カテゴリー: 未分類

  • まずは自分自身で。

    おはようございます。

     昨日のブログを書いていて思ったのですが、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉は、そのまま操体の学びにつうじるものがあります。
     操体を学ぶ者としては、自分のからだにききわけるという実践をとおして、より良い生き方生かされ方を追求している訳なのだから、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という言葉には、実践を伴った日々の学びが進行形としてイメージされてきます。

     やはり、自分自身が気持ちよく感じた事でなければ、なかなか自信をもって人様には提供できないのです。このあたりが症状疾患に対するテクニックと違うところでもあります。
     操体は感覚重視。なぜ感覚重視なのかというと「気持ちよさで治る」「気持ちよさで良くなる」からだ。どんな症状疾患現象も、からだの歪みと異常感覚の継続的意識存在がある。

    異常感覚には色々あるが一言で言えば「気持ちが悪い」ということであり、この気持ち悪さをすぐに解消できていれば、ボディに歪みがあってもバランスは間に合っている。ストレスに対応する為に、ボディを歪ませているという事もあるのだ。
     しかし、気持ちの悪さが継続することで、ボディの歪みそのものが、新たなストレスとなり、様々な症状疾患現象の元となってしまうのだ。

     たかが肩こりといっても、気持ちの悪さの継続がある人は、メニエール症候群とか頸肩腕症候群とかをはじめ、腰、膝、足、内臓までの色々な症状疾患現象や精神疾患を抱えている場合がある事は、臨床家であればいつも経験している事だと思う。
     カルテに書き込んでいただけば、書き込めないぐらい多くの症状疾患名を書き込む人もいる。その一つ一つの症状疾患現象に対して施術しても埒が明かない。多くの臨床家は、その根本原因に目を向け、そこから主訴の解消へ導こうとする筈だ。操体は、その根本原因の根本まで突き詰めている。ボディの歪みと異常感覚。

     ボディの歪みは、からだのツクリと動きに歪みが生じている事を指す。客観的に診た形態の変化だけを指しているのではない。その動きによって歪体化が進行したり、元に戻ったりする訳だから、その動きの感覚というものが非常に重要になってくる。
     気持ちのよさで治る、気持ちのよさで良くなるとは、根本原因であるボディの歪みが気持ちのよさを味わう事によって正され、結果的に症状疾患現象も良くなるという事なのだ。

     気持ちのよさの質というものも重要になってくる。からだの要求している質の高い気持ちのよさほど、快復に向かう原動力となる。だから、気持ちのよさはききわけるものなのだ。
     本人がからだにききわけ、からだの要求に則した気持ちよさを十分に味わう。ここにも、操体が単なるテクニックとは違う所以がある。操体は自力自療なのだ。

     気持ちよさはききわける事に意義がある。だから操者は「気持ちよさがききわけられますか」と問いかけねばならない。決して決め付けでもって「これ、気持ちいいでしょう」とか言わないことだ。
     これだと何かテクニック自慢のような感じだし、心とからだのアンバランスを抱える人には対応できなくなってしまう。ボディの歪みと異常感覚の継続を抱えた人は、自分の心と身心(みこころ)のアンバランスも抱えているのだ。だから気持ちよさを本人がききわける必要がある。どんな感じなのか、からだの感覚をききわける意識行動によって、自分の心と身心との接点、接触が生じる。これを蔑ろにしてはならない。
     気持ちよさには、からだからのメッセージが含まれている。人によっては、それを感じると、思わず両手を合わせる人もいる。無条件の愛。からだに貫通する宇宙現象創生の中心理念である「愛と調和」に触れた瞬間でもあると思う。

     これに触れる、これに気づくと、その人は素直にからだに向き合え、やさしくなれる。そして、心とからだの調和をとおして自然良能作用は更に増す。そして不快な状態に戻りづらくなる。
     からだに貫通する無条件の愛の有り難さを感じ、調和が密になり、バランスがより良くなっていくという事だ。この事は、操体の臨床は精神疾患に対しても、非常に有効だという事も示している。

     より質の高い気持ちよさ、より心とからだの要求に則した気持ちよさを、相手にききわけていただけるよう、操者も質の高い気持ちよさを識る必要がある。
     識る必要とは、見たり聞いたりして知っているではなく、実践して体感をとおしての蓄積が必要という事。自分自身に宿る原始感覚と向き合い、より快へと舵をきって行く、その実践のなかで、からだに貫通する無条件の愛の有り難さを、幾度となく感じることだろう。これが相手に、より質の高い快をききわけていただきたい、という感恩奉仕の原動力になる。また、それに対する自分の精進にもつながる。
     操体法はテクニックではない、とよく言うがテクニックを超えているのだ。超えたところに、からだがより良くなる本質がある。愛と調和の、その本質と真理の追究こそが操体臨床であり、操体臨生の学びなのだ。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年1月

