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  • そいつとそれ その1

    今週は操体法東京研究会のヒヨコちゃんこと中谷の担当でございます。

    一週間よろしくお願い致します。

    三浦先生と道元といえば、実行委員ブログを読んでいただいている方ならば

    すぐにピン!とくるんではないかと思います(道元と橋本先生)。

    皆さんご存知の通り、道元は日本における曹洞宗の開祖。

    とってもスゴイお方です。

    そして曹洞宗といえば只管打坐。「ただひたすらに坐禅する」ということなんだそうですが、

    「まぁそういうことなら・・・」ということでワタシも曹洞宗のお寺へ坐禅に通ったことがあるんです。

    (今は仕事の都合などでなかなか行けないのですが)

    ワタシはヒヨコちゃんですから、坐禅そのものの意味なんてわかりませんヨ。

    でも、朝早くからお寺で坐ってるってだけで、何となく気持ちがいいもんなんです。

    が、たまにその気持ちのよさが油汗に変わっちゃうときが・・・。

    朝ですからトイレに行きたくなっちゃうんですねぇ。

    小さいほうならまだいいんですが、風雲急を告げる大きいほうのときはホントにまいっちゃいますヨ。

    ワタシにとっては坐禅以上の荒行ですぜ。

    まぁそんなことはどうでもいいんですが、曹洞宗と同じ禅宗の中に臨済宗というのがあります。

    日本における臨済宗栄西らによって伝えられたそうですが、

    ひたすら坐禅することを重視する曹洞宗に対して臨済宗では公案も非常に重視するといった特徴があるそうです。

    公案ってのは、

    「はい質問です。両手を打ち合わせると音がしますが、片手ではどんな音でしょうか?」

    みたいな、よくわからんアレのことですよネ。

    そうした公案集の代表的なものとして『碧眼録』、『無門関』、『臨済録』などがありますが、

    ワタシのようなヒヨコちゃんにはとても読み解くようなことはできません。

    でも、パラパラと読んでるだけでも結構面白いですし、

    操体(臨床)の参考になるような気づきも案外あったりするんです。

    つづく

    中谷之美

  • 般若身経からはじまる・・・4。

    おはようございます。

     操体法は、創始者橋本敬三の「気持ちよさをききわければいいんだ
    気持ちよさで良くなるのだからな」という発言によって、従来の
    「辛い方から楽なほうに動きを操る方法」である第1分析から、
    一つ一つの動きを個々単独に独立させ、からだに快をききわけさせる
    一極微の分析法、つまり第2分析へと深化と進化が成された。

     ここでいう深化と進化とは、身体運動の法則の3法則、つまり重心
    安定の法則(からだの使い方の法則)、重心移動の法則(からだの動か
    し方の法則)、連動の法則のうち、連動の法則での未開拓の部分を重心
    安定の法則、重心移動の法則、つまり「般若身経」をより深めていく
    ことによって、連動の法則が明確ものとなったという事。そして、連動
    の法則が明確なものとなり、それを臨床に応用することで一極微の
    分析法が成り立つこととなり、気持ちよさの問いかけに適う、第2分析
    へと進化したという事。
     
     進化というと、より複雑化することを連想する方もいると思う。
     確かに「辛い方から楽なほうに動きを操る方法」である第1分析は
    二者択一的であり、それに比べて一極微の第2分析は一極一比な為、
    分析法の数としては倍になる。しかし、からだが自然良能作用を
    発揮し、良くなるには「楽」ではなく「快」という事が明確になって
    くると、第2分析の方がシンプルでストレートなものなのだ。
     わざわざ楽の動きを確認してから、快に対する問いかけをする必要
    などないし、快がききわけられれば、即、操法に入れるのが第2分析
    なのだ。
     
