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  • 禅師廓庵のアプローチ⑤

     六日目は、十牛図に追加した廓庵の「詩」の題名へのアプローチに入っていきたい。

     

     最初の詩の題名は “尋牛”

     

     これは牛の探索について 書かれたものである。 この 「牛」 というのは、生命力や活力やダイナミズムの象徴と言われている。 牛はまさに生命そのものを意味している。 そして、牛はひとつの象徴でもある。 廓庵の詩を読み解くにはそれを覚えておく必要がある。

     

     我々はここに存在しており、そして、生命もある。 だが、生命が何であるかを知ることはまずない。 我々はエネルギーを持っているが、どこからこのエネルギーが来て、どのようなゴールにこのエネルギーが向かっているのかを知らないでいる。 

     

     しかし、実際には我々がそのエネルギーそのものなのである。 それなのにまだ、我々はそのエネルギーが何であるのか気づくことはない。 我々は根本的な問いである 「私は誰か?」 を知らずに生きている。 その問いは牛の探索と同じものだ。 「私は誰か?」・・・・・・

     

     そして、これが知られない限り、どうして生きていられるのだろう? 我々が自分自身を知らない限り、何をやっても空しいに決まっている。 最も基本的なことは自分自身を知ることである。 ところがなんと、我々はその最も根本的なものを逃し続け、些細なことに拘り続けてゆく。 

     

     牛は我々のエネルギーそのものを意味している。 自分という知られざる不思議なエネルギー・・・・・・ そこから我々が実存するようになり、一本の樹のように成長し続けている。 その凄まじいエネルギー、このエネルギーは何なのか? それが牛の意味するメッセージである。

     

    明日につづく

     

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  • 禅師廓庵のアプローチ④

    昨日のつづき

     

     廓庵はまず、絵や夢でものを考える子どもたちと同じ無意識の言語を試みた。 なぜなら、それが最も深いものだからである。 そして廓庵は十牛の図を描いた。 だが、廓庵は不満足を感じていた。 そこで廓庵はその不満足を埋めるために、付録として十の「詩」 をつけ加えた。

     

     詩は無意識と意識の中間的なものであり、それはひとつの懸け橋になる。  この中間というのは、ものごとが完全に闇に包まれてもいず、完全に光の中にもないおぼろげな場所、ちょうどどこかその中間という意味である。

     

     だから、散文が駄目なところでも詩が表わせることができるのはそのためである。 散文はあまりにも浅薄すぎるが、詩はもっともっと深く進むことができる。 詩はより婉曲であるが、より意味深く豊かである。 だが、なおかつ廓庵は満足できなかった。

     

     さらに、廓庵はこの散文に注釈をつけ加えた。 つまり、最初に廓庵は画家や彫刻家や夢想家たちと同じ、図という無意識のあらゆる芸術の言語を綴った。 それから、詩人たちの言語である無意識と意識の懸け橋である中間的な詩を書いた。 そして、それから論理的で理性のアリストテレス的な、意識の言葉である散文を綴った。

     

     このようにユニークなアプローチをする人物は他にいない。 誰ひとりそれをやった者はない。 仏陀ですら生涯、散文のみで語った。 ゲーテは詩をうたった。 だが、ひとりの人物が 「図」 と 「詩」 と 「散文」 という三つ全部を一緒にやったのは初めてのことだ。

     

     廓庵は極めて稀有な存在であると思う。 そして廓庵はこの上なく偉大な、他に類を見ない禅師であったに違いない。 廓庵の描いた牛の図は本当に見事だった!  また、廓庵の詩もこの上なく美しく見事であった! そして、廓庵の散文はというと、とても論理的で見事なものである。 

     

     ひとりの人間がすべての方面に意識の全ての次元に、これほどただならぬ才能があるというのはめったに起こることではない。 廓庵のユニークなアプローチからのメッセージというのは、さらなるアプローチだったのではないだろうか?

