『歪み整復法は、運動を分析して、原始感覚に忠実に、最快適運動を自ら行えばよい。
復原を「治療」という。「治癒」は自然が行なう』(生体の歪みを正す 橋本敬三論想集より)
復原を「治療」といい「治癒」は自然が行なう・・・橋本先生はやっぱり素晴らしいですね。
この意味をわかったつもりではなく、本当にわかるようになりたいもんです。
中谷祐祥
『歪み整復法は、運動を分析して、原始感覚に忠実に、最快適運動を自ら行えばよい。
復原を「治療」という。「治癒」は自然が行なう』(生体の歪みを正す 橋本敬三論想集より)
復原を「治療」といい「治癒」は自然が行なう・・・橋本先生はやっぱり素晴らしいですね。
この意味をわかったつもりではなく、本当にわかるようになりたいもんです。
中谷祐祥
健康の大事なキーワードの1つとして血行をよくすることが挙げられます。
血液の基本的な役割は、新鮮な酸素とさまざまな栄養を個々の細胞まで届けて、
いらないゴミを回収すること。つまり、血管という道路網を使って、
からだの隅々まで必要な物資を運んでくれる運搬屋さんですね。
ですからその流れがよければ物資の運搬もスムーズ。
個々の細胞の仕事もはかどって、からだの調子もよいというわけです。
整体などの手技療法ではよく「からだのゆがみを正して血行を促進する」と
いうことを言いますが、血液の循環が悪くなることは万病の原因とも言えますので、
普段から血行をよくするようなからだづくりを目指したいところです。
もちろん操体法も効果大ですよ。
中谷祐祥
ゆがんだからだというものがあるとするならば、
正しいからだや正しい姿勢というのはどういうものなんでしょうか?
そして、正しいからだや姿勢というのは何を基準にして正しいんでしょう?
いろいろな考え方があるのかもしれませんが、
人間は生きているということを前提にして考えれば、正しいということは
その人にとって正しいというのが1つの考え方なのかもしれません。
だってねぇ、人形やプラモデルじゃないんですから。
やっぱりそれぞれのからだにはそれぞれの都合ってもんもあるんだと思いますよ。
その人にとって自然であり、なおかつオーダーメイドであるからだ。
そんなからだづくりが操体(法)の「からだにききわける」ってのだと思います。
中谷祐祥
夏休みもそろそろ終わりですね。
ウチのおぼっちゃまなどは相変わらず野球ばっかりですが、
こないだその野球のキャンプがあったんです。
野球のキャンプといっても川で泳いだり、山を歩いたり、
卓球やったり、バドミントンやったり・・・まぁいろんな遊びです。
暑いのに子供たちは元気ですよ。
でも、いくら元気でも一日中動いてれば、やっぱり疲れます。
で、夜にはぐっすり寝るわけです。そして、起きたらまたいっぱい遊んで、
腹が減るのでたくさん食べて、疲れてぐっすり寝る。
誰が見ても元気そのものです。
栄養(食事)、睡眠、運動の三つが健康の三原則と言われるそうですが、
こうしたからだそのものの力が元気なからだをつくるもとになっているんでしょうね。
からだのゆがみを正すとは形の上だけのものをみるのではなくて、
からだそのものの力をどうみていくかということが大切なのかもしれません。
中谷祐祥
以前に友人と釣りに行ったとき、よく釣れる流れ込みのポイントがあったんです。
そこでワタシが「ここよく釣れるじゃ~ん」なんて話してたら、
そいつが「さっきそこの上流でウ○コしてきたからなぁ~」なんて言うんですよ。
「なんだとぉ~!このサカナたちはオマエのウ○コのニオイで!?」。
まぁ水が流れ込む場所は酸素が豊富で水も動いているため
よく釣れるポイントなのは間違いないんですが、
でもまさか事前にウ○コの撒きエサがしてあるとは思わなかったです・・・。
ところでからだも約70%くらいは水だと言われています。
そして、生きている以上はその流れをなるべく澱ませたくはないですよね。
キレイな川の流れと同じように、いつもサラサラと流れていてくれれば理想的です。
そして、ゆがんだからだというのは、その流れが滞ってる状態なのかもしれません。
石をどければ川の流れが変わるように、
ゆがみやコリを解いてからだの流れを変えていきたいものです。
中谷祐祥
今週は操体法東京研究会のヒヨコちゃんこと中谷の担当でございます。
一週間よろしくお願いいたします。
今回のブログテーマは「ゆがみ」ということでございます。
毎年この時期になると、セミがひっくり返っているのをよく見かけます。
ひっくり返って動かないので「おまえはすでに死んでいる・・・のかな?」と
思って突っついてみると、いきなり「ジジジジジジジジジー!!!」。
びっくりしますよねぇ。
こんなセミの死んだふり?を「セミ爆弾」とか「セミファイナル」なんて
お洒落な呼び方もあるようですが、まぁセミに限らずに動かなければ
「死んじゃってるのかな?」と誰でも思うのではないでしょうか?
