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  • 2、古い言葉が忘れられている

    『日本人は、昔から四季による自然の変化に敏感で、自然との触れ合いの中で、言葉も豊かに発達させてきた。』

    『こういう自然の気配を敏感に感じ取る力や感じる機会が、日本人から失われているから、言葉が消えてきたのだろうか。あるいはこういう言葉が語られなくなったから、感じる力が落ちてきたのだろうか。おそらくその両方だろうが・・・』

    私の気に止まったのは、『雨の名前』という本に載っている「利休鼠の雨」という言葉です。利休鼠とは、茶人千利休が好んだと言われる緑色がかった鼠色のことです。

    そんな雨空から、ポツリポツリと雨が降って来る・・・何とも風情がありますね。浮世絵で見た事がある様な・・・昔、京都洛北の竹林の端を歩いていた時に、お目にかかった事のある空模様・・・だったような。

  • 1、「引き受ける」という感性

    先日、畠山先生からご紹介いただいた
    美〜「見えないものを見る」ということ〜
    福原 義春 著 (PHP新書

    を拝読し、感銘を受けました。
    気に入った言葉をお皿に戴いて、味わってみたいと思います。

    1、「引き受ける」という感性 

    『日本という特別な気象条件、地理的条件、その中で日本人が生きてきた生活の形態から出てきたものが、日本文化ではないだろうか。』

    と仰っていますが、私も全く同感です。

    芭蕉のあたりまでは、人間が自然をすべていったん引き受け、そのときに体から出てきた反応を言葉で表現していた。』

    そうなんでしょうね。確かに、現代人からは出て来ない感性語が見られますね。

    ところで、東洋医学では、夏の養い、冬の養いという考え方があります。夏の暑い時には毛穴をしっかりと開いて汗をかく、冬の寒い時には毛穴をしっかりと閉じて毛を立てる。これが、それぞれ反対の季節の備えとなる。自然に即した自律神経調整法だったのです。

  • 「人との繋がりが与えてくれること」

    今年になり昔の友人、知人と偶然再会することが多い。それも私が普段から意識している人達との再会である。

    今までの自分は何百、いや何千もの人との出会いがあり、その中で繋がりたい人を選択してきた。それは意識的に選択してきたというよりは、本能的に私が数ある出会った人達の中から選択してきたのだろう。

    そんな自分が選んだ友人達との繋がりを年の経過と共にいつの間にか繋がりが薄れてきた今日この頃だったが、この再会は私にとって本当に繋がっていたい人、または己の人生に必要な人達とは繋がっていなさいという神様からのメッセージだったように思える。

    また知人や友人と会うことよりも自分の時間を愉しんでいたことで外から受け取れるものが極端に少なくなってしまったように感じる。これからがこういった自分の姿勢を少しずつでも変えていきたいと思う。
    その理由は私がこれから歩んでいく臨床家としての人生には沢山の人達との繋がりが不可欠になるからだ。特に学ぶということにおいて人から得られることは数知れないほどあり、自力だけでは己が得られる気付きにも限界がある。また操体を学ぶことにおいては同志から得られるものは計り知れない。

    よく「自分はパソコンと携帯があれば生きていける」という若者がいるが、確かにそれがあれば生きていく上で必要最低限の情報や時間潰しにはなるのかもしれない。

    ただ私が思うにこういった人達ほど自分が得たいことを「手っ取り早く」という意識が強い。私も昔はそういった人のように出来るだけ早く、安く手に入れたい人間であったが、そうやって手に入れたものは薄っぺらで先が無いのである。
    やはり同じ情報を得るにしてもインターネットや本から得るのと自分が知りたいことを深く極めた人から「生きたコトバ」で聞くのとでは大きな違いがある。

    例えば極端な例になるが操体を勉強したいが、まずはネットや書籍で勉強しようというのと、よし最初に三浦先生の所に勉強しにいこうというのでは身につく速度が全く異なる。それは技術や経験値もあるが、それ以上に誰かの声を聞いて学ぶことはコトバの力と自分を奮いただせてくれる波動があり、知った先がある。こういったことからも一流になりたければ人との繋がりを大切にしていける人間でなければならないということが解かる。

    一週間お付き合い頂きありがとうございました。来週からは半蔵さんです。

    お愉しみに。

  • 「アイデアはどのようにいかせるのか」

    操体を学び始めて六年の月日が経過しようとしている。誰もが自分がやっている事を3〜4年続けていくとやっていることの本質がわずかでも見えてくるものだと思う。それはそれなりに基礎が身についてきたことを意味するのだと思うのだが、ここが一流になるか、二流になるかの分岐点になるのだと最近の私は強く感じている。

