1)60点でいいから
・何とか合格すればいい
・生き延びられたらいい
2)正鵠を射る
・そのものズバリ
・間髪を入れず
3)ブリコラージュ
・あり合わせの道具材料を用いて、自分の手で物をつくる
・日曜大工
4)都合をつける
・埋め合わせる、ゆずってもらう
・急ぐ、伸ばす
5)限度内に納める
・バランス
・間尺に合わせる
1)60点でいいから
・何とか合格すればいい
・生き延びられたらいい
2)正鵠を射る
・そのものズバリ
・間髪を入れず
3)ブリコラージュ
・あり合わせの道具材料を用いて、自分の手で物をつくる
・日曜大工
4)都合をつける
・埋め合わせる、ゆずってもらう
・急ぐ、伸ばす
5)限度内に納める
・バランス
・間尺に合わせる
昨日まで日常空間にある様々な「マ」について書いてきましたが、人体にも数多くの空間が在ります。
例えば手足の指と指の間にある空間。
これらが在る理由をシンプルに考えてみれば答えは単純ですが、この隙間が一つ一つ異なり、そして左右非対称性であることはこの隙間一つ一つにも何か大きな意味がありように思います。
臨床を通していても手の指、足の指、そしてその隙間というのは何一つ同じというのはなく個性を持っていて、それらが訴えている症状・疾患とどのように関係しているのかを考えていくと臨床も更に面白いものになっていきます。
また個人的に面白いと思っているのが脇と肘にある空間です。
操体の学びの中でも「脇を締める」ことを指導していますが、これらの空間もその人自身のからだの向き合い方、そして生き方そのものを忠実に表わしているようにも見えます。
このように捉えていくと人体にある隙間とは人の心の状態と大きな関係があり大切な診断ポイントのように思います。
先日まで書いた空間との向き合い方も含めて臨床の中で診ていく必要があるのではないでしょうか?
一週間どうもお付き合い頂きどうもありがとうございました。
明日からは半蔵さんの出番です。お愉しみに!
TVや映画、スポーツ選手、また知り合って「いいな」「カッコイイな」と思う人達は年齢に関係なく独特の雰囲気、間(マ)を持っています。
例えば野球のピッチャーとバッターを見ていると、一球一球投じるまでの間に端から見ているだけではわからない様々な駆け引きが行われています。
その駆け引きの間にいかに相手を読み、自分の間合いに持ち込めるかが勝負の分かれ道になっているように見えますが、しかし本当の一流選手を見ていると、その間合いの中で向き合っているのは相手ではなく自分自身のようにも感じます。
それは誰かから教えわったりして身に付く技術的なものではなく、自分がやっていること、そして取り組んでいることに対する姿勢がそういった一流選手の間合いを作っているのかもしれません。
操体の学びを通して繋がっている一流の人達も真似をしようにも決して真似をすることが出来ない一流のマ(間)と雰囲気を持っていて、それは自分がやっていることに対する姿勢がそのまま独特の間(マ)として出ています。
そういったことは三浦先生や東京操体フォーラムの実行委員の方達を見ていても感じる事で、一流になればなるほど「人と何かを比較する」のではなく、常に自分自身、そして目には見えない神仏と向き合っているように見えます。
私達はスポーツ選手とは異なり競うことはありませんが、「結果を出す」ということにおいては同じですので、そこで何と向き合うかはとても大切なことだと思います。
患者と向き合うのか?またはからだと向き合うのか?もしくは自分自身と向き合うのか?自分を生かしてくれている目には見えない空間と向き合うのか?
これらの向き合い方次第で自分の生き方も大きく変わってくると思います。
去年の話になりますが、講習の時に「雑巾の絞り方」について話題になりました。
これは橋本先生の著書でも書かれていますが、雑巾を絞る時には操体の身体運動の法則の「手は小指、足は親趾」に適うように縦持ちで脇を締めて雑巾を絞るのが原則となります。
それが横持ちにしてしまうと親指が利き、脇が開き、肩が挙がってしまうため、からだは緊張しボディの歪みに繋がっていきます。
幸い、この機会に受講生の「からだの日常動作の誤り」に気付き改善することが出来ましたが、こういった根底の部分に間違いにあると、それをいくら応用し実践していっても後々の学びに繋がっていかない怖さがあります。
それは自身の学びでも気を付けなければならないことで、得た知識とそれを実践していくことにおいて、両者に「隙間」が出来てしまうとやっていることの方向性にブレが生じてきてしまうように思います。
そういったことが一つのきっかけで、実際に私自身も得たことに対して頭の中だけではなく、からだの使い方・動かし方、全て洗い流す作業をしています。
その中で得た「これだ!!」という新たに感覚的に掴んだことに対して時間の経過と共に「本当にこれでよかったのか?」と問いかけ続けることで、また新しい自分と出会えるような気がしています。
先週の週間ポストで「長生きする性格」と「早死にする性格」という記事がありました。
その記事の中では心臓疾患患者に共通する性格は「せっかちで競争心が強い」と書かれています。
これはカリフォルニア州で働く39歳から59歳の男性を対象に心臓疾患の発生率を調査した結果から分かったことらしいのですが、これらのタイプの人がそうでない人と比べ心筋梗塞の発症率が2.12倍、狭心症では2.4倍も高かったそうです。
この研究結果から時間(マ)に対する強迫観念がこれらの病と密な関係にあるという仮設が立てられています。
こういったことからも私達の生命活動の中で切っても切り離せない「時間」という「マ」と健康とは密な関係にあるということが分かります。
私も操体の学びや臨床を通す中で感じるのは「自分が生活空間の中で何と向き合っているのか?」でからだの状態は大きく変化するということです。
特に「時間」のように誰にでも平等に与えられているものの使い方・活かし方は病と大きく関係しているように思います。
そういった普段意識の向かない「当たり前」にあるものに少しでも目を向けていくことも自己責任を全うしていく上で大切なことではないでしょうか?
