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  • 愛 5

     「三L」という言葉をどこかで聞いたことがあるだろうか? ビッグサイズという意味ではない。Life(生)、Love(愛)、Light(光)の三つのLのことである。Lifeの生は我々にすでに与えられており、まさに今、生きている。そしてLightの光が臨在する。しかし、生と光の間に我々は架け橋をかけなければならない。この架け橋こそLove愛である。

     三Lという前置きの後は、「病気」と「哲学」と「愛」の関係性について話してみたい。
    まず、病気とは何だろう? 
    人は実存との結びつきを失ったとき、病を感じることになる。頭が断絶しているとき、そのとき、頭痛がある。胃袋が断絶しているとき、そのとき、胃痛がある。どこかで、我々は自律的になっている。すると、我々はもう実存の相互依存した大海原の中にはいない。そこで存在するのが病気である。

     病気は一定の自律性を持っており、それ自体が独立している。自分の肉体の内側で癌巣が成長しているとき、その成長は自らが一つの宇宙になり、それは実存に結びついていない。病人とは、いろいろなところで断絶している人のことである。ある病気が慢性化するとき、それはその根が完全に破壊されたという意味だ。それを地中に移植する可能性さえ、もう存在しない。そうなると、我々はただ部分だけで生きながらえなければならない。我々の一部は死んだままになってしまった。

     誰かが麻痺した。それにはどういう意味があるのか? 
    その肉体は宇宙エネルギーとの接触を失った。それは今、ほとんど死んでいるも同然である。そして生命エネルギーはもうその中に流れていない。もしこれが病気というものなら、それなら、この世にあり得る病気の中で、確かにいえることは哲学こそが最大のものであろう。

     なぜなら、哲学は我々を徹底して遮断してしまうからだ。しかもそればかりか、自分が病気だということに絶対気づかないような論理で、我々を断絶させるのが哲学だ。哲学は、自分が取り逃がしていることに決して気づかないような正当化や理由づけで我々を断絶させてしまう。このように哲学とは自己正当化の病である。哲学はそのように自分自身を徹底的に擁護し続けることだろう。

     哲学の意味は、人間が完全に頭脳志向になったということである。我々は愛の眼を通してではなく論理の眼を通して実存を見させられることになる。我々が哲学によって論理の眼を通して見るとき、いくつかのものごとを見ることができる。しかし、いくつかではリアリティーのヴィジョンを得ることはなく、それらは頭脳によるただの抽象にすぎないということである。

     我々が愛の眼を通して見るとき、そのときには、リアリティーをあるがままに見ることができる。それは愛が宇宙と一緒になって降りかかる、合一性の中に降りかかるということだ。

  • 愛 4

     我々は「愛」という言葉で一体何を意味しているのだろうか? 我々のすべてが確実に意味していることの一つは、それには引力というたいへん大きなエネルギーがあるということである。誰かが恋に落ちるとき、それは、自分が何かをするというのではなく、愛の中に引き込まれてしまうということであり、それほどまでに強い磁力を持っている。自分の愛の対象に向かって引きつけられる、それも救いがたいほど引きつけられてしまう。自分の意志に反してまで引きつけられてしまう。それには引力という大きなエネルギーが、とてつもなく強い磁気フィールドがある。だからこそ、我々はそのことを「恋に落ちる」と呼び慣らしている。

     誰も好き好んで恋の奈落に落ちたいとは思わない、だが、誰がそれを回避することができるだろう。そのとてつもなく大きなエネルギーが自分を呼ぶとき、突然にもう古い自分ではなくなる。自分よりはるかに大きい何かが引き寄せている、自分より偉大な何かが呼びかけている。そしてその挑戦の中に、我々はただ飛び込んでゆくことができるだけだ。

     このように愛とはとても大きな、引きつけるエネルギーであるということが理解できると思う。そしていつであれ、我々が恋に落ちるときには、自分は突然もう普通ではなくなる、自分の意識の中で何かが奇跡的なまでに変化するということなのだろう。そのように愛は我々を変容させる。

     暴力的な男がある女性と恋に落ちた! するとどうだろう、その同じ男がとても親切で優しくなってしまった。人殺しの凶悪犯ですら、恋に落ちると、実に慈悲深くなることができるという。そんなことを信じるなんてほとんど不可能なことだと思える。だがしかし、愛は奇跡を起こすことができるようだ。それは地金を黄金に変容させることができる。

