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  • 同じ時代を生きた二人。

    おはようございます。

     昨日は掃除について書きましたが、掃除といえば、経営の神様とまで崇められた松下幸之助氏も、とにかく掃除を重要視していたようです。
     松下幸之助氏の掃除に関する発言や逸話は多々ありますが、PHP研究所の松下理念研究部長の渡邊祐介氏によれば、松下幸之助氏は掃除というものを仕事観や人生観のみならず、自然・宇宙観と関連づけて考え、人間としての成長に役立つものと確信をしていたとのこと。

    『PHP Business Review松下幸之助塾』2012年3・4月号の渡邊祐介氏の記事から引用すると

    『これほど真剣に、かつ熱心に掃除を推奨したのは、松下の自然・宇宙観によるところも大きいと思われる。松下は、万物を創造し、存在せしめるものとして宇宙の根源を想定し、その力のもとにすべてが生成発展していくと考えていた。宇宙根源の力は、自然の理法としてわれわれ人間の体内にも脈々と働き、一木一草のなかまで生き生きとみちあふれている。しかがって、季節の移ろいも自然の理法によるところであり、何ごとも自然の理にかなった方法によれば、必ずうまくいくという哲学である。
    松下は、松下幸之助商学院において掃除を導入するにあたって、「1年間同じ時間、同じ場所で掃除をしても夏には夕立が降り、冬には枯葉が落ちるといった自然現象の違いを掃除を通じて感じるもの」と語っていた。掃除を実践するなかでそれぞれが作業のコツをつかむ工夫をこらす努力をしていれば、おのずと自然の理法に即した物事の道理を模索し、理解することに繋がり、より人間力を磨く修行となっていくのではないか。』
    と書かれている。

     この文章を読んでいると、ピンと来るものがある。言葉の表現こそ違うが、その自然・宇宙観、哲学は、操体の創始者、橋本敬三先生の想念、思想、哲学とよく似ていると感じる。
     松下幸之助氏は明治27年に生まれ、平成元年に御他界。橋本敬三先生は明治30年に生まれ、平成5年に御他界。戦争を含む激動の時代を、ほぼ同時期に、この日本で生きておられたことになる。
     お二人の境遇や歩んだ道のりは勿論違う。生涯をかけて成してきた事、かたちにしてきた事にも当然違いがあるが、その根底にある思想と、それをもとにした心の持ち方には共通したものがあるのではないか、と思えてくる。

     その思想の根底にあるのは、やはり「オレがオレ我」の思想ではないということ。常に自分を生かしてくれている、自分以外の、目には見えないが絶対的に自在してあるものがあり、それによって生かされて生きているという捉え方。絶対的に自在してあるものとは、宇宙の根源という言葉の表現であったり、太極であったり、サムシンググレートであったり、神仏ということになってくる。

     しかし、神仏といっても「困った時の神頼み」という言葉に表されるような、そんな自分本位の甘えた神仏観ではない。自分も他者もすべてのものは、この世に生まれる前から救いの成立したイノチであり、この世に出でてからも、皆平等に愛とその法則を享受しているという、真理に直結する非常に素直な考え方なのだと思う。そこから、苦労を苦労とは思わず物事を前向きに捉えられる強さと、勤勉さ、他者へのやさしさが、かたちづくられたのではないだろうか。

     その例として一つ挙げれば、松下氏は病弱な面があったという。しかし、それをプラスに変えて商売を成功させてきた経緯がある。『人生談義』という著書の中で、「病と健康」と題して書いているように「自分が病がちだから先頭に立って商売をするにもそれができない。どうしても自分の代理に頼んで仕事をしてもらうことになる。そうなれば、十人にも百人の人にも頼めるし、非常に多くの仕事ができるのですな」ということもある。
     しかし、これは松下氏だから、まわりの人達が協力してくれたとも思える。そのような人格を持ちえた松下氏を、かたちづくったのは、先に挙げた真理に直結する心の持ち方なのだと思う。

