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  • 脳とカラダの相関性について

    「意識と身体との相関性
    人間には器用な人、不器用な人がいる。私は自他共に不器用な人間だと思う。仕事や臨床において頭で理解していていも、自分がイメージした通りに実行に移せないことが多い。特に一度に色々なことをこなすのは苦手で一つの事をやり始めると他の事に気が回せなくなる。操体の臨床においても同じことが言える。
    操体の臨床では患者の動きに対し介助・補助、言葉掛けを同時に行うだけでなく、呼吸等にも気を使わなければならない。こういったことを上手く行うには何か一つだけに意識を使っては他のことが疎かになってしまう。全部のことを平均的に行うには自分の意識を全体に使うことが求められるのである。

    それでは「意識」はどのようにコントロール出来るのか?
    最近私は自分をもう一人の自分自身で見るようにしている。サッカーゲームで例えると分かりやすいと思うのだがゲームをする時はプレイヤーになりきるのではなく、客観的にプレイヤーを見て操作しながら試合の状況や他の選手の動きを察知しコントローラーを動かしていると思う。これらと同じように自分のカラダ、呼吸をもう一人の自分の意識で客観的にコントロールすることで様々なことに意識を使えるようになる。またもう一つ取り組んでいるのが「意識に軸を立てる」ことである。意識も人間のカラダと同様に使わせて頂いているものならば、カラダと同じように軸を立てる必要があるのではないかと思う。最近私が自分なりに取り組んでいるのが「右脳と目線に意識を使う」ことである。まだ思考錯誤で具体的なことは書けないがポイントは「自分のカラダの中の軸」との繋がりにある。これは自分の中で確信出来たら次の機会に書いていこうと思う。

    現在の操体では橋本先生が説かれた3法則1相関性から更に進化し、私達が生きていく中で無意識のうちに使わせて頂いているものとの繋がりを深めている。この学びの中で私はカラダに携わる法則・相関性をコントロールするのに一番大切なのが「意識」だと思っている。もしカラダを使う事において悩んでいる人がいたら今日書いたことを実践してみてほしい。

  • 脳とカラダの相関性について

    「感覚」
    人間の感覚の世界は非常に奥が深い。
    例えば「気持ちの良さ」を例に挙げると同じ気持ちよいにしてもその時の心とカラダの状態で快の質は異なり、「すごく気持ちが良い」「少し気持ちが良い」と感じる人もいれば、「痛いけど気持ち良い」という人もいる。もちろん施術者の技術によっても左右されるものであり、コトバで定義出来るものではないが私は大きく四つに分けられると思う。

    (1)命がもともと持ち合わせている生命感覚。
    (2)脳が聞き分ける意識感覚。
    (3)カラダが聞き分ける感覚。
    (4)カラダが記憶している感覚。

    (1)〜(3)を簡単に説明すると感覚の聞き分けを意識・無意識に行っているか、もしくは「委ねているか、委ねていないか」の違いである。
    人間「心」がある以上、良くも悪くも自我が関与する。過去の情報を頼りに「こうしたら気持ちがいい」等と思考してしまいがちだが、それが二つ目の意識感覚になる。これと反対に自我の関与がなく全てを委ねる感覚が一つ目の生命感覚になる。
    「どちらの方が楽か辛いか」という問いかけは比較対象させるという点において患者の思考への問いかけなので二つ目に当てはまると思う。逆に「快への問い掛け」は己の思考を介入させずに全てを患者の無意識に委ねるので二つ目以外になる。
    これから四つ目の感覚について書いていきたい。

    昔、三浦先生から手を切断した患者の話を聞いたことがある。無い手に触れると患者は触れられているような感覚になり、「快」「不快」を聞き分けているのだという。こういった患者の他にも無い手が痛んだり、痒かったりすることがあると読んだことがある。一般的には「幻肢痛」と言われているのだが、その原因は明らかにされていない。本来痛みとは傷ついた細胞から出る発痛物質の刺激を脳が受け取ることで感じるものだと言われているが、切断された手が無いのにこのようなシグナルが送られることは考えにくい。そうなると考えられるのが皮膚、またはカラダが痛みを無意識に記憶していると考えられる。つまり人間には「記憶感覚」という感覚の聞き分けも実在するといえる。