    現在の私は畠山先生がブログで書かれていたように「守・破・離」の「守」の部分に位置しているわけだが、なかなか「破」が見えてこない。六年やそこらでは当たり前のことなのかもしれないが、学んでいることが「本物」であればあるほど、「守」から「破」への道のりは長く険しいのだと感じる。やはり自分が学んでいることの真理は安くは手に入らないものなのだと改めて実感する。

    私は今でも師である三浦先生のやっていることをひたすら見て、真似て練習する日々であるが、次から次へと溢れ出てくるアイデアを一早く形にしたいという衝動に駆られる時がある。しかし、自分が「これだ!」というものに対し型付け、提案する勇気がない。それは私自身がまだ自分に対し自信が無く、師が見ている先のものを掴めていないからだと思う。
    なぜ自信が持てないのかと考えていたのだが、自分が持っているアイデアを形にした時の結果が見えてこないからだと思う。別の言い方をすると自分がイメージしたストーリーが最後まで描ききれないのである。恐らく師はそんな私の迷いを察知してくれたのか、最近のレッスンの場では「好きなようにやってみろ」「だが好き勝手にやるなよ」等と声を掛けて下さる。こういった声を掛けて頂けるのは弟子としては本当に有難いことであり、私もそれに応えようと自分の考えていることを出来るだけ「道理」から外れないように形にし、師の想いに応えられるように努めている。

    そういった経験から学んでいることはやはりストーリーの結末が描けないうちに出てくるアイデアは本物ではないということである。それは全てのことに同じことが言えて、最初だけ描けて途中からは「どうにかなるだろう」というアドリブでどうにかしてしまうのが一番危険であり、自分が取り組む前の段階から全てのストーリーを描ける能力が備わるまでは自分の持ったアイデアは懐に温めておくべきである。私が思うに自分で身に付いたと思ったりしているうちは、それはまだ本物ではない。自分が身に付けた技術や術が無意識の習慣として普段の行動として出せるようになった時に初めて身に付いたということになるだろう。つまりそれは=姿勢ということになる。師や先生は弟子や生徒の姿勢を見て「出来る、出来ない」を判断しているのだと思う。

    もしこれを読んでいる皆さんの中にも私と同じようなことを感じた人がいたら今一度自分に問いただしてみてほしい。現在の自分の姿勢はどうなっているのか、生き方はどう変化してきたのかを。

  • 「快」の本質

    映画を観た感想を100人に聞いたら100通りの感じた方があるように、一人独りが体感する中で感じる感覚ということは操体の臨床におけるきもちのよさにおいても一人独りが違うイメージを持っていることだろう。

    本日は私が思っている「きもちのよさ」と「快」の違いについて書いていきたい。

    よく患者の人達の声に「痛いけどきもちがよい」、「くすぐったいがきもちがよい」という人がいる。それもまた一つの「きもちのよさ」と捉えても良いと思うのだが、こういった「きもちのよさ」と「快」とは本質が異なるように思える。

    最近の私達が学んでいること、体感している「きもちのよさ」は「きもちがよい」という感覚からベクトルが「快」に変わってきているように感じてしまう。端から見れば同じのように聞こえてしまうが、その本質を辿っていくと違うように感じる。一体、「気持ちのよさ」と「快」とは何が違うのかを考えていきたい。

    この二つのコトバの響きを休みの日や寝る前にずっとイメージしていたのだが、どちらもとても響きは良く、心地よい感覚がある。だが、よく聞き分けていくとカラダは「きもちがよい」というコトバの響きを選択し、命は「快」という響きを選択することを悦んでいるように思える。このように気持ちのよさを捉えていくときもちのよさには「カラダが悦ぶきもちのよさ」「命が悦ぶ快」の2つがあるように思える。
    この二つに共通していることは「委ねる」ということにある。そこには自分という思考は無く、ただ委ねていられる感覚をいう。この世界観は意識と思考を使っている以上、なかなか日常生活において体感することが出来ない感覚なのである。

    こういった「委ねる」という感覚を体感すると生きるということにおいて思考と意識の他にもそれらが関与しない無意識の感覚が在るように思える。私はこの無意識の感覚に「快」の本質があるのだと思っている。これは昨日書かせて頂いた「第七感」の話しの続きになるが、自我を超越し、全てを委ねられる感覚が第七感の覚醒に繋がっているように思う。しかし生活という空間の中に身を置いている以上、この覚醒はなかなか出来ない。

