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  • 大徳寺との不思議なご縁。

    佐伯さんからバトンを受けて今週1週間担当の平です。
    今週1週間よろしくお願いします。
    梅雨明けで、暑さが来ますね、夏は暑さを楽しむのも良いものです。
    京都で操体フォーラムが行われます。
    僕はいつも面白く、流れる時間を、素敵な時間を味わってる。
    そんな風に感じる日々って素敵だな、味わいつつ日々を過ごしてます。
    京都でフォーラムが行われる場所は大徳寺
    日本中にあるお寺の中で、何故か不思議なご縁で
    京都の大徳寺操体フォーラムをする。
    大徳寺には、僕は何度も行っている。
    大徳寺の裏にある炙り餅が美味しい事も知ってる。
    傍に保育園がある事も知ってる。
    大徳寺はアンディのお墓があるお寺。
    アンディはK-1の名選手、チャンピオンにもなっている本当のプロフェッショナル。
    僕はアンディと一緒の時間を過ごした。
    その時間は、僕の大切な思い出の時間だったりする。
    だから、僕は大徳寺に、何度も行ってる。
    日本中に数えきれない程あるお寺。
    その中で大徳寺でやる確率って凄い不思議な確率。
    そもそも操体フォーラムをお寺でやる確率って
    一体どれ位の確率なんだろう。
    世の中って面白い。
    人生って面白いな。
    僕は心からそう思う。
    時間は流れ行く。
    それはもしかしたら、流れるのとは違うんじゃないのかな。
    流れ行く時間は、全てを綺麗にしてくれるのかもしれない。
    時間は流れるだけじゃない。
    もしかしたらグルグル廻っていたりもするのかもしれない。
    もうすぐ京都に行く。
    その時間は未来だけじゃなく、過去も感じさせてくれる。
    大徳寺操体フォーラムを行う。
    それまでの時間は良い時間になる。
    過去と未来が混じった、不思議な楽しい時間を僕は過ごせる気がする。
    大徳寺にはきっと橋本先生も遊びに来る。
    もちろんアンディも遊びに来るに決まってる。
    いまから楽しみなのです。

    平直行

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 不遜な心

    昨日は、湿気と猛暑でフラフラ。
    扇風機もエアコンもつけず、東京のど真ん中・世田谷でがんばってま〜す!(ちなみに、先月の電気代1021円、何と今月は863円!)

    今日はブログの最終日。暑くなりそうですが、お付き合いの程、宜しくお願い致します。

    さて、自分探しを初日で終えたと勘違いし、赴くままにブログを書いていたのですが、私がブレイクスルー(突き抜ける)できない理由がここにあると思い、もう一度初日と第3日のブログを読み直し、昨日から再び自分探しの旅に出かけました。
    子供の頃の記憶ほとんどが、“境内での遊び”。
    そして、空間を独り占めした時の、高揚感が、私の創造活動の原点だという気づき。
    そこで、将来の“自分”をどのように映し出すことができるのか・・・・

    自問自答してみることにします。

    「佐伯惟弘よ、貴様は、本気で自分のことを、ノー天気おバカさんと思っているのか?」
    「はい!」
    「・・・・」

    「佐伯惟弘よ、貴様には矜持があるのか?」
    「あります。」
    「では、それは何に対して?」
    「子供の頃からの神社境内で遊びが、日本人造形作家としてのオリジナリテイーを産み出したことに対してです。」

    (以下は、自問自答の文となるため、である調になるのをお許し下さい)

    1979年 積み木展 筑波大学ギャラリー

    1979年の夏にニューヨークへ行き、今まで学んできた西洋的構築的文化が、己の中には不在であり、己の中には縄文から流れる日本文化が存在しているという自覚が生まれたことから、直感的に創造されたのがこの積み木。

    1979年 鳥居(作った後、鳥居に似ていると気づきました)

    これは、釘も接着剤も使わず、ただバランスだけで空間を埋め尽くした危うい作品。

    一般的に作品は固定し安全対策が必要な物として、考えられている。それを一切無視。
    そればかりか、作品を中学校の生徒に壊してもらい、新たな造形物に作り替えたわけである。

    つまり、自己を無にすることで、より次元の高い自己を感じることができた瞬間であった。
    また、その過程そのものが最も生き生きとした時空。
    そこには作り手と鑑賞者の境がなく生命体の本質=
    生と死=創造と破壊の象徴が表現されていた。

    今でこそ、私が提示した「積み木」のような、その場限りのアートをインスタレーションとよぶようになったが、30年前にはもちろん、そんな言葉は存在しなかった。
    また、このような試みが最近、脚光を浴びはじめたが、私は30年も前にやっていたという事実にたいし矜持を持つべきである。

    1回目の個展から、2回目の個展までの4ヶ月。
    私は、考えに考えた。
    1回目の個展では、現代彫刻の代表作家・篠田守男先生が「まだまだ緊張感に乏しい作品だ!」と真剣に答えて下さったものの、中学生が私の作品を壊すビデオを見ると、全くのコメントなしで、大笑い(見事なビデオ撮影をしてくれたのが、ポケモンのスーパーバイザ−・石原恒和氏)。
    かなりの評価を受けた。

    そんな中での2回目の個展。
    普通に考えれば、バリエーション豊かに様々な形の素材を扱うはず。それをするのは、至って簡単。
    なぜなら、造形作家としての手作業が楽しい空間を産み出すことは分かっていたから。
    しかし、私はその選択肢を取らなかった。
    あまりにも当たり前すぎる。

    私が選んだのは、○□△。
    つまり、木の輪切り。上から見ると○。横から見ると□。
    それらをつみあげると△。これらの単純な形にこそ、秘められた力があることを直感していた。
    そして、その形に人は踊らされ、人の本性が現れることを予感していた。

    つまり、大きさに拘わらず一個の塊に力がある。その力が小手先の技でなく魂に直結する何かを動かすと感じ、
    その力に踊らされる人々をビデオに収める事の方が、遙かに生き生きとしていると予想した。

    直径30センチくらいから1センチくらいまでの、木の輪切りを1〜2トン個展会場に積み上げ、ある時は、床に敷き詰め、ある時は、下りの入場口階段に2m近くの高さに積み上げ、完全封鎖。
    誰も場内に入ることが出来ない空間にした。
    そして、中学生40名に積み上げた作品を壊して、会場に入ってもらい、全員で一つの大きな作品を作ってもらった。
    この破壊と創造のエネルギーは、想像を超えるのもの。
    この時に体感したエネルギーが、今でも原動力の一つになっている。

    1980年 積み木によるコミュニケーション
    (この時の写真は、京都で保管しているため、手元にありません。
    紹介したのは、ビデオからのイメージ。犬も参加しています・・・見えづらくてゴメンなさい!)

