カテゴリー: 未分類

  • 痛みとのおつきあい

    おはようございます。
    フォーラムの6日前に左拇指の腹を包丁でスライスした森田です。

    朝から何を書いとんのじゃい!という感じですが(すみません)。

    状況はと言いますと、ポン酢醤油を作ろう!と鼻息荒く、狭い台所で半分に切ってあったかぼすの断面を薄くスライスしようとして手がすべり、
    自分の指をスライスした、ということです。

    爪にぶつかったおかげで皮1枚でつながっており、指先の肉は分断されなくてすみました。
    本当ならば商売道具である指を怪我するなんて仕事人失格の恥であり、公に曝すのははばかられるのですが、やってしまったものは仕方がない。
    仕事仲間と患者様、家族に迷惑をかけるのは申し訳ないけれど、この状況を生かして何ができるか考えてました。
    まずは、ブログのネタができた!この時期でラッキー。…なんてことを考えた、意外に余裕のある私(おこられますね)。
    「小指側の指じゃなくて良かった。操体はできる」と思ったものの、拇指が使えないと足趾の操法や足底の触診、色々できないんですけどね。

    以下、当日の様子を記します。

    まずは近所の総合病院の緊急外来に電話し歩いて行きました。出血部位から指を離すと大量の血が出るので、ぎゅっと左示指で抑えて待ち合い室で腰掛ける。
    熱く、ズキズキと鼓動のリズムで痛みを感じ、う〜ん、と小声を出してこらえる。
    名前を呼ばれるのを待つ間、自力自動の操体をする。椅子で座位にて右足関節の外転。
    右上半身に心地よさがふわ〜っと感じられる。快適感覚と同時にズキズキはちょっと軽減する。

    相方には膝に手をのせてもらい、面の渦状波をお願いする。

    自力自動の操体とはまた違った快適な流れがからだの中を巡る。夫とからだに感謝しつつ、しばらく味わう。
    痛みも全くなくなるわけではないが、しかし確実に軽く感じる。そして、痛みと心地よさは同居できるものだな〜と感心する。

    10分ほどで呼ばれ、診察室に入る。
    ここからは夫は廊下で待機。

    ネラトン(導尿、体液排出用のゴム製チューブ)で母趾の根元を止血しながら拇指腹に2カ所ほど局所麻酔をする(これが一番痛かった)。
    感覚の麻痺を確認したら縫う、という治療でした。
    この処置の間ベッドで仰向けに寝かされるのですが、目立たないように動診をする。

    膝1/2屈曲位で右足関節の内外転と背屈、右手関節の示指を使っての動きの動診など。寝ている右側に壁があったので、膝の傾倒時には使いました。
    今思えば足関節の内反もありでしたね。

    目線や呼吸も使いましたが、ドクターの動きや看護士とのやり取りに気を取られて集中できず。
    ただ、自分自身が作り出す恐怖心からは気をそらすことができ、「自分の意識が作り出す痛みの増強」から逃れることができました。結構大きいです。

    調子に乗って「さあ、操体でどこまで痛みを軽減できるのか何針でも縫われてみよう!」と思うもつかの間、
    局麻の注射をブッスーとされた時には、立てていた膝はもちあがり、「いって〜っ」と声を上げてしまう。
    廊下の夫もこの声に縮み上がったそうだ。さすがにこういう時は痛みの軽減は無理か。

    この時は思わず、
    「出産時はこれより痛いのだろうか」
    「時代劇で医者が傷口に酒を消毒だといってプーッと吹き付けるシーン」
    「ちょっと古いが24で拷問を受けるシーン」
    等が頭をよぎりました。松田優作の殉死シーンは、さすがにおこがましいな、とか。

    ネラトンで止血をしているので、拇指だけが白く蝋人形の色になっていく。死体ってこんな色になるんだろうか。って、私の指か。
    それにしても麻酔はすごい。ものの2、3分で痛みは薄れてゆく。
    私は初体験なので、「麻酔ってすごいですね」とアホな感想をのべると、
    ドクターは「そうじゃないと処置できませんから」と一言おっしゃってJの字の針で淡々と縫い上げて行く。

    痛みがなくなると同時に余裕がでて縫合の様子を覗き込む。見たくてしょうがない。
    できることなら携帯で撮影したいくらい。不謹慎な私である。
    顔色と機嫌もちょっと悪そうな(←理由があるのです)ドクターの手腕にとにかくふむふむと見入る。
    「すばらしい、見事です!」口に出すのは失礼と思い、心の中で賞賛。

    フォーラムが近く、打ち上げは飲みたいと思い、「お酒飲んでいいですか?」と聞いてみると、
    「飲むのは自由ですが、痛むのは自分です。でも、その前に気を失う程飲めば別ですけど」
    なるほど。普通の表情でおっしゃるドクター。なんかちょっとツボ。

    この日は患部をガーゼで包んで、その上に包帯をして、抗生物質、抗炎症剤を3日分と強めの鎮痛剤(頓服)を処方されて終了。
    「痛くなったら心臓より指を高くあげて、それでもいたかったら鎮痛剤を飲んでください」。判断しやすくていい。

    今は麻酔が効いているが、切れたらどんな痛さなんだろう、不安な気持ちで帰宅。
    禁止されるとやりたくなるもので、一体何日酒を飲まないでいられるのか、それも気になる所。せっかく今日おいしいワインを買ったのに。

    欲深く、飲み意地のはっている私である。

    次の朝、包交外来で見てもらった後は、
    縫ったその上からバンドエイド1枚で帰されました。あんなに大騒ぎしたのにちょっと拍子抜け。


    縫った所も撮影しましたが、さすがに自粛しました…。

    明日は、操体以外には何をしたかを書きます。
    では、お仕事行ってきます。

    森田珠水

  • フォーラム撮影班の立場から

    こんにちは。
    フォーラムも終わって1週間が経ちましたが、まだまだ興奮が冷めない森田が1週間担当させていただきます。

    22、23日と二日間家を空けただけのはずなのに、懇親会や打ち上げという名のナイトセミナーでは
    島津兼治先生、田中稲翠先生の講義が熱く続いたこともあって、その内容の濃さ、深みはとても48時間を過ごしたとは思えません。
    まるで1週間の旅から戻ってきたような、そんな気分です。

    三浦先生がブログ最終日におっしゃったように、実行委員、役員一人一人のハートの中で、新しい気づき、疑問、熟成がなされ、
    その課題を追い続けているという意味では実はフォーラムは終わってないような気がします。
    二日間にあったこと、参加されなかった方にも伝わるように本当は言葉にしたいのですが、
    まだまだ未消化な部分もあり、内容に関しては東洋医学系の雑誌に掲載されると思われるレポートに譲ることにいたします。

    というわけで、今日は動画撮影担当の立場からの感想を書きます。
    フォーラムも18回目になり、会を重ねるごとに発表の中身も発展し、空気の濃さが変わってきまして、
    ぜひともそれを映像におさめておきたいという欲が出て参ります。
    初め私は操体法という「治療」を学ぼうとして三浦先生の所に学びにきたはずなのに、
    今では息食動想の哲学、呼吸法、宗教、脳、神経系をはじめとする生理学…学びの範囲に限りがないことにふと気づきます。
    操体は何でも入る大きな器」という三浦先生の言葉が浮かびます。
    今回も、武術と芸術、参加された方はそれがどのように操体と結びついたのかを感じられたと思います。

