時はどういう形になるかはわからないが、穏やかな気持ちで迎えたいなと思う。

  • 最近気に入っている本の一つに、高杉さん家のお弁当がある。
    これは電子書籍で持っている唯一のコミックだ。
    コミックに関してはまだまだ紙の方がいいかなと思いつつも、新刊をチェックしている際に目が止まり、ついつい衝動買いをした。

    高杉さん家のおべんとう 1

    高杉さん家のおべんとう 1

    高校時代に両親の死と叔母の失踪で家族を失っていた31歳のオーバードクターの主人公が、ある日従妹の未成年後見人となり、弁当作りを通して家族となっていく話である。

    数年前に自分でも弁当を作り始めた事もあって、興味のあるテーマだった。
    もともと晩酌の習慣があって、酒の肴にちょこちょこ作るのは好きなのだが、毎日弁当を作るとなると食材の用意も変わってきた。
    食について考えるきっかけになり良かったと思う。

  • Amazon電子書籍サービスkindleの日本版が開始して半年が経った。
    当時から周りでも話題になってはいたが、音楽や映画のネット配信の時に比べいささか抵抗があった。
    抵抗というよりは関心が薄かった。
    専用端末やタブレットなどの大きめの画面でなら見やすい部分はあるものの、持ち歩きを考えるとまだ紙の本の方が気軽に読めるかなと思っていた。
    なので、スマホパブリックドメインの文章が詠める青空文庫を利用しつつ様子を見ていた所であった。

    ここ数ヶ月の流れでスマホの大画面化が進んで5インチ前後が主流になり、機種変更をきっかけにKindleのアプリを入れてみた。
    いくつかの本を購入してみたがこれが使いやすい。
    本文中にハイライトやメモを残せるし、辞書もその場で引けて、クラウドで同期できる。
    今ではもっぱらKindle版ばかり買って、欲しいものがない時だけ紙の本を検討するようになった。
    出版社によって扱いに差があり、個人的に好きな岩波やちくまが対応していないのが残念ではあるが、今後に期待したい。

    操体の本も電子書籍で持ち歩けるといいのだが、これは自炊するしかなさそう。
    いずれにしても本を読む楽しみが増えたのは確かである。

  • 今週担当の辻です。よろしくお願いします。

    先週、富士山の世界遺産登録のニュースがありました。
    ユネスコの国際記念物遺跡会議で、条件付きではありますが、登録勧告を受け、6月にも正式に登録される見通しとのことです。
    これまで自然遺産としての登録を目指してきていましたが、ごみ問題などが指摘されていて、今回周辺を含めた文化的な価値としての側面を見なおされての文化遺産としての登録になるようです。

    富士山といえば北斎富嶽三十六景や広重の東海道五十三次を思い出しますが、包装紙代わりに使われた浮世絵が海外の画家達に影響を与え、ゴッホなどは自画像に富士山を描いています。

    現在、スペインで操体フォーラムが開かれています。日本医学としての操体を海外の臨床家へ伝える為に理事長・理事が海を渡っています。
    橋本先生は日本は宝の山だとおっしゃいましたが、その宝を日本人自身が知らないのはもったいないことです。
    実際に操体を学んでいる私たちは次の世代へしっかりと伝えられるように臨床だけでなく伝道師としての役割も果たせるように深く理解する必要があるのですね。
    しっかりと学んでいきたいと思います。

    富士山の動画です。最近Timelapseがお気に入りです。

  • 〜良心から見たら白〜

    小さいころは図鑑や漢和辞典が好きでした。
    動物や恐竜の絵をそっくり書き写したり、
    難しい漢字を拾ってきては書き取り練習をしていましたね。
    小学校1、2年生の頃に、6年生で習う漢字の書き取り練習をしていると
    母親から、「まだ早い、今習う漢字をやりなさい」と怒られたものでした。

    絵にせよ、文字にせよ、想像力を働かせて自分の中のイメージを表現するというよりも、
    より正確に、よりそっくりに書けるかが、小学生の自分にとっては愉しみでしたね。

    書道をやっていたせいもあるのでしょうか。
    何かを手本にしてそれに倣うことが、身についていたのかもしれません。

    この模倣するという事(今風に言えば完コピ)は
    学びにおいては「守・破・離」の「守」の段階にあたります。
    自分を消して事にあたる。
    師が「白」と言えばそれが「黒」でも
    弟子は「白」と言う。理不尽ではなく弟子には見えていないだけ。

    中学生の頃に「十円玉はどんな形?」と国語の先生に聞かれたことがあります。
    私も含め、そこにいた生徒たちは当然「丸!」と答えました。
    しかし、先生からは意外にも「四角にも見えませんか」と。
    十円玉は正面から見れば丸ですが、上から見たら確かに四角だったんです。
    「ああ、納得!」

    何処から見ているか。
    学びにとっても同じこと。

    そういえば、操体の中に出てくる言葉たち、
    「快」や「愉」、「悦」に「性」などには「りっしんべん」がついています。
    りっしんべんはこころを表し、こころはふわふわと定まらず、喜怒哀楽によって波打つもの。
    そんな不確かなものが何故、操体の中に出てくる大事な言葉についているのか。