    伸びやかで迫力のある、しかも繊細な空間であった。
    個々の積み木が、細胞と化し、巨大な生命体として動いていた。

    1981年 積み木 in Hoboken
    (ホボケン・ニュージャージーでの作品)
    造形作品としての完成度はもとより、石原恒和氏のビデオ撮影は抜群であった(心より感謝いたします)。
    それらの編集に3ヶ月かけ、東京ビデオフェステイバルで賞を戴き、ニューヨーク公立図書館にその作品が所蔵されていることに、矜持を持て。

               ちょっと休憩します
    ここまで書いて、なんとまあ〜・・・私は、ここまで問い正さなければ矜持を確認出来なかったのか・・・と埋没していた海底の宝物を引き上げるような気持ちでいます。

    でも、このように問いただしていくと、溢れるように言葉が出てきます。私の中に渦巻いていた思いが踊り出してきます。

                 小休止終了

    これらの作品制作中、感じたこと。
    それは、この作品は芸術という範疇に留まるべきではなく、その壁をブレイクスルー(突き抜ける)すべきであるという予感であった。

    ブレイクスルーへの試み1)教育
    そこで早速、中学生に、作品を破壊・創造させたではないか。また、琵琶湖アートフェステイバルで制作した、100m×80mのグランドに子供達と2ヶ月に渡って制作した“鳶瞰図”にいたっては、新聞コラムに「教育に対し、一石を投じる作品」として認められたではないか・・・

    1990年琵琶湖アートフェステイバル イン 沖島
    (琵琶湖の沖島で、地域の子供達と一緒に作った作品)

    傲慢な貴様は、それを当たり前と感じ、感謝していない。それが証拠に、それ以後、あのような作品を創っていないではないか。結果、教育に何ら影響を与えてはいない。
    もっとも、イベントと称して、様々な場所で「積み木」を子供達に提供したことは認める。

    ブレイクスルーへの試み2)医療
    大宅壮一賞作家・野田正彰医師に認められ、木霊療法と命名。
    その後、精神科の病院で芸術療法家として勤務したが、当時においては、まだまだ力不足。

    1987年 月震 湖南病院
    (会場に池を作り、天井から水滴を落とすと、水面に月の波紋が・・)

    2年間で現場を離れたのは,正解であった。
    医療の現場にかかわるようになった今後に、期待しよう。
    ここに、貴様のオリジナリテイーが発揮できる場がある。
    ブレイクスルーへの試み3)海外
    この作品のお陰で、ロバート・スミッソン奨学金を得て、ニューヨークに行き様々なアーテイストと共に活動。

    1982年 ニューヨーク・ダンステリアにて、舞踏家・白石ポッポ氏と
        共演

    1982年 ニューヨーク・セントラルパークにて、イスラエル作家・エルダ ジッブと共同制作


    1981年 ニューヨークのアパート 積み木のお散歩


    1995年 ニューヨーク・バッファロー・アンダーソンギャラリー

    1986年 イエニゴラ・ポーランド
    ポーランド、ニューヨーク・バッファローアンダーソンギャラリースペイン・マジョルカ島 ジョアン・ミロ美術館、アメリカ・ケンタッキー バーンハイムギャラリー等での長期にわたる展覧会では、どのキュリエーターも、最高の評価をしてくれたではないか。
    貴様のもっとも尊敬している芸術家のひとりであるジョアン・ミロ
    そのアトリエだったところが美術館になった、そのジョアン・ミロ美術館では、もう一度貴様のワークショップをしたいとまで言われているではないか!

    2004年 スペイン・マジョルカ島 ジョアン・ミロ美術館

    2004年 スペイン・マジョルカ島 ジョアン・ミロ美術館


    2004年 スペイン・マジョルカ島 ジョアン・ミロ美術館
        空絵


    2004年 スペイン・マジョルカ島 ジョアン・ミロ美術館
        砂利道を歩く

    2004年 スペイン・マジョルカ島 ジョアン・ミロ美術館
        積み木道をバランスよく歩く 

    2004年 スペイン・マジョルカ島 ジョアン・ミロ美術館
        6周歩き回り、10分間お休み

    2004年 スペイン・マジョルカ島 ジョアン・ミロ美術館
        6月17日ワークショップ前


    2004年 スペイン・マジョルカ島 ジョアン・ミロ美術館
        7月8日ワークショップ後

    2004年 スペイン・マジョルカ島 ジョアン・ミロ美術館
        6月17日ワークショップ前


    2004年 スペイン・マジョルカ島 ジョアン・ミロ美術館
        7月8日ワークショップ後

    その理由として、子供たちのからだと心に変化が起き、歪みの矯正、心の安定を親御さんが理解し、キュリエーターのジョアナに伝えたではないか。

    事実、準備期間を入れ2ヶ月に渡りワークショップを行い、子供達のからだの歪みが2週間でとれていくことを確認できた。


    2006年 ケンタッキーの地方新聞 アートコラム


    1995年 ニューヨーク・バッファロー・アンダーソンギャラリー
        積み木の杜中央部のお供え物(毎日お供えしました!)

    しかし、貴様は不遜にも、心のどこかでその評価を当たり前であると受け取っている。

    矜持と自慢とは違う。矜持には、認めて下さった方々に対する感謝の表れが存在し、それがため、ゆるぎない自信が湧き上がっているものなのだ!
    しかし、貴様はその有りがたい人脈を生かすこともせず、
    その後のブレイクスルーへの試みを怠っている。

    実に、怠慢。
    貴様のいう通り、ノー天気のおバカさん!!!

