諸種の技芸において、
技:学問・技術
心:精神性・霊性

という4つの組み合わせが考えられる。
1、は文句ない。
4、はもう少し修業して下さい。
問題は、2と3だ。
現代社会において、組織では、2のタイプの方が扱いやすい。
しかし、実際においては、3のタイプの人間の方が多いのではないか?
3のタイプの若者を育てられる社会であって欲しい。
2016年9月[新創生期操体法特別臨床講座](http://www.sotai-miura.com/?page_id=1018) 開講!
諸種の技芸において、
技:学問・技術
心:精神性・霊性

という4つの組み合わせが考えられる。
1、は文句ない。
4、はもう少し修業して下さい。
問題は、2と3だ。
現代社会において、組織では、2のタイプの方が扱いやすい。
しかし、実際においては、3のタイプの人間の方が多いのではないか?
3のタイプの若者を育てられる社会であって欲しい。
2016年9月[新創生期操体法特別臨床講座](http://www.sotai-miura.com/?page_id=1018) 開講!
ある高名なピアニストはこう語った。
「多くの芸術家は、作曲家の意図した事を表現するために作品を演奏するが、
私は、自分を表現するために作品を演奏する。」と。
しかし、これは、相当に強固な個性の確立しているアーティストにしか
出来ない事である。
凡人にとっては、
自分を消し去る事で、ほのかに浮かび上がるのが「個性」
自分を主張する事で表現されるのは「我」
であろう。
私は、せいぜい自分を忘れるくらい対象に没入してみるくらいの事しか出来ない。
2016年9月[ 新創生期操体法特別臨床講座](http://www.sotai-miura.com/?page_id=1018) 開講!
本日で最終日となりますが、今日は吉田松陰の言葉から「上手い・下手」を考えていきたいと思います。
先日、「覚悟の磨き方」(超訳 吉田松陰 編訳 池田貴将)という本を買い読みました。
ここで書かれていることは今回のブログのテーマだけではなく、人が学ぶことにおいて重要なことが書かれています。
人が上手く学ぶということは「見て、聞いて、直ぐに実践、そして結果を出し、分析する」というプロセスがあり、学問にしていくことはこの繰り返しなのだと思います。
しかし、これらのプロセスの中にも本当に自分のものにするための重要なポイントがあり、それを吉田松陰はこの本の中で説いています。
特に私が自分に足りなく、大切だと思うのが「人から話を聞く」ということです。
ただ聞くという行為の中にも「聞き方」があり、それをどのように受け取り、租借していくかで上手くもなり、下手にもなるということです。
著書では「本当に知恵のある人は、自分の知識を披露するよりも、人に質問することを好みます。一見くだらない見える話も、注意深く観察して、大切なことは見逃しません」(P170より)と説いています。
私の身近な上手いと思う人達も技術だけではなく、人の話を聞くことにも長けています。それは些細なことにも耳を傾け、自分の学びの糧にするという姿勢(器)が出来ているということです。
そういった捉え方をしていくと、師や先生達の言葉の本当に大切なことは意外に取りこぼしそうな些細な言動の中にあるように感じています。
それをこぼさずにしっかり受け取れるか、否かが本当の意味での上手い・下手と関係しているように思います。
一週間ありがとうございました。明日からは半蔵さんが担当致します。
「癖」
上手くいかない、出来ないことにおいて自分が無意識に作った「癖」が一つの要因として挙げられます。
何をするにしても、思考の癖、からだの癖というのは無意識の中で関与している。それが足枷となる人もいれば、上手くフィットする人もいる。
しかし、それは百発百中ではなく、むしろ癖がたまたま吉と出ただけの話であり、それを偶然ではなく必然なものにするには日常生活の何気ないことに意識を向ける必要がある。
その仕草一つ一つに自分らしい癖があり、それが上手く出来ること、出来ないことに繋がる重要なヒントがある。
その中での問題はそれを意識的に行っているのか、または無意識的に行っているのかということであり、この癖をいかにからだの要求に適うものにしていくかが上手くやる秘訣だと思います。
それにはまずは自分が培ってきたことに執着し過ぎないこと、そしてありのままを受け取ることが癖を改善する一番の方法のように思います。
「マ」(間)の重要性については以前のブログや春のフォーラムでも説明致しましたが、様々なことにおける上手い人の「マ」のはかり方は短すぎず、長すぎない絶妙な間合いを取っています。
逆に下手な人の「マ」というのはとても短いように見えます。それは動作にも忠実に表れ、一つ一つの動作が早く、急かしているように見えるのです。
動きが早くなるというのは「ごまかしている」ということにも繋がり、本人が「ゆっくり」動作しているつもりでも、第三者から見れば早く見えるという不思議な現象が起こります。
