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  • なにげないこと

    最近「自己責任」の意識を身近に感覚できるようになりました。

    橋本敬三氏は、最小限責任生活として、息(呼吸)、食(飲食)、動(身体運動)、想(精神活動)といわれていました。

     

    この感覚が自分の中に馴染むと、日々の行動も変化します。なにげなく選択や決断している行動の中で、なにを選択したか?

    選択次第でみえてくるものは、変わります。

     

    読んでいる方の中には、当たり前でしょう?と思う方もいらっしゃると思います。しかし、なにげないことだからこそ、その選択の先にみえてきた現実に遭遇した時に、「なにげない」は「なにげない」で終わらせてはいけないと感じるのです。

    「なにげない」を感じる感性を大切にしたいです。

     

  • 生花

    今日は、いけばなについて書いてみます。

    生花には基本花型という、ルールに則って生けるものがあります。長さ、角度、方向性がそれぞれの花型によって決まっています。このルールに従い生けるのですが、初めて生ける時は、そのルールをうまく表現できません。先生からは、「定規で測るようにする必要はないよ。感覚で生けなさい」と私は指導を受けます。

    生ける回数が増えてくると、感覚がつかめるようになりますが、いける花材も自然のものなので、当然のことながら、毎回同じ状態の枝や花ではありません。その花材に合わせて、角度や長さ、方向性を見極めていく感覚が必要になります。

     

    花材と向き合っていると、からだと同じだと感じます。

     

    全く違うところに、ヒントとなる学びが隠れています。

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  • ビックとスモール

    先日、映画を観てきました。

    www.disney.co.jp

    巨人と女の子のお話です。

    原作は、イギリス児童文学界の巨匠ロアルド・ダールの作品だそうです。

    女の子から観た世界と、巨人から見た世界を映像を通して楽しんできました。

    視点が変わると、大きな違いがあります。どちら側の世界から覗くかで、同じものも別な感覚を味わえます。

     

     

     

  • 「はい」

    今日から一週間担当いたします、香です。よろしくお願いいたします。

     

    感性・センスと聴くと「磨く」というイメージが浮かびます。

    磨くためには、「はい」と受け取ってみることが大切だと感じています。受け取ってみて、その後に、受け取り続けるか、止めるかを選択しても良いのだと、つくづく思います。

    優れたひと、もの、ことに触れるたびに、「はい」の大切さを学びます。

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  • ⑦感性、センス、タントラの考察

    つづき

     

     大きな樹のそばに坐っていると、神を感じるのはたやすい。 が、アスファルトの路上に坐っていると、そのまわりをくまなく捜しつづけることができるのだが・・・・・・それでも神を見いだすことができない。 それはあまりにも破すぎる。

     

     まわりには鉄筋や鉄骨といったコンクリートの建物ばかりがある現代の都市の中では、アスファルトやコンクリートのジャングルの中では、我々は神を感じない ― 。 なぜなら、人間の作ったものは成長しないからである。 それが問題のひとつだ。

     

     人間の作ったものが成長しないのは、どんな生命も持っていないからであり、それらは死んでいる。 神の作ったものは成長する。 山でさえも成長する! 富士山は依然として成長している。 3776m+α㎝、依然として高く、さらに高くなっている。 

     

     木は育ち、子どもは成長する。 人間の作ったものは成長しない。 もっとも偉大なものであろうとも ― 。 ゴッホの絵ですら成長しない。 バッハやヴェートーヴェンの音楽であっても成長しない。 科学技術、人間の作った機械については何と言えばいいのだろう? 

     

     我々が成長を見るすべてのところに神がいる。 木に新しい葉が芽生えてくるとき、木から神が現れ出ている。 鳥が飛んでいるとき、神が飛んでいる。 少女が笑い、あるいは小さな男の子がクスクス笑う、それは神がクスクス笑っている。 女性の、あるいは、男性の目から涙があふれているのを見るにつけ、それは神が泣いていることなのだ。 そこに生気があるときはいつであれ、そこに神がいる。

     

     神の声を注意深く聴かなければならない。 もっと近くに寄って、神の存在を注意深く感じなければならない。 感性を研ぎ澄ませ、もっと感受性に富むことができれば、全体という名の神を実感できる。

     

