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  • 息によって。

    おはようございます。

     自己最小限の責任生活必須条件である「息」「食」「動」「想」この中で、一番蔑ろにされているのは、「息」ではないでしょうか。しかし、本当は一番重要であり、だから一番最初に位しているのかもしれません。
     「息」つまり呼吸は、自分であまり意識しなくとも、この世に生まれた時から、からだと空間との間で交わされている、言ってみれば、生かされて生きているということの根底を成すものです。
     呼吸が出来なくなれば、生命はその存在を保てないのです。それだけ重要なものですから、もしかしたら自在する神さまが間(マ)をはかってくれているのかもしれませんね。
     呼吸を蔑ろにするということは、神をも蔑ろにするということであり、それでは神からはなれ、もともと神人合一だった像を歪ませざるをえないのかもしれません。

      呼吸は、健康状態、心理精神状態、対人、自然環境によって変化する。この変化と、からだの歪みは重要なかかわりをもっている。
     呼吸は身心のバランスがとれ、十分に満たせれている時は、深くて長い間となっており、これが健康時における自然呼吸の状態といわれている。逆に身心のバランスが崩れ、疲労している時や、内臓疾患、精神的障害を抱え込んでいる場合は、浅く短い呼吸の間となり、そうすることで身心のバランスを調整しようと働きかけている。

     また、「怒は肝を傷り、悲は肺を傷り、驚は腎を傷り、憂は脾胃を傷り、喜は心を傷る」という言葉があるが、これらの感情でその感情に応じたからだの動きがおこり、その感情を表す体位となることはよく知られているが、呼吸もその時々の感情によって変化する。
     平常心を失った感情によって、からだのアンバランスを招きやすくなるが、からだの動きと呼吸は不自然な中でも調和して、身心のバランスを調整しようと働きかけてくれているいる。

      心とからだ、からだの動き、呼吸、呼吸することで交わる自然環境の空間。有り難くつながり、循環している。
     多少精神的に落ち込んで、心身ともにグッタリしても、このつながりのお陰で、時間とともに空間的に癒され、気分は前向きになり、身体もシャキッとし、元気をとり戻せるのだと思う。
     しかし、精神的に落ち込んだ要因にいつまでも縛られていると、その不自然な中でもバランス調整に働きかけている呼吸や、からだの動き、空間の働きさえも縛ってしまう事となる。
     その縛りが時間的にも空間的にも恕限度を超えれば、からだは歪むことで対応せざるを得なくなる。
     精神的ストレスを抱えている時、身体的にも疲労の蓄積を感じている時は無理せず、からだの求めに応じて、リラックスできる体勢で休息してみる。休息するときに、呼吸に意識を向け、有り難く息がついていられる事を想ってみる。
     何かが変化している筈です。あまり欲で捉えない事。何かが変化するのは事実ですから。それを有り難く受け取る事で、より良い新たな展開が始まっていきます。

     

     

  • 感じとることから・・・2。

    おはようございます。

     私たちは、自然環境をはじめとする様々な環境と関わりあいながら、呼吸し、飲食し、動き、精神活動を行いながら、生命活動を営んでいます。

      これらの生命活動をバランスよく営む上で、欠かせないのが、感じるということです。例えば、息苦しく感じたら、衣服を緩めたりして、呼吸をスムースに行なえるようにする。営養や水分が不足しないよう、空腹や喉の渇きを感じたら飲食する(食)。身の危険を感じたら、動いて逃げる(動)。

     簡単な例を挙げてみましたが、普段何気なく行っている事でも、生命活動を営むうえで大切な事を行っていると思います。何気なくでも大切な事が行なえているのは、感じるということを元に「息」「食」「動」が調和しているからです。そして、調和を元にした行動が起こる。

     感じて、からだが動く。思考を超えて、そういった能力が元々備わっているということは有り難い事だと思います。

     お気づきかと思いますが、ここまで、「想」の精神活動の営みの事が出てきていません。それは、精神活動の営みは「環境」と「息」「食」「動」の調和のうえに成り立っているからです。

     「想」は言葉を有し、文化、文明を創造し、自然環境に手を加える事ができる人間独特のものだ。それによって色々な物事を発展させる事が出来る。他の動物からしてみれば神のような存在である。しかし、その反面、実相として自在する神や、神の創造った自然の秩序から離れてしまった存在でもある。

     精神活動の中の思考は、感じてからだが動くという、至極自然な領域では妨げやストレスになるものと思う。武道でも華道でも、その道の名人、達人と呼ばれる人達は、無の境地というものを大切にしているというが、なんだかわかるような気がする。

