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  • からだの動きは腰主動から末端主動に移行して久しい。日々、末端主動がいかなるものか
    道理にかなうようである。それは、末端の動きをとおしてゆくことによって、重心移行という
    新たな法則性が誕生した。

  • 仙台での行動は滞在日数にかかわらず常に決まったパターンであるが、
    僕自身はとても満足だ。行けばいつでも四季の変化とかほりと色がある。今度はそろそろ紅葉と落ち葉の華がある
    橋本先生が眠る葛岡霊園に。あの街道沿いは紅葉が素晴らしかったね。

  • 先般、11月はじめ、予定がうまく空いたのでそれーっとばかり
    橋本先生のお墓参りに行って来ました。一端それっと決めたら行動は素早い。
    これも、一人で開院している強みなんだろうな。
    それに全て顧客の予約で収まっているのでいたって自由が利く。

  • 二日目

    四、五日前から「合気道神髄」(1990年柏樹社)を読み出した。読み出していると読んでいるだけで
    勿体ないという気になって写し出した。読書とは字の如くヨミカキである。
    ぼくは、これ、大切、少しは魂に刻んで置きたい本は写すことにしている。

    合気神髄―合気道開祖・植芝盛平語録

    合気神髄―合気道開祖・植芝盛平語録

  • 初日

    今週担当の三浦です。

    本年も残すところわずかになりました。毎年このようなコトバを残しているような気がします。
    一日24時間、一年365日、一年で8760時間。

    いったいぼくはこの一年何をやってきたのかと問いかけています。
    ぼくは毎日欠かさず日誌をつけています。
    時に一日何ページにもわたって書き添えることもあって分厚いノートが半月もたずに
    終わってしまうこともあります。今年は15冊にもなりました。この日記帳は人生まるごと本業ですから一日のまるごとをあからさまにしています。
    日誌をつけていますと一年間、ぼくが何を考えてきたのか、何をどのようにやってきたのか
    365日分の自分の言動が手に取るようにわかります。
    こんなご時世ですから、このめまぐるしさについつい自分の人生が見えなくなります。

    日誌をつけることも一つの豊かな愉しみです。
    小さな、小さなことですが、日々書けることがあることがあることに感動しています。

  • 環境

    先日の秋季東京操体フォーラム初日において環境学について少々
    話しをさせて戴いたのですが、如何せん30分という時間において喋り
    きることは不可能でしたので、補足も込めて最終日に書かせて戴きます。

    操体の根源的思想ベースに『息食動想』があるのはご存じだとは思い
    ますが、これに『環境』が入ります。
    この要素が過不足無く整うことで、私たちが健康的且つ幸せな人生を
    送ることが出来ると操体では説いています。

    この息食動想+環境に関しては橋本敬三師が理論的構築をされた当時
    と大きく変化したものが幾つかあります。一つは多様化した食生活と、
    もう一つがテーマにしています『環境』です。

    私が考える『環境』とは単純な自身の身の回りの生活環境とかでは無く、
    地球上に住む生命体として、宇宙+地球環境との相関性のことです。

    私たちが地球上において快適に生活する上で重要なのは、活かされし宇宙
    からの生命力と同調しながら如何に命を育めるかだと思います。
    夏には夏の過ごし方、冬を越えていく支度も必要になるはずです。
    同様に人生においても暖かい春もあれば厳しい冬もあり、それを如何に
    乗り越えるかも環境学におけるテーマでもあるのです。

    そしてこの宇宙からの生命力を上手く活用すれば、人生におけるフォロー
    の風を背中に受けて、自分の思い描く素晴らしき人生も歩んでいくことが
    可能になって来るのです。

    そしてこれら宇宙の生命エネルギーは一定の法則によって運行しています。
    その一定法則を理論化したものが『九星氣學風水です。

    とかく物知り顔な方に『氣學』等の話しをすると、「あ、氣學ね俺の一年占ってよ」
    などと疑い半分、半信半疑で聞いてくる方がよくいらっしゃいます。
    非科学的だとか証明出来ないなどと。