    こころは「心」ではなく「良心」だったんだとわかったとき、
    「白」がちゃんと「白」に見えるようになったんだと腑に落ちました。
    これも以心伝心。

    4日、5日と、三浦理事長、畠山常任理事、福田理事が
    スペインのバレンシア操体のセミナーを行なってきてくださいます。
    日本とは学びに対するスタンスが違うようですが
    受け取る側は是非、感性で、良心で、
    向かい合って欲しいものですね。

    1週間ありがとうございます。
    明日からは薩摩のイケメン、辻実行委員です。
    宜しくお願いします。

  • 〜意識一つで〜

    座席に座る。
    足底がしっかりと接地しているのを確認しながら、
    ゆっくりと自分の中心軸を作る。
    ポジションが決まったら、そっとハンドルに触れ、
    中指から小指に意識を向ける。
    自然と脇が閉まり、肩甲骨とつながる。
    目線を正面の一点にすえ、
    視野が狭くなることなく広角的に使う。
    アクセルを踏み込むときは母趾球で、
    カーブを曲がるときは肘を正中に向けながら肩甲骨でハンドルを切り、
    作った中心軸は崩さない。
    ブレーキをかけるときは重心移行と骨盤の前弯曲で対応。
    すべての行為を優しく、丁寧に…

    これを読んで「なんのこっちゃ」と思われる方もいると思いますが、
    実は車の運転中の私の意識なんです。
    これは車に対して、操法を行っているような感覚で対峙しているんですね。

    操体の身体運動の法則は何にでも応用が利きます。
    ちょうどたまねぎの皮をはいではいで最後に残った芯のごとくであり、
    すべての運動の粋の粋、行住坐臥すべての行為に当てはまります。
    そして法則に身をゆだねるとスーッと余計な思考が消えていく。

    私の営業形態は訪問スタイルなので、移動手段に社用車を使いますが、
    計算してみると週9時間は運転していることになります。
    その時間と空間をどう有効に使うか。

    私の意識を法則にゆだねてみると、社用車が相棒となり、私と同じ血が流れ、
    「ぼ〜くらは、みんな〜、い〜きている〜♪」のテーマが流れ、
    意識一つで相棒のちっちゃな室内にいる9時間が
    操体的な臨生空間、臨生時間となって広がってゆく。
    「相棒にも生命があったのね」と気づかされる。

    鉄の塊だったとしても、もとをたどれば太極から生じているのですから
    「お前さんにも生命があるよ」と声をかけ、操法を通すがごとく意識でつながる。
    草木国土悉皆成仏。有機も無機も分け隔てなく、みんな一緒なんですね。

    そろそろ修理代が購入代を越えそうな相棒へ。
    車検まではもってくださいね(笑)

    今日はこのへんで。ありがとうございます。

  • 〜空いた時間は〜

    「趣味とかあるんですか?」
    なんて聞かれることがあります。
    「仕事の休みの日は何してるんですか?」という意味で聞いてくると思うのですが、
    「私の趣味は…」と言葉がつまることがあります。
    人並み程度に、本を読んだり、音楽を聴いたり、からだを動かしたりとかはするのですが…

    何故だろうと考えていたら、「なるほど」と合点がいきました。
    私は複数のことを同時進行することがうまくないようです(笑)
    もっというなら、興味があることを目の前にしたらそれに没頭する。
    しかもその興味あることが仕事とつながっているのでONとOFFの境目が無い。
    つまり余暇に改めて何かやりたいことを見つける必要が無いんです。
    本を読むことも、音楽を聴くことも、からだを動かすことも
    全部一つのことにつながってくるようなんです。

    人様のおからだをみさせていただく仕事をしているものですから、
    それにかかわることに興味を持ち、ふとしたきっかけで手にしたものも、
    関連付けてみる癖がある。
    仕事が終わっても仕事に関することに没頭することが愉しいので息抜きの時間は
    あえて作らなくてもいい。

    特に操体と出会ってからは、
    人様のおからだをみさせていただいている時間だけが
    臨床時間ではないということが薄々わかってきましたので、
    この空いた時間をどう過ごすか?ということが私のテーマになっています。
    (しかも、休日は個人レッスンや勉強会への参加等で操体に関わらせていただけるありがたさ)

    仕事(臨床)だけが仕事ではなく、24時間365日がすべて循環し、
    そんな仕事を選択できたありがたさと、自分自身と向き合う大切さを胸(肚?)に
    「私の仕事は人生を愉しむことです」といつか、声を大にして言いたい。
    いや、声に出さずとも軸が立っていれば…

    そんなふうに考えると(いや、感じるだな)、
    臨床はすべてとつながり(一見関係ないようなことでも)、
    そして臨生となり、自分に返ってくる。
    特にストイックなわけでもなく、自分の好きなことをしていて、とぎれるところがないというだけ。
    そういう感覚でつながっていけるものに没頭する。
    そうするとなんだか趣味の範疇を越えているようで「趣味はこれ」とは言い難くなってしまうんです(笑)

    最後を迎えるその時まで、そんな自分時間を愉しめたらと思う、今日この頃です。

    今日はこのへんで。ありがとうございます。

  • 〜あまちゃんですが〜

    普段はほとんどテレビを見ない私ですが、
    ここ最近欠かさず見ている番組があります。
    それは…朝の連続テレビ小説あまちゃん」です!

