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  • 学生時代の授業

    今日から7日間担当いたします、香です。

    よろしくお願いいたします。

     

    上手い、下手というキーワードを考えた時に、学生時代のことを思い出しました。

    私は学生時代、体育学部に所属していました。

    ある実技の授業では、授業が始まると、先生はまず見本を見せました。

    見本以外、細かい説明などはなく、「次は皆さんがやりましょう。」という流れでした。

    すると、ほぼ全員、あたりまえに、見本通りの実技をやっていました。

    しかし、私は、それができませんでした。

    体育学部ということもあり、「運動神経がいい」や「運動のセンスがある」といわれる人が多く所属しているということもあると思いますが、私と一番違うと感じたことは、その実技をすることに対して、恐怖を感じていないということでした。

    また、見本を見ることで、イメージがしっかりとできているということでした。

    決して私だけが、恐怖を感じるような環境で実技をしていたわけではないのに、私は勝手に恐怖を感じていました。

    自分の勝手な思い込み(恐怖)が、できないに結びついてしまったのです。

     

    2016年春季東京操体フォーラムは4月29日(金)開催です。

    http://www.tokyo-sotai.com/?p=1278

     

     

     

     

  • 学ぶことの上手い下手

     我らの操体師匠である三浦寛師にはヒゲがある。 そのヒゲはそれ自体だけでは生えることはできない。 三浦寛という肉体があってこそヒゲが生えることができる。 そして、このヒゲとは本当に象徴的なものだ。 人間の霊魂は生きているが、その肉体は半分生きていて半分死んでいる、そしてヒゲはまったく死んでいる。 

     

     カラダに生える毛というのは肉体の死んだ部分である。 だから毛を切ってもどんな痛みも感じない。 指を切ったらそれは、それは痛い。 毛は我々の肉体の一部である・・・・・・が、毛を切っても痛みはまったくない。 それは死んだ細胞だからだ。 

     

     人が死ぬ・・・・・・ そして通夜の翌日は 友引である、日が悪いので葬儀は翌々日に施行となる。 するとどうだろう・・・・・・ ヒゲ無しで死んだ人間にヒゲが生えている! ヒゲは死んだ肉体の上にまで生えるのである。

     

     なぜならヒゲも死んでいるからだ、それは単なる死んだ細胞にすぎないからである。 そして、ヒゲを生やすのはとてもいいことだと思う。 ヒゲがあったら、鏡の前に立って自分の内の三つの層を見ることができる。 完全に死んでいるヒゲ、半分死んで半分生きている肉体、それから、完全に生きている霊魂だ。 これら三つのものが同時に見られる。

     

     ヒゲとは物資、そう、モノなのである。 肉体は物質と精霊の出会いのスペース、この出会いは常に困難だ。 だが肉体は、単に物質と精霊の出会う基盤にすぎない。 この出会いが崩れるときにはバランスが失われ、心は深刻になってしまう。 そして深刻というのは病気そのもののことである。

     

     ヒゲという物質は物質の中に再び吸収され、霊魂という精霊は精霊の中に再び吸収される。 そして、精霊は決して物質にはなりえない、ということだ。 

     

     師に教えを乞うとき、我々は師その人を見なければならない! が、師の肉体を決して見てはならない。 これは非常に象徴的なことである。 我々は自分を肉体だと思っているから、師もまた肉体だと考えてしまうのだ。 だが、師は肉体ではない! 師の肉体的側面は重要なことではないのである。

     

     教えに際して、自分の師と本当に接触することができるその方法というのは、自分の内側に入っていくことなのである。 自分自身の内側に深く入っていけばいくほど、師の内に深く浸透していくことができる。 師から教わることの上手い下手というのは、このように精霊的側面にアプローチすることができるか否かで決まってくるのである。

     

    明日からは感覚を捉える名手、香実行委員です。

     

     

    2016年春季フォーラムは4月29日(金)開催です。

    テーマは「上手い下手について」

  • 師弟関係における上手い下手

     操体だけのことではないが、ひとつの道を歩んでゆく師弟関係において、弟子は師が言うことについてはひと言ももらさず従うべきなのだろうか? それとも、自分自身の裁量で動くべきときもあるのだろうか? 