     第2分析は、気持ちよさに対する問いかけをシンプルでストレート
    なものとしている。それを可能としているのは、からだの使い方、動
    かし方の法則である「般若身経」からはじまる身体運動の法則である。
     第一分析の頃は、身体運動のうちの連動の法則に未開拓の部分が
    あった為、熟練度や経験値といったもので、その効果に開きが出ていた。
    しかし、気持ちよさで、からだが良くなるという事実が明確なものと
    なり、連動の自然法則も明確になってくると、操体法の臨床(臨生)は
    「自然法則の応用、貢献」という操体の大前提が基になっているという
    事が、より明確なものとなってくる。テクニックという捉え方ではない
    ということであり、キチンと取り組めば誰でも効果があげられるという
    ことなのだ。誰でも自然界の一員であり、自然法則が自在してあるお陰
    で生かされて生きているのだから。
     
     その取り組み方は、身体運動の自然法則を知り、「般若身経」という行
    をとおして、自らのからだで体感していくことが大切と思う。
     からだに歪みを生じさせていない人などいない。特に文明社会に生きる
    我々は、生活の営みのなかで、必ず歪みを生じさせている。それを正体に
    近づける様、自然法則に則って身経の行をとおす。そして快、不快という
    原始感覚を研ぎ澄まし、感覚をききわけていく。その土台を基に、末端関節
    からの連動の理解も深めていく。その繰り返しの中で、自らのからだを
    とおして、臨床での相手のからだの要求しているものもイメージ出来てくる
    と思う。勿論自分も、より健康になっていく。
     はじめから上手く出来る必要はないと思う。無論それに越したことは
    ないのだが、上手くからだを操れて何も気づきを得られない人よりも、
    上手くいかなくとも、感覚を重視しコツコツ積み上げていく人の方が、
    人の痛みがわかる、つまり、どの様にからだが歪み、それに対してからだは
    どの様な不快のサインを出し、症状疾患現象に至っているかが、わかり
    やすくなると思う。これは視診にも触診にもつうじ、からだの内なる要求
    を感じるということにもつながる。そして、どの様な動診をするのかという
    事にもつうじると思う。
     何事も般若身経からはじまり、それを基として枝葉がつき、真花が花開く
    のだと思う。

    一週間ありがとうございました。
    来週は中谷さんの担当となります。
    来週もどうぞ宜しくお願いいたします。

  • 般若身経からはじまる・・・3。

    おはようございます。

     誰でも効果をあげられる操体法とするには、操体法の表面だけではなく、
    その奥にあるものも、知れ渡っていかなければ、誰でも効果をあげられる
    という事にはなっていかない。
     その奥には快(気持ちよさ)で良くなるという真理があった。楽な動き
    で良くなっていた訳ではないのだ。だから橋本敬三先生も晩年には、やり方
    こそ第一分析でも、その特徴である、2、3秒間のたわめの間を設定し
    一気に瞬間急速脱力に導くといったような、操者のきめつけを除外した内容
    の取り組み方をされていたのだと思う。
     そして奥にある真理を確信した上で「気持ちよさをききわければいいんだ
    気持ちよさで良くなるのだからな」という発言となったのだと思う。

     しかし、橋本先生の御存命中は快に対する操法の体系化は、時間的に間に
    合わなかった。その意志を尊び、遺志を引き継いだのが三浦寛先生であり、
    三浦寛先生によって一極微の動きから快(気持ちよさ)をききわけ、快を
    味わう(操法)という第二分析の体系化がなされた。
     これによって、第一分析にあった不確定要素も取り払われた。つまり、
    キチンと取り組めば、誰でも効果があげられるようになったのだ。
     これは、橋本敬三先生の悲願の一つでもあったと思う。

     この第二分析の体系化と般若身経のからだの使い方、動かし方の法則
    からの、身体運動の法則の深化と進化は連動していると思える。
     第一分析の頃は、全身形態の連動について、運動系は中枢神経を介して
    合目的に連動装置になっており、中枢神経を介して基本的に8方向に連動
    する、という事までであった。具体的に、どこをどうすれば、どのように
    連動するかまでには及んでいなかった。

