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  • 今年最初の雑談 その5

    「指圧の心 母心、押せば命の泉湧く」の名セリフでも有名な浪越徳治郎先生。

    日本指圧専門学校を創設された指圧の名人です。

    ワタシもそこの卒業生の一人ですので、スペインの小野田先生は

    大先輩ということになります(操体フォーラム in スペイン)。

    ところで、浪越先生の名セリフですが、これはきっと指圧の極意ですよネ。

    いや、もしかしたら指圧に限らず「癒し」の極意かもしれません。

    だって、「操体の心 母心」って言っても、そんなに違和感ありませんから。

    母心といえば、橋本先生の著書や講演の記事などを拝読すると、

    「お母さん」とか「おっかさん」とかいう言葉がチラホラと出てきます。

    「〜操体のテクニックで腰の痛いの一発で直したって何にもなんねえものね。

    そういうふうにちゃんと仕組みがなってるっていうことをまずわかってもらわんと

    〜そういう仕組みがちゃんと組み立てられてあるんだっていうこと。

    産んでくれたお母さんがあるっていうこと。

    だから、その大自然のおっかさんと握手しなくちゃダメなんだ〜」

    (『地湧きの思想2』 柏樹社 より)

    なるほど、大自然のおっかさんですネ。

    そのおっかさんの心を知るということ。

    もしかしたら、それが本当の母心ということなのかもしれません。

    そして、施術にしても、人間は神サマが創ったものだとしたら、

    浅薄な人間のアタマであれこれしようとしたって

    思うようにいかないのも当たりまえのことなのかもしれません。

    ですから、その仕組みを知るということが肝要であり、

    操体のテクニックで腰の痛いの一発で直しても何にもならない」という

    橋本先生の言葉の真意を、よく理解していくことが大事なんだと思います。

    中谷之美

  • 今年最初の雑談 その4

    操体法の手法に足趾の操法というのがあります。

    ワタシが言うのもなんですが、これは素晴らしいもんですぜ。

    足(指)から、からだ全体に動きと感覚が伝わって

    緊張がほぐれるのはもちろん、呼吸が深くなって骨格も動く。

    つまり、末端からの全身調整法と呼べるものかもしれません。

    一番イイのは、とにかく気持ちがいいってことです。

    足(指)などを刺激する手法は痛いのもあるんですが、

    足趾の操法だけは別もんですから。

    それにまぁ「老化は足」からって言われるように、

    足をほぐすってことはからだにイイコトですしネ。

    さらに足相を観る今泉天心先生は、

    著書の中でこのようなことを書かれております。

    「〜足という字を解剖すると「口と止」と書く。足に故障がおこると、

    口のはたらきである「話すこと 食べること 息すること」の三つの働きがわるくなる。

    中風で足が麻痺すると言語障害が起るのを見てもわかる。

    つまり足がわるくなると日常生活にもさしつかえが起ってくるということです。

    「不足」は足がたらないと書く。「満足」とは足が満ちることです。

    金銭のことを「おあし」というのも、このへんの消息を物語っているのでしょう。

    足がわるくなると金銭にも不自由をきたします〜」

    (『運勢監定開発足相述』 霞が関書房 より)

    え゛ぇ!!足が悪くなると金銭にも不自由をきたすですって!?

    足趾の操法は不況の時代の救世主になれるか ・・・ な?