     

     これについてひとこと言わせていただくと、絶対的に従うか、まったく従わないかのどちらかにしなければならないということだ。 これは決して妥協するべきことではない。 なぜなら、中途半端というのは無意味であるだけでなく、有害でもあるからだ。 

     

     心半ばで師弟関係を続けるというのは何であれ弟子を分割してしまうことになる。 それは確実に害になるだろう。 そうならないために弟子は分割していない統一体としてとどまらなければならない。 

     

     したがって、弟子は全面的な受動態になるか・・・・・・ その場合には、弟子の側では何も考える必要はない。 ただただ深い信頼に基づいて盲目的に師に従うことである。 この盲目的という言葉は非常に強調される。 それはあたかも自分に眼が無いかのように。 それは眼のある誰かに引っ張ってもらうかのように。 

     

     そうなったら弟子は分裂していない一つの統一体としてとどまることができる。 ばらばらになることなく、統合して弟子は成長することができるのである。 あるいはまた、もし弟子がこれはとてもできないと感じたら、こんなことは不可能だと感じたら、それならまったく従わないほうがいい。 その場合には全面的に自分自身に従えばいい。 それでもまた、まとまっていることができる。

     

     ばらばらにならずにまとまっていることこそが目的である。 だからどちらでもいい。 同じことがその究極的な結果となる。 もし弟子に師なしで独りだけで在ることができたなら、もしそれがどこへ導こうと、自分自身の意識に従っていくことができたら、それなら同じことである、結果は同じ。 だから、これはまったく自分次第なのである。 

     

     しかし、頭というのはいつもこう言う。 両方やれ! と・・・・・・。 頭は言う、師に従うがいい・・・・・・ が、よく考えることだ。 自分が正しいと考えることだけ従うことだ! と。 そうなったら従うということはどうなる? 全面的な受け身はどこにある? 

     

     そうなったら師弟関係の信頼はどこへ行ったのだろう? それなら、自分自身の意識に従った方がずっといいに決まっている。 だから欺いてはならない、自分に従うなら少なくともそこに欺瞞はない。 さもなければ、弟子は自分自身に従っていながら、それでいて師に従っているような気になってしまう。 

     

     もし弟子が決定因子であるのなら、もし弟子が選ばなければならないのなら、もし弟子が、捨てたり受け容れたりしなければならないのなら、その時には弟子は自分に従っていることになる。 

     

     しかし弟子は、自分が師に従っているという印象を自分のまわりにつくりだし、自分自身を欺くこともできる。 それだったら成果は何も無い。 それなら弟子は成長することがない。 なぜなら欺瞞を通じては成長ということはありえないからだ。 

     

     それに弟子はますます混乱することだろう。 というのも、もし弟子が、何を為すべきで何をすべきではないということを決めるのだとしたら、もし弟子が自分の師の導きの中から選択しなければならないとしたら、弟子は混沌を引き起こすことになる。

     

     師が弟子を導くときにはいつでもその導きは有機的に統一されている。 指示のひとつひとつが互いに関わり合っていて、密度の高い一つの全体となっている。 そして

    もうひとつ、師弟関係にはなく、全面的に自分自身の意識に従うことができたなら、それでも成長は可能である。

     

     さあ、どちらか選ばなければならない。 だが両方選ぶのは駄目だ! 道を選択する上手い下手は、まったくもって自分次第なのである。

     

     

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  • 演技の上手い下手

     人は誰でも病気をする・・・・・・ そこで一つ提案がある。 健康なときにその健全さを感じとっておき、それを健康でないとき、病気のときに持って歩くというのはどうだろう。  その健全さというのは健康に依存するものではない。 健全な感覚というのは内的な感覚のことであり、肉体に依存しているものではない。 だからそれは、たとえ病気をしていても持って歩けるものなのだ。 

     

     このように、たとえからだが重病であっても、内側の健全さは保つことができるのである。 これとは逆の場合もある、それは完全に健康であるにもかかわらず不健康でいることがあるということだ。 完全に健康で若く元気なのに惨めでいる。 生きるということ全体を重荷のように、胸にのしかかる重みのように運んでいる。 そんな若者も決して少なくない。

     

