投機という言葉がある
人はあなたのことを知れば知るほど
好きになるものなのだ
心を投げかけ、心に思うことを素直に言いあう
素直に思いを伝える
「没交渉」
ぼっこうしょうと読むのではない
「もつこうしょう」と読む
互いの対立点を解消し
互いの悪には避け
それを実行するために
よく話し合うこと

一無位(いちむい)の真人(しんじん)
人は
生涯自分から離れることはできない
そんな自分には一無位の真人が眠っている
一とは普遍的で絶対のもの
無位とは物事にとらわれない
嘘、偽りのない
全てを正しく理解している真人が
自分自身のうちに眠っているのだ
ある操体法の発表の場で
モデルを使い実技が行われていた
その実技は危険きわまる指導だった
からだを
「後屈に取らせたまま、全身の力を瞬時に抜く」ように
指導していたのである
いったい、そのような教えを
誰に受けたのかは知らぬが
危険きわまりない
被害者がでてもおかしくない
「好き勝手の我」が
のさばるようでは、先はみえない
指導するということは
細心の注意が必要だ

人は生涯
「自分から離れる」ことはできない
それは生涯
「自分として生きていく以外にない」ということである
日々精一杯生きていくことで
心が飢えることはない
自分を知り尽くすこととは学ぶこと
学び続けることは、自分を大切にすることに通じている
すると、ものまでも大切にするようになる
ものは道具だが具足ともいう
そうやって美しく齢を重ねていけばよい

今日から七日間、三浦が担当いたします。
どうぞよろしくお願いいたします。
人生には
朝、目覚めて
「今日は何をしようか」と思っているうちに
明けてしまうような「暇つぶし」もある
しかし、暇つぶしにも、
「極上の暇つぶし」がある
極上のそれとは
王道をきわめること
その道をきわめることである
きわめるには
生涯一貫して自分を知り尽くすことだ
こんな素晴らしい暇つぶしはない
人生は一日として同じ日はないのである
自分はどうしたら「美しく齢を重ねられるのか」
これ、極上の暇つぶしに通じる
生涯をかけ、自分を知り尽くす
これこそ極道の暇つぶしである
人は年を重ねていくうちに
人相がよくなる人と悪くなる人がいる
これを「面相」という
年と共に並でない顔を作るには
「知恵と教養」を身につけていくしかない

一般的にはプロと言われている人でも、あまり惹かれない人もいる。
一方、プロの中でも特別惹かれる人がいる。
私がそう感じる人に共通するのは、
生き方、生活がそのまま仕事になっているような人である。
やらずにはいられないことをやっている人。
からだの奥底、こころの奥底の声、それが微かでも、それを大切にして、それに従い生きている。
名声や成功、世間や周囲の評価に惑わされず、その声を大事にしようと耳を傾け、ことをなし続ける。
その行為が仕事となり、プロと呼ばれ、プロとして第一線で輝き続ける。
そんな人が本物のプロだと、私は感じる。
1週間ありがとうございました。
明日からは、本物のプロ、三浦寛先生です。
よろしくお願い致します。
今、プロであったとしても、数年後にプロでなくなっている、ということもある。
プロであり続ける為には、変化し続けること。
時には今まで積み重ねてきたことを捨て、新しいことに取り組むことも厭わない。
変化する柔軟さがある。
変化し続けるためには、現状に疑問をもつこと。
問い掛け続ける。
そして自ら変化を生み出し、創造していく。
それを今、傍で見せていただき、肌で感じている。
「動きに搾取がある」
これは、私が先生に指導していただいた言葉の一つである。
しばらく前に言われたことであったが、今も響き続けている。
私の搾取しようとする心に響いているのである。
自分の人生の中で、搾取、小手先、誤魔化しで凌いできた場面があった。
それでなんとかなってきた面があった。
というよりは、ツケを回していただけなのであった。
いつの間にか、それがからだに染みついてしまっていたようである。
しかし、プロには誤魔化せない。
それはプロには搾取がないからなのではないか。
純粋なのだと思う。
他人にはもちろん、自分に対しても。
そして妥協がない。
今は毎日、からだに染みついた垢落としの日々である。
プロは難しいことでも簡単にやる。
簡単にやっているようにみえるので、自分もできそうだと思い、実際にやってみるが、どうもうまくできない。
人ができない技術を持っているのがプロ。
人ができないことを「当たり前」のようにする。
しかし、それと同時に、
凡人にとっては当たり前すぎて見過ごすようなごく日常的な『当たり前』のことを大切にしている。
一つ一つのことを蔑ろにせず、大切にしている。
それに倣い、今、日常の毎日繰り返される一つ一つの動作を見つめなおしてみる。