ブログ

  • 長野より

     初日からパソコンのトラブルにより、ブログアップできませんでしたが、改めて一週間のブログを担当します長野県在住の佐助です。一週間お付き合いよろしくお願いします。
     
     今年もあと少しで11月を迎かえようとしています。僕は11月になるのを心待ちにしていたひとりです。
    11月をなぜこんなに愉しみにしているかというと、11月1日に軽井沢プリンスホテルスキー場が一部のコースでオープンする予定なのです。
    もちろん人工雪でのオープンですが、スノボが好きな僕にとって11月は季節の大きな変化を感じられる月でもあります。

     そして僕の住んでいる所には、1978年に国産初のスノーマシンを開発した会社があり、現在は国内シェアの約80%を誇り、1998年の長野冬期オリンピックのゲレンデ造りでも活躍したそうです。(患者でもあるこの会社の社長の話から)

     今年は数年ぶりに板も新しくしました。購入の際にスノーボードの板選びにはいつも悩んでしまいます。それは板の柔らかさ・硬さや形状、滑った感覚が板によってまったく違うからです。昔から僕はブランドで板の選択をするのでなく、3月に行われる試乗会でいろいろ試して、自分のからだの感覚とフィットする板を選んでいます。からだの感覚で選んだ板はからだの一部となり、重心移動によりフィットします。
     スノーボードは両足がビンディングで板に固定されていますので、足底の感覚や身体運動の法則を十分に活かすことが必要となるからです。

     是非スノーボードを体験してみてはいかがでしょうか。からだの重心や重心移動についての大切さがよく分かるスポーツだと思います。

     今回の僕の板は、この板です。

     今日はこのあたりで・・・。ありがとうございました。

  • 七日目

    (227〜228p)
    小池    統合医療代替医療のようそは含んでいますが、それだけではありません。
         現代医療と代替医療しかないと思われている中で第三の医療だと思っています。
         どちらかだけでは必ず問題が起きます。統合医療は 「矛盾を矛盾のまま矛盾なく」 扱った一つの医療モデルだと私は思っています。
         ただ 「統合医療」 はわが国ではあまりにも誤解の多い用語ですので、今後は別な用語に言い換えられる可能性もあります。
         どの医療体系がいいのかという思考ではなくて、その人の中で自然に統合されている形に持っていく。
         究極の患者主体というと安易に聞こえるかもしれませんが、場合によってはどちらかもしくは療法を選ぶ。
         そのためには覚悟を持って選ぶ。それは柔道なのか剣道なのかということではなく、体の動きということに武術が還元されていくように、
         体の 「自発的治療」 を引き出すという意味での本来の医療のあり方へ戻るための、一つの窓口となるもの、それが統合医療の意味するところなのです。
    [参考文献]

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

     読みながらかんじたのですが、   
     
     橋本敬三医師の若い頃( ”野次馬根性”を発揮して、東洋医学や民間療法その他を渉猟し、宗教、哲学を学び、試行錯誤していた頃 )の姿は、統合医療医の祖、ではなかったか。
     
     時代が早すぎて、そんな気の利いた名称は無かったが、遺された文章から思いを馳せると、そんな気がします。−−−−−−−−そして、師は、最終的には 「運動系」 に帰一します。
     
     私は 「統合医療」 という行き方に興味を持ち、今後も好意的に見護りたいとおもいます。  

     そしていつか機会があれば、そういうDr、と仕事が出来る場をもてたらいいな、と思っています。

  • 六日目

    (266p)
    甲野    私が一番愛読している武術所 『願立剣術物語』 に 「中央と言う事有り・・・・・」 から始まる名文がありますが、
         そこに 「右へもよらず左へもよらず、上えも下へも付かず、本より敵にも付かず、太刀にもたれず十万を放れて中道を行く事也・・・・・」と、この夢想願立(流)という剣術の術理が説かれています。
         この文章は、もちろん受け取れるレベルによってその気づく内容もまるで違ってくるとは思いますが、
         身体的に見れば、かたくなってはいけない、だからといって、”だらっ”と緩むわけでもなく、喩えていえば糸電話の糸は引っ張り出されれば切れるわけですけど、緩んでいたら音が伝わらないですよね。
         何かそういうようなある程度のテンションがある状態だということではないかと思います。
         最近は身体の使い方に関して、リラックスさせろ、もっと暖めろ、という意見が多いのですが、言葉でその辺りをうまく伝えるのは難しいですよね。
         暖め過ぎでだらっとなると、結局、力を伝えるのに体がうねってしまいますからね。
    [参考文献]