逆に言えば動いているということは生きているということですから、
動きというものは生命現象だとも言えそうです。
そして、その生きている証である動きをみれば、
当然からだの状態だってある程度わかってくるはずです。
大きく素早く動ければ誰が見ても元気に見えますし、
小さく鈍い動きなら誰が見ても元気がなさそうに見えるもの。
もちろんからだにゆがみがあれば動きにだって何らかの影響があるはずです。
からだの状態は動きをみればわかるし、動かしてみればわかる。
操体法の動診という診方はとっても理にかなっていると思いますよ。
中谷祐祥
おはようございます。
2、3日前に新聞を見ていて、ちょっと驚いた事がありました。その見出しには「盆踊りは騒音?イヤホン利用や密閉空間の練習」という文字が躍っています。
盆踊りというのは、音楽や太鼓の音があって当たり前、それに合わせて皆で賑やかに踊るものだと思っていましたが、最近は変わってきているようですね。盆踊り会場へ行くと、無音なのだという。無音で浴衣を着た人達が踊っている状況。想像すると、なんだか幽霊でも出てきそうな感じがします。
そうしなければ、音楽や太鼓の音を騒音と感じる人から、すぐに苦情が入るのだという。やむなく、音楽をトランスミッターを使って電波で飛ばし、踊り手は持参した携帯ラジオとイヤホンで音を聴きながら踊るようにしたのだという。そこから一つの音楽の電波を飛ばすだけでなく、複数の音楽の電波を飛ばようにして、踊りの隊列やスタイルも変えるアイデアに結びついたという。
ある自治体では、踊りの輪を2重にし、外側の人達には「炭鉱節」内側の人達には「踊るポンポコリン」が聴けるようにし、そうすることで、逆に大人も子供も同時に楽しめ、幅広い世代の参加につながっているのだという。
記事を読んでいて、個人主義もここまできたか、といった感があった。確かに、みんながそれぞれ、たのしめるのは良いことだと思うが、同時に何か、それで良いのだろうか、といった気持ちや、なんだか寂しいような気持ちにもなってきた。
一箇所に幅広い世代の人が集まるのなら、同じことをとおして皆に益のある事が、望ましいのではないでしょうか。なにか、地域の伝統的なものを、年配層が子供や若い世代に伝える機会を、みすみす逃しているようにも感じます。
代々受け継がれてきたものには、何かがある。それが自然の理念にそぐわないものであれば、すぐに消滅している筈なのです。
お囃子の囃子言葉などは、遡ればヘブライ語の、神々への感謝や賛辞の言葉につうじるものがあるという。そういった言葉でリズムをとって発声し、からだを動かせば、その動きも自然と自然法則に見合ったものに近づいていく。内臓の働きも良くなり、普段食べているものでも、凄く美味しく感じられる。「息」「食」「動」「想」と「環境」の調和が、そこにはある。
踊り方を知らない子供や若年層に、踊る愉しさを教える。若い人達も、教えてもらう有り難さを感じ、年配者は教えて引き継げる有り難さを感じる。有り難く感じるという事は、気持ちがいいことでもある。そういう場が少しはあっていいと思います。
盆踊りは夏の風物詩でもある。騒音として苦情を入れる人にも、何か理由があっての事と思うが、ちょっとの期間だけのことなのだから、なるべく大目に見てやってほしい。蝉の鳴き声がうるさいからといって、蝉に文句を言いに行く人はいないはずです。観の転換をはかり、おおらかで豊かな心をもつということも大切だと思います。
勿論、個人の権利や主張は、尊重されなければならない。しかし、そちらばかりに傾くのはどうかと思う。それでは人間関係もギスギスしてしまい、ストレスにもつながってしまいます。
相対的に捉えると、どうしても個の利益、損得の思考が働いてしまい、対立を招く事となりがちです。それでは安心は得られない。そこから精神的ストレスを生じさせ、からだを歪ませ、さらに精神的ストレスを増大させ、病みの状態となっている人も多いのです。
