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  • 感性とAI(人工知能)。

    おはようございます。

     

    近頃よく人工知能、AIという言葉を耳にします。自動車なんかでも自動運転装置の技術が急ピッチで進んでおり、最近ではドライバーが運転中にハンドルから手を放して車に任せているテレビCMもよく見かけるようになりました。近い将来、法律的な問題はあるにせよ、技術的には完全自動運転も可能らしいです。最近のコンピューターの進歩は目覚ましいですね。

     

    生物の進化の歴史とコンピュータの進歩の歴史は逆になるようです。これは、東北大学大学院教授、行場次朗氏の情報ピラミッドという概念を用いれば解りやすいと思います。

    情報ピラミッド

    ピラミッドの上の方は言語や数字など抽象化レベルの高い知識情報の領域で、下の方は感性情報となり、しゃべり方や表情など画像的データとしています。

    画像的データは抽象化レベルが低いですから、そのデータ情報は大きくなります。パソコンでも文章や数字などの記号的データでは容量は少なくてすみますが、写真などの画像データは容量を多くとってしまいますものね。

    コンピューターは人間が開発し、プリグラムを組んでいる訳ですから、記号処理が得意で知識情報から感性情報への進歩となり、図では上から下への流れとなります。一方、生物の進化は逆方向になります。しかし、人間だけは言語を操り、コンピューターも操るのですから両方向への進み方、つまり進化と深化が可能なのだと思います。

     

    今、コンピューターの進歩、人工知能の発展にはめざましいものがあります。何年か前には囲碁のプロと大局して勝ったとか、そういうニュースもありました。近い将来、人間とコンピュータの立場が逆転するのではないか、といった危惧を抱く人も多くいるようです。

    かのビル・ゲイツ氏も「これは確かに不安を招く問題だ。よくコントロールできれば、ロボットは人間に幸福をもたらせる。しかし、数年後、ロボットの知能は十分に発展すれば、必ず人間の心配事になる」と言っているそうです。

     

    その心配事を杞憂に終わらせるためにも、これからは感性を磨く必要があると思います。人間にあってコンピーターにないもの、それは直感とか閃きといった感性です。そして感性は創発特性という無限の可能性を秘めています。

    人工知能も直感や閃きが持てるようになるかも? それは無いと思います。発生の根源が違いますから。人工知能はあくまで人工です。しかし、我々人間は、大自然の創造主である太極の、愛と調和という意志によって生じているのですから。根源的に違います。

    そして、太極は無極無限であり、その意志は大自然の存在すべてに貫通しております。感性も情報ピラミッドの例を用いれば、その底辺、裾野は無限大なのかもしれません。

    その感性と上手く付き合い、どう磨いていくか。それは、からだ(身体のみならず)についての学びである操体の学びの中にあると思います。

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

    秋季東京操体フォーラム開催!

    今季のテーマは「膝と進化した操体」です

  • 感性 > 知性と知識。

    おはようございます。

     

    愉しい時、嬉しい時というのは、脳内にドーパミンが分泌されているようです。ドーパミンは報酬系の神経伝達物質ですから、何かを達成したときや満足感によって分泌され、快感をさそうようです。ですから人間が創造性を発揮することに於いて大変重要な役割をしています。また近年では、ドーパミンが分泌された時、その直前に行っていた能力が強化されるという事が実証されているようです。

     

    ドーパミンは、幼児など小さな子供ほど分泌量が多いと言いますが、これから成長する過程において、からだをとおして様々なものを吸収して知識とし、そこから考えたり判断する能力である知性を育てていくには、分泌量が多いというのも頷けます。

    この観点からみても、土台はからだをとおしての感性なのですね。幼児は自然に、当然のようにからだをとおして、悦び、感動し、愉しみながら学習しているのです。

     

    三つ子の魂百までとか言いますが、幼児に限らず感性を土台とした知識や知性といったものは記憶に残りやすいと感じます。しかし、本を読んだだけとかの場合は忘れるのが早いと思います。知識だけ詰め込もうとしても、なかなか上手くいかないのは経験上誰もが知っていると思います。だから書き写して覚えようとしたりするのでしょうね。