    これを、映像班として、ぜひとも画像に残したいのです。
    フォーラムに参加したかったがやむなく欠席した友人や、操体を学ぶ方々に操体の最前線(身内が言うのもなんですが本当です!)を見てもらいたいと強く感じており、
    今回のフォーラムはそのまま学校の授業や操体の勉強会が開催できる内容でしたよ。

    なんだか自画自賛?の嵐ですが(今回発表していない私が言うのも変ですが)、
    本当を言うと、私自身が一番撮影したものを見たかったりします。何度も見て、見落としたモノを拾いたい。

    ところで雀鬼桜井章一さんは、著書で「集団の成熟度をスタッフの動きがきびきびしているかどうかで決まる」という話を書かれていたと記憶しています。
    先月、平さんと成瀬ヨーガグループの成瀬雅春先生の対談の場に参加させていただきました。
    この時、お弟子さん達(20〜40代7,8人)は一つの目標に向かってきびきびと動きに無駄がなく、参加者側は大変気持ちがよかったです。
    参加する側は、ただ発表内容が良いだけではスタッフの動きに無駄があっては全体の流れがぶつ切れになり、
    なんとなく不快に感じられることでしょう。

    今回は島津先生の奥様にお褒めの言葉をいただき、大変ありがたいと感じたものの、
    自分自身の動きは今ひとつだったこと、全体的な改善点はちらほら見えております。
    今日は三軒茶屋にて塾操体と秋季フォーラムの反省会が行われます。

    次回の開催に向けて、実行委員全員で良いものを作れるよう語り合ってきます。

    年末までに、まだゴールドジムでの活動もあります。
    「これからも、東京操体フォーラムの動向は見逃せない!!」

    そういわれるようになりますよ!
    楽しみにしていてください。

    森田珠水

  •  特別寄稿

    来年秋のフォーラムでの講義をお願いしている、平田紀子先生、川崎隆章氏からフォーラムの感想を頂きました。ありがとうございます。

    ご招待頂きありがとうございます。都合で少しのコマしか受講できず残念でしたが、新鮮な体験でした。

    稲翠先生との対談は、音大で教鞭をとりまた寄席芸人だった夫のお弟子たちと関る自分にとっても興味深いものでした。もっとお話を伺いたかったです。

    「触れない臨床」は初めて拝見しましたが、体験してみたくなりました。

    三浦先生始め臨床家の方々の姿勢やたたずまいから、凛とした美しさがピシッと感じられ、改めて操体に興味を持ちました。

    ありがとうございました。

    平田紀子

    「快と楽・・・天が与えた二つの存在への考察」 川崎隆章

     このたびは、東京操体フォーラムへご招待頂き、深くその内容に触れさせていただくことができ、大変に嬉しく思っています。ほんとうにありがとうございます。

     今回の最大の収穫は「快と楽」についての問題が綺麗に解けたことです。
     フォーラムでは、多くの講演者が快と楽の違いについて説明し、多くの参加者が共感を表明し、休憩時間中もその話題がよく出ていました。以下、フォーラム参加の二日間、頭の中をめぐっていたことを書きだします。

     ごく簡略にいえば「楽」は客体的な心地よさ、「快」は主体的な心地よさである、と、私は理解しました。三浦先生がもっと直接的に「魂の喜びそのものだ」とおっしゃっていたのが強く印象に残っています。
     南画家の田中稲翠先生は、「快」と「楽」の違いを甲骨文字にさかのぼって鮮やかに解いて下さいました。操体の世界で発せられた問題が文字学の世界で解かれるというのは、実に愉快なことです。「楽」は人が両手で神事で鈴を振る姿、「快」は利き手で刀を勢いよく振り下ろす時の心持ち・・・何千年も前の人が、現代のわれわれに答えを与えてくれたのであるとすれば、その媒介者である稲翠先生は古代からのメッセンジャーだということになります。東京操体フォーラムではこんな飛躍的な出来事が、次々と起きてきました。これぞまさに本物のフォーラム(広場)ですね。

     また、快と楽の使い分けについても、答えを発見することができました。
     武術家の島津先生が見せてくださったいくつかの実技が、まさにそれでした。痛みを取る、あるいは筋肉の緊張を取るという技を目の前で見せてくださったが、実に1分とかからない妙技で、実際、目の前で明らかに結果が出るというものでした。
     先生のお話を伺った限りでは、これらの作用は(的確な場所に痛烈な痛みを与える、などの)刺激によって身体が表現するさまざまな「反応」を、刺激によって積極的に引き出すものであり、これは「楽」の世界ではありませんか。
     先生は「われわれ武術家はは気が短いから」とおっしゃいますが、戦時において短期解決で治療行為をすることが、そもそも求められているのですから、これは理にかなっている。いかにも戦いの現場を居思わせる「徹した楽」だと思いました。
     一方、施術をしている島津先生のほうには「快」がありました。冗談まじりのように「術をかけて、相手が痛がるのを見るのが面白くて」とおっしゃっていましたが、実はこれは稲翠先生が見せてくださった「快」という字の本質ではありませんか(道具こそ刀ではありませんが)。つまり、相手が楽になることを喜ぶ・・・なんてセンチメンタルな感情が快を生みだしているのではなく、その姿勢をとり、その動きで「究めた動作(=術)」を行うこと「自体」が快なのです。

     これは、戦場において戦いを自発的に鼓舞することにもつながるのではないでしょうか。
     島津先生が「活殺」という言葉をお使いになっていましたが、活かすも殺すも、その「行為自体の快(=鮮やかさ、正確さ、繊細さ)」においては共通だということです。殺すほどの正確さと繊細さを持って命を活かす(逆もまた真なり)。「殺す技術」と「活かす技術」に区別をもたない「人間の究極の動作哲学」・・・これが武術の本質なのではないかと考えました。

     ところで、休憩時間の会話を聞いていて「楽」を「快」より下位のものとして考えている人がいた事に小さな違和感を覚えました。森羅万象に存在の必然性・必要性があるとするならば、「楽」は楽の必要性があり、「快」と同じほどの崇高な価値があるはずだからです。
     私が「楽」の存在価値をはっきり名言するのには理由があります。
     三浦先生の二日目の実技で、ついに「触れない操体」が公開されました。究極の「命の喜び(=快)」を示現する技術であり、操体の究極の目的に迫るものだと思いました。しかし、私はこれを、一日目の実技で見せてくださった「第一・第二分析」とセットで理解しなければならないと思うのです。単に「第一分析、第二分析」が発展して最新の形になっただけではなく、第一分析、第二分析の存在や役割が変わり、かつては「操体」そのものをあらわしていたものが、「操体の真髄へ導く手段」として再定義されたのではないかと理解しました。なかには(いろんな事情から)自発的になることを拒絶する人もいるわけで、そういう人にとって、自発性を求めない第一分析は、重要かつ不可欠な「入口」となると思うのです。これもまた「快」を示現するための「楽」なのでしょう。

     私は6月から月1〜2回のペースで三浦先生・畠山先生の講座のモデルケースをさせて頂いているのですが、いままで数回「触らない操体」を施術して頂いたことがあります。その感激と、体内・意識上で起きる劇的な世界は別途感想文として書いたとおりです。二日目の実技のあと、受術された三人が語っていた言葉はまさに私にも起きたことで、共感を覚えました。
     ところが「触らない操体」は、極限まで主体的に快を得る事が求められるだけあって、深さを求めると、それ相応の自発力と体力を要します。実際に深く受療すると軽い疲れが残るほどです(軽いスポーツの跡のような疲れです)。また、一度その深さを味わうと、次に受療する時には相応の覚悟をしてしまいます。試合や歌うの前の気構えに似た、ちょっとしたモチベーションを要する小さなハードルです。