私自身も注意していることですが、自分の中の「ゆっくり」という動作と端から見た「ゆっくり」という動作の速度は全く異なります。
例えば、ジェットコースターの乗った時のように自分の体感時間とそれを他人から見た時間とでは、同じ時間でも端から見た時間の方が早く見えるのです。
ではなぜ早くなってしまうのかを考えていくと、その時のメンタルの問題もあると思いますが、イメージが最後まで出来ていないか、イメージがからだで体現出来ない、このどちらかが大きいと思います。どちらにしてもイメージを体現出来ないのは本当の意味で身に付いていないということです。
身に付いていなければ、「マ」の使い方は思考を整理するのに費やし、いずれは頭のイメージにからだが付いていかなくなる。そして焦りが生じ、早くなる。
しかし上手い人は「マ」をそういった情報整理する時間に費やすのではなく、相手や空間と向き合う時間にしている。その中で密かに自分のからだの調整や次のイメージを描いている。
それはやっていることがしっかり身に付いているからこそ出来ることであり、想定外のことにも対応することが出来るのです。
このような違いを見ていると、上手く行うことの条件というのは「ゆっくり」動くこと、一つ一つの動作を収めること、そしてイメージを最後まで描けることが挙げられます。
それを成していくには「マ」の取り方、はかり方がとても重要なことです。
この「マ」の間に自分自身が何と向き合うかが「上手い、下手」を左右しているように思います。
少し前の話になりますが日刊スポーツでイチローの500盗塁の話題が一面を飾っていました。
その記事の中で緒方耕一氏は「イチローはプロ野球の選手の中でも重心の位置と盗塁における最初の一歩が違う」と書かれています。
その時の写真を見てみるとリードを取っている時の重心は左足に掛かり、スタートと共に左足を蹴り出しています。そして注目したいのが上半身と下半身の状態です。
私の速い陸上選手のイメージは上半身、下半身の重心が低い人ほど早く走れるイメージがありましたが、イチローの場合は加速している時の上半身は極度に前傾し過ぎず、下半身においても腰は初速からスラィディングまで一定のままです
これが何を意味しているのかというと、イチローはからだの動きを腰から表現していないということです。つまり動きに無駄がなく、コンパクトで美しいということに繋がってきます。
このことはフォーラムの般若身経でも上手い人の特徴として「フォームが美しい」と発表させて頂きましたが、からだの体感である腰から動きを表現すると、自ずとからだ全体の動きは自ずと大きくなりフォーラ美しく収まりません。それは動きに無駄がなく疲れない使い方をしているということにもなります。
それは野球や操体に限ったことなく、武術にしても、料理人にしても上手い人は共通してフォームが美しく、能率的なからだの使い方をしています。
それを本人が意識しているかどうかは分かりませんが、イチローのような偉業を成してきた人達のその根底にやっていることは基本の基本を徹底的にやり、からだを通して型を作っていっているのだと思います。
このように上手い、下手には自分の型がとても大きく関わっているように見えます。
今日の操体でもまずは素直なからだの感覚を聞き分ける為の型を作ることが、学びを得る第一歩となります。その型が上手く収まれば自ずと「上手い」の繋がってくるのです。
幼少から書道、野球、サッカーと様々なことに取り組んできましたが、あえて上手い、下手どちらかに分類するならば下手な方だったと思います。
それは自分がやりたい、上手くなりたいと思っていること全てに共通していて、意外と上手く出来ることにはさほど興味がありませんでした。それは上手く出来ることから得られるものが少なかったからだと思います。
下手だからこそ、自分の意識やからだの使い方を一つ一つ見つめて直していく。その反復から身に付けたものが「上手い」に繋がる。それが面白いからやっていることが好きになる。
そういった自分の過去の経験から上手く出来ることが必ずしも良いことではないように思えます。下手だからこそ得られるものは大きいようです。
これがいきなり出来てしまったり、誰よりも秀でた結果を出してしまっては野球にしても、サッカーにしても今でも好きではいられなかったと思います
下手のプロセスがあったからそこから得られたものは生涯の宝として持ち続けていられる。それはすぐに上手く出来たことよりもからだや感覚を通して身に付けているからです。
このように捉えていくと、何をするにしてもプロセスがない成功というのは必ずしも良いことではないように見えます。これは野村元監督も著書でも同様のことが書かれています。
そういった意味においても上手い、下手という結果に右往左往せず、少しずつ、少しずつ、自分と向き合って、その過程にあるプロセスがあって本当の意味で「身に付く」があるのはないでしょうか?