     このようにタントラは非常に異なったヴィジョンを持っている。 全面的に、徹底的に異なった生のヴィジョン。 我々は自由の中で蜜蜂になれる。 奴隷ならば、糞コロガシだ。 自由ならば、我々は蜜蜂だ。 もっと自由のメッセージに耳を傾けなければならない。 そして、自由になる準備を整えなければならない。 束縛を生み出すものすべてについて我々は油断せず、気をつけていなければならない。

     

    明日からは香実行委員です。

  • ⑥感性、センス、タントラの考察

    つづき

     

     蜜を集める蜜蜂について、二番目に理解しなければならないこと。 タントラはそれを存在の構造化されていない状態、様式化されていない状態だという。 もし我々が習慣に従って生きるなら、その習慣は過ぎ去ったものに属しているのだから、人生を楽しむことなどできない。

     

     我々がなぜ人生を楽しむことはできないのか。 だって、同じことを何度も何度も繰り返し楽しむことなんてどうしてできる? 我々の頭は同じままであり、その結果として退屈がある。  我々の婚姻制度では、法による離婚や再婚の規定があり、女性を、あるいは男性を変える事なら自由にできる。 だが、自分自身は同じままだ。 ということは、半分はいつも同じということになるが、これでは本当にうんざりするだろう。

     

     だから、タントラはこう教える ― 、どんな人にも執着せずに、人間としてあることの感性の自由を持続させなさい、と。 さらにタントラは言う ― 、自分の過去から自由でいなさい、と。 そうすれば、蜜蜂のように自由になって、無限のセンスに導きかれたままどこまででも飛んでゆける。 引き止めるものは何もない、我々の自由は完璧だ。

     

     過去のパターンに固執しないで、創意に富むよう努力し、いつも革新的にあるべきだ! アドベンチャー、や発見者でいること。 新しいやり方で人生を楽しむ、あるいは楽しむための新しい道を見つけることである。 そこには無限の可能性がある。

     

     蜜という言葉でタントラが意味しているのは、すべてを含む全体という「神」についての詩的な隠喩であって、存在それぞれが神性をたずさえているというメタファーだ。 神がいないところなどどこにもない。 我々のまわりには神しかいない! 木の中、鳥の中、動物の中、川の中、山の中、男性の中、女性の中・・・・・・あらゆるところに神が存在している。 

     

     我々を取りまくために、我々のまわりで踊るために、神は非常に多くの形をとってきた。 あらゆるところから神は言葉をかけている。 「こんにちは!」 ところが我々は聴かない。 神はあらゆるところから我々を呼んでいる。 あらゆるところから神は我々を招いている。 「私のもとへいらっしゃい!」 だが我々は、どうしたわけか目を閉じたまま、どこも見ない。 

     

     ただし、神は人間製ではないので、人間の作ったものにはいない。 人間の作ったものはその中には含まれていない。 神はお金の中にはいないし、権力の中にもいない、また政治の中にもいないし、野心の中にもいない。 これら以外のところすべてに神はいつもいる。 

     

     我々はあまりにも多くの人間製品に取りかこまれているために、これは現代の世界で最も難しいことのひとつになってしまった。 我々にはその真相が見えないままでいる。 いや、それらを見る感性を失ってしまった。

    つづく

  • ⑤感性、センス、タントラの考察

    つづき

     

     狂った政治家たちは狂った家族に依存している。 狂った宗教も狂った家族に依存している。 そのような狂った連中が我々を抑圧してきている。 その連中は我々が女性、あるいは男性、あるいは関係性から離れてゆくのを許さない。 連中は「あなたは一緒にいなければならない」と言う。

     

     さもなければ、我々は犯罪人、罪人だ。 連中は地獄と地獄の刑罰を恐がらせる。  さて、反対の極、同じ女性、同じ男性と次の夜もまた一緒にいることはできないという方の極 ― これもまた抑圧だ。 

     

     初めの極とともに愛が消え、退屈が入り込んだ。 そして二番目の極とともに親密さが消え、非常に阻害された感じになる。 離れ小島のように ― 。 我々は何処にも自分の根を、感性を感じない。 

     

     タントラは言う。 まさに中間にあるのがタオ、道だと。 その場に、我々がいるその場にいなければならない。 その人と、自分が楽しんでいるその人とともにいなければならない。 その仕事と、自分が楽しんでいるその仕事の中にいなければならない。 さもなければ変えなければいけない。