    中谷之美

  • 今年最初の雑談 その3

    三浦先生が「北風と太陽」の話を

    操体とからめて聴かせてくれたことがありました。

    「北風と太陽」といえばイソップ童話の一つ。

    それが、どうして操体の話にでてくるのかは、

    操体を知ってる方ならば何となくピンとくるんではないかと思います。

    まぁでも相田みつをさんの詩ではありませんが、

    太陽はただそこにいるだけで、

    あたたかい光をみんな平等に与えてくれるんですよネ。

    それに、あたたかい光って何だか気持ちがいいですし、

    あたたかい光に包まれるって想うだけでも気持ちがいい感じがするもんです。

    包まれるといえば、操体法をうけていると

    あたたかな何かに包まれているような感じをうけることがあります。

    あたたかな空間、あたたかな雰囲気、あたたかな光 ・・・

    それは何だかわかりませんが、何となく包まれている。

    でも、その感じは必ずしも操体法に限ったことではありません。

    日常生活の中でも感じることはあります。

    それが、どんなときかは人それぞれ違うかもしれませんが、

    そういうときはやっぱり気持ちいいんです。

    そして、できればそんな感じを施術のたびに出したいんですねぇ。

    相手のそばにただいるだけでそんな感じを出せれば、

    もうそれだけで手技の技術なんてどうでもいいかも?

    なんて思っちゃうのです。

    中谷之美

  • 今年最初の雑談 その2

    「そこに愛があるのかい?」

    どっかで聞いたようなセリフですねぇ。

    『ひとつ屋根の下』というドラマの中で、あんちゃんがいう名セリフです。

    さすがにあんちゃんはイイコト言いますよネ。

    でも、ウルトラマンコスモスの主題歌にも

    「愛ってなんなんだ、正義ってなんなんだ〜」ってありますが、

    愛ってそもそもなんなんでしょう?

    たとえば三浦先生は『快からのメッセージ』(たにぐち書店)の中で、

    このようなことを書かれております。

    「〜しかし、操体では肉体の死を死としてとらえていないのです。

    帰一の法則としてとらえているのです。

    帰一とは、命あるものは無条件の愛から生まれ、

    そして、その神性に帰っていくことなのです。

    ヒトは一番きもちがいいところから生まれ、

    そして、一番きもちがいいところに帰っていくのです。

    これが帰一の法則です」

    命あるものは無条件の愛から生まれ、そして、その神性に帰っていく ・・・

    もしかしたら愛のヒントとは、その神性に意識を向けることなのかもしれません。

    話は変わりますが、こないだある冊子を見てみたら

    マザー・テレサさんの漫画が載っていました。

    テレサさんに背中を拭いてもらっている男の人が

    「ワシのからだはクサイじゃろ」と言います。

    テレサさんは「ええ、とっても。でも、心はとってもイイにおいがしますよ」と答えます。

    すると、その男の人だけではなく、

    それを聴いていた周りの人も一緒に涙を流す ・・・ といった内容でした。

    う〜む、さすがにテレサさんスゴイです。

    たぶんワタシが同じことをやっても「ありがとネ」くらいは言われるかもしれませんが、

    みんなが涙を流すなんてことはきっとないです。

    そういうのはきっと同じことをやっても伝わるものが違うんですネ。

    施術にしてもそうかもしれません。

    同じことをやっても伝わるもの(効果)が違うなんてことはいっぱいありますから。

    では、どこがどう違うんでしょう?