     同じ「病と健康」という文章のなかでも、最期にこのようなことが書かれている。
    「万物は日々生成発展をしているのです。それがほんとうの姿だと思うのですね。ですから、病も、老いも死さえも生成発展の姿である。そういう見方をすると、いやだ、いやだと思っていたものがいやでなくなる。敵のように思っていたものが、やがては味方になるということになります。
    何ごともこだわってはいけませんね。素直にありのまま見るということですわ。病とはそのような気持ちでつきあっていきたいと思いますね。」

     一方の橋本敬三先生も、病と健康ということについて「病気なんかねぇ」と言い放っていたと聞く。そして、『生体の歪みを正す』の著書の中で、このような事を書いている。
    「人が神性を自己に発見し、よくよくこれを思い、全く神人合一した状態においては、病も死も問題の外に置かれる。そして、その神性が発揮されればされるほど人は健康である。神に病や死がないと同様に、その像である人にも、その通りであるべきはずである。神と人とが同じ像であるとの信念から離れるほど完全な像から遠ざかってくるのは当然のことである。これを迷いというのであろう。迷いが深まるほど、人の生活は神性顕現から遠ざかる故に、健康を害する因子を積み蓄えることになる。像も歪んで来たざるを得ないわけである。」

  • 掃除。

    おはようございます。
    今週は友松が担当させていただきます。
    一週間どうぞよろしくお願いいたします。

    今日は今年最期の日曜日という事で、しっかり大掃除をして、新年を迎えようという人も多いのではないでしょうか。

     先日、インターネットを開いたところ、ニュース欄に「「なぜかいま、掃除する経営者が増えている」というトピックがあった。クリックして記事を開いてみると、「カレーハウスCoCo壱番屋」の創業者の方が紹介されていた。
     この方は、創業した企業の経営を順調なまま後進に譲り、名古屋に私財を投じて音楽ホールを建て、現在はそこのオーナーをされているとの事。
     そして、駅からホールまでを毎日掃除しようと思い立ち、以来6年、雨の日も風の日も台風の時も休むことなく、ゴミを拾い、雑草を抜き、花を植えるのを趣味にしているのだという。

     この方は、インタビューに対し「掃除をして悪いことはひとつもない、ただ辛いだけです。他人に勧めても、まぁやらないですよね(笑い)。それでもいいんです。花が咲いていても気づかない人だっているんです。掃除をやるのはその地に根を下ろすこと、心がこもっているということの表現。実は掃除には即効性はないけれど、ジワジワと姿勢がよくなってくるんですよ」と語っている。

     さすが、長い間毎日一つの事をきらさずコツコツ続けてきた人の言葉だと感じる。姿勢というのは、肉体的、形態学的なことを指す場合もあるが、物事に対する向き合い方、態度を指す場合もある。その場その時によって意味合いは違っても、別々ではなく密接に係わり合っている。形態学的姿勢は、感情や呼吸によって大きく変化するのであるから、物事への向き合い方、態度、というのは非常に大事であり、そういった精神的な面が姿勢となって現れている。

     掃除というのは、日常生活の中で不可欠の行為である。「そんなの無くてもいい」という人も居るかもしれないが、掃除が出来るという事は人間である証でもある。他の動物は、毛繕いは出来ても、身のまわりの整理整頓をしたり、きれいにする事など出来ないのだから。

     そう想うと、掃除をするのは単なる美意識からではなく、人間の品性からであるような気がする。やさしさをはじめとする品性だ。物に対するやさしさ、物を使う人へのやさしさ、思いやり。
     どんな物でも汚れたままにしておけば、その機能を十分に発揮できなくなり、廃れるのも早い。使う人もその影響を受けてしまう。
     物も人も全てが快適な方向へと向かえるよう、空間調整するのが掃除であり、他の動物からしたら神と同じような所業をしているのかもしれない。だから掃除もより良く発展していくものでなければならない。