     

    写本なども時間はかかりますが、感性とともにからだが文字を書いているので、記憶に残る知識としやすいのだと思います。そして、その感性を更に高めるには、書いた著作者本人に会うことでしょうね。著作者が故人であれば、一番身近に居た当時の状況を知る人に会って話を聞くことだと思います。

    そうすれば、文章に共感しやすくなり、感性が高まることによって、記憶に留まりやすくなり、それが知識となる。その知識は知性も高め、知性はその知識を要所要所で引き出してくれるようになる。それが和を生み、調和による善い循環となり、そんな中で創造性も発揮されるのだと思います。

     

    操体の学びも、本を読んだだけでは、なかなかその意味するところが解りづらい面があると思います。また、症状疾患に対しての治療法の知識が多いほど、操体法の効果の高さは知っていても、なぜ効果が高いのかが、今までの知識によって解りづらくなっている面があると思います。

    活字になっているものの土台には、多くの活字では表現できないものが在ります。そして活字では表現できないものの中に、活字を活字(活かす字)たらしめる真の理解につうじるものがあります。活字では表現できないものを感じ、真の理解とするには、書いた人の生の声を聞き、その想いに触れるのが一番です。

     

    操体のスーパーバイザーとして数々の著書があり、現役の操体臨床家である三浦寛先生。三浦先生は、操体創始者、橋本敬三先生の一番近くで、一番長く操体を学んだ高弟でもあります。

    三浦先生は臨床や講習(新創生期操体法特別臨床講座)を精力的に行っていますが、勿論、今度の秋季東京操体フォーラムでも講演していただきます。ぜひ、生の声を聞き、その操体への想いに感性で触れてみて下さい。

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

    秋季東京操体フォーラム開催!

    今季のテーマは「膝と進化した操体」です

  • 感性と知性・・・2。

    おはようございます。

     

    知性とは、物事を知り、考え、判断する能力のことで、比較、抽象、概念化、判断、推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまで作り上げる能力。

    感性とは、物事を直感的に感じ取る能力のことで、これは言語では表現しづらく、実感、体感、共感するしかないと言われます。

     

    感性の直感的に感じとる能力を突き詰めていけば、快、不快の識別を感じ分ける能力、つまり原始感覚に行きつくのではないでしょうか。しかし、ここで識別とすると、上に挙げた知性の意味とこんがらがると思います。ですが、それは頭の思考だけで考えるから矛盾があると思うわけであり、ここでからだと偕にあるという想いを向けてみると、矛盾はないと思えてくるのです。

    からだにも人格やパーソナリティといったものが在るという事。原始感覚というのはきわめて生物的、生命的、自然的能力であり、自分が持っているのではなく、自分のからだがもっている能力なのです。

    ですから、操体臨床の第2分析である快をききわける動診も、「からだにききわけて」という言葉かけが、重要となっているのです。

     

    原始感覚から直感へ、そして感性へ。この快、不快からの流れの中に、からだからのメッセージ、あるいはからだが受け取ったメッセージがあると思います。感性の鋭い人というのは、このメッセージの受け取り方が上手いのではないでしょうか。

    どのように快なのか、不快なのか、そしてそのおくに在るもの。これがからだとのコミュニケーションが密になるほど、明快さが増していき、表現力も増すのではないかと思います。

    音楽のメロディーにしろ、絵画にしろ、必ず題名がありますが、これもメッセージをそのように受け取っているからなのではないでしょうか。それを、それぞれの分野での学びから得た知性や知識と融合させて、愉しみのなかで作品に仕上げていく。

    そして知性というのは、感性によって変化するものなのだと思います。ピカソにしても、はじめはベーシックな画法を学び、ベ―シックな絵を描いていたようですが、ガラっと画風が変わりました。あれは感性からの進化ではないかと思います。

     

    感性から考えると、からだや、からだという存在を成立させているこの空間にも、生かされているという事を改めて感じさせられます。過去→現在→未来という時間の捉え方も、本来は逆なのではという気もしてきます。