     あなたは、恋に落ちてしまった恋人たちの顔や眼を観察したことがあるだろうか? 彼、彼女らが同じ人だとはとても信じがたいことであろう。愛が恋人たちの魂を占めたとき、そのとき、彼、彼女らは変貌する、まったく違う次元の中に運び込まれてしまう。しかも突然にしてそれも恋人たちの努力はまったくなしに。このように愛が土台を高く変容させ、大地を大空に変容させることができるのである。

     こうして愛を展開してみてわかることは、愛はエネルギーフィールドであり、変容力だと言えることだ。キリスト教でいう神の愛や仏教の慈愛のような、我々が宗教的であるかどうかには何の関係もなく、愛は、人間の生における中心的な経験としてありつづけるのである。それは最も共通のものであり、しかも最も共通しないものでもある。

     多かれ少なかれ、愛は誰にも起こりうる。そしてそれがいつ起こったとしても、それは我々を確実に変質させることは間違いない。それは共通しており、しかも、共通していないということ。それは我々と究極との間にある架け橋なのである。

  • 愛 3

     我々が何かを愛するときには、本来、それがどこにあるかに関して超人的な感覚をもつことになる。それは我々のもっている愛がそれを探知して、その愛が我々を導いて案内してくれるからだ。そんな感覚の記憶は新生児にまでさかのぼることで明らかにされる。

     蜜蜂は花がどこにあるのか、何十㎞も遠く離れたところから嗅ぐことができる。どうやってその道を見つけるかに関して、多くの実験と研究が蜜蜂を相手に為されてきた。何十㎞も離れたところに花が咲きだすと、蜜蜂たちが殺到してくる。蜜蜂の中にほとんど超感覚ともいえるものが存在しているのだ。この超感覚こそは愛以外の何ものでもない。

     そして我々人間の子どもが生まれたとき、子どもは常に愛という超感覚そのものの中にいる。子どもは生まれたときには、憎しみをまったく知らない、愛しか知らない。愛とは本来的なものであり、憎しみは、後になって習得するものだ。愛は本来的であり、怒りは後になって学ぶものだ。嫉妬も、所有欲も、敵がい心も、後になって学んでゆく。社会がこうしたことを親切に教えてくれるからである。どうやって嫉妬するか、どうやって憎しみでいっぱいになるか、どうやって怒りで、または暴力でいっぱいになるか。こうしたことはすべて懇切丁寧な社会によって教え込まれることになる。

     子どもは生まれたとき、ただ愛そのものだというのは、そうあって当然のことである。というのも、子どもは愛の他に何も知らないからだ。母親の子宮の中で、胎児はどんな敵とも出会うことがなかった。九か月の間、胎児は深い愛の中で生きてきた。母親の愛に取り囲まれ、その愛で育まれていた。そんな胎児は自分に敵対する者を誰も知らないで過ごしてきた。胎児はただ母親だけを知っている。胎児はその母親の愛をよく知っている、だから胎児が生まれるときの経験はすべて愛によるものだ。このようにして新生児は母親との深い愛の信頼とともに生まれてくるのである。

     そのような母親が妊娠したとき、どのように歩くか見たことがあるだろうか? 
    いかにも注意深い。というのも、自分のからだの中に新しい生命が祀られているからだ。女性が妊娠したとき、その顔に現われる変貌を見たことはないだろうか? 
     彼女の顔は輝いている。希望に満ち、新しい生命と、新しい可能性とともに脈打っている。
    とても幸福そうに見える。彼女は財宝を、大変な財宝を宿している。新たな生命が、彼女を通して創造されつつある。だから、彼女は気をつけて歩く、気をつけて動く。妊娠したことで、彼女の中には優美さが湧いている。彼女はもう一人ではない。彼女の肉体は愛の寺院になっている。

  • 愛 2

     愛には多くの味わいがあり、多くの次元や多くのニュアンスを持っている。愛というのは単一の事柄ではなく、非常に豊かなものである。それには多くの局面があり、多面的だといえる。それは多くの面を持っていて、そしてそれぞれの面が相乗的に豊かさを与えている。まるでダイヤモンド鉱石のようであり、途方もなく豊かなものだ。

     英語の「love」という言葉はすべての愛を表現しているわけではない。それは単一の言葉でしかない。しかし古代の言語ではすべての愛のために多くの言葉を持ちあわせていた。というのも、現実にあまりにも多くの愛が存在しているからである。そういう意味において英語のloveはとても貧弱な言葉だとしか言いようがない。

