私たちは、変化の中に生きている。
同じ日付、時間というものは当たり前だが、二度と来ない。
しかし、日常の中でいつの間にか
日々、変化の中で生きていることを忘れてしまう。
忘れてしまう、無意識になっている小さな変化に
どれだけ自分が向き合うことができるだろうか。
意識していくことができるだろうか。
意識しているだろうか。
自分自身へ、問いかけ続ける姿勢が
必要な時に
ミタテという力になり
私を助けてくれるのだと思う。
私たちは、変化の中に生きている。
同じ日付、時間というものは当たり前だが、二度と来ない。
しかし、日常の中でいつの間にか
日々、変化の中で生きていることを忘れてしまう。
忘れてしまう、無意識になっている小さな変化に
どれだけ自分が向き合うことができるだろうか。
意識していくことができるだろうか。
意識しているだろうか。
自分自身へ、問いかけ続ける姿勢が
必要な時に
ミタテという力になり
私を助けてくれるのだと思う。
7日間担当します、香です。
よろしくお願いいたします。
「ミタテ」について考えると、いつも思い出す方がいる。
私の髪を切ってくださる美容師の砂原由弥さんだ。
学生時代から切っていただいているので、10年以上、お世話になっている。
美容師として最前線でご活躍し、とても高名な方である。
砂原さんにご縁をいただき、髪を切っていただけることに、感謝している。
さて、なぜ思い出すかというと、
「目の前にいる人が似合うヘアスタイルが見える」ということを
以前、切っていただいている時にうかがったからだ。
「絶対に似合うベストラインが見える」のだという。
そこに向けて、一心不乱にハサミを動かす。
すると、その人が輝くラインが出来上がる。
そのお話を聞いた時に、
イメージできる、ミタテができる、先が見えることの大切さを
しみじみと体感し、感動を覚えた。
美容師として髪を切っていただくにとどまらず、
砂原さんの人間的な魅力がどこから生み出されているのかが
知りたいといつも感じる。
そのため、美容室へ行く日が近づくと、
小学生が遠足に行く前夜みたいにワクワクする。
お会いするたびに、
ミタテを生かすヒントが湧き出している。
「玉ねぎの根」に目が止まり、写真に収めた一枚

ある本を読んでいて、このようなことが書いてあった。
原子物理学者のアルバート・アインシュタインは、死に際に自分の人生についての見通し、すなわち 「見立て」 ができなかったことを悔いていた。 アインシュタインが死ぬ前に、誰かが彼に尋ねた。 「もしあなたにもう一度機会が与えられ、あなたがこの世に戻って来ることを神が快く許されたら、あなたは何になりたいですか?」 アインシュタインは目を開けて言った。 「ひとつ確かなことがある ・・・・・・。 物理学者には二度となりたくない、そういった科学者には決してなりたくない! むしろ私は配管工になりたい」
これにはある理由がある、そこには偉大な体験が含まれている。 アインシュタインは自分の人生を無駄にしたことを、自分が広島・長崎の原爆の原因だということを、自分が人類にとってアドルフ・ヒトラーよりもさらに危険だということを熟知している。
いつ何時、世界全体が消滅してしまうかも知れない可能性がある。 しかも、その理由と原因はアルバート・アインシュタインにある。 だが、アインシュタインは、原子エネルギーを発見しつつあるとき、自分は社会に偉大な貢献をしていると考えていた。
アインシュタインは続けて言う、「どうか、あまり社会の役に立つことは避けて欲しい。 それより、もっとバラの木を植えて欲しい! 広島や長崎はもうたくさんだ! 小さな植物にも水をやって欲しい。 もう少し世界に緑を、もう少し世界に赤を、もう少し世界に黄金色をもたらして欲しい。 それから、ピアノを弾いて欲しい、ギターも弾いて欲しい、もう少し世界に音楽を、もう少し世界に調和をもたらして欲しい。 愛のために愛して欲しい。」
アインシュタインのように 「見立て」 ができないことで大きな罪を背負ってしまうこともある。 我々に求められることは、自分自身にも納得ができ、社会にも貢献できる、そういった 「見立て」 が必要なのではないだろうか。
明日から香実行委員の 「ミタテ」 が始まります、お愉しみに。
真の 「見立て」 というのは、未知なるものについて見通すということだ。 そのためには既知なるものの内にとどまっていてはいけない。 自分の知識の境界内とどまるのは 「見立て」 ではなく 「もくろみ」 である。 そのもくろみゆえに極めて打算的になってしまう。 そうなると、決して充分な躍動的姿勢であるとはいえない。