    自分に人格やパーソナリティがあるように、からだにも人格やパーソナリティが在る。それを認める。そして偕に歩んでいく。知性の高め方も変わり、頭で押し込んだ知識からの仮面の知性ではなく、本来の知性へ。生き方も優しく丁寧になると思いますね。生きる前に、生かされて生きているのですから。

     

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  • 感性と知性。

    おはようございます。

     

    知性とは、物事を知り、考え、判断する能力のことで、比較、抽象、概念化、判断、推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまで作り上げる能力。

    感性とは、物事を直感的に感じ取る能力のことで、これは言語では表現しづらく、実感、体感、共感するしかないと言われます。

     

    知性は合理性、論理性を優先する。だから記号や言語でまとめやすい。しかし、感性の方は多義的でまとめづらい。そのような特性があるといいます。

    社会生活を営む上では、ある程度の知性や知能、知識といったものが無ければならないし、何か契約を結ぶときなどでも、書類を見て内容を把握できなければどうにもなりません。知性的で知能も高く、知識も豊富な人というのは色々と重宝され、社会的ステータスが高くなるのも頷けます。

    しかし、そのステータスも知性や知能、知識といったものだけでは、高くはならないし、保てないと思います。やはり、場の雰囲気がわかるとか、他の人に共感する、実感としてその人の気持ちがわかる、体感する、といった感性が土台にあったればこそだと思います。

     

    感性が土台にあっての知性であり、これが逆になって感性が蔑ろにされると上手くないと思います。特に知性が合理的思考とばかり手を組んでしまい、感じ取る能力を隅に追いやっている状態では、環境(自然、人為、社会)の変化に上手く対応できないとか、からだとのアンバランスを感じとれない、ということにつながってしまいます。それでは仕事や生活に支障をきたすとか、何らかの病気の発症原因ともなります。

    また、合理的思考ばかりの人というのは、からだを自分の道具のようにしか考えていないという傾向があります。自分勝手に使うだけ使って壊れたら直してもらえばいい、そんな考えがすり込まれているようにも思えます。

    しかし、からだは自分の道具ではないのです。自分が生きる為に大自然からお借りしているものなんです。だから、自分がこの世を去る時には、大自然にお返しして旅立つわけですね。大自然からお借りしているものですから、ちっぽけで勝手な自分の合理性などに向いていないのです。

    からだは自然の摂理に向き、そして自分に合わせてくれているんですね。それを自分の合理性に合わせようとすると、アンバランスとなり、そのアンバランスはストレスにつうじ、ストレスが積み重なれば、何らかの病気になってしまいます。

     

    この世で存在するには、からだがなければ存在できないのです。知性だけでは存在は成り立ちません。感性が土台にあっての知性であり、それを包み込んでいるのは大自然の理であり、大自然の理から感性にもたらされるのが直感や閃きと呼ばれるものであり、だから名人達人の域に達している人というのは直感の方が間違いない、と言われるのではないかと思います。

    そして、そのような人たちの言葉には重みや愛、ヒビキがあります。それは自然の理からもたらされるものを直感として感性で受け取り、知性につなげるという繰り返しにより、理性という橋渡しがしっかりできているからなのでは、と思います。

    その橋渡しをしっかりさせるには、自分は生かされて生きている、という事を識っていくことからはじまるのだと思います。

     

     

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  • 感性とバルの戒め。

    おはようございます。

     

    天才的とか感性が豊かとか、何かの才能に秀でるセンスというのは、遺伝や脳の使い方、育て方によって決まってくると言われます。

    だいたい60パーセントぐらいは遺伝子の影響を受け、40パーセントぐらいは生まれた時代や受けた教育を含めた育った環境要因による、と脳科学的には言われているようです。

     

    音楽家のモーツァルトは、色々な意味で恵まれていたと言えるかもしれません。産湯に使ったときから父親や姉の奏でる音楽を耳にしながら育ち、3歳の時から父レオポルトから音楽理論や実技を徹底的に叩き込まれたといいます。