     なぜ惨めになるのか? それは陰と陽の対極を合成しようとしたからである。 だから決して対極を合成しようとしてはならない、ただ融和の状態で在るべきだ。 そうすれば、ものごとはひとりでに自然に落ち着いてくる。 自分で落ち着かせる必要はない。 ただ自分自身を落ち着かせるだけでいい。 まず自分自身が落ち着けば、そうすればものごとは、それぞれ独自の配置の中に治まっていく。

     

     それには対極の反対のものの中に調和を見出そうとしてはならない、そんなものは決して見つかるはずがない。 見出そうと試みすぎたら、ますますかき乱されるだけだ。 そんなことは不可能なのだから! 実際の話、人の生きる社会というのはすべて病的な世界である。 まるで精神病院の中で暮らすのを強制されているような生活をしているように見える。

     

     だからそれは確かに難しい。 まわりは誰もかれもすべて狂人なのだから・・・・・・。 そうなると、自分に一体何ができるというのだろう? 精神病院ではほかの誰もが狂っている、ならば、どうしたらいい? そこでの唯一賢いやり方は自分が狂ったような演技をすることだ。 そうすれば誰もが自分のことを正気だと知られることはない。 なぜならもし知られたら、狂人たちはトラブルを引き起こすだろうからだ。

     

     精神病院の中では、本当に賢い人はそこにいる狂人たちより以上に狂った振る舞いを、そう、上手い演技をしている。 それがそこにおける唯一安全な状態なのだ! だから、社会の中で、まわりの誰もが狂っている中で、自分に一体何ができるというのか? この地球全体が広大なる精神病院だといってもいい。 あらゆる人々が病的で、病んでいて、どこかおかしくて異常になっている。 

     

     だったら自分に何ができる? それこそ演技しかないのだ! 下手な演技では駄目だ、上手い演技が必要だ。 人々の中にあっては自分の感じるままに演技すればいい。 不必要なトラブルを起こそうとしてはならない。 ただ演じて、それを楽しむことである。 それが人々とともに在るときにすることであり、自分自身のためには、感じること、そして、いつも快適感覚に溢れているのがいい。

     

     

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  • 上手い下手の両極性

    治療とは一つのエネルギー現象である。 

     

     そして、エネルギーについては、それがどんなタイプのエネルギーであってもひとつ極めて基本的な事柄を理解しておかなければならない。 これは理解されるべき根本的な法則である。 

     

     このエネルギーというものは二元的な両極性の間を動いていく。 それがエネルギーの唯一の動き方である。 このほかの動き方などエネルギーにはありえない。 それは二元対立する両極端の間を動くことになる。 そんなエネルギーがダイナミックになるには、その対立する極が必要とされる。 

     

     これはちょうど電気というものが陽子と電子とをもって働くのと同じことである。 もし陰の極である電子しかなかったら、電気は起こらない。 もし陽の極である陽子しかなかったら、やはり電気は起こらない。 エネルギーは、この電気のように必ず両極が必要になる。 電子の移動によってその両方の極が出あうとき、電気が創りだされるのである。 そのときには、エネルギーのスパーク現象が起こる。

     

     これら二つの両極端の間にバランスを生み出してそのバランスの内にとどまることによって電気が創られるのである。 しかし、このバランスは線状の努力によって達成できるものではない。 そして、臨床もまたこの同じエネルギーが、両極の間においてバランスをとりながら動いているのを見ることができる。 

     

     この両極性というのは、臨床にとって非常に意味深いことである。 何故なら臨床を行なう人の頭は極めて論理的だが、臨床そのものはシンプルで弁証法的なものだからだ。 頭の思考は線の上を動くという意味の線状的であり、実際の臨床はと言うと、正反対のものの間を動く対極的なものだ。 電気の電子と陽子のように、それは陰極と陽極の間をジグザグに動きながら、対極を利用するものである。

     

     これこそ 無努力の努力 というあの禅の手法の意味することだ。 禅では矛盾した表現をよく使う。 無努力の努力、門なき門、道なき道・・・・・・。 禅は矛盾語を使うことによって即座に我々にものごとのプロセスは弁証法的であって線状ではないということを暗示する。 

     

     反対のものは否定されるのではなく、吸収されるべきものであり、対極は取り残されるべきものではない。 それは使われなければならないものであって、それが取り残されたら、臨床家にとってそれはとても重荷になる。 使われなかったら、臨床家は多くを取り逃がすことになるだろう。 そのエネルギーは転換され、利用されうるべきものだ。 