    イギリスのノーベル文学賞受賞作家であるジョージ・バーナード・ショー
    『たかだか200年の産業革命以降の近代の智恵など薄っぺらい、数千年続いた
    人類の知恵は一つも擦り切れていない。数千年の人類の智恵を見直すべきだ。』

    と言っています。

    この氣學の考え方とは元々、孔子の基本的な考え方で、2500年前に孔子
    考えた天体学と世界観を現代語で今の世界にそのまま活かせるように説明をしています。

    この氣學の考え方のベースになっていますのが、『天・地・人』の考え方です。
    全ての生命力は『天』にあると考えました。天とは宇宙の生命力そのものであり、
    日本で言えば神とか仏と考えても良いかと思います。

    その天が『甲(きのえ)乙(きのと)丙(ひのえ)丁(ひのと)戊(つちのえ)
    己(つちのと)庚(かのえ)辛(かのと)壬(みずのえ)癸(みずのと)』
    の10通りあります。

    そして『天』によって受けた氣によって『地』の氣が立ち上がります。
    地氣は12通りで『子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥』
    となります。

    この地の気を受けて、始めて我々の『人』の気が立ち上がるのです。
    因みに人気は9通り『一白水星・二黒土星・三碧木星・四緑木星・五黄土星
    六白金星・七赤金星・八白土星・九紫火星』
    になるわけです。

    これら『天・地・人』を組み合わせると、今年一年の宇宙の生命エネルギー
    の方向性が出て来るのです。当然、今月一ヶ月の傾向、今日一日の傾向も
    確認することが可能です。宇宙の生命エネルギーの方向性と同調しながら
    日々の生活が送れれば先程も述べましたように、健康で豊かな生活を送ることが出来ます。

    これをパッと見て分かるように作られたのが『後天定位盤(こうてんじょういばん)』
    と言われるものです。

    この後天定位盤は三種類存在し、『年盤』『月盤』『日盤』の三種類です。


    ↑今年一年の大きな動きと傾向を見ます

    ↑今月一ヶ月の動きを見ます

    ↑今日一日の動きを見ます

    これらを目的別に使い分けていくのです。これ細かいこと書き始め
    るとブログ一週間かかりそうなので、又、何かの機会にお話出来れば
    幸いです。。

    これが分かると、電話がかかってきたクライアントの住所から、
    症状疾患と潜在的な要因などが分かるようになります。

    先日電話があった方も会社の社長さんで、日盤方位からみると
    腰痛症状であることは分かり、会社の後継問題などで、潜在的トラブルを
    抱えていることも想像がつきます。

    来所戴いた時に話しの流れで、ボソッと子供さんがお二人いらっしゃって
    娘さんが二人で四代目はどうなるかなぁ〜などと、当初の予想通り
    後継問題で半ば諦め気味にお話をされていました。

    これ、不思議と抱えている問題を口に出すことで身体に変化が起きてきます。

    宇宙は個々人が持っているエネルギーに見合った物事を目の前に提供します。
    その人個人が持つエネルギー量に見合わないモノを宇宙は与えないのです。
    人間が得てして同じような出来事でつまずいたり挫折するのも、そこを超える
    要素が足りないからに他ならないのです。

    施術に関しても施術者のエネルギー量に合わないクライアントとは
    縁がないでしょうし、宇宙もその手配は行わないでしょう。

    『どんな施術』をするのかが重要ではなくて、『誰が』その施術をするのかが
    重要であると言えます。極端な話クライアントにとっては操体だろうが
    他の施術だろうが関係ないのです。良くなれば良いのです。

    理想の施術とは触れる前に治っているということを出来るのが
    ベストなのです。身体にストレスを与えない、より本人の治そ
    うとする力を引き出せるような施術。

    『名人』は全てに通ずと言われますが、合気道の大名人、塩田剛三
    合気道で一番強い技、それは自分を殺しに来た者と友人となること。」
    と言われています。
    これこそ、人を制し空間を制す、名人の成せる技だと思います。

    今回も一週間お付き合い戴き有難う御座いました。
    明日からは大名人三浦先生の登場です。

     

  • 黄泉比良坂(よもつひらさか)