     では、感じてからだがうごく、その領域へは、精神活動は介入すべきではないのだろうか。いや、そういうことではない。感じてからだが動く、その自然を感じとり精神活動へ反映させていけば良いのだと思う。そうすることで「想」は他の「息」「食「動」」と調和し、「環境」に適応したより良いバランスとなっていく。

     からだが歪み、なんらかの不調を抱えている人は多いが、その人達に共通するのは、からだの自然な動きも、思考による自分の動きも混同してしまっているという事。

     思考による動きを無理にからだにとおそうとすれば、反発もある。健康体操の類を行なっていて、かえってからだを壊したという話が後を絶たないのは、その為である。

     まずは自然法則に則り、からだを動かしてみて、その感覚をからだにききわけ、感じとる事。それなくしてバランス快復への道はなく、歪みを正す道もない。

  • 感じとることから。

    おはようございます。

    今週のブログは友松が担当いたします。

    どうぞよろしくお願い致します。

     暑いですね。晩夏の候、陽の暮れる時間は早くなったとはいえ、まだまだ暑さが堪えます。そういえば、昔はこの時期になると、むし暑さに対する不快指数という言葉をよく耳にしました。その言葉を聞いて、もっと不快というか、気分が低調になっていたような気がしていたのですが、最近は聞かなくなりましたね。

     そのかわり熱中症指数というのをよく聞きます。7月の終り頃から昨日まで、うちの方はほとんど毎日が厳重警戒です。それだけ以前より極端に暑くなっており、とにかくこの暑さに気をつけてくれ、ということだと思います。現に熱中症で生命の危機に陥る人や亡くらわれてしまう人も、年々増えているようです。

      暑さに対する感覚は人それぞれであり、その時の体調にもよります。自分は大丈夫という過信は禁物です。自分は大丈夫という過信には、自分と共にあるからだを蔑ろにしてしまっている面が多分にあります。からだのことは放っぽっておいて、自分の無理が効いた時の記憶が支配的となり、その記憶だけで自分は大丈夫と決め付けてしまいがちです。

     しかし、現実のからだは記憶の中のまま留まっているわけではなく、常に変化しています。思考ではからだの現状はわからない。感じとる必要があります。

     

     この、感じとるという事は非常に大切です。熱中症では、めまいやふらつきなどの初期症状があるという。これだけ暑く、湿気も多い環境ですから、初期症状がそのまま重篤な症状につながることも多い。初期症状の兆候、あるいはその前にはもう、からだから何らかのサインを感じとり、適切な対応を心掛ける必要があります。

     こう文章にして書いてしまうと、難しく感じてしまうかもしれませんが、誰でも普段気にもとめずにやっていることです。

     しかし、その感度は残念ながら、鈍ってしまっている人も多い。それは自分自身が生活の中で最小限、責任をもって営まなければならない「息」「食」「動」「想」と、連鎖する「環境」とにストレスをかかえているからです。

     

     「息」「食」「動」「想」には自然法則があり、その自然法則に生き方をあわせていくようにすれば、何らかのストレッサーがあったとしても、ストレスとして反応し難くなる。

     しかし、自然法則に背反し、からだにとってのストレスが生じると、からだはそのツクリと動きを歪ませて対応せざるをえなくなる。

     これはこれで有り難い働きではあるのだが、時間空間的限度をこえると、局所的な緊張変化、内圧の変化、脊柱配列の変化などを生じさせ、その変化はまた新たなボディの歪み(運動系、それ自身の不調和、アンバランス)を誘発し、歪みは系統的に波及していく。

     この間に、物理的にも生理学的にも、変調をきたし、エントロピーの増大へと向かってしまう。その現われが、症状疾患現象ということなのだ。

     そうならない為にも、感じとるという事が非常に重要であり、ボディの歪みが恕限度、つまり時間的にも空間的にも許してもらえる限度を超える前に、からだにとってのストレスを感じとり、歪みを波及させないといった対応が必要です。

     それには自然法則を識っていく必要がある。自然法則を識っていきながら、からだから感じとった事を照らし合わせて、自分の生活、生き方を自然法則に合わせるように変化させていく。

     その中では反省あり、懺悔あり、そしてそれ以上の感謝と悦びあり。神性相続権を有する本来の人間の像がみえてくるかもしれません。

     その実践の中で、自分自身の周りの環境が苛烈になっても、最適で能率的な対応が出来、逞しく生き活きできるようになっていくと思います。

  • ステージの下で

    いままで「歪み」だと、感じていたものは

    ありのまま見つめてみれば、「変化」であった。

     

    このありのまんまを診る、という姿勢は

    操体の肝なのではないかと感じています。

     

    至極シンプルで、簡単なようでいて

    この素直で謙虚な姿勢を身につけることは

    何よりも奥が深く

    生半可なことではないように、最近感じています。

     