     

     そうなったら、それを使うことになったら、臨床家はより活気を帯び、より生き生きとしてくる。 だから反対のものは必ず吸収されなければならない。 そうなってはじめてプロセスは弁証法的になる。 これは臨床家にとって、両極性というバランス感覚の上手い下手に尽きるのである。

     

     

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  • 上手い下手の超越

     操体の講義を聴いていても、下手な受講者というのは、いつもその情報を必ず頭の中にしまい込んでしまう。 その情報はどうやったらその頭から出してこられるのだろう? 果たしてどんな方法が使えるというのだろうか? その方法に 意志の力 というのは本当に役に立つのだろうか? 

     

     いや、意志の力は役に立たない。 本当は意志の力というのは、力などではまったくない。 なぜなら意志とは自我に依存しているもの、非常にちっぽけな現象であるからだ。 とてもじゃないが大きな力など生みだせるものではない。 

     

     逆に意志をもたずにいるとき、そのときには受講者は、力に満ちている。 そのときには、からだ全体で講義を受けている上手い受講者ということになる。 深いところでは、意志力とは一種の無力さのことである。 自分が無力だという事実を隠すために意志をもちだすのであろう。 

     

     我々は、自分自身と他者を欺くために正反対のものを創りだす。 自分は愚かだと感じている人たちは、自分が賢いことを示そうとする。 我々は絶えず自分の愚かさを自覚しているものだから、賢く見えそうなことなら何でもやってのける。

     

     醜い人、あるいは自分は醜いと感じている人たちは、いつも、いつも自分を美しく見せようとする。 それがたとえ、描かれた美、ただ顔の上だけの、仮面の美であってもそうだ。 弱い人たちは常に強く見せかけるものである。 そのように正反対のことが創りだされる・・・・・・。 それが内側の現実を隠す唯一の方法なのである。

     

     故に意志の力というのは実のことを言うと、力ではなく、弱さのことなのである。 本当に力強い人は自分の意志などもっていない。 それは、からだ全体のトータルさというのが上手い人の意志のことである。 それは実在と和合して一体になっているということだ。

     

     ではどうしたらいい? どうしたら頭に中にしまい込まなくてすむのだろう? 具体的には何ができるのだろう? できることはただ一つ。 ただ静かに見守ること・・・・・・ただ内に在って静かに見ていること。 もし受講者に本当にこのように見守ることができたなら、心して見つめることができる、その時には、情報をしまい込む頭は存在しなくなる。

     

     そうなると、突如として、受講者はそれを超えることができる! その状況から出るのではない、それを超えるのである。 そう、突如として受講者は自分自身を超えて彷徨する。 テクニックという名の 上手い下手 を超えて・・・・・・

     

     

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  • 臨床家が選ぶ上手い下手

    ある高齢臨床家のこんな話を聞いたことがある。

     

     もうじき百歳を迎えるという老いぼれ臨床家が、毎朝目を覚ますとき、治療の上手い臨床家であるか下手な臨床家であるか、どちらか一方を選んでいるという。 そこでその臨床家はいつも上手い臨床家である方を選んでいるのだそうだ。

     

     しかし、実際には我々が大概下手な臨床家の方を選んでしまうのは一体どうしたことだろう? 自分が選択できるということにさえ気がつかないのはどうしたことだろう? 

     

     これは、我々臨床家の問題の中で最も込み入ったものの一つである・・・・・・。 それには深い考慮をはらわねばならない。 それにこれは理論上のことではない。 我々臨床家に直接かかわることだ。 誰しもがこのように下手に振る舞っている。 いつも、悲しい、憂鬱な、惨めな方を選ぶ。 これには何か深い理由があるに違いない・・・・・・。

     

     まず、第一に、人が育てられるその方法が、非常にはっきりとした役割を演じているということだ。 まだごく幼いうちから子どもは政治駆け引きを学ぶことになる。 その政略は自分を惨めに見せかけるというものだ! そうすれば同情が得られる、みんなが注目してくれる・・・・・・。 具体的に言うと、病気に見せかければいい、そうなったらみんなから大切にされる。 

     