    だが、一つだけ日常生活の中で「委ねる」という感覚を体感することが出来るのが「眠り」である。
    私の感覚だと、眠りには「思考が眠る眠り」と「意識が眠る眠り」、「カラダが眠る眠り」があるように思える。夢をみることや眠れずに朝まで時が経過するのを待っているような眠りは誰にでも経験したことがある眠りだと思うが、それは不安や緊張が邪魔をしているか、または意識とカラダが眠りを要求していない状態であり、寝ていても寝ていないような状態にある。この眠りはとても不快な感覚がある。
    しかしそれとは逆に寝たらアッという間に朝を迎えていたり、ほんの少しの間だけ寝ていた等の眠りは睡眠を取った時間に関わらず、心とカラダがリフレッシュされた状態にある。この眠りは意識や思考は完全にOFFになり、とても気持ちがよく、臨床で快適感覚を味わった後の爽快感に類似している。

    その眠りの状態こそが先程私が言っていた「委ねている」状態に近いのだと思う。それは何かに例えようとしても例えられるものでもない不思議な感覚であり、それを体感すると命がとても悦んでいるように感じる。

    話を戻すがこのようなことは快の本質にもいえて自分という思考が介入してしまうと、「〜けど」「〜のような」という〜が付くようなきもちのよさになる。ただ純粋に自分自身を委ねていられる純粋な快こそが本来の快の本質であると私は思っている。

  • 「五感を超えた感覚」

    先月東京操体フォーラムが開催された。その時に同志である日下さんの講義の中に人間の五感についての話があった。

    その話を聞いて以降、五感に興味を持ち自分なりに臨床に活かせないかと考えていたのだが、そもそも医者を含めたカラダを診させて頂いている人間が診断の中で五感をそれほど重視いないことがおかしいのではないかと思っている。

    私が思うに人間のカラダにおいて五感とカラダにはお互いがバランスを取る様な関係性があるように思える。それは本人しか分からない「感覚」という目には見えないもので表わされていて、五感におけるバランスの不調和が人間の命の営み(息・食・動・想)のバランスを崩し、病気になるのだと思う。

    この五感のバランスを考えていきたいのだが、私に当てはめると私は自分の感覚的に視覚、聴覚が悪く、その分、味覚、嗅覚、触覚は良いように思う。聴覚が悪い原因は自分では分からないが、視覚は明らかに普段の使い方の過ちによる結果だと思う。それを有難いことに五感が「間に合えば良い」ようにバランスを取ってくれている。このバランスのおかげで私は日常生活を不自由なく暮らすことが出来ているのだが、この五感が間に合わない、つまりどれか一つでも失ってしまったらどうなるのだろうか?

    私は子供の頃に視覚に原因不明の障害が生じてしまった経験があるが、その時は自分に何かが欠けているような感覚はなかったように思う。現在、なんらかの原因で五感の何かを失ってしまった人達にもそういった感覚はあるのではないだろうか。現実では何かを無くしてしまっているように見えても、何かで補おうとする命のバランス感覚が作用し、第三者が思うほど本人は不自由を感じてはいないのではないだろか。
    それは神様が何か新しいものを与えられているようにすら思えてしまう。

    例えば産まれつき耳に障害がある人が音楽で類い稀な才を持っていたりする。それは正常に機能している人には足りない感覚、つまり第六感に新たな感覚が与えられているのではないだろうか?
    一般的にこの第六感とは感・直感、物事の本質を掴む心の働きと言われているが、先程例に挙げた人は私が思うに自我が消え、とても研ぎ澄まされた世界に身を置いているような感覚なのだと思う。これは決して現在インターネットに載っているような他力で簡単に手に入るものではない。命がバランスを取ろうとする生命現象の中でのみ得られるものなのだと思う。

    そして私はこの先にも自在空間と繋がり、自我を超越する未知なる感覚、つまり第七感があるように思える。現在私達が臨床でテーマにしている「快」のベクトルはこの第七感に向かっているように思う。
    しかし五感が正常に機能している以上はこの感覚を体感することはなかなか困難なことであり、意識して容易に手に入るものではない。ただ、カラダにも使わせて頂くルールがあるように心・意識にも使わせて頂くルールがあり、その法則を紐解いていければ生と死を超越したこの感覚に目覚めることが出来るのではないだろうか?