    ここまで一気に書いて、やっと見えてきました。
    感謝の気持ちが無いため、未だにフラフラしているということが、よく分かりました。
    どこかに、私を認めて当たり前という不遜な心が宿っており、これこそが、ブレイクスルー出来ない大きな理由だったのです。

    では、感謝出来たらブレイクスルー出来るかというと、そんな保証は一切ありません。
    これは、最低条件。
    あとは、神社の境内で遊び惚けた、あの時の感覚でどれだけ1点に集中して己自身を掘り下げることができるかによります。
    幸い、私には、三浦寛先生という師匠がいます。
    とにかく、師匠を真似ること。

    ・・・・・・・・私の中では、この1週間で人生のグランドデザインが、かなり、見えて来ました。この見えていることはまだ、言葉として表現はしていません。しかし、いずれ、数年後いやもっと先・・・・に堂々と書いてみたいものです。

    後は、やるだけ。
    いやはや、当たり前の結論。

    それにしても、不思議な感覚でした。造形作家としての自分に向き合っていると、次から次へと言葉が溢れ、その将来まで語りかけてくるのです・・・・・・・・と、いうところで今週はこれでおしまい!

    皆様、1週間のお付き合い、本当にありがとうございました。

    さて、先日のことです、弟から電話。
    「にいちゃん、この間、テレビでグラップラーバキの特集があったんじゃけど、にいちゃんとどんな関係じゃったん?」

    「あんな、操体の同門にな、平直行さんゆう人がおってな。
    グラップラーバキのモデルになったんじゃ。」

    「そうか・・にいちゃんが、絵描いた言よったろ〜。」

    「あれはのう、平直行さんが出した本のイラストを描いたんじゃ。今度、その本送ろうわい、かあちゃんにも見せてや。」

    そんな会話の主人公・平直行さんが明日から登場です!
    お楽しみに!!


    平直行が行く身体感覚の宝島(出版社:BABジャパン) 
    イラスト原版

    佐伯惟弘

    平直行が行く身体感覚の宝島―格闘技から武術への気づき

    平直行が行く身体感覚の宝島―格闘技から武術への気づき

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 自分探し、再び

    こんにちは、私のブログ週間も、残すところ2日となりました。もう少しのお付き合いよろしくお願い致します。

    ブログ3日目は、私の記憶を遡る旅でした。
    記憶の最初は、弟の誕生日。
    当時4才10ヶ月。
    それ以降の記憶は、庭先の植物、筧(かけひ)などの溢れる静止画像。
    その後は、小学校あるいは、幼稚園の動画の記憶。
    無音。

    部分的に淡い色彩で、セピア色がかった白黒映像。
    もう半世紀も前のことですが、生き生きと動き回っています。
    改めて、この活力の中に、自分の将来が隠されており、また、私がブレイクスルー(突き抜ける)するためのヒントも埋まっているのではないかと思い始めたのです。

    きっとあるはず・・・・

    それでは、密かな思いを胸に、もう一度自分探しの旅を始めてみましょう。

    この記憶の動画は、静止画像と同じように、一度つっつくと、溢れる程、浮かび上がって来ます。

    そして、浮かび上がってくる映像のほとんどが、神社の境内あるいは、隣りのお寺の境内で遊んでいるもの・・・・

    私は、太い針金で直径12〜3センチの輪っかを作り、細い竹竿に取り付け、オニグモの巣を探しています。
    オニグモは黄色に黒のストライブで、丈夫な巣を作っています。この巣を見つけると、針金に巻き付けて、輪っかを蜘蛛の巣のネットにしていきます。丁度、金魚すくいの輪っかのようになります。これに水をつけると、ネバネバのハエ取り紙(最近、見なくなりました)。
    これで準備完了!

    取ってきたセミ(ほとんどがアブラゼミ)を、蚊帳の中に放し、一緒に遊ぶのです。幼い弟もハイハイしながら、セミを追っかけています。
    ヒグラシを入れると爽やかな空間。ニイニイゼミが入ると、うるさいのでニイニイゼミは取ってから、逃がしていました。

    今度はボール遊び。
    当時、バットやグローブは高価なもので、中々手に入りません。そこで、テニスボール1個を大切にして野球のような遊び(ロクムシと呼んでいました)をしていました。
    坊主頭に、継ぎはぎのズボン。青ばな垂らした、傷だらけの子供たち。
    はなをすするので、服のそでが、テカテカ光っている子もいました。
    さてチーム編成。
    6年生の上手な2人が○○ちゃんチーム、××ちゃんチームと名乗ります。それから、力量の同じ男の子同士をジャンケンさせ、勝った子が、○○ちゃんチーム。負けたこが××ちゃんチーム。
    この時のワクワク感は、格別。

    ルールは野球と同じく、ホームベースに帰った数の多いチームが勝ち。ワンバウンドで投げたボールを拳(グー)で打つのですが、真芯に当たると、よく飛びます。
    この時の飛距離が“いのち”。ヒーローになるかならないかの・・・
    暗くなるまで遊び続けました。とにかく夕焼け空を見るのが嫌で、嫌で・・・
    「ひろむ、ご飯ぞな〜。お帰り!」
    父親のこの声が、遊び終了の合図。
    友達は、
    「オレ、そろそろ帰るわ!」
    と言って、家路につき始めます。
    それでも、何人かと遊んでいると、
    「ひろむ、何しよんぞ!早う、帰っておいで!」
    もう、この合図があると、帰らなければなりません。
    真っ黒な雲の合間に輝く夕日が憎くて、涙を流すこともありました。

    それでも、家に帰るとテレビ「鉄腕アトム」が待っています。
    もう、夢中で見ていました。

    泣いたカラスが、もう笑ろた

    この当時の記憶のほとんどが、“遊び”
    広場を1番に占領した者が、その時空を支配できるわけで、
    子供が多い当時は、競争。
    そのため、学校から駆け足で帰ることもよくありました。そして、空間を独り占めした時の、高揚感は天にも昇る気分。

    この時の、気分高揚促進ホルモン大放出の体験が、私の創造活動の原点です。

    何でも出来る空間と時間そして、数ある遊びの選択権と遊びの創造権(こうゆう言葉はありませんが、新しい遊びを創り示すこと)を手に入れることこそ、“自由” という私を動かすエネルギーとなったのです。

    この時の感覚を、造形作家として活動していた時は、意識して大切にしていたように思います。

    ところが、日々の生活にそんな意識があったか・・・というと、持ち合わせていなかった・・・

    どうやら、将来の“自分”を映し出すカギとブレイクスルーするためのヒントは、ここに隠されているようです・・・・

    今日は、ここまで!
    明日は最終日・・・・お付き合い、どうもありがとうございました。
    では また あした!