     病気にかかった子どもというのはいつも独裁的だ。 家族全員がその子に従わなければならない。 その子の言うことがルールになる。 だが、子どもが元気で幸福なときには誰もいうことなど聴かないし、健康なときには誰も世話などやかない。 まったく健康で申し分のないときには誰も注目しない、だからほんの幼少のころから、我々は惨めでいる方を選びはじめることを学ぶ。 悲しいこと、悲観的なこと、生の暗い方の側を選んでしまうことになる。 感受性のレベルが高い人なら、ごく初めからその違いを感じはじめることができるであろう。 

     

     もし自分の治療が下手であれば、そこから何かが得られるのである。 治療下手であれば周りの人が同情的になり、その臨床家は哀れみを獲得することができる。 周りの人が優しくなり、その臨床家は同情を獲得することができる。

     

     が、もし、上手いのなら決まって何かを失うことになる。 治療が上手いのであれば、みんなが上手い自分に嫉妬する。 嫉妬するというのは、みんなが自分に敵対するということだ。 そういうときには誰も優しくない。 あらゆる人が敵になる。 それはかって三浦寛師が受けた操体同胞からの仕打ちのように・・・・・・。

     

     だから我々は他人の敵対するほどには喜ばないようにと学んできた。 自分の優越感を見せないように上手さを見せないようにと・・・・・・。 そしてその結果、我々が大概下手な臨床家の方を選んでしまう理由になるということだ。

     

     

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  • 下手から上手いへの変身

    禅のこぼれ話をひとつ・・・・・・

     

     禅のお寺のことを 禅林というが、その禅林には 禅画と言って、禅宗の教義や精神を表現した絵画の伝統が今なお存在している。 

     

     そのような禅寺の禅師のもとで、禅画を習っているひとりの弟子がいた。 この弟子は竹に取り憑かれていて、絶えず竹の絵ばかりを描いていた。 禅では、絵を描くとはいうもののそれを通じて学ぶのは、禅那、すなわち瞑想のことである。 

     

     あるとき禅師がその弟子に言った お前自身が一本の竹にならない限り、何ごとも起こりはしないだろう・・・・・・と。 

     

     それから十年の間、竹を描きつづけ、その弟子は暗闇の中で眼を閉じていても描けるほど完璧にその技量は熟達していた。 絵を描く術は完璧で 上手いということに異論を差し挟むことは誰もできないほどだった。 

     

     ところが、師はそれを是とせず、決まってこう言った 下手クソ! お前自身が一本の竹にならない限り、どうやって竹が描けよう? お前は竹と分かれたままだ。 お前は傍観者、ただの見物人でしかない、お前は確かに竹を知ることが出来たかもしれないが、それは外側からだ。 それは外周にすぎない。 それは竹の魂ではない、お前自身が一本の竹にならない限り、どうやって竹を内側から知ることができよう・・・・・・?

     

     このように弟子は十年も苦闘したのに師は認めようとはしなかった。 それからこの弟子は、竹林の奥深くに消えていった・・・・・・ それから三年というもの、この弟子については何も聞かれなかった。

     

     が、そんなある日のこと、その弟子が一本の竹になったという話が伝えられてきた。 もうその弟子は絵を描いていなかった、竹たちと暮らしていた、竹たちと共に立っていた。 そこは風がわたり、竹はそよぎ、踊っている・・・・・・と、その弟子もまたそよぎ、踊っている・・・・・・。

     

     その弟子の師である禅師が様子を見に行ってみると、確かにあの時の弟子は一本の竹になっていた。 そこで師は言った 今度は竹のことも自分のことも忘れてしまえ!

     

     それを聞いたその弟子は言う ですが、竹になれとおっしゃったのはあなたです。 だから私は竹になったのです。」 

     

     師は言った もうそのことも忘れるのだ。 何故なら今では唯一お前にとってそれが邪魔をしているからだ。 お前の内部のどこか深いところで、お前はまだ分かたれたままになっている。 そしてここで、自分が竹になったことを憶えている・・・・・・だからお前はまだ完全な竹ではない。 竹であるならそんなことは憶えていないはずだ。 だから忘れてしまうことだ!