    今日で2015年1月も終わりです。
    うぐいすの声も
    そろそろきこえてくるでしょうか。

    真摯に、
    何かに向き合っている人には、
    とても大きなエネルギーが流れているようです。
    その流れには、優しさがあります。
    優しさは、自然と調和するなかでうまれるのでしょう。

    優しく、力強い流れに、
    からだは、
    引き寄せられていくのだと感じています。
    そのエネルギーが、自然治癒力を高めてくれるのではないでしょうか。
    優しく力強いエネルギーである愛に、
    からだは引き寄せられるのです。

    一週間、ありがとうございました。
    明日から、岩手のてまり堂temaridoより
    お届けいたします。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年1月

    近所に綿の木を育てている方がいて、
    11月頃になると、綿が吹き出しています。
    『ふわふわ』したものが枝についている光景は、
    なんとなく、優しい気持ちになります。
    今朝は、その綿の上にも雪が積もり、いつもより少し大きな綿になっていました。
    急ぐ気持ちに、つかの間の休息を与えてくれます。

    あせをかきながら、学問に取り組む師の姿を感じながら、
    わが身を置き、学ぶことのできる環境は、

    どんなに幸せなことでしょう。
    どんなに嬉しいことでしょう。
    こころの豊さに包まれた日々は、創造性に富んでいます。
    追いつくことのない目標を、追いかけている時間は、
    集中をこえて、
    熱中しています。

    宮大工、小川三夫さんの著書『棟梁』という本があります。

    棟梁―技を伝え、人を育てる (文春文庫)

    棟梁―技を伝え、人を育てる (文春文庫)

    以前に、小川さんのお話を聞く機会があり、その時に出会った一冊ですが、
    そのなかに「早く言葉というもんから離れないと、頭も体もいうことをきかんぞ。」
    「体から体に技や考えや感覚を移すのが職人の修行だ。」という文章があります。
    ひとつひとつの文章を噛み締めながら読みました。
    技を伝え、人を育てる、愛を感じる一冊でした。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

  • 2015年1月

    今朝、自宅前の花壇に、霜柱が立っていました。
    こどもの頃、霜柱を踏み、
    あの感触と音を楽しみながら、
    学校へ向かったことを思い出します。

    しかし、今朝は、踏まずに、美しい結晶を眺めました。土の中から、真っ直ぐに伸びる霜柱。この美しい結晶のように、私も、真っ直ぐで透き通るような美しい心で、何事にも取り組みたいと思いました。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

    快からのメッセージ―哲学する操体

    快からのメッセージ―哲学する操体

    からだが答えてくれる、
    『快適感覚』『生体感覚情報』は、
    からだの要求であって、
    患者の自我でもなく、
    操者(治療者)の要求でも、ないのです。
    操者(治療者)が欲張ると、
    からだは、答えてくれなくなります。
    「バルの戒め」を忘れてはいけないのです。

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

    生体の歪みを正す オンデマンド版―橋本敬三論想集

  • 2015年1月

    今日もサボテンは、
    光を浴び、太陽に向かい、
    いきいきとしています。

    「2015年春季東京操体フォーラム」開催決定
    4月29日(祝)に開催いたします。
    『目からウロコ』のプログラムを企画しております。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

    尊い、いのち。
    『からだは尊いいのちである』という意識をもつと、
    からだは、診断することを許可してくれるようです。

    快からのメッセージ―哲学する操体

    快からのメッセージ―哲学する操体

    「快からのメッセージ」
    現在、第7刷が増刷されているようです。
    ずっと欠品で、入手ができなかった皆さま、
    たにぐち書店からお買い求め可能です。

    からだに真摯に向かい合うと、
    からだは、素直に答えてくれるようです。
    『生体感覚情報』『快適感覚』を答えてくれます。
    からだは、尊く、敬う愛に真摯に答えてくれます。
    愛に真摯に答えてくれます。

  • 2015年1月

    窓際に置いてあるサボテンは、
    太陽に向かい微妙に傾斜しながら、成長しています。
    自然のおりなす、エネルギーを感じながら、
    春が待ち遠しい毎日です。

    東京操体フォーラムの春の活動である、
    「2015年春季東京操体フォーラム」の開催が決定致しました。
     4月29日(祝)に開催いたします。
    詳細は以下、「東京操体フォーラムHP」をご確認ください。
    [http://www.tokyo-sotai.com/?page_id=980

    操体には、「動かして診る」動診という診断法があります。

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

    操体臨床への道しるべ―快適感覚に導く診断と操法

    正しく診断をするためには、
    からだを愛することが、必要だと思います。
    誤解がないように記載しますが、
    ここで私がいうからだを愛するとは、
    肉体的に愛することではなく、
    尊い命であるからだを敬う、尊ぶという愛です。
    真摯にからだと向き合い、
    尊い命を敬う愛があり、心があり、
    診断はできるのだと思います。

