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  • 干渉しない

    今日から一週間担当いたします、香です。よろしくお願いいたします。

    円のビジョンをえがきながら、書いていきたいと思います。

     

    MA

    最近、自分の常識は他人にとっては非常識であると感じるできごとがありました。

    詳細は書きませんが、私の中で「あたりまえ」と思っていたことで、相手に伝えた方が相手にとってもいいだろうと思い、私は相手に声をかけました。

    しかし、返ってきた相手の言葉は、想像していなかった一言でした。

    私は、一瞬、え?と思いましたが、相手にとって私の言葉は非常識だったのだと思います。

     

    私と相手のあいだには、ちょうどよい「マ」があるはずなのに、私はその「マ」を間違えてしまったようです。

     

    「マ」を大切にすることは、必要以上に干渉しないことにつながるのだと思いました。

  • 五感のマ

     最終日のMAは 「五感のマ」 。 

     

     我々は、自分の五感を使って現実を見るものだと思い込んでいる。 五感が、世界を見る窓のようなものだとずっと思い込んできている。 それはある意味では正しいが、実際は窓というよりフィルターに近い役割を果たしている。 そのフィルターは99%以上のものを中には通さない。 自分で見たくないもの、感じたくないものは絶対に通さない。 自分の見たい現実しか、見ようとしないのである。 

     

     しかし、自分の 「五感のマ」 をさらに拡張していくと、今まで見えなかったものがその中に見えてくる。 肉体だけが自分だと思っている時、自分の感覚を通して感じられるものは限られているが、本当は、もっともっとたくさんのものをこの物質世界で見たり、感じたりできるのである。

     

     自分の肉体の部分にだけ焦点を合わせているとき、情報の99.999・・・%くらいは通さない。 我々はこの物質世界の99.999・・・%を見ていないことになる。 つまり 「光」 の波長だけでも、これくらいの部分しか我々は見えないということである。 また、「音」 にしてもある限られた範囲しか聞こえないということだ。

     

     自分の視覚とか未来像といったビジョンや他の感受性も強くすることができれば、自分のまわりにあるものを、もっと感じることができる。 肉体的な視覚を強くすること、それと同時に洞察力や自分の中の 「心の目」 を拡げることによって、五感のマからさらに多くの情報を得ることができるのである。

     

     我々が持っている普段の周波数を少し変えることで、そこに見えないものを見始め、聞こえないものを聴き始めることができる。 ただ、周波数が少し違うことから、自分で感じることができなくなっているのである。 しかし、それはエネルギーの周波数の違いがあるだけなのだ。

     

     時々意識的な自分の防御を少し降ろした時に、ほんの一瞬ではあるが、それらを知覚できることがある。 ところが自分の中に 「私が見るものはこうあるべきだ!」 といった期待があると、他のものが見えた場合、慌ててそれを閉じてしまう。

     

     そこでその扉を閉じない人達を、我々は 「気違い」 というレッテルを貼ってしまう。 しかし、その気違いと呼ばれている人達も、普段、我々がものを見ているのと同じように見ているのである。 ただ、集合的に我々が同意していないものを見ているだけなのである。

     

     ほとんどの人が見ている現実と違う現実を見た時、それをどう表現し、どう位置づけたらいいか、なかなか分からない。 気違いと呼ばれている人達の持っている困難さは、みんなと違う現実が見えるということではない。 

     

     気違いと呼ばれている人達は、自分が見ているものを他の人達に上手く伝えられないのである。 しかし、時々、他の現実を見ながら、それをまわりの人達にうまく伝えられる人達がいる。 我々はその人達を 「気違い」 とは呼ばないで、「天才」 と呼んでいる。

     

     もう少し芸術的な方向でそういったものが見える人は、ビジョナリー、すなわち、展望を持った人、と呼ばれることになる。 狂人とビジョナリーの違いは、ビジョナリーは少なくともその一部分を自分でどう理解したらいいか知っている、ということにある。 

     

