鍼を施すと、からだからは色々な反応がある。
その中でも「腹鳴(ふくめい)」を得ると、
私は、からだから「お前の意図は解ったよ。」とか
「うん、そこ、当たり。」と認めてもらっている様な感じがする。
うれしい。
鍼を施すと、からだからは色々な反応がある。
その中でも「腹鳴(ふくめい)」を得ると、
私は、からだから「お前の意図は解ったよ。」とか
「うん、そこ、当たり。」と認めてもらっている様な感じがする。
うれしい。
「愛」というテーマは、私には難しすぎるので、
筆にまかせて、愛の形について述べてみたいと思います。
1、人と人を繋ぐもの
「信頼」と「尊敬」と「感謝」の気持ちの無い関係では、
一緒に仕事をしたくない。
相手を思いやる事の出来る大人と、
人生を共にしたい。
愛と神隠し7 〜手の平〜
手の平は人間の生き方、思想を忠実に表わしている。
それは一つの愛の結晶のようにも見える。
昔、ある女優さんが手に触れた時のフィーリングで男性を選ぶというのを見たことがある。
私もその女優さんが言っていることを少しは理解出来る。
臨床の時に患者と話をして得られる情報よりも手の平を見たり、触れたりすることで得られる情報がその人と体を理解する最良の手段になるような気がする。
手の平ほど人の体温であったり、しわの形状にしてもその人の特徴が出る部位は他にはないので、診なければならないような気がしてならない。
恐らく私がこういったことを感じるのは、エネルギーの入出力を一番行っているのが手の平であるからかもしれない。
人が握手することも、神社で手を合わせて一礼することにしても、手の平を重ねることは神性(愛)と繋がっていく一つの作法なのではないだろうか。
そんなことを考えていると、保江邦夫氏と矢作直樹氏の対談の本でこのようなことが書かれていた。
『手の中心を「たなごころ」といいますね。その「たな」は神棚の棚なんですね。あわせたときに、そこに神が宿るという』(P158より)
この言葉からも手の平には神がいることがよく分かる。
また、手の平に窪みも、神・自在空間からの愛を受け取る「器」なのかもしれない。
こういった捉えかたをすると、私達が今まで認識していた体のパーツの役割には裏の意図があるように思える。
それも神隠しの一つであり、これを明かしていくことも学問だと思う。
一週間ありがとうございました。
来週からは半蔵さんです。お愉しみに。
愛とは自分の知らない自分を素直に受け入れること。変化を恐れないこと。
知らないことを知る勇気、これも愛であり、素直に「はい」と言える言葉が愛を知る一歩となる。
「ノー」、「いいえ」とば、言い訳であり、自己否定になる。否定に愛は存在しない。
言い訳ほど、自分の魂を傷付ける言葉はない。
今までの私は自分がミスをした時には、無意識で「言い訳」を探していた。
「〜だから出来ませんでした」等と最初に出来ない、出来ていない理由を探し出し「すみませんでした」で片付けようとしていたのである。
生きることにおいて、100%の努力をしたと自負していても、結果が伴わなければ出来たことにはならない。時には「なぜこんなに努力したのに…」と思うときがあるかもしれないが、出来なかった理由に何か自分の力が及ばない外的要因があったとしても、それは己の行いに原因があると素直に受け入れるしかない。
出来ない自分、出来ていない自分、出来なかった自分。その原因を突き止めていくのも「神隠し」の一つだと思う。
もし何かミスをした時は、まず自分に「ごめんなさい」と言うこと。それをした上で相手に謝罪すればよい。そうすることで相手に何か言われたとしても、言い返したり、反発したくなることもあるかもしれないが、内なる自分には「はい」と受け入れること。
そういった姿勢は仕事においても、学ぶことにおいても、とても大切なことである。
操体を学んでいても「はい」と言えない人と言えない人の違いには入ってくる情報が大きく異なっているように見える。
例えば同じ難題を与えられたとしても、「はい」と言える人には神様が救いの報酬として神隠しを明かし、それを素直に受け取れない人には神さまは答えを明かさないように思える。