    出雲シリーズ(笑)最終日は子供の頃に聞いてトラウマになりそう
    だった『黄泉比良坂(よもつひらさか)』をご紹介致します。

    既に出雲シリーズと言いながら、この場所は出雲は出雲でも東出雲
    という、松江市になりますが、神話の世界を語るに当たって重要な
    ポイントであり、あの世とこの世を繋ぐとても大切な場所なのです。

    私、別名福田トラベルとも呼ばれていて、他府県からお客様がいらっ
    しゃると、島根の観光名所を色々とお連れ致しております。
    その際には松江城やら出雲大社といったスタンダードコースから、
    マニアックな『八雲風穴』や『稲田神社』など、色々とご紹介して
    おりますが、唯一、どなたもお連れしていないのが、この『黄泉比良坂』です。

    この場所、駐車場もあり、分かり難いながら看板もあるのですが、
    何だか気が重いのです。。夜に行くのはトンでも無く、昼に行っても
    何だか薄暗い感満載で、空気の流れが場所によってヌルくなったり、
    ヒヤッとなったり、どうにもこうにも説明しにくい雰囲気で充満しているのです。

    黄泉比良坂は記紀”日本誕生神話”に出て来る非常に重要な話しと場所です。
    国生みの話に出て来る、男神伊弉諾尊イザナギノミコト)』女神
    伊邪那美命イザナミノミコト)』
    はオノコロ島立って、『淡路、四国、
    隠岐、九州、壱岐対馬佐渡、本州』
    いわゆる大八洲(おおやしま)の
    国土を二人で作られました。

    その次に、その国に住む様々な神々をお生みになり、最後に火の神
    をお生みになったが、この時にイザナミは女陰を焼かれて亡くなっ
    てしまわれました。
    悲しみに暮れたイザナギは亡くなったイザナミに会いたくて、後を
    追いかけて『黄泉の国(よみのくに)』へ行きました。

    ってこの後延々と話しが続くので、少々すっ飛ばしますが、亡くなっ
    イザナミに会いに行ったイザナギだったのですが、既に黄泉の国の
    食べ物を食べてしまったイザナミは黄泉の国の神と相談するから、
    話しが済むまで私の姿は見ないでねって、鶴の恩返し的アプローチをして来ました。

    暫し待っていたのですが、痺れを切らしたイザナギは約束を破って
    覗いてみると・・そこには体中にウジのわいたイザナミの身体が横た
    わっており、身体の八ヶ所には雷(いかずち)が生まれたふた目と
    見られぬ酷い姿だったそうです。

    ムムム・・今で言えば朝起きたときに隣で寝ている彼女が化粧が落ち
    て別人の様だった的驚きでしょうか。。

    ま、驚いたイザナギは恐ろしくなって黄泉の国からスタコラサッサ
    と逃げ出しました。ところが、あれだけ見てはいけないと言ってい
    た恥ずかしい姿を見られてしまったイザナミは怒り心頭!逃げる
    イザナギに対して、黄泉の国の黄泉醜女(よもつしこめ)軍団を総
    動員して追いかけさせました。
    今で言えばゾンビ軍団に追いかけられるバイオハザード状態ってことで・・

    追われたイザナギは髪の飾りにしていた木の蔓(かずら)を投げつ
    けたら、ブドウがなったり、櫛の歯を折って投げたらタケノコが生えました。
    醜女たちがそれを食べている間に逃げられたが、終いには黄泉の軍
    団を総動員して来たので、最後に桃の実を投げつけて何とか振り切りました。

    そして最後の最後でイザナミに追いつかれたので、黄泉比良坂にあった、
    大きな岩で道をふさいでしまいました。
    ここにあの世とこの世の境が出来たわけです。

    そして怒り心頭のイザナミ『あなたがこんなことをしたからには、
    これから後、あなたの国の人間を毎日1,000人ずつ殺す!』
    と言いました。
    その言葉を受けイザナギ『お前がそんなことをするなら私は毎日1,500人の
    産屋(うぶや)を建ててみせる!』
    と宣言され、ここから日本の人口が増えたと言われています。

