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  • オーバーヒートより。

    おはようございます。

     

    今週は友松が担当いたします。どうぞ宜しくお願い致します。

    今回のテーマは「ミタテ」です。

     

    最近は雨や曇りの日が多く、夏だというのに肌寒い日もありますね。今年の夏は暑くなると言われていたのに、去年のほうが暑かったように感じます。

    そういえば、去年は車がオーバーヒートして、一か月ぐらい不便なおもいをしていましたっけ。

    田舎なものですから車がないと何をするのでも不便なのです。

     

    なぜ、一か月も不便なおもいをしたか。それはミタテと関係していました。

    はじめにオーバーヒートした時は、ウォーターポンプやファンベルトなどのパーツを交換すれば大丈夫とのことだった。

     

    しかし、整備が済んでテスト走行も終え「バッチリです」と納車された車は、1キロも走らないうちに再度オーバーヒート。

    ミタテが甘かったということだろうか。

     

    ある程度の年数を経てくると、その他の部品も同じように劣化が見通せる。ゴムやプラスティックを含むパーツは特にそうだ。その時はなんとか間に合っていても、時間、空間のかかわりのなかでエントロピーが増大してしまっている。

     

    点検しなおすと、今度はファンが破損して回っていないとのことだった。初めの点検では、ここも異常はなく、テスト走行でも不具合はなかったとの事。

     

    しかし、私が乗ったら壊れてしまった。間が悪いというか、このタイミングで壊れると道路の他の車両にも迷惑をかけるし、レッカーも呼ばなければならない。

    修理するにしても、壊れたパーツを取り出すのに、また最初と同じように他のパーツも取り外さなければならない。手間もかかるし、その分工賃も上乗せされる。

     

    はじめに、ファンも破損するだろうとミタテて、一緒に修理しておけば、手間もかからず、費用も嵩まなかったのに。

    その時の目に見える状態だけでなく、他との相関関係によって、どう変わるかをミタテる。それが肝要だと思います。

     

  • 日誌

    操体の世界に足を踏み入れてから

    ひとつの「習慣」が増えた。

    それは「日誌」を書くことだ。

     

    この日誌は、日々少しでもいいから書き、

    また書き続けることを師匠から勧められてきた。

     

    それを勧める師匠自身のノートは

    日々書き込まれ続けてきた結果膨らんで、

    通常の厚みの何倍も分厚くなっている。 

     

    言葉よりも態度で伝わるもの。

    そんな姿勢を目の当たりにしながら

    続けてきたことだ。

     

    (恐らく操体に関しては、銀河一学んでいる

    スーパーバイザーに「ヂカアタリ」してみたい方、

    ちょうどいい機会がやってきます)

    2017年 新規操体法特別講習会開催「40周年記念特別養成コース」

    www.sotai-miura.com

     

    日誌を書くことを通して、

    日々の「自分」と向き合い、

    また微妙な違いの様に感じられるかもしれないが

    「自分自身」と向き合うことができる。

     

    ノート一冊に、ペン一本。

    そして空間。

     

    このシンプルな存在が

    大切なミタテの場を与えてくれている。

     

    一週間のお付き合い、ありがとうございました。

    明日からは操体の「吟遊詩人」友松実行委員の「ミタテ」が始まります。

    おたのしみに。

  • 「だけ」のリスク

    「当たり前」なこと。

    「普通」なこと。

     

    日常を何気なく支えているこうした存在へ

    少しだけでも意識を向けてみれば、

    いまのこの状況は「当たり前」でも「普通」でも ないのではないかと感じられてくる。

     

    「そんなことは『当たり前』であり、『普通』である」

     

    と断言できるのは、

    恐らく、目に見えるモノだけを材料にして

    判断しているからではないかと思う。

     

    一方で、

    「目に見えるモノだけ」は

    「自分の目に見えているモノだけ」なので、

    ほんの一部の材料から見立てていることになる。

     

    本当の支えになっている素材の

    こぼれてしまっている状況で

    見立てをしなければならないのは、

    もしかしたら、相当のリスクを

    自分に背負わせていることなのではないかと思う。

  • 身立て(ミタテ)