このように絶えず計算している人々は、未知なるものについていかに計算できるのだろう? 自分が知らないものについて、いかに考えることができるだろう? それは量子的躍動ではありえない。 だから、取り逃がし続けることになり、「見立てる」 ことなどできなくなってしまう。
自分の知識をすべて風に乗せ、投げ捨てなければならない、そんな勇気を持つ必要がある。 そうして初めて 「見立てる」 ことができるようになる。 この勇気とは一体何なのか? それは、自分の心が言い、自分の論理が言い、自分の正気が言っているすべてのことをものともせずに、それでも勇気をもって進むという意味である。
自分は危険を知っている、危ういことも知っている。 それでも進むという意味だ。 自分が知っているあらゆることにも拘らず、それでも、ある体験の中に入ってゆくことを選ぶ、それが勇気である。
こういった勇気ある人、勇敢な人というのは少し狂っている。 とはいえ、狂気には勇気以上のものがある。 狂気はもっと活気に溢れている。 狂気にはもっと多くの次元がある。 そして、未知なるものに入るためには、一種の気違いじみた勇気が絶対に必要だ。
しかし、ひとたびその中に入ってしまえば、そのときには、勇気は不要になる。 それは最初に口火を切る地点だ。 ひとたび未知なるものの世界に入ってしまえば、ひとたび自分がその何かを味わってしまえば、そのときには、勇気は必要ない。
とはいえ、自分の知識を捨てるというのは気違いじみている。 それを捨てるには途方もない勇気がいる。 実際、それを捨てるには大変な愚かさがいる。
最近、こんな話を聞いた。
ある男が車を運転していてパンクしたことに気づいた。 そこでドライバーは車を止めて、スペアータイヤとの交換を始めた。 その車を止めたのはちょうど精神病院の前だった。 ドライバーがタイヤを変えているところを、一人の精神病入院患者が塀越しに、しげしげと見つめていた。
そんな時、ドライバーはうっかり、ホイールナットを道路の路側帯にある下水口の集水桝の隙間に落としてしまった。 さあ、どうすればいい? しばらくすると、精神病院の入院患者がドライバーを呼んで、「残りの三つのタイヤのホイールナットをひとつずつ外して、それを使って、交換しようとしているスペア―タイヤを止めればいい」 と言った。
「すごく頭の切れる発想だ」、「素晴らしい見立てだ!」 と、ドライバーは語った。 「またどうして、そんな君がこんな壁の中に閉じ込められているんだい?」 、「それも単純明快さ」 とその入院患者は言った。 「俺がここにいるのは、決して馬鹿だからじゃない! 狂っているからさ!」
精神疾患のある人はネガティヴな気分にあるとすぐにも精神療法家に会いたがる傾向がある。 だがそれは精神療法家に会うのに適切なときではない。 ネガティヴなときに会っても、せいぜい療法家の同情を得るだけである。 そうではなくポジティヴなときに会ってこそはじめて療法家から健康を得られることになる。 ネガティヴになっている精神には健康は与えられない。 なぜなら、ネガティヴになっている精神は健康を受け容れようとしないからだ。
精神疾患のある人は、悲しくなっていたり、憂鬱で落ち込んでくるとすぐにも精神療法家を探し求める。 逆にハイになると、つまり気分が高揚してくると療法家のことを忘れてしまう。 いい気分で楽しくって幸福なときには果たして療法家を必要とする人がいるだろうか? それは訊くまでもないことだ。
もし精神療法家がそういった患者のアポイントを遅らせるとしたら、それはただ、その患者の憂鬱は一生続くものではないことを療法家は知っているからということなのだ。 療法家はそのような 「診たて」 をする。
なぜなら、その憂鬱は、今日は居座っても、明日にはいなくなることだってある。 つまり、誰も永遠に憂鬱ではいられないということだ。 来るものはまた去っていく。 気分も来てはまた通り過ぎる。 だから患者はポジティヴなときにだけ療法家に会いに行くべきだ。 そういう時にこそ、患者に健康を与えることができるのである。
精神療法家と精神科医の違いはまさにこれだ。 精神疾患をもつ者が、精神科の医者に会いに行くのは、自分がネガティヴなとき、病気のとき、ちゃんとした状態でないときに限られる。 そのように病んでいるときに医者に行き、医者は患者に健康をもたらそうとしてくれる。