    佐伯惟弘

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 皆さん、こんにちは!
    ブログ5日目になります。
    昨日に続いて、連想式記憶術の続きを早速始めたいと思います。

    この術の基本はイメージとイメージの衝突。しかもあり得ないようなハッとする場面を産み出し、記憶を定着させる方法で、私のように記憶力の悪い者には,有効的な術です。

    昨日の蒸し返しになりますが、もう一度説明しますと、たとえば、「豚が海に潜り泳いでいると、突然現れたドラゴンに食べられ、マリリンモンローがドラゴンのお尻から飛び出した」とします。
    こんな決してあり得ない場面に遭遇すると、人は誰でも記憶します。
    これを連想式に繋げていき、ナンセンスストーリーを作りながら覚える術です。

    しかし、記憶力の悪い私にはこのイメージだけでは、インパクトが弱すぎます。

    そこで、考えたのがイラスト。最初は鉛筆だけで、描いていましたが、最終的には、蛍光ペンを使用した鮮やかな色彩のものになっていきました。

    361枚丁寧に描くと、今までぼやけていたイメージがしっかりと定着し、記憶し易くなってきました。

    何枚か、映像で紹介致します。


    少陰腎経:照海→復溜→交信→築賓
    照海のイメージは、加山雄三が夕日に向かっている。
    復溜のイメージは、服を着た竜。
    交信のイメージは、戦時中、米国女性が暗号で交信。
    築賓のイメージは、竹輪の格好をした馬(馬はヒーンと鳴く)。

    照海→復溜
    夕日を眺めていた加山雄三が、空に服を着た竜が飛んでいるのを見てびっくり。

    復溜→交信
    空を飛ぶ服を着た竜をみつけた米国女性が、米国へそのことを交信。

    交信→築賓
    米国女性が付けていた交信用ヘッドホーンを竹輪の格好をした馬が付ける。

    まあ〜こんな感じで繋がりは徐々に覚えられようになったのですが、全体の流れを把握することは難しいのです。
    そこで考えたのが、徹底的に色に頼ること。
    五行説には、五色として、肝=青、心=赤、脾=黄、肺=白、腎=黒があります。
    このことを応用して、色を見るだけで、経脈が分かるようにしました(こんな事、優秀な方は当たり前にやっているのですが、私のようなノー天気おバカさんには、も〜う大発見!)。

    また、臓腑の関係から
    肝→胆=青→水色
    心→小腸=赤→ピンク
    脾→胃=黄→薄黄
    腎→膀胱=黒→灰色
    と腑にあたる色は、臓の薄色にしました。
    問題は肺、肺=白。白の薄色は白で同じ!!しかも、白地の紙には表現できません。
    そこで、
    肺→大腸=紫→薄紫 としました。後残るは、心包と三焦
    三焦は山椒のイメージで緑。
    心包→三焦=緑→薄緑

    としました。これは、毎日見ていると、色を見るだけで正経十二経脈の流注が自然と分かるようになります。

    例えば、太陽小腸経と太陽膀胱経の流れを把握するとき、下の写真のようにピンクの背景は太陽小腸経。

    小指、末節骨尺側・少沢(しょうたく)から顔面部の聴宮(ちょうきゅう)までの流れが一目で分かります。

    左側の背景は、灰色ですから太陽膀胱経になります。
    流れは、内眼角・睛明(せいめい)→頭頂部→項(うなじ)→脊柱の両側→臀部→大腿部後面→下腿後面→足の第5指外側端・至陰(しいん)までの流れが理解できます。

    もっともこれだけしっかり作っても、流れ・経穴部位とも、頭にまだまだ入っていません!!おバカさん!!!!

    多分、作ったので、覚えてしまったと勘違いしているようです。毎日数分でもいいから361の経穴に目を通していれば、自然と身につくものかもしれません。

    色ついでに、最近始めた解剖学の勉強法を紹介いたします。
    教室にあるガイコツ模型に、色テープで靱帯、筋肉を深部から起始部、停止部を確認しながら作っています。

    とにかく楽しい!!

    夢中になって作れます。もちろん、色の効果が大。

    例えば大臀筋
    腸骨外面から始まり、大腿骨殿筋粗面・腸脛靱帯で停止部となり、腸脛靱帯から膝蓋靱帯へと繋がっていく流れは、緑黄のテープを使うことで、しっかり覚られます。

    (後日、写真で紹介いたします)

    優秀な人のノートを見ると、色鮮やかなペンでルール作りをしながら、美しくまとめています。もうそれだけで、りっぱなアート。
    また、そういう人はファッションセンスも抜群です。
    日常生活の中で、色のコーデイネイトを瞬時にやってのけています。
    その微細な判断力が、普段の生活、勉強に役立っているのでしょう。

    ファッションセンスといえば、我が師匠・三浦寛先生。
    ジーンズ素材の帽子をかぶったファッションはオーラをはなっていま
    す。

    私が最近、帽子をかぶっているのは、師匠に近づきたい一心からです。
    師匠の放つオーラは治療空間。やはり、色、ファッションは人の心に途轍もない影響を与えているようです。
    今後益々、治療としても開拓できる分野ですね!
    というところで、今日はおしまい。
    お付き合い、どうもありがとうございました。
    では また あした!