     あれは7月下旬のこと。無理な仕事で体がボロボロになった状態で三浦先生の施術を受ける事がありました。正直いって大変疲れており、足取りもおぼつかないほどでした。「触らない施術」に対する期待はあったが、そこまで自発的になれる気力もありませんでした。
     三浦先生は、私のそんな状態を一瞥で見抜いてくださったようで、その時は横になって背中の一点に指をおいてくださいました。この時の「触ってもらった」という安心感。私はその指の感覚を確認するや否や深い眠りについてしまったのです。数十分後、目覚めたとき先生はすでに室内にはおらず、すべての施術は私が深い眠りについている間に行われたようです。畠山先生によれば、その間、背中に指を置いた以外は何も目立ったことはされていなかったそうですが、この時は私の呼吸器系にアクセスされたようで、ある瞬間から呼吸音やいびきの質が変わった、とのこと。この日、私は生まれ変わったように元気に帰ることができました。
     フォーラムで「快」と「楽」の話が繰り返し出るにつけ、私はこのときの印象深い体験を思い出すのです。
     何かを対象とした客体的な心地よさを「楽」、自発的な魂のエネルギーが生み出す主体的な心地よさを「快」とするならば、三浦先生は私が自発的な体になるよう、指を使って「楽」を与えて、補ってくださったのだと思います。
     この後も、いろんな体調、いろんな状態で三浦先生の施術を受けましたが、私がピンピンしている時はまさに「触らず」の極致で術に臨み、疲れやケガで心が弱っていれば、触って下さいます。

     操体の本質は、自発的なエネルギー(=魂の喜び)で自ら「快」を生み、味わうことにあるのだと思うのですが、人間が社会的動物である以上、肉体や精神にはさまざまな「都合」が生じます(本当はそこまで自発的であるべきなのでしょうが)。そこを補う時にこそ、必要最小限の「楽」が活かされるべきなのだと思います。
     島津先生のお話が思い出されます。道場で子供が「歯が痛い」というので、術を使って痛みを止めてやり「よーし、医者に行ってこーい!」と送り出してやった、というエピソードです。まさにこれこそ「楽」を上手に活かした方法だと思いました。その子は痛みを我慢せず、前向きに治療に臨むことができたのです。これは、私が感じた三浦先生の「指」と相違ないと思います。私は先生の指で一時的な苦痛から逃れることができ(眠ってしまうことで)落ち着いて「体にゆだねる」ことができたのです。

     また、稲翠先生のお話の中、手慣れてしまった創作に飽きてきた時、御自分の毛髪を用いて、まったく考え方の違う筆を作られたというエピソードが紹介されましたが、これだって、下り坂のモチベーションに活力を与えるため、道具を通じて一種の「楽」を求められたと解釈することができます。あらゆる創作家が「方法の冒険」を求めるのは、すべからく「自らの魂を、より大きく震えさせる」ためではないでしょうか。
     三浦先生は操術の世界で、島津先生は武道の世界で、稲翠先生は芸術の世界で、皆「楽」を「快へのいざないの道具」として「活かして」いる・・・私はそんなことを発見しました。会場で、会場の外で「快」と「楽」についての話題が出るたびに、私はこんなことを確信したのでした。

     畠山先生から幾度となく、ずいぶん長い間「またフォーラムやるから是非見に来てよ」と言われていたのですが、今回参加させていただき、とてもうれしく思っています。そして、こんな凄い知の現場を今まで見逃していたことに、ちょっぴり悔悟を感じたのでありました。
     以上、未整理ながら、熱のさめぬうちに、感じたまま書いてみました。

  • 御礼 2009年秋季東京操体フォーラム  

    11月22日、23日の二日間にわたって、千駄ヶ谷津田ホールにて2009年秋季東京操体フォーラムを開催致しました。ご参加の皆様、ありがとうございました。
    今回は22日に柳生心眼流の島津兼治先生、23日に南画家の田中稲翠先生を特別講師に迎え、操体と武術、操体とアートという視点から学びを得ることができました。

    一流の先生方は、ジャンルが違っても深いところで通じるところがある、そんな二日間でした。春の分科会でまたお会いしましょう。

    集合写真。

    島津先生の実技指導

    ◆2009年12月以降の行事予定◆

    12月13日 ゴールドジム行徳 アスレチックセンターにて

    臨床家による操体セミナー〜歪み、腰痛、現状の壁を突き破る、達人ボディ製造法〜こちらのお申し込みは直接行徳ゴールドジムにどうぞ

    2010年4月26日  東京操体フォーラム 分科会(第1回)
    2010年春季から、「分科会」としての活動を始めます。詳細は追ってお知らせ致します。

  • 気概

    いやぁ。。。いよいよ明日から秋季東京操体フォーラムですねぇ、緊張もピークに成っており、回数重ねてもこのドキドキは変わらないですね、私達実行委員はフォーラムの運営も行っているのと同時に当然の事ながら、勉強にも来ている一参加者でも有るので毎回新鮮な感動、改めて操体の凄さを感じることが出来、私ら地方者にとっては一年の総決算的意味合いもあり、ドキドキワクワクの二日間です明日から宜しくお願い致します!

    気が付けば今回のブログも今日が最終日です、毎度の事ながら頭を痛めつつ、出来る限り新鮮な感覚を内容に反映させたいという私の欲求から、ギリギリの状態で書いているので本当に痺れます・・・そんな新鮮なネタなので今の私の感覚により近いと思います・・・

    ところで最近テレビを見ていると『友愛』って言葉を某総理大臣が連呼しているので気になり、辞書で引いてみると『兄弟、又は友人間の情愛・友情を抱いていること(さま)』う〜ん。。。解りにくい・・『友愛政治』で引いてみました『これからの世界は、人種、宗教、民族、国家、言語の壁を超越し、ともすれば乖離(かいり)し、対立しがちな人間と人間、自然と人間との真の共生を目指す時代のこと』だそうです、これは某総理のオヤジさんが掲げた政治理念だそうで、意味を見れば見るほど益々解りにくいと言いますか、解るんだけど、納得は出来ないって感じでしょうか。。。

    テレビで某総理が「友愛・友愛」を連呼すればするほど、何か(┐・・┌)ゲッソリ…って感じで、胡散臭い(スイマセン)と言いますか言葉が上滑りで、日本を取り巻く外交事情やら経済状況を考えると余りにも余人離れしているといいますか、言葉に力が無いと言いますか、空念仏の様で耳障りは良いかもしれませんが、喧嘩に弱い奴が喧嘩するのが嫌で理由を美化しているようにしか見えない感じで、他国はそんなに甘くは無いぞ!って思わず言いたくなる今日この頃です・・・

    これって偶然と言いますか、海の向こうアメリカでも何やら同じ様な匂いのする方が大統領に成られて、何とかの一つ覚えのように『Yes We Can!』を連呼し、これ又耳障りの良い言葉を駆使し、ノーベル平和賞などを戴いておられますが、このお二人に共通なのは何か言葉が伝わらないって事なんですよねぇ・・・