    ムムム・・神話ながら微妙に胸に突き刺さる展開に男性諸氏は身が引き
    締まる思いでしょう。。
    古事記には『そのいわゆる黄泉比良坂は、今の出雲之国の伊賦夜坂
    (いふやざか)である』
    と記されています。島根県東部に位置する
    東出雲町揖屋(いや)平賀(ひらか)地区には今でも伊賦夜坂あり、
    「平賀」という名称も「比良坂」が変化したと言われています。

    又、イザナミが黄泉の国に隠れた後を付けて通った谷を『つけ谷』
    呼びますが、今の伊賦夜坂入り口も揖屋附谷(いやつけだに)地区に
    あり、他にも名残ある地名が多数あります。

    イザナギは黄泉の国から帰った後、筑紫の国の阿波岐原(あわぎはら)
    で禊ぎ祓いをして、その時に左目を洗うと太陽神である天照が、右目を
    洗うと夜の神である月読命ツクヨミノミコト)
    が、鼻を洗うと素戔嗚
    が生まれました。
    神話の中で『三貴子(みはしらのうづのみこ)』と呼ばれるキーパーソン
    がこの時に誕生したのです。

    今回、六日間に渉り私の住む出雲地方にまつわる諸々の話しを書き
    ましたが、島根って地名そのものが、黄泉の国を意味する『根の国』
    から来ているという説も有ります。
    出雲という国は、神代とあの世を繋ぐ不思議な場所でもあり、
    秋季フォーラムでも話があったように、様々な宗教家が得も知れぬ
    大いなる波動を感じ、訪れています。

    大和朝廷にとって出雲族は脅威の存在でもあり、死者を甦らすほどの
    力を持った一団もあったと言われています。
    その不思議な手技を畏れ、手首を切断し全国各地へと放逐したとも言います。

    その不思議な力を生んだのは土地なのか?種族なのか?未だ未だ研究
    すべきテーマが古代出雲にはたくさん詰まっています。
    究極の治療とは『場』であり『人』であり、その両方を手に入れたもの
    が為し得る境地だと思います。

    ムムム・・古代史もチョットかじってみたくなった私でした。。

  • 荒神谷(こうじんだに)

    その場所は私の実家から車で僅か10分ほどの所でした。実家のあ
    斐川町という所は面白い町で、『神』と名の付く地名がポツ
    ポツ存在する場所なのです。
    『神守(かんもり)』『神氷(かんぴ)』『神奈火山(かんなびやま)』
    そして、今回のタイトルになっている日本の古代史を大きく
    揺るがした大発見があった『神庭(かんば)』もその一つでした。

    私が高校三年生位の時だったと思いますが、ひっそりと忘れ去られ
    たような『神庭』の里が連日、テレビや新聞等で報道され、号外が
    出るほどの大騒ぎになったのです。その世紀の大発見古代史ロマン
    てんこ盛りの『神庭荒神谷遺跡(かんばこうじんだにいせき)』です。

    その神の庭から出土されたのが、2年に及ぶ発掘調査で、銅剣358本
    銅鐸6個、銅矛16本が発見されました。
    何が凄いって、その当時、日本全国で発掘された銅剣の総数が300本
    程度で、一カ所からの発掘で総数を超えてしまったのです。

    この大発見があるまで、出雲に古代国家が存在したという意見には
    否定的な意見が多数ありました。梅原猛氏も荒神谷の発見があるまでは、
    同様でした。

    そもそも出雲って畑や田んぼから色々なものが出土しますので、多分に
    未だ眠っているお宝が沢山あると思います。
    ウチの柿畑も大変でした(笑)

    この荒神谷遺跡も1983年あたりに広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の
    建設に伴い周辺の遺跡調査が行われました。この際に調査員がたまたま、
    古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始されました。

    丘陵の斜面に作られた上下二段の加工段のうち下段に、刃を起こした
    状態で四列に並べられて埋められていました。
    358本の銅剣は全て中細形C類と呼ばれるもので、長さ50Cm前後、重さ500g
    余りと大きさもほぼ同じでした。弥生時代の中期後半に作られたようです。
    又、このうち344本の茎には鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれていました。