しかし、精神療法家の許に行くのは、精神が健康であるときが絶対に良い。 なぜなら、その療法家がより大きな健康を与えることができるからだ。 自分がまったくポジティヴで、幸福感に満ち悦びに溢れているときこそ、精神療法家の許に行くべきである。 そうであってはじめて、療法家は患者をより高い健康の次元にまで導いていくことができる。
精神療法家の許に来るときには、ただ健やかになるために来るのではなく、普通の健康より以上の健康を得るためにくるのがいい。 ただ幸せになるためではなく歓喜のために、そして、ただ健やかになるためではなく全面的な存在になるために来るべきなのである。
私のところに操体の施療を受けに来る男性A氏がいる。 このA氏に、「具合が悪くなってから来るより、そうならないように日頃からヨーガをしてみてはどうか」 と、私のヨーガ指導を受けてみるよう提案してみた。 A氏は聡明な人で弁護士をしている人だが、そのA氏が、さあ明日から来てヨーガを始めますと約束すると、必ず何かしら問題がもちあがるのだった。
妻が病気になるとか、急に訴訟があって地方に行かなければならないとか、あるいはまた、ヨーガ教室に向かう朝、急に何とも怠慢な気分になって次の日まで行くのを延ばしてしまうとか・・・・・・。 A氏は 「明日から参ります。 明日には絶対にヨーガを習いに参ります。」 と言って何回も何回も約束するのだが、決まって何かが起こるのである。 これはずっと続いていた・・・・・・。
これについて、心理学的な 「診たて」 ではこうなる。 A氏が約束するたびに必ず何かが起こる。 この何か起こるということはA氏の内部に関係があるのではないかと思える? 子どもが病気になる、妻の具合が悪い、A氏自身が怠慢な気分になる、エネルギーがない・・・・・・。 こういったことと関係する何かがあるのではないだろうか? こんなに何回も決まって起こるとなっては、もう単なる偶然では済まされない!
こういった精神作用は最近の心理学で言っているように個別のものではなく、一つの集合的な現象だということだ。 A氏の意識とA氏の子どもの意識は、二つの別々のものではない。 どこかで出合っている、一つのものである。 子どもたちというのは実に敏感に感応する。 というのも子どもは純真無垢だからだが、この非常に豊かな感応力で、子どもは、身近にいる人のことを感受することができる。
たとえば、父親が魚釣りに行きたがっていて、母親の方は行きたくないとする。 もちろん母親はそんなことは口には出さない。 母親自身、自分が本当は行きたくないことに気づいていないかも知れない。 と、急に子どもが吐き気を訴えて病気になる。 これは心理学者も行き当たった事実ではあるが、子どもは単に母親の無意識下にあることを示して見せているのにすぎない。 それというのも、もし子どもが病気になれば、母親は外出をやめざるをえなくなるからである。
精神分析が次第に人間の頭の働きの中に浸透していくにつれ、精神分析医たちは、一人の人だけを治療しようとしてもそれはできない、家族全体を療法の対象にしないかぎり無駄だと感じるようになってきた。 なぜなら、一人の個人だけが異常になっているのではなく、その家族全体が病的になっているからだ。 症状を示しているその人は、一番弱いというだけのことである。
これがもし子どもが四人いる家族で両親を入れて全部で六人いるとしたら、その中の一番弱い人が病的な症状を示して神経症になる。 家族全体がノイローゼなのだが、他の五人はその人よりもいささか強い。 その人だけが一番弱いのだ。 この人を治療することはできるし、家族から引き離しておけばだんだんよくなっていく。 ところが、もし再び家族の許に帰すとしたらまたおかしくなる。
さてこうなると大変難しいことになる。 一体、どうすればいいのだろう? 家族全員が治療を受けなければならない・・・・・・、が、そうなったらことはもっともっと複雑になっていく。 家族は社会の中、一つの共同体の中で存在している。 だったらその共同体全体が病気になっているに違いない。 そして、この家族はその共同体の中で一番弱い家族だというだけのことである。
ここまでくるともう果てしなく広がっていく。 社会共同体は国の中にあり、国は地球の上にある。 そして意識は大海原のように存在する。 だから個人を治療することは不可能ではないにしても、非常に難しい問題をはらんでいる。 その人が病気になるのを手伝っている人がまわりに数多くいるのだから。
このような心理学的な 「診たて」 をしていくと、人類すべてが精神病患者ということになってしまうが・・・・・・。
三日目も 「見立て」 が起こる心の自然発生的な何かを考察するプロセスにおいて、意識と無意識をさらに深く掘り下げてみる。