     

     もし我々がひとりの女性を、あるいはひとりの男性を生涯にわたって楽しめるのなら、それはすばらしい。 とても美しい。 その人は運がいい。 なぜなら、そのときには親密さが育ち、我々の根は互いに入りまじり、その存在は折り合わされることになる。 

     

     すると、少しずつ、我々は絡み合うようになる。 ひとりの人となりはじめる。 ひとつの魂、それは途方もない感性の体験だ! それを通してタントラの最も高い峰を知ることができる。 だがこれは家族ではない ― 。 センスある恋愛だ。 そして我々は愛の最も深い部分に入って行くことができる。 まず、最初に人間はどこかでバランスを保たねばならない。

    つづく

  • ④感性、センス、タントラの考察

    つづき

     

     我々は人生における関係から生じた退屈さをとにかく紛らわそうとしている。 テレビの前で何時間にもわたって坐りこんでいる。 何と愚かなことか! あるいは雑誌を読み、あるいはラジオを聞き、あるいは新聞を読み、あるいは退屈している人々が集まるクラブに行く。 この現実を理解しようと試みてはどうだろう・・・・・・

     

     タントラは言う。「蜜蜂でいよう ― 自由であろう!」 女性を愛しても、その彼女と一緒にいるな。 タントラはそうは言わない ― 。 彼女とともにいよう! ところが我々は考える。 「もう私は四〇歳になる。 仕事を抜け出すことなどどうしてできよう? それに、経済的にはとてもうまくいっているのに・・・・・・」

     

     だが我々は霊的に、精神的に死につつある! 我々はゆっくりと自殺しつつある。  そうならば、それはそれで全く何の問題もない。 もし我々が自分自身を破壊するのを望み、預金残高を守りたければ、それはそれで何の問題もない。 だが、仕事が満足すべきものでないと感じたときには、そこから抜け出すことができる! これがタントラレボリューションだ。

     

     あることがもう魅力的でなくなったと自分の感性で気づいたとき、それが魅力的な質、魅きつける質を失い、もう磁力的でないと気づいたとき、そのときにはしがみつかず、「申し訳ないけど」と言わなければならない。 そして過ぎ去ったこと、過ぎ去ったその人、その仕事、あるいはそれが何であれ、それを通して起こったことのすべてに感謝して別れることができる。 ただし、未来に対しては開いたままでいること ― これがタントラでいう蜜蜂であることの意味である。

     

     さらにタントラは言う。 「すべての花それぞれが蜜に満ちていると知っているのは蜜蜂だけだ」 だが、タントラは反対の極へ行けといっているのではない ― 。 現に反対の極へ行くことのできる人たちがいる。 それに人間は非常に愚かだ・・・・・・

     

     さて、一方の極は誤りでもう一方の極・・・・・・それも誤りだとわかる! 初めの極は抑圧的だった。 我々は何年にもわたって同じ女性、同じ男性と、生涯にわたって同じ相手と寝なければならない ― 。 まったく何のセンスも感じられない! なぜ自分はそうし続けるのか。 その何故かを知らずに。

     

     社会、国家、聖職者、そして政治家らが我々の中心である家族の安定性に社会全体が依存しているのだとタントラは言う。 この狂った社会は狂った家族に依存している。 狂った家族がひとつの構成単位、一個のブロックであり、それによってこの社会という刑務所全体が作られているのだと。

    つづく

  • ③感性、センス、タントラの考察

    つづき

     

     我々はいつでも自分は自由だと思っているようだが、決して自由ではない! 我々はある一定の範囲内で動きまわることができる。 が、自由ではない。 家族についてもそれは同じである。 もし、家族という刑務所の境界を越えはじめたら、そのとき、自分が閉じ込められているのだということを初めて知ることになる。 

     

     もし夫が妻以外の女性と楽しそうにしていたら、妻は夫の敵になる。 もし妻が誰か夫以外の男性と親しく話をしていたら、夫は妻に腹を立てる。 夫は妻を殺してしまいたい。 つい先日、「とても愛しているよ・・・・・・お前のためなら死んでもいい」と言ったばかりなのに。 ほんの少し境界を越えるだけ! それだけで自分が囚人だということを知らされてしまう。

     