    そんなとき、あんちゃんならきっと言いますヨ。

    「そこに愛があるのかい?」って。

    中谷之美

  • 今年最初の雑談 その1

    あけましておめでとうございます。

    今週は操体法東京研究会のヒヨコちゃんこと中谷の担当でございます。

    一週間よろしくお願いいたします。

    今年は午年です。午(馬)といえば去年の有馬記念オルフェーヴル

    いやいや、やっぱり強かった。

    このレースで引退らしいですが、震災の年に三冠馬となり、

    G1を6勝もしたんですから記録にも記憶にも残るような名馬ですよネ。

    スポーツの世界なんかでもよく記録と記憶ということを言われますが、

    ワタシらのような仕事も記録という点は別にしても、

    記憶に残るような施術はしたいもんだと思います。

    もちろん営業的には患者さんのアタマにも残って欲しいんですが、

    臨床ってことを踏まえればからだそのものに残るような施術。

    一つ一つの細胞にまでしみこむような施術。そういった施術をしたいもんです。

    ところで操体(法)の特徴の一つに遅効性というものがあります。

    その場の効果はもちろんなんですが、その後からもじわりじわりと効いてくる。

    そんな特徴があるようです。その理由は局所だけではなく、

    ボディのゆがみというものをみていくというところにあると思われますが、

    皆さんご存知のとおり、操体(法)による施術は快(気持ちのよさ)を

    キーワードにしながら、ボディのゆがみをなおしていきます。

    それは、もしかしたら快という味わいをからだに記憶させているのかもしれません。

    からだは気持ちのよさで治るんですから、

    その気持ちのよさをからだに十分に記憶させてあげれば効果もきっと持続する。

    気持ちのよさを十分に味わうってことは、快をそれだけ記憶させるってことであり、

    味わえば味わうほど後からどんどん効果も上がる。

    そう考えると第二、第三分析の威力は計り知れないもんなのかもしれませんヨ。

    さらに、もしかしたらその快を記憶させるだけではなく、

    それをきっかけに眠っていた快の記憶がよみがえるってこともあるかもしれません。

    鈍っていた感覚がよみがえることで、自然良能力もより良く働いて、

    知らず知らずのうちにからだそのものが元気になっていく。

    だからその場だけの効果ではなく、後からじわりじわりと効いてくる。

    施術者がどうこうするのではなく、

    快を記憶させてからだ自らが治るからだに変わっていくというわけですネ。

    まぁ相変わらずのヒヨコちゃんの妄想ですからホントかどうかはわかりません。

    でも、ウソかホントかはやってみて自分自身で感じることですからねぇ。

    中谷之美

  • 体験。

    こんにちは。

    今日で、今回のブログ担当も最後となりました。
    今回は、経営の神様とまで崇められた経営者、資産家である松下幸之助氏と、操体の創始者である橋本敬三先生について、あれこれ書いてきました。

     お二人とも、この世で成してきたことは違う。みんな、それぞれ個性をもって、この世に生まれてきている訳だから、違って当たり前であり、比較しても仕様がないことだと思う。しかし、成してきたことの原動力となっていた想念には、共通したものがいくつもあるように感じられた。

     松下氏は、はじめから資産家であったわけではない。家庭の事情で、小学校を中退し、9歳の頃から丁稚奉公に出されたという。そこでの色々な体験は、単なる知識として得たものと違い、いつまでも身についており、いかようにも応用が利いたという。そして体験というのは、ただ体験すれば良いというのではなく、その体験の味をかみしめる事が重要、と著書の中で書いている。

     操体操体法にもつうじるものがあると思う。温古堂先生語録にもあるように、橋本先生はよく「やじ馬でなければダメだ!嘘か本当かやってみよ」と仰っていたと聞く。
     また「動物は学問しない。しかし人間は理屈ばかり言っている。知識で判断するから間違う」とも仰っていたと聞く。

     見たり聞いたりしただけの頭の知識では、その本質までは捉えられないものだ。ものごとの本質というのは、本当にシンプルで、そして奥の深いもののようである。しかし、シンプルゆえに、頭の知識で判断してしまう。そして、表面的なことだけで、簡単なものと片付けてしまう傾向があるようだ。
     しかし、人間の頭の知識など、本質というそのものの根本にあるものに比べれば、たかがしれている。実際にその本質に触れてみようとする「やじ馬根性」というのは大切なことだと思う。

     嘘か本当か、頭だけで判断するのではなく、実際にやってみる。しかし、ただ単にやれば良いというものではない。やってみるという行動には、必ずからだの感覚が伴う。その感覚をききわけることが大切なのだ。創造主の理念が貫通し、それによって快か不快かを識別する能力である、原始感覚が備わったからだにききわける。これほど確かな判断基準はないと思う。
     知識で判断するから間違う。いかに科学が進歩しようとも、人間は人間を創れないのだ。コピー人間は遺伝子操作によって作れるかもしれない。しかし、創れないのだ。いくら利口ぶったところで、宇宙の根源とか太極とか呼ばれる創造主には敵わないということ。