    実際のところ、現代の操体ではそういった可能性を実現できるところまで進化を遂げている。私が思うに生前、橋本敬三先生は五感を超越した感覚に目覚めていたのではと思えてしまう。その感覚を人間誰でも体感出来る術を操体法に示して下さったように思えてならない。

    今日は少しぶっ飛んだ話をしてしまいましたが、明日もお付き合い下さい。

  • 「カラダの本来の動きについて」

    人間のカラダには私達がまだ知らないとてつもない動きの可能性がある。

    それは橋本先生が示された3法則1相関性(重心移動の法則、重心安定の法則、連動の法則、そして呼吸との相関性)が基礎となり、それが現在では8法則8相関性にまで至っている。
    この操体が説く進化の過程、そしてこれからの道筋には一体何があるのだろうか?

    私は三浦先生が説かれている8法則8相関性を意識し学んでいく中で、従来のカラダの動きとは明らかに違う点があることを感じた。それはカラダの動きには外の器の動きと中の器の動きがあることであった。

    よくインナーマッスルを鍛えるというコトバを耳にするが、私が言う外の器の動きとは皮膚を介した筋・骨格だけの動きであり、中の器の動きとは外の動きでは稼働しない細かな神経繊維の動きを含めた目には見えない動きをいう。
    橋本先生が現役の頃に行っていた楽か辛いかの分析法(第一分析)では私がここで言っている中の器は作動しきれていないように思える。この中の器をフルに稼働させるには気持ちのよさへの問いかけの中で三浦先生が加えた5法則7相関性が必要になってくるのである。この問いかけを行うことで感覚の聞き分けも普段の生活では聞き分けることが出来なかった感覚も聞き分けることが可能となった。私が思うにこの「中の器」の作動こそがカラダ本来の動きであるように感じる。

    それらが可能になった要因として、カラダの動きをコントロールしている脳への問いかけと普段カラダが使いきれていないパーツを意識的に使うことが要因として挙げられる。

    それをこれから説明していこうと思うのだが、その前に人間の動きの可能性を考えて頂きたい。そもそも人間は本来備わっている数%の身体能力しか発揮せずに一生涯を終えるといわれている。それは脳が制御しているからであり、アスリートでは無い限り日常生活の中で必要以上にカラダの動き、運動パフォーマンスを挙げる必要はない。
    よく格闘漫画等で脳が覚醒し、無意識の中で自分の技量を超えた能力を発揮することが描かれているが、これは自分の意思ではコントロール出来ないカラダの動きを自我を無くすことで、本来のポテンシャルを発揮することが可能であることを伝えたいのだと思う。
    これを踏まえると人間のカラダにおける本来の動きの可能性は思考を出来るだけOFFにし、ほんの少しでも無意識に近い状態に持っていくことにある。そしてその状態にする最良の手段は肩甲骨の開放と目の使い方にある。私が強く感じるのは人間の動きは目線の使い方によって無限に広がっていくように思う。そしてその目線とはカラダにとっての意識であり、カラダの全てをコントロールする司令塔のような役割を担っているのである。

    私達は格闘家でもなければ、アスリートでもないのでこういった能力を追求する必要がないのかもしれないが、ただ普段の生活でカラダを使わせて頂いていることを踏まえると本来カラダが持ち合わせる動かし方、その可能性を知る義務があるのではなかろうか。

  • 「螺旋について」

    ある時、こんな事を考えていた。

    「人間や動物のカラダはなぜ、円柱なのだろうか?」
    「ロボットのように四角ではいけなかったのか?」

    例えば、人間のカラダがガンダムのように四角の構造で、発するコトバも漫画であるようなリズム感のないコトバになったらどうなるのだろうか?大体、皆が同じ想像されると思うが、私はロボットと人間の大きな違いは心とカラダの連動にあると思う。人間のカラダが丸く、コトバに起伏があるのは連動があり、その連動によって波動という波が産まれる。その波動は螺旋の回転が生じ、命の波動が生み出されるのである。それは犬や猫も人間と同じことが言える。命在る者にとって、その構造が四角では角がたつし、連動は決して起こることはない。円で出来ていることが命を与えられた特有のつくりなのだと思う。

    今日はこの螺旋について少し書こうと思うのだが、皆さんは螺旋を描く(イメージ)する時にどのように描くだろうか?