     そして、その業は品性を磨く業であり、その時々、時節が変わろうとも、その空間に存在する全てが、快適な方向へ向かって調和できるよう、毎日続けることに意義があるのだと思う。その時候によっては手が傷むほど、水が冷たい時候もある。カンカン照りで立っているのさえ辛い時候もある。
     このような肉体的な辛さから、やめたくなる時もあるだろうが、創意工夫して続ける。手元に何もなくとも、からだの使い方、動かし方、息のつき方を自然法則に準じて応用するだけでも、肉体的辛さは和らぐのだから。

     また、「何でこんなものを、こんなところに捨てるんだ」とか「せっかく綺麗にしたのに、何でまたすぐに汚すんだ」と怒りの感情を露わにしたくなる時もあるだろう。
     しかし、そんな時もやさしく、その空間の存在する全てが快適な方向へ向かって調和できるよう掃除を続ける。そこに精進があり、品性も磨かれる。
     そして、この方の語るように「実は掃除には即効性はないけれど、ジワジワと姿勢がよくなってくるんですよ」という事につながってくるのだと思う。

    釈迦も掃除の功徳について、次のように説いているという。
    ・自心洗浄・・・自分の心が清められる。
    ・他心洗浄・・・他人の心まで清めることが出来る。
    ・諸天歓喜す・・・周囲の環境が活き活きしてくる。
    ・端正の業を植ゆ・・・周囲の人の心も物事も整ってくる。
    ・命終の後、まさに天井に生ずべけん・・・死後、必ず天上に生を受ける。

  • 皮膚のこと

    操体と出会い、学ぶようになり「皮膚」のことを想う時間が増えた。
    こどもの頃からアトピーがあり、治ったかと思ったら大人になってまた現れたり。
    夏も冬も関係なく、「波」のように手の荒れや皮膚の荒れを繰り返す。
    振り返ると自分の皮膚に対して、無意識に、あまりいい印象を持てていなかったように思う。

    操体の講習や実技を通して、言葉や体感をもって。
    「皮膚」とあらためて出会ったように思った。
    今まで気が付かなかったことに気付き
    「包まれている」ことの凄さ、有り難さを体感した。

    当たり前だと思っていることは、決して当たり前ではない。
    当たり前が、当たり前でなくなった時の衝撃というのは
    なかなか想像できるものじゃない。
    いかに、頭の中に「常識」というレールが敷かれているかを認識する。
    そういうことを「皮膚」との新しい関係から、教えてもらっているように感じる。

    例えば、冬の寒さと乾燥。
    お風呂上がりにはなかなか堪える。
    「ひりひり」したり「じんじん」したり
    様々な表情を見せる。

    「いままで」を振り返ると
    そのことはとってもおっくうで、ただただ保湿クリームをぬり込むばかりだった。
    皮膚からの「声」に耳を塞いでいたなぁと思う。

    「いま」はこの風呂上がりのひとときが、大切な時間になっている。
    感覚してみたり、触れてみたり。
    色々試してみるなかで
    皮膚からの「声」が変化しているのに気付く。

    思考ではなかなか捉えられない「感覚の世界」が始まると
    どこまでも可能性があるのではないかと感じさせてくれる。
    そのことが、無性に有り難い。
    「皮膚」は、「細胞」は、たしかに生きている。
    ちゃんとみている。みられているんだと。。。

    穏やかで、静かで、充実した時間のなか
    「いままで、ごめんなさい」と
    いつの間にか、眠っている。

    一週間ありがとうございました。

    ここで一寸、告知をさせて下さい。
    来年2014年4月に春季東京操体フォーラムが開催されます!
    今回は4月26日(土)、27日(日)の2日間です。
    26日は三軒茶屋ターミナルビル、27日はいつもの千駄ヶ谷津田ホールにて行われる予定です。
    2daysの詳細は東京操体フォーラムHP等で追ってお知らせする予定です。
    気になっている方、いましばらくお待ち下さい。

    明日からのブログは友松さんが担当されます。お愉しみに!