これからは個人を尊重しつつも、調和に向けた心の持ち方が必要です。相対的なものを超えた絶対的なものに意識を向けていく。絶対的なものに意識を向けるほど、今生かされて生きている、その有り難さが感じられ、心も安らいでくると思います。
ストレス学説を唱えたハンス・セリエは「ストレスに打ち勝つには”東洋の感謝の原理”にその秘訣がある」と説き、その原理とは「対立するものを生むのではなく、調和するものを生む哲学」としています。
一週間お付き合いいただき、ありがとうございます。
来週は、作務衣が似合い、浴衣や甚平も似合いそうな
中谷さんの担当となります。
来週も、どうぞ宜しくお願いいたします。
友松 誠。
おはようございます。
まだまだ日中は暑いですが、夜は随分と涼しくなってきましたね。コオロギの鳴き声も聞こえてきて、秋の気配すら漂ってきています。
昨日はよく眠れましたか?
猛暑が続いていたころは、布団に横になってもなかなか寝付けなかったりとか、眠りについてもすぐに途中で目が覚めてしまったりとか、よくありましたよね。よく眠れないという事も、からだの歪みにつながりやすい。眠りの質にも関係しますが、眠りを妨げられるのは誰でもストレスですものね。
毎日、眠ることができる。当たり前のことのようですが、有り難い事なんですね。
誰でも、日中に様々な動作をしている。重いものを持ち運ぶことが多い人、車の運転が多い人、デスクワークの人、色々な職業の人がおり、色々な姿勢から色々な動作をしている。その動作が不自然であれば、局所的に疲労を蓄積することになる。
疲労を老廃体液が貯留して異常な緊張感覚が起こっている状態としてみる。その状態から時間的にも、空間的にも無理をすれば骨格関節にも変位が生じてくる。局所の変化が波及して歪まぬよう、バランスの崩れとならぬよう、姿勢を変えてそれまでの動作とは違う動きがしたくなる。
畑仕事をしている人が、疲れを感じて、腰を伸ばしてトントンと叩いている姿などは、この現われだと思う。
そうやって日中にも、からだから感じとることで、疲労を蓄積しないように、誰でもしていることがあると思うが、どうしても不十分だ。
自然の力を借りるしかない、自然に癒していただく。それが睡眠ということでもある。
寝相も、その現れであり、眠りながら色々な動きをするのは、力学的に体重力を活かして、局所的な緊張変化、内圧の変化、脊柱配列の変化などを調整し、からだの歪みというストレス状態にならぬよう潜在意識が働きかけているものである。
潜在意識が行なっている自然良能作用。これを橋本敬三先生は、天の御中主(+)(-)のバランスの神様が行なっているとも表現している。太極のことである。太極の意志である愛と調和が、人間にも貫通しているからこそ、潜在意識が自然と一体となり、自然良能作用が現れる。
潜在意識は宇宙意識とつながっているというが、何だかわかるような気がする。宇宙という現象も太極の意志という潜象の現われなのだから。
寝相というのは、動きによって力学的外圧を活かしているだけではない。呼吸によって空間と交わりながら内圧と、そのリズムによっても自然良能作用を発揮している。空間のみならず、無意識の中で時間的なことが加わってくるのだから、宇宙を意識せずにはいられない。
その時空では、時間も一方通行ではなく、時環となっていることだろう。そうでなければエントロピーは増大するばかりとなってしまう。人体は小宇宙だと表現する人も多いが、正にそうなのだと思う。
眠りというのは有り難いと思う。絶対的「救い」の世界でもある。眠るときは、相対的な思考は、はさまぬほうがよい。その日一日がどんな一日だったとしても、生かされて生きた事には変わりないのだから。その事実は絶対なのだ。「有難う御座いました」と言葉にだしてみる。