     それは、五感のマからいちばん気持ちのいいイマジネーションを使って、ビジョンを持った部分を拡張することができるということなのである。

     

     次週は円のような丸いビジョンをもった香実行委員です。

  • 進化のマ

     六日目の 「MA」 は、「進化」 の 「マ」。

     

     我々の存在というのは自らの創造の一部であり、意識の違う視点から見ている一つの目なのである。 であれば、意識の進化というのは、「たくさんの目をもって見ている」 ということだ。

     

     進化とは加速していくものであるが、加速するにつれて、進化のプロセスで三次元空間が物理的に体験するすべてのことは、実は、自分が元来もっていた自身の一側面であったということを発見することになるだろう。

     

     自分自身の現実を創りだしているのは、自分自身であり、我々が物理的体験しているものや、それらを創りだしているのも自分自身である。 自分自身がユニークだと思っている部分、他人と違う人生を歩んでいる部分は、自分が創りあげているものである。

     

     我々の肉体的な現実は、自分の思考が拡張されて生まれてきたものである。 自分の考えたことが結晶化して現実となる。 この現実世界、肉体的なレベルは、我々が創りあげており、我々がそれ自身である。

     

     この物理的な現実世界は自分の意識の延長線上にある。 それは意識からできあがっているものであり、自分自身と分離されたものが現実なのではない。 この分離というのは、観る方と観られる方の二次的に分けられたということだ。

     

     しかし、意識の本質はその中心にこそある。 そして、意識の進化とは、新たな次元に自分自身の意識をもっていくことではあるが、別な言い方をすれば 「自分自身を新しい次元で表現する」 ことなのである。

     

     この表現するということは、進化のマから出てくる。 進化は必ずしも加速の連続ではない。 加速と加速とのマが滑らかな波動を描いているのである。 我々の進化における加速と加速の間に一定のマを意識することこそが表現そのものである。

  • 魂と 肉体の マ

     五日目の 「MA」 は、「魂」 と 「肉体」 の 「マ」。

     

     我々人間の歴史は何千年もの間、自分の精神、魂、意識といったものはからだの中にある、と考えてきた。 しかし、決してそうではない。 精神的なものや魂や意識を自分の肉体的な側面から体験しているときに 「このからだの中にある」 と感じてしまうようだ。

     

     我々は、いろんな物事を 「段階」 という形で考えてしまう。 違う段階、違うレベルに分けて考えているのだ。 それだから、違うレベルに意識を持っていったときには、「肉体から抜けた」 と思ってしまうのだろう。 

     

     本当のことを言うと、我々の魂は肉体の中にあるのではない。 また、肉体というのは魂の物理次元であって、三次元空間の中に見えている一部分なのである。 魂の三次元レベルでの表現形態が肉体というものだ。 

     

     魂が肉体を離れるということも、三次元空間での幻想といえる。 段階やレベルというような、物事を分離して考えているときには、このようなことが起こる。 そして魂と肉体のマが意識であり、その意識も、肉体の中にはなく、肉体が意識の中にある。

     

     それがどんなものであっても、我々が外側に見ているものはすべて、実際には自分の中で実現したものなのである。 物理次元に存在するすべてのものは、我々の意識によって創りあげられている。 この現実世界で見るいろいろな物・人・場所、それらすべてが自分の意識というマで創りあげられた 「我々流」 のものである。

     

     このような見方をしていくと、自分は個人でありながら、実際には他の人ともつながってひとつである、という結論にたどり着く。 自分自身が他の人と離れていて個人だということも、やはり幻想にすぎない。 自分が見るものはすべて自分が創りだしたものであり、自分自身がすべてであるということになる。

     

     逆説的に聞こえるかも知れないが、これは各個人に対して真実以外の何ものでもない。 違うように見えるものすべては、無限のものの一側面でしかないのである。

  • 意識と無意識のマ

     四日目の 「MA」 は、「意識」 と 「無意識」 の 「マ」。

     