  • 黄金螺旋

    からだのことを学んでいるうちに、「螺旋」というキーワードに対する興味が出てきた。
    このキーワード、あらゆる現象に密接に関わっている気配がする。
    「螺旋」は3次元曲線。
    これを2次元の平面に投影すると「渦巻」という2次元曲線になる。

    「螺旋」と一口に言っても、さまざまな種類があるらしい。
    インターネットで検索するだけでも「〜螺旋」と名のついたものが沢山でてくる。どれもその表情が違って見えて面白い。

    臨床に話を移して、介助/補助を受けている際のからだの動きのイメージ。ここにもこの軌跡が重なることがある。
    「植物的な動き」は言い換えれば螺旋の動きとも言えると思う。

    からだの動きの安定、充実感。
    操者として、また被験者として。
    動診、操法の中でいまいち充実感が足りないと感じる時。
    また、介助に「隙間」があるなと感じる時、抜けているなと感じる時がある。
    そういう時に目に見える動きも、目に見えない動きも。
    そのどちらも含めて、「螺旋」の軌跡が関わり、さらにその「質」を吟味するのが大切なのではと感じている。

    話はまた変わって漫画の話。
    中学生の頃から愛読している漫画に「ジョジョの奇妙な冒険」という作品がある。
    20数年続いている名作であるが、そのうちの第7部「スティール・ボール・ラン」にハッとする内容が書かれている。

    登場人物の中に「鉄球の回転」を扱う人物が登場する。
    この回転を駆使して、あらゆる現象を生み、妙技をもって目の前の出来事に向き合っていく。
    その物語の後半、回転の「質」に関わるやり取りが描かれるシーンがある。
    今までの回転とは違う、さらに質の高い回転を模索する必要性がでてくる。

    そのとき、その人物は「黄金比の長方形」から生み出される回転の存在に気付く。
    その「黄金長方形」から描き出される回転の軌跡は「黄金螺旋」である。

    すごいなと思ったのは、この人物が「黄金比の回転」を生み出す時。
    その原型となる「黄金比の長方形」を「自然界に存在するもの」から見出すことだ。
    それは時に、舞い降りる「雪の結晶」からも見出される。

    漫画の世界、フィクションの世界とあなどってはいられない。
    操体を学ぶことに大いに役立つ情報が詰まっているように感じている。

  • コーヒーの渦

    勉強するとき、独りの時間を過ごすとき、最近はもっぱらコーヒーを飲んでいる。
    以前はブラック派だったのが、日に何杯か口にするようになり、ミルクを入れるようになった。

    朝のぼんやりとしたひととき。
    コーヒーにミルクを入れ、スプーンでかきまぜる。

    ある朝、あまりにぼんやりしすぎて、ミルクを入れてからしばらくぽかーんとしてしまう。
    朝の新鮮な日差しが入り込んでいる。静かなひととき。
    ふと、放置していたコーヒーを見ると、ミルクがくるくると渦を巻いている。
    混ぜなくても勝手にミルクはコーヒーと溶け込む。当たり前のことだよなぁと思って見ている。

    とは言いつつも、その渦の感じ。
    お?
    当たり前だと思って漫然と見ていたけれど、なんだか面白く見えてくる。
    コーヒーの水面には次々に底の方からミルクが湧いてくる。
    それが大小さまざまな螺旋を描き、それぞれのスピードでくるくるしている。
    勝手な動きのように見えて、見えない歯車がかみ合っているように。
    全体一体の流れのごとく刻々と変化している。繊細でダイナミック。
    昔、美術の授業で習ったマーブリングのようなミルクの動態。

    なんとなく「脳の皺」のようにも見えてくる。
    あぁそういえば、脳のあの「皺」も熱対流が原動力になってできあがるという説を聞いたことがあった。
    ミルクの渦と脳の皺。まさに宇宙の神秘。