最近の私も「上手くいった、いかない」という目先の結果に捉われず、本当に自分に「身に付いた」というもっと先の結果とプロセスを大切にするようにしています。
先日開催された春季操体フォーラムの般若身経では7年間の学びの中で上手い人、下手な人のからだと意識の使い方を発表致しましたが、その中で私が一番伝えたかったことは日常の中にある「少し」を変えれば自分の生き方が大きく変わるということです。
日常生活のからだの使い方にしても、意識にしても、ほんの「ちょっと」を変えることで今まで自分が見ていた景色は全く違うものとなります。
見ている景色が変わるということは自分の人生そのものが変わるということです。
その変化するきっかけの種は日常の中のさりげない仕草やからだの動作の中にあります。
問題はその蒔かれている種に気付けるかどうかです。
大抵の人は自分も含めて気付きを得るためのアンテナが行き届かない。目の前にある自分の人生を豊かにする種があることに気付くことが出来なく見落としていく。
しかし、先程書いたように自分の意識やからだの使いかたを「ほんの少し」変えてみると、種があることに気が付くことが出来る。
それに気が付ければ、あとはその種を少しずつ、少しずつ、水をあげながら芽が出て花が咲くのを待っていればよい。
そういった自分が変わる、そして気付くことも「愛と調和」のように思います。
それにはまず一歩ではなく、半歩踏み出して自分を変えること。
上手い、下手とはその半歩を踏み出す勇気のように思える。
三浦先生、一週間ありがとうございました。
今週からは三浦寛幸が担当致しますので、よろしくお願い致します。
今回のブログのテーマは「上手い、下手」についてです。
先日の三浦先生のブログでは「品性、品格を磨け。これがウマイ、ヘタである」と書かれていました。
「品性、品格を磨く」ということは「己の器を磨く」ということだと思います。その器とはありのままを受け取る器、変化を受け入れる器と様々な器を磨くということであり、結果的に感覚を磨くということに繋がってきます。
感覚を磨いていくことで自分の生き方が「変わる」ということであり、そして「進化する」ということに繋がってきます。
やはり変化していかなければ「退化」していくしか道はなくなる。だからこそ人は現状に満足せずに「進化したい」という80兆の細胞の要求に応えるために自分という器を磨き、そしてやっていることを学問にしていく。
その進化の過程において大切なのは変化をどのように「受け取っていくか」、この変化の受け取り方で自分がどのようにも変わる。
ありがたいものとして素直に受け取っていくか、または変化することを恐れ拒否するのか。
もし常に進化していきたいのであれば、ありのままを受け入れること。そこに一切の否定をいれないことが「変わる」ことの条件になる。
正にこれこそが「上手」に繋がる根底にあるものであり、学問にしていくことの心得のように思います。

赤ん坊は、いきなり立っては歩かない。
ヨチヨチ、ハイハイの過程を踏んで、立つのである。
手と足をつかう。ならば重心軸となりえるものが腕にもあるのではないか?と捉えていくこと(創造・発想)ができる。
創造・発想の展開は、ただ学んでいるだけの人と、学問している人とでは、ちがう。
学んでいるだけの人は、深めることなく、すぐに妥協してしまう。
これがウマイ、ヘタの差になってくる。
7日間、ありがとうございました。
2016年9月[ 新創生期操体法特別臨床講座](http://www.sotai-miura.com/?page_id=1018) 開講!