    しかし、徹底的に叩き込まれたといっても、スパルタ教育みたいな束縛して無理やりやらせるとかではなかったようです。

    どちらかといったら、5歳で小曲を作曲し8歳で交響曲を作曲したモーツァルトのよき理解者、讃美者だったといわれています。一緒にヨーロッパ中を旅する中でも、自分のやり方を押し付けるのではなく、出会った音楽家達の薫陶を受け才能を開花させていくモーツァルトを、嫉妬することなくその成長をよろこんでいたようです。

    父レオポルトが演奏して、モーツァルトに体感させる事からはじまる、環境要因、空間づくりというのは、モーツァルトを天才たらしめる感性を育成させるものだったのだと思います。

     

    やはり感性というのは、やらされて身につくものではなく、自分自身で体感して、からだをとおして愉しみを感じ、快の方向性に向くことから始まると思います。それがなければ、いくら遺伝子的に優れた才能を受け継いでいようとも、開花することなく埋もれてしまうと思うのです。

    生きる上での環境要因は重要だと思いますが、それよりもその環境をどのように想うかの方が重要だと思います。人から羨ましがられる環境にあっても、欲張り心が強く、いつも不平不満ばかりでは感性は磨かれず、才能や環境要因に恵まれていても宝の持ち腐れでしょう。生きる前に生かされて生きている訳ですから。

     

    操体にはバルの戒めというのがあります。これは「頑張るな」「威張るな」「欲張るな」「縛るな」という生かされて生きる上での戒めのことですが、往々にしてこれらの自分の我が、感じられるものを感じられなくしているし、受け取っていいよと差し出されているモノ(物ではなく)を受け取れなくしてしまっているのです。

    私たちは空間をとおして、森羅万象とその創造力の源ともつながりをもっていますが、バルの戒めで表されるような自分の我というのは、そういうつながりとか御縁というものを、自ら断ち切るようにしてしまうのです。

    感性というのは、生かされて生きる中で活きてくるものですから、バルの戒めというのは凄く重要であり、ゆめゆめ、努努、忘れ無きようにしたいものです。

     

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  • 感性と努力。

    こんにちは。

     

    今週は友松の担当となります。

    どうぞ宜しくお願い致します。

     

    今回のテーマは「感性」ということですが、感性と聞いてまず思い浮かんだのが、音楽や絵画といった芸術と呼ばれる分野の人達でした。

    そして、芸術の分野では、しばしば「天才」という表現が用いられます。音楽家のモーツァルトは、その典型ではないのでしょうか。

     

    モーツァルトは、5歳のときから作曲し、8歳のときには交響曲を、11歳のときにはオペラを書き、その作品は800曲以上にのぼるといわれます。そして、作曲に使った楽譜には、書き間違いがほとんどなく、名曲の数々は頭の中から湧き出るように生まれたといいます。まさに天才であり、生まれつきの才能というのを感じます。

    ですから、作品をつくるなかで苦悩するとか、努力するといった事とは無縁のように思われます。しかし、いくら閃きとか感性が豊かでも、感じたものがそのまま右から左に通り過ぎるだけでは創作にはつながりません。
    やはり努力は必要なのではないでしょうか。からだにききわけた、静かな汗をかくような努力。

     

    音楽プロデューサーの中野雄氏は、「モーツァルト天才の秘密」という著書の中で、このようなことを書かれています。

    モーツァルトは、群百の音楽家に比して、百倍も千倍も努力した人であった。ただ、彼はその”努力”を「つらい」とか、「もういやだ」と思わなかっただけの話である】

     

    豊かな才能は豊かな感性からであり、その感性からの才能は努力の賜物からなのだと思います。

    ちょっと意味合いが、おかしく感じられるかもしれません。それは、努力ということに関して一般的に、しんどいとか頑張るとかのイメージが強いからです。しかし、モーツァルトのした努力というのは、ちょっと違うのだと思います。

     