    あ・・スイマセンいきなり毒付いていますが、この様に耳障りが良い言葉って信用出来るかどうかはその言葉を吐いている人の『気概』だって思いませんか?
    “子曰(しのたま)わく巧言令色(こうげんれいしょく)鮮(すく)なし仁”かの論語の中の一説を思い出しますが、意味は『先生がおっしゃった、言葉づかいが上手でよどみがなく、表情やしぐさなどの物腰が柔らかくても、そればかりを意識するような人物では、人を思い遣る仁の心が育つことはない』何かそのまんまって感じがします・・・

    でも、悲しいことに今の世の中の全体的な雰囲気としては“巧言令色”の方が喜ばれると言いますか、当たり障りのない、耳に心地よく心に届かない言葉が好まれます・・・
    ですが、この巧言令色を吐く人の共通点は言葉に魂がないので、いざとなったら尻をからげて眼前の障害から逃げて行ったり、あの時はそういう状況だったから、仕方無かったとか言葉に責任を持たないと言いますか、言葉を道具として弄ぶしか知らないので、言葉がその人の内側から絞り出される魂の叫びであったり、訴えであるものだと言うことを知らないのです。
    ですから腹の据わっている人と会ってしまうと直ぐにボロが出てしまい、化けの皮が剥がれてしまうという失態を行ってしまうのです。

    どうやら今は時代が荒んでいるので言葉だけは“美辞麗句”を並べ心の安寧をはかろうとでも思っているのでしょうか?
    この傾向はどうやらどの業界でも共通のようで、ともすれば全国的にも狭い操体の業界に関しても同じ様なことを感じることが有ります。

    橋本敬三“息・食・動・想+環”の教えを説いておられますが、中でも“想”である想念の部分は取り方によっては如何様にも解釈が出来“心の平安を保つには言葉を統制することが大切である”“言葉は運命のハンドル”など様々なキーワードが操体の中でも出てきますが、この中でも想念を統制するには“言葉”の力が重要であると師も説かれており、言葉が使いようによっては諸刃の剣に成るのだと、強い注意喚起をされているような気もします。

    操体は確かに素晴らしい次代に受け継ぐべき“Maid in Japan”『日本医学』です。
    “動診”或いは“快適感覚で治癒”を促すという、他の手技療法には見られない様々な特長を持っており、究極の未病医学であり誇るべきものだと思います。
    但し、余りにも大事に思うが故に、操体の考え方や橋本敬三を必要以上に神格化してしまったり、崇め奉るようなことをしてしまうと、本末転倒であり『世界平和を願う操体の考えに反してる!』などと変化を恐れる故に訳の解らない事を言ってしまう、守るだけの弱体組織に変化してしまう危険性も孕んでしまうからです。

    組織が変化を恐れ守りに入ってしまえば、後は弱体化か崩壊しか道は残っていません。
    風通しの良い組織内部の環境を作り、変化を恐れる事無く、新しい議題にも積極的に取り組んで行く姿勢こそがこの混沌の世にあって生き残っていく組織の姿であろうと考えます。

    耳障りの良いことだけを言う人間を周りに置き、苦言・諫言を言う本来であれば組織になくては成らない大久保彦左衛門的存在の人間を排除するといった“昔の名前で出ています式”過去の栄光にひたすらすがる組織では特に若年・青年層には相手にされない時代に成ってきていると思います。
    唯々、昔はこうだった・・とか・・それは貴方の考えで、受け入れられない・・とか折角、先人が血の小便を流しつつ築き上げてきた素晴らしいものであっても、変化出来ない、受け入れられない組織の器の小ささで無駄にしてしまえば、操体という名前だけの中身の無い、抜け殻自己満足のマスターベーション組織にしか成らないとも言えます。

    少なくとも実践者として操体の看板を掲げ現場で汗をかいている臨床家は美辞麗句では語れない臨床の難しさも知っていますし、日々クライアントの身体と真摯に向き合い、結果を出している自負も持っています。
    その実践者の言葉にこそ真実があり、本物の操体との出会いを待っている方達へのヒントが溢れていると確信しています。

    真の操体を求めるなら私は自信を持って言えます、東京操体フォーラムの門を叩け!と、そこには現状に満足することなく日々変化し続ける仲間と、間違いがあれば指摘し共に成長しようと願っている熱い意志がそこには有ります!
    『求めよ、さらば与えられん 尋ねよ、さらば見出さん 門を叩け、さらば開かれん』新約聖書「マタイによる福音書」より
     
    今週一週間、本当にありがとうございました、来週からはお待ちかね三浦理事長の出番です、今回はどんな話が聞けるか楽しみです、仙人World満載ですので、お楽しみです。

    福田勇治

  • 人は見た目が9割?

    ちょっと古い本で恐縮なのですが、2005年に発刊された本のタイトルで人は見た目が9割」(竹内一郎著)と言う、タイトルに大変インパクトの有る本があったのですが、最終的には85万部以上は当時売れたのではと記憶しています。
    別にこの本を読んだ訳でもなく、簡単な内容紹介に目を通しただけなので、本の内容そのものを云々するつもりはないのですが、この「人は見た目が9割」というフレーズに妙に惹かれるものがあり、自分なりの解釈で「人は見た目が9割」を考えてみたいと思います。

    このテーマは私だけでは無く、一度は誰でも考えられた事があるのではと思います。男であっても女性であっても「人よりも格好良く見られたい!」「人よりも可愛く見られたい!」とその様な願望は持っているのが普通であり、無いと言われる方が不自然だと思います。
    水嶋ヒロの顔がくっついていれば人生変わるだろうとか、柴咲コウの顔なら求婚されまくりだろうなどと、あらぬ妄想を抱くのも至極当たり前の事だと思います。

    もっと極論で言えば“美男美女であれば一生幸せなのか?”と考えたりもしてみますが、これはゴールを何処に置くのかで大きく変わるのではないかと思います。
    “結婚”をゴールにするのか、数多くの浮名を流す“恋愛”を目的?にするのかです。
    目標?を単純にゲームの如く入れ替り立ち替り有りと有らゆる異性とお付き合いしたいと思うのならば、不細工(失礼。。。)よりもパッと見が良い美男美女の方がお付き合い出来る確率は上がるでしょう・・・

    スピード化が進む昨今、人間は三秒でモノの善し悪しを判断するのだそうです。因みにインターネットでホームページを閲覧した時に自分に有用な情報かどうかを判断する時間がこの三秒だそうで、HP作成業者はキャッチーなHPを作るのに試行錯誤するのだそうです・・・
    まぁよく考えてみれば、テレビのチャンネルもパッと見てパッと変えるって感じで、正味三秒かかってないのかもしれません・・・

    これは対人間に対しても同じ事が言えるそうで、我々も知らず知らずの内に三秒で勝手に初対面の人に判断をされているという事です(最近Googleで話題の美人時計とかも・・・)。
    「う〜ん・・・不条理であるぞよ」と思わず言いたくなるのですが、考えてみれば我々野郎連中(女性も?)は街で歩いている女性を見る時でもチラッと見て(三秒どころでは無いかも)自身の好みカウンター(ドラゴンボールに出て来る強さを示すカウンターの如く)に好みである無しを本能的に関知し、好みでなければ見て見ぬ振りをしますし、何らかがヒットすれば暫し見とれたり妄想したりと(き・・キモイっすか?)一瞬の間に様々なドラマが生まれるのですが、これなどは相手の方の性格や人間性などは脇に置いて単純に見かけだけで判断をしている訳です。