人生において実利的に生きるために心を狭めることは必要ではある。 だが、それでは心の内の小さい部分だけが自分の自己とみなされて、残りの部分はまったく失われてしまう。 しかし、この残りの無意識の部分は使われざる潜在性、用いざれらる可能性、経験されざる冒険として常に存在している。 この無意識の潜在的な、使われざる心は、いつも意識する心と一戦交えているのだ。 だから、いつも心の内部に葛藤があるのはそのためである。
誰もが、この無意識と有意識の間の亀裂のために葛藤している。 だが、この潜在性、この無意識が花開くことを許されてはじめて実存の喜びを感じることができる。 さもなければ感じることなどできようはずがない。 それは 「見立て」 という多次元の感覚であり、より瞑想的な直感を生み出すことができるということだ。
潜在的可能性をもったその主な部分が満たされないまま残ると、我々の人生は欲求不満に陥ってしまう。 我々が実利を追えば追うほど満たされなくなり、至福を感じなくなってくるのも頷けることだ。 そのアプローチが実利的であればあるほど、つまり、生の上でビジネスが増えれば増えるほど、生きるということが少なくなり、エクスタシーはますます感じられなくなってくる。 心の実利的な世界で役立つようにはできていない潜在的可能性をもった部分は、今までずっと否定されてきたのである。
人生とはひとつのセレモニーだと言える。 決して実利的な次元ではない。 実利的な心が心全体だと思わないことだ。 その残りのより大きな部分・・・・・・、心全体がそのために犠牲にされるようなことがあってはならない。 実利的な心はあくまでもひとつの手段にすぎない、決してそれを目的にしないことが重要だ。
もう一方の、残りのより大きな部分、可能性を潜在させた部分が目的になるのが本当の姿である。 それこそが見立て的アプローチと言えるものだ。 知性、つまり心を狭めることは生き存らえるための手段ではあるが、生のための手段では決してない。 「生存」 と 「生」 はまったく違っている別ものだ。
生存とは物質的な世界に欠くべからずもの、しかし、目的は常に潜在的可能性の開花である。 それは自分という存在によってもたらされた可能性のすべての開花に行き着く。 そのときには、いやそのときこそはじめて我々は 「見立て」 という多次元の感覚によって、より瞑想的な直感を生み出すことができるのである。
昨日は 「見立て」 を考察していく中で子どもたちの 「意識」 に注目した。 今日もその意識についての一考を続ける。
子どもたちは、あるがままでいたら、何にも焦点を合わせようとしない。 子どもたちの意識というものは、まわり中に開いている。 あらゆるものが入ってきて、どんなものも除外されない。 まさに子どもはあらゆる感覚に対して、とてもオープンである。
その子どもたちの意識の中には一切の感覚が含まれている。 そして、なんと多くのものが入ってくることか! 子どもがあれほどに揺れ動いて不安定なのはそのためだ。 子どもの未だ条件づけられていない心はひとつの流体、感覚の流れである。
しかし、子どもたちはこうしたタイプの心ではとても生き延びていくことができない。 子どもたちはどうやって心を狭め、集中するのかということを習い覚えてゆかなければならない。 そして、やがて心を狭めることを身につける。 それは、その瞬間、ある特別なひとつのものだけを意識し、同時にその他の多くのものに対しては無意識になってゆくということだ。
心が狭められれば狭められるほど成功の可能性も増える。 すると、我々は専門家に、熟練者になることができる。 だがことの全体は、知識ばかりが増えてその対象はますます限定されてゆくことになる。 心を狭めることは生存するのに必要なことであり、誰もそれに責任はない。
今の生存のままでは確かに心を狭めることは必要だ。 だが狭めるだけでは本当に充分ではない。 確かに実利的ではあるが、ただ生き存らえるだけでは充分ではない。 単に実利的であるということだけでは充分とは言えないのである。
だから、実利的になったら、意識は狭められ、我々は心の本来的に有能なはずの部分を否定することになってしまう。 それは我々の心全体を使ってはいないということであり、 そのごく小さな部分であるほんの一部を使っているだけだ。 そして、残り、大部分を占める残りの部分は心の無意識が占めている。