     我々は自分の好まないものを現実化している傾向がある。 それらすべては自分の周波数に関係している。 自分が体験しているものは、それがどんなものであっても、自分が選んだ波動で呼び寄せていることを知って欲しい。 顕在意識で選ぶとは限らないが、意識的に選んでいるということは確かなようだ。 

     

     自分で自分の現実を選択するというのは、自分の中の一番強い観念である先入観や固定観念が、意識的であろうが無意識であろうが同じ内容の現実を引きつけている。 なぜならば、一番強い観念が、いちばん強い振動であるからだ。 そんな観念は意識と無意識の間から振動している。

     

     そして、すべてのものは本質的に中立だということを理解しなければならない。 中立的な状況というのは、まだ何の意味も持っていない。 だから、いい意味にも悪い意味にも、どちらにも捉えることができる。 そこで自分のイマジネーションを使って、いろいろなイメージを思い浮かべて、好ましいものを現実化することができるのである。 

     

     これは哲学ではなく、単なる力学、物理学であり、観念ではない。 どんな状況も、初めから意味をもっているわけではない。 すべての状況は、本質的には何の意味も持たない。  それは、まったくの 「無」 であり、意識と無意識の間にある状況は常に中立なのである。

     

     自分が与える意味によって、自分の肉体レベルでの現実を創ってしまう。 自分自身の波動でない体験をすることなど絶対にできない。 どんな体験でも、自分の中の一番強い波動とまったく同じものである。 だから、それが好まない体験ならば、まず自分の中の定義づけを変えなければならない。

     

     自分の定義づけを変えることでシンクロニシティ、つまり、共時性が起こりはじめ、非常にいろいろな偶然が起こりはじめる。 それに対して心配する必要はない! 心配することによって、より否定的なものが加わってしまう。 

     

     我々は常に変化を続けていける。 常に成長を続けていける。 今現在の自分を楽しめば楽しむほど、本当になりたい自分になれる。 それが進化の逆説的な部分である。 そして、今の自分を楽しめば楽しむほど、早く進める。

  • 次元のマ

     三日目の 「MA」 は、「次元」 の 「マ」。

     

     操体臨床家の仲間には、猫の愛好者が多い。 この猫というのは、我々の文明の中で、ある二つの次元に同時に住んでいる動物でもある。 それは我々の文明が今、向かおうとしている変化、つまり 「物質的な次元」 から 「非物質的な次元」 へ向かうその変化を猫は象徴している。

     

     猫はこの物質的な世界と非物質的な世界が、両方とも現実であるということをよく理解している。 猫が眠りに入ると、物質的なレベルと非物質的なレベルの間、すなわち 「次元のマ」 に身を置いている。 是非、身近な猫の眠りに波長を合わせてもらいたい。

     

     それに我々と同じように、旺盛な好奇心を持っている。 「好奇心が猫を殺した」 という否定的な見方をした諺もあるが、好奇心は我々を実際に変化させることができるものである。 それは、物質的な次元から非物質的な次元に持っていくことができる。

     

     猫はいくつもの人生を持っていると言われているが、それは古い自分が死んで、新しい自分が再生するということだ。 古代のエジプトでも理解されていたように、猫は生と死のシンボルである。 歴史的にも古代の葬式の中に猫がよく登場してくることでも次元変化の象徴だったことがわかる。

     

     我々の好奇心によって、この社会の中で猫たちが次元のマから見せてくれる行動や出会いがたくさんある。 ほんの少し猫に波長を合わせることで、我々の波動を一番よく見せてくれるシンボル、象徴が身のまわりに寄ってくる。 やがて我々は猫のように、たくさんの扉をスルスルと抜けていくことができるだろう

  • 時空のマ

     二日目の 「MA」 は、「時間」 と 「空間」 の 「マ」。

     

     「すべて」 の物質は、一つの存在そのもののエネルギーからできていて、時の間である 「時間」 と空の間である 「空間」 というのは、その一番元になるエネルギーの形である。 そして、存在には 「無」 と 「有」 の二つの極があり、この二つの極が一つになってすべてが創られるという物理の法則がある。 だから、すべてを創るには、この無と有の二つがどうしても必要になる。

