味わい尽くそうとして、
甘さ、辛さ、酸っぱさ、塩辛さをいっぺんに口にしたところで、
かえって味わい尽くせない。
全てを聞き取ろうとして一度に五つの音(声)を聞こうとしても
聞き取れるものではない。
学びもそうだと思う。
内なるものを大切に目に見えるカタチや刺激に囚われないことだ。

味わい尽くそうとして、
甘さ、辛さ、酸っぱさ、塩辛さをいっぺんに口にしたところで、
かえって味わい尽くせない。
全てを聞き取ろうとして一度に五つの音(声)を聞こうとしても
聞き取れるものではない。
学びもそうだと思う。
内なるものを大切に目に見えるカタチや刺激に囚われないことだ。

精気に満ち満ちているとはどういうことだろう。
赤ん坊はセックスのセの字も知らぬのに
おチンチンは、ピーンと上を向いている。
まだ骨も弱く、筋力もないのにそれでも、ギュと握ってくる。
一日中泣き叫んでも、声が枯れることはない。
なぜだろう。
生命エネルギーの精気に満ちているからである。
人間は赤ん坊から元気をいただいている。

玄同とは、なかなか気安く近づけない。
かといって、むげに遠ざけ、よそよそしくもできない。
利益を与えることもできない。
危害を加えることもできない。
拝むこともできなければ、蔑むこともできない。
だからこそ価値を超えた価値がある。

あえて、あえて、困難や苦労に直面しないで済む生き方があるという。
それは、ことにあたり(1日の生き方)用心深く、
小さなことから真剣に取り組むことだというのだ。
安易に取りかかる人ほど面倒なことを起こす。
安請け合いをするから失敗する。信用されない。
なぜなら、余計な作為を持ち込んで無理をするからである。

今日から七日間、三浦が担当いたします。
今年もよろしくお願いいたします。
一年のはじめにブログが巡ってくるというのも、ありがたいご縁です。昨年はアッという間でした。「ッ」まで伸ばせぬほど、「ア」でした。
年の初めに目標を立てるということは、
この方やったためしがないが、
自分のやることを日々、積み重ねていくと
重ねていることが結果として、「これがそうだったのか!一年の目標だったのか!」とわかることがある。
その目標は、何年も継続することもある。
人生の目標は、
あとからついてくる、
ついてきてわかるということもあるんじゃないかな。
目標を達成したいとみんながそう思って、努める。
その努め方は、小魚を煮る時のように、いたずらにかき回さぬこと。
いたずらにつつくほど、形が崩れてしまう。
形が崩れると目標が見えなくなってしまうということだ。

ある人から電話が来るのですが、
「もしかして透視でもされてるのではないか?」と思う位、タイミングが悪い時にかかってくるのです。
間がちょっと悪い。
例えば
などなど
結構「何故今だ?」という時に限ってかかってくるのです。
後に分かったのですが、この人は、メンタル的にアップダウンが激しく、たまにものすごく落ち込んだり、逆にすごくポジティブになったりすることがあったのですが、聞いてみると、
「電話しようかな、でもいまかけたら迷惑かな」と悩むそうで(別に悩む必要はないのですが、どこで悩んでしまうのだそうです)ひとしきり悩んだ挙げ句に私に電話をかけると、私にとっては「すごく間が悪い」時にかかってくる、という現象が起こります。
それも一度や二度ではなく、しょっちゅうなのです。
その後、ある人にこの話をしたところ、
「それはね、考えすぎるからだよ。考えすぎてアクションを起こすと間が悪くなるんじゃない。ワタシもそれは経験したことがある」
という答えを得ました。
人間の意識というのは、深いところで(潜在意識)で繋がっているので、そういうこともあるんだろうな、と思いました。特に、精神的にアップダウンが激しい時というのは、潜在意識というか、そういうものにアクセスしやすいのかもしれません。
巫女さんの憑依現象は一種のヒステリーという話もありますよね。
「間の良し悪し」というのは本当に不思議なものです。
一週間ありがとうございました。新年の最初の7日を清々しい気持ちで?書くことができました。
明日からは、我らが師匠、三浦寛先生です。
畠山裕美

東京操体フォーラム実行委員のブログですから、やはり「たわめの間」について書いておくことにしましょう。
武術では「いつき」とか「いつく」という言葉を使います。
例えば、相手にワザをかける、あるいは斬り込む場合「さあやるぞ」というのがバレてはいけません。
そういう場合は、いきなりというか、突然、相手に悟られないように動作を発します。
その「さあやるぞ感が丸見え」なのを「いつきがある」とか言います。
これは一種の「迷い」でもあるかもしれません。
「たわめる」で思い出すのは、猫の「たわめ」です。
これは「たわめ」と言っていいのかどうかわかりませんが、猫をねこじゃらしや、おもちゃ、あるいは自分の指先などで注意をひくと、猫は戦闘態勢?に入り、からだを低くして注目します。目はまん丸になって、黒目がちになり、背中の皮が波打ち、集中しているのがわかります。
そこで、もう少し注意をひくと、猫は瞬時にねこじゃらしや指に飛びかかってくるのですが、つくづく「たわめてるなぁ」と思います。
また、遊んでいて猫の「たわめ」が長すぎ、こちらが飽きてしまうこともあります。
武術で言えば「いつきすぎ」です。
しかも、飛びかかってくる瞬間は、目が変わるので、バレバレなのです。