    これは単純に“視覚”プラス、勝手な我々の想像力が成せる技だと思います。パッと見で可愛いいと感じ、勝手にこんな感じだから性格もこうじゃないかと自分の良いように想像したりして・・・
    ここまでの話だと完全に人は“見た目が9割”が勝者で、我々見た目ガッカリ派は明らかな敗者となる訳ですが、そうはいかないのが人間の面白い所、むしろ動物の面白い所と言って良いと思います。
    ファースト・アプローチが視覚ならばそれ以外の段階が非常に面白いのです。
    第一段階で視覚、そこから次の第二段階は“言葉”そう聴覚での判断と成る訳です。
    いわゆる“声”の要素は好き嫌いがハッキリ分かれると言いますか、顔は格好良い・可愛いと思って話をしたら、ガッカリしたと言う話もよく聞きます。妙に声が高いとか(声の高低)、後は喋り方ですね、舌っ足らずだったり、妙な喋り癖が有ったりなどと・・・
    これは自然界での動物の求愛行動においてはより顕著であり、視覚に関してはクジャクの羽根を広げてアピールする行為など、そのために進化の過程で外見的に変化していった動物も数多く存在します。それ位に動物であればあるほどより第一印象でのインパクトが求愛での重要なポイントに成る訳です。
    第二段階も鳴き方で求愛をする動物(身近な所では猫様も)など第一・第二においては動物も人間も然程大差は無いような気がします。
    そう考えると一目惚れが多い方やルックスが一番!などと宣(のたま)う方はより動物に近い方だという事が言える訳ですね・・・ほら、だってカラオケで歌を聞いたら、ルックスはイマイチだと思っていたけど、声の高音の伸びでやられたとか、低音の渋さが子宮に響いたとか、声も馬鹿になりませんねぇ・・・何かこの話だけでブログ二、三回分は書けそうなのでこのへんにしときますが・・・

    え?何が言いたいかって?あ、これって別に人の恋愛観やら結婚観に関してどうこう言うつもりは無く、臨床家にとってもこの『見た目』のは非常に重要な要素だと思うからです。

    実際、色々なクライアントの方達から結構!?勘違い臨床家の先生が多数生息するのを聞きます・・・怪しげな?作務衣を着て不敵な笑みを浮かべつつ出て来る先生・・入道坊主の頭に眉毛無し、何やら別の業界の匂いがする先生・・白いのかグレーなのか解らない、或いは洗ってないのか?と思われる微妙な匂いのする白衣もどきを着て出て来る先生・・崩れそうな治療所に湿っているシーツの上に寝かされた先生・・妙にクライアントに迎合する、ハッキリ言ってくれない先生・・
    これ実際に聞いた話です・・・最後の二つは関係ないように思いますが、見た目とは本人の姿だけでなく治療所がどう見られているか、治療所の中は?治療所は臨床家の顔の様なものですから、当然と言えば当然ですが、迎合先生や押し付け先生など言い出すとキリが無いのでこれ位にしときますが、せめてせめて・・第一印象位は臨床家として恥ずかしく無いように見られたいモノです。              
    マイナスからスタートするのと、ちょっとプラスでスタートするのではクライアントの心の窓が開いた状態から診るのと、不信感を抱かれながら診るのでは大きな違いです!
    幸いな事に我々フォーラムのメンバーに関しては良いお手本がいらっしゃるので、大きく脱線する事は無いと思っています。

    私も出来る事であれば目指したいと思っているのが、三浦理事長なのですが、多分と言うよりは間違いなくフォーラムの男性諸氏の中では岡村実行委員長三浦理事長がファッション・センスに関しては双璧だと思います。
    服の着こなしは勿論の事、アクセサリーの使い方やセンスも抜群で芸風が違うのでそのままマネは出来ませんが、是非、目指したいものです!
    私が理想とする臨床家像(あくまでも外見の事ですが)はパッと見、職業不定で何をやっている人なんだろうか?と思われる事です。
    最悪なのは如何にも○○というパターンですね、どう見てもサラリーマンとか工場勤務とかではなく、サラリーマンでも無い様だし、かと言って・・・何してる人なんだろう?的な“謎のおっさん”的な臨床家が理想です・・・

    襤褸(ぼろ)は着てても心は錦』などと自身がオシャレに無頓着な事を敢えて肯定する(特に男性)人も居ますが、それは自他共に認められる中身があって始めて成立する事で、その道の名人クラスやファッション業界のカリスマがジャージで出てくれば、ニュー・ウエーブだ!とか言われるでしょうが、そうでなければ只の加齢臭漂う“普通のおっさん”であったり、娘さんから一緒に歩くのいやぁ・・などと言われてしまうのが関の山です。

    私もどちらかと言えば、ファッション関係には疎い人で、正直、着られれば何でも良い派だったのですが、師匠である畠山先生に幾度となく着るモノには気をつけた方が良い!見られている意識を特に男性も持つべきだ!という話をして戴き、最近は自分なりにチョイとずつ気をつけるように成りました。
    ブランド物とかも、以前は否定派だったのですが、要は考え方なんだと思うように成りました。
    “一流は一流を好む”とよく言われますが、三浦理事長は身につけていらっしゃる物どれ一つとっても、一流の物であり、又、それが嫌みでは無く寧ろ自然であり、格好良いのです。
    よく街で見かける若い子が似合いもしないシャネルのバッグやブランド物に身を包んで闊歩しているのを見ると、あぁシャネルが歩いてる・・・とかシャネルが泣いてる・・・とブランドに着られている感じで、逆に薄っぺらく見られてしまいます。
    そう考えると一流を着こなす、或いは身につけるには自身が一流に成らなければ笑われるだけなんだと。
    一流を身につけることは自身が一流に成るための投資でも有り、一流を身につけても違和感無い自分自身がブランドに成るためのステップなのだと思うように成りました。
    逆に考えると一流を身につけるからこそ、それに負けない様に中身も一流に成ろうという気持ちも芽生えるのではないかと・・・
    クジャクとはいかないまでも、幾つになっても異性に腕を組んで戴ける位の“オシャレ・オヤジ”&“謎のダンディー叔父様”は目指したいものです・・・

    福田勇治

  • 野球

    え〜っと、今年もシーズンがほぼ終了致しました・・・何がって、前回のブログにも書いたのですが、私は臨床家であると同時にプロの草野球選手(本当はそんな職業は有りませんよ、念のため)でもあります・・・

    今年は何と言ってもWBCのJapan連覇から始まり、巨人の7年振りとNewYork Yankeesの9年振りの優勝で幕を閉じた野球界でしたが、MLBは個人的にも好きな個性的選手が結構居て、Boston Red Sox時代から好きだった

    マニー・ラミレス
    やSaint Louis Cardinalsのアルバート・プホルズとか最近の日本のプロ選手には少なくなった、独特の個性を持つ選手もMLBの魅力の一つでもあります。

    特にマニー・ラミレスに関してはやる気の無いようなダラダラ守備や突っ込み所満載では有りますが、あの勝負強さはやはり、凄いです。
    私の脳内イメージでバッテイング・フォームはマニーラとプホルズです。。。真似てます・・・
    今、日本のプロ野球選手で子供達がそのフォームを真似しよう!と思われるようないわゆる“スター選手”が少なくなっているのも何やら悲しい感じです・・・
    プロの使命として勝利は至上命題では有りますが、憧れられる選手も必要な気がします。

    先日テレビを見ていた時に男の子が将来成りたい職業に関してのアンケートをしていたのですが、小学校に関しては相変わらずスポーツ選手だったのですが、中学生に関してはサラリーマンになっていました・・・小学生へのインタビューでは公務員が安定していてよい、などと小学生がしたり顔で語っているのを見てちょっと寒くなりました・・・

    興味深かったのは男の子は高学年になれば成るほど成りたい職業が公務員など、現実的になってきて、女の子は小学生の頃は現実的な職業に就きたいと思っているのですが、高学年になれば成るほど最近は芸能人とかモデルといった、憧れ的な職業に就きたいという傾向が増加しているようです・・・男よ大志を抱けぇ!