絶対的なものに意識を向ければ、嫌な事があった日でも、心は落ち着いてくると思う。あれこれ考えず「有難う御座いました」で区切ってしまう。そして、自然に身心を委ねる。潜在意識に、より良く働いてもらうためには、生かしてくれている自分自身に対する、また自然に対する、そういった働きかけも大切だ。
人は日々、生まれ変わっている。その変化を有り難く受けとり、より良く快適になる生まれ変わりとしたいものです。
おはようございます。
ルカやマタイやマルコ、キリストの弟子達の書いた福音書の中には、このようなくだりがあるようです。
イエスに触れていただくために、人々は乳飲み子までも連れて来た。弟子たちは、これを見て叱った。しかし、イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこにはいることはできない」
今回のブログのテーマである「歪み」のことを考えていて、このキリストの言葉が浮かんできた。
バランスが崩れて生体が歪む。そのバランスとは? 生命エネルギーのインプットとアウトプットのバランス。
色々あるが、絞っていけば「息」「食」「動」「想」につきる。この4つは自己最小限必須の責任生活である。
責任を問うなら、法則がなければならない。その法則は誰がつくった?誰がつくったとかそういう次元ではなく、大いなる大自然に自在するものである。
そして「息」「食」「動」「想」と「環境」とは、鎖の輪のように密接に係わり合いながら存在を成立させている。
「息」「食」「動」「想」が自然法則に背反すれば、バランスは崩れて生体は歪む。また「環境」が苛烈であっても、「息」「食」「動」「想」のバランスは崩れざるをえなくなり、生体は歪んで対応するしかなくなる。
この「環境」の苛烈さについてなのだが、人為による社会環境が熾烈で、自然環境が著しく汚染、破壊された公害みたいな問題は、直接的に生命の危機にも陥るケースもある為、環境との調和の重要性とか、自然環境の大切さというものが、目に見えるかたちで理解できる。
しかし、自然環境を物理的に汚染、破壊していなくとも、人為・社会的環境が熾烈で自然環境の有り難さを隅に追いやってしまっているという問題もある。こちらは解りづらい。解りづらいが、これは乳飲み子から子供、大人へと成長する段階において、すごく大事な事だと思う。
みんな誰でも、自然の一員として、この世に生まれてくる。そして呼吸をし、次第にハイハイから二本足で立って歩けるようになっていく。これは自然環境の空間のお陰である。そして、生きていくには食べ物を食さなければならない。これは親が面倒を見てやらなければならない。ここで人為的要素が加わる。「息」「食」「動」ここまでは本能で生きる他の動物と似ている。しかし、「想」は言葉を有して文化、文明を創造できる人間独特のものである。親は子に対して愛情を注ぎながら、言葉によって人間社会に適合できるように躾け、教育する。
この過程に於いて、親や教育する側の人間は、自然環境の有り難さを語り継ぐ必要がある。息ができるのも、重力の作用を受けて地球に居られるのも、自然環境のお陰なのだから。これを当然の事なのだからと、隅に追いやらないことだ。自然を切り離した教育は、自然法則への背反が生じやすくなる。バランスを崩し、年端もいかないうちから、からだの歪みによる不調を抱えこむ、ということにもなりかねない。
人為・社会的環境の中での常識とか規範を教える事も重要だと思うが、自然への畏敬と感謝を忘れずにバランスのとれた教育が望まれると思う。
私はキリスト教やキリストについてよく知らないが、冒頭の福音書に戻ると、イエスは人為・社会的環境の影響を受けず、自然環境に身を委ね、母親の愛情と自然の本能によって抱かれている乳飲み子を見て、「神の国はこのような者たちのものである」と言ったのではないかと思う。