    佐伯惟弘

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 連想法記憶術

    みなさんこんにちは!7月14日、第4日目のブログです。
    7月14日といえば、私が20年程住み着いた京都・美山町田歌(とうた)の祇園祭の日です。

    私も、奴(やっこ)役でよく踊ったものです。
    この日は、どんなに雨が降っていても、正午には晴れてくるから不思議でした・・・・ああ・・懐かしい・・みんな元気かな?
    お祭りの無事成就を心からお祈りいたします。

    (午後5時頃、我が家に住んでいる友人に電話したところ、京都は大雨で、京都市内から美山に行く国道は土砂崩れ。それにも拘わらず、祇園さんが始まる時だけ晴れて、お祭りは出来たそうです・・・・・やっぱり神様はいらっしゃいます)

    さて今回は、悪戦苦闘している学校での様子をお伝えしたいと思います。私の通っている医療専門学校は、年間6回(実技試験2回を含む)も試験があります。そして、3年の3学期には国家試験より遙かに難しい卒業試験があり、それをパスしないと国家試験を受けることができません。

    ノー天気のおバカさんは、そんなことも知らずに入学。
    まあ〜のんきな話です。

    小学校の頃から、私は国語が苦手。
    まず、本を読むのが嫌いで、外で日が暮れるまで遊ぶのが日課でした。
    得意な科目は、美術、体育、算数。
    算数は、「ボクは頭がええ!」という単なる思い込みだけで、得意な科目にしていましたが、高校になり、「オレはアホじゃった!」と気付くや否や、極端な不得意科目。

    つまり、国語、数学が出来ない劣等生!もちろん英語は最低。
    そんな高校時代を過ごした私です。
    特に、記憶力が悪いので、一夜漬けもそれほど効果をあげませんでした。
    そんな私が、2浪したあげく見つけたのが、連想法記憶術。

    当時、しっかりとこの術を身につけ、一時、劣等生から並の受験生に変身したことは確かなのですが・・・・それを使う機会が全くなくなり術が消えてしまいました。

    大学では、作品提出(芸術専門学群彫塑科)でペーパーテストなし。
    企業で働いた経験がないため、テスト、レポート提出なし。
    再び、劣等生への道を歩む事に。

    そして、一年半後には国家試験が待ち構える学生になったのです。

    幸い、昔から記憶力が悪かったので、年齢というのは全くハンデイにはなりません(何が幸いするか分かりません)。
    むしろ年の功か、睡眠時間5時間で十分。早起きは得意。
    その上、気分は少年。頭はノー天気。
    老眼鏡使用のハンデイ以外は全くなし。

    そんな中で、例の連想式記憶術を思い出さなくてはなりません。
    この術の基本はイメージとイメージの衝突。しかもあり得ないようなハッとする場面を産み出し、記憶を定着させる方法です。
    例えば、「豚が空を飛び、雲に衝突、その瞬間マリリンモンローが降ってきた」とします。
    こんな決してあり得ない場面に遭遇すると、人は誰でも記憶します。
    これを連想式に繋げていき、ナンセンスストーリーを作ってしまうのです。

    例えば、経穴を覚える場合。
    太陽膀胱経:睛明→攅竹→眉衝→曲差
    睛明のイメージは、父親(清明)神主の格好。
    攅竹のイメージは、竹林に太陽
    眉衝のイメージは、眉毛が衝突
    曲差のイメージは、サーカスの曲芸師。
    これらのイメージをぶつけ合って連想し覚えていきます。

    睛明→攅竹
    神主の父親が竹林の中で太陽に向かい祝詞をあげる。

    攅竹→眉衝
    その太陽を太い眉毛がぶつかって挟む。

    眉衝→曲差
    太い眉毛2本を、曲芸師(ピエロ)がつかんで眉毛回し。

    これらのイメージを文字で表すと長くなりますが、イメージするのは、数秒。ですから、個々の経穴イメージが出来ると、連想して覚えるのはあっという間です。

    そのため、361の経穴を入学して約1ヶ月で覚えました。
    但し、これは忘れる為に覚えたので、完璧には覚えていません。
    というか、イメージが徐々に薄らいで行くのを感じます。
    そこで、教科書にある経穴の余白に鉛筆で、イラストを描いていく事にしてみました。
    すると、ぼやけていたイメージが、ある程度はっきり。
    しかし、まだモノ足りません。
    また、私の場合、イメージして浮かびあがる場面は、うっすら色が付いているだけです。
    そのため、色の力を借りるまでは行っていませんでした・・・・・

       突然ですが、今日は、ここまで!!!!

    ということは、明日のテーマは、どうやら・・・・・・色?
    お付き合いありがとうございました。では また あした!

    佐伯惟弘

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 三つ子の魂百までも

    こんにちは、ブログ3日目、お付き合いの程、宜しくお願致します。

    「三つ子の魂百までも」といいますが、これは真実であろうと思います。
    ただ、私の記憶を懸命に遡ってみても、3才以前の映像はなかなか浮かんできません。ということは、本人は魂の形成された時空を認識できないまま生きているわけですね。
    実は、その空白部分を埋める為に人は生きている???
    まあ〜まあ〜そんなことはないでしょう・・・と否定しつつも、今を作り上げている空白の時空に、私を知るカギがあると思っても決して不思議ではありません。

    そこで、無念無想!
    今一度、記憶を遡ることに挑戦してみました。
    (自分探しは初日で終わったはずだったのですが・・・・・記憶を辿ることで、再び自分探しの旅に・・)

    ・・・・・はっきりと映像が出てくるのは、弟が生まれた日。
    昭和34年9月12日、私が、4才10ヶ月の時。

    築200年程の古い茅葺き民家のすすけた台所は、土間。奥には、釣瓶(つるべ)を吊した井戸があります。

    谷川の水は、大きな鉢にこんこんと注ぎ込まれ、おくどさんには、お湯がたっぷり入ったお釜が2つ。
    湯気がモウモウと立ち上がっています。

    薪(たきぎ)は常に用意され、祖母さんは白い割烹着姿、忙しそうにシャクシで、お湯をタライに入れています。

    産婆さんと、お医者さんが慌ててやって来てきました。そして、母親の寝ている部屋に。
    私も部屋の中を覗いてみました。
    すると、白い浴衣姿の母親が四つん這いになり、苦しそうな表情。
    「ひろむ、そっちへ行くな。こっちへおいで!」
    父親の大きな声が聞こえ、しぶしぶ父親の膝に座り込み、母親の姿を思い出していました。着物姿の父親は、私を柔らかく包みこみ・・・・

