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  • みたて(4)

    見立ての秘法というわけではありませんが、私のやり方をご紹介しましょう。

    それは「性別を捨て去る」ということです。

     

    そういう気持ちになって、初めて見えるコトがあります。

     

    どうしても「母の論理」「父の論理」で動きがちです。

     

    私は「女のくせに」という言葉が嫌いです。

    「男のくせに」というのも嫌いです。

     

     

    人間として、向き合ってこその見立てです。

     

     

     

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    さんまの刺身。最高です

  • みたて(3)

    さて、そろそろ操体的な見立て、について入って行きましょう。

     

    操体に限らず、手技療法家に求められるのは「想像力」と「観察力」です。

     

    それが足りないと思うのならば、2時間ドラマとか「相棒」を観てもいいかもしれません。

     

     

     

  • みたて(2)

    (5)似た別のもので、そのものをたとえること。
     
    診立て、と言えば
    (1)判断鑑定診断
     
    ですが「見立て」というと、
    (5)似た別のもので、そのものをたとえること。
    を連想します。
     
    松岡正剛先生が、あるインタビューで
    子供の遊びのほとんどが、ごっこ遊び、しりとり、宝探しという三つの型にあるとすると、ここに、生命や歴史や文化の学び方の基本があるだろうと感じますね。」と話しています。
    (編集工学のお話です)
    この「ごっこ遊び」が、いわゆる見立てです。
     
     

     

    知の編集工学 (朝日文庫)

    知の編集工学 (朝日文庫)

     

     

  • みたて。(初日)

    こんにちは。畠山裕美です。
    一週間よろしくお願い致します。
     
    今回のテーマは「みたて」ということですが、臨床の際の「診立て」を考えることは当然なので、少し別の方面から
    行ってみたいと思います。
    「見立て」という言葉を「歴史民俗用語事典」というので調べてみると
     
     
    読み方:ミタテ(mitate)
     
    (1)判断鑑定診断
     
    (2)思いつき趣向
     
    (3)見送り
     
    (4)遊里で客が相方あいかた遊女を選ぶこと。
     
    (5)似た別のもので、そのものをたとえること。
     
    という意味があると書いてあります。
    私達が普通使うのは(1)の、判断、鑑定、診断のことですね。
     
    私は占筮もやりますので、「鑑定」も見立てに入っているのは、なるほど、と思いました。
    美術品も宝石も「鑑定」と言いますよね。
    (2)とか(3)も何となくわかります。
    (4)も、何となくわかります。
    言葉はよくないかもしれませんが、鑑定というか、どの子がいいか、品定めをしている
    わけです。
    (5)についてはまた明日。
     

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  • 自然からしてみれば。

    おはようございます。

     

    今回の担当も最終日となりました。

    今回のテーマは「ミタテ」ということで、お付き合いいただいております。

     

    昨日は、重力場とか量子といったことに、ちょっとだけ触れました。

    これは、先日行われた操体曼荼羅で、三浦寛先生が紹介していた「世の中ががらりと変わって見える物理の本」という書籍を参考にしました。 

    世の中ががらりと変わって見える物理の本

    世の中ががらりと変わって見える物理の本

     

     
    この本は、物理学の本としては大変読みやすい本だと思います。

    昔の物理学の本というと、すぐに数式が出てきたり、難しい言葉も多く、数式の記号の意味や言葉の意味を調べているうちに「あれっ、何をやろうとしていたのだっけ?」となってしまったり、非常に取っ付き難いものという印象がありました。

     

    しかし、この本は取っ付き難いというより、なにか親しみやすさを感じました。著者はイタリアのカルロ・ロヴェッリという人ですが、西洋思想による物理学の本というよりも、調和に向く東洋思想、哲学のようなものを感じました。なにか橋本哲学につうじるようなものを感じます。だから、私のような数式ぎらいな者でも共感しながら読み進めたのだと思います。

     

    相対性理論量子力学は相容れないものとされてきました。どちらの理論が正しいか、という観点に立てば、対立したままでしょう。しかし、大自然からの観点に立てば、どちらも正しいし、両立すべきものなのだと思います。

    この本はイタリアではベストセラーとなったそうですが、著者である物理学者が自然を畏敬し、自然の観点から両方の理論を調和させる理論を提唱していることから、読者自身の自然性にヒビキ、共感を呼び、誰もが親しめる書物になっているのだと思います。最後の章では著者の自然観に圧倒されてしまいます。

     

    ミタテでも、自然の観点、自然からしてみれば、という観点は大事です。

    臨床の場での自然、それは「からだ」です。施術者の思惑、クライアントの思惑に自然は無いです。あるのは「からだ」。からだとからだの空間を介してのヒビキ。これがミタテにつうじます。

    自然の観点に立てば、何事もスムースにいくと思います。その為の学びは遠大で限りのないものでしょう。しかし、その分、愉しみがあるといえます。

     

     

    一週間、お付き合いいただきありがとうございました。

    明日からは畠山先生の担当となります。

    明日からも、どうぞ宜しくお願い致します。

     