     人に親切にする場合でも、大抵は自分が気持ちよさを体感したことを、まずはじめにしてあげようとするのではないだろうか。それが自然だと思う。頭で考えた気持ちのいい事を人に施す場合は、なにか迷いが生じるように感じる。
     体感した気持ちよさを体験という財産にかえていく。松下氏が語る、いつまでも身につき、いかようにも応用が利いたという丁稚奉公での体験は、そういうことが土台にあったのではないかと感じる。
      

    年末年始のお忙しい中、お付き合いいただき
    ありがとうございました。
    明日からは中谷さんの担当となります。
    明日からも、どうぞよろしくお願いいたします。

  • 昨日、想ったこと。

    おはようございます。

     昨日は、操体の創始者、橋本敬三先生はNHKラジオ放送に出演した時に語っていた言葉
    「自分一人で生きてないもんね、みなさんのお蔭で生きているんだ。そういう天地の法則のもとで生きているんだから、法則に違反しては生きられないわ。天地の法則もバランスなんだもんね。そのバランスの気持ちよさっていうのを味わうということが、自分にとっては一番しあわせだと思いますよ。」
    というのを紹介しました。

     この言葉というのは、本当に名言であり、救いの生命観に根ざした言葉だと感じる。この言葉を紙に書き、パソコンに入力し、ブログにアップする過程において、何度も身震いがした。仕事柄、「息」「食」「動」「想」の「動」の法則には敏感で、常に意識していることなのだが、天地の法則ということを改めて意識してみると、本当に有難く出来ていると感じられるし、橋本先生が仰っていた「この世は極楽だ」ということも理解できてくる。共存共栄が成り立つように、元々この世は作られているということなのだから。縦にも横にも、みんなそれぞれがお蔭さまであり、元々調和尽十方なのだ。

     そして、聖書の言葉などにある「まずは与えなさい」見返りを求めることなく与えなさいというのは、この天地の法則に則った行為であり、人やそれ以外にも親切にしたり、やさしくしたりすれば、「気持ちがいい」のだと思う。これは誰でも経験していることであり、体感していることでもあると思う。
     橋本先生は常々「原始感覚、気持ちが良いか悪いかがわかるから有難い」と仰っていたと聞くが、そういう能力を元々誰でも持っているということも救いだと感じる。
     みんなそれぞれが、この「気持ちよさ」をききわけ、味わうように心がけたならば、この世はもっと、より良く発展していくのではないだろうか。元々、この世は極楽となるように創られているのだから。

     まずは、やってみること。家族や隣人、親しい人に対して、善く思い善き言葉を叙べることからはじめてみるのも良いと思う。必ずや自分自身も気持ちよくなり、善いことが成ると思う。その発現に、時間的差異はあったとしても、必ずや善い事が成ると思う。

     松下幸之助氏は、著書『人生談義』の中で、「まずサービスを」と題して、このような事を書いている。
    「世の中というものはありがたいものでしてね、基本的にはサービスのしっぱなしということはないと思うのです。サービスをすれば必ずそのサービス以上になって返ってくる。“君にはこのあいだ大変お世話になったから、お礼をするよ”というものですな。見返りを求めてサービスをするわけやないけど、結果的にはそうなっている。
     よく見ていますとね、人間の心というものは一面利己的ですが、また一面で非常に報恩的といいますかね。恩を感じるものです。恩ということばが古くさければ、好意を感じて、それに報いると言いかえてもいい。それを皆やっていますね。
     また、その感謝報恩の念がなかったら、イヌやネコと同じでね、いや、それ以下かもしれない。人間の価値はありませんよ。だから、“まずサービスしよう”といいたいですね。」