    そこからの記憶が全くありません。
    普通に考えると、弟の誕生をしっかり記憶しているはずなのですが・・・

    その後の記憶は、台所と居間の断片的な映像が飛び交っています。もう弟の出産とは関係のない時空。
    家族そろって(8人)の食事。マッチの軸のような針を動かして、チューニングする大きな箱形のラジオからは、
    「これこれ〜いいしの、地蔵さん〜」
    美空ひばりの歌。

    祖父さんがつぶしたニワトリですき焼き。美味しそうな湯気が立ちこめていますが、会話は聞こえません。

    続いての記憶。
    目が覚めた後、タンスや天井の木目を、ただひたすら眺めています。すると、木目が人の顔になったり、竜に見えてきたり・・・それが楽しくて、楽しくて・・・時間が経つのも忘れています。

    今度は、積み木遊び。
    厚さ1センチで、4センチ平方の積み木には、ひらがな1字。裏には、絵が描かれています。
    「ひ」の裏には「ひよこ」。
    私の名前が「ひろむ」だから、最初に思い出したのでしょう。
    あの時の肌触り、感触の良さを今でも指先が覚えています。
    そして、積み上げては壊し、積み上げては壊し・・・
    ドミノ倒しに、お城作り、延々と作り続けていました。

    あれ、今、臍の緒がついたままの弟の映像が浮かんできました。ガーゼと紐のようなものが、弟の臍に絡みつき、タライの中に入っています。

    しかし、お臍の緒がどのようにして切られたか分かりません。

    もう映像が動かなくなりました。

    霧が立ちこめるようで・・・弟の誕生以前の記憶は、やはり浮かんできません。浮かんでくるのは、庭先の風景。雨戸、土壁、石垣、筧の水・・・当時の映像は、子供目線。
    落ち葉となった松葉のじゅうたん。2〜3輪となってしまった白いツツジの花。
    カタツムリの家となったモミジの木の洞。

    ここまでの記憶、多くが我が家の庭先のデイーテイル。
    溢れるほど浮かび上がってきます。時には動画、時には静止画。
    あまり人物は出てきません。
    どうやら、一人遊びを楽しんでいたようです。

    ここまで記憶を描いて来て、私の20年間の芸術活動が「積み木」であったということが、よくわかります。

    また、「積み木」を作っているとき、幼いころの記憶が蘇っていた理由も分かります。

    やっぱり、「三つ子の魂百までも」ですね。

    1995年 ー積み木の杜ーニューヨーク・アンダーソンギャラリー

    今日は、ここまで!お付き合いどうもありがとうございました。では また あした!

    佐伯惟弘

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • サッカーW杯との出会い

    こんにちは、ブログ2日目です。
    サッカーのW杯はスペインの優勝で終焉。スペインの皆様、本当におめでとうございます。
    それにしても、日本サッカーの健闘に感動!

    私は、テレビを持ってないので、パソコンから流れる3〜4分遅れの、試合速報を読みながらの静かな応援でしたが・・
    それでも、十分に臨場感を味わえました。

    しかし、W杯がこのように身近なイベントとして定着したのは、つい最近のこと。日本が1998年のフランス大会に初出場する以前は、W杯がどのようなものか知らない日本人の方が多かったと思います。

    私が初めて、W杯のことを知ったのは、1982年。
    丁度、ニューヨークのダウンタウンにある、リトルイタリーを、当時つきあっていた彼女と歩いているとき。

    突然、頬に国旗を描いた若い兄ちゃんが、イタリアの国旗を付けた車や、オープンカーに乗り、クラクションを鳴らし始めました。
    とにかく、うるさい!
    「いったい何事なの?」
    「あっ〜、多分ワールドカップでイタリアが優勝したのよ!」
    「何それ?」
    「あなた、ワールドカップを知らないの?私でも知ってるのに!」
    「全然!」

    確かこんな会話をしたように思います。
    彼女は、日米のハーフでアメリカ育ち、日本語は出来ません。それほどスポーツが好きではないけれども、ワールドカップクラスの大イベントは知っているわけです。
    1930年には米国は3位になっており、今大会まで6期連続で出場している世界ランキング14位の強豪国。
    野球やアメリカンフットボールほどの人気はないけれど、アメリカ人ならば、ワールドカップくらいは常識として知っている訳です。

    アメリカに於いて、サッカーは男衆にはそれほど好まれてはいませんが、女性・子供には人気のスポーツ。

    私が10年前に住んでいたペンシルベニヤではいたる所に、サッカー場があり、子供達がサッカーをしていました。
    スポ根のママ達は、からだをぶつけ合うアメフトよりも、サッカーのほうが安全という考えがあり、我が子のためには、サッカー!
    また、メキシコや南米からの移民が増えているので、益々米国のサッカー熱は上がっていくと思います。

    さて、その後ワールドカップに縁があったのは、4年後の1986年メキシコ大会。
    同年4月26日にはチェルノブイリ原発事故。
    まだベルリンの壁は崩壊しておらず、東からの情報が乏しいなか、6月上旬、私はベルリンに行くことになりました。

    当時、舞踏家・石井満隆氏の舞踏ワークショップに参加していた私は、石井氏がベルリンのクンストラハウスベターニアンに呼ばれるや否や、付き人となったのです。

    1986年1月21日に舞踏の創始者・土方巽氏が死去。
    同年、ベルリンで舞踏の大回顧展を行うことになり、大野一雄氏、田中泯氏らと共に石井氏は招待されました。

    当時のベルリンは、ご存じの通り、東ドイツの中央部に壁を巡らし、西ベルリンが存在し、壁を隔てて東ベルリン。
    質素な共産圏東ドイツの中に、きらびやかな西ドイツが不夜城のごとく輝いているという、不思議な世界。

    そんなベルリンでは、途轍もないハプニングに次から次へと見舞われながらも、石井氏の付き人として、何とか使命を全うしました。

    その時に知人のアパートで、たった一人見たのが、ワールドカップ。
    しかも、そのテレビは、東ドイツの放送しか入らず、白黒。コマーシャルのない静かで穏やかな画面に、アルゼンチンのマラドーナだけが強引に突っ走っていたのを覚えています。