    螺旋は右回りからの渦もあれば、左から描く渦もある。大きな渦を描く人もいれば、小さな渦を描く人もいる。更には外回りの人もいれば、内回りの人もいる。

    どちらの円が良いか悪いかというのは無いが、この螺旋のイメージこそがその人の思想を忠実に表しているように思う。それはコトバにも同じことが言えて、その人が発するコトバの波動は生き方に反映されている。人それぞれコトバの波動は異なり、その産み出す螺旋が命の悦ぶ螺旋か、もしくは命の悲しむ螺旋なのかが生きていくうえでとても大切になってくる。

    こういったことは臨床だけでなく、人との付き合いにも応用出来るものでもある。

    「波長を合わす」というコトバが適切なのかは分からないが、人と人とが付き合っていくうえで人間は無意識のうちに相手が出している波動に合わせ、調和させながら生きているのではないだろうか?よく自分とは合わない、生理的に無理等というコトバが出るのも自分の描いている螺旋と相手との螺旋が調和しないからなのだと思う。人付き合いが上手い人は相手の波動をいち早く察知し、その波動に合わせ付き合うことが出来るのであるのだと思う。

    このように螺旋のイメージは操体の臨床や生き方においてもとても大切になってくる。

    それは人間が常に螺旋を描きながら、波動と調和し生きているからだ。

    三浦先生が皮膚に触れる診断法を「渦状波」と名付けられているが、なぜこういった名称にし、体系付けられたかを考えていくと先程述べたことが大いに関係しているように思える。

    こういったが少しでも見えてくると操体の臨床がなぜ「感覚」を重視しなければならないのか、なぜ人間のカラダは丸く出来ているのか、なぜコトバが大切なのかが解かってくるのである。

  • 「操体」の素晴らしさ

    昨日、東京の蒲田で開催された「伝統療法カンファレンス」に東京操体フォーラムの一員としてこのイベントに参加させて頂いた。

    こういった様々な伝統療法が行われている場には初めて参加したのだが、本当に沢山の驚きと気付きがあった。

    まず会場入りして最初の驚きは一般の方達の健康に対しての熱意である。このイベントに参加するまでの私のイメージでは参加者のほとんどは、それを職にしている人やカラダの健康に困っている人達が来るのを想像していたのだが、参加者の中には若い人達も多くいて、熱心にどういったことをしているのかを見て、体感し勉強されていた。
    こういった光景を目にすると自分が想像している以上に、世間の人達は健康に目を向け自己管理の責任を全うしようとしているように思う。それが忠実に表わされていたのが私達の施術を受けに来られたお客様の反応であった。

    操体の臨床を初めて受けに来る人のほとんどの人は施術の最中に思考が働いてしまう。
    どういうことをしているのか、自分は何をされているのかと考え、最初はなかなか感覚を聞き分けることが出来ない。それは仕方がないことだと思うが、昨日来られた方達はそういった思考の関与がなく限られた施術時間の中で「快」を味わい自分のカラダの変化を愉しんでいられたように思う。それが出来たのも自分のカラダに対し自己責任を全うしようとしている姿勢の表れなのだと思う。

    また、あの空間に身を置き感じたのが「操体の素晴らしさ」であった。他のブースと比較すると私達が施術を行っていたブースはとても静寂な空間で、他から悲鳴にも聞こえる声にも影響されないとても静かな空間であった。それは施術者と患者と、私達が作っている空間が臨生という空間を作り、お互いが「快」を共鳴している豊かな時間であった。

    こういった豊かと呼べる時間・空間こそが操体の臨生の醍醐味であり、独自のものだと思う。受けに来て頂いたほとんどの方達から聞かれた「きもちがよかったです」、「今まで体感したことがない不思議な感覚でした」という声も操体の持つ魅力だと思う。

    このカンファレンスに参加出来たことは改めて自分が学んでいることの素晴らしさを実感するよい機会となった。他の手技が行っている「術」は素晴らしいものだと学ぶ機会でもあったが、他の手技にはない「感覚を聞き分ける」というシンプルで奥が深い操体の素晴らしさはあの場に身を置かないと分からなかったことである。

    三浦先生、畠山先生、瀧澤さん、寺本さん、新さん、香さん、一日ありがとうございました。

  •  師匠の残して下さった言葉

    医師は自然から来て、その下僕であり
    主人ではなく、自然の意思に従い範とする。

    医療人としての役割は何であろう。

    健康人が病気にならないようにすることではないか。
    これが医の倫理である。

    しかし、その範となるべき医療人は、治療に日々没頭しているありさまだ。
    それはおかしい。
    当の医療人は、そのことに全く気づいていない。

    「治療ばかりしていると脳ミソがくさるぞ」

    これは師匠の残して下さった言葉である

    一週間ありがとうございました。
    明日からは三浦寛幸が担当致します