  • 縦のつながりを、横のつながりに生かす。

    おはようございます。

     一昨日も昨日も、松下幸之助氏の「素直な心」について、ところどころで紹介していますが、もう一度『人生談義』の「真実を見るこころ」から引用すると
    「素直といっても、それは一般によく使われているような、おとなしく、従順という意味ではないのです。ぼくがいう素直な心とは、真理に直結する心とでもいいますか、私心や私利私欲など、何ものにもとらわれず、ものごとのありのままを見、ものごとの実相を明らかにする心です。それは広い寛容の心、他に耳を傾ける態度にも通じる心です。」とある。

    しかし、このことだけが「素直な心」というわけではなく、違う面からも「素直な心」ということを、同じ『人生談義』という著書の「とらわれていないか」という題目の文章で、こう書いている。
    「しかし、人間というものは、ともすれば何かにとらわれて、迷ったり、人間関係をこじらせたりしがちなものです。ぼくの今日までを顧みても、毎日、憤慨したり、他人のことをうらやんだり、・・・。だんだん少なくなりつつあるとはいえ、これまではずいぶんそうした経験がありますな。
     でも、そうした心を持っていない人はおそらくこの世に一人もいないのではないかと思うのですよ。もちろん、そのあらわれる度合いや程度は、人によっていろいろだと思いますが、しかし“おれはいまだかつてそんなとらわれた心をもったことがない”というような人がいたら、ウソだと思いますな。それは、欲望や感情を持っている人間なら当然のことで、そうした心の動きがあればこそ、また人生における満足や幸せ生まれるんですね。
     だから、大切なのは、欲望や感情をなくそうとするのではなく、それにとらわれず善導することです。折々に反省し、とらわれを極力排していかなければならないということでしょう。
     そのことは何も自分の気持ちを押し殺せ、ということではないと思います。たとえば、あなたがトクをすればあなたの親しい友達がソンをする、その場合、きっとお互いにほどほどの調和点を求めるのではないでしょうか。それでよいのですね。つまり、自分の欲望も適切に満たす。しかし、相手の欲望をも適切に満たしてあげる。自分だけの欲望、私心にとらわれることなく自他共に生きるということを大切にする。そうした心がまた素直な心だと思うのです。」

     これを読んでいて感じるのは、はじめの「真実を見る心」の文章の「素直な心」は縦軸につながる「素直な心」であり、「とらわれていないか」の文章の「素直な心」は横軸につなげなければならない「素直な心」なのではないかということ。
     もし、人間が本能だけで生きる動物ならば、縦軸とのつながりだけでいいと思う。しかし、人間は本能意外に知能や言葉を有し、自然環境に手を加える能力を持っている。そこに人間独特の欲望や感情といったものが生じるのは仕方のないことであり、横との関係による欲望や感情も否定は出来ないと思う。

     しかし、みんながみんな個人個人で、欲望と感情のままに生きていたら、社会は成り立たない。社会が成り立たないどころか、この世は地獄の様相を呈してしまうと思える。まがりなりにも社会や娑婆が成り立っているのは、個人個人の心の中に、縦軸につながる良心というものがあるからだと思う。

     良心というのは、非常に偉大な力を有しているが、一人一人に元々備わっているものでもある。しかし、備わってはいるが、横との関係ばかりにこだわっていると、この良心は欲望や感情によって、次第に潜在化していってしまう。松下氏のように、縦軸につながる「素直な心」を持ち得た人であるならば、横の関係で生じる困難や精神的ストレスも良心の力を借りて、プラスに変えていけたと思う。しかし、それ程の「素直な心」というのは、そんな一朝一夕に会得できるものではない。松下氏も「素直な心」になろうと決意してから、30年かかってようやく「素直な心の初段」になれたと仰っている。

     それだけ「素直な心」を高めていくのは大変な事なのだが、それによって良心の力、つまり宇宙エネルギーをも超えた無限の力の現れ方は違ってくるのだと思う。大変とか難しいと思ってはいけないのだと思う。せっかく誰にでも良心は備わっており、その力を大きく顕在化させる能力も秘めているのだから。
     良心を否定してしまったら人間が人間でなくなってしまう。だからといって良心を覆ってしまっている欲望や感情も否定してはいけないと思う。それも人間らしくない。可愛くもない。それでは生きる意欲も湧いてこないのではないだろうか。
     良心が潜在化してしまっていても、誰でもそのイメージと意識は出来ると思う。その人のイメージと意識の度合いで、欲望や感情を善導し、自他共に生きていくということを大切にしていく。そういう事を、少しずつ積み上げていけば良いのではないかと思う。そうする事で、自分自身は勿論、人間同士、生物同士、横のつながりもより良く生成発展していくのではないだろうか。