     境界を超えることがまったく無ければ、すべては何の問題もないという至福に満ちた無知の中で生きることができる。 多くの花が咲き乱れているところへ行って、すべての花の香りを味わうことのできる能力を自分は持っている。 しかし、その能力に執着したことによって、その所有が感性を破壊してしまった。

     

    たったひとつの花からだけ蜜を集めている蜜蜂のことを考えられるだろうか? その蜂蜜はそれほど豊かにはならない。 豊かさというのは多様性の感性の中から生まれてくる。 我々の人生はとても退屈であり、豊かではない。 我々は、退屈するためにありとあらゆることをやっているというのに、その退屈はどこか別のところから起きているのだと思っている。

     

     今、ひとりの夫がもう愛してはいない妻と暮らしている。 ところが我々の民法はこう言う。 「ひとたび婚姻契約したら、その契約を遂行しなければ契約不履行になる。」 それはルール違反だ! それから倫理道徳も言う、「約束の人になれ!」と。 

     

     ひとたび何かの関係性にかかわったなら、我々はその責務を果たさねばならない。  今、妻が退屈しているとしても、別に驚くことはない。 愛は消えてしまった! それは毎日の昼食にマクドのハンバーガーを食べるように強制されているようなものだ。 いつまでそれを楽しんでいられるのか? 

     

     最初の日は楽しんだはずだ。 そう、二日目、そして三日目も・・・・・・だが、それから先は神経に障ってくる。 いつまでも、いつまでも・・・・・・そうなったら我々はその味に飽きてしまって退屈してくる。 そして、人間は退屈なために自分の頭を紛らわすありとあらゆる方法を考え出す。

    つづく

  • ②感性、センス、タントラの考察

    つづき

     

     花の蜜を集める蜜蜂については、二~三のことを理解しなければならない。 ひとつめは、蜜蜂はどの花にも決して執着しないということ。 それは最も深遠な秘密である。 蜜蜂はどの花にもこだわらない。 そして中心となる家族を持たない・・・・・・。 妻も夫も子どももいない。 いかなる花であろうと、その花の招くところへ自分のセンスに導かれて、ただ移動してゆくだけ。 そのような自由をいつも持っている。 

     

     人間は家族につきっきりになってしまった。 タントラは家族に強く反対する・・・・・・。  タントラの洞察は格別に卓越している。 愛が完全に破壊され、人生の楽しみが完全に毒されているのは、家族のせいだとタントラは言う。 人間は互いにしがみついている。 人間は互いに所有しようとしている・・・・・・。 つまるところ所有が楽しみになってしまった。 人間は感性を失い、大きな変化が起こったのである。

     

     ひとりの男性が女性と一緒にいるが、それは彼女を楽しむためではない。 彼は彼女を楽しんではいない。 また、ひとりの女性が男性といっしょにいるが、それは彼を楽しむためではない。 彼女は少しも楽しんではいない・・・・・・。 彼氏も彼女も互いに所有するために一緒にいる。 政治的な考えが入り込み、野心が入り込み、経済的な思惑が入り込んできた・・・・・・。 そこに愛という感性はもはやない。

     

     愛というのは所有を知らない。 ひとりの女性や男性と長い間いっしょに生きることはできないとは言うのではない ― それどころか何生にもわたっていっしょに生きることすらできる・・・・・・。 だが家族は存在しない。 「家族」という言葉でタントラは「合法的な所有」を意味している。 「家族」という言葉で「要求」を意味している。 夫は妻に要求することができる。 妻も夫に「あなたには私を愛する義務がある!」と言うこともできる。 

     

     だれひとりとして人を愛するよう強いられてはいない。 夫は妻に自分を愛するよう強制することができる。 誰かに愛を強制することができるとき、愛はまさに消える・・・・・・。 そこには「要求」だけがある。 そのときには、妻は義務を果たしている。  しかし、義務は愛になり得ない! 愛は花の蜜であり、義務は精製された白砂糖だ。 そして遅かれ早かれ糖尿病で苦しむことになる。 それは毒、純粋な毒である。

     

     まるで麻薬のような白砂糖。 確かに同じような甘い味がする。 少しは蜜に似ている。 だが花の蜜ではない。 家族は所有欲が非常に強い。 家族は人間に反し、社会に反し、宇宙の兄弟愛に反している。 家族の境界は刑務所と同じだ。 我々はそれに慣れてしまったので、そのことを感じないようになってしまった。 

    つづく