  • 2015年1月

    大寒を過ぎ、肌にしみるような寒さを感じることが
    減ってきたように思います。
    寒さが、「ここちよい」と思う日もあれば、
    「あ、寒いな」と感じる日もあります。

    目を地面に向けると、
    フキノトウが顔を出し、
    着実に準備をしています。
    春の香りがたのしみです。

    昨日、「バルの戒め」について書きましたが、
    愛するには、
    本当に「頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな」が、
    大切です。
    愛するということは、必ず対象となるものがあります。
    それは、物や環境であったり、人や自分だったりします。

    「頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな」を
    意識の中におくことで、
    私は、
    愛することに、
    必要以上の悩みが発生しなくなってきたと
    感じています。

    対象が何であっても、
    ともすると行き過ぎになってしまう、愛。
    それにより、
    愛が、
    苦しみや悲しになり、
    物はあふれ、本当に必要なものがなにか、
    わからない。どうしよう…。

    ふと、「頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな」を。
    きっといい方向性を導いてくれると思います。

  • 2015年1月

    ”愛”のバトンを受け、
    今日から一週間担当いたします。
    よろしくお願いいたします。

    空を見上げると、三日月が
    光を放っているのに気づき、
    足を止めていました。

    心落ち着く、ひとときです。

    「我々は愛については多くの情報を得ることができる。
    しかし、それは愛を知る手助けには決してならない。
    愛は唯一、現実に愛することによってのみ知ることができるものだ。」
    日下実行委員の文章に、
    橋本敬三先生のおっしゃられた、「バルの戒め」を
    思い出します。

    頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るな
    愛は、頑張るな、威張るな、欲張るな、縛るなです。

  • 愛 7

     愛とは、我々の存在の内奥無比の核心におけるラディカルな変化であり、それは、一つの経験であり、実存的で味覚のようである。
    そしてまた、本当の食べものは実際に愛のシンボルでもある。
    我々はなぜ自分が母親を愛するのか観察したことがあるだろうか?
     
    なぜ母親と子どもの間にはあれほどに強い愛が存在するのだろうか?
    それは、母親というのは子どもにとって、胎児にとって最初の食べ物であるからだ。子どもは母親を食べてきた、子どもは母親の胎内に入ってきた。そして子どもは母親を、最初の愛の源泉というより食べ物の源泉として自覚する。後になってから、子どもが意識の上で成長してゆくようになると、当然のことのように母親への愛を感じるようになってくる。

     食べものが最初で、その後に愛が続く。そして食べ物と愛とは、それが同じ源泉からくることからいっしょに結びついて考えられる。だから、もしどこかの家を訪問して、何も食べるものを出されなかったらいい気持ちがしないのはこのためだ。我々は拒否されたように、愛を与えられなかったかのように感じる。その家の人たちにとってあなたは客ではなかったのだと・・・・・・。

     もし食べ物や飲み物を出されたら、たとえその人たちがどんなに貧しく、たいしたものは差しだせないにせよ、その人たちの持っているものを何であれ出してくれたなら、我々は好感、安心感を抱く。我々は快く迎えられたのだ、その人たちは食べ物をあなたと分かち合った・・・・・・。というのも食べ物は愛を連想させるものだからだ。

     女性が男性を愛するときには、必ず男性のために食事を用意したがる。彼女は食事を差しだしたい、彼に食べてもらいたい。もしそうすることが許されなかったら、女性は不安を感じる。そのように愛は食べ物を通して流れてゆく。

     愛は眼に見えない。だが、愛には眼に見える乗物が必要だ。それによって食べ物の質自体が即座に変わる。もし彼を愛している女性が彼の食事を用意するとしたら、それは違う質をもつ。その質は化学者が分析できるようなものではない。が、とにかく違う質をもつ。

     もし怒っている人が、あるいは敵対してあなたを憎悪している人が食事を用意するとしたら、それはすでに毒されている。なぜなら、怒り、憎悪、嫉妬などは血の中にあるからだ。それらには独特の放射力があって、手を通して食べ物に入ってゆく。

     もし本当にあなたを憎悪している女性があなたの食べ物を用意するとしたら、彼女は知らない間にあなたを殺すことさえできる。が、どこの裁判所も彼女を裁くことはできない。あなたの食事を用意する女性が本当にあなたを憎悪しているとしたら、彼女と暮らすのは大変に危険なことだ。それは効き目が遅い猛毒薬になる。

     だが、もしあなたを愛している女性なら、彼女は食べ物を通じて自分の生命を与える、彼女は食べ物を通じて自分の愛を与える。彼女は食べ物を通じてあなたの方に動いてゆく。

     このように食べ物は非常に基本的なものであり、それは分かち合うことができる。そして分かち合いを通して我々は自分の動物性を背後に置き、本当の愛ある人間になれる。

     今回は最終日まで操体につなげることができなかった。振り返ってみると、テーマ「愛」にこだわりすぎたのかも知れない、たまにはこういうこともある。操体へのつながりは明日から担当する香実行委員に期待したい。