    あああ、話がかなり脱線しましたので、野球に戻りますが、私達のチームも10月末に今年の公式戦メインのリーグ戦も一応終了致しました・・・
    結果は約20チームのブロック戦での勝利数上位チームでの勝ち抜けで、又もや準優勝という結果で終わりました・・・今年は昨年よりも参加チームのレベルが上がり、笑いながら出来る様な試合は最初の予選の数試合でした。
    某地元野球有名校甲子園常連OB軍団とか昨年度島根県代表軍団とか、普通に連盟(A・B・C級)で試合をしている様ないわゆる本物連中が大挙参戦した今回のリーグでした。
    ここ最近では味わった事の無い様なピリピリする様な緊張感を味わえたのはある意味楽しい経験でした。

    今年は大きくメンバーが入れ替わり、平均年齢も一気に15〜6歳は若くなりました、10代・20代のメンバーが中心となり、相変わらず私が最長老でPlayをしているという状況です。
    今年は前半に比べ後半はジューサーのお陰で、ウエイトが軽くなった分Playはかなり軽快に成り走っても身が軽いのが実感出来ました。
    40歳Overでの野球は体力的には結構辛いものもありますが、壮年野球(40歳以上の野球)には未だ行かないぞ!的なプライド?で自分の子供に近い年齢の選手達と共に汗を流せるのも、年々挑戦者の気持ちで密かな楽しみにも成っています。
    来年は若手が連盟チームで上を目指したいとのことから、チーム掛け持ち状態に成りそうなので、40代のエース再降臨の一年に成りそうです・・・西武に行くことに成った工藤選手も46歳と私よりも更に2歳Overでプロでプレイをしていますので、負けずにトレーニングに勤しまなくてはと思っております。

    以前のブログでも書きましたが、私は「如何にも○○」と思われるのが大嫌いです!解りにくいようですので例えますと、「如何にもオッサンぽい」とか「如何にも手技療法家っぱい」とか要はどこからどう見てもそのまんま!っていうサプライズが無い事が何より嫌なのです。
    理想は「デブなのにボルトより速い」とか「じじいなのに肌が20代の様にツルツル」とか、目標は幾つに成っても『年齢不詳・職業不詳のリッチマン』です。
    はい、そうです、よ〜く考えたらこの条件に当てはまる人が身近にいるんですよねぇ・・・三茶の仙人・・誰に聞いても一発で職業を当てる方はまず、皆無だと思われます・・・
    “目指せ!出雲の野球仙人っ!”り・・・臨床家じゃないんでしょうか・・!?

    福田勇治

  • スポーツ

    私が診させて戴いているクライアントの30%はスポーツ関係者が占めています。スポーツ関係者と言ってもその殆どが中高生の部活動が主で、時には小学生のスポーツ少年団など、未だ身体が充分に出来上がっていない子達もやって来ます。
    主訴の殆どが『肘、膝などの関節痛』『筋疲労から来る腰痛』など、見ていても痛々しい位の状態で親御さんに連れられてやって来ます。

    考えてみると私も小学校の頃から野球を始め、高校卒業までの約7年もの間、明けても暮れても白球を追いかけていました。
    当然の事ながら私自身も怪我との闘いの連続で、小学校時分に肘を痛め、高校時代に至っては腰痛に悩まされ、御多分に洩れず整骨院通いをしていました。
    当時の治療は今考えると、かなりアバウトな感じで、自分らで勝手に器具を弄って電気治療やら温浴治療を先生無視で、勝手に行っていました。
    当然の事ながら、気休め的治療満載で、治療そのものより寧ろ、治療所に来ている他校の野球部員との情報交換場といいますか、サロンと化していました。
    当時の気分としては、自分以外の選手も皆、身体を痛めているからショーがない!野球を続けている以上は痛みは付いてまわるモノだ!と無理矢理納得させていました。
    どう考えても休ませた方が良いと解っていても、休めばレギュラーから外されたり、休み明けに使ってもらえる保証は何もないので、選手は無理を押してでも練習に参加する、といった悪循環を伴う訳です。治療家の立場と選手の立場も両方解るが故に何とも悩ましい限りです・・・

    そもそもスポーツって何なんでしょうか?語源は気晴らし・遊ぶ・楽しみなど意味とするdisportが語源のようですが、現状競技スポーツを行っている選手100人に聞きました!って聞いてみれば、多数の選手が語源の様な気分では競技を行っていないと思います。
    ましてやこれが学校の名誉ならまだしも、国の名誉を背負った“オリンピック”などにでもなれば、国の威信やら郷土の名誉やら背負わなくても良いものまで背負わされて、良い時はマスコミも含め散々持て囃され、メダルの色が変わった途端に掌を返した様に人格をも含めて袋叩きにあう・・・ああ・・・不条理不条理・・・

    このスポーツと真逆でよく比較されるのが『武道』ですが、この武道も昨今は競技化してしまい、武道なのかスポーツなのか曖昧な“スポーツ武道”が増えてきているのも確かです。
    本来、武道は他人との闘争というよりは自分自身、身の内との闘いであり、他者と比較して云々という次元に存在せず、比較そのものがそもそも滑稽な話です。
    スポーツと武道の大きな違いは『原理・原則』の有る無しだと思います。
    スポーツとはいつの時代でも現在、今時点で『強い人(勝っている人)・強いチーム(常勝軍団)』が正義であり、生涯その考え方、やり方が正しい訳では無く盛者必衰、負ければ次に勝ったチームが正義となり、その学校や監督・コーチが行っているトレーニングを含めた指導がお手本に成ると言った、本質無き『砂上の楼閣』的指導法なのです。
    だからこそ、コーチや監督が経験値の中から手探りでベストなパフォーマンスを引き出そうと試行錯誤をしていく訳です。スポーツの世界にはこれをやれば100%大丈夫!というモノは決して存在しないのです。

    それに対し『武道』は日本人の体型や生活様式の中から長い年月を積み重ね作り上げられた、日本人独自の文化であり“基本”と“型”の反復稽古の中から“原理・原則”を見出し、基本の動きを身体に染み込ませ血肉に成るまで行うことで自分のモノにしていく人生勉強の場でもあります。だからこそスポーツで忘れがちな、礼に始まり礼に終わると言った精神的研鑽も必要と成る訳です。

    The Maid in Japan操体においても全く同じで、操体における“原理・原則”はご存じ『般若身経』であり、“重心安定の法則と重心移動の法則”操体を学ぶ者において(基本的には臨床家と名乗る方は全てと思いますが)は必須であり、自然に身体が反応するまで刷り込む必要が有ります。
    この原理原則を身につけると、ある程度のスポーツへの応用貢献も出来るので、何故身体を痛めたのか、どうすれば極力身体を壊すリスクを減らす事が出来るかを選手に指導出来、更にどうすれば今以上に身体パフォーマンスを上げられるかなど、選手が望む結果を “般若身経”をベースに指導が出来ます。
    来年辺りからは本格的に私達東京操体フォーラム指導の元のスポーツ選手育成プログラムが花開くかもしれません、今、着々とその下準備及び動きが始まっています!