    そこで努力について考える必要がありますが、努力の「努」の字の由来から考えてみる事にします。「努」は「奴」と「力」でできています。「奴」の「又」は手を表す形であり、女を手で捕まえて奴隷にする事から、「めしつかい」「やっこ」「しもべ」など総じて「従う者」を意味しているといいます。

    そして「奴」に「力」(鋤)を加えて、農奴が農耕に努めることを意味する漢字が「努」となり、そこから「つとめる」とか「はげむ」という意味合いになっていったと言われています。

     

    努力の「努」が、奴隷からきていると考えると、なにかネガティブな気持ちになってしまいます。しかし、人間社会の枠の中だけで考える必要はないのだと思います。

    もっと違う観点から「従う者」の「力」というものを捉えればよいのではないでしょうか。

    自然法則に従うとか、原始感覚に従うとか、からだにききわけた快に従うとか、そういう絶対的なものに従って、もたらされる力、エネルギー。

    そういうふうに捉えれば、【モーツァルトは、群百の音楽家に比して、百倍も千倍も努力した人であった。ただ、彼はその”努力”を「つらい」とか、「もういやだ」と思わなかっただけの話である】という中野雄氏の文章も腑に落ちてきます。

     

    努力は愉しみ。それによって感性も豊かになる。からだをとおした操体の学びにつうじるものがあると思います。

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

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  • 感性を磨く とは

    よく「感性を磨く」という言い方をします。

    色々な体験をしたり、触れることで養われる感覚。

    また、センスのある「何か」に接触すると、自分自身の感性も感化され、変化していく。そういったイメージがまず浮かんできます。

     

    一方で、「感性の磨き方」には別の角度からのアプローチもあることを、操体を学んでいると感じます。

    と、いうよりも、操体でまず最初に学ぶ、からだの使い方、動かし方。

    そういったことの基礎は、実はそれがそのまま感性の豊かさへと直結しているものなのだと思う様になりました。

     

    もっと「ぶっちゃけ」てしまえば、感性を磨く方法は、からだの使い方や動かし方の基礎を学習することに「こそ」ある。

    それくらい大事なことがこの「からだ」には秘められていると感じています。

     

    では具体的に何を、どうしたらいいのでしょうか。

    実は、そういったことはこのブログの場でも既に語られています。

    なかでも「作法」という単語。この言葉には要注意です。

    「注意」というのは、「何かあるな」ということです。

     

    先日、南会津で行なわれた伝統療法カンファレンス。そのなかで行なわれた師匠のワークショップでも、超最新の最重要事項がなんてことのないような会話のなかにぽろぽろと放言されていて、弟子は結構驚きました。

    でも、あまりになんてことのないように聞こえてくるので、さらりと聞き流してしまう、なんてこともあるのではないかと思います。

     

    操体に興味をもってフォーラムに参加してみようと考えている方は、「作法」という言葉が出て来たら「ちょっと気をつけて」耳を傾けてみてください。

     

    「なんかよくわからないなぁ」と感じても、ちょっと一息ついて。

    そういう時にこそ、重要なヒントが含まれている可能性があることを思い起こしていただければと思います。

     

    一週間ありがとうございました。

    明日からは感性を言葉に置き換えて操体叙事詩を語る友松実行委員が登場します。

    おたのしみに。

     

    2016年11月23日(水)勤労感謝の日

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  • 灯り

    部屋の「灯り」の話です。

     

    夜、散歩をしていて、ふと、家の外から自宅を眺める。

    すると部屋の灯りがついていて中の様子が外から良く見えている、ことに気付く瞬間があります。

    目隠しのつもりでレース地のカーテンなどつけていても、以外と部屋の灯りがついていると外からは中の様子が見えている。

     人の家で目に入ってそれほど気にならないものが、自分の家だと新鮮に感じるものです。

     

    「ちょっと恥ずかしい」とその時は思い、そういうことは度々気付くのですが、普段家のなかにいるときにはすっかりそのことを忘れてしまっている時が多いように感じます。

     