     

    明日につづく

     

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  • 禅師廓庵のアプローチ③

    昨日のつづき

     

     昨日、絵や夢でものを考える子どもたちや未開地の人たちのそれは無意識の言語だと言った。 そして、文明化した我々はモノクロームだと。 そのようなモノクロは文明の言語であるが、虹は未開の言語になる。 モノクロは本当の言語ではない。 

     

     しかし、我々はみんなアリストテレス的論理の中で訓練されてきた。 だからみんなモノクロ、すなわち白と黒で考えてしまう。 「善と悪」、「夜と昼」、「夏と冬」、「神と悪魔・・・・・・」 すべて白と黒のどちらかで考えてしまう。 

     

     そして、そこにはどんな中間段階もない。 神と悪魔の中間にいるのは一体誰なのか! いや誰もいない、それは不可能だ。 虹を見れば七色・・・・・・ 一方の端は赤色で、もう一方の端は紫色、そして、その二つの間には少しずつ変化する広範な中間段階の色の層がある。

     

     全生命はとてもカラフルになっている。 だから、カラーでものごとを考えなければならない! モノクロの白黒では駄目だ! それは人間に起こった最大の病のひとつである。 この最大の病の病名は 「アリストテレス症候群」 と言われている。 なぜならこの病はアリストテレスから来ているからだ。 

     

     我々は 「この人は善人だ」 と言う。 それはどういう意味だろうか? 我々は 「この人は聖人で、あの人は罪人だ」 と言う。 それはどういう意味だろう? しかし、実際に聖人が消え失せてしまった罪人というのを見たことがあるだろうか? 反対に罪人が完全に消え失せてしまった聖人というのを見たことがあるだろうか? 程度の違いはあるかも知れないが、それは白と黒というようなものではない。

     

     このようなモノクロ思考が人間を分裂症的にしてしまう。 我々は 「これは私の友人で、あれは私の敵です」 と言う。 だが、その敵は明日には友人になり得るのである。 そして、その友人は明日には敵になり得る。 

     

     だから、その違いはせいぜいのところ相対的なものであり得るだけだ。 それは絶対的ではあり得ない。 しかるに、ものごとはカラフルに考えなければならない。 モノクロでは考えないことが必要である。

     

     これも十牛図にアプローチした延長線上にある廓庵のメッセージだと思う。

     

    明日につづく

     

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  • 禅師廓庵のアプローチ②

    昨日のつづき

     

     廓庵の描いたあのような牛の図は無意識の言語と言われている。 それは視覚化の言語でもある。 また、それは子どもたちの言語である。 子どもたちは絵でものを考える。 それだからこそ、子どものために絵本ができた。 そして、子どもの本に大人たちはたくさんの絵、色つきの絵を入れなくてはならない。 

     

     その本文はごく短く、絵の方が圧倒的に大きい。 なぜならば、それが子どもたちに読み方を学ばせる唯一の方法だったからだ。 子どもたちは絵を通してしか学べない。 子どもたちのような未開の心は絵で考えるようになっている。

     

     そして、中国語のような言語が最も古いと考えられているのはそのためである。 それが象形文字だから、そうした言語にはアルファベットがない。 中国語や日本語や韓国語には、アルファベットというものがない。 あるのは何千という象形の絵だけ。 欧米人が中国語や日本語を学ぶのがとても大変なのはそのせいである。

     

     アルファベットというのは物事をとても単純にしてくれる。 中国語や日本語はそれぞれの文字に、一つの象形絵が存在している。 では一体、世の中にはどれだけの象形絵があるのだろうか? 

     

     たとえば日本語で屋根や家を表わすウカンムリの下に一人の女が入って 「安」、やすらかという字になる。 女性が家にいるというのは 「安心」 を示している。 だが、それはただの暗示的なもの、一つのヒントにすぎない。

     

     子どもたちは絵で、そして夢でものを考える。 何を考えるにしても、まず子どもらはそれを視覚化しなくてはならない。 そして、子どもたちと同じように未開地の人たちもみなそれをする。 それは無意識の言語だからなのである。 

     

     我々も子どもたちや未開地の人たちも依然として同じようにそうしている。 我々がどんなに言語に巧みでも、論理的議論にいかに熟練したとしても、依然として夜には、我々は絵で夢を見ている。 それは決して言葉で夢を見ない! 我々が未開人であればあるほど絵はカラフルになる。 そして、文明化されればされるほど、我々の絵はだんだんとカラフルではなくなり、それは、次第しだいにモノクロになってゆく。 

     

     このような十牛図に対する分析考も、廓庵のメッセージであると言えないだろうか。

     

    明日につづく

     

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  • 禅師廓庵のアプローチ

     二日目からは、東洋の覚者、中国の禅師廓庵のアプローチを題材にした。

     