    『般若身経』は競技が変わってもベストパフォーマンスを引き出せる、日本人にとってベストな“メンテナンス&コンディショニング”アイテムだと思いますので、全ての競技に・・・
    危ういスポーツ選手達の明日への救世主とも成るかもしれません。

    福田勇治

  • 2012

    11月21日って・・・考えたら秋季フォーラム前日という大切な日では有りますが、世の中ではこの冬期待?の映画、最近ガンガンCMで流れているので見た方もいらっしゃるでしょうが映画『2012』が公開されます。
    監督・脚本・総制作指揮は“インディペンデンス・ディ”や“デイ・アフター・トゥモロウ”などディザスター(天災・災害)映画の巨匠と呼ばれている“ローランド・エメリッヒ”の作品です。
    エメリッヒの作品は基本的には嫌いではなく、前述したインディペンデンス・ディもディ・アフター・トゥモロウも見ましたし、テレビでも何度も再放送され、何故かその度見ています。
    インディは宇宙人の襲来、ディ・アフタは大自然の驚異みたいな人間の力ではいかんともしがたい災害・災難に襲われ、逃げ惑い、或いは立ち向かう姿をハリウッドお得意の金にモノを言わせたこれでもかVFXで描き、最後はアメリカ万歳みたいな匂いのする映画?です。
    個人的にはインディ位の荒唐無稽な設定とウィル・スミスのお気楽な乗りが好きでは有るのですが、それはともかく今回の『2012』は“ウオッチメン”や“イーグル・アイ”などの視覚効果スタッフ結集し、最新VFXを使った作品と成っており、つい先日も予告編では異例の五分間先見せ本編映像が公開されていたので見たのですが、“VFX万歳単純野郎”の私は面白そうだなぁなどと思っておりました。
    内容的に云々するとネタバレに成りそうなので、省略しますが大型スクリーンで見てみたいものです・・・

    この映画のタイトルにもなっている“2012”とは古代マヤ人が用いた長期暦が2012年12月21日〜23日頃で終わっている 事から一部のニューエイジ思想家やオカルト好きな人々の間で『2012年人類滅亡論』として信じられているそうです・・・
    はい、これどっかで聞いた事のあるフレーズだと思いませんか・・・1999年7の月に人類滅亡って・・ノストラダムスじゃん!みたいな・・そうなんです、このマヤの予言も“ノストラダムスの予言”と共に語られる2大予言の一つなのだそうです。
    マヤ文明と言えば歴史の教科書で過去に見た記憶がボンヤリとある位で詳しくはないのですが、金属器を使わなかったという事と数学が発展していたという事しか思いつきませんが、特筆すべきがマヤ人は天体観測に非常に優れていたとの事で、精密な暦を作り出す知識を持っていたそうです。その中の一つが“長期暦(Long Count)”と呼ばれる、今回の予言の土台となっている暦のようです。
    地味にこの説に関しての本も結構出版されていて、ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿しているローレンス・E・ジョセフ氏はその著書『2012 地球大異変』で、太陽そのものの活動が2012年に記録的なレベルで最盛期を迎えることや、地球地場の弱まりによる地磁気変移の影響、太陽系が星間のエネルギー雲に入ったことで2010年〜2020年の間に地球に大惨事が引き起こされると予測、中国の易経ヒンドゥー神学でも2012年の終末が予言されていることなどを挙げているとのこと・・・
    何か、ノストラダムスで踊らされた世代としては、俄には信じがたいと言いますか、景気が悪くなると終末論がよく出ると言いますが、そんな世相も反映しているのかもしれませんね・・・
    因みに“2012”系統の作品はこの後も大作が控えており“トランスフォーマー”シリーズで有名なマイケル・ベイ監督も2010年公開予定の『2012 The War for Souls』という作品を準備しているようです。
    当分2012年ネタで盛り上がりそうです・・・
    これらディザスター系映画を見る度にふと考えるのは、いや・・多分これは私だけではなく、他の皆さんも彼女や彼氏、旦那様や奥様とそんな事を一度は話した事があると思います。
    もし、『1週間後に地球(日本)が滅亡する!』と政府から公式発表が有ったら貴方ならどうしますか?
    条件としては・・・

    1. 隕石が地球に衝突、地球以外は逃げ場無し(宇宙はOK)
    2. 気候の大きな変化が起こり、日本より北側の国は気温の急激な変化により、人が生きられる環境では無くなる(南の国ならOK)
    3. 宇宙人の襲来により、戦う以外は生きる道は無いと言われた

    このネタはよく奥方と話した事があります、いずれも見た映画の設定なんですが、どうでしょうか?これって結構、その人の性格が出るので、真剣にディスカッションでもすると楽しいですよ・・・これって実は地球滅亡に限らず、その人が人生の土壇場に追い込まれた時にどの様な行動に出るかを見るのにとても参考になります・・・
    命がかかると人間は違うよと言う人も居ますが、人間って精神的にテンパっている時は命のやりとりとほぼ変わらない行動をするので、土壇場で尻をからげて逃げる奴か、踏ん張って立ち向かう奴かを見極める良いテストにも成りますので、それとなく彼氏・彼女に聞いてみると、結構笑えます・・・こいついざとなったら私をおいて逃げるんだ・・みたいな・・・
    最近、刺激が無いというご夫婦やら彼氏・彼女諸氏は是非、ディザスター映画で、愛を深めてはどうでしょうか?結果として本性が見えて玉砕という道もありますが、それも又、ディザスターな感じで良いのではと思います・・・
    え〜っと因みに私ら夫婦の見解としては滅亡が決定なら、敢えてジタバタせず普段と同じ生活を送り、瞬間が来るまで一緒に居ましょって話で落ち着きました・・・うふっ(=´∇`=) ニャン♪

    福田勇治

  • 歴女?歴男?

    先週の畠山先生のブログの中で他の追随を許さない歴女ぷりが炸裂していましたが、
    やはりマニアックだなぁと改めて感心していました、歴女って確かに畠山先生の様に筋金入りのベテラン?も居れば、
    俄(にわか)歴女も多数発生しており、私の様にユックリ落ち着いてその場の雰囲気や過去その場に居たであろう
    人の息づかいを感じたい人間にとっては正直“(`×´)丿ウザイ!!”っす!
    「うぁあああ、可愛いいぃい!」「きゃぁああ」などおおよそ場違いな黄色い声を発声しながらうろつく様は
    正直、(・_・)ノ■ レッドカード 出したいです・・・

    今年で言えば天地人関係の施設やら地方やらが俄仕込みの歴女軍団の勢いで“わぁああ”っと人々が殺到しているようです。
    多分、来年は高知県長崎県・京都界隈に“俄歴女”軍団が発生しそうな悪寒です・・・

    しかし、疑問に思うのが歴女は有るのに何故、“歴男(れきお)”が無いのかは不思議な限りで
    何も歴史好きは男の専売特許では無く、私の知人などは歴史に興味は皆無!という奴が大多数を占めるので、
    イマイチこのネーミングには不満です。
    今は年相応に成りましたので問題は無いのですが、若い頃に「戦国好きの幕末馬鹿」って言うだけで、若年寄と呼ばれたり
    暗い・キモイなどと言われ、肩身の狭い思いをしたものです・・・

    それが時代が変われば“歴女”などと持て囃され、ブームに乗って俄歴女みたいな・・
    これ又マスコミやら某関係者の匂いがプンプンすると言いますか、妙に煽るなって言いたいです。