    そんな風に、ちょっと感動を味わった後、「ではそろそろ飲もうかな」と思った時。
    「水面下」に揺らめいているものを発見する。
    ずっとコーヒーの水面ばかり見ていたけれど、カップの中の目に見えない底の世界にも流れがあることを知る。

    ここにも渦があったのか。しかもこっちのはだいぶ立体的。
    この見えない流れがあって、水面の渦が見せてくれる世界があるのか。
    水面の渦は「氷山の一角」。
    コーヒー然り、裏側の世界にはさらなる神秘が隠されていることをここでも思い知る。

    コーヒーの世界では、わざわざかき混ぜなくても、ミルクとコーヒーはゆったりと調和していく。
    飲む人はミルクを入れただけだ。
    からだの世界でもそう。「からだ」と「快」が出会うきっかけを演出することだけ。
    あとはからだにおまかせすること。

    そうは言いながら、からだを前に「必要以上」のこと。
    例えば、スプーンでかき混ぜる様なことを自分はしていないだろうか。
    コーヒーとミルクが描くのびのびした螺旋の渦が、一際美しく見える。

  • 万感のクリスマス

    今日はクリスマス。
    クリスマスと言えば、先日、23日に代官山UNITで行われたイベント「ヒカシュー結成35周年記念 万感のクリスマス」に行ってきました。

    もう、最高の時間を堪能して来ました。
    気が付いたらどんどん前に移動して、最終的にはカブリつきで体感(笑)。
    極上の音に包まれて、からだの細胞もなんだか悦んでいるんじゃないかというような、そんな感覚。
    そう、この日会場に流れていた音はどれも本当にいい音ばかりで。幸せなひとときを味わいました。

    ひとときと言っても、4時間近かったと思います。本当にあっという間で、2回のアンコールの後も、拍手が鳴り止まず。客席の電気がついて会場側からの「もうアンコールはありませんよ」という、無言の合図にも関わらず、拍手は止まらず。気付くと手が動いていて「フォー!」とか言って、アンコールの渦の一部になっていました。

    最後の最後にその熱烈なアンコールに応えて、ヒカシューリーダーの巻上公一さんが独り出てきて、改めて感謝の言葉を口にしているのを聞いて、何度も何度もライブを見ながら感じていた「今日は本当に来て良かった」という気持ちが丸くおさまったようで。
    今でもあの空間で体験したことを、反芻しているような感覚があります。

    実はこのイベント、前日も含めての2days。本当は両方とも行きたいくらい、ともに超豪華な顔ぶれでした。いろんな方が感想をブログに書いているようです。
    不思議なのが、なんだか初対面なのにライブを観ているうちに客席に親しみが生まれているような感じがすること。これはヒカシューのライブならではなんじゃないかと思います。単なる音楽のライブに終わらない、空間丸ごとが開いている感じ。こういうバンドが、日本で、現役で活動していることが本当に嬉しい。新譜も出たそうです。今回のライブを通して聴かせてもらいましたが、最高でした!ジャケもカッコいいです。

    万感

    万感

    毎年クリスマスの時期にヒカシューはライブをされているようです。行ってみて思ったのは、これは完全に「クリスマスプレゼント」だということ。無形のプレゼントは人生の宝物。そんなことを改めて感じた一夜でした。

    そして、大切なことを言い忘れていました(笑)。ご存知の方もいらっしゃると思いますが、このヒカシューリーダーの巻上公一さんは当東京操体フォーラムの相談役をされています。このご縁、本当に有り難いなと感じています。

    早速調べたところによると、ヒカシューは来年の2月20日(木)に吉祥寺のStar pine’s Cafeでワンマンライブをするそうですね。この日もいい夜になるだろうな。からだが味わいたいようなので、吉祥寺に行こうと思っています。

  • 言葉の誘導

    動診と操法において、「介助/補助」と同じく奥深いと感じているものに「言葉の誘導」がある。ともに、からだの動きの安定・充実感を促すことに大きく関わる。前者が「見える手」で触れていると捉えるなら、後者は「言葉」という「見えない手」で相手に触れているようなもの。熟練の操者の方の動診、操法を受けると、静かな「千手観音」のイメージが浮かんでくる。