     この連動の法則の具体化に取り組んだのも、三浦寛先生だった。この取り
    組みも並大抵の事ではない。形態を有し、イノチを宿して動く、その人体の
    動きの連動性なのだから。
     みんな一人一人個性があるのだから、連動の仕方も違って当たり前という
    捉え方では、連動の体系化など出来ない。自然体であるならば、当然この様
    な連動が起こるという、自然法則の解明が必要となる。

     では、この自然体であるならばとする、自然体としてのあるべき姿とは
    どういうものなのだろうか。
     多数の統計をとり、その平均値を求めたものでないことは明らかだ。
     橋本敬三先生の言葉をお借りすれば
    「人が正しければ容姿はおのずと端正となり、骨格は整い、筋肉は拘筋
    することなく、内臓はその地位に安んじ、機能も互いに相調和し、身心
    共に健康である」
    ということだ。

     この自然体としてのあるべき姿を具現化しようとすれば、おのずと自然
    の法則が必要となる。つまり、からだの使い方、動かし方の自然法則である
    「般若身経」だ。「般若身経」によってしか、自然体としてのあるべき姿は
    体現できないのだ。
     そこから、からだの動きは8つきりしかないという事に基いて、末端関節
    である手関節、足関節の8つの動きからの、全身形態の連動性を探り、体系化
    させていくのだから並大抵の事ではない。
     正に、天にお伺いを立てながらの取り組みだったと思う。
     実際に先生は自分の持論で終わらぬよう肝に銘じ、「橋本先生だったら
    どうするだろうか」と常にその成さんとした事の、真の意志を念頭に置き、
    取り組んだという。
     そのお陰で、連動の仕組みが明らかとなり、第1分析での不確定要素は
    取り払われて、第2分析へのシフトチェンジが可能となり、誰でもキチンと
    取り組めば効果をあげられる操体法となってきたのだと思う。

    明日へ続く。

    操体法入門―からだの連動のしくみがわかる 手関節からのアプローチ

    操体法入門―からだの連動のしくみがわかる 手関節からのアプローチ

    操体法入門 足関節からのアプローチ

    操体法入門 足関節からのアプローチ

  • 般若身経から始まる。・・・2

    おはようございます。

     昨日は、般若身経の重要性について、身体運動の法則として、
    健康の基を正し、自然体としてのあるべき姿を問いかけ、それが
    成り立つ理と約束事が示されており、体感をとおして理解して
    いくことが大切と書かせていただきました。

     やはり、これがなければ操体の臨床(臨生)は成り立たないと思う。
    自然体としてのあるべき姿を、体感をとおして理解する、という取り
    組みがなければ、からだがなぜ不快というサインを発しているか、
    目星はつかないと思う。それでは視診は成り立たないし、触診するに
    しても、やたらとつっつきまわすことになってしまうと思う。

     また動診こそ、その最たるもので、身体運動の法則の、体感を
    とおしての理解が大変重要となる。しかし、動診、操法をテクニック
    で捉えれば、ないがしろにされてしまうと考えられる。
    臨床家のなかには「辛い方から楽なほうに動きを操る方法」である
    第1分析を臨床で行い、「般若身経」は別個のものとして、健康体操
    の様なかたちで、指導している方も居られるのではないだろうか。
    しかし、それではもったいない。

    動診、操法をテクニックで捉える、という壁を打破しなければ、
    その人の操体臨床に未来はないと思う。橋本敬三先生の行なっていた
    第1分析は、確かに効果が高いものであったと思う。それは、「般若身経」
    という、からだの使い方、動かし方の自然法則を踏まえた上で、全身が
    連動して調和に向かい、歪みが正されるようにしていたからなのだ。
    そこに自分がどうこうしようという企みはない。橋本先生の語録から
    引用すれば「からだは、治るように出来ている。俺が決めたんではない。
    そのように出来ているから仕方がない」ということであり、正に恐ろしき
    は自然法則なのだ。

    それを、自然法則を踏まえずに、コリをとってやろうとか。どこ
    どこの関節を矯正してやろうとか、臨床家の都合で行なっていれば、
    それなりの報いがあっても仕方がないと思う。
    以前、電話で「操体法って痛いんですよねぇ」と問い合わせを
    受けたことがあったが、痛い操体法などないのだ。あろう筈がない。