    話はそれますが、つい先日

    尊敬する歌手の方が出演するライブに行ったときのことが思い出されました。

    開演前に着き一組目から最後まで、お目当ての方以外の演奏もすべて見ていて

    気が付いたことがあります。

     

    出演者各々が独自のステージを展開し、

    実に豊かな表現世界を舞台の上で繰り広げている。

     

    一方で、一点、非常に気になったのは

    みなさん「ステージの上」では自分自身の行なっていることに

    「謙虚な姿勢」をひしひしと感じるのですが

    「舞台を降りた後」というのは

    その謙虚さが消えさっているように見えたこと。

    中には他の人が演奏している間に

    無遠慮な振る舞いをされている方もいたこと。

     

    そして、これも印象的だったのですが

    お目当ての歌手の方というのはステージ以外の場所でも

    そのまんまの謙虚な姿勢だったこと。

     

    この日感じたことというのは

    他人ごとではなく、自分ごとのことだと思っています。

     

    「謙虚な姿勢」は

    ステージの上だけのことでは、決してない。

    寧ろ、ステージを降りた後にこそ

    自分自身に問いかけていることなのではないだろうか。

    そんな風に、強く感じる夜でした。

     

    からだやイノチを、素直に、ありのまま診る。

    その謙虚な姿勢も

    「臨床」という舞台の上だけのことでは

    決してない、と感じています。

     

    今日は「終戦の日」。

    どんなことを感じる一日になるでしょうか。

     

    一週間ありがとうございました。

    明日からは笑みの奥に、鋭い眼差しの光る

    友松実行委員が登場します。

    おたのしみに!

  • 営みの成績表

    生前の橋本敬三先生には一度もお会いしたことはありませんが

    書き残していただいた言葉を通して

    お会いしているような感覚になることがあります。

     

    「生体の歪みを正す(創元社)」という厚みのある論想集を

    何気なく開いてみると

    そのなかにこんなことが書いてありました。

     

    絶対完全健康正体はあくまで理想像であって、自然法則への随順の程度にしたがって、より正体に、より健康に、すなわち、より幸福に近づきうる。しかし、人間は自然法則に背反する自由も与えられている。背反すれば歪体化する。これは現象界における因果応報の自然法則である。自然法則ほど恐るべきものはない。

     

    「生体の歪みを正す p440『恐るべきは”自然法則”』より」

     

     『しかし、人間は自然法則に背反する自由も与えられている』

     

    こういった橋本哲学が濃縮されている一言に

    わたしはシビレます(笑)

     

    その与えられている自由のなかで

    育まれる自身の健康度のことを

    橋本先生は「営みの成績表」と

    説明しています。

     

    学校でもらう「成績表」というのは

    年に何度か自分の元にやってくるもので

    場合によっては、目をつぶりたくなるようなこともあります。

     

    「営みの成績表」も同じように

    放っといていると「からだ」から

    年に何度か、目をつぶりたくなるような成績表をもらうことになる(笑)

     

    「営みの成績表」には特徴があって

    学校でもらう成績表とは違い

    確認しようと思えば、いつでも確認することができます。

     

    自分自身のこころとからだが

    いま、どんな感じなのか。

    そういうことに少しでも意識を向けることだって、その一歩。

     

    日々、この成績表をチェックできるということも

    人間に与えられている自由なのではないかと思います。

  • 日常の「つい」

    今日の朝は、雨の音で目が醒めました。

     

    操体と出会う前、

    例えば朝、目が醒めて今日のように雨が降っていたりすると

    「あぁ、雨か…」と

    残念な気持ちになっていたものです。

     

    ある時、師匠に

    「天気のことを悪く言うな」

    と教えていただいたことがあります。

     

    天気だけでなく、例えば先日は

    たとえ猛暑日が続いているなかでも

    「おれは『あぁ…暑い…』とは言わないよ」、と。

     

    からだに限らず

    身の回りに起こる「現象」に対して

    文句を言ったり、決めつけたり

    判断したり

    そういったことをせずに

    謙虚にありのまんまを受け取る。

     

    何気ない日常のなかに起こっている現象を通して

    このような見方、捉え方を教えていただいているようです。

     

    つい、「今日も暑いなぁ…」と言ってしまいたくなる。

    そういった日常の「つい」を、点検することから

     

    からだに起こっている「現象」を

    「つい」決めつけてしまうようなことも

    次第に変わっていくのではないかと感じています。

  • 忘れられている呼吸

    臨床の最中に、からだに起こっている「呼吸」の変化に

    ただただ魅せられることがあります。

     

    それまでは小さく、浅く、隠れてしまっていたような呼吸の営みが

    まるで、水平線の向こうから静かに、ゆったりと

    よせてはかえす、波のリズムに見えてきたり、

    吸気に伴う胸郭の膨らみから

    山脈が何百年、何千年という時間をかけて隆起しているようなイメージを想起したり。

     