    「言葉」という字のなかに、「葉」という漢字が当てられているのは面白い。「植物的」な要素を含んでいるということだろうか。植物的な要素を含んでいるならば、言葉にも実は「根っこ」が生えているかもしれない。

    どんな「根っこ」がどこまで伸びているか。それは使う人に委ねられている、言葉を育てる面白さだと思う。表面的には同じ「言葉」でも口にする人、使う人によってその響き方がまったく変わってくることも、なんとなく頷ける。そんなことを考えていると、言葉にイノチがあってもおかしくはないように思えてくる。

    言葉の「根っこ」や「源泉」。そういった目には見えないかもしれないが、感じることはできるものを、からだは素直に受け取っているのではないだろうか。
    「言葉」というイノチあるものを生かしていく「言葉の誘導」。操者ができること、磨いていけることはまだまだ在るような気がしている。

  • 介助/補助

    講習で師の第二分析の動診/操法を受けている際、「植物の動き」のようなイメージが想起されることがある。
    「芽が天に向かって成長し、つぼみから花が開く」
    「タケノコがスーっと伸びていく」
    「蔓が支柱に巻き付いていく」

    日常の意識感覚では、捉えきれないほのかな変化の積み重ね。幾日かビデオカメラをまわして動画を撮影し、それを高速再生することで一連の流れを見ることができる様な、そんな植物の動き。

    動物である人間の動きの中にこういった「植物的」な動きが内包されている不思議。そんなイメージを味わっている時は、「からだのうごきはじめ」から動きの充実感、安定感に包まれていて、思考もおさまり静かな時間の中にいる。
    「充実感、安定感」という感覚の「質」にも幅が在る。そこに大きく影響するのは操者の「介助/補助」の質だと思う。

    しかし、植物は生きている中で、誰からも「介助/補助」を受けていないように見える。いや見えていない、認識できていないだけで、何らかの「介助/補助」を受けているのだろうか。もしそうだとするならば、その本質はなんなのだろうか。

    今、学ばせていただいている操体の学びは、「介助/補助」のかけ方、与え方ひとつとってもは、こういった生命の神秘に触れるようなことまで及んでいるように感じる。長年の吟味を重ねて育まれてきた、言わば操体の極意の数々。そんな原始感覚、生命感覚の学びを味わうほどに、何とも言えず有り難い気持ちに包まれる。これは操体の醍醐味だと思う。

    もしかしたら、植物が太陽の下で味わっている「安定感、充実感」というものを人間が味わうことも出来るかもしれない。いや、実際すでにそれに近い様な感覚を、講習の中で、師の臨生を通して実感させていただいていた。
    誰もがそういった「包まれている感覚」を、いまこのときに味わうことができると感じる。ただ日常の生活において、なかなかその大切なことに意識が向けられないだけで。
    「介助/補助」を学び、通していくなかで、そのことに気付くきっかけのようなものに触れられたらと思っている。

  • 全日本フィギュアスケート選手権「男子ショート」

    おはようございます。寺本雅一です。本日から7日間、ブログを担当します。
    どうぞ宜しくお願い致します。

    昨日、12月21日の夜。テレビで放送されていた全日本フィギュアスケート選手権2013「男子ショート」。
    見ていた方も多いのではないかと思います。
    一日目、このホットな話題から始めます。

    唐突だが昨日の夜、27歳の高橋大輔選手の滑りを見て、言葉にできず思わず涙してしまった。
    年齢が近いから、ということもあるのかもしれない。
    結果的には、得点的には、第四位。でもそんなこと関係ないよ、と思えるくらい
    見ている者の「芯」に訴える滑りだった。不思議なもので、彼がスケートリンクにスタンバイし
    ピアノの音から伴奏が流れ始め、「舞い」始めたその瞬間から、目頭が熱くなり、からだにスイッチが入ってしまった。
    なぜなんだろう。そのことが意識から離れず、しばらくその感覚を味わっていた。