こういった「はい」と言える姿勢こそが、自分の魂への愛であり、神明かしに繋がる一番の手がかりになる。
それにはまず自分自身が変化すること。変化を恐れていては入ってくるものも入ってこない。
変化の先にあるものは愛であり、自分自身の本当の姿のように思う。
最近の私はメモを三つ持つようにしている。その内訳は
①どこでも閃いたことが書ける小さなメモ帳
②それを清書するもの
③日記帳
これも②と③は100円で買えるようなものではなく、伊藤屋に行き1000円位のノートに書くようにしている。
それを日課として行うようになり変わったことは、
①自分の頭の中で考えていることが整理され、自分のやることが明確になった。
②次から次へと疑問・課題が見つかるようになった
③疑問に思っていたこと、分からなかったことが天から降ってくるように分かるようになった
こういったことを明確に書いている本があるので紹介したい。
マッキンゼーのエリートはノートに何を書いているのか トップコンサルタントの考える技術・書く技術
この本ではノートは「第二の能」と記している。頭で思考して覚えていくことよりも、「書く」という体を使って覚えることの方が情報が整理され、その後の記憶も定着しやすいとしている。
この本で書かれていることを踏まえ、自分が日々書くことで気が付いたことがある。
それは書くこととは「感覚を磨くこと」にも繋がるということである。書くという動きの中で聞き分けられる、感じられる感覚があり、そこからしか得られない情報や閃きもある。それは思考するだけでは気が付けないものである。
こういったことは何か臨床にも通ずるものがある。
「思考して覚えること」とは動かさないで診ること。
「書いて覚えていくこと」とは動かして診ること。
命あるものには必ず動きがあり、感覚というものが生じていくる。その感覚は著しく変化するが絶対的なものであり、無視してはならないもの。
こういった書くことの重要性が分かってくると、本当に大切にしていることや知りたい事があるならば、読むだけでは駄目だということが理解よく理解出来る。
もしかすると神様が人間に与えた謎(神隠し)は「書く」という行為の中で明かされていくのかもしれない。
このように捉えると、「書くこと」とはSEXと類似する行為ではないだろうか。
SEXが神と繋がる神聖なるものであるならば、書くことも神や宇宙と繋がる神聖なるもののように思える。
いつか見たマザーテレサの言葉を思い出した。
「愛の真逆は無関心」
確かに家族、恋人、友達、子供、そして自分自身にしても意識が向けられなければ、愛は存在しない。
現代の子供達を見ていると、親の子供に対する関心が薄れているように思える。
「もっと自分を見て欲しい」と心の奥で叫んでいるように見える。
恐らく、最近TVで見る未成年の犯罪もこういった心の声を聞き取れなかった親に責任があるのではないだろうか。
もっと言うならば、親は子供を愛する以前に、自分を愛せていないのだろう。
どこか子供に対して他人事のように見てしまい、自分事として捉えていない。または心のどこかで自分を嫌ってしまっているのではないだろうか?
自分を愛せない人が果たして他人を、子供を愛せるのだろうか?
無垢な子供はそういった親の波動を敏感に察知する。それは命あるもの全てに言えることであり、特に植物等を見ていると、それはよく分かる。
常に意識を向けなければ呼吸がしづらそうだし、生命力は無くなるばかりなのが感じ取れる。
それは自分の体にも同様の事が言える。
常に自分の体(体調)に意識が向けられているか?
自分の事を他人事にしていないか?
自分に意識を向けられなければ、人や物に愛は向けられない。
自分をもっと愛すること。
それが愛を知ることの第一歩なのではないだろか?
人体にも神隠しが多く潜んでいる。
なぜ病気になると体が歪むのか?
なぜ多くの症状・疾患は体の奥深くに隠れるのか?
なぜ本人の意識が行き届かない箇所に歪みが生じるのか?