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

     物事には最適の緊張状態があって、且つそれが静止しているのではなく、バランスをとりながら瞬時にへんかしている。

     これがより良く生きている、という事でしょう。
     
     生身の人間 (治療者)が生身の人間の患者と臨床という場で出会い、やりとりする訳ですから、そこに最適の時空の生むべきなのです。そこに善悪はありません。

     只 「ふさわしい」事を目指すのみ。それより外はありません。これが本書で言うところの 「最善手」 でしょうか。

  • 五日目

    (218p)
    小池    一番大事なのは、一人ひとりの患者さんの病気に対する 「考え方」 のような気がします。
         考え方の枠組みを栄養や漢方、心理など様々な視点から見直すことで、治療の可能性は格段に広がっていくように思います。
         物事の考え方というかフレームを変えるだけで、症状はものすごく変わるという実感が日々の臨床でありますね。 
         まあ、こういうと 「気のせい」 のようにとらえる人がいますが、そんな簡単な精神論でもないように思います。
         人は知らず知らず自分のとりやすい考え方へと思考が収束しがちです。
         これもまさに思考の縮退といっていい現象なんですが、いつも同じようにネガティブに考えてしまう、同じようなケンカしてしまうという事は思いあたる方も多いのではないでしょうか。
         こうした人たちに健康に対する考えの枠組みを少し変えてあげることを念頭において診療をしています。
    [参考文献]

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

     橋本敬三先生は 「患者さんの意識を変える名人」 だったそうです。 

    「意識が変わればからだが変わる」 とも話されていたそうです。
     
     小池先生の仰るように患者さんの考え方のフレームを変えることも大事だし、治療者側の考え方のフレームも変えると、治療の可能性は格段に広がっていくと思います。
     
    操体」 では 、 息 ・ 食 ・ 動 ・ 想 ・ 環 という観点から診ています。

  • 四日目

    (144p)
    小池    ある一定の枠内のところに画一敵に入らないといけないという空気があるんでしょうね。
         こうした画一化、ないしは標準化の問題は様々な分野で生じているのではないでしょうか。 
         「ちょい太」などといわれてる人たちがわりと健康的であるといデータがあるにもかかわらず、一般的にはなぜか瘦せていないといけないという風潮がありますよね。
         「メタボ」 という言葉がさらに拍車をかけている面もあります。
         時代の価値観ある種の思い込みによって過剰な 「画一化」 をしている面もあるように思います。

    (155p)
    甲野    そこにいないといけないといった強烈なしめつけががある。
         だから 「いじめをなくしましょう」 などといったスローガンや学校の制度をいじるより、根本的な価値観自体を変えなきゃいけないと思います。
         職業や価値観をはじめ、人それぞれいろいろな事柄を認めていく。
         つまり、江戸時代みたいにものすごい沢山の種類の職業があるようにするとかね。
         とにかく多様性を認めなくなっていることが、いじめやつまらない糖質制限に関する論争のもとになっているということはありますよね。
    [参考文献]

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

    標準値や基準値はあっていいと思います。 しかし小池先生も仰っている様に、

    『 適量ということがわからなくて、すぐ両極的な発想になってしまって‐‐‐(中略)—善悪じゃなくて、グラデーションのある発想にもっていかなければいけないのではないでしょうか。 』 (105p) 

    という事でしょう。昔から 「医者と坊主は年季が入ってる方がいい」 と言われますが、やはり、名医による匙加減、 「目利き」 による適材適所の配材が必要でしょう。

    どちらも、臨床経験を生身に刻んだ慈眼の人の為せる仕事です。   
     
    こういう練達の師を増やすとともに、甲野先生の仰るように多様性を認めていく方向を模索していく必要があると思います。

  • 三日目

    (69p)
    小池     これほど論文が重要しかされる背景には、やはり 「部分を集めれば全体になる」 という思考が行き渡っていることがあるのでしょうね。
          一人ひとりの研究者がたとえ全体を把握していなくても詳細な論文を書くことで、将来完成する壮大な体系のための一助になりうるという考えです。
          しかし、部分の集合がもし全体と一致しないのであれば、こうした方法論に関してもう一度再考する必要がありますね。

    (198〜199p)
    小池     統合医療もたった一つの正しい答えというものがないように思うのです。
          正しい方法を探すのではなく、間違った方向へ向かわないようにするという考え方をすることが大切なんです。