    友松 誠。

  • 目に見えないものにこそ・・・2。

    おはようございます。

     

    昨日からのつづきとなります。

     

    私たちは、いつ、いかなるときも空間と関わりを持っています。そして、目には見えなくとも、空間との相互作用、御縁によって自然の構成要素の一つとして存在しているという捉え方ができます。

     

    空間には常に重力が作用しています。アインシュタイン重力場こそが空間そのものだと考え、これが一般相対性理論の概念といわれています。

    これによって、空間も世界を構成する「物質的な」要素のひとつであり、波のように揺れたり、曲がったり、ゆがんだりするものだと解ってきた。

    空間とは、何も無い不動の入れものではなく、動的であり、私たちは動いている巨大な軟体動物のなかにうずくまっているようなものだ、とも言えるようです。

     

    この「物質的な」という表現は抽象的であり、物質であって物質でないような含みを感じますが、この精緻な分野を研究しているのが量子力学から発展している学問です。

    それによると、あらゆる場は例外なく量子でできており、空間はそれぞれの重力の量子の相互作用によってつくりだされているという。その観点に立てば、この世界は物体からできているというよりも関係性からできているように思われる、との事。

     

    人間は70兆の細胞からできているといわれますが、細胞を細かく突き詰めていけば原子となり、原子は量子と必ず関わっていますから、目に見えないところでの相互作用というのは、とても大事です。電磁場、そして重力場、その重力場こそが空間。

    この空間、つまり重力場に私たちは包み込まれて、生命活動を営んでいるわけですから、私たち自身の重心の適正化というのが、ものすごく大切になってくるのです。

     

    重心の適正化。これは我々の師である三浦寛先生の新たな提唱であります。

    臨床のミタテでも、これからは重心の適正化に適うミタテというのが、必要となってくるでしょう。

     

    詳しくはこちらをどうぞ。

      ↓

    2017年 新規操体法特別講習会開催「40周年記念特別養成コース」
    2017年操体法講座開講のご案内 | 操体 三浦寛 人体構造運動力学研究所

     

  • 目に見えないものにこそ・・・1。

    おはようございます。

     

    操体創始者である橋本敬三先生は著書のなかで、

    【 自分は神仏の庇護の手のうちに摂取されているという信念、心裡に立つことができたら、神仏は全智・全能・全愛だと信じられたら、何もこの世の中に恐いものはなくなるだろう。

    肉体を自我だと思い、現象を実在だと思えば、たえず自己防衛の恐怖心から離れることはむずかしい。「顚倒妄想を遠離すれば云々」という般若心経の言は、無いものを有ると思い込んでいるのが妄想であって、有るように見える現象は実は無いのだ、そこにとらわれている心を放せ、ということなのだそうだ。 】

    と書いています。

     

    これは、心の在り方に関しての提言でありますが、物理的な捉え方からも当てはまるものがあり、物理学が進歩して様々な現象が解明されていくほど、この心の在り方への提言は物理学的裏付けが成されたうえで、輝きを増してくるのでは、と最近感じています。

     

    空間に対する認識も、ニュートンの時代から近年では随分と違ってきているようです。もう空間には何も無く、物質とは区別すべきものという考え方は通用しないようです。

    目に見えないから何も無いわけではなく、空間に在るものとの絶えまない相互作用によって、この現象、この世界は構築されているという捉え方。

     

    私たちの目に写る世界というのは、非常に大雑把でピントのずれた、自我に向く世界のようです。

    通常の私たちの世界観から離れて、ミクロのミクロそのまたミクロの世界では、過去→現在→未来という時間の流れの概念も当てはまらなくなると言われます。

    自我優先で考えてみると、自分の肉体や様々な物は、時間の経過と共に老化や消耗、エントロピーが増大するといった漫然たる想いを浮かべるのではないでしょうか。

     しかし、自我を省いた、からだからみた世界では、絶えず空間との相互作用が起きていて、エントロピー(消耗)に傾いたりネゲエントロピー(回復、改善)に傾いたりしている。

    その一番ネゲエントロピーに向かう時空というのは、無意識になる睡眠のときだというのは、なんとも皮肉なことだと思います。

     

    それだけ、私たちは普段エントロピーに向いた生活を営んでいるのです。「息、食、動、想」を自然法則に合わせるようにするのも大事な事ですが、自然法則は自然環境を元とした様々な環境に適応する為に自在するわけですから、自然環境の大元であり、神仏の意志がヒビキ合っているいるような、そんな空間との関わり、空間との相互作用という事にも関心を向ける必要があると思います。

     

    明日へつづく。

     

  • 思考分断しない。

    おはようございます。

     

    昨日は、ミタテ、ミタテられ、ということを書きましたが、書いていて昔テレビで見た合気道塩田剛三先生の演武が思い返されました。

    私は武道は素人ですので、最初に見た時はビックリしました。戦いを見るつもりでいたのに、そういう感じではない。なにか相手が勝手に吹っ飛んでいったり、当てられに来たりといったように感じました。