  • 愛 6

     愛はオーガズミックであり、我々の生命エネルギーは絶えず流れている。そのように実存もいつも途切れることなく流れてきた。これら二つの流れが出会い、互いに混ざり合って溶け合うと、一つのより高い統合が生まれる。それは部分が全体の中で出会い、全体が部分の中で出会うことによって、部分と全体を一緒にした以上の何かが生まれることになる。そのように出会いが起こったら、その何かが愛というものであろう。

     だから、愛こそ、人間の言語の中で最も意義深い言葉の一つだと言えるのではないだろうか。というのも、愛は実存的な言語だからである。しかしどういうわけか、子どものときから我々は不具になってしまった。それは感性につながる我々の根が切断されてしまったということであろう。我々は頭脳に向かうよう強制され、感性に向かって進むことを許されなくなってしまった。それは、長い間人類が苦しんできた一つの惨禍である。つまり人間は依然愛とともに生きることができないということになる。

     なぜなら頭脳は結果指向であるが、愛にとって、未来は存在し得ない。愛には、ただ現在だけが存在する。我々はこの瞬間に在ることはできるが、次の瞬間について考えることはできない。そのように愛においてはどんな計画も可能ではない、それは予測不可能だ。

     しかし、社会、文明、文化、学校のすべてが子どもたちに対してもっと論理的になるよう強制している。それは子どものエネルギーを頭脳にもっと集中させようとする。そしてひとたびエネルギーが頭脳に集中してしまったら、その同じエネルギーが感性に向かって移動するのは極めて難しくなってくる。

     事実、子どもはすべて大いなる愛のエネルギーとともに生まれてくる。子どもはすべて愛のエネルギーの中から生まれる。子どもは愛と信頼で満ちている。そんな幼児の眼の中を覗き込んだことはないだろうか? 子どもたちはどんなに信頼していることか。だから子どもは何でも信頼できる。子どもは、毒蛇とだって楽しく遊ぶことができる。子どもは、誘拐犯であっても一緒について行くことができる。子どもは、危険なほど火のすぐ近くに行くことができる。なぜなら、子どもはまだ、どう疑うかを学んでいないからである。

     それから、我々大人たちが疑い方を、懐疑主義を、論理を子どもたちに教えるのである。どうやらこうしたことは生存していくための尺度のようだ。我々は恐れを教え、用心を教え、思慮分別を教える。そして、これらが一緒になって、愛の可能性を完璧に殺してしまうのだ。

     そして大人になった我々が他人を愛せなくなるのは、その大人たちが偽るからである。大人らは物を愛し始める。というのも、物を愛する必要は大いにあるからだ。我々は代用品を探し続ける。ある人は自分の家を愛している。ある人は自分の車を愛している。ある人は自分の服を愛している。ある人は自分の金を愛している。もちろん家は我々を騙すことはできない。その愛は危険ではない。我々は車を愛することはできるが、車はリアルな人間よりあてにできる。我々は金を愛することができるが、金はすでに死んでおり、いつも我々の管理下にある。

     なぜ、こんなに多くの人々が人間より物を愛するのだろう? それに、たとえ我々がときには人間を愛したとしても、その人間を物に縮めようしてしまう。もし男性が女性を愛したなら、即座に彼女を妻に縮小する用意がある。つまり、男性は彼女をある役割に、妻の役割に縮小する用意があるということだ。なぜなら、妻であったなら、愛する人のリアリティーよりずっと予測可能だからである。

     同じように女性が、もし男性を愛したら、彼女は彼を物のように所有する用意がある。彼女は、やはり彼が夫になることを望んでいる。というのも、恋人の間柄ならもっと流動的であり、それはどうなるものかわかったものじゃない・・・・・・。恋人より夫のほうがずっと堅実に見える。少なくとも婚姻の制定が民法にあり、法廷があり、検事も警官もいる。また、夫に一定の堅実さを与えてくれる政府もバックに控えている。

     しかし、恋人というのはまるで夢人のようだ、あまり実質的ではない。だから人は恋に落ちると、すぐに結婚したがる、その用意がある。こんなにも愛に対する恐怖が存在しているということなのだ! そして、誰を愛したとしても、我々は相手をコントロールし始めることになる。これが、妻と夫の間で、母親と息子の間で、兄弟と姉妹の間で、友達との間で続いている葛藤であろう。誰が誰を所有するのか? これの意味していることは、誰が誰を限定するのか、誰が誰を物に変えるのか、誰が主人で誰が奴隷になるのか? というようなことに尽きるのではないだろうか。