    私のいわゆる歴史好きは小学校の頃に原点があり、単純に自宅近くの山城に見つかっていないお宝が眠っている
    金銀財宝ザックザクみたいな、インディジョーンズか徳川埋蔵金かって言うアホみたいなレベルから入っていきました。
    最初はそんな不純な動機だったのが、誰が住んでいた城だったのかが気になり出し、色々と調べて行く内に気が付いたら
    “歴男”人生まっしぐらになっていました。

    先程も書いたように私の場合“歴男”と言っても時代限定のマニアなので、平安時代の事や弥生時代の事を聞かれても
    中学生以下の知識しか有りません・・・
    そんな中でも私自身がLife Workとして行っているのが、『日本全国お城巡り』です。
    残念ながら北日本に関しては中々行けておらず、今後の課題と成っておりますが、西日本・中部地方は目ぼしい所は結構足を運んでおります。

    やはりオススメは取り敢えず行っとけ!って感じで国宝指定の4名城は押さえておいて下さい。
    ご存じだとは思いますが、改めて見所も含めご紹介します・・・

    1. 松本城(長野県):1596年築城当時の姿が残ってる、何よりあの黒塗りのフォルムが美しい
    2. 姫路城(兵庫県:近世城郭の比類無き天守様式を留めている、時代劇で出て来る江戸城もどきは殆どここでロケってると言っても過言では無い天守以外も見所満載のお城マニアのディズニーランド
    3. 犬山城(愛知県)丸岡城同様に初期望楼型天守の形式を残している、とにかくこぢんまりとまとまった可愛いお城である、つい近年まで尾張藩付家老だった成瀬氏個人の所有であり、国宝で個人所有は珍しいお城でした(現在は違います)
    4. 彦根城滋賀県:1603年築城当時の姿を留めている、こちらも犬山城同様に可愛らしいコンパクトなお城です。彦根城の素晴らしい所は天守以外の櫓等が兎に角良いです。オススメは天秤櫓と廊下橋です、ここは時代劇のロケに数多く使用されているので現地に行ってみられると納得です。特に鐘の丸下から廊下橋を見上げるロケーションは感涙ものです(マニア限定ですが)

     後は現存天守のお城は是非、死ぬまでには行ってみて下さいまし。因みに現存天守とは今天守が残っているお城で
    江戸時代若しくはそれ以前に創建された物であるというのが条件のお城です。現在、日本に残っている現存天守は12城有ります・・・

    1. 弘前城青森県:唯一、行けてないです・・・
    2. 松本城(長野県):兎に角チョーお勧め、格好いいっす!軽く興奮します・・・
    3. 丸岡城福井県:こぢんまりな感じですが、雰囲気ありです
    4. 犬山城(愛知県):ここも可愛いプリティーな感じの匂いが満載城です
    5. 彦根城滋賀県:時代劇で見る機会が非常に多いロケーションなので、楽しいですよ
    6. 姫路城(兵庫県:King of Castleまさに日本の至宝とでも言うべきお城、よくぞ残ってました!Nice池田公!
    7. 松江城島根県:何度昇ったか記憶に御座いません、私に島根案内させると必ず連れて行かれる場所です・・
    8. 備中松山城岡山県:日本三大山城の一つです、駐車場から結構歩いて天守まで登ります、体力勝負です
    9. 丸亀城香川県:基本平山城で、街中にあり眺めが良いです。市内がグルッと見渡せます
    10. 伊予松山城愛媛県:ここは改修前にお邪魔してから行っていませんので、近々行きたいなぁなどと思ってます
    11. 宇和島城愛媛県:ここも、こぢんまり系ですが、幕末三賢公 伊達様(仙台絡み)のお城らしく、良いです!
    12. 高知城高知県:ここも雰囲気有りますね、城の下では朝市やってるんで、午前中に行くのがお勧めです!

    因みに私は行ってないのは弘前城のみです・・・青森行くこと無いっすねぇ・・・まぁ機会があれば行ってみたいものです。

    ここまで語っといてこんな事言うのも何ですが、私が本当に好きなのは天守が残っているお城では無く、中世城郭の花形『山城』です。
     え〜っと・・や。。山城?って総突っ込みの声が聞こえてきそうですが、私に言わせれば『山城』こそが
    戦国全盛期の城の中心であり、鉄砲の登場によりその機能を徐々に失い、苔むしてしまった悲しい歴史も有るのですが
    今でも車を走らせている時に山城跡の看板を見つけると、思わず車を停めて山に登って山頂に向けて登って行きます。
    ですから私の奥方などは旅行に行くと言うと必ず、靴はいるのか?を先ず聞きます、過去にもヒール系の靴を履いて行き
    とんでもない目に遭ったことがあるので、それ以降は必ず「靴は?靴は?」としつこい位に聞いてきます・・・
     話し戻しますが、山城の楽しさ?は何と言っても当時の人々の息づかいが聞こえてくることです。山という天然の地形を最大限に利用し要塞化していくその見事なこと、まさに一大芸術作品と言っても過言では無いです。

    見るべきポイントは幾つか有りますが、やはり『曲輪』『石垣』『空堀』『虎口』の四つ位でしょうか。
    石垣、曲輪、空堀は割に解りやすいですが、虎口は解りにくかったり、説明の看板がご親切に有ったりして嬉しいような楽しみを半分取られたような複雑な気持ちになります。

    意外に小っちゃな曲輪にこんな所で防衛機能が果たせるのかと疑問に思ったり、謎解きのような楽しさも同時にあり、400〜500年も前の世界に引き込まれる楽しさがあります。
    ですが、楽しいことばかりでなく、気を付けないと色々と怖い目にも遭いますので、充分な準備は必要だと思います。

    一度は下山する際に迷ってしまい、再度頂上付近まで上がってから下山した経験もありますので、ご用心です。
    後、マニアの方ならご存じだと思いますが織田信長の妹お市の方の旦那であった浅井長政の居城であった滋賀県小谷城跡』に登った時だったのですが

    此処は別の意味で身の危険を感じた場所でした。早い話が感じてはいけないモノを見てしまったと言いますか、此の世の方でない方が多数未だに存在する異空間でした・・・
    後にも先にも頂上から下まで一気に飛んで降りられないだろうかと、真剣に考え蒼白に成ったのはあの時が最初で最後でした。
    特に山城に関しては”霊感”の強い方はお気をつけ下さいまし、先程まで紹介した現存天守とかは中世とは言っても壮絶な戦闘により多数戦死!みたいなお城は少ないのですが、山城に至っては歴史をよく調べてから行った方が
    身のためだったりしますので要注意です。

    激戦地が山城は多いですので、有名所では『八王子城跡』何かは私は余り行きたくないです・・・
    よく考えれば数百年前に自分が立っているその場所で、壮絶な命のやりとりがあった場所ですから、安易な気持ちで登ることは失礼に当たると思い
    小谷城跡”の一件以来は塩と水を持参しつつ登るように成りました。

    ですから私のアルバムにこの小谷城跡の写真は存在しません・・・理由はデジカメにデータが残って無いというこれ又、何とも不思議な感じの結末で
    当時を思い出しても気味が悪い唯一の経験でした。

    とは言っても未だに懲りもせず“山城跡”看板を見つけては車を放置し、山登りをしている福田でした・・・歴男万歳ぃいい!!
    PS.個人的にオススメの山城は兵庫県の『竹田城跡』岐阜県の『苗木城跡』です、この二つはわざわざに行くだけの価値は有ると思います・・・

    福田勇治