     

     このような連続した時間の中では、最初には何もなく、いわゆる無といっているものしかなかった。 しかし、無はそのままではいられない。 無はすべてを創りだして、完結させるという必然性から、何かを生み出さなければならない。 その物理次元で生じたものが、時間と空間である。

     

     そして無が爆発して、この物理次元で時間と空間という 「間」、すなわち 「マ」 が創りだされたのである。 時間と空間のマは、この有という部分になる。 無の中にもすべての部分が存在するように、自分自身の中のすべてもこの中に含んでいる。 ところが無の部分は、無なので何も実現することができない。

     

     時空のマは有なので、そのマのスペースでは何かを創りだすことができる。 時空のマは、すべてのものを創りだす、実現化する潜在的な力を持っている。 無の中には、実現できない形のエネルギー、すべてのエネルギーを実現できない形として持っている。 これによってすべての存在のバランスを保っている。

     

     既に存在しているマの有は、存在しない形の無になることはありえない。 なぜならば 無の方は、これから実現化し得ないものをすべて含んでしまっているからだ。 今、存在しているものが存在しない形になるには、無の方がすでにもういっぱいになっているからとても無理だ。 この無と有のバランスが、今存在しているものの永遠性を確証している。

  • 言葉のマ

     今回のテーマは 「MA」。 まず初日は 「言葉のマ」 から入りたい。 

     

     人間はとても忘れやすい動物である。 そうでないととてもじゃないがまともに生きていられない。 そりゃそうだろう、生きていればいろんな辛い事や苦しいこともある。 それらをすべて覚えていたとしたら生き地獄そのものだ。 だからこそ、忘れること、すなわちリセットすることで未来を生きることができるのである。

     

     忘れること、それは 「沈黙」 という 「マ」 ・・・・・・。 しかし、沈黙するために言葉を忘れることは極めて難しい。 我々の言葉は頭にしがみついてしまった。 これは人間にとって最も大きな問題の一つである。 

     

     なぜなら、言葉があまりにも重要になってしまったので、その意味は意味を失ってしまった。 言葉の象徴があまりに重くなって、その内容は完全に失われてしまった。 我々は皮相に催眠術をかけられて中心は忘れさられている。 これは人類だけに起こった言葉文明が生んだ悲劇である。

     

     もし、言葉を忘れている沈黙の人がいたら・・・・・・ その人こそ 「マ」 を持った人物である。 そんな言葉を忘れている 「マの人」 には一体どこで会えるのだろうか? その人こそ本当に話したい相手だ。 言葉を忘れている人こそ、ともに語ることに値する人であろう。

     

     そのような人には、その内側に内奥の現実が、存在の中心がある。 その人は伝えるべきメッセージをもっている。 そしてその 「沈黙のマ」 は豊かさに富んでいる。 それに比べ、我々の社会で話していることはあまりにも無能に見える。 

     

     我々の社会は何ひとつ格別なことを言っているわけではない。 社会というのは決してメッセージなどはもっていない。 伝えるべきものなど何もない。 社会の言葉はとても虚ろだ。 中に何も入っていない、何も運んでいない、それらは単なる象徴でしかない。

     

     そして我々が話をするときには、ただ自分の中のガラクタを放り出しているだけだ。 それは自分にとってはいい発散、つまり、カタルシス的な浄化作用かも知れないが、相手にとってそれは危険にもなる。 それに、言葉でいっぱいになっている人には、どのように話ができるというのだろうか? いや、とても不可能だ!