    これら四つの感覚がリンクし「快、不快」という原始感覚に繋がると考えている。特に最後の「記憶感覚」には私達の頭を捻らせて考えても理解することが出来ないカラダの神秘がある。
    現在の操体では人の意識ではなく、命やカラダが発信する(聞き分ける)感覚を重要視している。私達の頭よりもカラダや命が知っている情報の方が信頼性が高く、理に適っているからだ。私達カラダを診る側の人間はこういったことを意識に留めておく必要がある。なぜならば患者の感覚を無視した臨床では間に合わない時代になってきているからだ。

  • 脳とカラダの相関性について

    「右脳と左脳の役割の違い」

    最近の三浦先生の講習や私のブログでも度々右脳と左脳というキーワードが出てくる。昨日もアスリートを例にして少し書かせて頂いたが、身体を使うことにおいて誰もがこの左右の脳の役割の違いを認識しておく必要がある。今日は始めにその違いを簡単に書いていこうと思う。

    右脳は「感性の能」、左脳は「言語の脳」とよく耳にする。感性の脳とは絵画や音楽等、芸術的理解をするために使う脳といわれ、その他にも空間認識や直感的な判断をするのにも働くといわれている。
    対し左脳は論理的な思考・計算、言語の理解・話す、読み書きをする時に働く脳である。

    一般的に身体運動において右脳は左半身、左脳は右半身の運動を支配しているとされ、右脳は空間認識をするのに使われ、左脳は論理的思考をするのに使うとされている。そうなれば単純に考えると右脳を働かすのに聞き手がどちらであろうと左手を優位に使えばよいと考えてしまうのだが、人体は不思議なもので、そう単純ではない。左右それぞれのバランスがあり、どちらか一方だけ働かせても本来の機能を果たさない。全体一体が調和し始めて本来の機能を果たす。なのでここでは左手の優位性が大切だと書いておく。

    このそれぞれの役割を踏まえ、人間のカラダの動きに置き換えると「右脳的なカラダの動き」と「左脳的なカラダの動き」がある。

    前者は時間・空間を察知し、感覚に委ねた人間が本来兼ね備えるカラダの動きであり、後者は自分が過去に経験した情報を下に動く、つまり「自分の動き」ということになる。操体の講習や臨床を行っているとよく「肩が上がらない」「肩甲骨が動かせない」人がいるのだが、こういった現象は自分が好き勝手にカラダを使ってきた結果で、もともとは「動くもの」であり決して生理現象ではないのである。操体を学んでいると自分も含めて人間が如何に好き勝手に左脳的なカラダの動きをしているかがよく分かる。

    本日私が言いたかったのはどちらの動きが良い、悪いではない。だがより良い「感覚の聞きわけ」を人間が行うには右脳的なカラダの動きに導くことが本来のカラダの要求になるのではないのかということである。

  • カラダと脳の相関性について

    誰もが一度は「運動神経」の話をしたことがあると思う。
    小学生の頃を思い出すと運動の出来る、出来ないは運動神経の良し悪しで決められていたように思える。だが、果たして運動能力はこれだけで決められるものだろうか?
    もちろん、年齢、性別、筋肉の発達の仕方等、個人差はあるのだが、ほとんど体格が変わらない子に運動能力の差が生じてしまうのかを最初に考えていきたい。

    「イメージを形にする力」
    当然ながら、人間には「運動神経」と言われる神経は存在しない。一般的に運動に関する脳の指令は運動連合野→運動野→脊髄→筋肉 という流れで伝えられるといわれているが、運動神経が良い人ほどこの循環をスムーズに行っているのだといわれている。
    つまり運動神経とは脳がイメージしたものをどれだけ体現出来るのかの能力を指すのだと思う。
    スポーツプログラマーの講習でも「イメージング」の重要性は説いていたが、「イメージ」出来ない動きは体現することは難しい。ファッションデザイナー等と同じで頭の中で思い描くことが形にすることの大前提となる。特にカラダを使って何かを表現する人には「カラダの動き」を創造する力というのはとても重要なことになってくる。アスリートはこういった発想力に身体能力がプラスされ運動パフォーマンスが発揮される。しかしトップアスリート等を見ていると決してそれだけではないように見える。