こういった多くの謎は神が人間に体を与えた意味、つまり神隠しにも繋がってくる。
私達の体は神様からの借り物であるならば、体を使うことにおいて粗末に使ってはならないということ。
病気が本人の意識の行き届かない所で進行するのは、神が「自分の体を愛しなさい」、「もっと意識を向けなさい」というメッセージを発信しているように思える。
それは操体でいう「自己責任」でもあり、それを「やるか、やらないか」は本人次第なのである。
こういった操体の哲学には愛が問われているなと思う。
愛が無ければ、操体を学ぶことは出来ないし、自分を愛することも出来ない。ましてや人の体を診ることも出来ない。
臨床家にとって人の体を診るということは、こういった神からのメッセージを忠実に受け取り、人体に隠された謎である神隠しを紐解いていくことなのだろう。
先週の三浦先生がブログで書かれていた「火鏡」と「水鏡」は正に人体の愛の結晶である。
患者の生き方、愛に触れることが出来る体の部位であり、そこには「救いと報い」が現象として忠実に現れている。
そういった神が示してくれている体の部位を愛を持って触れること。そして「神明かし」することが臨床家の務めなのだと思う。
愛とは神が人間に与えた永遠のテーマである。
この世に生を授かり、あの世に旅立つまでに様々な人や物、職と出会い、学んでいく中で最終的に愛に繋がってくるのだと思う。
三浦先生は私達に「学問しなさい」と言われる。
学んでいることに問いかける。
「これで良いのか?これで良いのか」と。
この問いかけの先にまた分からないことがある。
学びとは問いかけの渦の繰り返しであり、その渦の先に真理があり、愛がある。
真理に触れたければ、自分が学んでいることを学問にしなさい。
自分を愛しなさい。
自分が学んでいることを愛しなさい。
そう問いかけられているように思える。
自分が学んでいることの中で得た点と点を一つの線にしていくことが学問であるならば、その永遠と続く線の先にはあるものは愛なのではないだろうか。
きっと神様は愛を隠すことで人間一人一人に生涯のテーマを与えて下さったのだと思う。
その神隠しされた一つ一つの点を明かし、線にしていくことが学問であり、愛を知ることに繋がる。
こんにちは。一週間よろしくお願い致します。
今回のブログのテーマは「愛」。
この壮大かつディープなテーマを与えられてから、毎日のように「愛とは何だろう?」と考えていた。
35年間、生かされてきて、また操体の学びを得て少しずつではあるが、愛の本質が見えてきている。
愛とは複雑なもののように見えて非常にシンプルなもの。
日常生活にありふれているものだけど、気付けないもの。
でも誰もがいつも触れていて、潜在意識の中に誰もが持ち合わせているもの。
だが、求めていては姿を隠し、忘れた時にフト現す神隠しもようなもの。
このように捉えると生きていることは「愛を知る旅」なのだと思える。
学んでいることも、人や物に触れ合っていることも、時には誰かを傷つけてしまうことさえも全て愛に繋がってくる。
愛とは「救い」と「報い」の中心にあり、その姿は自分自身なのである。
「愛」とは「調和」であり、調和の「総体」(そうたい)は
「快」である。
快は拡張のリズムであり、不快は収縮のリズムであり、
生命の恒常性のバランスである。
生命の力、とはこの波動である、
この波動は、マイナスのエントロピーである。
消耗ではなく、活性活力である。
消費しても消耗しないエネルギーである。
愛とはそういう姿である。
枯れ朽ちるものではない
生命力だからです。
溺愛、愛欲と言われる愛は、
他の生き物にはみられづ、
人間のみの意識行動欲のようである。
ただ、人類愛とか人間愛をとなえるのなら
それはエゴの愛、個人欲である。
つまり人間のことしか考えていないからです。
ですから、自分のまわりに他者をつくり
敵対者を生みだしてしまうのです。
楽は患者とのキャッチングボールであり
快はからだとのキャッチングボールである。
一週間ありがとうございました。
明日からは三浦寛幸の担当です。
「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
4月29日(祝)に開催いたします。
『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980