    操体は「からだ」の要求を診立てる。

    そして、その要求に素直に応える。

     

    同時に、 その人の普段の「生き方」、

    日常どんな「ミタテ」を行いながら生きているか。

    そんなことも診ている。

     

    操体臨床の空間は、

    「からだの要求に適う、こんな『ミタテ方』があるんですよ」

    と、経験し、紹介する場にもなっている。

     

    からだの要求に応える空間を味わった上で、

    本人が今後の生活でどんな「身立て(ミタテ)」を成していくか。

     

    その点ばかりは、本人の意志に委ねられている。

  • 診て、みえてくるもの

    その人の生き方は、

    その人の「からだ」に現れている。

     

    臨床家がからだを「診る」ということは、

    その人のからだを通して、

    その人の「生き方」を診ること。

     

    そして、その生き方を通して

    その人が普段どんな「ミタテ方」をしているのかを

    知ることにもつながる。

  • 生き方(いきかた)

    日常生活は「ミタテ」の連続である。

     

    何気なく送る生活のなかで

    目の前の状況を

    判断(診断)し、その結果をもとに

    行動に移る。

     

    ひとつの捉え方として、

    その人の「生き方(いきかた)」は

    その人の「ミタテ方(みたてかた)」

    そのもののようにも思えてくる。

  • 楽か、辛いか

    操体を学び始める前、 自分の頭のなかにどんな言葉が鳴り響いていたか。

    当時の生活を思い出しながら

    どんな言葉を使っていたか、振り返ってみれば、

     

    「どっちのほうがいいかな〜」

    「こっちのやり方の方が楽だよね」

     

    こんなことを、何気ない日々のなかで考えながら生きていたように思います。

    当たり前の様に「判断」や「選択」に迷う。

    そんなことも多かったなぁと思います。

     

    アタマのなかで 

    「どちらか」や「楽」といったキーワードが現れる機会は

    今では珍しくなりました。

     

    日常生活で、

    「どちらの方が楽ですか、辛いですか」と自分に問いかける

    「第一分析」を使わなければいけないことが

    減ってきたのかもしれません。

  • 肩入れ

    瀧澤さん一週間ありがとうございました。

    今日からは一週間寺本が担当します。

    今回のテーマは「ミタテ」です。

    宜しくお願い致します。

     

    「診立て(診断)」というと、「臨床」の世界を思い浮かべますが、

    よくよく考えてみれば私たちは、常にある種の「診立て」をしながら

    瞬間瞬間を生きているような気がします。

     

    「お腹が減ったなぁ…、何を食べようかな」

    「これ欲しいな…、でも結構高いな」

    「〜さんに誘われたけど、どうしようかな」

     

    アタマのなかで交わされている自分の言葉。

     

    その会話のような独り言に

    「からだ」からの言葉はほとんど聞こえてこない。

    もしくは聞こえていないフリをしてしまう。

     

    日常のなかに溢れている診立ての瞬間に、

    気付かない内に、随分と「自分」ばかりに

    肩入れしているのではないかと思います。

  • 「診立て」の前の「見立て」

    空間に余白があるように、自分自身の内側にも余白が
    あります。空間の余白に見立てたものは、自分自身の
    内側の余白にも息づいている、そんなふうに感じてい
    ます。

    意識飛びという現象(瞬間的におちる深い眠り)を体
    験すると、空間の余白も自分自身の内側の余白も同時
    に「息」で満たされているような感覚になります。

    それが治癒に、健康維持につながっていると実感して
    います。

    「診立て」の前には「見立て」があるのです。

    一週間ありがとうございます。
    明日からは寺本実行委員の「ミタテ」です。
    どんな世界が広がるのでしょうか。
    よろしくお願い致します。

  • 空白

    臨床における空間の空白を空白として生かすというこ
    とに関心があります。

    「これだけ勉強してきた」「これだけ臨床してきた」
    という想いから生まれる診立てや「治してほしい」と
    いう欲求で空白を埋め尽くしたくはありません。

    「自分はこうしたい」、「自分はこうされたい」とい
    う「想」の前に、あるがままを受け取る「息」で空間
    を満たしたいと思っています。