    甲野     それはもう消去法でやるしかないんですよ 「これはまずいね」 といって、何がのこっていくのかをよく検討する。それでも残るのは何かと吟味する。
          「これが正しいんだ」とはっきりいえたのは、明治維新の時代までですよ。あの頃は 「こうあるべきだ」みたいなことが結構はっきりいえた。
          それはまだ分からないことがたくさんあったからでしょう。
          今は散々いろいろやってきて、例えば社会主義は理想論だとかいわれたけど、現実にやってみると、大きな問題が出てくる。資本主義の問題も山積しています。
          つまり、いろいろやったけれど、それぞれ問題があったということが分かってきて、「さあ、これからどうするか」 という時代が今なわけです。
    [参考文献]

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

     

      3・11以降、学者や研究者の意見は 「参考」 となりました。かつての様な絶対的権威や威信が薄らぎました。
     
      問題解決のためには、多くの分野の人達が垣根を越えて、素直に協力しあわなければなりません。
     
      一番大事なのは、全体を把握する視点でしょう。そして、どの様に専門家集団を束ねてドライブしていくかです。

      これじゃ特に、指揮者とオーケストラの仕事です。今後の会社における集団、組織のロール・モデルとなるでしょう。

  • 二日目

    (51p)
    小池   明確な解決法ということについていうと、明治の近代化によって強烈な勢いで西洋文明が入ってきたわけです。
         医療の方も西洋医学で席巻されたわけですが、その勢いの分、医学には 「裏」 もありました。それは明確な解決法としては語られない療法です。
         ところが今は裏が裏じゃなくなってきました。
         それが情報化ということかもしれませんが、ともかくこんな世の中になった時に、かつてのように裏は裏、表は表というふうに棲み分けが出来なくなって、
         両方がみえてしまっているわけです。
         だからこそある程度、統合医療という視点から、表裏が入り混じった状況を概観する必要があると思っています。
    [参考文献]

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

     現代においても、表と裏、公と私、は住み分けられている部分はあると思います。   
    しかし、これだけネット社会が広がってopenになってしまって、全てが同一平面上に displayされる状態なので、
    customerとかconsumerという視点からすれば納得させてもらえるようなinformationとpaformanceを求められるのでしょう。
     
     治療者として患者さんの前に立てば治してくれる人が「先生」なのです。
    表でも裏でも、良いものは良いとして実践していこうというDr、の登場を私は歓迎します。
    実績を積み重ねて、日本発のモデルを世界に向けて発信して頂きたいと思います。

  • 一日目

     2000年代半ば頃より「統合医療」という言葉を耳にするようになりました。
    書店で『武術と医術−人を活かすメソッド』(集英社新書)を手にした時、その表ら閃くものがありました。                                     
     
     武術研究者の甲野善紀先生と統合医療医の小池弘人先生の対談です。面白くないはずがありません。スリリングな言葉が連載されています。
    その中から厳選し、私なりに嚙み締めてみたいと思います。

    (41p)
    小池:   そうですよね。だから一番怖いのはペーパー上で仕事をやっている人たちです。
          ロジックを考える人たちが、考えた事と現実におこていることとの違いを分かっていないような気がするんですよ。
          医療もそういう側面があって、基礎研究をしていて、研究の中では分かっているけれども、実際の人間に適用するとき分からない事が沢山あります。
          研究中心の先生たちと臨床の先生たちの発想の違いというのはそこにあります。
          机上での論議を好む先生たちは白黒つけるような、 「どちらが正しいのか」 といった二分割の傾向は強く出るように思います。
          一方で、医療の現場中心主義の医師はグレーソーンを受け入れる共通の認識を経験的に結構持っていると思います。
          現場の医師は 「科学的じゃない」 とか 「だから開業医は」 とか言われながらも、 「実際の人間はそう理想どおりになってないからね」 という認識があるわけです

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

    武術と医術 人を活かすメソッド (集英社新書)

     
    「理論と実践はちがう」 とは昔からの言い古された言葉です。臨床では正しい事ではなく、ふさわしい事を為すべきなのだ、と私は思っています。
    ガイドラインに沿ってマニュアル通りに加療、施設にする治療者も増えているそうですがやがて間に合わなくなるでしょう。

                 「臨床に正解はない。からだが答えである。」

     生身のからだは、きわめて多様であまりに個性的です。
    多くの問題を集約して何らかの法則性を導き出そうとするものを研究者と言い、その法則、理論の例外に日々遭遇し、世界の多様性に驚き、
    人体の神秘に畏敬する者を臨床家と呼ぶのだと思います。どちらも必要です。