そして、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこにはいることはできない」という言葉は、人為・社会的な常識とか規範ばかりに捉われ、自然の有り難さや人間や自然をつくった創造主(神)を見失っていた弟子達(啓蒙、教育する側)に対する戒めのように感じる。
おはようございます。
「息」「食」「動」「想」これらにかかわる「環境」。これらはすべてが鎖の輪の様につながっており、同時相関相補連動性であり、あるものが悪くなれば他のものも悪くなる性質と、あるものが良くなれば他のものも良くなる性質があります。
操体臨床の現場では、からだの歪みから感覚的バランスを崩し、様々な不調や症状疾患を抱えた人を診させていただいている。その時「動」に着目し、動の自然法則を応用して、被験者に動いていただき、動きのなかで快をききわけていただき、からだの要求に則った快を味わっていただきます。
そうすることで、「動」から「息」「食」「動」「想」と「環境(自然環境)」の調和が密になり、バランス快復へとつながり、結果的に不快感覚の消失、様々な不調や症状疾患の解消、改善がみられます。これは、同時相関相補連動性になっているお陰とも言えます。
からだの歪みは、ツクリと動きに歪みが生じていることを指すので、「動」から快適感覚の問いかけを行なうのが、一番手っ取り早いということになってくる。
しかし、「動」だけで臨床をとおしているわけではない。身体運動の法則に呼吸との相関性があるように、「動」と「息」とは相関しており、呼吸によってもからだが動き、からだの歪みが調整され、心のバランスをはかって癒す事も出来る。
この「動」と「息」との相関性を活かす取り組みは、操体創始者、橋本敬三先生が現役の時から行なわれていた。
しかし、その取り組みは呼気が中心であり、それが近年まで継続されていた。それが間違っているというわけではない。ただ、より良くからだの要求に応えようとすれば、それだけでは十分ではなくなってきたのだ。
これは、時代背景もあるだろう。この何十年かの間に、人為・社会的による環境の変化がどれだけあったろうか。物質的に格段に豊かになり、それまでの暮らしとは雲泥の差がある。生活の質も変わり、人間のからだは、以前と比べ格段に自然から離れてしまってきていることは事実なのだ。
また、呼吸も気持ちよさを、からだにききわけてみれば、呼気よりも吸気の方が気持ちよい場合もある。それに、身心のバランスが崩れ、特に内臓疾患など抱えている場合などは、従来から良いとされている腹式呼吸はスムースに出来ないはずなのだ。
個的観念からではなく、その気持ちのよさを優先するべきであり、どのような人でも、呼吸をとおしての気持ちよさがききわけられる呼吸の仕方が望まれる。気持ちのよさで、心身は調和に向かうのだから。
その望みは橋本敬三先生の遺志を継ぐ、三浦寛先生によってかなえられた。背筋吸気、骨盤呼気。5年前に出版された「操体臨床の要妙partⅡ 皮膚からのメッセージ」にも、その一部が記載されているが、当然それ以前から先生は、何度も繰り返し繰り返し、実践し、確認する取り組みをされており、間違いないと確信したものを5年前に記載し、そこから更に深めたものを、講習や東京操体フォーラムといった場で提供してくださっている。
今までの固定観念は捨てて、受け止めたほうがいい。橋本敬三先生は「気持ち良さをききわければいいんだ、気持ちよさで治るんだからな」と宣言し、楽から快へのシフトチェンジをしてくださった。その意志を継ぎ、快に基づく操法を体系化したのは三浦寛先生なのだ。
呼吸も快適感覚というフィルターにとおしてみれば、そのやり方が進化しなければならないのだ。背吸骨呼。特に背筋吸気は、バランスの崩れが著しい人ほど、快がききわけられやすいと感じるし、その効果には眼を見張るものがある。自然の法則を応用し、人々に貢献しようと思うなら、固定観念は捨て、快に基づき進化した呼吸法を学ぶ必要があると思う。