    第1分析は、誰でも簡単に効果をあげる事が出来る、というニュア
    ンスで普及した面がある。その効果の高さにビックリという体験談は
    数多くある。しかしその実、奥の深いものであり、効果をあげ続ける
    には、その熟練度を必要とした。本人は、橋本先生のような名人と
    同じ事をしているつもりでも、内容は全然違うものとなっている場合
    もある。柳の下にドジョウは何匹もいない。誰でもすぐに簡単に出来る、
    を継続させるのは困難なのだ。

    しかし、操体法はキチンと取り組めば、誰でも効果をあげられるもの
    でなくてはならない。それには表面ではなく、その奥にあることから
    普及させなければ、誰でも効果をあげられる操体法とはならない。
    その奥にあること、その真理とは、楽ではなく快であった。辛い方から
    楽な方へ動きを操る第1分析から、一極微の動きから快(気持ちよさ)を
    ききわける第2分析に深化と進化が成されたのは、誰でも効果があげられ
    るという面からも、必然であったのではないかと思える。

    明日へつづく。

    *一極微とは、一にして二、二にして一の太極的な調和を意味する
    言葉として創り出された。一極微の分析においては、快適感覚のきき
    わけがなされれば、即、操法に入れる。
           〜三浦寛先生著「操体臨床への道しるべ」より〜

  • 般若身経から始まる・・・1

    おはようございます。

    早いもので春季操体フォーラムから半月以上が経ちました。
    今回も東京近郊だけでなく、遠方からいらして下さった方も
    多数おり、盛況のうちに終了することが出来ました。
    どうも有難う御座いました。

    今年の春季フォーラムも実技中心に行なわた。
    実技といっても操体法には、○○病、○○疾患に対する治療法、
    テクニックというものはない。

    なぜなら、治すのは自分自身のからだであり、治療者ではないからだ。
    それを治療者が外から何とかしようとするから、より複雑になってしまう。
    そして効果が出ない分だけテクニックの種類も、どんどん増えていくことに
    なる。見方を変えれば、症状疾患に対するテクニック(外からの問いかけ)
    には、絶対的なものはないということが言えると思う。

    しかし、からだの内なる要求に応えるという意識を持てば、よりシンプルに
    なってくる。どうシンプルになるのかというと、動かしてみて気持ちが良い
    のか、悪いのかを、からだにききわければ良いということになってくる。
    なぜなら、気持ち良さこそが、生体のバランス制御に働きかけるものであり、
    それを味わうことでバランス制御が可能となり、結果的に病気と呼ばれる
    ものが治るからだ。こちらは「すべての生命は快に従う」という絶対的な理
    に基づくものだ。

    動かして診るということは、形態を有しイノチを宿して動く生命体にとって、
    理に適うことなのだが、闇雲に動かしても診断にはならないし、操法(治療)
    にも入っていけない。からだの歪みの病態変化をどう捉え、からだの内なる
    要求がどうなのかを感じ取ることが大切となる。

    元々のからだは良いのだ。しかし、からだが不快というサインを出し、病態
    変化に至っているということは、それだけ自然の法則に反したことを行なっ
    ているということだ。自己最小限必要生活必須条件として「息」「食」
    「動」「想」とあるが、これらには、それぞれ自然法則があり、それに反し
    た行いをしていれば、生命のバランスは崩れてくる。そのバランスの崩れを
    補う為に、からだは歪んで対応せざるを得なくなる。
    それでも間に合っているうちは良い。しかし間に合わないから、不快という
    サインを出し、本人に気づいてもらおうとする。それでも気づけず、からだの
    要求が満たされなければ、からだの歪みは病態変化へと進んでしまう事と
    なる。健康傾斜の歪体化ということだ。