     これも一つの法則なのだと思う。宇宙の根源とも太極とも呼ばれる、創造主の理念とはそういうものだと思う。そして法則に順応していれば気持ちがいいのだ。上手い具合に、有難く創られていると思う。操体の創始者、橋本敬三先生はNHKラジオ放送に出演した時、欲望に対応する為にも常に「有難い」と思うことが大切であり、そうすれば人に迷惑をかけるような欲望は起こさないと語った後に
    「自分一人で生きてないもんね、みなさんのお蔭で生きているんだ。そういう天地の法則のもとで生きているんだから、法則に違反しては生きられないわ。天地の法則もバランスなんだもんね。そのバランスの気持ちよさっていうのを味わうということが、自分にとっては一番しあわせだと思いますよ。」と語っている。

     それと、良心の力を顕在化させるためには、言葉の重要性も無視できないと思う。橋本先生は著書の中で、言葉の重要性を説いているが、その中のひとつには、こう書かれている。
    「人は思って言うがままに現象をつくっているのであるが、このことを、はっきり認識している人は少ない。善く思い、善き言葉を叙べよ。善きことが成る。悪しく考え、悪しき言葉を語るなら物事は悪しくなる。」

  • コツのコツ、のコツ。

    おはようございます。

    あっ 今日は新しい年のはじまりでしたね。
     
     新年あけまして
     おめでとうございます
     今年も東京操体フォーラム実行委員ブログを
     どうぞよろしくお願いいたします。

     お正月といえば、おせちにお雑煮、初詣、それからお年玉。
     経営の神様とまで崇められた松下幸之助氏は、お正月に社員の人達に対して「経営のコツここなりと気づいた価値は百万両」という標語を、お年玉として贈った事があったという。松下氏の著書『人生談義』では、五十一年前のお年玉と題して、51年前を振り返りながら、何事でもコツをつかむことの大切さや、その意義、そしてコツをつかむにはどうすればよいのかということが書かれている。
     コツをつかむにはどうすればよいのか、という事に関して、要点と思われる箇所を抜き出してみると・・・

    1、
    「ぼくは、ものごとのコツというものは、単に人から教えられたり本を読んだりしてわかるというものではなく、みずから悟るというか、自得するものだと考えています。」

    2、
    「どんなことを行う場合でも一所懸命取り組んで、その都度これはうまくいったなとか、これはここをこうすればもっとよかったという具合に反省を重ね、新たなやり方を工夫していく。そのようなことを繰り返していくうちに、そのコツがおのずと身についてくるということではないかと思います。」

    3、
    「ものごとのコツをつかむコツは素直な心になることであるといえるのではないでしょうか」

     この題目の文章の中では、自然の理という言葉はでこないが、昨日のブログで紹介した根源社へ祈りをささげている時の心境、意識である「自分が何ものにもとらわれない素直な心で、自然の理に従っているかどうかを反省しているのや」という言葉を2と3の中に重ね合わせて考えても良いと思う。
     そうすると、操体法の中でも、最も重要な身体運動の法則を説いた、般若身経への取り組み方が思い浮かんでくる。