    「間(マ)という時間・空間の使い方」

    こういったことは操体でも同じ事が言える。臨床やカラダの動きが上手い人は脳がイメージするカラダの動きを忠実に再現している。それは身体における「軸」と「意識」の使い方、そして何より「空間の使い方」が決定的に違うように見える。以前のブログでも少し書かせて頂いたのだが、「間合い」は運動だけでなく、人間がカラダを使わせて頂くうえでとても重要な要素になる。
    「マ」とは筋骨格だけでなく呼吸・意識等、身体に相関する全てのことに関与している。よく優れたアスリートは「間合い」の取り方が上手いと言われているが、これは対人間との「間合い」だけではなく、自分のカラダに相関する(呼吸・意識・イメージ)全てのものとの「マ」の取り方が優れていると言える。
    野球や相撲等を見ていると「マ」の大切さがよく理解出来る。一流のピッチャーやバッター、横綱等には独自の間合いがある。あくまで推測になるが相手の癖や自分の作法等は左脳を使い、相手・自分との間合いには右脳を使っているように見える。つまり一流になればなるほど右脳の使い方が優れているのだと思う。

  • カラダと脳の相関性について

    みなさん、こんにちは。一週間宜しくお願い致します。

    ここ数ヶ月の間で休みの日に花屋に足を運び、観葉植物を買うことが私の楽しみになっている。最近では一週間に一度は足を運ぶようになり、花屋のおじさんに顔を覚えられるようにまでなった。

    個人的には花を見るのは好きなのだが買うことはあまりしない。いつも買うのは観葉植物ばかりで特に葉の色が珍しいものばかりをついつい買ってしまう。一日にわずかな時間だけでも緑と時間、空間を共にすることで、ざわざわしている心に落ち着きと豊かさが出てきたように思う。緑や植物には私達人間や動物にはない「静なる力」を宿し、とても生命力に満ちていて、まるで私の生き方を見守ってくれているかのような温かさを感じる。

    このようなことを日々感じながら過ごしていると、人間は「動」よりも「静」なる生き方をしていかなければならないのだと強く思うようになった。。この「静」なる生き方とは何があってもぶれない、動じない生き方であり、それは操体の学びにおいて最も重要なことである。

    そういえば以前三浦先生に「きれるなよ」と言われた事がある。自分の学んでいくプロセスの中で何かに対し不満を抱き始めたり、怒ったりするのはもったいないことであり、植物のように辛抱強く静かにコツコツ学んでいく事が大切になる。最近強く感じるのは「心」を使って学ぶとちょっとしたことで自分の感情が介入し、ぶれてしまうように感じる。やはり学びを深めていくには「心」ではなく「意識」を使うことがぶれない自分を形成し、自分と自分自身との繋がりを生み出すのだと思う。

    こういったことを実感しながら操体と繋がっていくと自分が自分らしく命を全うしていく為に必要なこと、そして自然法則との繋がりを応用貢献していく幸せがこの学びにはあるのだと感じる。私が思うに操体の学びで得られるもの本当の喜びとは臨床の技術やテクニックを身に付けることではなく、当たり前のように行っている生命活動の中に自在する「気付き」と「真理」である。それは学びの継続の中でしか得られることが出来ないものであり、学びの神様は勉強した分だけ「真理」と新たな「気付き」というご褒美を与えてくれる。そういった毎日コツコツと点を線にし、一つの形にしていく地道な作業が真理に近づく最短の近道だと思っている。

    今回のブログでは私なりに感じた脳とカラダの相関性について書いていきたい。最近では共に学んでいる「同志」が増えたことで私に新たな気付きを与えてくれている。その中で掴んだものを書いていければと思う。

    また明日宜しくお願い致します。

  • もう無いだろう。

    もう無いだろうと、もう無いだろうなと・・思いつつ反復を繰り返しているとまだまだある。
    純粋に仕事の愉しさがわかってくるのは、20年、30年やっていてわかってくる。
    仕事の大局観がみえてこないとその愉しさはわからない。大局観がわかりはじめるとひとつひとつの事象がつながってくる。芋づる式に繋がって理解できてくる。すると、妥協できなくなる。わかった先にまだ未知がある。わからないことがあると思うのだ。わかっていないことがわかってくる。わからないことは知ったかぶりができない。少しでも理解したいと思う。知りたいと思う。そして私は心の中で、尽くしたいもののために尽くせることを願っている。そこに人が人である理由がある。それは心にある。そして人は人の心に触れることによって進むべき道を見つける。進むべき道とは、使命観である。自分を遠ざけてしまうほどの使命観である。
    進むべき道を与えて下さった師に、私は尽くしたい。尽くしきれないものを、作品にかえてお返ししたいと思う。
    私は師の心に触れて進むべき道を拾わせていただいたのである。
    晩年、師は「もうワシには残された時間がない」と口にされた。ならば弟子の私はその師の残された時間を引き継いで行けばいいのだと、師が成しとげられたことは見せて下さっただから、なぞりながら越えて行けばいいが、成さんとしてきたことへの継承を、引き継ぐ、引き継いでいくことも弟子の宿題であり使命である。だからこそ、自己満足しては妥協できないのである。そこに、また操体の愉しさがあり、興味のつきぬ愉しさがある。