     なぜなら、我々はマイカーだって愛することができるし、それに自分の女性や男性を愛し、自分の家を愛し、祖国を愛し、自分の子どもを愛し、自分の母親を愛している。ところが英語ではloveというたった一つの万能の言葉を使ってすべての愛を表現しているのだ! 
    また愛煙家においては特定の銘柄の煙草を愛している。このように愛は多くの面を持っていることから、このloveという言葉だけでは非常に貧弱だと言わざるを得ない。というのも愛はそれほどまでに多くの面を持っているからだ。

     子どもを愛するとき、我々は違う愛し方をするが、それには情熱がない。それは男性が女性をあるいは女性が男性を愛するときと同じような愛ではない。また自分の母親を愛するときのそれとは全面的に違っており、そこには敬意があり、深い感謝がある。

     ところが男性が女性を愛するとき、それはまったく違っている。そこには大変な烈しさがあり、殆んど狂っているようにしか見えない。それはその男性が母親を愛するやり方とはまったく違っている。我々はまた友達を愛するが、これも全面的に違っている。それでもそれは愛情だ。けれども同じものではない。この単一の言葉loveの中には多くの言葉が隠れている。

     我々はこういった愛の次元全部の中に入って、愛のすべての面を知らなければ、愛に関する理解はそれだけ欠如することになる。だから人は愛のすべての局面と、すべての微妙な違いを知らなければならない。

  •  今回のリレーブログは「愛」というテーマが決められた。

     それではゆっくりと愛のテーマに入ってゆこう。

     古今東西において愛の通たちは、愛に関してより多くを、そして知識に関してはより少なく語ってきている。なぜなら、我々のいる人間世界で、愛というのは、実際に愛すること以外に他のどんな方法をもってしても達成することのできない唯一の事柄だからである。

     愛するという方法には、まったくテクニックというものが存在しない。それなのに多くの人々がムービなどで愛について学ぼうとしている。また多くの人々がポルノ文学においても愛について知ろうとしている。このように多くの人々が愛について知ろうと、小説を、詩を、そして他人の恋文などを読み漁っているのを目にすることができる。

     そのように我々が愛について多くの事柄を知ってくるにつれて、その危険性も同時にそこに潜んでいるということをご存じだろうか。なぜなら愛について知ることは、愛そのものを知っていることにはならないからだ。実際に我々が愛について知れば知るほど、愛を知る可能性はますます減少してしまうことになる。なぜなら我々は自分がもっている愛の知識の中で迷ってしまうからであり、自分は愛そのものを知っていると思い始めてしまうのだ。

     我々は、世間で愛を商売にしている映画俳優たちが、いつもプライベートの愛情生活では敗北者になってしまっているという事実を少なからず知っているはずだ。きっと芸能マスコミ誌などによって見たことがあるに違いない。それらから判断できるのは、俳優たちには決して愛の成功はないと言わざるを得ないことである。

     ハリウッド映画の超大スターだったマリリン・モンローでさえ自殺してしまった。その時、モンローはハリウッドの頂点にいた。故ケネディー大統領でさえモンローに恋をしていた。世界中がモンローに恋をしていた。だがしかし、どういうわけか、モンローの生涯はとても空虚なものだった。モンローは自分の生涯の、名声のまさに頂点において自殺してしまったのである。あんなに美しい女性が自殺してしまった。モンローに一体何が起こったのだろう?

     なぜ、俳優たちはいつも自分の現実の愛情生活では敗北者になってしまうのか?
     俳優たちは愛についてあまりに知りすぎたものだから、愛に関して本当にその中に入れなくなってしまったに違いない。俳優らは同じ役柄を演じ続け、同じゲームを演じ続けてゆく。まるで俳優らは、舞台の上で演技しているかのように現実の愛情生活の中でも演技し続ける。舞台の上なら何ら現実に巻き込まれることもないので問題ないが、現実の生活の中では、ひとり芝居になってしまう。すると、その演技は空っぽだ。だから、俳優たちは空虚な仕草をやり続けることになる。しかし、それが現実生活では問題になる。

     我々は愛については多くの情報を得ることができる。しかし、それは愛を知る手助けには決してならない。愛は唯一、現実に愛することによってのみ知ることができるものだ。ということは、愛については何も知ることなく、ただ愛のなかに進んでゆくという行動のみがあるということだろう。