    また、ベルリンのクロイツベルグというトルコ人労働者の居住地区のバーでは、アンチドイツの嵐。
    ドイツと対戦するチームならどの国でも応援するという、異様な雰囲気を味わうことになりました。
    かれらにとって、ドイツは単なる仕事の場。様々な偏見を受けながらの暮らしぶりが、その声援、血相に恐ろしいように映し出されていました。

    その年は、アルゼンチンと西ドイツが決勝。
    夜の静まりかえったアパートで、固唾をのみながらの一戦。
    西ドイツが得点すると、どこかしこから歓声、拍手。まるでアパート全体がサッカー場のような雰囲気。
    結局3対2でアルゼンチンの勝利となりましたが、
    ドイツにいながら、初めて味わうワールドカップの醍醐味でした。
    それまで、あまり興味がなかったサッカーに格別の思いを持つようになったのは、この一戦からだと思います。

    その後、私はチェルノブイリ原発事故現場に近いポーランドに行き、積み木パフォーマンスを行うのですが・・・これは、またいずれお話することに・・・・
    今日は、この辺でおしまい。
    お付き合いどうも有り難うございました。
                   では また あした!

    佐伯惟弘

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 矜持

    今先生、一週間お疲れ様でした。
    ほのぼのとした先生の描写に癒された佐伯です。

    それでは、今先生に代わってノー天気のおバカさんが、1年で1番暑い1週間を、時に涼しく,時に熱く語っていきたいと思います。
    お付き合いの程、宜しくお願いいたします。

    さて、いきなりではありますが、このブログ週間を自分探しに当ててみたいと思うのです。

    何を今更!

    と思われるかも知れませんが、操体の世界に飛び込み10年目。そして、新たに医療専門学校に通い始め、2年目。
    それ以前に、20年の芸術活動。
    未だに独立出来ず、フラフラ。
    一体何してんの・・・自分? 

    もう一度自分探しすることで、人生のグランドデザインを産み出すヒントが見つかるかも・・・
    と、のっけからギアをトップにいれ突っ走ってみたくなったのです!

    まずは、生い立ち以前に遡りましょう。
    私が生まれたのは、1954年(昭和29年)。四国・愛媛の山奥にある神社の社務所。
    まだまだ、戦後の香りが漂う、高度経済成長以前の胎動期。
    その頃、もっとも恐怖を感じていたのが、祖父。
    この祖父は、私の父・清明の父親。
    私の父は、結婚し養子として、野口→佐伯へと姓を変えました。
    ですから、普段はこわい祖父と出会うことはないのですが、正月などの祝い事では、どうしても会うことになるのです。

    この祖父も神社の神主(川上神社)。
    神社の境内ウラに古墳(7世紀中頃の終末期古墳)がありました。
    古墳は、道後平野を見渡すことのできる場にあり、その地に、川上神社は、伊予を統括していた河野通久によって移されたと言われています。
    応永四年(1396)のことです。

    その後、河野氏の衰退は著しく、土佐の長宗我部氏の侵攻の前になすすべ もない状態で、永禄11年(1568年)ついに長宗我部氏に降伏。秀吉により河野氏の所領は没収され、河野通直安芸国竹原に移り、河野氏は滅亡しました。

    河野氏が滅亡後も松山藩主・松平氏の祈願所となり、地域の氏神として今日に至っております。

    と書いて、初めて父方の家系を知ったのであります。
    とにかく、日本史が大嫌いで常に赤点・・・少年のころは、最も知りたくない分野。
    ひとたび知ると、とんでもない世界に入り込み,封じ込められそうな予感。
    何となくパンドラの箱だったのです。
    しかし、開けてしまいました!!!

    さあ前に進みましょう、そこで、思い出してきました。
    相変わらず、ノー天気でおバカさん高校生活をエンジョイしている私に、
    「野口の家系はのう、代々松山藩主を教えよったんぞ!(ちいとわ、そのこと自覚せい=少し自覚しなさい)」かっこ内は行間。
    と、見るに見かねて父親が一度だけ私に喋ったことがあります。しかし、それを言っちゃあ、おしまいです。
    そして、それを書いちゃもっとおしまい。

    まあ〜そういう訳で、おしまいになりました。
    で、前に進めないのですが・・・

    まあ〜とにかく・・・サイドブレーキかけながらでも、前に突っ走る!
    父親の家系には、400年以上神社を守り続けているという矜持が存在していました。これは、一種独特のものです。
    どうやら幼いなりに私はそれを感じ取っていたようです。
    その矜持が漂う祖父に、幼い私はとても怖くて近づくことが出来なかったのです。

    何しろ、白装束に白髪、胸元まで伸びる顎髭も真っ白。
    そして、めがね越しの眼光の鋭さ。

    私は、物陰にかくれて、祖父に会わないようにしていました。
    あの時の感覚は今でも生々しく私のからだの中に染みこんでいます。

    祖父は、愛媛新聞の編集長をしており、歯に衣着せぬ性格の持ち主。ある時、社内で起こった良からぬ事を摘発し紙面に記載。
    もちろん首(くび)となり、その後は、地元に帰り郵便局長として仕事を全うしたそうです。
    400年継承したサムライ魂。
    当時、このような魂をもった人々は数多くいたと思います。

    思い返してみると・・・・・いました(すみません、身内です)。

    末っ子である私の父親が最も尊敬し、怖がっていた長男の晃(あきら)叔父さん!
    この叔父さんが祖父の血を一番濃く引き継いだ人物だと思います。

    私の父親が一つ上の兄とけんかをし、父親が馬乗りになって、「ボカスカ、ボカスカ」。
    もちろん、子供の頃です。
    それを見ていた晃(あきら)叔父さんは、木刀で父親の頭を一撃。
    父親は、あわれにも失神。
    意識が戻ってきた父親と、兄を神棚の前に連れて行った晃(あきら)叔父さん。