    因縁の連環。師から私に生涯の学問をいただいた。師へ、亡き後も因縁は続き、師と私との連環から多くの弟子が育っていくことになる。人を育てるという大切な自分の連環があった

  • 一昔前、小室直樹という天才がいた。深く知っているわけではないが彼の言葉を拾う中でウーンとうなる箇所がある。
    「生涯で自分がいい本だと思ったらその名著を最低10冊まとめて買いなさい、そして最低100回は読みなさい、すると著者が何と言いたいのかがわかるし、またあるときは眼光紙背に徹すると、著者以外に物事が分かってくるものです」と語っているのです。確かにそうだなと思う。10冊買い込んで最低100冊は読んだことがない私だが、実行してみる価値はありそうだ。研究書籍は特にそうである。そこには名刀のように磨き上げられた学問があるからだ。そうして考えれば100回読む、99回読んでも分からなかったことが100回目にわかることだってある。そうした意味においても、人生の中に生涯のバイブル(名著)をもつべきである

  • 五日目

    本気で生きるとは本音で生かされていくことです。
    「本気で生きる」ということは、若い弟子にとっても加齢を加えた私にとっても本気ごと。
    何故なら明日のことは分からぬ命ですから。
    そうするとわずかな残り時間で何が 出来るのか、を必死で考える。
    やり残したことは臆せずにさらしてやればいい
    明日の命はあるのかどうか分からないのだからやる。死を意識する、すれば人の人生は否応なく正しきを導き正解を導き出すはづである。やるなら月並みでおわらせないこと、月並みの考えで止めぬ事。

  • 四日目

    毎年10月10日に高校時代の同窓会地元博多である。毎回参加する。参加のたびに当時の先生や同窓生から「寛(かんちゃん)東京からよくきてくれたな」と感謝される。
    私は自分でできないことをかわってやってくれる仲間の気持ちがうれしいから喜んで参加する。ここにこんな言葉がある。『人であることの最上の喜びは、尽くしたいもののために尽くせること」人が人である理由は「心」にある、そして人は人の心に触れることによってのみ、そこに進むべき道をみつけることができます』
    高校生活の三年間、見も知らずの仲間が三年間ともに学んできたのである。
    仲間とは尽くしたいもののために尽くせる最適な環境である。今に思えば尽くしがたい存在のご縁として受け取っていたのである。
    それは心にふれあっていたのだ。だからこそ何十年も経ってこうして年に一度は会うことができ、ふれあうのだ。そおいうことであれば、私は橋本先生とのご縁を得たことは、先生の心に触れることによって、そこに進むべき道を見つけていったことになる。「尽くしたいもののために尽くせる」
    自分は本当に幸せだと思う。

  • 三日目

    人生が本業となると、確かに学ぶことが増えてきます。学んできたことがますます深化し進化してきます。そうなると損得の欲が消え本物の愉しさがわいてくる。すると自分にかまっていられなくなる。かといって一日中ネマキやジャージで過ごすことにはならないんです。いい加減にできなくなる。台所には使いっぱなしの茶碗が転がりゴミがたまっていることはないんです。 部屋にはゴミがたまらず清掃され、着るものにも気配りがなされるのです、
    自分の身勝手をそぎ落とせるのです。
    自分の生活が改まっていくわけです。めんどくさいことがなくなってくるのです。面倒くさいとは自分がめんどくさいんです。今の自分に飽きているのです。どうでもよくなるのです。その上無意識に愚痴を言っています。
    不平不満は間違いな気運が落ちます、それがことばの法則です。人生の成功者と成幸者の大きな違いです。成功者は求め続けますが成幸者は受け取っているのです