  • あの世までも繋げていく仕事

    <続き>
    脱力する間(マ)もなく、一つの本を書き終え、次の本を写経した。

    ホワイトウルフの教え―〈いま〉を強く生き抜くために

    ホワイトウルフの教え―〈いま〉を強く生き抜くために

    これは、いわゆる人間の著者ではないスピリチュアル本である。
    まあ、そうはいっても陰の現代になった今、珍しいわけじゃない。
    作者不詳として思い出すのは、シンガーソングライター樋口了一
    の歌って話題となった「手紙」。この発売に至る経過も似ているし、
    昨日一部を掲載した、潜象界に戻った師からの「御言霊」も同様だ。

    これは自己体験であり、夢語りと思って頂いても構わないが、触れ
    ずに変化する真理、そのヒントが欲しくなったのである。そこで私
    はそれまで避けていた世界に入っていった。そこで知り合った方に
    是非読み込んで欲しいと紹介頂いたのが「シルババーチの霊訓」な
    のである。まぁ、スピリチュアル本を読む方ならご存知かと思う。

    古代霊は語る―シルバー・バーチの霊訓より

    古代霊は語る―シルバー・バーチの霊訓より

    古代霊のそれは、優しく響いてくるときも、厳しく響くときもあり、
    霊言(霊訓中の指導)項目に、人間の食べものについて書いてあった。
    そこに橋本敬三師が書かれた「食」とほぼ同様の内容が綴られており、
    人間の歯の形と本数を見てわかる事を重要視している。
    つまり単食。草・種・果実・根を主とした食性の生命体が人間。
    人間は本来、毎日肉を喰らい満腹になる食性には創られてないのだ。

    そして、詳しいことは省くが、橋本敬三師の違いは、犬歯の扱いだ。
    平たく言えば、人の犬歯とは肉食向きでない。これはヒビいてくる。
    肉食動物の犬歯と人間の犬歯とは、カタチが異なっているのだから、
    もともと草食性の犬歯だという事実は知っておく必要があると思う。

    まぁ古代霊の提言は、人間の私にやや難解なところも多く、その点
    橋本敬三師の天然自然の道への導きかたは、だれでも簡単に取り組
    みやすいのは大きな特徴である。
    まぁ、その分奥に入ると奥底が深く、簡単に届かないのだが(笑)

    話をスピリチュアルから元の写経に戻そう。
    写経してつくづく感じたことは、生前の橋本敬三先生は、宇宙を貫
    通する天然の法則を対極でとらえつつも、陰陽に分化していった生
    命全体を見通しつつ「放言」されたのであり、この娑婆(世の中)に
    おける人間が好きだったんだろうなぁ…という実感だ。

    「放言」とは、三浦理事長曰く、言いっぱなしだから、各自各々がそ
    れぞれの「想念」で自由に捉えることができるのだそうだ。
    しかし、「方言」から進化すると「提言」になるんじゃないかと思う。

    三浦理事長は、言いっぱなしでは済まさない。
    故に、「自由にしていい、とは言っているけれど、自分勝手にしてい
    いとは言っていない」・・・と、真なる後継者として言葉を紡いでゆく。

    始めに紹介した”ホワイトウルフの教え”もそれに近い。
    古代霊(古代人の類魂)の教えでありながら、我々近くに歩み寄って
    いるので速読すれば3分もかからずサラッと読める手軽さ。
    しかしサラッと読めるようで、いくつも内容が折り畳んであるため、
    写経してみるとこれがまた本当に味わい深く、操体哲学にも通じる。
    私は正月を迎え、この教えも味わいつつ、禊(みそぎ)に加えた。

    もう一つ、私が何回も感覚を通して味わう書籍を紹介しておこう。

    ヒトのからだ―生物史的考察

    ヒトのからだ―生物史的考察

    ヒトは深い。簡単に身に付ける技能など、私は必要としない。
    変体するために必要なのは自然法則。その応用貢献こそ我がイノチ。
    わかったつもりにならず、仮説を立て実践し行動にウツシてみる。

    お手軽・簡単・便利であればいいじゃんだと?・・・自己責任を知れ!
    痴れ者とは悪人ではない。善人こそ自分の悪に気付けないものだ。
    黒ければバランス感覚を味わい、感じて禊(みそぎ)の調和を成せ!