     般若身経は、健康体操のようなものと捉えられてしまっている面があるが、健康体操ではない。般若身経からはじまる身体運動の法則には、健康の基を正し、自然体(健康体)としての、あるべき姿を問いかけ、それが成り立つ理と約束ごとが示されている。
     だから、単に人から教えられたり本を読んだりしてわかるというものではなく、本人自らからだを使って、動かし、感覚をききわけながら悟るというか、自得していくものだと思う。その際注意しなければならないのが、自分の持論の眼中で解釈しようとしないこと。それをしてしまうと身経の意を成さなくなり、当然、何の効果も上がらなくなってしまう。快・不快の原始感覚を研ぎ澄まし、自然の理が成り立つ約束ごとを体感することが重要であり、それを体感することで、より自然体(健康体)へと近づいていくということなのだ。

     操体法の創始者、橋本敬三先生は、武芸諸般、茶道、華道などの名人達人、あるいは一般の人でも、外観上のフォームも麗しく見え、且つからだをより能率的に使うコツを会得している人に共通した道理を解明した。それは、自然環境に適応することであり、より良く適応している程、全身の重力をからだの中心に近づけて、からだを使えているという事。
     自然環境に適応するには、その法則に従うという事。自然法則の解明の為には、あらゆる方面からの検証がなされと思う。そして、事が自然法則の解明なだけに、自然の理に従っているかどうかを、素直な心で、自分を超えて自分を生かしめている大いなる自在に、問いかけることも忘れてはいなかったと思う。

     そうして、からだの使い方の自然法則である、手を使う場合は小指側側を利かして使う、足の場合は親趾側側を利かせて使うという重心安定の法則の解明が成された。重心が安定することによって、からだの使い方のバランス制御が保たれるわけであって、これによって文字通り腰を要とした、からだの使い方が可能となってくるということ。

     しかし、事はそれだけでは終わらない。からだの使い方の自然法則も、ある程度コツを会得している人ならば、成る程とすぐに納得していただけると思う。しかし、大部分の人達、特に臨床の場で出会う健康傾斜の歪体化の進んだ人達には、それだけでは納得していただけないのが実情だ。もっとその奥にあることまで解明していかなければならない。つまり自然法則の究明だ。そうしなければ、コツが会得した人達だけのもので、終わってしまうのだ。

     橋本先生は、この自然法則の解明と究明に生涯をささげていたと聞く。その成さんとしたことの真意とは、限られた人達だけではなく、すべての人達がやればやっただけ良くなる、より自然体(健康体)に近づくことができるという、いわゆる名人達人はたまた理想像とする絶対完全健康正体に、共通する健康のコツを得るためのコツまでをも、明らかにしていくという事だったと思う。

     しかし、橋本先生の御存命中、それは完成されたかたちでは、適わなかった。橋本先生の中では、それは出来上がっていたのかもしれないが、公表するまでには至らなかった。いかんせん検証する時間と身が持たなかったのだと思う。人間には寿命があるのだ。さぞや無念だったろうと思う。しかし幸いにも、その意志は、高弟、三浦寛先生にきちんと受け継がれた。

     重心安定の法則に限っただけでも、三浦先生によって、更なる検証と法則の奥にあるものの究明がなされ、より良くなる為のコツが明らかにされてきた。
     般若身経は基本的には立位で行うが、重心安定の法則に則った立位の姿勢を意識して行わなければ、自然体(健康体)に近づこうという取り組みにはつながっていかない。

     橋本先生は「からだの使い方は、かえだの中心である腰に集約されるべきが理想である。腰を要として、からだを使うコツは重心が母趾の足底、つまり、母趾のつけ根の部分(足心)にかかる」と述べていたという。この条件を満たすには、「両足を腰幅に開き「つま先と踵を平行させ」「両膝の力を抜いて緩め」など、いくつかの条件に従わないと、そのようにはならない。コツを活かすコツということ。

     コツのコツ、ここでいう重心安定の法則に則った立位の姿勢がとれる条件、つまり法則の奥にあるものの究明は、橋本先生から三浦先生に、その意志が引き継がれたことで完成の域に達した。しかし、そのいくつかある条件も、般若身経を行う本人が、どこまで意識して行え、その感覚をフィードバックできるかで、その効果の程は変わってくる。健康体操の類のように、法則も意識しなければ、その感覚もききわけないというのとは根本的に違う。
     そこで大切になってくるコツが松下氏の言う「ものごとのコツをつかむコツは素直な心になることであるといえるのではないでしょうか」ということだと思う。