    神話は神話などと、実在すら疑念を持たれていたイズモが、荒神谷の
    発見により証明され、更にそれから13年後の平成8年には荒神谷から
    直線距離にして3.3Kmしか離れていない雲南市加茂町岩倉において
    『加茂岩倉遺跡』が発見されたのです。こちらも荒神谷同様に、農道の
    工事中に大量の銅鐸が出土したことにより発見されました。
    発掘調査によって、銅鐸の総数は39個となり、1ヵ所からの出土として
    はこれ又、全国最多となりました。

    古代史においてやはり、出雲が重要な場所であったということが、
    これによって確信に変わった瞬間でした。

    ま、それから30年経った今では、マニアしか訪れる人が居ない元
    の寂しげな場所に戻っています。。
    因みにフォーラム某相談役が来島されたときに行きたい!と言われて
    いたのはやはり、マニアだからですね・・・

    ところで、この荒神谷って名称ですが、荒神って呼ぶ位ですから、
    元々、荒神さんが祀ってあったのです。遺跡の南側に三宝荒神
    があったので、この名称が付きました。

    はい、この荒神さん、またしても素戔嗚尊絡みだったのです。。
    遺跡を丁度真下に見下ろすように素戔嗚尊荒神があるなんて、
    何だか色々と妄想が沸きませんか?

    実際にこの荒神さんに足を運んでみると、その場所だけ空気が
    変わるのが分かります。何とも言えない重苦しさと言いますか、
    張り詰めた空気と言いますか、ただならぬものをシッカリと
    感じることが出来ます。。

    中世の戦国期の混乱時にはかなり廃れていたそうですが、
    天保四年から続いた大飢饉の時に神庭西谷地区の村人たちが
    荒神さんを再度お祀りしたところ、神慮を得て、幸せに暮ら
    せるようになったとの言い伝えがあります。

    神庭地域の古老に伺うと、昔から遺跡が出たあたりは、神様の
    バチが当たるから入っちゃいけないとか、祟られるから駄目だって
    言われていたとのこと。

    本当は発見してはいけないものだったのか?などと古代史は妄想三昧ですな。。

  • お国

    さ、出雲シリーズ(笑)三日目の今日も記紀神話』の中から登場です。
    何度かフォーラムブログにも登場していますが、記紀の中では乱暴者
    で通っている素戔嗚尊スサノオノミコトが田んぼの畔を壊して
    溝を埋めたり、御殿に糞を撒き散らしたり様々な乱暴を働きました。

    様々なクレームが天照の元に届くのですが、最初はクレームをなだめ
    ていた天照も、自身が機屋(はたや)で織物をしている現場に皮を剥
    いだ午を投げ込まれ、驚いた織子の一人の陰部にシャトルが刺さって
    亡くなった事件が発生しました。。

    素戔嗚尊ファンの私としては多分に伊勢派の偏った解釈に納得はいきま
    せんが、記紀にはそれが切っ掛けで、天照が岩戸に籠もってしまい、
    世の中が大変なことになってしまったとあります。

    この時に天照を岩戸から出すために、天宇受賣命(アマノウズメ
    岩戸の前で桶を伏せて踏み鳴らし、神憑りして胸をさらけ出し、裳
    の紐を陰部までおし下げて踊ったそうです。
    今なら、壇蜜にやってもらうと良いかもしれません・・

    この大胆且つユーモラスな踊りに回りにいた八百万(やおよろず)の
    神々が一斉に笑い出したので、自分が世界の中心だと思っている天照は、
    私がグレて籠もっているのに何が楽しいんだ!とクレームの一つでも
    言ってみようかと、ついつい岩戸を開けて天照が外を覗いたと言いますのが、
    俗に言われる『天岩戸開き』ってやつですね。

    ま、私の解釈も多分に素戔嗚尊寄りなのでご勘弁を・・・
    このアマノウズメ壇蜜の楽しそうな舞が踊りの元祖などと言われております。

    そして、本題にある出雲大社近くにお墓のある方が、『歌舞伎』
    元祖と言われております、出雲の阿国です。
    出雲の阿国の出自に関しては奈良説、京都説など様々有るようですが、
    歴史的資料として一応の評価が定まっている、当時のお公家さん・
    西洞院時慶(にしのとういん・ときよし)の日記、『時慶卿記』
    慶長五年(1600)七月一日の条には、「近衛殿のお屋敷で、晩まで
    出雲のややこ踊りがあった。一人はクニという踊り子だった」
    という記述があります。
    その当時も、クニの生まれは出雲という感じがあったようです。