先日、久しぶりに電車に乗ったのですが、ここでも人はちょっとした「MA(間)」を取っていることに気が付きました。
最初に気が付いたのは席の座り方です。ほとんどの人は誰も座っていなければ、まず両端の席に座ろうとします。そして両端が埋まると一席、二席分空けて座りだします。
それは立っている人にも同様の事が言えて最初に埋まるのは出入り口の両端で、そこが埋まっていると次に端の方から埋まっていっているように見えます。
また、こういったパーソナルスペースの研究の中には男性トイレを対象にどの位置の便器を使用するか、また前客が居た場合はどれだけの時間使用するかという研究もされているようです。
その研究結果によると前客がいない場合は一番奥から使用され、前客がいた場合使用時間が長くなるということでした。
こういった研究結果からも人は自分以外の物や人とある一定の距離や時間を確保することで身心の安定を図ろうとしていることが分かります。
それは臨床を通していても分かることで、クライアントとの距離(マ)というのもからだの治癒力を引き出す上でとても大切なことです。
特に初診のクライアントの方には心とからだとの距離、会話の「間」、臨床の「間」、それぞれに近すぎず遠すぎずの程好い「マ」を持つようにしています。
その「間」の図り方というのも臨床のスキルの一つであり、決してそれは人から教わって身に付くものではない感覚的なもののように思います。
現在、私達が操体から得ている学びも、そういった感覚を学ぶということであり、言い換えれば「マ」を学ぶということなのです。
去年の話になりますが話題になった「君の名は」を観に行きました。こういった身近な所にも様々な「MA」があることに気が付きました。
最近は映画館に行く習慣がなかったので知らなかったのですが、一昔に比べ座席の間取りのゆとりが充実しているように感じました。それは接客も含め、映画館側の一人一人が映画を介し「MA(マ)」を愉しむためのサービスが一昔と比べ格段に向上しているのだと思います。
また始まる前に次の映画の宣伝が流れていますが、一つ一つの宣伝の間に絶妙な「MA(マ)」があります。この「マ」の間に私達に「この映画面白そう」「これは観に行きたい」等と考える時間を与えてくれているように思います。
そしてこの映画でも時間を題材にしていて、とても考えさせられる内容でした。インターネットや評論家の間では面白い、面白くないと評価は様々ですが、個人的には「今を生きる」や「時をかける少女」等、時間を題材にし、色々考えさせてくれる映画やアニメが好きなので面白かったです。
振り合えると昔から時間をテーマにした漫画や映画に興味を持ちずっと観てきたように思います。
タイムマシーンや風呂敷を使って過去や未来に行く漫画や映画にロマンを感じながら現在に至りますが、今になって感じるのはそういったものを題材として用いるのも私達と共にある時間、空間という「MA」というものの尊さ、大切さを伝えたいからであり、私達にとっての永遠のテーマだからなのだと思います。
三浦先生、一週間ありがとうございました。
今週から三浦寛幸が担当致します。よろしくお願い致します。
皆様、正月はどのように過ごされましたか?
私は新年早々操体の講習と夜のバイトで普段と変わらぬ一日を過ごしました。
特別に何か「変わったこと」と言えば、講習が終わり晩御飯を家族で頂く前に父から「今年も一年健康に過ごすように」と頂いた言葉がとても印象的でした。
私の家では新年を迎えるとまず両親に挨拶をして、父から新年の言葉を頂いてから母が作ったお節とお雑煮に食べ、他愛のない話をすることが恒例となっています。
そんな時間が私にとって一年をスタートする上での特別な「MA(マ)」であり、何か特別な儀式のなっている気がします。
今年はそういった特別な時間が例年よりも取れませんでしたが、逆にそのおかげで夕飯時に父から頂いた一言が今まで以上に響いてきました。
歳を重ね家族との時間が年々減っていく中で、今年は自分と向き合う時間だけでなく家族と向き合う時間も大切にしていきたいと思っています。
松岡正剛先生の言葉に
「わかる」とは「変わる」ことで、
「わかったこと」が変化することだと…
私はその言葉をとても大切にしている。
「わかった」からといって
それで終わりということではなく、
始まりなんだネ。
「わかる」ということが「かわる」ということなら、
その何がどう変わるのかを
じっくりと、興味深く、学び続けていくことだ。
わかったことが変化して、とけていく。
わかったことが、さらにとけてくると
意識が変わる。
その意識の中から、新たな言葉が生まれる。
その言葉の先に、まだ何かがある。

今まで50年間、
読み取ってきた操体の景色が
一瞬に別の景色に様変わりしてしまった。
これだけ様変わりする展開をみていると、
学んできたことの筋道が明晰に捉えることができる。
よりあきらかに、クリアに、 スッキリ展望できるようになった。
ありのまんまの姿を見ることができた。
なぜ今までそのような解釈が平然と成り立ってきたのか。
成り立つ根底には、
何をみてきたのか。
何をみていたのかが、よくわかる。
今までの定義から離れ、
その解釈を新たに丸ごと、
生かす時代が
やっときたという思いがする。