    調和しているからこそ、我々はモノを語り、捉え、味わうのだ。
    「精神(あたま)」は、「脳」という「動物器官」に。
    「こころ(心情)」は、「心臓(心包)」という「植物器官」に。
    「植物器官」は主として酸素を巡らせ、「動物器官」を養う。
    脳が死んだらヒトは死ぬのではない。
    肉体が滅びたらヒトは死ぬわけでもない。
    本質はあの世に持っていけない”なにか”に通じている。

    ・・・ということは、ヒトはカミでもあり、カミもまたヒトたり得る。

    貴方もワタシも、みんなも社長さんも、愛と調和でアリガタイのだ。
    イエ〜〜〜イ!!だからこの世は極楽なんですよねぇ〜〜!!


    (もう、こういうオチを考えたら止まれないで突っ走る私・・・)

    それでは、一週間のお付き合いを有難うございました。
    本年もなにとぞ、東京操体フォーラムを宜しくお願い致します。

    明日からは、舞い降りし真実を語りし賢者、日下実行委員です!

    ※愛の一言:賢き勇者は引退しない。
          もはや愛することを放棄し者よ、迷いなき者よ・・・
          遠慮することはない、埋葬してもらうといい。   

     

  • いとおかし・・・なもの (岡村郁生 おかむら いくお)

    (続き)
    自己命令をすると脳は妙な抵抗をしつつそれを遂行させるための
    様々な工夫をするものだなァ、という理屈もよくわかってきた。
    そして、それだけに留まらず意識をカエルような「息」と「想」をも
    スピンさせていくさまを味わっているのが愉しいこともわかった。

    「万病を治せる妙療法」の写経をやり遂げた姿をイメージしていた。
    何かが変わってくるに違いない!そう信じて書き続けてきた。
    書き遂げていた人たちに嫉妬していた私だったが、それも落ちた。

    あぁ・・・こんなに創始者の想いが伝わってくるなんて、やはり三浦
    理事長の教えてくれた通りであった。しみじみと味わい甲斐(快)
    のある想念を、書いてある以上の内容を間(マ)を通して噛み砕く。
    もう一人の自分に向き合えば、写経も、禊ぎも、夢愛(め)でる。

    これは!と感じる卓見には、今更ながら何度も唸っていた。
    “生前の身分を知りたい”という師の想いが反芻して伝わってくる。
    また、著書中には何回も同じ内容が繰り返されており、ハッキリ言
    って私はくどいと思ったが、くどいほどに伝えたいメッセージには
    受ける側の想念レベルによって、意識も返って通るもののであった。

    ・・・過去にその繰り返す書籍について、読書家に話してみた。
    彼曰く、素人が慣れずに文章や本を書くと繰りかえすけど、プロの
    小説家なら、理由がなければ繰り返し書かないんだよね、と言われ
    たことがあり、そんなものかナと、昔考えていたことまで思い出す。

    やがて写経も終盤になってくると不思議なことが起こってくる・・・。
    頭の奥なのかどこなのかわからないが、広大なスクリーンに言葉は
    模様として、色とりどり様々に表現されてきたのである。
    師の言葉は、言葉でなく、「共感覚」による感覚、そのものが如く。

    この共感覚(シナスタジア)は、とても研究甲斐のあるテーマである。
    以前、佐助相談役が「共感覚」について語ってくれたことがあり、脳
    と無意識と意識の狭間(胎児〜乳児期)、松果体と胸線(珪素系成長)、
    ミラーニューロン量子力学多世界解釈に関係するからである。

    それを単純明快、シンプル極まり、誰でも有り難く受け取るには、
    「調和」を感じて学び、「愛」をみずからの足元に育むことである。

    まさに「愛」とは、一つの方向を同時にみつめてときに絶頂を迎える
    ように、気持ちよくありがたく、壁もなく味わえるのかもしれない。
    肉欲の愛ではなく、「調和」に結んであるゆえに具現化する「愛」。

    昔懐かしいCMコピーではないが、「愛だろっ!愛・・・」という調和。
    (こういうオチが書きたくて書いているわけじゃないんだからねッ笑)

    ※愛の一言:愛こそは私達の良心であって欲しい。
          愛があらゆる心に染み渡るから、私達の世界は変わる。
          わたしたちはどこから生まれてきたか。
          愛から・・・。
          わたしたちはどうやって滅んでいくのか。
          愛なきゆえに・・・。