    話しはゴソッと脇道に逸れますが、この『ややこ踊り』って字だけ
    見れば”子供踊り”でカワイイ踊りのようにみえますが、ややこ(子供)の
    衣装を着て踊るわけですから、短い丈の衣装は腿が露わになり、見えそで見えない、
    何ともエロチックな踊りだったと言われています。娯楽の少ない当時の人々が盛り
    上がって見たのも分かります。

    『言継卿記』(山科言継の日記)によると、ややこ踊りは“春日大社
    でも踊られており、アマノウズメからの流れが脈々と息づいているの
    が分かります。

    この『ややこ踊り』をお国が演じた経緯は、出雲大社勧進(寄付金集め)
    のためだったとされています。
    記録によると、阿国は出雲大社の巫女となっていたのですが、打ち続く
    戦乱のために社殿が荒廃したため、造営資金を調達するために十人ほどの
    旅芸人一座を組んで、諸国を巡回したというのです。

    この頃(1600年頃)京都の公家達の日記に度々登場するお国はあくまでも
    『ややこ踊り』のお国であり、京都で爆発的な人気になっていく『かぶき踊り』
    のお国では無かったようです。

    『かぶき踊り』の記述が見られるようになるのは、大体、この三年後の慶長8年
    (1603)五月初旬、阿国は京都の四条河原に小屋をかけ、「かぶき踊り」を派手に演じました。
    武家の扮装、つまり男装をして舞台に現れた阿国が茶屋娘に扮した男を相手に
    踊りをおどったもので、この演出は大衆の心を虜にしたようです。
    ムムム・・これは歌舞伎と言うよりも『エロ宝塚』に近いかもしれませんねぇ〜

    ほぼ同じ頃、阿国一座は女院の御所へも伺候したらしく、舟橋秀賢の日記にも
    女院において、かぶきをどりこれあり、出雲の国の人』との記述が残されています。

    「常識離れしている、突拍子もないこと」を当時『傾く(かぶく)』といい、
    そうした行動をとる人を「傾き者」といいましたが、阿国の踊りもまた「傾く」
    ものであり、阿国自身が「傾き者」として大好評を得たため、この「かぶく・かぶき」
    から歌舞伎の名称も生まれたと言われています。

    以後、阿国は京で勧進興行をさかんに行い、これを真似た芝居が遊女
    によって盛んに演じられるようになって遊女歌舞伎となっていったのです。
    このように従来「神に捧げる」ものであった踊りや舞が、阿国の出現
    によって「庶民を楽しませる芸能」へと変わっていきました。

    阿国自身は慶長12年(1607)、江戸城で勧進歌舞伎を上演した記録を最後に、
    史料から姿を消します。

    元々、勧進のために踊ったということからか、晩年阿国は出雲に戻ったと
    いう伝承があります。
    晩年の阿国は尼となって、静かに余生を送ったとされます。

    お墓は出雲大社近くにあるのですが、京都の大徳寺の高桐院にも墓
    があり、地元の人間の希望的観測でものを言えば、お国には初代と
    二代目が居たという話がありますので、初代お国は生まれた土地出
    雲に帰り尼になった。二代目は京都で生活し、高桐院に眠っている
    と言うのが、三方丸く収まりそうな展開です・・・

    現在の歌舞伎の原型と言われている、『野郎歌舞伎』になるまでには、
    色々な変遷を辿って行くわけですが、今や文化的にも昇華された歌舞
    伎ではありますが、その根っこには、アマノウズメの奔放な踊りの中
    に、日本的許容範囲の広い神の大らかさを感じてしまうのでした。

  • 北島家

    『は〜るばる来たぜ函館ぇ〜〜』って某北島さんの”函館の女”の歌詞です・・・
    今年もNHK紅白出場者が決まったので、その話しかと思われた方
    はチョイと早とちり。。今回の北島は同じ北島でも出雲の地元
    では名家である出雲国造 北島家(いずもこくそう きたじまけ) 』のことです。