     有り難いことに、健康傾斜の歪体化という現象は、可逆性となっている。
    そして「息」「食」「動」「想」は同時相関相補連動性であり、あるものが
    悪くなれば他のものも悪くなる性質と、あるものが良くなれば他のものも
    良くなる性質がある。動診では「息」「食」「動」「想」の「動」に注目し、
    そこから生体の歪みを正し、健康傾斜の歪体化を逆転させ、バランスの
    回復に導くこととなる。

     生体の歪みを正し、バランスを回復させるには、「動」の自然法則を知ら
    ねばならない。そして、どのように歪んでいて、それに対してからだは、
    どのようにしてほしいのかいう、からだの内なる要求を感じ取れなければ
    ならない。それには、自然法則に則した自然体としてのあるべき姿を、
    理解する為の取り組みが必要となる。
     形態を有し、イノチを宿して動く人体の、自然体としてのあるべき姿。
    これは頭で理解するものではない。体感をとおして理解していくものだ。
    その為の道しるべが、般若身経であり、身体運動の法則ということだ。
    身体運動の法則には、健康の基を正し、自然体としてのあるべき姿を問い
    かけ、それが成り立つ理と約束事が示されている。

     東京操体フォーラムでは、毎回必ず般若身経を行い、より良く理解して
    いく為の提案がされている。それは、身体運動の法則と向き合い、体感を
    とおして、自然体としてのあるべき姿を問いかけ、それを続けていく中で、
    自らの健康の基が正され、自然体としてのあるべき姿が実感を伴い、イメ
    ージできてくるからなのだ。

     自らのからだで、身をもって体感する身悟りが大切。これがなければ、
    相手のからだがどうしてほしいのかという、からだの内なる要求を感じ
    取ることは難しいと思う。

     操体法の創始者、橋本敬三先生は「からだの動きが8つきりしかない
    ことがわかったのも、老いぼれてからなんだ」と語っていたと聞くが、
    身体運動の法則を体系付けるというのは、それほどまでに大変な事なの
    だと思う。今、学んでいる私達は恵まれている。私心を捨て、遺して
    下さったものと素直に向きあう事が大切と思います。

     明日へつづく。

  • 心経と身経。

    おはようございます。

    操体法の創始者、橋本敬三先生は、NHKラジオ第一放送に
    出演した時、般若身経について、アナウンサーから、そう名付けた
    狙いは?と質問され、次のように答えている。

    「僕は仏教のこと知らんけれども、お経で一番短いのが般若心経
    だそうですね。だから身体のことで一番簡単にいえば、気分的な規則
    みたいなことをいえば、般若身経のほうがいいんじゃないかと、
    ちょっと野次馬根性でそんなふうにしてみたわけですよ。
    やってるうちにだんだんわかったけれども、般若心経のシンは
    仏教では「心」だけども、身体の身のほうは健康の問題に関係すると
    思うけれども、「心」と「身」は別なものじゃないんだ。表裏ですよ。
    だから、どっちでも同じことだと思っている。」

     般若心経」は、釈尊の悟られた内容を論理的に示されたもので、
    宇宙の法を述べたものとされている。そして、よく言われるのは、
    内容を理解しようとするよりも、とにかく唱えることが大事だと。
    宇宙の法と言われるぐらいだから、それだけ人智を超えたものが
    あるのだと思う。

     これも、よく言われることだが、ほとんどの人間は脳細胞の
    3〜5パーセントしか使っていないという。これは、ほとんどの
    人が左脳優位で言語で理解できる事や、誰の目にも確実で共通認識が
    できる事柄ばかりを対象としているからなのではないのだろうか。
    しかし、言葉で表現できないことや、言葉で表現してしまうと真実
    からは離れてしまう事柄、目には見えないが確かに自在しているものは
    確かにある。むしろ、こういったことの方が多いと思う。

     だから「般若心経」も、脳細胞の3〜5パーセントしか使っていない
    表在意識の範囲で、いくら理解しようとしても無理があるのだと思う。
     だから、内容を理解しようとするよりも、唱えることの方が大事だと
    言われるのではないだろうか。表在意識を取っ払って、無心になって
    唱えることで、何かを感じ、気づきを得、真理を悟っていくという事
    なのではないだろうか。表在意識の世界でどうこうするのではなく、
    見えない世界を知る潜在意識から学ぶ世界でもあると思う。