  • 脳とカラダの相関性について

    「心は脳に、意識はカラダに」

    人間の心は一体どこにあるのだろうか。古代ギリシャアリストテレスの時代においては心は心臓にあると考えられていたようだが私的にはこの説はどうも腑に落ちない。確かにこういった事を考えなければ心を示すシンボルマークにハートが使われたりするので心臓にあるという認識を無意識にしていたかもしれない。しかし人間が命の営みを全うしていく中で動物と違い「感情をコントロール出来る」という点において、この説には矛盾があるように思える。やはりヒポクラテスプラトンが説いているように心は脳にあるものだと私も思う。

    では意識はどこにあるのかを考えていくと私は脳や心臓ではなく、人間のカラダのあらゆる箇所にあるものだと思う。具体的にはカラダを使わせて頂くうえで意識出来る箇所、つまり手足や腰、または目や鼻等である。特に普段から頻繁に使うことが多い手や足、目には己の神聖が宿してあり、意識が生きている箇所だと思っている。操体の講習で受講生は話を聞く時に正座位で手の平を上にして内転筋辺りに置く。これは手の平にある意識と脳にある心を自分自身の一番落ち着く所に納められる作法なのだと思う。人間の脳にある浮き沈む心をコントロールしているのが使わせて頂いているカラダに自在して在る意識になる。

    最後になるが講習に参加させて頂く度に操体も新たなステージに進んでいるのだと感じている。現在三浦先生の講習は常に「進化」し「更新」し続けているので一回でも講習を休むと取り返すのに2、3倍の時間を要してしまう。

    畠山先生も今回のブログで書かれていたが、岡村さんや半蔵さんのように三浦先生の下で私の何倍の月日を学びに費やしている先輩でさえ、月に何回か三軒茶屋に足を運び現在も自分の学びを深めている。

    私も常にそういった先輩方を見習い操体の学びに取り組んできたつもりだったが、今一度自分が構築してきた事をキレイに崩していこうと思っている。それは最近の私の中に「これで良い」という慢心があることに気が付いたからだ。やはり学んでいくプロセスの中で慢心が一番怖いものだと思う。それは私の意識だけでなく、脳もカラダも同じ事が言える。慢心して学習しなければ脳だけでなくカラダの動きもさび付いてしまう。特にカラダで身に付けたことは感覚として身に付けているので感覚が鈍ると取り戻す時間だけでかなりの時間を費やすのである。やはり常に自分が学んでいることだけではなく、命の営みに対し責任を持っていかなければならないと痛感している。

    今回ブログで書いてきたテーマも自分にプレッシャーを掛ける意味であえて自分が知りたい、学びたいことを書かせて頂いた。脳とカラダ、そして意識という私が臨床で最も大切だと思っていることをこれからも深めてこういった場で書いていけたらと思う。

    一週間どうもありがとうございました。

    来週からは半蔵さんです。お楽しみに。

  • 脳とカラダの相関性について

    「型と意識」

    アスリートだけでなく身体を使って何かを表現することには「型」という作法があり、その先に「技」という応用がある。何をするにしても「型」を身に付けることが最初の一歩だと言える。

    私は中学の時にやっていたサッカーではゴールキーパーをしていたのだが、これほど「型」が大切だと思ったスポーツは今までになかった。
    それまでに行ってきた体育のスポーツは見よう見まねである程度出来たのだが、ゴールキーパーだけは運動神経だけでどうにかなるものではなかった。それは運動理論や運動センス以上に「型」という基礎が必要とされ、それが身についていないと何も出来ないポジションだった。
    当時の私は基礎を毎日繰り返し練習することで「型」を無意識の習慣としてカラダに覚えさせるように努力したことを昨日のことのように覚えている。「型」を身に付けた先は驚くほどすんなり必要な事が身についた。技術・戦術的なことだけでなくチームメイトのことにも気が配れるようになった。つまり「型」を身に付ける意味とは自分の意識を変えることにも繋がるのだと思う。

    こういった私が身に付けてきたことと現在学んでいる操体はとても通じるものがある。前記に書いてきたことは操体でも同じで作法を行う意味は決してカラダの軸と重心を作ることだけが目的ではない。これは何をするにしても共通していえることかもしれないが基礎を身に付けていく段階での意識の変化が大切なのである。その意識の成長が「心・技・体」全てのパフォーマンス向上に繋げるためのものだと思う。
    そのように捉えていくと「学ぶ」ということは己の「生き方」を変えることでもあり、学んでいることの奥が深ければ深いほど平行して自分が本来の自分になっていくのだと思う。