     今年もコツコツ精進していきましょう。

  • 実相を意識して、自らの道を歩んだ二人。

    おはようございます。

     昨日は、宇宙の根源という言葉が出てきました。松下幸之助氏は檜の札に「根源」と直筆し、その札を祀る社を建立していたという。
     その社は「根源の社」と名づけられ、今も3ヶ所にあるという。そのうちの一つであるパナソニック創業の森にある社の社頭には、こんな言葉が掲げられているという。

     「宇宙の根源の力は、万物を存在せしめ、それらが生成発展する源泉となるものであります。その力は、自然の理法として、私どもお互いの体内にも脈々として働き、一木一草のなかにまで、生き生きとみちあふれています。私どもは、この偉大な根源の力が宇宙に存在し、それが自然の理法を通じて、万物に生成発展の働きをしていることを会得し、これに深い感謝と祈念のまことをささげなければなりません。その会得と感謝のために、ここに根源の社を設立し、素直な祈念のなかから、人間としての正しい自覚を持ち、それぞれのなすべき道を、力強く歩むことを誓いたいと思います」
     
     根源の社はPHP研究の道場とした真々庵にも建立されているが、松下氏はここで仕事をしていた頃、何よりもまずは根源の社にお参りしていたという。そして二礼二拍し、手を合わせて祈り、時には藁の円座を敷きその上で座禅を組み、手を合わせて瞑想にふけっていたこともあったという。
     『松下幸之助人生をひらくことば』の著者でもある谷口全平氏が「何をお祈りされているのですか」と問うと「一つは根源に対する感謝や。いま自分がここに生まれているということも根源の力のおかげやからね。もう一つは自分が何ものにもとらわれない素直な心で、自然の理に従っているかどうかを反省しているのや」と仰っていたという。

     松下氏の祈りとこの語りの中には、常に実相を意識して精進していたということが感じられる。松下氏のいう素直とは、一般によく使われているような、おとなしく、従順という意味ではない。
     『人生談義』の著書の中から引用すれば「ぼくがいう素直な心とは、真理に直結する心とでもいいますか、私心や私利私欲など、何ものにもとらわれず、ものごとのありのままを見、ものごとの実相を明らかにする心です。それは広い寛容の心、他に耳を傾ける態度にも通じる心ですね。」という事。
     これも踏まえて、先の語りを反復してみると、非常に崇高な精神をもって、自らの道を歩んだ方なのだということが窺い知れる。

     崇高な精神といえば、操体の創始者、橋本敬三先生も、常に実相を意識して精進しながら、自らの道を歩んだ一人であった。
     『生体の歪みを正す』の中に人生読本「人間の設計」と題した、NHKラジオに出演した時の内容が書かれているが、このようなことが書かれている。

     「道って字を書くけども、これは中国語で「タオ」っていう。「タオ」っていうのは人間が造ったんじゃなくて、自然にあるんだから無碍自在ですよ。自在ってことは自ずから在るんだから、それはね、調和尽十方なんだ。まあ懺悔する気持になると思うね。だから仏教の経典のなかにね、読ましてもらったんだけど、「観普腎菩薩行法経」ってのがあるんだな、それにね、「一切の業障海は、皆妄想より生ず、もし懺悔せんと欲せば、端坐して実相を思え、衆罪は霜露の如し、慧日よく消除す」、だから懺悔の心が起きれば実相を見ろっていうの。実相を見ろっていうのは、「無量寿の慈悲」と「無辺光の智慧」と「道」というのが無碍自在だということがわかれば、あとは懺悔して感謝するっきり仕様がないですよ。その感謝も衆生と倶に、讃えて仰ぎ奉ることを冀うってことに僕は尽きると思うな。ちゃんと法則があるんだもんね。」