    あまりにもスパッスパッと決まるので、見ているほうはそれを受けた人は演技をしているのではないかとも思ってしまいます。

    しかし、これは演技をしているのではなく、相手はそのように対応するしかないようになってしまうのだと思います。

     

    人間は自分の意思でからだを動かしているように思い込みがちですが、その動きは無意識によるところが多いようです。この無意識の領域に精通しているのが名人、達人と呼ばれる人たちなのだと思います。

    からだの無意識。からだは自然の構成要素の一つであるという観点に立てば、個人個人とその他のものは別々でも、無意識には全部つながって関係性をもっているという見方ができます。

     

    元々は全部つながっている。それを分断してしまうのが思考であり、自我です。操体臨床の場でのミタテでも、この思考がわからなくさせ、迷わせる。

    自分自身も相手自身も無意識ではつながっていて、相手のからだは診てほしいところを感覚をとおして示してくれている。それを受け取れなくしているのは自我であり、病んだからだと対立してなんとかしようとしている自分の思考です。

     

    塩田剛三先生は、「合気道で一番強い技は何ですか?」と問われ、「それは自分を殺しに来た相手と友達になることさ」と答えたといいます。臨床のミタテでも、調和和親が元々成るこの世界なのだ、と意識することも大事だと思います。

    症状、疾患は人間の思考がつくりだしたものであり、それは無意識の領域の世界ではアンバランスの表れの一つに過ぎない筈です。病んだからだに対立意識は持たないようにしたほうが良いと思います。

  • ミタテ、ミタテられ。

    おはようございます。

     

    昨日は、感じるミタテということを書きましたが、感じるミタテは奥が深いです。

    感じとるという事は誰でもできる事なのです。ですが、臨床に応用するとなると、からだのことを相応に識っておかねばなりません。

    最低限、からだの動きは8つあり(8つしかなく)、どこがどう動けば、全身にどのように連動するかという事が、わかっていなければ、からだがその要求を示してくれていても、それをキャッチすることはできないでしょう。

    そして、わかっていても、自分自身で実際にやってみて体感していないと、病んでしまっているからだに共感することはできないでしょう。

     

    ミタテる側の感じとる能力。これは人それぞれです。しかし、それは優劣とか、そういう比較対象するものではないと思います。他の人のミタテ方と自分のミタテ方が違うからといって、自分が間違っているとか、そうことではないのです。

    相手のからだとの極性というものがありますが、相手のからだだってミタテる側をミタテているのです。相手のからだも操者をミタテて、その要求を表してくれる。

    「この人だったら、このような要求にも応えてくれる」「この人には、今日のところは、こういうところをサポートしてもらおう」といったように、その要求はミタテる側に応じて変化する。

    操者も資質や熟練度を相手のからだにミタテられているんですね。熟練度が増すほど、相手のからだの要求もより本質をついたものになるでしょう。未熟であれば、今日のところは・・・となるでしょう。

    ですから、その空間を介して感じとった事というのは、間違いはない筈なのです。その時空での関係性に於いて最適なミタテであり、そこから操法につなげれば良くなることは確かなのです。

    この良くなることを、もっともっとより良く高める為に、操者は自分自身、精進するしかないのだと思います。

    その精進は苦に向かうものではなく、快に向かうもの。それが操体の善いところなのであります。

  • 感じるミタテ。

    おはようございます。

     

    昨日は去年の夏にオーバーヒートした時に感じたことを書きましたが、やはり何事にもバランスというものがあるようです。

    車でも、年数が経ってくると相応に故障しやすくなってきます。まだ新しい状態の時であれば、突発的に一部のパーツが破損しても、その部品交換だけで済むことが多いでしょう。

    しかし、ある程度の年数が経ち、全体的にくたびれてくるとそうもいかなくなる。

     

    一部のパーツを交換して、そこだけ力強くよみがえっても、他がその力強さについていけなくなるという事がある。一部が力強くなった分アンバランスを招き、かえって他のパーツの消耗、破損につながってしまう。

    系統的にもみて、こちらもそろそろかな、というところは損傷が見られなくとも、交換しておいたほうが良いようです。

     

    では人体に関してはどうでしょうか。こちらは車のように、壊れたら交換とか壊れる前に交換しておくというようにはいきません。

    病んだ部分を交換という了見ではなく、からだが回復、改善をより良く行えるよう、サポートする必要があります。

    治すのは、からだなのですから、どのような治療法でも、からだのサポートという観点をおざなりにはできないです。

     

    操体臨床では、このサポートをどのようにするかというミタテが重要です。からだの歪みを系統的に診て、今の症状、疾患にこうつながっているから、こうしよう、という診立ても大事ですが、それを踏まえたうえでもっと大事なのは「からだは、今、どのようにしてほしいのか」という要求を感じとって対応するという、感じとるミタテも大事なのです。

    症状、疾患が多岐にわたっているほど、この感じとるミタテというのは重要であり、最小エネルギーで最大の効果をもたらす為にも、なくてはならないものなのです。