    なぜ欠かさずチェックしているかというと、
    ドラマの舞台になっているのがなんと妻の実家がある町なんです。
    ドラマの中では「北三陸町」という架空の設定になっていますが
    実際のロケ地は岩手県の久慈市というところ。
    2年前に震災にあった町ですが、今はこのドラマの影響もあり、
    観光客の数が増加しているとのことです。

    世間の評判が良いとされていますが、
    その要因は脚本家にあるのではないかと思います。
    このドラマの脚本を手がけているのはクドカンこと宮藤官九郎
    20代のころに「池袋ウエストゲートパーク」や「木更津キャッツアイ」などを
    見ていた私にとって(当時はまだ上京しておらず、
    「池袋はおっかねぇどごだぁ」なんて思っていました(笑))、
    独特のテンポや小ネタなどが詰まっている「あまちゃん」は
    私のツボにもバッチリはまっているのであります。

    東北が舞台なので、お約束の訛ったセリフ(標準語で字幕が出ることも)も
    私にとっては懐かしく感じられ(私は秋田出身)、
    田舎に帰ったかのような気分にしてくれます。

    主人公の女の子が母親の都合で東京から岩手に来たところから始まるのですが、
    この主人公は初めて岩手に来たにも関わらず、1、2週間やそこらで見事な北三陸弁?になるのです。
    地元の高校生にも「訛ってるね」なんて言われるぐらいですから、
    地元人と比べても遜色無いレベルなのでしょう。

    よく、訛りの強い人と接する時間が長いと、
    知らず知らずのうちにその訛りがうつっているなんてことがあります。
    私も飛騨弁が強い友人と一緒に遊んでいた時期は
    飛騨弁を知らず知らずに話していた経験があります。
    また、訛りだけではなく、話し方や、話す内容なども
    普段自分が接している人と似通ってくるケースもあります。
    特に好感が持てる人が相手だったり、自分が素直な状態にあるときのほうが
    その傾向が強いように思われます。
    これって、頭でどうこうというより感性の問題な気もしますね。

    知らず知らずのうちに色々な人の影響を受けている事実。
    頭よりも感性で学ぶ操体の学びの場においてはその傾向がより強く、
    三浦先生や、実行委員の先輩方の言動が、
    まだまだ「あまちゃん」である私にとってはありがたい影響を与えてくださっているのです。

    今日はこのへんで。ありがとうございます。

  • 〜私の宝物〜

    あなたの宝物は何ですか?

    そう聞かれると、
    「私は家族!」、
    「俺は車!」、
    「いやいやお金でしょ!」、
    中には「ずっとしまっておきたい大切な思い出…」、と
    人によって答えは様々だと思います。

    では、私はというと、
    迷わず「ハイ!私の宝物は私です!」と答えるでしょう。
    こんなふうに答えると、
    「この人、ナルちゃんなんじゃないの(苦笑)」なんて声が聞こえてきそうですが、
    いやいや、私はナルちゃんでも単なる個人主義でもありません。

    そもそも私という人間は(誰しもそうですが)、たくさんのご縁によって形作られています。
    両親がいなければ、この世に生を受けてはいないでしょうし、
    両親のそのまた両親がいて、そのまた両親の…なんて遡っていったらきりが無いぐらいです。
    生を受けたあとは、両親以外にも兄弟や友人、学校の先生に、職場の上司、
    その他大勢の皆様方と関わりあって、そのご縁の中で成長してきたんです。
    学校で教わることも、社会で教わることも、教えてくれた人たちだけではなく、
    その教えを最初に考えた人がいたからこそ。

    私が学んでいる操体も例外ではなく、橋本先生もお医者さんでありながら、
    民間療法の方々に治療を教わり、それを元に操体を編み出され、
    三浦先生がさらに深化させてくださり、操体を学ぶ先輩方がいて、その中に私がいる。
    そう思うと私に私が入る余地なんて何処にも無いと気づくんです。

    今まで生きてきて、
    自分の血肉となり、自分を形作っているものはすべてご縁によっていただいたもの。
    私は私であらず、ゆえに「私が宝物」というのも文字通りの私ではなく、
    「私を形作ってくれたすべてのご縁が宝物」ということなんです。

    一つ付け足すことが。

    それは、私の中に私が入る余地が無いなんていいましたが、自分自身はあるんです。
    自分自身があるからこそ、つながるものと向き合うことができる。でもそこには私はいない。

    「自分自身って私のことなんじゃないの?」と
    思われた方は是非、操体の門を叩いてみてはいかがですか?
    きっとまだ会ったことのない「自分自身」に会えると思いますよ。

    今日はこのへんで。ありがとうございます。