     禅師、廓庵といえば、「禅の十牛図」 を描いた人物として知られている。 が、禅の十牛図は、元々は十ではなく八つだった。 というのも、十牛図は仏教のものではなく、老荘思想の流れをくむ道教のものだったからだ。 しかし、その起源はまったく失われている。 それがどう始まったのか、誰が最初の図を描いたのか、誰も知らない。 

     

     ところが、十二世紀になって、中国の禅師廓庵が、それを描き直した。 そればかりではない、廓庵はもう二つ図をつけ加えて、「八牛」 が 「十牛」 になった。 道家で描かれた図は第八図で終わっている。 その第八図は 「空」 と 「無」 である。 だが、廓庵はもう二つ新しい図をつけ加えた。 それこそまさに、廓庵の禅への偉大なアプローチだった。

     

     しかし、廓庵は十牛図を描いてみたものの、満足できなかった。 それらの図はとてつもなく美しい図であったが、それでも廓庵は満足しなかった。 真実というのは何をやっても依然として満足できるものではない。 それから、廓庵は詩を書いた。 最初にこれらの十牛図を描き、不満足を感じて、それを補足するために、さらに十の短い詩を書いた。

     

     だがしかし、またしても、廓庵は不満を感じた。 そうして、廓庵は次に散文で十の注釈をつけ加えた。 それでもまだ、廓庵は不満を感じていたのである。 真実は確かに巨大ではあるが表現には常に限りがある。  このように廓庵は持てる限りの力を尽くした。 後にも先にも、誰ひとりとしてそれほどのことをやった人はいない。

     

     はたして、廓庵の描いた十牛図へのアプローチは、我々に一体どんなメッセージを残したのだろうか。

     

    明日につづく

     

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  • ソクラーテスのアプローチ

     今回の大テーマは 「アプローチとメッセージ」 である。 

     

     これを受けて初日は、真実へのアプローチとそのメッセージという 「ソクラーテスのクライマックス」 を題材にしてみようと思う。

     

     時代は二千数百年遡ったギリシャアテネの裁判で神を冒涜した罪で毒を盛られたソクラーテスが今まさに死のうとしていたときのこと。 そのとき、ソクラーテスの弟子たちは泣き叫んで、涙を流し始めていた。 そこまでは普通にごく自然なことだった。

     

     そして、弟子たちはソクラーテスの葬式のことについて心配をし始めた。 弟子たちはソクラーテスに訊いた。 「どうしたらいいのでしょう?」 ソクラーテスはこう応えた。「私の敵は私を殺すために毒を持ってきた。 そしてお前たちは私を埋める計画を立てている。 となると誰が私の友で誰が私の敵なのかね? 双方とも私の死を気にしていて、私の生に関わっているものは誰もいないようだ・・・・・・」

     

     それならば、と、ソクラーテスは弟子たちに言った。 「泣くのはもうやめなさい! 生に興味がないのなら、私の邪魔はしないで欲しい。 どうか私に死を探らせておくれ、だから気を散らさないで欲しい! 泣くのは後でいいではないか、私はもうすぐいなくなる、いまの今は、私に死が何であるか探らせてほしい。 私は全生涯にわたって、死の真実に足を踏み込むこの瞬間をずっと待ちわびていたのだ」

     

     ソクラーテスはベッドに横たわり、死が何であるのかをじっと見守っていた。 死が何であるのかを深く探っていた。 そして、ソクラーテスは弟子たちに向かって言った。 「私の足が痺れてきた、が、私は依然として前と変わらぬ私だ! 何ひとつ私から奪い去られてはいない。 私が実存している感覚は前と同じだけトータルで変わりない、が、足はすでに終わりを告げている」

     

     それから 「私の脚も駄目になってきた。 だが、私は同じままだ。 私自身が少しでも減っているなどということはない。 私は全くトータルなままである」 それから 「私の胃が痺れてきた。 私の腕も痺れてきた」 だが、ソクラーテスはとても興奮し、恍惚としていた。

     

     ソクラーテスは言う、 「だが、私は依然としてこう言おう、私は同じだ! 何ひとつ私から取り去られてはいない。」 そして、ソクラーテスは微笑み始めるとこう言った、「この調子だと遅かれ早かれ私の心臓をも奪うだろう。 だが、それでも私を奪うことはできない!」

     