    地元の人間には何となく分かるのですが、他府県の方々には分か
    り難いと思いますので若干補足を入れつつ話しを進めたいと思います。。

    昨年来、出雲大社平成の大遷宮によって空前の盛り上がりをみせて
    いた出雲大社も、遷宮の大方のイベントも終了し、又、元の静かな
    状況になるかと思っていました。
    ところがどっこい!今年最大のサプライズ!フォーラムでも話をし
    たのですが、出雲大社権宮司千家国麿氏と高円宮典子さんとの
    ご結婚でしょうか。

    地元もこれで、もう数年は観光客が来るだろうとホッと一息ついて
    いるところです。この調子でいけば子供さん誕生の折に盛り上がり、
    七五三やら何やら当分『千家家』はスポットライトを浴び続け、お家
    は安泰で笑いが止まらないだろうと思います。

    この国麿氏の『千家家』とタイトルになっている『北島家』は実を
    言いますと両家とも出雲国造家(いずもこくそうけ)』です。
    両家共に天穂日命を始祖とする名家で、室町時代の国造清孝の時に
    千家家、北島家の二家に分立して宮司を交代で祭祀を司り明治に至
    りました。

    この両家に大きな転機が訪れたのが、明治期に起こった祭神論争』でした。
    この明治神道史の有名な事件で日本全国の神道界から注目を浴びた
    のが、第80代出雲国造千家尊福(せんげたかとみ)でした。

    祭神論争は書き出すと面倒臭いので(笑)、興味がある方は調べて
    戴きたいのですが、簡単に言えば明治8年に政府が主導する大教院が
    廃止され、神道事務局が結成されました。
    いわゆる造化三神天照大神の四柱を祀る『伊勢派』派閥と、
    造化三神+天照に更に出雲信仰の要である大国主命の五柱を主張
    したのが、『出雲派』を擁する千家尊福だったのです。
    当時は日本の神道界を二分する大論争となり、大勢は平田篤胤の幽冥論
    ベースの千家尊福『出雲派』になりつつあったのですが、伊勢派にも
    出雲派支持者が出て来たのに焦った伊勢派の政治力に巻き返され、
    勅裁という形で伊勢派が実権を握り、出雲派は実質上敗北しました。

    これ以降も神社神道に対しての様々な介入に限界を感じた尊福は出
    雲大社の宮司職を弟に譲って、自身は神道大社教(おおやしろきょう)』
    を開き初代官長に就任しました。

    この尊福氏は後に伊藤博文に推挙され、元老院議官、貴族議員など
    を経て、埼玉、静岡県知事を歴任し、最後には東京府知事にも就任しました。
    その後、第一次西園寺内閣の司法大臣に、更にその後は東京鉄道会社
    社長にと、神道の世界とは対極にあるような”政財官”の世界でも、
    その力を発揮しました。

    結果、明治以降は出雲大社の実務は『千家家』のみで執り行われ、
    出雲大社教(いずもおおやしろきょう)』の職員が出雲大社
    実務を執り行っています。

    一方の『北島家』は国造家の名称は残っているものの、出雲大社
    本殿での執務は無く、出雲教の布教や各ご祈祷と、結婚式な
    どを北島国造館にて行っています。

    私自身も結婚する際に、結婚式場で改まって式を挙げるのを嫌がっ
    ていたときに、母から『大社さんであげれば良いじゃないの?』
    と言われたのを覚えています。この場合の大社さんは当時だと
    『北島さん』でした。

    ん〜今回の千家さんの婚儀の関係で今後は益々、千家さん側での
    婚礼が増えるだろうなぁ〜などと要らざる心配をする私でした・・
    ご先祖様を一つとする中で、陰陽とまでは言いませんが、微妙な
    温度差があるのが何とも言えませんねぇ〜

    余談ですが、尊福氏は我々『新春スター隠し芸大会』世代にはお
    馴染み、テーマソングだった『一月一日』の作詞者でもあります。
    ♪年の始めの ためしとて〜終わりなき世の♪ってあの歌です。。