     

     言葉は余地を残さない、言葉は開口部をもたらさない、言葉とは過剰なもの、深く浸透していけるものではない。 言葉でいっぱいになっている人と話すことなどとてもじゃないが不可能だ。 そういう人は聴くことができない、なぜなら聞くためには人は 「沈黙のマ」 が必要になるからだ。

     

     聴くために人は受け身であらねばならないが、しかし、言葉は絶対にそれを許さない。 言葉とは攻撃的なもの、決して受容的ではない。 我々は話すことはできるが聴くことはできない。 そして、もし聴くことができなかったら、その話は狂人の話になってしまう。

  • 間は魔に通ず

    全ての習い事に「作法」がある理由は何でしょう。

     

    師事することで、一定の時間をかけて学び取る努力する。

    すると・・・不思議なことに「間」は進化するのです。

     

    出来ることが増えてくる「間」と、丁寧に教えられても、

    出来ない「間」というものはある。

     

    それは、なぜでしょうか?

     

    「認識」(←学問にしなければわからない) 

     認識できる空間は、学問にしていく。

     

    「からだ」を通じて、いまここにある、

    その瞬間、その空間に満ちている。

     

    「重力」について。「空間」について。

    そして、「次元」について・・・等々。

     

    橋本敬三師は「間にあっていればいいんだ」と放言しましたが、

    その言葉に、自分勝手な解釈や、気ままな解釈は似合わないのです。

     

    ワタシ自身は、こう想っています。 

    貴方が感じたことを『ありがたいな・・・』とホントに想えるのだろうか。

    何を感じていたら『生かされているんだな・・・』ホントに納得しうるのか。

     

    そう感じられるような、縦横無尽に継続した学問の間でありたい。

    そのような森羅万象を「MA」に教えて頂いて生活に活かしたい。

     

    ならば、必要があっての「MA」は、魔になっても全く構わない。

    間の抜けた奴になるくらいなら、魔のある奴と言われてみたい。

     

    例えるならある意味で「間」には二つあるのだろう・・・。

     

    一つは、一定期間習っていれば、誰でも到達できる「間」。

    そしてもう一つ。

    それはある意味で、「魔」は「間」に通じているんじゃないか。

    意識を変換してそれをどのように扱うか?

    教わるものではなく、感じるもの。

    それは、創造主の愛している空間にあり、その想いを感じる「間」。

     

    未来から今をつなぐ「進化」そのもの。

     

    理解されにくく誤解を生じやすい、故に「魔」を意識で磨き続ける。

    もう一人の自分はそれを望んでいる・・・そんな感じがしますネ。

     

    それでは「MA」での一週間、お付き合い有難うございました。

    明日からは、ナイトセミナーの感度王こと、日下実行委員の登場です!

     

     

     

  • 「真」をみつめる

    真実の門に言葉ひとつ。

    その捉え方によって大きく生き方は変化してしまいます。

     

    それにしても「間」ってなんだろう。

    空間の「間」とはどのような説明が適切なのだろう?

     

    思考するだけとは、「自分の動き」で考えているだけ。

     

    それを「からだ」で味わい、識別できたら感動&愉しい。

     

    大自然のおッ母さんに見守られている、その悦び、その「間」。

    「からだ」で感じて、味わうチャンス。それこそがフォーラム。

     

    ほとんどは、以心伝心、テーマ「膝」は見事に貫通していく。

     

    その余韻に浸りつつ、休憩時間に余韻でぼんやりしていると、

    東京操体フォーラムの、川崎隆章相談役は、自然にサラッと

    「からだ」に響く言霊をプレゼント(=今)教えてくれたのです。

     

    「あのね・・・『間』っていうのをシンプルに言うとねぇ・・・、

     〇〇できる空間のことをいうんだよ」

     (意識の声:そうか!ほおぉ~、なるほどッ)

     

    そう、未来は今、ここにある理由もあり、以心伝心とは、

    起こるべくして起こる空間の共有なんですね。

     

    他にも様々なアドバイスを頂き、からだに響く空間の共有、

    その味わいは、風味たっぷりのナイトセミナーまで繋がる。

     

     

    さて、先ほどの『〇〇できる空間』ですが、何か入るんです。

    では質問・・・皆さんなら〇〇に何を入れて完成させますか?

     

    「間」に浸って、感じて、考えてみても愉しいですよッ!!