    後から知ったことだが、彼は怪我をしていたこともあり、今回の大会に決して万全といえるからだの状態で臨んでいない。
    また、そのこともあり十分な練習も行えていなかったという想いがあったそうだ。
    そんな心境を抱えながらも、彼は舞った。色々な状況をすべて受け止めた上で、「いま」という瞬間に生きる人間の姿。
    言い訳など一切感じられなかった。「我」という意識も彼の滑りからは感じなかった。
    気付くと氷上で表現されるからだの動きに呼吸を重ねていた。

    スケートの評価基準のことはよくわからない。でも昨日の彼の滑りにはひと味違う「底光り」した魅力
    太い「軸」を感じ、点数では評価しきれない競技としてのスケートの「先」に在るものを魅せてくれたようにも感じた。
    月並みだが、その有り様が強く、美しく見えたのだと今は思う。

    最後に、ショートを終えた後のインタビューで彼は「自分自身」という言葉を使っていたのが印象的だった。
    「あぁ、やはり高橋大輔は『自分自身』と日々向き合っているのか」と思う。
    一番油断ならないのは「自分」なのだ。誰もみていないところでも「自分自身」はちゃんと見ている。
    思えば、「自分」ばかりに気を取られ、「自分自身」と対話することを忘れ
    外側を磨くことにばかり頭を働かせてはいないだろうか。
    彼のスケート、「生き様」を魅せてもらって、背筋が伸びる想いがする。

  • 〜心魅かれるスタイル、それは生き方7〜

    先日、職場で治療院の内装を頼まれました。
    といっても、大掛かりなものではなく、
    どんな風にコーディネートするかというレベルなんですが。

    集合住宅の一室でしたので、ベッド一床のみ。
    フローリングで洋間っぽいんですが、隣の部屋とは
    襖でつながってたり、クローゼットではなく押入れだったりと
    ところどころ、レトロな感じが…

    襖の替わりに、新に引き戸を買おうか、ロールカーテンにしようか
    などと考えていたんですが、襖自体は他の壁と一緒のクロスが
    貼られていたので、これを活かせないものかと閃いたのが、
    襖の木枠を取り替えるという案でした。
    (既存のは漆艶で黒っぽく見えるもので、浮いてしまってたんです)

    これは業者に頼まずとも独りでできるものかしらと
    調べると、これがけっこう自分でやってる方々がいらっしゃる!

    早速トンカン、トンカンと木枠を外して、柱の色と同系色の素材のもの
    に変更。他のインテリアも合わせて用意し、統一感のある空間になりました。

    今はDIY(自分で作ろう!)が人気なようですが、確かにやり方が
    分かれば、自分でもやってみようかなって気になりますね。
    中には家まで自分で作ってしまう方もいらっしゃいますが、そこまで
    いかずとも、「ここまでは自分でできるんだ」、「ここからはプロの仕事だな」
    と分かるだけでも愉しいんじゃないかと思います。

    からだのケアに関しても、「ここから先はプロに任せなきゃ」の手前で
    自分で調整できたらいいですよね。自分のからだと向き合いながら、
    「息」、「食」、「動」、「想」を通して、
    自分の体質や、生活パターン、嗜好や好き嫌い、そしてそれらの許容範囲
    を把握して、健康に生き、愉しむ。
    許容範囲を超してしまったら、素直にプロに手伝ってもらい、
    また自分を振り返る。ゼロにするより、そんな自分を受け入れる。

    ゴッドハンドで一瞬のうちに、痛みをとってしまうような臨床よりも、
    自分のからだと向き合うきっかけを作る臨生。こっちのスタイルのほうが
    かっこいい。

    カナヅチやノコギリで奮闘しながら、そんなことを感じていたのでした。

    一週間ありがとうございます。

    明日からは寺本さんです。よろしくお願いします!