     「唱える」ということは、「からだの動き」でもある。そして、
    「心」と「からだ」、橋本先生がラジオ放送で答えたところでいう「身」
    は、中枢神経を介してつながっており、「心の動き」と「からだの動き」
    は同時相関相補連動性となっている。正に表裏だ。そしてイノチを宿す
    「からだ」つまりここでいうところの「身」は潜在意識を宿している。

     だから、僧侶の方は「般若心経」を唱える時、姿勢を正し、至誠を
    もって唱えているのではないだろうか。良い姿勢、つまり自然体に近い
    姿勢で唱えるほど、心は落ち着き、その唱える言葉の波動は、潜在意識と
    共鳴し表在意識の範囲ではどうにもならない真理に気づかせていただける、
    ということなのではないだろうか。

     ということは、健康の基を正し、自然体(健康体)としての、あるべき
    姿を問いかけ、それが成り立つ理と、約束ごとが示されている身体運動の
    法則に則って行なう「般若身経」という行は、「般若心経」を唱えるという
    行と同じであり、心の動きとからだの動きが表裏であるように、表裏なの
    ではないだろうか。

     橋本先生は「お経のように、からだの使い方、動かし方にも法則がある
    んだ」とも語っていたと聞く。「般若身経」も、お経を唱えるように、
    私心を捨て、からだの使い方、動かし方からはじまる身体運動の法則に
    則って行い、体感をとおして身悟りしていくものなのだと思います。

  • 最近のお気に入り。

    おはようございます。

    今年はダブル式年遷宮の年ですね。その為か、今まで知らなかった事が
    自然と情報として入ってきて、何だか嬉しくなるやら、愉しくなるやら
    日本人というのは素晴らしい民族だと、改めて感じたりもしています。
    今まで神社というと、商売繁盛とか家内安全などを祈願するぐらいの
    認識しか、持ち合わせていませんでしたが、本当は本当に凄いんですね。
    それはさておき。最近、お気に入りの歌があります。

    「何事のおわしますかは 知らねども かたじけなさに涙こぼるる」

     嬉しかったとき、愉しかったとき、この歌を口ずさむと、なんだか
    嬉しさ愉しさが倍増され、有り難い気持ちになる。臨床(臨生)の後は
    特にそう感じる。
     この歌は、歌人であり僧侶でもあった西行が、伊勢神宮に参拝し
    その森の中で感じたことを歌ったものだという。
     この感性、この表現力。そして、縦から入ったものを右で感じて、
    左で素直に言語表現して、縦と横を交叉させているとでもいうのだろうか。
    その素直さ。本物だと感じる。
     出家して仏門に入った僧侶が、神道伊勢神宮の神木の中で感じて
    歌ったものがこれだったということに、ことさら素直さと真実味を感じる。
    常人であれば、自分の立場とか、今まで蓄えてきたものとか、総じて自分
    の我というものが邪魔をして、こんなに素直に歌うことは出来ないのでは
    ないだろうか。
     信仰といったものは、神や仏が創ったのではなく、人間がそれを感じて
    敬い、尊ぶ心が、かたちづくられていったものだと思う。だから色々あって
    良いし、みんな尊くて良いのだと思う。しかし、理屈で理解しただけの知識
    のみの信仰というのは、おかしな方向に行ってしまうと思う。
    まずは感じるという事。心のモヤを取り去り、意識で感じること。
    そして素直に理解としていくこと。その理解の上で、それまでの知識を更新
    させ、積み上げていくことが大切なのではないかと思います。