     そうして、「私の手も駄目になった。 もう、心臓も弱まっている。 そして、これが私の最後の言葉になるだろう。 私の舌が痺れてきているからだ。 だが、言おう、覚えておきなさい、これが私の最後の言葉だ。 私は依然として同じだ! そしてトータルなままだ!」 これはソクラーテスが生のクライマックスに行なった、死へのアプローチである。 

     

     まさに受胎の瞬間からいまわの際まで人間はひとつのアプローチなのである。 真実の探求!・・・・・・そして、もし我々が真実を探し求めていないのだとしたら、もうすでに人間ではない。 そのとき、我々は人間を逃してしまった。 そのとき、我々は外からは人間に見えるかも知れない、が、それは人間じゃない。

     

     我々の人間性は見かけだけでハートの中ではそうではない。 そのような見かけにはだまされてはいけない。 というのは、鏡を見れば自分が人間だとわかるだろう。  しかし、それは人間であるという何の証拠にもならない。 我々のアプローチが募ってその全エネルギーが、アプローチの中へと転換されるほどの高みに至らない限り、我々は人間にはなれない。

     

     それが他の動物と人間との違いである。 動物たちはただ生きている。 が、動物たちは決してアプローチしたりしない! 動物たちはただ単に生きるだけで、真実にアプローチすることはない。 今まで 「真実とは何か? 生とは何か? 生の意味は何なのか? なぜ自分はここにいるのか? 自分は何処から来ているのか? どんな目的地に定められているのか?」

     

     というようなアプローチをしている動物などまったくもって存在しない。 一本の樹も、一羽の鳥も、一匹の動物も、この大きな地球も、こんなことをアプローチしたことはない。 このとてつもなく巨大な空であっても、一度としてこんなことをアプローチしたことはない。 

     

     そこに人間の永遠の栄光がある。 人間はとても小さいが、空よりも大きい。 なぜなら、人間の中の何かがユニークなアプローチをしている・・・・・・。 あの広大な空でさえ人間ほど広大ではない。 なぜなら、空には果てがあるかも知れない、が、人間のアプローチには果てしがないからである。 それは永遠のアプローチ、始めなく、終わりもない。 ただ進化だけがある。

     

     ソクラーテスのアプローチとは、このようなメッセージを残したのではないだろうか。

     

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  • アプローチとメッセージ その7(非接触)

    雰囲気は重要だ。嫌な空間にいると嫌な気持ちになり、善い空間にいると善い雰囲気になる。操体では人のからだに触れずともからだが改善できる。物質的には触れていなくても、その空間でその人々と触れているのだ。私は常に嫉妬されるほど善い空間の中にいたい。特に操体フォーラムは祭り状態にしたい。「あっちで祭りがやっているけど愉しそうだ」という雰囲気があれば何かしらメッセージが伝わるのだと思う。

    ぜひ春のフォーラムにご参加ください。

    よろしくお願い致します。

    一週間ありがとうございました。

     

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  • アプローチとメッセージ その6(右脳的、左脳的)

    最近は人と話す時、見る時は左目(右脳)を使っている。いままでは右目(左脳)で見ていた。それだけで話す内容が違ってくる。右目を使うとどうしても合理的になる。穏やかではいられない。議論をしていると人を追い込んでしまう。たった使う目を使うのを変えただけで生き方が変わってくる。相手からのメッセージも受けやすくなるようだ。

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  • アプローチとメッセージ その5(西洋的、東洋的)

    西洋医学は病気を観て手術や薬を使用して治療する。東洋医学は症状を見て体質改善を試みる。この違いが非常に大きく操体はまさしく東洋医学的で体質改善がもっというと生き方改善のプログラムだと思う。短期的ではなく長期的なアプローチでからだからのメッセージを受け取る。これからの日本はいや日本に限らず超高齢化社会になる。その時に自力自療が必ず必要になる。健康寿命を長くして快適に長生きしていきたい。

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  • アプローチとメッセージ その4(ゴルフ)

    アプローチと聞くとどうしてもゴルフを思い出してしまいます。ドライバーでどんなに遠く飛ばすことは非常に気持ちがいいです。しかし残りの100ヤード以内のアプローチがうまくなければゴルフのスコアはよくなりません。こちらの方がドライバーは飛ばせるのになぜか相手の方がスコアがよいということはしばしば。その重要性がわからなければいつまでたってもゴルフはうまくなりません。うまくできたスポーツです。私もうまくこのメッセージを受け取るようになりたい!

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