  • 昨日からの未来[岡村郁生(おかむら いくお)]

    「万病を治せる妙療法」この橋本敬三氏の著書は一番売れているらしい。

    万病を治せる妙療法―操体法 (健康双書ワイド版)

    万病を治せる妙療法―操体法 (健康双書ワイド版)

    橋本敬三師の書を22歳の私が初めて手に取り、読み進めていると妙な
    興奮と同時に気分のいい眩暈がしたのを覚えている。

    その理由は、『これを学んでいけば・・・僕は、ヒトを傷つけずに生きて
    いくことができるかもしれない!』という希望だったのである。

    多分、恵まれた家庭環境にて両親の愛を何不自由なく深く受けて育ち、
    太陽を浴びて育った、柑橘系のような爽やかな人間は、理解できない
    かもしれないが、太陽の光り降り注ぐなか、急にそれを断ち切られて
    外の世界も見えず、我が身の自由を拘束されたことのある人間ならば、
    理解できるかもしれない、そんな人生観もあるだろう。

    あまり良い表現ではないが、”鉄砲玉”という役割がある。
    限られた環境の中、必死に自分をみつめてあがき、信じ抜きたい故に
    、例えそれが欲であったとしても、その役割がどんな理不尽であった
    としても、受け入れてしまう人間はいつの世も存在してきたのだから。

    禊ぎの写経は、始まりから中盤まで、ひどい自己葛藤に苛まされた。
    読むのと違って、書き写している自分を常に否定しようとする自分が
    居て、『なにやっちゃってんの?一体何の役に立つの?その時間でも
    っと他の本を何冊もよめばいいのに!』『書くこと一回よりその時間
    で内容を五回以上繰り返したほうが頭に入るって知らないの?』等々。
    今まで蓄えてきた知識ある自分は、ただ黙々と写経している自分を隙
    あらば否定しに来るのである。それは厳しく激しい攻撃であった。

    そう、いつもこれで止めてしまう・・・しかし、今回だけは違った。
    イライラしながらも、そんな自分を赦し、そんな感情を見詰め、また
    受け止め、打ち勝とうとする自分をも見詰め、そのかたくなさを赦し、
    少しづつ、少しづつ、何を赦しているのか?何を溶かしているのか?
    それを、ただただ写経しながら在る自分もいて、ただ頼もしかった。

    その自分とは、今まで出会えなかった姿でもあり、ひたすら娘からも
    らった文具と、家内からもらったノートに勇気をもらい、起きては書
    き、仕事の合間に書き、プライベート一切を削り、食べることを惜し
    んでは書き続けて、夜はひたすら泥のように眠ってまた起きて写経。

    残り三分の一を超えた頃、ランナーズハイが如く、丸々一日中座って
    いるにも関わらず、カイているのが紙でも”気持ちよくなってくる”。
    マス目にひたすら言葉を埋めているのに、囲炉裏で寛いでいるような
    なんとも言い難い至福の感覚さえ感じられつつ・・・マスにカク。

    それは非日常であり、常に「息」と「軸」について四六時中向かう。
    書く自分、読む自分、イメージする自分、橋本敬三師の想いまでもが
    現れてきて、少しづつ”自分という必要のない姿”を上空に巻き上げ、
    必要な姿だけを映し出しては削っているのであった。

    削っていくといえば、丸太をノミとカンナで削って仏像を彫ることに
    似ているのかもしれないし、真っ白なキャンパスに下地を描き、そこ
    で表現できる全てを満たしたあと、また真っ白に塗りつぶし、本当に
    描きたいことを、もう一度塗りしていくことにも似ている気がする。

    どちらにしろ、禊ぎを感じていることは確かであり、そこに藭はいる。
    藭なんて言葉を用いなくとも、”からだは悦んでいる”それが『愛』。

    ふと、職場に入って声を上げて唱えている儀式を思い出してきた。

     この世に生を受けたこと 現象以前の救いである 
     このサトリを得たものは 人生の至福を得たものである
     己自身の光で 変わりゆく自然をみる すべてによしと
                        (御言霊より)

    感謝しなくっちゃバチがあたるッてのは・・・ホントなのだ、ありがたい。

    ※愛の一言:幸福を受け、幸福を送るのは常に人間の悦びである。
          愚か者は幸福がどこか遠いところにあると思い込むのだが
          賢者は幸福を自分の足元に育てているのである。