    光は常に降り注いでいる。モヤを払って受け取るかどうかは自分次第。
    光なくして成長なし。

  • お母さん。

    こんにちは。
    今週は、友松が担当いたします。一週間どうぞ宜しくお願い致します。

    そういえば、今日は母の日でしたね。
    この世に存在しているのも、お母さんがいてくれたお陰ですから、感謝しなくてはいけませんよね。
    誰でもそうだと思いますが、自分の中には聖別され祝福されたイノチがあり、(太極の意志とともに自在する)そのイノチがこの世に生まれてきたいという意志をもち、その両親を選んだ。そして、存在としての礎が出来た。
    礎が出来た後は、母親が十月十日という時環と、母体という空間を無償で与えてくれた。
    この母体も太極の意志の貫通する存在であり、細胞一つ一つ、細胞内外の有機や無機の世界までにも勿論、太極の意志は貫通している。
    そして母体は母体としての快の方向性をもっている。それは太極の意志、つまり愛と調和に基いた無償の愛であり、すべてを肯定する愛。そうすることが自らも幸せであるという快の方向性。
    だから、自分のイノチがこの世でどうしたいのかという意志を、どのようにもっていようとも、そのイノチを全肯定し、肉体をもつ存在となるまで、無償の愛でもって支えてくれていたのだと思います。
    こう考えると、母親は育ての親であり、その母体は自分のイノチの一番の理解者なのだと思います。慕わしいですね。そして母親は、出産の苦しみなど、ものともしない快の方向性をもつ、産みの親でもあるのだと思います。
    育ての親であり、産みの親でもあるお母さん。感謝しなくてはいけないですよね。
    その慕わしきお母さんの母性を設定したのは、万物の生みの親である太極ですね。こちらも慕わしいし、有り難いと思いますよね。この太極の意志がなければ、存在は何も生じないのですものね。生命の母体と呼ばれる地球も、そして宇宙も。よく、産みの親より育ての親と言われますが、本質は産みの親より育ての親より生みの親なのでしょうね。
    そして、その意志が愛と調和である限り、人と人との御縁もでき、人と人の間(マ)という、人間としてのイノチもいただける。だから肉親以外でも、自分自身が人として成長する為のお母さんも持てる。
    育ての、産みの、生命の、成長する為の、すべてのお母さんに感謝。そして、すべてを生んだ生みの親にも感謝ですね。

    カーネーション学名はダイアンサス・カリオフィルス。ダイアンサスとは「神の花」という意味で、古代ギリシアでは神への献花に使われていたという。

     

  • 先日秋穂さんの回でラジオの話が出てきました。
    僕も移動が多いので外出時はiPodが欠かせません。
    去年のフォーラムの前に資料としてラジオを録音したものをいただいたのをきっかけにiPodでラジオを聴く機会が増えました。

    少し前にもAMのFM化やインターネットラジオへの移行が話題になりましたが、近頃はラジオの受信機がなくても、また聴き逃した番組も後から聴けたりと、便利になってきています。

    iTunesで番組を探していると、やがて新しいサービスが始まっているのに気付きました。

    iTunes U」
    世界中の大学や教育機関の講義を見ることのできるサービスです。
    何年か前から少しずつ公開しているサイトなどもありましたが、いつのまにか本格的に進んで来ているようです。

    国内のものはまだまだ少ししかありませんが、今後増えてくるのが楽しみです。

  • 食べる順番ダイエットって知っていますか?
    順番を守ることで、血糖値の上昇を緩やかにし、食事の量や種類を気にしなくてもいいというものらしいです。

    食べる順番というと、和食の際のお椀から手を付けるとか、給食でのいわゆる三角食べなどを思い出しますが、また色々と出てくるものですね。

    サラダ・煮物など食物繊維を含む野菜類

    魚・肉などのタンパク質

    米・麺などの炭水化物

    おおまかにこんな感じでしょうか。
    最初に見た時は、ん、普通じゃないの?と思いましたが、一品ずつ食べきることがポイントなのだそうです。
    せめてメインのおかずとご飯は一緒に食べたい気がしますがそれはだめなのだとか。
    個人的にはかえってストレス溜まりそうな…

    それでも単品系のダイエットや炭水化物抜きダイエットなどに比べればだいぶ良さそうです。
    楽しんでやれる範囲がいいですね。