    清明(私の父親)、すまん。」
    と、正座したまま、短刀を抜き出して,自らの左前腕部を斬りつけたのです。
    幸い、橈骨で短刀はとどまった為、動脈が切れるだけの重傷で済んだそうです。本人は本気で腕を切るつもりだったのだろうと思います。

    そんな晃叔父さんは、戦争に行っても部下を守るため、平気で上司を殴りました。晃叔父さんのお通夜の時、その部下の方が、しみじみと涙ながらに話して下さいました。

    叔父の数々の武勇伝は、私が幼い頃から聞かされており、私にとってヒーロー。

    私は、とてもこのような事はできませんが、祖父や叔父と同じ血が流れていることの矜持。
    これを忘れては、いけません。
    戦後、アメリカン・ポチ化して気がついてみると、家はツーバイフォーのアメリカ式建築、キンコーズマクドナルドが、一等地を買収。
    私の通う四ッ谷の一等地などは、アメリカの宗教団体に押さえられています。
    子供の体型もアメリカン様肥満が目立ち始めています。

    このままでは、1万5000年前から続く縄文文化を基礎とする日本文化がわずか半世紀で、アメリカンウィルスにやられてしまいます。

    とは言え、私一人で何が出来る?
    出来ることはあります!

    日本思想の源流・相似象を研究された医師・橋本敬三先生が、体系化なさり、三浦寛先生が確立されておられる操体
    この至宝とも言える操体の継承であります。
    矜持を持って、日本刀で腕を切る気概でやることであります。

    ここまで書いて自分探しが出来ている自分に気がつきました!
    ブログ初日で一週間分終了!!
    ・ ・・二日目はワールドカップの話にいたしましょう。
            では また あした!

    佐伯惟弘

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 骨粗しょう症のおばあちゃん最終回

    ねじる操法の次に片方ずつ手を挙げる操法をやりました。
    おばあちゃんは左手を挙げると左肩が痛く、右手の方が
    挙げやすいといいました。
    私は「こういうときはどうしたらいいですか?」と逆に
    質問をしてみました。
    そしたらおばあちゃん、「左を挙げるっ!」。
    私はガクッとづっこけ「ええっ、挙げやすい方を挙げるんじゃ
    なかったっけ?」
    「あっ、そうだったねぇ」と笑うおばあちゃん。
    みなさん、特におじいちゃんおばあちゃんは、わかったような
    返事をしてにこにこ顔でうなづいてもだめです。
    ほぼわかっていませんから。
    これが事件なのでした。

    そして今度は仰向けに寝てみてもらいました。
    おばあちゃんは寝て起きるときがすごくつらくて、起きるのが
    大変だと言っていたのでした。
    仰向けに寝るときも腰が痛そうでした。
    「アィタター」とからだを斜めにしてゆっくりと寝ました。
    寝てしまえば痛くないとのことでした。

    私は膝裏を調べてみました。
    コリは見当たりませんでした。

    首、肩、肩甲骨周囲と触診したら、やはり最初に気になっていた
    右肩甲骨と背骨の間のコリに手が止まりました。
    そのコリを軽く押したり皮膚をずらしたりしてみると、
    おばあちゃんは「押してもらうど腰まで効ぐねー」と
    驚いた顔で言いました。
    「こうして押したままにしていてほしいですか?」
    「はい、いい気持ぢで効ぐ感じだねー」と言いました。
    「いい気持ちがなくなったら教えてくださいよー」
    40秒程して、コリがメリメリほどけてくるのがわかりました。
    それと同時位におばあちゃんが「なぐなったねー」と
    私を見ました。

    「はい、ではそのまま少し余韻を味わっていてください」
    少ししてから「ではゆっくりと起きてみますか?」

    「起きるときにイデんだよね」と不安そうなおばあちゃん。
    「あらっ、あららっ、イデぐないぇ!」
    すんなりと起きて腰掛けて微笑みました。

    「腰じゃなくて肩が凝っていたんだね」
    「今までこの腕でたくさん働いたんでしょう」
    私はおばあちゃんのいっぱい働いた感じのする手を見て言いました。
    「んだねぇ」
    「コリに、ごくろうさまでしたねーと言って押しときましたから」
    「はい、ありがどうごじゃいます」
    「自分でも言うんですよ、からだに」
    私はおばあちゃんに教えながら自分も言うのを忘れているなーと
    すぐに感じました。
    「ありがどうごじゃいます」

    今 昭宏
    。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。

    読者のみなさま、
    一週間、おつき合いをいただきましてありがとうございました。

    来週はみなさんお待ちかねの佐伯さんです。
    お楽しみに。

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
    9月18、19日スペイン、マドリードにて「操体フォーラム in マドリード」開催

  • 骨粗しょう症のおばあちゃん3

    「あそうだ、言うの忘れてたけど、あまりまじめに動くと
    効かないんですよーこれ」
    私は少し笑っていいました。

    おばあちゃんもつられてくすくす笑いました。

    笑ったら膝裏のコリが半分位消えてしまいました。

    私は右にねじる動きをゆっくりと誘導しました。

    おばあちゃんは、少し背中が丸くなっています。
    こういうときは後屈するのがツライ人が多いので、
    右にねじってから右肩を下げるように誘導しつつ
    少し前屈に導いてあげます。
    (これが良くないときは、右にねじって、前屈しなが
    ら少し左肩を下げるように導きます。(三軸操体参照)

    「どうですか、こんな感じにすると?」
    「これは、楽でいいですねー」
    「はい、そのままいい感じを味わってよー」

    この時、膝裏のコリはきれいに消えています。

    「いい感じがなくなったら、ゆっくりと元に戻ってください」

    「はい」
    30秒程してゆっくりと元に戻りました。
    「はい、一息入れてください」
    「これでさっきつらかった方に動いてテストしてみましょう」
    「どうですか?」
    「あら、腰いで(痛い)のがねぐなったねぇ!」
    「いやーたまげだねー」
    「こっちでなぐこっちにやったんだものねぇ」
    「はい、それに、自分でやったんだものね」
    「たいしたもんだー」

    おばあちゃんは、ほめられて上機嫌です。
    でも、この後事件が起こるのでした。

    つづく

    今昭宏

    8月28、29日は大徳寺玉林院にて「東京操体フォーラム in 京都」開催
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