     

     それからさらに十年の間、竹の話は一切為されなかった。 と或る日、師はその弟子を呼んでこう言った。 さあ描いてみよ。 まず竹になるがいい・・・・・・、それからその竹のことを忘れるのだ。 竹として完璧な竹になることで、その絵が単なる絵ではなく、お前の成長となるように!

     

     さて、このように禅弟子に完璧な竹が起こるときには・・・・・・ 人間と竹の間に 私がいないということが起きるときには、自分も消え失せる。 それから突如として弟子は、変身することができる! 

     

     実存主義を唱えたジャンポール・サルトルがどこかで言っている 他者こそが地獄だ、と・・・・・・ しかし、彼は絶対に間違っている。 本当のことを言うと、他者は決して地獄などではありはしない。 他者が他者であるのは、自分が自我であるからだ! もし私自身がいなかったら、自分自身も消え失せてしまったなら、他者も地獄も消えてしまう。

     

     この竹を描く禅弟子のように自分自身を忘れることができたなら、下手クソ!から 上手い!に変身することが可能なのである。

     

     

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  • 7日目・・・介入している

    病院に行けば、検査も行う。

    相談されれば、傾聴も行う。

    医療も介護も、機器だけでは成立しない。

     

    ここに人間同士の意識、ひとつの介入問題は生まれる。

    このことで何か、全体の状況は変化してしまう。

     

    介入の下手な人間は、勘違いが多い。

    謙虚に、あるがままではなく、我欲でわがままである。

     

    物理の観測問題ではないが、何か意識で介入する事は、

    相対的関わりのみならず、絶対的に「からだ」と関わる。

     

    この真理を、もっと、もっと、丁重に扱う必要はある。

    この真理に、上手いと下手は生まれるのだから。

     

    なぜなら、介入によって、そこからの生き方も変わるし、

    その介入選択は、刺激的だったのか、接触的だったのか。

     

    「からだ」に自ら関わること、その意識は変わったのか?

    人が人らしいあるべき姿へ、自律性ある本来の姿に導く。

     

    物事の考えかたのフレームを、少し変えただけで、驚く。

    上手い介入とは、その「意識」を変えることなのである。

     

     

    さて、いよいよ春季東京操体フォーラムまで三週間です。

    明日からは、妙味も珍味もしゃぶり尽くす快男児こと、

    日下実行委員のブログ週となります、お愉しみにッ~!!

     

     

    あっちの一言:性エネルギーは、つつがなく代謝しないと、

           「からだ」に不都合も生じてくるのだ。

           男も女も、発散経路を通していない場合は、

           性エネルギーは、内向して精神的に攻撃し、

           メンタルに不具合を生じてしまいやすい。

           これは、性的要求(欲求でない)の昇華による、

           快のイデアと、遊びに極まるのである。

           故に性は、活き、生き、息に往き粋でもある。

     

     

     

    2016年春季東京操体フォーラムは4月29日(金)開催です。

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  • 6日目・・・失敗のしつらえと型

    「何が失敗なのか、よくわからない」

     

    なに言っているんだ此奴は・・・と思うのが普通の反応である。

    この場合の普通は、”KY”(=空気読めない)、困った下手な輩に多い。

     

    これには、始めから色々と教わり、その都度教えてもらいながら、

    やって失敗しながら、徐々にできるようになっていくプロセス。

     

    だが、ある環境において、真摯な愛に基づく”しつらえ”と”型”により、

    超越した、上手いとしか表現できない人間を育て上げる場合もある。

     

    それは、超一流と呼ばれる世界の人間が人を育て上げるプロセス。

     

    つまり、弟子入りしてからしばらくは、ただただ見ているだけで、

    実際には何もやらせてもらえず、やるのは仕事の雑用くらい。

     

    そして、ある時を経て「間」を観ていた師は、突然許可を与える。

     

    すると、師を観ていただけの弟子は、失敗経験の全くない状態で、

    結構出来て、更に凄いレベルまで到達していくことも可能となる。

     

    ・・・ん?どこかで聞いたような話だなぁ。どこだったかなぁ(笑)

     

     

    あっちの一言:人間はウンコしてスッキリ、スッキリして腹が減り、

           腹が減ったら食べて、そしてウンコしてスッキリ。

           その妙味を味わいつつ、心に響くなのは、その合間。

           意識で、何処に性エネルギーをどう扱うのか・・・だ。

     

     

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