じ~っと見てます。。
自分に関係のある数字って、結構目に入ってきます。
私は5月19日生まれなので19という文字は目に付きます。
ちなみに、19というのは、1と9という、一桁の数字の最初と最後の数ということで、両の端とか、松岡正剛先生言うところの「デュアル・スタンダード」(敢えて「ダブル・スタンダード」ではない)のようなものを秘めているようです。
日本の「デュアル・スタンダード」というのはどういうことでしょう。
http://dentsu-ho.com/articles/2096
例えば日本は、禅寺の庭園に象徴されるような、あるいは文字数を極限まで減らした俳句などのように「シンプルの極み」のようなものもあるけれど(これを弥生的というそうです。引き算)、祭りの山車や歌舞伎、お寺でも絢爛豪華で婆娑羅的で華美なもの(これを縄文的というそうです。足し算)。
考えてみれば、どちらも「日本」です。確かに縄文と弥生と考えると面白いのですが、私達はこの「シンプルの極み」「華美の極み」の間を流れてきたわけです。
この「デュアル」な感じが「間」の面白味なのかもしれません。

四日目。
三が日も明けましたので。
いきなり「間男」と行きましょう。
間男というのは、いわゆる結婚している女性と関係を持つ男性を指します。
フランス語で「コキュ」というそうで、文学の一ジャンルにもなっているそうです。
「寝取られ男」というヤツですね。
落語とか小説とか、あらゆる文学のネタになっているといってもいいでしょう。
あるジョークで、
男Aが妻の浮気現場を押さえようとして、昼休みに家に帰ると、窓から服を着ながら走って逃げる男Bがいたので、箪笥(たんす)を投げたところ、見事に男B当たり、男Bは死んでしまいます。
男Aは慌てていたので、窓から落ちて死んでしまいます。
さて、天国の入り口で天使が男Aと男Bに話を聞いています。
男A なんだか分かりませんが、窓から落ちて死んでしまいました。
天使 はい、天国へどうぞ
男B 昼寝をしていて起きたら昼休みが終わっていて、慌てて外を走っていたら、死んでしまいました
天使 はい、天国へどうぞ
そこに男Cが登場します
天使 どうしたんですか?
男C 箪笥に入っていたら、何故か死んでしまいました。
はい「間男」のジョークでした。。。

瑞鳳殿のお獅子。
お正月も三日となりました。
たまにドーナツを食べます。
最近コンビニでも売っていますが、やはり揚げてから時間がたつと、微妙に油臭くて美味しくない。
やはり揚げたてが一番です。
さて、マではないですが、なんでドーナツって穴があいてるんでしょう。
一節によると、お母さんが揚げたドーナツの真ん中がまだ生だったので、息子が文句を言ったところ
「それなら真ん中を食べるな」と、真ん中をくりぬいた説や、火の通りをよくするために穴を開けたという説があります。
ドーナツの穴については、学術的に真面目に研究をしている人達もいるし、大阪大学(阪大)では、「ドーナツを穴だけ残して食べる方法」という本まで出ています。
ドーナツを穴だけ残して食べる方法 越境する学問―穴からのぞく大学講義
こちらは穴ですが、どらやきは「皮の間にあんこを挟む」という「間」のお菓子です。
日本人は「何かになぞらえる」のが結構好きですよね。
どら焼きのどらとは、楽器の銅鑼(どら)からきています。
銅鑼というと「丸くて大きくて分厚い」という感じがします。
銅鑼のように丸くて分厚い皮と皮の間にあんこをはさんだものが、どらやきです。
不思議なのは、皮だけでは何ですし、あんこだけでもなんだかなぁ、という感じがします。
皮と皮の間にあんこがはさまっていて、どら焼きなのです。
この「間」に挟む、というところがどら焼きなのです。
ちなみに、上野と日本橋に「うさぎ屋」というどら焼き屋さんがあります。
最近は「お取り寄せ」通販で、色々なお菓子を取り寄せることができますが、こちらは日もちがしないため、発送はしてくれません。
食べたかったら買いに行くしかないのです。
私はたまたま、日本橋に勤めていたため、うさぎ屋さんによくどら焼きを買いに行きました。
買いに行くといっても、夕方になって売り切れたら店じまいなので、予約したりします。
ここのどら焼きを最初に食べた時は、とても感動しました。
いわゆる「普通のどら焼き」とは、あんこのみずみずしさが異なるのです。
そして、なんとなくですが、どらやきの皮と皮の間のあんこにも、なにか素敵なものがはさまっている感じがするのです。
チャンスがあったら、この素敵な「間」を味わってみてください。