    ちょっとオーバーかも知れませんが、からだを前に

    そんな雄大な「自然」を前にしているような

    感動を味わうことがあります。

     

    そういうときの呼吸からは、充分な「間(マ)」を感じます。

    このときの「間(マ)」は

    アタマで思考して

    生み出す類いのものとは

    質の違うもののように感じます。

     

    からだの中には、こんな雄大な呼吸の営みが眠っていたのか

    と驚くとともに、

    なぜ普段の生活の中では、忘れ去られてしまっているのだろうかと、

     

    この呼吸を眠らせてしまっているのは何なのだろうか、と

    不思議で、仕方がありません。

  • 左右の差

    左と右、その左右の形態的な「差」というものを

    できるだけなくしていくように

    働きかけようとしていた時期がありました。

     

    アタマのどこかで

    臨床の「ゴール」を

    からだに現れている左右差の解消に据えて

    からだと向き合っていた頃。

     

    もしかすると、からだにとっては

    うんと迷惑な干渉になっていたのかもしれません。

     

    左には左の、右には右の

    それぞれに「役割」が在る。

    その各々の性格が絶妙に絡み合って

    生命活動は営まれている。

     

    そういう捉え方で診てみると

    「左右差」は最初から在るもの

    生命にとって必要なもののようにも感じられてきます。

     

    地面に根を張り

    生命活動を表現している

    樹木のスガタを見れば

     

    「左右対称」とはひと味もふた味も違う

    目に見えないバランスに則った

    「左右非対称」の生き様がそこに在るように感じます。

  • 素材の味

    「変化」というのは、余計な味付けをしていない

    「素(ス)」の言葉だなあと感じています。

     

    からだが変化する、そのこと自体に

    「良い」も「悪い」もない。

    からだはむしろ、「自然法則」という目には見えない規範に則って

    どこまでも素直に、生命活動を表現し続けているようにも感じられてきます。

    そんな奇跡のような営みが、日々静かに身近で行なわれている

    というのは、本当はスゴいことなのではないかと思います。

     

    「息」、「食」、「動」、「想」という

    自分自身と切っても切り離せない営みと

    それを取りまく「環境」。

    そういったものも余すところなく

    あからさまに写し出している「からだ」。

     

    余計なものを足さず

    「変化」として、からだが素直に写し出しているものは

    誰でもない「ワタシ」そのものなのではないか、と

    思う時があります。

     

    取り繕って、どんなに隠そうとしても

    本当のところは

    自分自身という「スクリーン」を介して

    「ワタシ」を赤裸々に物語っているのかも知れません(笑)

     

    もし

    からだに起こっている現象のすべてを

    味付けせずに、ありのまんまに「いただく」ことができたなら 

     

    そこに写し出されている「ワタシ」という「素材」のことも

    曇りなく、ありのまんまに

    「味わえて」いるのかも知れません。

  • 言葉の変化

    おはようございます。

    瀧澤さん一週間のブログありがとうございました。

    岩手から届くきもちのよい風に変わって

    今日から一週間、目に見える世界と目に見えない世界をいったりきたりしながら(笑)

    寺本が担当致します。宜しくお願い致します。

     

    今日の朝は聞き慣れない鳥の声で目が醒めました。ちょうど窓のすぐ傍で、良く響く声で伸び伸びと、五時前から鳴いていたどこぞやの鳥。実に個性的なファンファーレを堪能した朝でした。

     

    さて、今回のテーマとしていただいた「歪み」。

    最近改めて「一体、何なのだろう?」と思うようになりました。

     

    日々更新されるこのリレーブログのなかで語られる「歪み観」。

    それがそのまま、操体の「臨床観」のようにも感じられてきます。

    私自身最近のブログはまた目が離せないモノとなっています。

     

    自分自身を振り返ってみれば、まず思い浮かぶのは

    「歪み」という言葉の出番自体がどうも極端に減ったことです。

     

    いままで何気なく使っていたこの「言葉」のなかに

    「良くないもの」だとか、どことなく「負の要素」だとか

    余計なものが付着しているように感じるようになる。

    目の前のからだに起こっている現象を口にする時に

    その「ありのまんま」を表現するのに

    どうも馴染まないような感じがするようになった。

     

    代わりに、「変化」という言葉を大事にするようになる。

    自分自身の口にする言葉から余計なものが自ずと消えていって

    素直な、後味のいい言葉へと変化していく。

    捉え方が変化することで、言葉も変化する。

     

    操体を学んでいると実によくこういった経験に遭遇します。

    「歪み」という言葉は、その典型だと感じています。