  • 昨日までの未来[岡村郁生(おかむら いくお)]

    橋本敬三師の著書のうち、初めに読み終えた「万病を治せる妙療法」を
    写し取る際に「からだの設計にミスはない」との違いに注目した。

    からだの設計にミスはない―操体の原理

    からだの設計にミスはない―操体の原理

    この本だけは「般若身経」における”自然体”で立つときの膝を、
    ”ホッ”とゆるめる、と記載してある。

    昨年の秋季東京操体フォーラムの実技指導の際に、三浦寛幸実行委
    員長、瀧澤副実行委員長を中心に、”ホッ”と膝をゆるめることに
    ついて指導していたが、私も身内ながら・・・この説明がまたイイ塩梅
    であり、つくづく嬉しくなったのを思い出した。

    東京操体フォーラムは言わずもがな、三浦寛理事長の講習を受けてい
    る実行委員の団体であり、からだの使いかた、からだの動かしかたを
    立位を維持する人間の構造力学・運動力学上において、如何に理に適
    っているか、どれほど大切なのか、を追究して飽くことなき探求の末、
    常に「般若身経」を学びつつ現在まで深化してきたのである。

    元々ヒトは動く建物であり、”つくりがあってうごく”のであるから、
    つま先と踵を平行にして立つ状態から、左足つま先を内側に向け半歩
    前に出すことによって、よりよく”からだは自由になれる”のだが、
    これも”ひざをホッとゆるめる”ことから始まっているのである。

    ・・・ということは、逆を返していえば、”膝を伸ばしたまま”で身体
    を使い、動かしていたなら、深化はなかったということでもある。

    初期の記載を重要視して、”膝を伸ばしておいて般若身経”を行うこと
    をかたくなに維持する理由とは何か?変えたくない理由は何なのか?

    写経中に、痛いほどそれがわかってきた。イライラが収まってきた。

    たったひとこと、たった一行、たった一瞬の気付きは、永遠に時を止
    めることを許さず、”高度に培ったもの特有の熟成させゆく悦び”を
    必然としてしまったのである。

    贈られし祝福、学びゆく悦び、これこそ”愛”・・・まさに、愉悦の愛。

    ※愛の一言:秘められし自然法則の一つのあらわれ、それが”美”。
           もしそれが美となって現れなければ、自然法則は永遠
           に、私達から秘められた状態なのだ。   
              

  • 空きを見詰める[岡村郁生(おかむら いくお)]

    初日に書いていた、橋本敬三師の著書を丸ごと書き写しているときの
    心境の変化はとてもドラマチックだった。
    例えるなら、青春の初恋までの感覚に似ているかもしれない。
    四十半ばを過ぎ、このような感情変化をリアルタイムで味わえたのは
    我が生涯において、いつ朽ち果てたとしても忘れないだろう。

    とにかく、他人に強制されてやるべき事を決められるのが、何よりも
    苦痛な私にとって、いくら三浦理事長を師匠と仰いでも素直に写経で
    きなかった為、ズルズルと五年近く引き延ばしていたのだから・・・。

    それが五年越しに、今回だけはやり遂げることができた。
    なぜかって? その、理由はたった一つ。
    「写経(=丸ごと書き写すこと)は、自分の”禊ぎ”になる」と聞いた時、
    ”ン!”とキタからである。

    ハッキリ言うが、私はドス黒い心を抱え込んでいる人間なので、多分
    「環境」が今・現在のように家族を持てること自体、共に働いてくれ
    る人達がいること自体、そして臨床を受けに来てくれる人達がいるこ
    と自体、共に学びあえる同志がいること自体、とっても不思議なのだ。

    ドス黒いからこそ真っ白な自分自身に憧れ続ける自分もいる。
    できるかぎり身のまわりを清く保つことで、なんとかなってはいるが、
    隙あらばダークサイドに染まろう、落ちて万歳という混沌も含むのだ。

    そんな自分を知っているが故に、他人の力を借りず、自力自療が如く、
    自分の意識で禊ぐことのできる、”みそぎ”という言葉に惹かれたのだ。

    言魂は選びゆくものであるなら、生き様も性格も選んでいいのである。

    ※愛の一言:自分自身を真剣に掘り下げれば、自分自身が半分の存在で
          あることに必ず気付くものだ。
          そこで、自分自身を完全なものにするために、一つの世界
          を求めることになるのである。