事実、意識と無意識の間には境界線など存在していない。 これらは二つの別々の心ではない。 「意識する心」 とは狭めるプロセスで使われてきた方の部分を意味し、もう一方、「無意識の心」 とはそのプロセスで打ち捨てられ、黙殺され、閉ざされてきた部分を指している。 これが分裂をつくり、亀裂を生じさせてしまう。
そうなると、我々の心のより大きな方の部分が、自分と疎遠になってくる。 そして自己自身から疎外されることにもなる。 それは我々自身の全体性に対して異邦人になってしまい、 瞑想的な直感を 「達成」 するということからますます遠ざかってしまうのである。
テーマは 「ミタテ」。
日本文化における 「見方」 や 「見通し」 というのは、 「見立て」 という多次元の感覚によって、より瞑想的な直感を生み出すことができるようになっている。 ネット検索してみると、「見立て」 について実に多くのことが書かれているが、見立ての意味や瞑想的な直感を 「達成」 する方法については、大きく混乱しているように思える。
誰かに何か見立てたことがあるかどうか尋ねたら、ほとんどの人たちが見立てたことがあると答えるだろう。 けれども、ふつう常識的に考えられているのとは逆に、実際には見立てというのは自分が為しうるものではない。
本当のことを言うと、見立てとは、自身がどんな思いも寄せていないとき、自分が完全な無為の境地にあるときに、自然発生的に起こる何かなのであろう。 人々が 「見立てる」 と言うとき、それは、見立てが起こりうる状況をおそらく作れるだろう何かの見方をしているということになる。 しかし、いかなる 「見方」 も 「見通し」 も 「見立て」 そのものではない。
なぜなら、そのように我々は幼い頃より成長してきたからである。 我々の成長過程において、大人たちは子どもを心の焦点を定めるように、つまり集中するように躾ける。 どうしてなのか、そのように集中しなければ子どもは人生にうまく対処してゆけないし、生はそれを要求する。 だから、生きていくために心は集中できるようにならなければならない。
ところが、集中できるようになるとすぐに、醒めているということが少なくなる。 覚醒とは意識はしているが焦点は合わせていない心を意味する。 それは起こっていることすべてを意識するということだ。
そして、集中とは選択するという意味でもある。 だから、集中の対象以外はすべて退けてしまうようになる。 それは視野を狭めるという意味だ。 たとえば、道を歩いているとき、歩くために自分の意識を狭めなければならない。 なぜなら、安全に歩くためには、起こっていることすべてに常に醒めているわけにはいかないからだ。
というのも、万事に醒めて気づいていたとしたら焦点は合されていない状態になってしまう。 だから集中というのは必須のものである。 心の集中というものは生きるために、生き延び存在していくためには必須のものだった。 それだから、あらゆる文化がそれぞれの方法で、子どもの心を狭めようとしているのである。 それは、見立てるという多次元の感覚からはほど遠いものだ。
ワタシ自身は想うのです。
世に不思議というものがあるならば、理解してみたい。
イメージできるものは、実現可能だからイメージできる。
仮説は仮説として置くのみなく、熟成させて立証したい。
え~本当かなぁ…いや、それはこういうわけだよ、と。
例えば・・・。
脈診の高名な先生方がそれぞれ違う「証」を診立てておき、
それぞれの「診立て」に適った「診断即治療」を施した際に、
それぞれの「診立て」で脈状も安定、症状も軽減するという、
このような不思議さも、臨床ではよしとされていました。
では、思い思いの「診立て」を通してもいいし、
「からだ」に思い思いの「処方」を施す。
それも成立する理由を「からだ」に訊ねたんです。
『それは・・・軸で・・・識してないからだよ』
ハハ~ン、なるほどそういうことだったのですね!とまぁ、
今はその不思議を、説明できるようになりましたとさ。
横軸と縦軸を学び、その違いを認識して「からだ」に問う診立て。
その違いがわかることで、不可視を可視にもできるのです。
・・・理想の診立てですか?
お互いに歪んで助かっていることに、”感恩報謝”できる。
そのような、”臨生の身縦”に感動することですね。
(※臨生とは、治療中のみならず、生きている瞬間すべて、
に貫通していることであり、身縦は、個人の生活云々でなく、
生かされているイノチに向き合っていると言う意味デス)
さて、一週間のお付き合い、ありがとうございます。
明日からは日下実行委員の診立てにて縦横無尽に語ってくれます。
それでは~お愉しみにッ!!