    場面は変わって、例えば深夜の室内。

    ちょっと喉が渇いて、灯りを付けない暗闇のままの台所に向かう時。

    何気なく薄地のカーテンの閉まっている窓から外を眺めると、隣の家の電気がついていて予想以上にその様子が見えている、ということもあります。

     

    部屋の灯りがついている時にはまったく気付かないのですが、灯りが消えていて室内が暗いと、外の世界はまったく違う見え方に変化するんですね。

    当たり前のことではありますが、とても不思議に感じます。

     

    これを「からだ」のこととして眺めると、「臨床」にも似たようなところがあるような気がします。

     

    「操者」の方に「灯り」がついていると、逆に「相手」や「相手のからだ」からはこちらの様子がまる見え状態。

    逆に操者側の余計な「灯り」を消すことで、素直に見えてくるもの、見せてくれるものがある。

    似たようなことを、度々師匠から言われてきました。 

     

    この「灯り」に何が当てはまるかは、ご想像にお任せします。

     

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  • MASSA

    大好きなミュージシャンにMASSAというグループがあります。

    ご存知ヒカシューのメンバーとしても活躍している佐藤正治さん(パーカッション/ボーカル/ギター)と細井豊さん(キーボード/ピアノ/アコーディオンクロマチックハーモニカ)、太田恵資(バイオリン、ボイス)の三人組バンドです。

     

    最近ではNHKスペシャルで放映された「大アマゾン 最後の秘境」の音楽を佐藤さん率いるこのメンバーを中心に録音し話題になりました。

     

    www.nhk.or.jp

     

    ジャズ、ラテン、ロック、ポップ。

    そういった音楽のジャンル分けの通用しない、どこか彼方にあるようなサウンドを生みだすバンドです。

     

    紡ぎだされるサウンドの極上さは勿論ですが、MASSAのライブを観に行くと、「あぁ、からだも聴いているんだな」と感じます。

    そういう反応に意識の向く不思議な時間と空間。

    今では「私が聴きたいから行く」という気持ちと、「からだが聴きたいから足を運ぶ」という両方の目的を感じながらライブに通っています。 

     

    私自身、中学時代からずっと「音楽」好き。

    演奏活動もコツコツ続けて今に至ります。

    MASSAの生みだす時空間を体感していると、この長年好きだった「音楽」というものと、学んでいる「操体」を繋ぐヒントを見せてもらっているような。

    そんな気がしてきます。

     

    そして、今更ながら

    「音楽」って一体何なのだろう、という素朴な疑問が沸いてきます。

     

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  • 秋竜山

    大好きなマンガ家に秋竜山(1942〜)という方がいます。

    日本が誇るナンセンスマンガの巨匠。知ってるヒトは知っている存在です。

     

    定置網漁の漁師や郵便局員の仕事を経て、マンガ家になった興味深い経歴の持ち主でもあります。

     

    秋竜山の作品に「無人島1枚漫画」や「ナンセンスマンガ」という一コマ仕様の漫画があります。

    正確には「一枚の漫画」に「題」と「ひとコト」で構成されているマンガです。

     

    最初、「1枚マンガって何だ?一枚の絵じゃないのか?」と不思議に感じていましたが、なぜこの作品は「マンガ」なのか。そのことを朧げながらですが感じ始めています。

     

    氏は一枚の絵のなかに「動き」を含ませて作品にしているのではないかと思っています。

    一枚の絵をきっかけに、動き出す。

     

    その「動き」というのは、それを観た人のアタマのなかに起こるもの。

    氏は観る人のなかに起こるこの「変化」の存在を、最初から作品の重要な一要素に含めながら創作をしているのではないかということです。

     

    敢えて最小限度のコマ数と、ヒントだけを残して、あとは委ねるという姿勢。

    こういうことは、「できている」ようでいて、実はなかなかできないことなのではないかと思います。

     

    そして、氏の作品から感じるこの創作姿勢の根っこには、「からだを診る」という姿勢に相通ずる部分があるように感じるのです。

     

    現在も現役バリバリ。週一のペースで新作が更新され続けています。

    秋竜山マンガ館

     

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    秋季東京操体フォーラム開催!

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